下記は、再び「ルポ 資源大陸アフリカ 暴力は結ぶ貧困と繁栄」白戸圭一(朝日文庫)から、「終章 命の価値を問う ~南アフリカの病院から~」の一部を抜萃しました。南アの「経済格差」が、医療現場における深刻な差別につながっているという現実がよくわかると思います。
問題は、同じ人間なのに、なぜ、こんな差別・選別が行われているのか、ということだと思います。
前回取り上げた白戸氏の、”私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。”という言葉も、”経済成長と異様な格差の拡大が進行する南ア” は、今のままではいけないのではないかということだと思います。
そして、私はそれが搾取や収奪を伴う資本の論理の必然的な帰結である側面を見逃してはならないと思います。
『21世紀の資本』 で知られる トマ・ピケティは、国際社会は富の再分配や資本への課税など、制度的な改革が必要であると主張しています。真剣に受け止めるべきだと思います。
バブル経済崩壊後、日本経済は長期のデフレに陥り、企業はコスト削減のため、賃上げを抑制し続けました。また、非正規労働者を増やしました。だから、実質賃金はずっと減少傾向にあります。でも最近の日本は、企業の収益が向上し、内部留保が増加しているにもかかわらず、なお実質賃金の低下が続いています。それを乗り越える改革はなされていません。だから、富の集中や格差の拡大が、不平等拡大につながり、南アのように差別や選別などの道徳的頽廃をもたらして、さまざまな問題を生みだしていくと思います。
搾取や収奪を放置せず、富を分け合う制度をしっかり確立しないと人間性は失われていくように思うのです。奪い合ってばかりでは、戦争もさけられないと思います。
だから、高所得者や大企業への累進課税の強化、不動産や金融資産などに対する財産税の導入などを制度化し、富の極端な集中を止め、格差の解消ができるかどうか、人類は問われていると思います。
富の偏在や極端な格差は、資本家や経営者の人間性も蝕み、社会不安が深刻化する原因にもなると思います。イスラエルの戦争犯罪やイスラエルを擁護するアメリカの政治姿勢、また、南アの格差は、そうした資本主義の矛盾と無縁ではないと思うのです。
だから、富の集中を止め、格差を解消する制度改革が国際的レベルできなけれれば、ふたたび戦争への道を歩むことにもなるように思います。
労働者は賃金に注目し、資本家や経営者は剰余価値に注目するのは、資本の論理の当然の帰結ですが、最近の日本では、資本家や経営者が労組を抑え込み、労働者の組織も自らの影響下に置くようになっているように思います。内部留保にさえ課税できず、労組が資本家や経営者の手先として働くようでは、富の集中が一層進み、格差がさらに拡大し、南アやガザにおけるような不道徳がまかり通ってしまうことになると思います。
“French economist Thomas Piketty caused a sensation in early 2014 with his book on a simple, brutal formula explaining economic inequality: r is greater than g (meaning that return on capital is generally higher than economic growth). Here, he talks through the massive data set that led him to conclude: Economic inequality is not new, but it is getting worse, with radical possible impacts. "
フランスの経済学者トマ・ピケティは、2014年初頭に、経済の不平等を説明する単純で残酷な公式に関する著書でセンセーションを巻き起こしました:rはgより大きい(つまり、資本利益率は一般的に経済成長よりも高いことを意味します)。ここでは、彼は「経済的不平等は新しいものではなく、深刻化しており、根本的な影響をもたらしている」という結論に至った膨大なデータセットを通じて語っています。(機械翻訳)。
