日本では、済南事件(中国では「五・三惨案」)について、”国民革命軍の一部による日本人襲撃、虐殺事件”として、その残虐性を強調する声を時々耳にし、目にします。多くの日本人を襲撃して殺したのですから、確かにそれは残虐な行為であったに違いありません。でもその際、日本軍が戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時(中華民國外交官員)をはじめ、原則的に無抵抗の済南交渉公署職員八名、勤務兵七名、まかない夫一名計十六名を殺害した事実が考慮されなければ、済南事件の全貌を正しく理解しているとは言えないように思います。国民政府が蔡特派交渉員殺害事件を、”日本軍による、外交官に対する不法きわまりない残虐行為”と受け止めたことは、その後のトラブルの展開と無関係ではありえず、客観的な理解が、正しい歴史認識のために欠かせないと思います。
田中内閣は1927年の国民政府の北伐に際し、山東への出兵を決定しましたが、それは、済南および膠済沿線の日本人を保護するという名目でした。4月19日第六師団の山東派遣を命ずるとともに、支那駐屯軍より歩兵三中隊を済南に急派したといいます(二十日夜済南着)。そして、済南商埠地(ショウフチ)の警備にあたらせたのです。
でも、国民政府の北伐は中国の内部抗争です。だから、田中内閣の突然の出兵措置を、当時の『朝日新聞』社説は、「外交抜きの出兵を無造作にやることは、無策を通り越した無謀である。現内閣の行ふところは出兵だけである。流石に出兵だけはきびきびしてゐる」と皮肉ったのだと思います。
朝日新聞が皮肉った無謀な出兵が、現実に残虐事件に発展するわけですから、済南事件の客観的理解は重要だと思うのです。
それで思い出すのが、日清戦争に至る、日本軍の朝鮮出兵です。朝鮮で東学党の乱といわれる反乱が起きた際、当時の朝鮮における李王朝は、鎮圧のために清に援助を求めました。でも、清の派兵に呼応して、日本は清を遥かに上回る8,000 人ともいわれる軍を朝鮮に派兵したといいます。そのときも日本人居留民の保護が名目でした。でも、居留民の保護が名目の日本軍が、その後朝鮮王宮を占領し、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃・閔妃を殺害するに至り、日清戦争に発展するのです。朝鮮の内部争いに伴う居留民の保護が、どうしてそういうことに発展するのか、考えさせられます。
日本側にもいろいろな言い分があったのでしょうが、当時の朝鮮における大鳥公使が、朝鮮政府に清兵の撤退に関し最後通牒をにつきつけたという事実や、大鳥公使の意を受けて、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ね、下記のような依頼をしたという事実は、やはり居留民の保護とはいえず、異常だと思います。
”ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来り。因(ヨ)って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出でんがため、本日該政府に向って清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を二十二日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君(テウオングン)〔李昰応(イハウン)〕を推して入闕(ニュウケツ)せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘(ゲキジョウ)を我に嘱託せしむるを得べし。…。”
(『明治廿七八年日清戦史第二冊決定草案自第十一章至第二十四章』福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵)
軍人勅諭には、
”我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものとも(服従しないものども)を討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ…”
