「チェルノブイリ極秘 隠された事故報告」アラ・ヤロシンスカヤ:和田あき子訳(平凡社)の著者アラ・ヤロシンスカヤは事故当時現地から160キロ離れたウクライナ共和国ジトーミル市で新聞記者をしていた女性である。
子どもを連れて汚染地帯を逃れ、不安の中で生活していたが、政府の事故対策に疑問を抱き、真実を報道しようと、汚染地帯の取材を続ける。そして、どこに持って行っても掲載してもらえない記事を、自ら友人たちに配布するなどの活動を始める。彼らはそれを読んで、人から人へまわしてくれたという。その結果、市民の支持を得てソ連邦人民代議員選挙に当選し、最高会議議員にまでなったのである。 その後も、真実を国民に隠し続ける政治家や学者の責任を追及する彼女の厳しい姿勢は、一貫して変わらない。そうして、彼女は、国民に真実を知らせず、多くの人たちを被曝させた政府や関係者の政策を明るみにしていったのである。
下記資料1は、ソ連共産党中央委員会政治局事故対策グループが、汚染地域住民の放射線による障害の詳細な状況報告を日々受けながら、それを隠蔽し、偽の情報を流したことを示す機密議事録に関するもの、および放射線被曝許容基準の50倍もの引き上げることを可能とした新基準値に関するものである。同書の中の「第2部 極秘」の中から抜粋した。
資料2はアラ・ヤロシンスカヤの記述に関わる内容を「原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー」七沢潔(岩波新書)の中から抜粋したものである。書記長ゴルバチョフが、首相ルイシコフやソ連共産党保守派の領袖といわれたリガチョフ等の住民無視、国家優先の主張に屈したことを示す部分である。
東京電力福島第1原発事故では、文部科学省が外務省を通じて米軍に提供していたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報が、住民の避難に生かされなかった。
また、米国エネルギー省が、空中測定システム(Aerial Measuring System:AMS)を使い、米軍の航空機2機で、福島第一原発を中心に周辺約40km圏内、地上高さ1mにおける放射線濃度測定を実施、その測定結果に基づいて作成した放射能汚染地図を在日米国大使館を通じて外務省に電子メールで送ったという。それは外務省から放射線測定を担う文部科学省科学技術・学術政策局と住民の避難範囲を決める原子力災害対策本部の事務局を担う経済産業省原子力安全・保安院に提供されていたという。にもかかわらず、この情報も生かされず、その時点で公表されることはなかった。なぜなのか。
ソ連と同じように、どこかで隠蔽が決定されたのではないか、と疑いたくなるのである。
資料1------------------------------
1 クレムリンの賢人たちの40の秘密議事録
──「極秘の対策本部」は何を決めたのか
ウソ1── 放射能汚染について
政治局対策グループの第1回会議は、1986年4月29日(事故3日後)に開かれた。グループは、5月半ばまでは、毎日、どこかで会議を行っている。(このことは指導者たちは情報をまったく持っていなかったかのように、何年も私たちに信じさせてきた問題にかかわっている。つい最近も、ニコライ・ルイシコフはロシアのテレビでインタヴユ-を受け、自分たちは「当時知っていたことは少ない」と誓わんばかりだった)。5月4日から、対策グループには、住民の病院収容に関する報告が次々と入って来ている。
「機密 議事録第5号。1986年5月4日。出席者──ソ連共産党中央委員会政治局員同志N・I・ルイシコフ、E・K・リガチョフ、V・I・ヴォロトニコフ、V・M・チェブリコフ、同政治局員候補同志V・I・ドルギフ、S・L・ソロコフ、同書記A・N・ヤーコヴレ
フ、内相同志A・V・ウラーソフ
…5月4日現在、合計1882人が病院に収容されていることを了承。検査を受けた者の総数は、3万8000人に達した。幼児64人を含む204人に、いろいろな程度の症状の放射線障害が表れている。重体患者18人である」
「機密。議事録第7号 1986年5月5日。出席者──ソ連共産党中央委員会政治局員同志リガチョフ、チェブリコフ、同政治局員候補同志ドルギフ、同書記ヤーコヴレフ