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終章 命の価値を問う ~南アフリカの病院から~
四年に及んだヨハネスブルグの暮しの間、我が家にはずっと住み込みのメイドがいた。黒人の女性で名前をリリアン・モガレという。私が着任した2004年に55歳を迎えた彼女は、16歳のときからいくつかの白人家庭でメイドとして働いてきたメイド歴40年の大ベテランだった。アバルトヘイトが終わった今でも南アの白人家庭や我々外国人の家ではメイドを雇用することが普通で、私は前任の特派員から彼女を引き継いだ。
サラリーマン記者の家に「メイドがいる」などと書くと、日本では贅沢だと批判を浴びそうだが、解雇すれば困るのは私の方ではなく彼女の方だという問題があった。南アの失業率は常時40%前後の高率で推移しており、道端でタバコなどを売るインフォーマルセクターの労働者を「雇用あり」とみなした場合でも25%前後に達していた。十代前半までの教育しか受けてない50歳を超えた彼女が一度職を失ったら再雇用は絶望的だろう。
リリアンは我が家の片隅にある台所、トイレ、風呂を備えたメイド用の部屋で暮らしており、毎月最後の週末にヨハネスブルグの西約300キロのメフケンという町の弟一家が住む実家へ帰省していた。彼女には4人の子供がおり、その内の一人は不幸にも殺人事件の被害者となって他界していた。他の3人の子供はいずれも成人していた。その中にグラッドネス(29歳)という娘がおり、ヨハネスブルグ近郊の旧黒人居住地区ディーエップに建つ8畳一間ほどのバラック小屋で娘のタバン(6歳)と暮らしていた。リリアンは普段の週末はグラッドネス宅へ顔を出し、気分転換しているようだった。
私の南アの暮らしが始まったばかりの2004年5月のことだった。夕食の皿洗いを終えたリリアンが「クラッドネスの具合が悪いので様子を見にいきたい」と言った。ディーエップスルートまで乗り合いタクシーを乗り継いで行くので片道一時間半はかかる。
メイドが個人的な窮状を訴えたからといって、いちいち取り合わないのが南アの白人家庭の一般的な対処法である。普通なら「行っておいで」と送り出すだけだろうが、南アに着任して間もない私はリリアンに同行して夜の旧黒人居住区の様子を見てみたくなった。治安の悪い黒人居住区に非黒人の私が夜間出向くのは危険だったが、リリアンを車の乗せてディーエップスルートへ向かった。夜のヨハネスブルグの道は交通量が少なく、幅の広い直接道路を時速100キロで前後で走ることができる。北西に30分ほど走ると人家が途絶え、さらに草原の真っ暗な一本道を5分ほど走ると左手の平原にディーエップスルートの明かりが見えてきた。
アパルトヘイト時代に造られた旧黒人居住区は、街全体が緑に覆われた白人の居住地域とは対照的に、砂埃の立つ乾燥した荒れ地にある。
ほとんどが街の中心から離れた場所に立地しており、街と居住区を結ぶ道路は大抵、一本しかない。アパルトヘイトという単語はオランダ語系白人の言葉アフリカーンス語で「隔離」という意味なのだが、あの悪名高い人種差別政策が文字通り黒人を「隔離」して搾取するものだった事を実感する。平原のただ中にマッチ箱のような小さな民家が立ち並ぶ光景は、アパルトヘイト時代を今に伝える象徴的な光景である。
グラッドネスが住むトタン造りの小屋に着くと、彼女は薄暗い裸電球の下のベッドで唸り声をあげていた。のぞき込むと、顔全体が試合に負けたボクサーのように腫れ上がっている。瞼の腫れで目を開けることができないほどだ。「夕方仕事を終えて家に帰ったら急に気分が悪くなって顔が腫れ上がり、熱も40度くらいありそうだ」と言う。
グラッドネスは「公立の診療所は閉まっている。朝まで我慢する」と言ってきかない。車でヨハネスブルグまで戻れば、我々在留邦人が利用する私立の総合病院サントンクリニックがある。私が「朝までに、もしものことがあったらどうするんだ。サントンクリニックへ連れて行ってやる」と言うと、今度はリリアンが「そんな金を誰が払うんですか」と肩をすくめた。6歳の一人娘タバンが目に涙を浮かべながら大人たちのやり取りを聞いている。
