真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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神話に基づく国体の観念と日本の戦争

2021年01月29日 | 国際・政治

 日本は、明治維新によって、天皇が永久に統治権を総攬する国となりました。そして、大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭などで定式化された国体の観念が、日本という国ばかりでなく、日本の戦争をも特徴づけることになったのではないかと思います。

 先のアジア太平洋戦争の死者は310万と言われます。その内軍人・軍属の死者は230万人で、その六割から七割が餓死や戦病死であったとも言われます。また、生きていれば活躍しであろう多くの優秀な若者たちが、外国人には理解の難しい特攻(kamikaze attack)や万歳突撃(banzai attack )でなくなりました。


 「戦陣訓」の「第八 名を惜しむ」によく知られた
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
 という文言があります。でも、諸外国の軍隊では、命をかけて勇敢に戦い、食糧や弾薬が尽きて戦うことが不可能になったら降伏するというのが常識で、何ら恥ずかしいこととは考えられていなかったといいます。だから、捕虜になることも、捕虜の扱いに関する考え方も、諸外国と日本とでは根本的に違っていたのだと思います。

 日本の軍隊では、捕虜を利用した刺突訓練や捕虜の虐待、酷使は、珍しくありませんでした。また、日本兵は、”虜囚の辱”を受けることが許されないため、万歳突撃や、いわゆる「玉砕」を強いられたのだと思います。いずれも、西洋列強の軍隊では、ほとんどなかったことです。
 陸軍中将・岡村寧次は、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが、「世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観である」などと語ったそうですが、私は、崇高でもなんでもない、単なる人命軽視だと思います。そうした人命軽視の考え方が、日本の戦争による、数え切れない悲劇を生み出す結果につながったのだと思います。

 また、日本の戦争は、その範囲があまりにも広大です。
 北は、アラスカ州・アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島、アッツ島で山崎保代陸軍大佐指揮下の日本軍守備隊が米軍と戦い「玉砕」しています。極北の地で、思うようにならない凍土に悩ませられながら、「玉砕」したのです。 
 南は、ダーウィン空襲 (The Bombing of Darwin)などがよく知られていますが、連合国の一つであるオーストラリア本土の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶に対し、陸海軍の航空機が攻撃しています。日本から遠く離れた南半球での攻撃です。
 東は、アメリカ合衆国のハワイ、オアフ島真珠湾で、アメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、航空母艦艦載機および特殊潜航艇による攻撃をしています。日本とは6000キロ以上離れています。

 西は、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市、インパールで戦っています。羽田空港からインパールまでは5000キロ以上あるそうです。そして、インパールの戦いは、参加兵力およそ八万六千人、帰還時の兵力はわずか一万二千人であったといわれます。
 なぜ、小さな島国である日本の兵隊が、そんな遠くで戦い、犠牲となったのでしょうか。

 私は背景に、神話に基づく国体観念(皇国史観)があったからだと思います。昭和天皇の「人間宣言」といわれる「詔書」が、その観念を、下記のように簡潔に表現しています。
日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念


 さらに、1894年(明治27年)四月、朝鮮全羅道で農民戦争(東学党の乱)が起った際、朝鮮政府がそれを鎮圧するために清軍に支援を要請したのに乗じて、日本は「公使館及び居留民保護」を名目に、大挙派兵を行いました。でも、まもなく農民軍と政府軍が「全州和約」を結んで内乱を収拾し、平和状態を回復しました。だから、朝鮮政府は、日本軍の不法侵入に抗議し、早急な撤兵を要求しました。でも、その撤兵要求に応じないばかりでなく、「居留民保護」が目的のはずの日本軍が、朝鮮王宮(景福宮)を武力をもって占領するのです。そして、朝鮮政府の打倒と興宣大院君による新政府の樹立を目論んで閔妃を殺害し、日清戦争に至ります。
 明治以来の”皇国の威徳を四海に宣揚”しようとするそうした好戦的な姿勢も、また、上記の人命軽視や広大な地域での戦いとともに、背景に、神話に基づく国体観(皇国史観)、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”があったからではないかと思います。神話に基づく国体観(皇国史観)抜きでは考えられないことだと思います。

 そして、神話に基づく国体観(皇国史観)によって、そうした常識外れの戦争を進めたA級戦犯を祭っているのが、靖国神社です。でも、皇學館大學の新田均教授は、「首相が靖国参拝してどこが悪い」と言います。そして「首相が靖国参拝してどこが悪い」(PHP)という本まで出しているのです。
 A級戦犯に戦争責任がなかったかのような書名にびっくりします。

 同書の第二章”神社参拝は「法的に」強制されたか?”という中に”内村鑑三不敬事件とは何だったのか”という文章があります。
 内村鑑三の「御真影」や「御親書の勅語」に対する「敬礼」の仕方が不敬であると受けとめられ、その後辞職に追い込まれた不敬事件に関し、当時の人の様々な議論を取り上げているのですが、”この一連の事件について私が注目したのは、政府、特に警察がまったく介入せずに自由な論争を許していた事実である”と、当時も信教の自由があったかのように書いています。

 また、第三章の”強制された「事実」とは”には、下記のように書いています。
国家的な神社”などほとんどなかった
 戦前は国民に神社参拝が強制されていたという論者は多い。しかし明治時代について、そのような事実を明らかにした書物や史料を私は見たことがない。大正時代に入ってからなら、小学校における神社参拝を中心として「神社問題」と呼ばれる紛議が起きたことを知っている。(繰り返すが、一般国民に対する神社参拝の強制ではない!)。
 でも、本当に”一般国民に対する神社参拝の強制”は全くなかったと言い切れるでしょうか。

 新田氏は、「新しい歴史教科書をつくる会」の理事であり、神道学の博士であるということですから、戦後日本の歴史観を「自虐史観」として否定し、神話に基づく国体観(皇国史観)によって、日本の戦争を正当化する考え方を主導しておられるのではないかと思います。だから、神社参拝の現実的な強制の実態が見えていないのではないかと、私は思います。新田氏には、立場の違う人たちが置かれた状況や思いが見えていないし、分かっていないのではないかと思うのです。また、日本が、多様な考え方を受け入れず、排除しながら突っ走った無謀な戦争の実態も見えていないし、分かっていないのではないかと、私は思うのです。自らの信仰や信念を押し殺すようにして、皇国日本で生きることに苦しんだ人は、たくさんいたと思います。

 大日本帝国憲法は、主にドイツの立憲主義に学んで制定に至ったと聞いています。したがって、”日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”と制限しつつ、信教の自由を保障しています。また、政府は当然海外の受け止め方にも配慮もしたでしょうから、確かに「神社参拝」の法的な強制はなかったかも知れません。でも、それで信教の自由があったといえるでしょうか。
 日本の国会における内閣総理大臣の施政方針演説は、「建前論」が多いとよく指摘されますが、戦前の日本における信教の自由も、形ばかりのものだったのではないでしょうか。それは、思想の自由や学問の自由とも関連するのではないかと思いますが、様々な本が発禁となり、その著者が処分されていることも見逃せません。だから、”日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”という信教の自由の制限が、極めて有効に働いていたのではないかと思います。

  1937年(昭和12年)の「国体の本義」には、
我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
 天地(アメつチ)の初発(ハジメ)の時高天原(タカマノハラ)に成りませる神の名(ミナ)は、天之御中主(アメノミナカヌシ)ノ神、次に高御産巣日ノ神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日(カミムスヒ)ノ神、この三柱の神はみな独神(ヒトリカミ)成りまして身(ミミ)を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、
天(アメ)先づ成りて地(つチ)後に定まる。然して後神聖(カミ)其の中に生(ア)れます。故(カ)れ曰く開闢之初洲壌(アメツチノワカルルハジメクニツチ)浮かれ漂へること譬へば猶游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。その時天地の中に一物(ヒトツノモノ)生(ナ)れり。状(カタチ)葦牙(アシケビ)の如し。便ち化為(ナ)りませる神を国常立(クニノトコタチ)ノ尊と号(マヲ)す。
とある。かゝる語事(カタリゴト)、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。
 などとあります。こうした考え方が、他の宗教の「天地創造」の話などと、共存が可能だったでしょうか。