…5月6日9時現在、病院収容者数は3454人になった、という同志シチューピン(ソ連邦保健次官─著者)の報告を了承。そのうち2609人が入院治療中であり、その中には幼児471人が含まれている。正確なデータによれば、放射能障害が表れた者は367人、うち子どもは19人となっている。そのうち34人が重体である。モスクワの第6病院に入院治療中の者は179人で、その中には、2人の幼児がある」
「機密。議事録第8号。1986年5月7日。対策グループの会議に、ソ連共産党中央委員会書記長同志M・S・ゴルバチョフが参加。出席者──ソ連共産党中央委員会政治局員同志ルイシコフ、リガチョフ、ヴォロトニコフ、チェブリコフ、同候補同志ドルギフ、内相同志ウラーソフ。
…一昼夜で1821人が追加入院した。入院治療者数は、5月7日10時現在、4301人であり、その中には1351人の幼児がいる。そのうち、放射線障害と診断された者は、ソ連邦内務省係官を含めて520人。重体患者は34人である。
「機密。議事録第12号。1986年5月12日。
……この数日間に、主としてロシアで、2703人が追加入院した。入院して検査検査および治療を受けている者は1万198人であり、そのうち345人に放射性障害の徴候がある。その中には子どもが35人いる」
対策グループの会議での、これらの秘密情報のダイナミックスと、マスコミでの頑強な沈黙とをどのように関連づけるべきか。貴族のための真実と、奴隷のための真実がある。1986年6月4日付けの議事録21号の「ソ連および外国の、専門知識をもつジャーナリストのための定例記者会見参加者への指令」の中には、「病院収容問題を解決するために……しかるべき数字が設定された。この間に医療施設に送られた人びとは、すべて検査され、急性放射線障害の診断が187人の被災者(全員が原発職員)に下され、うち24名が死亡した(事故時に2人が死去した)こととする。病院に収容された住民には、子どもを含めて、放射線障害の診断は確認されなかったものとする」といった下書きがあった。
国じゅうに放射能がおり強力に這いまわればまわるほど、ソビエト国民はますます健康になるかのようだった。ウクライナ共和国保健相A・ロマネンコは、事故後数年が経ってからさえ、ウクライナ共産党中央委員会5月総会(1989年)で、次のように相変わらず主張した。「全責任をもって言うことができるが、障害が表れた209人以外には、現在、発病を放射能の影響と関連させることができたり、関連させなければならない者はいない」
どうして、このような言明ができるか、その鍵が、対策グループの文書の中に隠されていた。放射線障害になった何千人もの人びとが奇跡的に、突然に元気になってしまったわけは、以下の通りであった。
「機密。議事録9号。1986年5月8日。……ソ連邦保健省は、住民の放射線被曝許容基準の新基準値──従来値の10倍引き上げを承認した。(資料添付)。特別な場合には、従来値の50倍(!──著者)にまで、これらの基準値を引き上げることも可能である」。これは、原発内で働いている作業員の許容基準の5倍であることを言っておきたい。さらに、議事録の添付資料にはこうある。「……かくして、この放射能状態が2年半続いても、老若男女すべての住民の健康の安全は保証される」と。だが、こうした基準値の下に、私たちは妊婦や子どもまで「追いやった」のである。水文気象国家委員会の資料に基づいた、この医療・衛生上の機密の結論に署名しているのは、ソ連邦保健省第1次官O・シチューピンと、ソ連邦水文気象国家委員会第1副議長Y・セドゥノフである。このようにして、1986年5月8日、何千人もの同胞は、治療も薬もなしに、一瞬にして健康体になってしまったのである(方法の効き目、単純さ、「科学性」は、次のような思いを抱かせる。それならなぜ、今日の薬、医療器具、ベッド不足を考慮して、例えば、本年5月1日から平熱は36.6度とせず、38度、あるいは「特別な場合には」39度とする、といった指令を採択しないのだろうか。そうすれば、一般的に病人などいなくなってしまうだろうに)