とありますが、私は、こうした済南や朝鮮に対する日本人居留民保護を名目とする派兵に、”皇国の威徳を四海に宣揚”しようとする侵略の意図があらわれているように思うのです。
だから、日本の戦争の過ちをしっかり踏まえた外交をしなければ、日韓、日中の関係改善はできないだろうと思います。
戦時中の日本軍「慰安婦」の問題で、韓国との関係が再び急速に悪化していますが、当事者やその支援団体を無視した政治結着によって、「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」などと、どんなに強調しても、それは根本的な解決にはならないだろうと思います。
当事者やその支援団体が求め、また、国連人権委員会のラディカ・クマラスワミやゲイ・マクドゥーガル特別報告者が、日本政府に勧告したような法的責任に向き合わなければ、当事者の尊厳は回復されないからです。大事なのは道義的責任ではなく、日本政府の法的責任なのだと思います。また、道義的責任に基づく償いではなく、法的責任に基づく賠償が求められるのだと思います。それは、当事者の尊厳に関わる問題であり、金額の問題ではないとも思います。
さらに言えば、日本軍「慰安婦」の問題(国際的には、旧日本軍性奴隷問題)は、法的責任を回避し、旧日本軍の”誇り”を守ろうとする日本政府の関係者と、自らの”尊厳”の回復を求める元「慰安婦」の人たちの争いと言ってもいいように思います。
下記は、「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から「泥沼戦争への道標 ─ 済南事件 ─」を抜粋しました。
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泥沼戦争への道標 ─ 済南事件 ─
南京国民政府は、1928(昭和三)年初め、蒋介石を北伐軍総司令官兼第一集団軍司令に、馮玉祥
(フウギョクショウ)、閻錫山(エンシャクザン)を第二、第三集団軍総司令にそれぞれ任命し、第一集団軍は津浦線に沿って、第二集団軍は平漢線沿線を急進北上し、第三集団軍は西方から北平を衝き、平津地帯で合流するという作戦計画を樹立した。
蒋総司令は四月一日大本営を徐州に進め、いよいよ北伐戦の再開となった。北伐を前にして蒋介石は三月六日南京で、とくに日本新聞記者を招宴し、次の二点を強調した。
第一に国民政府はすでにソビエトとは絶交していること、また革命を妨害しない列国とはよろこんで連合する方針で、ことに、日本とは孫文総理が日本で同盟会を組織していらいの関係もあることゆえ、日本が国民革命の意義を了解し妨害を与えないことを要請した。ついで蒋は郭松齢事件(1925年、張作霖の部将郭松齢が反逆し、張は非常な窮地に陥ったが、関東軍の援助によってようやく郭軍を覆滅した)の顛末に関連させて、今次の北伐の対象が東三省ではなく黄河流域であることを暗示した。北伐の目標を黄河流域に限定し、東三省を一応除外したのは、日本の田中義一内閣が成立(昭和二年四月)いらい、満蒙の治安維持に強硬な決意を表明しているためであった。
田中内閣の反応
田中内閣の中国政策の基本は、中国本部の内戦や、政権の変更に影響されない満蒙の建設、満蒙の特殊地位化にあった。しかし、満蒙はすでに第一次大戦後急激に勃興してきた中国のブルジョワジーにとって、欠くべからざる市場であり、満蒙を含めての中国の統一の実現が、新国民政府によせられた期待であったのである。ここに田中内閣の中国政策と中国側との、根本的に相容れない矛盾があったが、国民政府としては、現段階においては北伐を一応中国本部に限定することによって、予想される日本の干渉を排除あるいは緩和しようとしたのであった。
北方では奉天軍閥の張作霖が北京に大元帥府を組織し、赤化している国民革命軍を討つという名義で安国軍七個軍団を率い、その兵力100万と呼号していた。しかし実質的には、張宗昌(チョウソウショウ)、孫伝芳(ソンデンホウ)の軍閥軍隊は士気がすでに凋落沮喪しており、ただ張作霖自身の基幹部隊が信頼しうるに過ぎなかった。南北両軍の間で戦闘が開始されると、北軍はたちまち潰走し、戦火は山東省膠済鉄道(コウサイテツドウ)沿線(青島─済南)に迫ってきた。