 また、1941年の「戦陣訓」には
夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 とあります。
 「国体の本義」や「戦陣訓」が重んじられ、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる国家総動員法のもと、広大な地域で戦った日本に、信教の自由があったというのは、建て前の話ではないでしょうか。

  天皇の「人間宣言」といわれる官報號外 昭和21年1月1日 詔書に、
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
 とあります。日本の戦争を振り返る時に、忘れてはならない考え方だと思います。

  天皇を神として絶対的に崇め服従しなければならないという思想が、明治以来の皇国日本の思想であり、日本の指導者は”皇国の威徳を四海に宣揚”するために、血眼になって働いたのではないかと思います。
 そして、神話に基づき天皇崇拝思想を鼓舞したのが「神道」であり、事実上の「国教」として政府によって優遇されたのではないでしょうか。したがって、神社崇拝の考え方は、国民に強制され、神社の信仰と対立するような宗教は、受け入れられなかったのが実態だったのではないかと思います。

 皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道」(神社を中心とする神道)が、様々な場面で国民を縛った事実は、否定できないのではないかと思います。   
 だから、大日本帝国憲法の「第二章 臣民權利義務」の「第二十八條」”日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス”をもって、信教の自由があったということはできないと思います。

 そういう意味で、GHQの「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」による、「政教分離」の指令は、的を外してはいなかったと思います。
 A級戦犯の祭られた靖国神社に、閣僚が公式参拝することは、多くの死者を出した無謀な戦争を指導したA級戦犯を追悼し、日本の戦争や皇国史観にもとづく日本、すなわち皇国日本を正当化することにつながるのであって、関係諸国にとっては、戦後の平和条約に照らし、単なる日本の内政問題として、受けとめることができない側面があるのではないかと思います。また、閣僚など日本を代表する人たちが靖国神社に「公式参拝」することは、日本国憲法に反する行為ではないかと思います。


 
 
 

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朝鮮植民地支配の本質を見ようとしない主張

2021年01月24日 | 国際・政治

 微妙な変化はあっても、日韓関係の改善に明るい見通しがありません。私は、現在の日本の政権の考え方では改善は難しいと思います。というのは、政権と一体になって活動していると思われる人たちの考え方が、朝鮮植民地支配当時の考え方とあまり変わってはいないと思われるからです。 

 例えば、自由主義史観研究会理事の杉本幹夫氏は、自身の著書、『日本支配36年「植民地」朝鮮の研究』に「謝罪するいわれは何もない」という副題をつけています。
 そして、”日本統治時代、学校では教育言語はすべて日本語で行われた”という事実を認めながら、
植民地教育ではどの国も宗主国の言語は必修であり、宗主国の言語を知らなければ、官界では勿論、実業界でも不利である”から当然であったかのように書いています。植民地化された国が植民地化した国の政策に従うことは、当たり前だったということのようです。

 日本の経済学者・植民政策学者で、無教会主義のキリスト教指導者としても知られる矢内原忠雄は、『植民及植民地政策』の中で、”私は朝鮮普通学校の授業を参観し朝鮮人の教師が朝鮮人の児童に対し日本語を以て日本歴史を教授するを見、心中涙を禁じ得なかった”と書いているとのことですが、矢内原忠雄のように、朝鮮人の立場に立って考えることの出来る人でないと、日本の朝鮮植民地支配の本質が見えないのかも知れないと思います。

 また、杉本氏は”日本が普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは1941年(昭和十六年)である。止めたと言っても授業がなくなっただけで禁止したわけではない”と書いていますが、それは事実に反するのではないかと思います。自由に朝鮮語を話すことができなかったという多くの証言がありますし、もともと朝鮮語教育の授業は過渡的に実施されもので、廃止の方向に進んでいたと思うからです。それは、韓国併合の翌年に公布された「朝鮮教育令」(明治四十四年八月二十四日 勅令第二百二十九号)の第一条に”朝鮮ニ於ケル朝鮮人ノ教育ハ本令ニ依ル”とあり、第二条には、”教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス”とあることで分かります。朝鮮人を朝鮮人としてではなく、日本の天皇の”忠良ナル”臣民として育成することが定められていたのです。いつまでも朝鮮語を使っていては、日本の天皇の”忠良ナル”臣民とはなり得ないということだったと思います。

 だから、日本語を公用語化しただけではなく、家庭内においても、日本語の使用が奨励され、朝鮮語で話すことが、控えられるようになっていったのです。それが、儀式における「教育勅語」の奉読や、「御真影」に対する最敬礼、「皇国臣民ノ誓詞 」の斉唱や朗唱神社参拝宮城遙拝などとともに、朝鮮民族の伝統や文化を無視した皇民化政策の一つであったことは否定できないと思います。

 さらに、杉本氏は、朝鮮語は、”三十八年(昭和十三年)には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとのことである”と書いて、あたかも日本や日本人校長が、朝鮮語の教育に寛容であり、理解があったかのように書いていますが、現実は、朝鮮人校長には、厳しいプレッシャーがかかっていたということではないかと思います。

 ”南総督が民意を聞くために開いた面談会で、「朝鮮人の進むべき道」等を書いた著述家の玄永燮は朝鮮語使用の全廃を主張した。しかし南総督はそれを拒否している

 ということも、急に”朝鮮語使用の全廃”をすると、いろいろ支障があるからであって、朝鮮人がいつまでも朝鮮語を使えるようにしようとするような、「朝鮮教育令」に反する意図に基づくものではなかったと思います。
 部分的、あるいは、個別的には「朝鮮教育令」に反するような取り組みもあったかも知れませんが、”景福宮に総督府博物館を設けたのを始め、慶州、開城、平壌、扶余、公州に次々と博物または分館を設け”たという話や、朝鮮史編纂委員会よる”全三十五巻、二万四千頁の朝鮮史を刊行している”という話も、当時の日本の植民地政策全体の中で、把握されなければならないと思います。杉本氏の主張は、木を見て森を見ないものだと思います。 

 朝鮮近代史が専門の姜在彦教授によると、1929年全羅南道で起きた日本人生徒と朝鮮人生徒の間のトラブルがもとで広がった光州学生の抗議の運動のスローガンの中に、朝鮮人本位ノ教育制度ヲ確立セヨ!とか、植民地奴隷教育制度ヲ撤廃セヨ!とか、社会科学研究ノ自由ヲ獲得セヨ!というようなものがあったというこですが、日本の朝鮮における教育政策には様々な問題や差別があり、多くの朝鮮人には受け入れ難いものであったことを物語っているのだろうと思います。

 戦前よく使われたという「一視同仁」や「内鮮一体」という言葉も、朝鮮人が朝鮮人としてではなく、自らの言葉や伝統、文化を捨て、一日も早く立派な大日本帝国の臣民となることを求めるものであったと思います。それは、「朝鮮教育令の施行について朝鮮総督の論告」の中に、”特ニ力ヲ徳性ノ涵養ト国語ノ普及トニ致シ以テ帝国臣民タルノ資質ト品性トヲ具ヘシメムコトヲ要ス”という文章があることにもあらわれていると思います。

 すでに取り上げたように、子ども向けの「皇国臣民ノ誓詞(チカヒ)」は、下記のような内容です。

一 私共ハ 大日本帝国ノ臣民デアリマス
二 私共ハ 心ヲ合セテ 天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三 私共ハ 忍苦鍛錬シテ 立派ナ強イ国民トナリマス

