評伝社から出版された「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」の著者「Harold John Timperley」の日本語表記は、同書では「ティンバーリイ」となっているが、いろいろあり、多くの場合「ティンパーリ」とか「ティンパレー」などと表記されているようである。そして、彼は「南京大虐殺はなかった」と主張する人たちから「南京大虐殺を造りあげた中心人物」と見なされているようである。
ティンパーリは、当時南京にはおらず上海で活動していたのにも関わらず「外国人の見た日本軍の暴行」を出版したことが一因のようである。しかし、彼は、当時南京にいた残留外国人が友人に宛てた手紙や報告、南京難民区国際委員会が日本大使館をはじめ米・英・独大使館等に発した公信、また上海全国基督教総会に宛てた電報等をそのまま利用して同書を出版するに至った事実を見逃してはならないと思う。
ティンパーリは同書の「序」に、一新聞記者としての職責から南京の情報をマンチェスター・ガーディアン紙に送らなければならないと考え記事を打電したが、上海の日本側電報検閲官に差し止められ、何度交渉しても受け入れられなかったと書いている。そこで彼は、「文献証拠」の「蒐集」を決意し、それを公表すべく、同書の著述・出版に取り組んだという。
そして、同書に「載録した記録、報告、文件」は「絶対に信頼し得べき第三者の提供したものに限り」、また、「個人的書信類も純然たる個人的書信ならびに友人関係の通信を除いた原文の抄録を採用し、その真実性の保持に努めた」と書いている。さらに、付録四とした文件(「国際委員会書簡文」)は、全文を引用し、また書信類および文件の原文、複写はすべて眼を通して保存し、写真およびその他の証拠は「再検に備えた」という。
上海で活躍したティンパーリが多くの中国人の信頼を得て、中国で様々な役割を引き受けていたとしても不思議ではない。しかしそれを根拠に、「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」に書かれていることが、全部「嘘」であり、「でっち上げ」であり、「捏造」であると全否定するのは、いかがなものかと思う。また、同書を読めば、彼が当時南京いたかどうかは問題ではないことがわかる。
下記は、同書の第一章「南京の生き地獄」からの抜粋であるが、大部分、当時南京に残留した2人の外国人が友人に宛てた手紙の文章である。彼自身は、南京の事件に関しては何も書いていない。
その第二章「掠奪、虐殺、強姦」は、「16日以後の事件について、彼は日記に次のように記している」とはじまる残留外国人(一章と同じ)の日記文である。
第三章「甘き欺瞞と血腥き暴行」は「昨年12月下旬、日本軍当局は金陵大学(米国系クリスチャン学校にして50年前に設立さる)の難民3万余名に対し登記を命令した。南京の居住者は一人残らず登記しなければならなかった。同校の外国人教授は12月31日の覚書と1月3日の日記に基づいて、1月25日左のごとき報告を寄せている」とはじまる報告文である。
以下同様で、その第八章まで、ほとんどティンパーリが「絶対に信頼し得べき第三者」から「蒐集」したという資料の文章なのである。第九章の「結論」のみがティンパーリの文章であるといえる。そして、付録として日本当局に提出された暴行報告や日本の報道記事、国際委員会の書簡文、各城市攻略の日本軍部隊などの資料を付けているのである。
下記は、「実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著・訳者不詳(評伝社)(What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor GollanczLtd,1938)から「第一章」の一部を抜粋したものである。
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第一章 南京の生き地獄
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…次の文章は南京において尊敬と声望を得、その態度公正ををもって聞こえた一外人が12月15日上海の友人のもとに送った手紙で、日本軍の南京占領後数日間の情況を要領よく明確に叙述している。『南京の日本軍は既にその声望を失墜した。日本軍は中国人民および外国人居留民の尊敬を獲得すべき最も良き機会を得たにもかかわらず、自らそれを放棄してしまった。南京撤退の際の中国政府および中国軍隊の秩序は紊乱していた。多くの人々は日本は従来とも秩序と組織を誇る国家であるから日本軍の南京攻略に当たっても妙なことはあるまいと安心し、また戦争の緊張、空爆の危険も近く終わるものと考えていた。中国軍の南京撤退の際は実際には大部分の市区は少しも損害をもうむってはいなかったが、ただその紊乱状態は一種の恐怖症状を惹起していた。しこうしてそれも現在に至ってようやく収まりつつあった。