事故から数年たって、白ロシアやウクライナの学者たちや、ソ連邦最高会議の専門家たちが拒否した、有名な「70年35レム」説の父であるアカデミー会員L・A・イリインさえも、議会公聴会で発言し、次のように認めざるをえなかった。「もしも35年間7レムまで下げるとすれば、一般的に困難な状況の中でいま避難が想定される人は、16万6000人ではなく、その場合には、この数字を約10倍に増やさなければならない。つまり150万人以上の移住が問題となるのだ。……社会は、このような措置がもたらす、すべてのリスクと利得を天秤にかけなければならない」と。当時、この演説を聞きながら、そんなことを言うのはどんな人間なのだろう、と私は考えた──1人ひとりの生命を尊ぶ医者か、あるいは、この命はあっち、この命はこっち、と算盤の珠をがちゃがちゃさせる、けちな会計係だろうか、と。ともあれ、その後、アカデミー会員自身も、「160万の子どもが、われわれを不安にするほどの被曝線量を受けており、今後どのように対処すべきかという問題を解決する必要がある」と認めざるをのである。私は忘れない──この被曝線量が、共産党中央委員会の「機密」印を押された、御用科学の最新の「処方せん」を拠り所にして、算出されたものであることを。文明諸国では信じられている、犠牲を許さないという倫理的要請の観点からこれらの子どもたちを見れば、さらに何倍も掛けなければならない。
ウソ2──汚染された農地の「きれいな」農産物について ・・・略
ウソ3──新聞向け報道について ・・・略
資料2------------------------------
チェルノブイリ事故後の7月3日、ソ連の政治局会議で
ゴルバチョフ:IAEAやほかのの諸国にどのような情報を伝えるかを、これから決
めたいと思います。これまで決議した内容を秘密にせず、すべて伝え
なければなりません。
ルイシコフ:発表する内容については、慎重に決めるべきだと思います。それも私
が主宰する事故処理問題緊急対策会議の場で審議すべきです。政治
局員多数:異議なし
ゴルバチョフ:しかし、われわれは可能なかぎりたくさんの情報を出さなければなり
ません。それによって、西側諸国によるソビエト攻撃をかわすことがで
きます。
原子炉の欠陥をもふくむ情報の公開にこだわるゴルバチョフを、首相のルイシコフが諫めた理由は何であったのか。のちにチェルノブイリ事故の事故処理の最高責任者として、ウクライナ、ベラルーシの市民から非難の声を浴び、マスコミから遠ざかっていたルイシコフが、半年に及ぶ交渉の末にようやく応じたインタビューは、ソ連が真の事故原因を隠すことになった事情の核心について解き明かした。
「ゴルバチョフは政治家です。彼が情報を公表するにせよ、その内容をどうするかは別の問題です。もしあの時、チェルノブイリ型原子炉が危険であることを発表してしまったら、ソ連国内のすべての同型原子炉が停止へと追い込まれたでしょう。そうなったら国を支える電力供給はどうなりますか。14基で1400万キロワットの電力が失われることになります。このような事故が起きたからといって、原発の重要性を忘れてしまうようではいけないのです」
事故の原因である原子炉の欠陥を隠す最大の理由は、原発による国内の電力供給体制を維持することにあったのである。
改革を国際的に印象づけるか、それともただでさえ逼迫する国内エネルギーの現実を重視するのか。政治局会議の最終盤で生じた書記長と首相の対立という膠着状態に打開の糸口を与えたのは、意外にも会議の中で一度は恩師アレクサンドロフを裏切ったレガソフだった。
レガソフ:同志ゴルバチョフ。アメリカのスリーマイル島原発事故では、アメリカ当局は事故の内容についてわかっている情報のわずか4分の1しか発表しませんでした。そのことをよくお考えください。
結局、ゴルバチョフは初志に反して、運転員だけに責任を負わせる道を選択せざるをえなかった。原子炉の欠陥の公表がもたらす深刻な事態を、恐れたからである。書記長就任から1年4ヶ月、体制の改革に挑んだゴルバチョフの最初の挫折だった。
「政治家というものは、こういう場合には社会に動揺を与えないことを第1に考えるものなのです。公表したあとの、社会的影響を深く考慮すべきだという意見が、政治局の大多数だったのです」