 この「皇国臣民ノ誓詞」について、釜山府通牒に、

一 誓詞ノ斉唱又ハ朗唱ニ付テハ各種機会アル毎ニ之ガ普及ニ努ムルト共ニ徒ニ単ナル暗誦ニ終ラシムルガ如キコトナク常ニ其ノ精神トスル所ヲ確把セシメテ誓詞制定ノ趣旨ノ徹底方ヲ図ルコト
ニ 各学校ニ於テハ朝会ヲ行ハザル日ニ於テモ各教室ニテ毎朝授業開始前必ズ之ヲ斉唱セシムルコト
三 総督其ノ他ノ学校視察ニ当リ全校ノ生徒児童参集シテ挨拶ヲ行フ場合或ハ訓示、講演等ノ終了ニ際シ答礼挨拶ヲ行フ場合ニ於テハ力メテ誓詞ノ斉唱ヲ以テ右挨拶答礼ニ代フルコト

 とあることは、朝鮮における教育が、大日本帝国の”臣民タルノ資質ト品性トヲ具ヘシメム”ということにあったことを示していると思います。

 したがって、杉本氏の、

ここで言っておかなければならない事は、朝鮮語が禁止されたことは一回もなかったし、むしろハングル文字が今日のように普及したのは、日本の教育の成果だと言うことである。韓国の高等学校教科書には、<民族の言葉と歴史を学ぶことが禁止され>と書いてあるが、そのような事実はない
 
 という断定は、客観的事実に基づいていないと、私は思います。
 関係改善のためには、韓国に対し、「謝罪するいわれは何もない」などと一方的に突き放すのではなく、韓国側の主張や研究も踏まえ、客観的事実に基づいた共通の歴史認識を持とうとする努力が欠かせないと思います。
 最近、政権が韓国に対し強硬な姿勢を貫いているのは、杉本氏のような著作に後押しされている側面があるのではないかと気になるのです。

 下記は、『日本支配36年「植民地」朝鮮の研究 謝罪するいわれは何もない』杉本幹夫(展転社)から、「第一章 搾取と奴隷化の実態」の「八 日本語の強制と朝鮮語の使用禁止」を抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第一章 搾取と奴隷化の実態

八 日本語の強制と朝鮮語の使用禁止
 日本語の強制
 日本統治時代、学校では教育言語はすべて日本語で行われた。この事に対し、日本語の強制と非難される。植民地教育ではどの国も宗主国の言語は必修であり、宗主国の言語を知らなければ、官界では勿論、実業界でも不利である。その為フィリピンではスペイン時代、フィリピンの改革要求の大きな眼目の一つはスペイン語教育の普及であった。
 他の植民地の動向を見ると、フィリピンは朝鮮同様、教育言語は宗主国の言語である英語のみにて行われた。それに対し、蘭印、仏印等では、現地人の学校は小学校低学年は現地語で、高学年になってくると宗主国の言語を習うことになっていた。これらの国では、小学校の高学年に進むものは極めて少なく、従って現地教育のみで終わる子が多かった。また上級学校への進学にハンデがついた。

 どちらが良いかは一長一短があある。言語は幼少時から始めた方が進歩が早く、見につく。一方言語教育に追われ、その他の教育は遅れ、伝統文化の退歩を招きやすい。この問題は多民族国家では、現在も問題である。例えば中国の北京官語、フィリピンのタガログ語、インドネシアのインドネシア語等その国の標準語とされるが、その言語が本来的に通用する地域は極めて狭い範囲にすぎない。国の統一のためには標準語重視が望ましいが、ローカル文化の保存、育成の面では現地語重視が望ましい。
 現在アイルランドでは英語が大勢を占めているが、ケルト語の強いガルウェーの大学では、英語とアイルランド語の二か国語での授業が義務づけられているという。その結果二か国語で授業できる教授の獲得が難しく、レベル低下に悩んでいるとの事である。

 戦前日本教育で育った人たちは、極めて日本語に堪能であり、日本語より、新しい技術、学問等が容易に取り入れられ、今日の発展の一因となったことは否定できない。

 朝鮮語の使用禁止
 ここで言っておかなければならない事は、朝鮮語が禁止されたことは一回もなかったし、むしろハングル文字が今日のように普及したのは、日本の教育の成果だと言うことである。韓国の高等学校教科書には、<民族の言葉と歴史を学ぶことが禁止され>と書いてあるが、そのような事実はない。
 日本が普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは1941年(昭和十六年)である。止めたと言っても授業がなくなっただけで禁止したわけではない。三十八年(昭和十三年)には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとのことである。いずれにせよそれまでの三十年近くは朝鮮の普通学校では、朝鮮語は必修科目だった。
 まあた官庁では1939年(昭和十四年)まで朝鮮語の学習を奨励する朝鮮語奨励費が支出されている。約三十年為政者は朝鮮語を学び、朝鮮人には日本語を学ばせ、意思の疎通を図るよう努力したのである。

 開国以前の朝鮮の正式の文書はすべて漢文で書かれていた。その為ハングルは諺文と軽視され、寺子屋に当たる書堂でも教えない所もあった。しかし表音文字であるので、字数が少なく、自然にかなり普及していた。
 1882年(明治十二年)アメリカへの開港により、急速にキリスト教が流入した。彼らは布教にハングルを使った事により、ハングルの普及に貢献した。
 新聞にハングルが登場するのは、1886年(明治十九年)発行された『漢城週報』である。朴泳孝の要請を受け、編輯に携わっていた井上角五郎が、福沢諭吉の「ハングルを使って日本の仮名混じり文の様な文体を作り、文明化しなければならぬ」との意見を入れ、漢字とハングルの混淆文で書いたのが始まりである。
 ハングルが急速に普及するのは日清戦争で韓国が清の宗主権を脱してからである。ナショナリズムの高揚する中で、ハングルを使った新聞が次々に発行された。また公用語としてハングルが初めて認知された。

 1910年(明治四十三年)併合後の日本は学校教育で朝鮮語を必修課目とした。この教科書の作成を通じ、綴字法の統一、標準語の制定、普及が進んだのである。勿論韓国教科書で主張する朝鮮語研究会、朝鮮語学会が大きく貢献した事は言うまでもない。
 朝鮮語は1937年(昭和12年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。併合時書堂を含め、10%程度だった就学率は1937年には36%に達している。これと共にハングルが普及したのである。ハングルの普及に最も貢献したのは、朝鮮人自身としても、日本の貢献も合わせて評価すべきである。
 1938年南総督が民意を聞くために開いた面談会で、「朝鮮人の進むべき道」等を書いた著述家の玄永燮は朝鮮語使用の全廃を主張した。しかし南総督はそれを拒否している(三章六参照)
 なお毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していた。

 朝鮮史の研究・教育
 朝鮮史教育についても、韓国高校教科書では前述のように、朝鮮語の禁止と共に朝鮮史の教育を禁止していたと書いている。
 総督府は1915年(大正四年)景福宮に総督府博物館を設けたのを始め、慶州、開城、平壌、扶余、公州に次々と博物または分館を設け、過去の貴重な遺物の収集をし、古蹟の調査・保存を行った。
 更に1922年(大正11年)には朝鮮史編纂委員会を設け、四十一年(昭和十六年)まで毎年五万から十万円を投資し、アジアから資料を集め、新羅統一以前から李朝後期まで、全三十五巻、二万四千頁の朝鮮史を刊行している。問題のある箇所も多々あると思うが、古代、秀吉の朝鮮侵攻時、近代の三つの時代を除けば、殆んど合意できる筈であり、貴重な資料となっている。
 また授業でも日本史の一環として朝鮮史にも配慮されていたのである。歴史教育が始まったのは、初等教育が四年制から六年制に延長された1921年(大正十年)からである。1932年(昭和七年)に発行された国史教科書には朝鮮史に関する事項として「昔の朝鮮」「三国の盛衰」「新羅の統一」「高麗の王建」「高麗と蒙古」「朝鮮の太祖」「李退渓と李栗谷」「英祖と正祖」と言った事項がある。
 1940年(昭和十五年)の教科書の改訂は時代順の記述を止め、例えば「都のさかえ」「太平のめぐみ」「海外のまつりごと」「制度のととのい」「世界の動き」「国力のあらわれ」と言った具合に、テーマ毎に歴史を学ぶ極めて意欲的な編成をしている。従って題名からは朝鮮の歴史が消えたが、それぞれのテーマの中で相当量取り上げられている。
 なお京城帝国大学では朝鮮史の研究は最後まで続けられた。