しかるに日本軍の入城後2日間にして我々の希望のすべては無慙にも破れてしまった。絶えざる虐殺、大規模の計画的掠奪、家宅侵入、婦女陵辱等一切はすべて無統制であった。外国人居留民は事実その眼で路上に充満する良民の死体を見た。南京中区では辻ごとに必ず一個の死体が転がっていた。その大部分は13日午後および夜間日本軍の入城時に銃殺もしくは刺殺されたものであった。恐怖と興奮のために駆け出せば射殺され、また夜間日本軍の巡邏は人さえ見れば発砲する可能性があった。かかる暴行は全然弁護の余地がない。難民区でもその他の場所でも事情は同様であった。我々外国人および相当地位ある中国人は、かかる暴行、残酷無慙な殺人行為を野蛮人の所為と断定した。
撤退できなかった中国兵はすべて武器を放棄し、ある者は制服さえ脱いだが、日本軍は大規模にこれを捜査しては捕縛して銃殺した。私達の聞いたところによれば、銃殺予定の捕虜および臨時の軍夫を除けば日本軍内には中国兵の俘虜はいなかった。日本軍は中国の警官を強迫して難民区の中から4百人の難民を引っ張り出し、50人を単位に一列に並ばせ、小銃、機関銃で背後から威脅しつつ引いて行った。その運命や知るべきである。
日本軍は入城後重要地区に対して計画的破壊工作を行い、大小の店舗一として無事なるものはなかった。日本軍の最も欲したものは食糧であった。従ってその他のものはたとえ貴重なものでも棄てて顧みなかった。大量の物資は日本兵自身では持ち運べないので強制拉夫を行った。南京の家という家、たとえばそれが占領されていようとなかろうと、またその規模の大小を問わず、中国人の所有、外国人の所有の別なく、すべて日本軍によって一物余さず掠奪された。次の数個の例は無恥の最たるものである。第一、日本軍は収容所およびその他の避難民に対して掠奪行為を働いた。第二、日本軍は鼓楼病院職員から金銭および時計を、また看護婦の宿舎にあった物品を掠奪した(鼓楼病院は米国人の財産で米国旗が掲げられ、米国大使館の告示が貼ってあった)。第三、日本軍はそこにあった自動車および財産を奪い、掲げてあった国章をも毀損した。
婦女陵辱および強姦についても既にずいぶん聞いている。ただ我々には調査の暇がないだけである。しかし次の幾多の例は十分に情勢の重大性を証明している。我々の友人の一人は昨日日本兵が近隣の家屋に闖入し、4人の姑娘を拉致して行った。また幾人かの外国人は、新しく移ってきた将校の宿舎に8人の若い女がいるのを見た。しかもそこには彼以外に誰も住んでいない家だった。
恐怖の程度はとうてい筆墨のつくし得るところではなかった。日本の要人連中が恥ずかしげもなく彼らの対華作戦の目標は中国政府打倒、中国民衆救済にありと大言壮語するに至っては噴飯物ではないか。
もちろん南京の日本軍の種々な残酷無情な行為は、日本帝国の偉大な功績を代表するものではない。日本には幾多の責任ある政治家も軍人も国民もいる。ただ彼らは日本自身の利益のみを打算し、毫も中国の低き地位を補救することを考えないだけである。少数の兵、将校は確かに紀律を厳守し、日本皇軍および帝国の声望を考えた。だが、日本軍全体の行動は日本に対して大なる打撃を与えることとなったのである。』
また別の外国人で南京に居住する友人の一人は、上海の友人に次のような事実を報告している。彼はほとんどその生涯を中国で送った人である。その内容のうち個人関係のものを除いて原文を抄録しよう。
『私は貴下に極めて不愉快な事件をお知らせしなければならない。貴下はこれを読んであるいは気持ちを悪くされるかも知れない。罪悪と恐怖に充たされた事件で、おそらく信じられぬことと思う。一群の匪徒は憐憫の情もなく和平善良な人民を蹂躙した。この手紙が幾人かの友人に読まれると思うと、私もこの事件をお知らせする甲斐がある。そうでなければ私の良心が許さないであろう。この事件は数人の人が知っているだけで、私もその中の一人である。また次に書くことは事件の一小部分に過ぎず、それにこれがいつ終了するかは私も断定出来ない。もちろん私はこれが一刻も早く終了することを望んでいるが、ただおそらくは中国の他の地方においても同様の事件が再び継続して起こることと想像している。私はこれこそ現代史上未曾有の残虐な記録であると信じている。
今日はちょうどクリスマス・イブに当たるが、事件は12月10日にまでさかのぼって書かなければならない。この2週間に私達は大きな変化を経験した。中国軍が撤退し、日本軍が入城した。12月10日は南京は従前通り美しく秩序も井然としていた。しかし掠奪後の南京は満目荒涼として一片の焦土と化し、至るところ破壊の跡のみである。南京は全く無政府状態に陥って既に10日を経て、あたかも人間地獄の観があった。私はいまだ真の危険には遭っていなかったが、もしも野獣性の強い日本兵か、酔っ払った日本兵の強姦を行っている地区にいたならば決して安全とは言いえなかった。日本兵に軍刀か小銃で威脅されればその暴行を許すよりほかなかった。貴下でもそのような場面にぶつかれば途方に暮れることと思う。日本軍は各国
居留民に対して南京より離れるように通告し、外国人がここに居留することを嫌った