田中内閣は前年(1927)の北伐にさいしても、山東への出兵を断行したのであるが、今度も済南および膠済沿線の日本人を保護するため出兵を決定し、四月十九日第六師団の山東派遣を命ずるとともに、支那駐屯軍より歩兵三中隊を済南に急派(二十日夜済南着)。第六師団の司令部は二十五日青島に上陸し、ただちに歩兵第十一旅団(少将斎藤瀏が指揮)を済南に派遣し、翌二十六日朝より済南商埠地(ショウフチ)の警備にあたらせた。
田中内閣の急速な出兵措置を四月二十五日の『朝日新聞』社説は、「外交抜きの出兵を無造作にやることは、無策を通り越した無謀である。現内閣の行ふところは出兵だけである。流石に出兵だけはきびきびしてゐる」と皮肉っている(昭和二年末の山東省の在留邦人は青島に一万三千名、済南に二千百名で、事業投資も青島に約6600万円、済南に500万円で、青島がもっとも重要な地位を占めていた)。
鈴木(荘六)参謀総長が福田(彦助)第六師団長に与えた指示には、中国の内争への不干渉を命ずるとともに、「国家および国軍の威信を保持するため、任務の達成上必要なる場合においては武力を使用することを得」とも書いてあった。
中央が山東出兵を決定した翌二十日には、関東軍は参謀長斎藤恒の名で、畑(英太郎)陸軍次官および南(次郎)参謀次長あてに次のような意見を具申した。すなわち、張作霖の奉天軍二十万が東三省に敗退してくる場合には、満蒙の治安は擾乱(ジョウラン)せられるので、戦乱の余派を満州に波及させないため自衛手段をとるべきむね、あらかじめ声明する必要があること、関東軍としては、奉天軍または南方革命軍がその声明をかえりみず武装軍隊をもって関外にはいる場合は、機を失せず「駐留師団の主力を山海関または錦州付近に進め両軍のいずれたるを問はず武力をもってその侵入を阻止し、要すれば武装解除を行ひたる後その通過を許す」意向であることなどを上申したのである。
済南への無造作な出兵とあいまって、陸軍中央および関東軍には、南方革命軍の北伐に対し武力的干渉を辞さないとする雰囲気が濃厚にみられたのであった。
五・三惨案
済南商埠地にはいった第十一旅団は、商埠地内に東西二カ所の遮断区域を設けて守備地区にあて、非常の場合にはこの地域内に居留民を収容保護し、地域内への南北両軍の侵入を絶対に防止する方針をとった。
四月二十九日の天長節を迎えた日本軍は、総領事館前街頭で観兵式を挙行して軍威を示した。同日朝、済南の南方、界首は陥落し、退却する北軍で商埠地内外を通過して北方に逃亡するものの数が多くなった。三十日も朝から北軍の敗残部隊は陸続きとして日本軍の指定した退却通路を流れて行ったのである。
翌五月一日には南軍の第九軍および第四十軍の先頭が商埠地に達し、一部は指定通路を軍歌を歌いラッパを吹奏しながら通過して済南域に入城した。北伐軍が入城すると済南域内は青天白日旗であふれた。済南衛戍(エイジュ)司令を命ぜられた第四十一軍長の方振武は二日午前、斎藤旅団長を訪ね、総司令蒋介石も同日入城した。
斎藤旅団長は南軍入城の模様を、「南軍の済南に到着するもの数万におよびしが、軍紀比較的厳粛いずれも日本軍に対し敬意を払い、なんら不快なる交渉事件も起さず、市内は平穏裡に全く南軍の手に帰したり」と報告した。一方、福田第六師団長も二日済南に到着した。
日本軍は二十九日以来守備線に土嚢をつんで防御工事を構築した上、鉄条網で掩護するなど緊張した雰囲気で北伐軍を迎えたのであるが、平穏な入城を見た斎藤旅団長は、守備区域と防御施設を撤廃するよう命令を下し(五月二日午後三時)、同時に済南の治安維持を南軍総司令蒋介石に一任し、南軍の守備区域内への出入りを認めるよう訓示した。翌三日は商店も一斉に開店し、西田(畊一)総領事代理も蒋総司令を訪問して事故の発生しなかったことを祝し、守備地区内に避難していた邦人も帰宅したりして楽観的な気分が横溢した。
が、午前十時、麟址門街に日中両軍の小衝突が起り、たちまち全商埠地および隣接街区に戦闘が波及し、いわゆる五・三惨案(悲惨なる事件)の勃発をみたのである。商埠地の各所で小戦闘が展開されながら夜にはいったが、夜半両軍のあいだに商埠地内の中国軍隊の退去に関し協定が成立し、四日午前中には大部分の撤退をみた。福田師団長の表現によれば「張合いのない」南軍の態度であった。