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済南事件と軍人勅諭

2021年01月13日 | 国際・政治

 日本では、済南事件(中国では「五・三惨案」)について、”国民革命軍の一部による日本人襲撃、虐殺事件”として、その残虐性を強調する声を時々耳にし、目にします。多くの日本人を襲撃して殺したのですから、確かにそれは残虐な行為であったに違いありません。でもその際、日本軍が戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時(中華民國外交官員)をはじめ、原則的に無抵抗の済南交渉公署職員八名、勤務兵七名、まかない夫一名計十六名を殺害した事実が考慮されなければ、済南事件の全貌を正しく理解しているとは言えないように思います。国民政府が蔡特派交渉員殺害事件を、”日本軍による、外交官に対する不法きわまりない残虐行為”と受け止めたことは、その後のトラブルの展開と無関係ではありえず、客観的な理解が、正しい歴史認識のために欠かせないと思います。

 田中内閣は1927年の国民政府の北伐に際し、山東への出兵を決定しましたが、それは、済南および膠済沿線の日本人を保護するという名目でした。4月19日第六師団の山東派遣を命ずるとともに、支那駐屯軍より歩兵三中隊を済南に急派したといいます(二十日夜済南着)。そして、済南商埠地(ショウフチ)の警備にあたらせたのです。

 でも、国民政府の北伐は中国の内部抗争です。だから、田中内閣の突然の出兵措置を、当時の『朝日新聞』社説は、「外交抜きの出兵を無造作にやることは、無策を通り越した無謀である。現内閣の行ふところは出兵だけである。流石に出兵だけはきびきびしてゐる」と皮肉ったのだと思います。
 朝日新聞が皮肉った無謀な出兵が、現実に残虐事件に発展するわけですから、済南事件の客観的理解は重要だと思うのです。

 それで思い出すのが、日清戦争に至る、日本軍の朝鮮出兵です。朝鮮で東学党の乱といわれる反乱が起きた際、当時の朝鮮における李王朝は、鎮圧のために清に援助を求めました。でも、清の派兵に呼応して、日本は清を遥かに上回る8,000 人ともいわれる軍を朝鮮に派兵したといいます。そのときも日本人居留民の保護が名目でした。でも、居留民の保護が名目の日本軍が、その後朝鮮王宮を占領し、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃・閔妃を殺害するに至り、日清戦争に発展するのです。朝鮮の内部争いに伴う居留民の保護が、どうしてそういうことに発展するのか、考えさせられます。

 日本側にもいろいろな言い分があったのでしょうが、当時の朝鮮における大鳥公使が、朝鮮政府に清兵の撤退に関し最後通牒をにつきつけたという事実や、大鳥公使の意を受けて、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ね、下記のような依頼をしたという事実は、やはり居留民の保護とはいえず、異常だと思います。

ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来り。因(ヨ)って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出でんがため、本日該政府に向って清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を二十二日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君(テウオングン)〔李昰応(イハウン)〕を推して入闕(ニュウケツ)せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘(ゲキジョウ)を我に嘱託せしむるを得べし。…。”
(『明治廿七八年日清戦史第二冊決定草案自第十一章至第二十四章』福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵)

軍人勅諭には、

我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものとも(服従しないものども)を討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ…”

 とありますが、私は、こうした済南や朝鮮に対する日本人居留民保護を名目とする派兵に、”皇国の威徳を四海に宣揚”しようとする侵略の意図があらわれているように思うのです。

 だから、日本の戦争の過ちをしっかり踏まえた外交をしなければ、日韓、日中の関係改善はできないだろうと思います。
 戦時中の日本軍「慰安婦」の問題で、韓国との関係が再び急速に悪化していますが、当事者やその支援団体を無視した政治結着によって、「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」などと、どんなに強調しても、それは根本的な解決にはならないだろうと思います。

 当事者やその支援団体が求め、また、国連人権委員会のラディカ・クマラスワミやゲイ・マクドゥーガル特別報告者が、日本政府に勧告したような法的責任に向き合わなければ、当事者の尊厳は回復されないからです。大事なのは道義的責任ではなく、日本政府の法的責任なのだと思います。また、道義的責任に基づく償いではなく、法的責任に基づく賠償が求められるのだと思います。それは、当事者の尊厳に関わる問題であり、金額の問題ではないとも思います。

 さらに言えば、日本軍「慰安婦」の問題(国際的には、旧日本軍性奴隷問題)は、法的責任を回避し、旧日本軍の”誇り”を守ろうとする日本政府の関係者と、自らの”尊厳”の回復を求める元「慰安婦」の人たちの争いと言ってもいいように思います。

 

 下記は、「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から「泥沼戦争への道標 ─ 済南事件 ─」を抜粋しました。

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            泥沼戦争への道標 ─ 済南事件 ─

 南京国民政府は、1928(昭和三)年初め、蒋介石を北伐軍総司令官兼第一集団軍司令に、馮玉祥
(フウギョクショウ)、閻錫山(エンシャクザン)を第二、第三集団軍総司令にそれぞれ任命し、第一集団軍は津浦線に沿って、第二集団軍は平漢線沿線を急進北上し、第三集団軍は西方から北平を衝き、平津地帯で合流するという作戦計画を樹立した。
 蒋総司令は四月一日大本営を徐州に進め、いよいよ北伐戦の再開となった。北伐を前にして蒋介石は三月六日南京で、とくに日本新聞記者を招宴し、次の二点を強調した。
 第一に国民政府はすでにソビエトとは絶交していること、また革命を妨害しない列国とはよろこんで連合する方針で、ことに、日本とは孫文総理が日本で同盟会を組織していらいの関係もあることゆえ、日本が国民革命の意義を了解し妨害を与えないことを要請した。ついで蒋は郭松齢事件(1925年、張作霖の部将郭松齢が反逆し、張は非常な窮地に陥ったが、関東軍の援助によってようやく郭軍を覆滅した)の顛末に関連させて、今次の北伐の対象が東三省ではなく黄河流域であることを暗示した。北伐の目標を黄河流域に限定し、東三省を一応除外したのは、日本の田中義一内閣が成立(昭和二年四月)いらい、満蒙の治安維持に強硬な決意を表明しているためであった。

 田中内閣の反応
 田中内閣の中国政策の基本は、中国本部の内戦や、政権の変更に影響されない満蒙の建設、満蒙の特殊地位化にあった。しかし、満蒙はすでに第一次大戦後急激に勃興してきた中国のブルジョワジーにとって、欠くべからざる市場であり、満蒙を含めての中国の統一の実現が、新国民政府によせられた期待であったのである。ここに田中内閣の中国政策と中国側との、根本的に相容れない矛盾があったが、国民政府としては、現段階においては北伐を一応中国本部に限定することによって、予想される日本の干渉を排除あるいは緩和しようとしたのであった。

