日本は、いわゆる先進国で唯一、多くの国民の声を聞き入れることなく、いまだに法律婚の条件に夫婦同姓を義務付けています。その理由は、夫婦別姓を認めると”夫婦の一体感を損なう”とか”家族の絆が失われる”ということのようですが、理解できません。それでは日本以外の先進国では、夫婦の一体感が損なわれ、家族の絆が失われているということになってしまいます。また、今問題になっているのは、選択的夫婦別姓の問題であり、一体感や絆が心配であれば、同姓を選べばよいのです。
だから、私は夫婦別姓を認めようとしない政権の考え方は、”夫婦の一体感を損なう”とか”家族の絆が失われる”というより、むしろ戦前の考え方をそのまま引き継いでいるからではないかと思うのです。現在もなお、日本を代表する政治家から、”日本は神州である”という言葉が飛び出すことからしても、天皇を中心とする日本民族の神聖性を支える「家族国家観」が背景にあるからではないかということです。
徳富蘇峰は、「皇国日本の大道」の中で、
”…日本の国は肇国の当初から皇室がその中心となり、皇室を取巻く大なる氏族、小なる氏族、その氏族を取巻くもの総て此の如く、所謂姓(カバネ)の制度、すなわち氏族制度によって成立ってゐるものである。
而して氏族制度は何を単位とするかと云へば、家を単位とすることは申す迄もない。然るに、此の如き国体的国家、家族的国家を所謂欧米諸国の個人を単位とする個人主義に変更せんとしたからして、それが日本社会の根底から引繰り返へらんとする状態を現出したることは、決して不思議ではなかった。…”(昭和16年:国立国会図書館デジタルコレクション)
と書いています。
また、それは自民党政権中枢が、皇位継承資格を「皇統に属する男系の男子」に限定して、変えようとしない姿勢や、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森前会長の女性蔑視発言、世界ジェンダー・ギャップ報告書対象の世界153カ国中、日本が121位という数字とも関係していると思います。言い換えれば、それらは「神州」日本の家族的国家観と無関係ではないということです。
かつて、”戦後政治の総決算”をかかげた中曽根元総理は、現在の「日本国憲法」を「占領憲法」として受け入れず、「憲法改正の歌」なるものを作詞していますが、その五番には、”この憲法のある限り 無条件降伏つづくなり マック憲法守れるは マ元帥の下僕なり 祖国の運命拓く者 興国の意気挙げなばや”とあります。
また、「戦後レジームからの脱却」をかかげた安倍前総理は、選挙用のポスターなどに「日本をとり戻す」というキャッチコピーを繰り返し使いました。それは、アジア太平洋戦争における戦争指導層やその後継者と考え方を共有し、日本の戦争を正当化するとともに、戦前の日本を復活させようということなのだと思います。
埼玉大学に長谷川三千子という名誉教授がいます。哲学者であり評論ですが、平成24年に、安倍元総理が会長をつとめる創生「日本」の総会で、「日本がよって立つ新しい理論は」と題して講演しています(今も、YouTubeで見ることができます)。その内容は、”日本は敗戦国のままでいいのか”という言葉に集約できるのではないかと思います。でも、”日本は敗戦国のままでいいのか”というような考え方は、戦時中苦しい生活を強いられた私の父母や、多くの一般国民の意識とは、根本的に異なるものだと思います。日本は決して敗戦国のままではなくて、敗戦をきっかけに、新しい日本に生まれ変わったと考えているからです。日本国憲法の精神を受け入れて、新たなあゆみを開始した日本人や戦後の日本を戦前の日本とは異なる日本として認識している日本人には、”敗戦国のままでいいのか”などというような発想はあり得ないと思います。