彼らは傍観者を喜ばなかった。しかし私達はここに留まってこの日本軍が最も憐れむべき貧乏人に対しても一枚の銅幣一切の綿糸をも持つことを許さず(ちょうど厳冬であった)、黄包車夫の車さえ取り上げるのを見た。私達は日本軍が難民区より幾百幾千の非武装の中国兵を連れ出して銃殺し、あるいは銃剣術の練習台にするのを見た。また明瞭な銃声を耳にすることもあった。私達は多くの婦女子が面前に跪坐し、驚愕のあまり悲歎に崩れながら助けを求めているのを見た。私達は日本軍が私達の国旗を侮蔑し、私達の住宅を掠奪するのを見た。私達は私達の愛する城市および私達の事務所が日本軍の計画的放火によって焼かれるのを見た。これは私が生まれて初めて見た生き地獄であった。
私達は自問した。一体いつになったならば終わるのであろうかと。日本側官憲は毎日私達に対して事態は近く好転するであろうと確信し、方策の万全を講じたが、その結果は常に逆で事態は日一日と悪化した。聞けばまたまた2万の日本軍が南京に到着すると伝えられている。彼らは更に掠奪、虐殺、強姦を行うのであろうか。しかし掠奪に供される物資は既に極めて少なく、南京は空巣となっていた。先週中に日本軍は各商店、各倉庫のストックを一台また一台と自動車で運び出しては、その家を焼き払っていた。私達は私達の持っている食糧を20万の難民に供給すれば、僅か3週間で使い果たし、燃料の貯蔵も僅か10日間に過ぎぬのを知って焦慮していた。しかしたとえ3ヶ月分の食糧があったとしても、3週間の後には一体何を食べ
ていけばよいのか。家も破壊された。どこへ行って住むのか。現在の極めて劣悪な環境では疾病と悪疫が近く発生することが予想される。難民は決して永く生きていけないであろう。
私達は毎日日本大使館に抗議してその注意を喚起した。日本軍の暴行の詳細な報告を提出した。大使館当局者は表面上は極めて丁重に応待はしたが、実際的には何らの権力もなかった。勝てる皇軍は当然の報酬として自由掠奪、虐殺、強姦等想像に絶する野蛮残酷な暴行を日本が従来世界に公告したいわゆる「中日親善」の相手たる中国人の頭上に加えた。日本軍の南京における暴行が現代史上最も暗黒なる一ページであることは疑いない。
過去10日間の事件を一々詳細に書くならば、あるいはいささか冗長なるを免れないであろう。しかしこれらの事実が世人に明瞭となるときは、惜しいかな既に新聞ではなく旧聞となっているであろう。日本は務めて国外に対して、南京は既に秩序を回復し、南京の住民は旗を振って慈悲深い皇軍を歓迎していると宣伝した。しかし私の日記の上には皮肉にもちょうどこの期間に発生した比較的重要な記録が記されてある。興味深く読まれる方もあると考え、次にこれを発表して一つの永久の記念としたいと思う。
この手紙に書かれた事実はあるいは手紙の日付と時日の点で食い違いがあるかもしれない。これは日本側の検閲が極めて厳重であったので一度に出さずに留めておいたからである。不運なかの砲艦パネー号および美孚公司の汽船に乗船して南京陥落以前に南京を離れた米国大使館員およびその他各国の大使館員、外国商人は初めから一週間以内に南京に帰れるものと希望していた。しかし今では(もちろん日本機の爆撃も受けず、死傷もしない人々についてではあるが)かえって上流で首を長くして南京に帰れるのを待っている人達であった。彼らはあと2週間もすれば南京に帰ることが出来るであろう。だが私達は南京を離れれば全くそれは永遠の離別であった。私達は事実上日本軍の俘虜であった。
私が前述の手紙の中で書いたように南京難民区国際委員会は中日双方に交渉して難民区の中立的地位を承認せしめて軍隊の駐屯、軍事機関の設立を行わず、爆撃目標ともしないことを要求し、南京に残留した20万の住民の最も危険時における避難所としたいと努力した。私達は中国の軍隊が上海付近で示した抵抗力は現在では既に撃破され、その戦闘精神も既に大打撃を受けているとみていた。中国軍が日本軍の大砲、飛行機、タンクの優勢な火力に長期にわたって抵抗することは不可能であったし、更に杭州湾上陸に成功した日本軍が中国軍の側面および後方を衝いたので南京の陥落は既に免れえないところであった。
12月1日南京市長馬超俊氏は難民区の行政責任を我々に交付し、同時に450名の警察官、3万担の米、一万担の麺粉、塩および10万ドルの助成金交付方許可を手交し、事実我々は間もなく8万ドルを確実に受け取った。首都衛戌総司令唐生智将軍も心からこれに協力し、難民区中の軍事施設を撤去するとともに軍記と秩序の厳正を保った。12日の日本軍の入城以前までこの状態が保たれた。たまたま掠奪事件もあったが、少数の食物に限られていた。外国人の財産は最も注意が払われていた。10日までは水道も出た。11日までは電灯もついていた。そして日本軍の入城する直前に至って初めて電話が不通になった。日本軍の爆撃機は難民区を目標にしていない様子だったので、当時はまだある程度安全であった。現在の有様に較べると全く天国と地獄である。もとろん私達にも若干の困難はあった。米は城外に積んであったので、人夫は弾の飛ぶところまで行ってその積替えをしなければならなかった。そのために運転手の一人は眼を負傷したし、また2輌の自動車が抑留されたこともあった。しかし、これをその後の困難に数えれば全く問題にもならなかった。
12月10日難民は急激に増加し・・・以下略』
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