 北方では奉天軍閥の張作霖が北京に大元帥府を組織し、赤化している国民革命軍を討つという名義で安国軍七個軍団を率い、その兵力100万と呼号していた。しかし実質的には、張宗昌(チョウソウショウ)、孫伝芳(ソンデンホウ)の軍閥軍隊は士気がすでに凋落沮喪しており、ただ張作霖自身の基幹部隊が信頼しうるに過ぎなかった。南北両軍の間で戦闘が開始されると、北軍はたちまち潰走し、戦火は山東省膠済鉄道(コウサイテツドウ)沿線(青島─済南)に迫ってきた。
 田中内閣は前年(1927)の北伐にさいしても、山東への出兵を断行したのであるが、今度も済南および膠済沿線の日本人を保護するため出兵を決定し、四月十九日第六師団の山東派遣を命ずるとともに、支那駐屯軍より歩兵三中隊を済南に急派(二十日夜済南着)。第六師団の司令部は二十五日青島に上陸し、ただちに歩兵第十一旅団(少将斎藤瀏が指揮)を済南に派遣し、翌二十六日朝より済南商埠地(ショウフチ)の警備にあたらせた。

 田中内閣の急速な出兵措置を四月二十五日の『朝日新聞』社説は、「外交抜きの出兵を無造作にやることは、無策を通り越した無謀である。現内閣の行ふところは出兵だけである。流石に出兵だけはきびきびしてゐる」と皮肉っている(昭和二年末の山東省の在留邦人は青島に一万三千名、済南に二千百名で、事業投資も青島に約6600万円、済南に500万円で、青島がもっとも重要な地位を占めていた)。
 鈴木(荘六)参謀総長が福田(彦助)第六師団長に与えた指示には、中国の内争への不干渉を命ずるとともに、「国家および国軍の威信を保持するため、任務の達成上必要なる場合においては武力を使用することを得」とも書いてあった。

 中央が山東出兵を決定した翌二十日には、関東軍は参謀長斎藤恒の名で、畑(英太郎)陸軍次官および南(次郎)参謀次長あてに次のような意見を具申した。すなわち、張作霖の奉天軍二十万が東三省に敗退してくる場合には、満蒙の治安は擾乱(ジョウラン)せられるので、戦乱の余派を満州に波及させないため自衛手段をとるべきむね、あらかじめ声明する必要があること、関東軍としては、奉天軍または南方革命軍がその声明をかえりみず武装軍隊をもって関外にはいる場合は、機を失せず「駐留師団の主力を山海関または錦州付近に進め両軍のいずれたるを問はず武力をもってその侵入を阻止し、要すれば武装解除を行ひたる後その通過を許す」意向であることなどを上申したのである。
 済南への無造作な出兵とあいまって、陸軍中央および関東軍には、南方革命軍の北伐に対し武力的干渉を辞さないとする雰囲気が濃厚にみられたのであった。

 五・三惨案
 済南商埠地にはいった第十一旅団は、商埠地内に東西二カ所の遮断区域を設けて守備地区にあて、非常の場合にはこの地域内に居留民を収容保護し、地域内への南北両軍の侵入を絶対に防止する方針をとった。
 四月二十九日の天長節を迎えた日本軍は、総領事館前街頭で観兵式を挙行して軍威を示した。同日朝、済南の南方、界首は陥落し、退却する北軍で商埠地内外を通過して北方に逃亡するものの数が多くなった。三十日も朝から北軍の敗残部隊は陸続きとして日本軍の指定した退却通路を流れて行ったのである。
 翌五月一日には南軍の第九軍および第四十軍の先頭が商埠地に達し、一部は指定通路を軍歌を歌いラッパを吹奏しながら通過して済南域に入城した。北伐軍が入城すると済南域内は青天白日旗であふれた。済南衛戍(エイジュ)司令を命ぜられた第四十一軍長の方振武は二日午前、斎藤旅団長を訪ね、総司令蒋介石も同日入城した。
 斎藤旅団長は南軍入城の模様を、「南軍の済南に到着するもの数万におよびしが、軍紀比較的厳粛いずれも日本軍に対し敬意を払い、なんら不快なる交渉事件も起さず、市内は平穏裡に全く南軍の手に帰したり」と報告した。一方、福田第六師団長も二日済南に到着した。
 日本軍は二十九日以来守備線に土嚢をつんで防御工事を構築した上、鉄条網で掩護するなど緊張した雰囲気で北伐軍を迎えたのであるが、平穏な入城を見た斎藤旅団長は、守備区域と防御施設を撤廃するよう命令を下し(五月二日午後三時)、同時に済南の治安維持を南軍総司令蒋介石に一任し、南軍の守備区域内への出入りを認めるよう訓示した。翌三日は商店も一斉に開店し、西田(畊一)総領事代理も蒋総司令を訪問して事故の発生しなかったことを祝し、守備地区内に避難していた邦人も帰宅したりして楽観的な気分が横溢した。
 が、午前十時、麟址門街に日中両軍の小衝突が起り、たちまち全商埠地および隣接街区に戦闘が波及し、いわゆる五・三惨案(悲惨なる事件)の勃発をみたのである。商埠地の各所で小戦闘が展開されながら夜にはいったが、夜半両軍のあいだに商埠地内の中国軍隊の退去に関し協定が成立し、四日午前中には大部分の撤退をみた。福田師団長の表現によれば「張合いのない」南軍の態度であった。
 五月三~四日の戦闘で注目すべき点を二、三挙げてみよう。戦闘に参加した日本軍は約三千五百の兵員で死者十名、負傷四十一名を出した。一方南軍の俘虜は将校以下1179名、戦利品は小銃2297その他である。激烈な市街戦としては日本軍の死傷者が意外に少ないことがわかる。商埠地周辺の南軍約二万は全然戦闘に参加せず、商埠地内の軍隊もほとんど散発的な抵抗しかしなかったのではないかと推察される。商埠地外にいた日本居留民の惨殺された者十二である。中国側をもっとも憤激させたのは、三日夜、戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時をはじめ済南交渉公署職員八名、勤務兵七名、まかない夫一名計十六名が殺害されたことであった。蔡主任の殺害は次のような状況のもとにおきた。
 蔡主任が北伐にともなう外国居留民との折衝の任にあたることは、国民政府から四月二十三日、上海の矢田(七太郎)総領事に通告されていた。五月三日、蔡は済南商埠地の旧山東交渉公署で執務を開始したが、同日午前、公署建物前の道路でも戦闘があり、日本兵二名が射殺された。この日本兵士に対する狙撃が交渉公署の楼上からおこなわれたと認知した日本軍は、夜間にいたって公署の捜査を実施した。そのさい突然地下室から拳銃の発射を受けたので、ただちに応射するとともに、署内の十六名を射殺または刺殺した。街路上の戦闘に対し交渉公署楼上から狙撃があったこと、室内捜査のとき拳銃が発射されたことは認めなかったが、昼間、公署前の戦闘を楼上から勤務兵が目撃していたのは中国側も認めるところであった。しかし、蔡主任以下の職員は原則的に無抵抗であったのであり、交渉公署の性格上からも全員をただちに刺殺したことは過当措置であったといえよう。
 国民政府は蔡特派交渉員殺害事件を、外交官に対する不法きわまりない日本軍の残虐行為としてセンセーショナルに報道し、各地で追悼集会を開催したりした。
 「誓雪済案国恥、打倒日本帝国主義! 蔡先生精神不死、為諸烈士復仇!」とは国民党の宣伝伝単(ビラ)の一節である。