前稿で、第一次安倍内閣の法務大臣・長勢甚遠氏が、”国民主権、基本的人権、平和主義(中略)この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならないんですよ”(創生「日本」東京研修会第三回:この発言の動画もYouTubeで見ることができます)と語ったことを取り上げましたが、政権に関わる人たちが、創生「日本」の組織の研修会などで学んでいるのは、おそらく、戦前の考え方を復活させ、「国家神道」に基づく新たな国家体制の実現を目的としているのだと思います。
明治維新以来、政権が抵抗らしい抵抗を受けることなく、思いのままに国民を動かすことの出来た日本、さらに言えば、天皇の名のもとに、命を投げ出させる特攻攻撃さえも命令できた日本、また、何の見通しもないのに勝利を信じ、国民一体となって世界を相手に戦うことのできた日本。自民党政権中枢は、そうした日本をとり戻し、新しい皇国日本をつくろうとしているのではないかと思うのです。
だから、自民党政権中枢が提起する憲法改正は、憲法第九条だけではなく、最終的には国民主権や基本的人権の改正をも意図しているのだろうと思います。そして、じわじわと外堀を埋めるようなかたちで、それが進んでいるように思います。
”国民一人ひとりが血を流す覚悟抜きにこの国は護れない。皇室を奉じて来た日本だけが道義大国を目指す資格がある”と語ったのは、元防衛大臣の稲田朋美氏だということですが、明らかに世界の常識とは掛離れた考え方だろうと思います。
また、”神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す”との綱領にかかげて活動する「神道政治連盟」の国会議員懇談会には、自民党を中心とする多くの政治家が加わっているようですが、その会長も安倍前総理です。したがって、政教分離の原則からして、自民党政権は、その存在自体がすでに憲法違反の疑いがあるような気がします。
明治維新後の皇国日本の思想の淵源は、水戸学にあり、長州や薩摩が、その水戸学を利用して明治維新を成し遂げたと言っても過言ではないと思いますが、その水戸学は、欧米の学問とはほとんど無関係です。
明治維新に関わった若者たちはもちろん、その後の日本の軍人たちの多くも、水戸の藤田東湖や会沢正志斎の著書(「日本の戦争と水戸学(藤田東湖) NO1 」と「日本の戦争と水戸学(会沢正志斎) NO2」に一部抜粋があります)から、皇国日本の何たるかを学んだようですが、水戸学は古事記や日本書紀の神話に基づいている上に、当時の欧米の歴史学や法学、政治学その他の社会科学を踏まえていないことを見逃してはならないと思います。極論すれば、そのままでは世界に通用しないということです。
日本の戦争を正当化したい気持はわからなくはありませんが、世界に通用しない古い学問である水戸学に依拠したような家族国家観に基づく政治や、戦前の皇国日本の復活を意図するような政治は、明らかに歴史の流れに逆行するものだと思います。
下記は、「維新水戸学派の活躍」北條猛次郎(国書刊行会)から抜萃しましたが、現代の日本が、いまだに水戸学の影響下にあることを感じさせられます。アジア太平洋戦争中の著書なのです。
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序
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今や我帝国は大東亜戦によりて曠古の歴史的時代に到達した。此時に当りて水戸学の淵源を窮め大義名分、内外華夷の別を明にし、億兆一心殉国的精神を発揮し、以て皇道を世界に光被せんとするは刻下の一大急務といはざるべからず、茲に一言して読者に推奨すること此の如し。