五月三~四日の戦闘で注目すべき点を二、三挙げてみよう。戦闘に参加した日本軍は約三千五百の兵員で死者十名、負傷四十一名を出した。一方南軍の俘虜は将校以下1179名、戦利品は小銃2297その他である。激烈な市街戦としては日本軍の死傷者が意外に少ないことがわかる。商埠地周辺の南軍約二万は全然戦闘に参加せず、商埠地内の軍隊もほとんど散発的な抵抗しかしなかったのではないかと推察される。商埠地外にいた日本居留民の惨殺された者十二である。中国側をもっとも憤激させたのは、三日夜、戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時をはじめ済南交渉公署職員八名、勤務兵七名、まかない夫一名計十六名が殺害されたことであった。蔡主任の殺害は次のような状況のもとにおきた。
蔡主任が北伐にともなう外国居留民との折衝の任にあたることは、国民政府から四月二十三日、上海の矢田(七太郎)総領事に通告されていた。五月三日、蔡は済南商埠地の旧山東交渉公署で執務を開始したが、同日午前、公署建物前の道路でも戦闘があり、日本兵二名が射殺された。この日本兵士に対する狙撃が交渉公署の楼上からおこなわれたと認知した日本軍は、夜間にいたって公署の捜査を実施した。そのさい突然地下室から拳銃の発射を受けたので、ただちに応射するとともに、署内の十六名を射殺または刺殺した。街路上の戦闘に対し交渉公署楼上から狙撃があったこと、室内捜査のとき拳銃が発射されたことは認めなかったが、昼間、公署前の戦闘を楼上から勤務兵が目撃していたのは中国側も認めるところであった。しかし、蔡主任以下の職員は原則的に無抵抗であったのであり、交渉公署の性格上からも全員をただちに刺殺したことは過当措置であったといえよう。
国民政府は蔡特派交渉員殺害事件を、外交官に対する不法きわまりない日本軍の残虐行為としてセンセーショナルに報道し、各地で追悼集会を開催したりした。
「誓雪済案国恥、打倒日本帝国主義! 蔡先生精神不死、為諸烈士復仇!」とは国民党の宣伝伝単(ビラ)の一節である。
山東の形勢悪化
五月三日午後六時過ぎ、済南商埠地における日中両軍衝突の報告を受けた参謀本部は、ただちに積極的な反応を示した。まず第六師団長に対し、「国軍の威信を傷つけざるごとく考慮を望む」と打電し、ついで混成約一旅団の増派を内報し、また、「事態の発展にともない内地より徹底的に増派せらるべきにより、このさい断乎たる処置」をとるよう激励したのである。
翌四日、現地の福田師団長は、事件は一応解決したが、済南付近に宿営していた北伐軍はすくなくとも四万あり、しだいに日本軍に悪感情を抱くようになってきたので、現在こそ中国問題解決のため「南方に対し断然たる膺懲の挙にいづるの好機なりと信ず」と具申し、参謀本部と現地は本事件を利用して南軍を膺懲することに完全に意見の一致をみた。
田中内閣は四日緊急閣議をひらき、一個旅団の派遣を決定した。白川(義則)陸相は、政府は今後増派する場合は大々的に出兵する意向であると鈴木総長につげた。そこで南参謀次長は五日午後二時、第六師団長に対し、「貴官は安心して当面の事件を有耶無耶に終わらざるよう」解決されたいと、賀耀祖(第四十軍団長)の峻厳なる処刑その他の要求条項を指示した。南の見解によれば、済南事件は過去数年にわたる中国人の対日軽侮心の反映であり、国家と国軍威信の発揚上徹底的に糾弾する必要があるのであった。
このような陸軍中央および政府の積極的な支持を背景として(関東軍から派遣された混成第二十八旅団は五月六日午後すでに青島に上陸)、福田師団長は南軍への重大な軍事干渉、すなわち状況によっては、「全南軍を敵とし断然戈をとって起つ」ことを決意した。そのためまず、五月七日午後四時、南軍に対し、
一、騒擾及暴虐行為に関係のある高級武官の峻厳なる処刑
一、日本軍の面前において我軍に抗争した軍隊を武装解除する
一、南軍は済南および膠済鉄道両側沿線二十支里以外の地に離隔する
など⑦五箇条の要求を手交し、十二時間以内の回答を迫った。