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
子どもを連れて汚染地帯を逃れ、不安の中で生活していたが、政府の事故対策に疑問を抱き、真実を報道しようと、汚染地帯の取材を続ける。そして、どこに持って行っても掲載してもらえない記事を、自ら友人たちに配布するなどの活動を始める。彼らはそれを読んで、人から人へまわしてくれたという。その結果、市民の支持を得てソ連邦人民代議員選挙に当選し、最高会議議員にまでなったのである。 その後も、真実を国民に隠し続ける政治家や学者の責任を追及する彼女の厳しい姿勢は、一貫して変わらない。そうして、彼女は、国民に真実を知らせず、多くの人たちを被曝させた政府や関係者の政策を明るみにしていったのである。
下記資料1は、ソ連共産党中央委員会政治局事故対策グループが、汚染地域住民の放射線による障害の詳細な状況報告を日々受けながら、それを隠蔽し、偽の情報を流したことを示す機密議事録に関するもの、および放射線被曝許容基準の50倍もの引き上げることを可能とした新基準値に関するものである。同書の中の「第2部 極秘」の中から抜粋した。
資料2はアラ・ヤロシンスカヤの記述に関わる内容を「原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー」七沢潔(岩波新書)の中から抜粋したものである。書記長ゴルバチョフが、首相ルイシコフやソ連共産党保守派の領袖といわれたリガチョフ等の住民無視、国家優先の主張に屈したことを示す部分である。
東京電力福島第1原発事故では、文部科学省が外務省を通じて米軍に提供していたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報が、住民の避難に生かされなかった。
また、米国エネルギー省が、空中測定システム(Aerial Measuring System:AMS)を使い、米軍の航空機2機で、福島第一原発を中心に周辺約40km圏内、地上高さ1mにおける放射線濃度測定を実施、その測定結果に基づいて作成した放射能汚染地図を在日米国大使館を通じて外務省に電子メールで送ったという。それは外務省から放射線測定を担う文部科学省科学技術・学術政策局と住民の避難範囲を決める原子力災害対策本部の事務局を担う経済産業省原子力安全・保安院に提供されていたという。にもかかわらず、この情報も生かされず、その時点で公表されることはなかった。なぜなのか。
ソ連と同じように、どこかで隠蔽が決定されたのではないか、と疑いたくなるのである。
資料1------------------------------
1 クレムリンの賢人たちの40の秘密議事録
──「極秘の対策本部」は何を決めたのか
ウソ1── 放射能汚染について
政治局対策グループの第1回会議は、1986年4月29日(事故3日後)に開かれた。グループは、5月半ばまでは、毎日、どこかで会議を行っている。(このことは指導者たちは情報をまったく持っていなかったかのように、何年も私たちに信じさせてきた問題にかかわっている。つい最近も、ニコライ・ルイシコフはロシアのテレビでインタヴユ-を受け、自分たちは「当時知っていたことは少ない」と誓わんばかりだった)。5月4日から、対策グループには、住民の病院収容に関する報告が次々と入って来ている。
「機密 議事録第5号。1986年5月4日。出席者──ソ連共産党中央委員会政治局員同志N・I・ルイシコフ、E・K・リガチョフ、V・I・ヴォロトニコフ、V・M・チェブリコフ、同政治局員候補同志V・I・ドルギフ、S・L・ソロコフ、同書記A・N・ヤーコヴレ
フ、内相同志A・V・ウラーソフ
…5月4日現在、合計1882人が病院に収容されていることを了承。検査を受けた者の総数は、3万8000人に達した。幼児64人を含む204人に、いろいろな程度の症状の放射線障害が表れている。重体患者18人である」
「機密。議事録第7号 1986年5月5日。出席者──ソ連共産党中央委員会政治局員同志リガチョフ、チェブリコフ、同政治局員候補同志ドルギフ、同書記ヤーコヴレフ