昭和十七年一月二日マニラ市完全占領の報に接し筆を措く。 川崎紫山 識
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維新水戸学派の活躍
北條猛次郎著
第一 水戸藩の立場(其一)
明治維新を距ること茲に六十年。風餐(フウサン)雨饕(ロトウ)紛然たる当年の恩響(オンシュウ)は既に雲の如く、霧の如く消え去ってしまった。而して今やあらゆる史料と偽りなき告白とは、何の憚る所もなく端的に社会に展開されて、維新史研究の上に一段の機運を齎(モタラ)した。是れいはゆる、天定まりて人に勝つものである。吾人は此の境地からして、維新の創業を省察して見ようと思ふ。
維新の事業たるや、素より一朝一夕に成った者ではない。又一国や一藩の力で遂行された者でもない。しかし創業の動機を作ったことと、諸藩に魁(サキガケ)けして活躍し、以て強烈な波動を与へたのは、何といっても水戸を第一に推さねばならぬと、吾人は信ずるものである。
然るに従来の史家は「勝てば官軍」の諺通り、事、志と違って、虻蜂取らずに終った水戸の地位を、薩長両藩のお附合位に並べ置いて、左程に功績を認めないのは、吾人の最も遺憾に堪へない次第である。然しながら、崑岡(コンコウ)の壁はいつ迄も土中に埋没する者ではない。これ近来の史家が、俄に水戸藩史に着目するに至った所以であって、決して偶然の結果ではない。実に維新囘天の原動力は、水戸派の精神気魄の発揮であり、水戸学は勤王論の母胎であると称するも、敢て不可でないと思ふ。苟も維新史を説く者にして、水藩の事業を忽諸(コッショ)に附する者あらば、これ仏教徒が印度を忘れ、基督教徒がパレスチナを顧みざる如く、史筆に何等の権威もないではないか。
由来薩長二藩が、慶應に入りて聯盟を組織するに至るまでには、幾多の波瀾曲折を繰り返した。殊にその間水戸と薩州、水戸と長州とは、互に共鳴して事に当ったが、当時は未だ幕府を見棄てる迄には至らなかった。而してその水薩、水長の関係たるや、実に純真な者であって、此(イササカ)の政略をも交へず、些の功利をも挟まず、只管稜々たる丹心を以て結合し、終始一貫国家の匡救(キョウキュウ)に尽瘁(ジンスイ)したのであった。この精神的結合は一に水戸学のちからであって、水戸学の酵母によって醞釀(ウンジョウ)された精神が、即ち最後に側面に力強く延長されて、薩長の握手となり、聯盟を堅めて維新改革といふ場面を現出した者である。此を思ひ彼を顧みれば、水戸藩は実に勤王論の木鐸(ボクタク)、復古事業の陳呉(チンゴ)といっても決して不当ではあるまいと思ふ。
人性100年棺を蓋うて事定まる。明治昭代を迎へて、薩長水藩当年の性情思想と経過とをば識者は如何に評価したであらうか。先づ明治初葉の先覚者、外山正一博士の「藩閥の将来」に聴くことにしよう。
水戸流の勤王心は、一種固陋なる性質を帯びたるものである。此の固陋なる勤王主義を公明正大なるものに能く改鋳したるは公明正大なる鹿児島人の力である。而して此の公明正大なる勤王主義を更に改鋳して、文明的のものとしたるは、日新文明の精神に富める山口人の賜物である。されば維新の鴻業は少なくとも、其の近因の一部に於ては、水戸の強堅にして無邪気なる勤王心と、鹿児島の公明正大の勤王心と、山口の文明的の勤労心と調和融合に由て成就したものと見做しても、決して不当ではないと思ふ。而して水戸の強堅にして無邪気なる勤王心は如何にして養成せられたるか、即ち義公烈公が奨励せられたる教育の結果である。鹿児島の公明正大勤王心は如何にして養成せられたるか、即ち其の賢明なる藩主殊に斉彬公の如き人が、大に奨励せられたる教育の結果である。山口の文明的勤王心は如何にして養成せられたるか、即ち古来其賢明なる藩主、近世にあっては、主として敬親公の奨励せられたる教育の結果に由るのである。