三日の事件後、蒋総司令官は少数の治安維持部隊を除いて軍を済南から撤退のうえ迂回北上させることを決定し、六日早朝には蒋総司令も済南城を撤退した。同日第一集団軍黄河渡河を開始し、徳州に向け進撃を開始した。蒋が福田師団長の期限付通牒をうけとったのは泰山にいく途中であったが、泰安で回答を作成し、羅家倫、熊式輝がこれを商埠地の師団司令部に持参し福田師団長と会見した。おそらく八日正午近くであったろうと推察される。
蒋総司令の回答は、責任ある軍隊は調査ののち処分するが、日本軍側でも同様に処分ありたいこと、膠済鉄道二十支里以内にはしばらく駐兵はしないが、済南には相当軍隊を駐留させること、などであり、もとより日本側の満足し得ないところであった。
九日午前七時羅代表の報告を受けた蒋は、第四十軍団長賀耀祖の免職と、済南への不駐兵等を譲歩した上で、総参議の何成濬を再び派遣したが、すでに日本軍は済南総攻撃を開始したのであった。
福田師団長の要求内容と午後四時から十二時間すなわち翌朝四時までの回答期限に関しては、中国側からのみならず、日本側からも批判があった。しかし、すでに問題は居留民の保護ではなく、南軍膺懲にあったのである。八日から日本軍は攻撃を開始して済南周辺の南軍を掃蕩し、九日と十日の両日には昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせた。夜は火焔が天を焦し、済南城内は逃げまどう住民たちの阿鼻叫喚の巷となった。そうして十日深夜、南軍は退去し、あくる十一日には済南城は日本軍の占領するところとなった。
日本軍の済南攻撃による中国側の死傷者は済南惨案後援会代表が六月七日南京で報告したところによれば、死亡3600、負傷1400、財産損失約2600万元にのぼり、一方、第六師団の死傷は、死者25、負傷者157であった。福田師団長は報告した──「済南城陥落にともない支那側は無数の死者と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の威武は十分これを宣揚したり」
東京では八日午前中、軍事参議官会議をひらいて済南事件の今後の措置を検討していたが、そのさい参考のため提出された諸案のなかには、事件解決のため一個師団を派遣して南京を保障占領する案もあったのである。おりしも済南での戦闘再開を伝える新聞号外が発行され、午後再開された閣議は、さらに一個師団の動員、平津方面への兵力増派(支那駐屯軍の交代繰上げ)を決定した。そして翌九日第三師団の動員が下令され、先遣隊は十七日から青島に上陸を始めた。安満(欽一)第三師団長は、参謀総長から「師団の主力を青島に待機させるのは、平津地方あるいは長江沿岸いずれにも出動し得るがためである」との指示を受けていた。
五月中旬、北伐軍は石家荘、徳州の要衝を相ついで占領し、戦局の焦点は平津地帯に移り、ここでも北軍の敗退は必至とみられた。
このような情勢において、山東の形勢を悪化させ、国民政府との対立をさらに激化させることは得策ではないとみた田中内閣は、山東での膺懲的行動をいちおう打切り、全精力を満蒙への動乱の波及防止に集中することとなったのである。しかし、膠済鉄道沿線が日本軍の実質的管理下にあることは依然として同じであり、済南の市況は振わず、六月になっても大商店はほとんど開店せず、事件前四十万に近いと称せられた人口も、約半減するという寂莫たる状況であった(日本軍の山東撤兵は翌1929年五月)。
先行する関東軍
山東出兵と同時に、関東軍が錦州、山海関方面への出動を考慮していたことは前にふれたが、関東軍は張作霖を下野させた上で、「帝国の要望に応ずる新政権を擁立し、該政府をして支那中央政府に対し独立を宣せしむ」との構想を抱いており、現在はその実現の絶好の機会だとしていたのである。
北伐軍の平津地帯への目ざましい進撃を見た田中内閣は、さきに山東に派遣した混成第二十八旅団の満州復帰を決定するとともに、五月十六日の閣議で、戦乱が平津地方に進展した以後においては、南北いずれの軍隊であるとを問わず 、武装軍隊の満州出入を阻止し、両軍とも武装解除する方針を決定した。これは関東軍の上申を全面的に採択したものである。しかし内閣の基本方針は満州における張作霖勢力の温存であり、張との緊密な提携、張の傀儡化によって満蒙問題の解決を意図していた。