…5月6日9時現在、病院収容者数は3454人になった、という同志シチューピン(ソ連邦保健次官─著者)の報告を了承。そのうち2609人が入院治療中であり、その中には幼児471人が含まれている。正確なデータによれば、放射能障害が表れた者は367人、うち子どもは19人となっている。そのうち34人が重体である。モスクワの第6病院に入院治療中の者は179人で、その中には、2人の幼児がある」
「機密。議事録第8号。1986年5月7日。対策グループの会議に、ソ連共産党中央委員会書記長同志M・S・ゴルバチョフが参加。出席者──ソ連共産党中央委員会政治局員同志ルイシコフ、リガチョフ、ヴォロトニコフ、チェブリコフ、同候補同志ドルギフ、内相同志ウラーソフ。
…一昼夜で1821人が追加入院した。入院治療者数は、5月7日10時現在、4301人であり、その中には1351人の幼児がいる。そのうち、放射線障害と診断された者は、ソ連邦内務省係官を含めて520人。重体患者は34人である。
「機密。議事録第12号。1986年5月12日。
……この数日間に、主としてロシアで、2703人が追加入院した。入院して検査検査および治療を受けている者は1万198人であり、そのうち345人に放射性障害の徴候がある。その中には子どもが35人いる」
対策グループの会議での、これらの秘密情報のダイナミックスと、マスコミでの頑強な沈黙とをどのように関連づけるべきか。貴族のための真実と、奴隷のための真実がある。1986年6月4日付けの議事録21号の「ソ連および外国の、専門知識をもつジャーナリストのための定例記者会見参加者への指令」の中には、「病院収容問題を解決するために……しかるべき数字が設定された。この間に医療施設に送られた人びとは、すべて検査され、急性放射線障害の診断が187人の被災者(全員が原発職員)に下され、うち24名が死亡した(事故時に2人が死去した)こととする。病院に収容された住民には、子どもを含めて、放射線障害の診断は確認されなかったものとする」といった下書きがあった。
国じゅうに放射能がおり強力に這いまわればまわるほど、ソビエト国民はますます健康になるかのようだった。ウクライナ共和国保健相A・ロマネンコは、事故後数年が経ってからさえ、ウクライナ共産党中央委員会5月総会(1989年)で、次のように相変わらず主張した。「全責任をもって言うことができるが、障害が表れた209人以外には、現在、発病を放射能の影響と関連させることができたり、関連させなければならない者はいない」
どうして、このような言明ができるか、その鍵が、対策グループの文書の中に隠されていた。放射線障害になった何千人もの人びとが奇跡的に、突然に元気になってしまったわけは、以下の通りであった。
「機密。議事録9号。1986年5月8日。……ソ連邦保健省は、住民の放射線被曝許容基準の新基準値──従来値の10倍引き上げを承認した。(資料添付)。特別な場合には、従来値の50倍(!──著者)にまで、これらの基準値を引き上げることも可能である」。これは、原発内で働いている作業員の許容基準の5倍であることを言っておきたい。さらに、議事録の添付資料にはこうある。「……かくして、この放射能状態が2年半続いても、老若男女すべての住民の健康の安全は保証される」と。だが、こうした基準値の下に、私たちは妊婦や子どもまで「追いやった」のである。水文気象国家委員会の資料に基づいた、この医療・衛生上の機密の結論に署名しているのは、ソ連邦保健省第1次官O・シチューピンと、ソ連邦水文気象国家委員会第1副議長Y・セドゥノフである。このようにして、1986年5月8日、何千人もの同胞は、治療も薬もなしに、一瞬にして健康体になってしまったのである(方法の効き目、単純さ、「科学性」は、次のような思いを抱かせる。それならなぜ、今日の薬、医療器具、ベッド不足を考慮して、例えば、本年5月1日から平熱は36.6度とせず、38度、あるいは「特別な場合には」39度とする、といった指令を採択しないのだろうか。そうすれば、一般的に病人などいなくなってしまうだろうに)