 山東の形勢悪化 
 五月三日午後六時過ぎ、済南商埠地における日中両軍衝突の報告を受けた参謀本部は、ただちに積極的な反応を示した。まず第六師団長に対し、「国軍の威信を傷つけざるごとく考慮を望む」と打電し、ついで混成約一旅団の増派を内報し、また、「事態の発展にともない内地より徹底的に増派せらるべきにより、このさい断乎たる処置」をとるよう激励したのである。
 翌四日、現地の福田師団長は、事件は一応解決したが、済南付近に宿営していた北伐軍はすくなくとも四万あり、しだいに日本軍に悪感情を抱くようになってきたので、現在こそ中国問題解決のため「南方に対し断然たる膺懲の挙にいづるの好機なりと信ず」と具申し、参謀本部と現地は本事件を利用して南軍を膺懲することに完全に意見の一致をみた。
 田中内閣は四日緊急閣議をひらき、一個旅団の派遣を決定した。白川(義則)陸相は、政府は今後増派する場合は大々的に出兵する意向であると鈴木総長につげた。そこで南参謀次長は五日午後二時、第六師団長に対し、「貴官は安心して当面の事件を有耶無耶に終わらざるよう」解決されたいと、賀耀祖(第四十軍団長)の峻厳なる処刑その他の要求条項を指示した。南の見解によれば、済南事件は過去数年にわたる中国人の対日軽侮心の反映であり、国家と国軍威信の発揚上徹底的に糾弾する必要があるのであった。
 このような陸軍中央および政府の積極的な支持を背景として(関東軍から派遣された混成第二十八旅団は五月六日午後すでに青島に上陸)、福田師団長は南軍への重大な軍事干渉、すなわち状況によっては、「全南軍を敵とし断然戈をとって起つ」ことを決意した。そのためまず、五月七日午後四時、南軍に対し、
一、騒擾及暴虐行為に関係のある高級武官の峻厳なる処刑
一、日本軍の面前において我軍に抗争した軍隊を武装解除する 
一、南軍は済南および膠済鉄道両側沿線二十支里以外の地に離隔する
 など⑦五箇条の要求を手交し、十二時間以内の回答を迫った。

 三日の事件後、蒋総司令官は少数の治安維持部隊を除いて軍を済南から撤退のうえ迂回北上させることを決定し、六日早朝には蒋総司令も済南城を撤退した。同日第一集団軍黄河渡河を開始し、徳州に向け進撃を開始した。蒋が福田師団長の期限付通牒をうけとったのは泰山にいく途中であったが、泰安で回答を作成し、羅家倫、熊式輝がこれを商埠地の師団司令部に持参し福田師団長と会見した。おそらく八日正午近くであったろうと推察される。
 蒋総司令の回答は、責任ある軍隊は調査ののち処分するが、日本軍側でも同様に処分ありたいこと、膠済鉄道二十支里以内にはしばらく駐兵はしないが、済南には相当軍隊を駐留させること、などであり、もとより日本側の満足し得ないところであった。
 九日午前七時羅代表の報告を受けた蒋は、第四十軍団長賀耀祖の免職と、済南への不駐兵等を譲歩した上で、総参議の何成濬を再び派遣したが、すでに日本軍は済南総攻撃を開始したのであった。
 福田師団長の要求内容と午後四時から十二時間すなわち翌朝四時までの回答期限に関しては、中国側からのみならず、日本側からも批判があった。しかし、すでに問題は居留民の保護ではなく、南軍膺懲にあったのである。八日から日本軍は攻撃を開始して済南周辺の南軍を掃蕩し、九日と十日の両日には昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせた。夜は火焔が天を焦し、済南城内は逃げまどう住民たちの阿鼻叫喚の巷となった。そうして十日深夜、南軍は退去し、あくる十一日には済南城は日本軍の占領するところとなった。
 日本軍の済南攻撃による中国側の死傷者は済南惨案後援会代表が六月七日南京で報告したところによれば、死亡3600、負傷1400、財産損失約2600万元にのぼり、一方、第六師団の死傷は、死者25、負傷者157であった。福田師団長は報告した──「済南城陥落にともない支那側は無数の死者と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の威武は十分これを宣揚したり」

 東京では八日午前中、軍事参議官会議をひらいて済南事件の今後の措置を検討していたが、そのさい参考のため提出された諸案のなかには、事件解決のため一個師団を派遣して南京を保障占領する案もあったのである。おりしも済南での戦闘再開を伝える新聞号外が発行され、午後再開された閣議は、さらに一個師団の動員、平津方面への兵力増派(支那駐屯軍の交代繰上げ)を決定した。そして翌九日第三師団の動員が下令され、先遣隊は十七日から青島に上陸を始めた。安満(欽一)第三師団長は、参謀総長から「師団の主力を青島に待機させるのは、平津地方あるいは長江沿岸いずれにも出動し得るがためである」との指示を受けていた。
 
 五月中旬、北伐軍は石家荘、徳州の要衝を相ついで占領し、戦局の焦点は平津地帯に移り、ここでも北軍の敗退は必至とみられた。
 このような情勢において、山東の形勢を悪化させ、国民政府との対立をさらに激化させることは得策ではないとみた田中内閣は、山東での膺懲的行動をいちおう打切り、全精力を満蒙への動乱の波及防止に集中することとなったのである。しかし、膠済鉄道沿線が日本軍の実質的管理下にあることは依然として同じであり、済南の市況は振わず、六月になっても大商店はほとんど開店せず、事件前四十万に近いと称せられた人口も、約半減するという寂莫たる状況であった(日本軍の山東撤兵は翌1929年五月)。

 先行する関東軍
 山東出兵と同時に、関東軍が錦州、山海関方面への出動を考慮していたことは前にふれたが、関東軍は張作霖を下野させた上で、「帝国の要望に応ずる新政権を擁立し、該政府をして支那中央政府に対し独立を宣せしむ」との構想を抱いており、現在はその実現の絶好の機会だとしていたのである。
 北伐軍の平津地帯への目ざましい進撃を見た田中内閣は、さきに山東に派遣した混成第二十八旅団の満州復帰を決定するとともに、五月十六日の閣議で、戦乱が平津地方に進展した以後においては、南北いずれの軍隊であるとを問わず 、武装軍隊の満州出入を阻止し、両軍とも武装解除する方針を決定した。これは関東軍の上申を全面的に採択したものである。しかし内閣の基本方針は満州における張作霖勢力の温存であり、張との緊密な提携、張の傀儡化によって満蒙問題の解決を意図していた。奉天軍が早期に随意退却により、南軍と離隔して関外に撤退してくる場合には、これを収容する方針であり、北平撤退の迫った張作霖に対し、とくに山本条太郎満鉄社長を派遣して、鉄道利権を獲得させたのも、張温存を前提してのことであった。五月十七日深夜、北平の芳沢謙吉公使は、張作霖を訪問して、即刻関外に引揚げるように勧告し、一方上海でも矢田総領事が黄郛外交部長に対し、南軍が北軍を追って満州に侵入するときは日本軍は実力をもって阻止するむね通告した。北伐軍としては、今次の進撃の目標をいちおう平津地帯の回復に置いていたので、日本軍の警告は事実上の障害とはならなかった。白川陸相は十八日の閣議に満蒙への兵力増派を要請したが容れられなかった。関東軍の山海関方面出動については批判も多く、海軍の左近司(政三)軍務局長などは、「条約上の権利なくまた居留民保護の理由なき地方に他のいかなる理由をもって兵を用い得るや」と疑義を表明していたのである。(五月十九日、有田外務省亜細亜局長あて)

 現地の関東軍からは二十日から第十四師団の錦州派遣を実施するむね通報してきた。参謀総長は、軍の鉄道付属地以外への出動は、別命あるまで差しひかえるように指示したが、関東軍は折り返し、いま実行しない時は、「奉軍の東三省遁入阻止はもちろん、南軍の入満をも防ぎ得ざる」状況になる、と強硬に即時実施を要請した。鈴木総長は田中首相と会談したのち、奉勅命令の発布を二十一日と決定し、関東軍へ出動準備を命じた。二十一日、関東軍は終夜待機したが、奉勅命令は伝達されなかった。
 同日の関東軍斎藤参謀長の日記の一節に、「ついに奉勅命令下らず、いよいよ策により統帥が攪拌されありとの様子を承知し得たり。政府は始めから張作霖を随意退却なさしめてなんとかせんとの下心あるやに思われる。かくのごときは、政策により用兵を左右するものと思わざるべからず」とある。