王政復古の原動力としては、義公、烈公の養成せられたる勤王心は固より必要であった。然れども鹿児島、山口の賢明なる藩主が、嘉永、安政以前より洋学者を聘して、力めて其藩に西洋の知識を輸入したる事、及維新数年前よりして、其藩の俊秀少年を選抜して海外に留学せしめたるが如きは、王政復古、維新の大業をして、今日の如き完成を致さしむるには極めて大切な要素であったのである。嘉永・安政年間に薩長より非常なる人物が輩出したのは、固より異しむに足らぬのである。殊に山口藩より多数の人が輩出せるが如きは固より歴然たる原因に由るのである。明治政府の元勲中に於て最も有力なる者を最も多く山口人中に見るが如きも毫も異しむに足らぬのである。
水戸の勤王を称して、「一種固陋なる性質を帯べるものなり」と論じ、「強堅にして無邪気なる勤王心なり」と喝破し、これを以て「義公・烈公等の教育の結果なり」と、即断するに至っては、吾人は寧ろその近視的考察なるを憐れまざるを得ない。世の幕末維新史を論ずる者、大方この類なるかを思へば、吾人は最も悲しまざるを得ない。
水藩の勤王心は何処に固陋なる点があるか、斯る論者は義烈両公の真精神を窮明せざるに坐するものである。義公の如き高潔なる人格──その大包容力、改進思想を冒瀆するの甚しき者といふべきでである。烈公始め藤田、会沢等の水戸学者、また決して単なる攘夷論者ではない。
由来、水戸藩の攘夷論は、藤田幽谷(藤田東湖の父)が寛政九年、書を藩主文公徳川治保に上って、外夷に関してその対策を論じたのを以て嚆矢(コウシ)とする。その説は、要するに露西亜が我が沿海に出没して我が国を脅すに拘はらず、国民は永年の泰平に馴れて、敢てこれを顧みないのは、頗る憂ふべきことである。故にこの機会に内政を刷新し、人心を振興して、富国強兵の策を講じなくてはならぬといふにあった。尋(ヒロ)いでその高弟、会沢正志は、文政八年夫の名著「新論」によって、攘夷の論を唱へて師説をつぎ、外患に備ふるには、内政の充実を計り、士気を鼓舞しなくてはならぬが、先づ第一に国民に向て、国体観念を強調するのが必要であるとし、盛に国体の尊厳を論じ、尊王を説き、この機に当り醜慮の形勢野望を審にし、「断然天下を必死の地に置き、然して防禦の策得て施すべし」と論じてゐる。然し乍ら、この攘夷の策は固より終局の目的ではない。
「然る後、大に敵愾(テキガイ)の師を興し、天神の糧を食み、天神の兵を揮ひ、天神の仁に仗り、而して其威を奪ひて天下に方行し、狭きは之を広め、険しきは之を平げ、神武不殺の威、殊方絶域に震はゞ正に海外の諸藩をして来りて徳輝を観しめんと欲す。亦何ぞ屑々(セツセツ)乎として、其辺を伺ひ民を誘ふことを之れ患へんや」。
と結論して、開国遠略の説に論及してゐる。この主張は啻(タダ)に会沢一人のみならず烈公東湖も同論であって、水藩の尊王攘夷の根本を成すものである。
嘉永六年の米艦渡来は我国未曽有の一大事変であった。此に處して千年不磨の長策を確立し、正鵠の處置を講明するは難中の難である。烈公、東湖の如き英邁の君臣と雖も、また時の動きに従て幾分思想の変移あるを免れないが、水戸藩の大方針は、嘉永六年烈公の発表した「海防愚存」に依て、よく表明されてゐる。
天下一統戦を覚悟いたし候上にて、和に相成候得ば、夫程の事はなく、和を主に致し、万々一戦に相成候節は、当時の有様にては如何とも被遊様無之候得ば、去八日御話申候通り、和の一字は封じて、海防掛計極秘に相成公辺も此度は、実に御打払の思召にて号令有之度云々。