奉天軍が早期に随意退却により、南軍と離隔して関外に撤退してくる場合には、これを収容する方針であり、北平撤退の迫った張作霖に対し、とくに山本条太郎満鉄社長を派遣して、鉄道利権を獲得させたのも、張温存を前提してのことであった。五月十七日深夜、北平の芳沢謙吉公使は、張作霖を訪問して、即刻関外に引揚げるように勧告し、一方上海でも矢田総領事が黄郛外交部長に対し、南軍が北軍を追って満州に侵入するときは日本軍は実力をもって阻止するむね通告した。北伐軍としては、今次の進撃の目標をいちおう平津地帯の回復に置いていたので、日本軍の警告は事実上の障害とはならなかった。白川陸相は十八日の閣議に満蒙への兵力増派を要請したが容れられなかった。関東軍の山海関方面出動については批判も多く、海軍の左近司(政三)軍務局長などは、「条約上の権利なくまた居留民保護の理由なき地方に他のいかなる理由をもって兵を用い得るや」と疑義を表明していたのである。(五月十九日、有田外務省亜細亜局長あて)
現地の関東軍からは二十日から第十四師団の錦州派遣を実施するむね通報してきた。参謀総長は、軍の鉄道付属地以外への出動は、別命あるまで差しひかえるように指示したが、関東軍は折り返し、いま実行しない時は、「奉軍の東三省遁入阻止はもちろん、南軍の入満をも防ぎ得ざる」状況になる、と強硬に即時実施を要請した。鈴木総長は田中首相と会談したのち、奉勅命令の発布を二十一日と決定し、関東軍へ出動準備を命じた。二十一日、関東軍は終夜待機したが、奉勅命令は伝達されなかった。
同日の関東軍斎藤参謀長の日記の一節に、「ついに奉勅命令下らず、いよいよ策により統帥が攪拌されありとの様子を承知し得たり。政府は始めから張作霖を随意退却なさしめてなんとかせんとの下心あるやに思われる。かくのごときは、政策により用兵を左右するものと思わざるべからず」とある。
関東軍司令部はよく二十二日、奉天に進駐し、戦時体制を整えて引き続き焦燥のうちに待機した。しかし奉勅命令は発布されないままに、北軍は三十日、保定を放棄して総退却の形勢となり、張大元帥もやむなく六月三日、それでも威儀堂々と北平を退却、奉天に向け出発した。翌四日未明、平奉線と満鉄戦のクロス地点で張の乗用列車が爆破され、張が爆死したのはあまりにも著名な事実であり、爆破が関東軍参謀の計画であったことも、周知のとおりである。
六月初旬、第三および第二集団軍はあいついで南苑に到着し、八日第三集団軍が北平に入り、平津衛戍総司令閻錫山も十一日入京、十二日には天津も接収されてここに革命軍の北伐の目的は、一応達成をみたのである。
軽薄な対華認識
1928年の四月から六月にかけて、北伐軍の華北進出をめぐって惹起された山東出兵、済南事件、張作霖爆殺という一連の事件は、日本陸軍の中国に対する感覚ないし思想を遺憾なく表現している。条約上の根拠をもたない、他国領土への派兵駐屯という重大事が、簡単に計画実施されるばかりでなく、「軍の威信保持」という名目のもとに、居留民保護の限界をはるかに逸脱した大規模な軍事行動の展開をみる。五月九、十日の済南城への攻撃、砲火の集中などは、まったく無用の軍事干渉であり、中国世論の一致した憤激の的となり、排日感を激発させ、以後の対日不信感の根源となったのである。
河本関東軍参謀が張作霖を爆殺したことは、張を傀儡化することによって、満蒙問題を解決しようとしていた田中首相の構想を挫折させたのみならず、満州の反日傾向を明確にし、国民政府への統一化を促進させるという逆効果をもたらした。張作霖が反日化した基盤を考えずに、一張作霖をたおすことによって、時局の転換を企図した河本の計画は、張軍閥を温存利用しようとした田中の構想より、なお非現実的な発想であった。張の死後、田中の執拗なる警告にもかかわらず、張学良政権は、国民政府への合流を急いだのである。
もっとも重大な責任は、陸軍の中国に対する積極的な対応を最大限に利用し、それを自己の政策展開の重要な槓桿(コウカン)にした田中内閣自体にあった。田中内閣は、軍の出兵・干渉方策を容認奨励するゼスチュアを示しながら、最後の段階になって、その発動を中止するという、危険な政策をとった。それゆえ、軍内部に田中不信の声がたかまるのは当然であった。そして、中国は広範囲に日貨ボイコットを展開し、田中外交に代表される日本の干渉政策にはげしい抵抗を試みるのであった。
《白井勝美》