 関東軍司令部はよく二十二日、奉天に進駐し、戦時体制を整えて引き続き焦燥のうちに待機した。しかし奉勅命令は発布されないままに、北軍は三十日、保定を放棄して総退却の形勢となり、張大元帥もやむなく六月三日、それでも威儀堂々と北平を退却、奉天に向け出発した。翌四日未明、平奉線と満鉄戦のクロス地点で張の乗用列車が爆破され、張が爆死したのはあまりにも著名な事実であり、爆破が関東軍参謀の計画であったことも、周知のとおりである。
 六月初旬、第三および第二集団軍はあいついで南苑に到着し、八日第三集団軍が北平に入り、平津衛戍総司令閻錫山も十一日入京、十二日には天津も接収されてここに革命軍の北伐の目的は、一応達成をみたのである。

 軽薄な対華認識
 1928年の四月から六月にかけて、北伐軍の華北進出をめぐって惹起された山東出兵、済南事件、張作霖爆殺という一連の事件は、日本陸軍の中国に対する感覚ないし思想を遺憾なく表現している。条約上の根拠をもたない、他国領土への派兵駐屯という重大事が、簡単に計画実施されるばかりでなく、「軍の威信保持」という名目のもとに、居留民保護の限界をはるかに逸脱した大規模な軍事行動の展開をみる。五月九、十日の済南城への攻撃、砲火の集中などは、まったく無用の軍事干渉であり、中国世論の一致した憤激の的となり、排日感を激発させ、以後の対日不信感の根源となったのである。
 河本関東軍参謀が張作霖を爆殺したことは、張を傀儡化することによって、満蒙問題を解決しようとしていた田中首相の構想を挫折させたのみならず、満州の反日傾向を明確にし、国民政府への統一化を促進させるという逆効果をもたらした。張作霖が反日化した基盤を考えずに、一張作霖をたおすことによって、時局の転換を企図した河本の計画は、張軍閥を温存利用しようとした田中の構想より、なお非現実的な発想であった。張の死後、田中の執拗なる警告にもかかわらず、張学良政権は、国民政府への合流を急いだのである。
 もっとも重大な責任は、陸軍の中国に対する積極的な対応を最大限に利用し、それを自己の政策展開の重要な槓桿(コウカン)にした田中内閣自体にあった。田中内閣は、軍の出兵・干渉方策を容認奨励するゼスチュアを示しながら、最後の段階になって、その発動を中止するという、危険な政策をとった。それゆえ、軍内部に田中不信の声がたかまるのは当然であった。そして、中国は広範囲に日貨ボイコットを展開し、田中外交に代表される日本の干渉政策にはげしい抵抗を試みるのであった。
                                       《白井勝美》 

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大日本帝国統治下の台湾における教育政策

2021年01月06日 | 国際・政治

 台湾でも、朝鮮とまったく同じ”教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス”と定めた「台湾教育令」(下記)が発布されていますが、それは朝鮮よりかなり後のことです。
 でも、台湾総督府直轄国語伝習所では、日本で「教育勅語」が発布されて間もない頃から、勅語の奉読が、盛んに行われていたといいます。また、第三代総督の乃木希典は、台湾での「教育勅語」の普及のために漢訳文を作り、「漢訳勅語」を各学校で奉読させるようにしていたといいます。下記の台湾総督府直轄国語伝習所規則には、”皇室ヲ尊ヒ本国ヲ愛シ人倫ヲ重ンセシメ以テ本国精神ヲ養成スルヲ旨トシ…”とあることから、そうした取り組みが進められたことは、当然のことであったと思います。

 ただ、台湾総督府国語学校規則第七条には、”語学部ニ国語学科及土語学科ヲ設ケ内地人ニハ土語学科ヲ本島人ニハ国語学科ヲ授ク”とあり、”内地人”対象ではあっても、学校で「土語(土着住民の言葉)」が教えられていたことは、朝鮮と大きく異なるのではないかと思います。

 それは、やはり台湾統治に至る歴史的経緯が朝鮮とは違う上に、台湾は民族的にも文化的にも複雑で、朝鮮と同じ政策を進めることが難しかったからだと思います。また、第四代台湾総督児玉源太郎が、内務省の官僚だった後藤新平を民政長官にして以降、一時的ではあっても、それまでの強硬な軍事的統治政策を修正し、「飴と鞭の政策」に変えたことなども影響したのではないかと思います。

 結局、後藤新平などが”社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである”という考えのもとに進めた「特別統治主義」、すなわち、台湾を日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するという政策は、その後、原敬などの考えに基づく「内地延長主義」、すなわち、台湾を内地の一部とし、内地法を適用するという政策に変えられ、「台湾教育令」に基づく教育が行われることになったのだと思います。
 台湾の人たちは、歴史や文化は無視され否定されて、朝鮮人と同じように、日本人に同化することを求められたということだと思います。

 だから、大日本帝国統治下の台湾における教育政策も、台湾の人たちの民族性を剥奪し、神話的国体観に基づく皇国日本の思想や制度を押しつけるものになってしまったと言っても過言ではないと思います。それは、西欧の植民地支配とは、異質だったのではないかと、私は思います。

 ”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず”(戦陣訓)
 という考えにつながる教育政策が、台湾でも進められたということです。

 下記は、「続・現代史資料(10) 教育 御真影と教育勅語 3」(みすず書房)から「八紘一宇への途」の「(二)台湾」の一部を抜粋したものです。
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                   八紘一宇への途
                   (ニ) 台湾
            一     
一 台湾総督府直轄国語伝習所規則(抄)  明治二十九年六月二十二日  台湾総督府令第十五号
台湾総督府直轄国語伝習所規則左ノ通相定ム

台湾総督府直轄国語伝習所規則
     第一章 本旨及種類
第一条 国語伝習所ハ本島人ニ国語ヲ教授シテ其日常ノ生活ニ資シ且本国的精神ヲ養成スルヲ以テ本旨トス
〔略〕
第十一条 年中休業日ハ左ノ如シ
 一 日曜日
 一 祝日大祭日
 一 夏期休業日   七月十一日ヨリ八月三十一日ニ至ル
 一 年末年始休業日 十二月二十九日ヨリ翌年一月三日ニ至ル
 〔略〕
第三章 教授ノ要旨及教科ノ程度等
第十三条 本所ハ国語ノ伝習ヲ以テ本旨トスト雖常ニ道徳ノ教訓ト智能ノ啓発トニ留意スルヲ要ス
道徳ノ教訓ハ 皇室ヲ尊ヒ本国ヲ愛シ人倫ヲ重ンセシメ以テ本国精神ヲ養成スルヲ旨トシ智能ノ啓発ハ世ニ立チ業ヲ営ムニ必須ナル知識技能ヲ得シムルヲ旨トス