而して当時烈公には巨砲を鉄船艦を造り、蝦夷地開拓、辺海の警備に当らんとすると共に、海外をも究めんとする意志が十分存してゐたのである。その事はかつて明治の初、明治天皇、小梅の水戸邸に御臨幸あらせられし時、烈公遺物を天覧に入れしところ中に烈公親ら封印された一品があった。大帝の御思召にて御前にて開き見れば、そは烈公がある時幕府の要路に宛てた意見書の案分であった。御側に侍せし福羽美静、大帝の勅にて之を読みしところ、その大意は、外国の所置は最も国の重大事なれば、容易に廟算(ビョウサン)も決し難い。何れ自身海外に渡航し、其の情実を目撃の末、如何にも一定の廟算を立てられ可然哉。其れにより我等を渡航せしめられたき趣旨であって、費用のことまで細々と認めてあった。お側に侍してゐた内務卿の大久保利通これを聴くや、はたゝゝと手を打って、「攘夷のことは天下の人皆水戸烈公が主張者たることを知って、なぜその卓絶せる開国論の首唱者が、反って烈公その人である事を知らぬのだらう、」と感嘆されたといふ。此は「天定餘録」に記載されゐることであるが、、これぞ烈公の対外意見の真相を語るものである。
又烈公は松平春嶽に向って、
「卿は年なほ壮、よろしく海外に遊び、智見を広めて他年開港の時に尽力せられよ」、
とさとされてゐる。
東湖の如きも、かねて高橋多一郎に向って、
如何にも高橋今の天下は最早攘夷に拘泥する様では行けぬぞ。
と戒め、活眼を以て、又世界の趨勢を洞察し、嘗てその甥の原田八兵衛をして、大久保忠道寛に就いて洋学を学ばしめ、或は藩士中の少壮有為なる者二十人を選んで、之を米国に遣はして航海造船の術を練習せじめんとし、親らも烈公の内命によって外国に渡航すべく着々と準備してゐた位である。これを以てしても、その真意の那辺に在るかゞ分かるのである。
徳富蘇峰氏は「藤田先生が、若しもう十年も生きて居られたならば、アメリカ、イギリスにも行き、世界の知識をもたらして、日本開国の先登者になられたでありませう、」といってゐるが、寔(マコト)に至言である。
斯くの如く、水藩である、余は水邸に至って、諸名士を訪問するに、藤田に面するも、戸田に面
するも、将た原田(兵介)に接するも、其の答降る所は帰一であって、恰(アタカ)も同体一心の感がす
る。
といってゐる。
此を要するに、水藩の攘夷論は、開国の前提としての攘夷論であって、夫の開国論を唱ふる者が、先づ開国貿易を実行して後、国力の充実を図るべしといふに対して、我れは、先づ富国強兵の実を挙げて、然る後に開国貿易を行はんと主張したのである。故に会沢は、その「新論」の跋に、
謂ふに天地は活物にして、人も亦活物なり。活物を以て活物の間に行ふ、その変勝げて窮む可
からず、事は時を遂うて転じ、機は瞬息に在り、」
といひ又、
今日言ふ所、明日未だ必ずしも行ふ可からず、故に一たび口に発すれば、則ち空言となり、一た
び之を書に筆すれば、則ち死論となる。
といへるは、これ彼がやがて、我国に開国の機運到来を期待せるものにして、実に時勢を洞察して餘す所のない大見識といふべきである。
又会沢が、文久二年六月を以て一橋慶喜に上って、開国説を論じた「時務策」一篇は、実に新論の延長的意見なのである、即ち、その中に
国家厳制ありて外国の往来を拒絶し給ふは、守国の要務なること勿論なれども、今日に至っては、また古今時勢の変を達観せざることを得ざるものあり
次に
当今の勢は、海外の万国皆和親通交する中に、神州のみ孤立して好を通ぜざる時は、諸国の兵を
一国にて敵に引き受け、国力も堪へ難きに至るべし時勢を料らずして、寛永以前の政令をも考へ
ず、其の以後の時勢をも察せずしては、明識とは云ひ難たかるべし云々。
とあって、彼は断然開国的意見を発表したから、会沢の真意を解せぬ輩は、会沢を以て水戸三耄人の一人なりなどゝ称して排斥するに至った事もあるが、却って一方慧眼なる少壮の士を大に感動せしめ、豊田小太郎の如きは、大に開国進取の気象を発揮し、元治元年、京都に在って、開国の実を遂げ、京都を以て世界的中心たらしめんとする意見を抱いて斡旋奔走してゐたが、不孝異論者の為に暗殺の厄に遭った。