事故から数年たって、白ロシアやウクライナの学者たちや、ソ連邦最高会議の専門家たちが拒否した、有名な「70年35レム」説の父であるアカデミー会員L・A・イリインさえも、議会公聴会で発言し、次のように認めざるをえなかった。「もしも35年間7レムまで下げるとすれば、一般的に困難な状況の中でいま避難が想定される人は、16万6000人ではなく、その場合には、この数字を約10倍に増やさなければならない。つまり150万人以上の移住が問題となるのだ。……社会は、このような措置がもたらす、すべてのリスクと利得を天秤にかけなければならない」と。当時、この演説を聞きながら、そんなことを言うのはどんな人間なのだろう、と私は考えた──1人ひとりの生命を尊ぶ医者か、あるいは、この命はあっち、この命はこっち、と算盤の珠をがちゃがちゃさせる、けちな会計係だろうか、と。ともあれ、その後、アカデミー会員自身も、「160万の子どもが、われわれを不安にするほどの被曝線量を受けており、今後どのように対処すべきかという問題を解決する必要がある」と認めざるをのである。私は忘れない──この被曝線量が、共産党中央委員会の「機密」印を押された、御用科学の最新の「処方せん」を拠り所にして、算出されたものであることを。文明諸国では信じられている、犠牲を許さないという倫理的要請の観点からこれらの子どもたちを見れば、さらに何倍も掛けなければならない。
ウソ2──汚染された農地の「きれいな」農産物について ・・・略
ウソ3──新聞向け報道について ・・・略
資料2------------------------------
チェルノブイリ事故後の7月3日、ソ連の政治局会議で
ゴルバチョフ:IAEAやほかのの諸国にどのような情報を伝えるかを、これから決
めたいと思います。これまで決議した内容を秘密にせず、すべて伝え
なければなりません。
ルイシコフ:発表する内容については、慎重に決めるべきだと思います。それも私
が主宰する事故処理問題緊急対策会議の場で審議すべきです。政治
局員多数:異議なし
ゴルバチョフ:しかし、われわれは可能なかぎりたくさんの情報を出さなければなり
ません。それによって、西側諸国によるソビエト攻撃をかわすことがで
きます。
原子炉の欠陥をもふくむ情報の公開にこだわるゴルバチョフを、首相のルイシコフが諫めた理由は何であったのか。のちにチェルノブイリ事故の事故処理の最高責任者として、ウクライナ、ベラルーシの市民から非難の声を浴び、マスコミから遠ざかっていたルイシコフが、半年に及ぶ交渉の末にようやく応じたインタビューは、ソ連が真の事故原因を隠すことになった事情の核心について解き明かした。
「ゴルバチョフは政治家です。彼が情報を公表するにせよ、その内容をどうするかは別の問題です。もしあの時、チェルノブイリ型原子炉が危険であることを発表してしまったら、ソ連国内のすべての同型原子炉が停止へと追い込まれたでしょう。そうなったら国を支える電力供給はどうなりますか。14基で1400万キロワットの電力が失われることになります。このような事故が起きたからといって、原発の重要性を忘れてしまうようではいけないのです」
事故の原因である原子炉の欠陥を隠す最大の理由は、原発による国内の電力供給体制を維持することにあったのである。
改革を国際的に印象づけるか、それともただでさえ逼迫する国内エネルギーの現実を重視するのか。政治局会議の最終盤で生じた書記長と首相の対立という膠着状態に打開の糸口を与えたのは、意外にも会議の中で一度は恩師アレクサンドロフを裏切ったレガソフだった。
レガソフ:同志ゴルバチョフ。アメリカのスリーマイル島原発事故では、アメリカ当局は事故の内容についてわかっている情報のわずか4分の1しか発表しませんでした。そのことをよくお考えください。
結局、ゴルバチョフは初志に反して、運転員だけに責任を負わせる道を選択せざるをえなかった。原子炉の欠陥の公表がもたらす深刻な事態を、恐れたからである。書記長就任から1年4ヶ月、体制の改革に挑んだゴルバチョフの最初の挫折だった。
「政治家というものは、こういう場合には社会に動揺を与えないことを第1に考えるものなのです。公表したあとの、社会的影響を深く考慮すべきだという意見が、政治局の大多数だったのです」
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。