     二
台湾総督府国語学校規則〔抄〕 明治二十九年九月二十五日  台湾総督府令第三十八号
台湾総督府国語学校規則左ノ通相定ム
台湾総督府国語学校規則
第一章 学校ノ区分及本旨
第一条 国語学校ハ分チテ師範部及国語部トシ且附属学校ヲ仮設ス
第二条 国語学校師範部ハ国語伝習所並師範学校ノ教員及小学校ノ校長若クハ教員タル者ヲ養成シ兼テ本島ニ於ケル普通教育ノ方法ヲ研究スル所トス
第三条 国語学校語学部ハ国語及土語ヲ教授シ兼テ他日本島ニ於テ公私ノ業務ニ就カムトスル者ニ須要ナル教育ヲ施ス所トス
第四条 国語学校附属学校ハ内地人ノ学齢児童並本島ノ幼年及青年者ニ須要ナル教育ヲ施シテ本島ニ於ケル普通教育ノ模範ヲ示シ且師範部ノ生徒実地教授練習用ニ供スルモノトス
     第二章 学校ノ編制
第五条 師範部ノ生徒ハ年齢十八歳以上三十歳以下ノ内地人ニシテ尋常中学校の第四年生以上ノ学力アルモノトシ語学部ノ生徒ハ年齢十五歳以上二十五歳以下ニシテ高等小学校卒業以上ノ学力ヲ有する内地人及国語学校附属学校又ハ国語伝習所ノ卒業生以上ノ学力アル本島人トス
附属学校ノ生徒ハ学齢内地人並年齢八歳以上二十五歳以下ノ本島人トス
〔略〕
第七条 語学部ニ国語学科及土語学科ヲ設ケ内地人には土語学科ヲ本島人ニハ国語学科ヲ授ク
〔略〕
第十五条 年中休業日ハ左ノ如シ
 一 日曜日
 一 祝日大祭日
 一 学年末  三月二十九日ヨリ三月三十一日ニ至ル
 一 夏季   七月十一日ヨリ八月三十一日ニ至ル
 一 年末年始 十二月二十九日ヨリ翌年一月三日ニ至ル
〔略〕
 ・・・以下略

     十二
 台湾教育令〔抄〕   大正八年一月四日 勅令第一号
   台湾教育令
    第一章 総則
第一条 台湾ニ於ケル台湾人ノ教育ハ本令ニヨル
第二条 教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルヲ以テ本義トス
第三条 教育ハ時勢及民度ニ適合セシムルコトヲ期スヘシ
第四条 教育ハ之ヲ分チテ普通教育、実業教育、専門教育及師範教育トス  
第二章 普通教育
 ・・・以下略


     一三      
 台湾教育令制定ノ趣旨   大正八年二月一日 台湾総督府論告 第一号

帝国ノ台湾ヲ当地スルコト既ニ二十有余年揚文興化ノ跡歴然見ルヘキモノアリ今ヤ教育ノ方針ヲ確立シ洽(アマネ)ク庶民ヲシテ其ノ率由スル所ヲ知ラシムルハ蓋シ刻下ノ急務ナルヘシ是レ台湾教育令ノ発布ヲ見ルニ至リタル所以ナリ
恭シク惟(オモイミ)ルニ
先帝夙(ツト)ニ郷党痒序ノ教ヲ軫念(シンネン)シ竟(ツイ)ニ教育勅語ヲ宣布シ以テ帝国学政ノ根本義ヲ示シ給ヘリ是レ実ニ千古不磨ノ典謨(テンボ)謨謨ニシテ乾坤(ケンコン)ノ柱礎(チュウソ)復タ此ノ他ニ出ツ可カラス茲ニ台湾教育令ヲ施行スルニ方リ固ヨリ之ヲ奉体シテ唯一ノ憲章ト為スハ論ヲ俟タス 叡慮(エイリョ)ノ存スル所モ蓋シ亦述ヘテ作ラサルニ在ルナリ庶民宜シク斯旨ヲ遵守シ以テ文教ノ大義ヲ愆(アヤマ)ル勿カレ徒ニ奇ヲ好ミ新ヲ趁(オ)フテ軽佻浮薄ノ俗ヲ成シ或ハ旧套(キュウトウ)ヲ墨守(ボクジュ)シテ毫モ文化ノ推移スル所ヲ知ラサルカ如キハ倶(トモ)ニ是レ本令発布ノ趣旨ニ協治スル所以ニ非サルナリ
台湾ノ教育ハ之ヲ分チテ普通教育、実業教育、専門教育、師範教育ノ四トス通教育ハ国語ヲ教ヘ日常生活ニ必須ナル知識技能ヲ授クルヲ目的トシ女子ニ在リテハ特ニ貞順温和ノ徳ヲ養ハシメ実業教育専門教育倶ニ其ノ必要ナル学術技芸ヲ授クルヲ以テ主ト為ス而シテ師範教育ニ在リテハ特ニ品性ノ陶冶ト国語ノ習熟トニ其ノ能力ヲ傾注セシメ以テ普通教育ノ淵源ヲ作ラムコトヲ要ス然レドモ各種ノ教育ニ於テ其ノ徳性ヲ涵養スルハ根本ノ大義ニシテ敢テ其ノ問ニ軽重アルコトナキハ昭トシテ明ナリ今ヤ総督府ハ学制ヲ統一スルノ必要ヲ認メ専門教育ヲ施ス学校ヲ官立ニ限リ師範並普通教育ヲ施ス学校ヲ官立若クハ公立ニ限レリ是レ即チ前者ニ在リテハ時勢ト民度トニ適応スヘキ諸般ノ設備ヲ為スノ必要アリ後者ニ在リテハ国民性涵養ノ統一機関トシテ特ニ其ノ必要アルカ為ナリ若夫レ本令ニ掲クル以外ノ特殊学校其ノ他ノ教育施設旧私立学校ニ関シテハ本令ノ趣旨ニ依リ各般ノ事情ヲ斟酌シ漸次其ノ規定ヲ設ケテ準拠スル所ヲ示サムトス
要スルニ台湾ノ教育ハ現時世ニ於ケル人文発達ノ程度ヲ観察シ島民ヲシテ之ニ順応スル智能ヲ啓発セシメ徳性ヲ涵養シ国語ヲ普及セシメ以テ帝国臣民タルヘキ資質ト品性トヲ具備セシメムトスルニ在リ台湾ノ民衆ニ克ク此ノ精神ヲ体得シ各其ノ分ニ応シ子弟ヲシテ就学セシムルアラハ庶幾クハ帝国ノ隆運ニ伴フテ常ニ浩蕩(コウトウ)タル聖恩ニ沐浴シ光栄アル帝国ノ臣民トシテ永ク太平ノ楽ヲ享クルヲ得ム惟其レ遵行シテ以テ違フ毋(ナ)カレ

     一四
 台湾教育令制定について   大正八年二月一日 民生部、庁、官立学校、公立学校ヘ台湾総督府訓令第十二号

台湾教育令新タニ発布セラレ学制ノ方針茲ニ明カニ施設ノ綱要モ亦始メテ定ル今之カ実施ニ際シ洽ク民衆ニ諭告(ユコク)スルト同時ニ諸官ニ訓示シ以テ其ノ遵奉スル所以ノ途ヲ一ニセシメントス粤(ココ)ニ稽(カンガ)フルニ我カ邦ノ教育勅語ハ千古不磨ノ大訓ニシテ乾坤ヲ貫キ古今ヲ通シ炳焉(ヘイエン)タルコト日星ノ若シ苟モ帝国ノ臣民タルモノ其レ孰(イズレ)カ之ヲ服膺セサラム殊ニ教育ニ従事スル者ハ須ラク此ノ 聖慮ニ基キ広ク子弟ヲ指導誘掖(ユウエキ)シ以テ其ノ大本ヲ謬ル勿カラムコトヲ要ス
我カ台湾ノ皇化ニ浴スルヤ未タ久シカラスト雖教育ノ本義ニ至テハ即チ復タ先帝ノ教育勅語ヲ憲章シ洽ク島民ヲシテ之ニ率由(ソツユウ)セシムルコト儼(ゲン)トシテ敢テ渝(カワ)ルコト旡(ツク)シ唯須ラク民度ノ適スル所ヲ察シ緩急其ノ序ヲ失ハス学ヲ奨メ業ヲ励マシ博ク島民ノ知識ヲ啓発シ母国ノ文明ト倶ニ渾然融化セシムルヲ得ハ本令発布ノ旨復タ壙(ムナ)シカラス諸官其レ克ク之ヲ期スヘシ


          
        

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