南アには日本のような国民皆保険制度はない。正確に調べ上げたわけではないので断定はできないが、サハラ砂漠以南のアフリカに皆保険制度の国があるとは到底思えない。保健の恩恵に与るためには、自分で民間の保険会社に毎月保険料を払わなければならない。低所得者層は保険料を払う余裕がなく、南ア保健省の統計では、総人口(約4800万人)のおよそ7割にあたる3300万人が無保険状態という。こうして少数派の中間層以上の国民は医療水準の高い私立病院へ、多数を占める低所得者層は無料診療が原則の公立病院へという一種のすみ分けができていた。
リリアンの月給は、前特派員の時には1300ランド(約2万3千円)。ヨハネスブルグで働くメイドの平均的な金額だったが、私はこれを月給2000ランド(約3万6千円)にまで引き上げた。南アのメイドとしては誰が聞いても驚く最高水準だが、彼女が南アにおける典型的な低所得者であることは変わりなかった。白人が経営する文房具店の店員だったグラッドネスの月給は3000ランド(約5万4000円)。都市部の黒人労働者階層の平均的な金額だが、こちらも低所得者であることに変わりはない。
当然ながら、そんな2人が保険に加入しているはずがない。私立病院のサントンクリニック行けば治療の内容によっては月給の何倍もの金を請求される可能性があり、リリアンが肩をすくめるのも無理はなかった。
風船のように腫れた顔を見かねた私はグラッドネスとリリアンを車に押し込み、サントンクリニックへ向かった。夜間の急患窓口では10人ほどが診察を待っていたが、私たち以外は全員白人だった。私立病院ではまず、診療申込書の「支払い責任者」の欄に署名しなければならない。高額の出費が予想される時には、前金で支払いを要求され、私がマラリアで入院した際は入院前に日本円にして20万円ほどを前金で支払った。診療後や退院時に金を払えずトラブルになるのを防ぐためで、逆に言えばそれだけ払えない人が多いということでもある。
この日は私が支払い責任者となり、実際に全額を支払った。医師によるとグラッドネスの顔の腫れと高熱は、埃に混じって吸入した何かよって生じた急性アレルギーショックの疑いがあるとのことだった。注射してショック状態を鎮め、一晩入院することになった。
支払いは400ランド(約7000円)だった。思いのほか低料金だった、と言いたいところだが。それは私にとっての話だ。400ラッドはグラッドネスの月給のおよそ七分の一、リリアンの月給の五分の一に相当する。ちなみに、この年の4月に発表された国連の推計では、南アの総人口の48.5%は毎月350ランド(約6300円)の所得で暮らしていた。国民の半分は、一か月の所得がこの日の診療代にも満たないのだ。
グラッドネスのアレルギー騒ぎ以来、私は黒人低所得者が頼りする南アの公立病院の実態に関心を持った。我々在留邦人は「病気になっても怪我をしても、必ず私立病院に行くように」と前任者などから助言されてはいるが、公立病院の内情を知ってる人となると実はほとんどいない。そこで他の仕事の合間を縫って取材しようと考えていたところ、思いがけないことでその実態を垣間見ることになった。きっかけは、今度リリアンの親族であった。
アレルギー騒動から三か月後の8月末のことだった。リリアが険しい顔をしているので声をかけると、「入院中の姪の具合が悪いので見舞いに行きたい」と言う。ヨハネスブルグ市内のヘレン・ジョセフ公立病院に、ヘリエットという名の32歳の姪が交通事故による怪我で入院しているという。
公立病院の内情に興味を抱いていた私はリリアンを車に乗せて病院へ向かった。車中でリリアンに聞いたところによると、ヘリエットはヨハネスブルグの南西側に位置する南ア最大の旧黒人居住区ソウェトに14歳の娘と2人で暮らしていたという。「高等専門学校を卒業して、そこそこ大きな会社で働いていた」というから、低所得者ばかりのリリアンの親族の中ではやや例外的な存在だ。
超格差社会の南アでは、学歴と職種による給与の差が日本と比較にならないほど大きい。メイドや工場現場の作業員は月収千数百ランドもらえれば御の字だ。スーパーマーケットの店員が3000ランド(約5万4千円)を超えることはまずない。一方、例えばトヨタのような自動車会社の工場の製造ラインで働く労働者の場合職種や経験によって違いはあがるが、6000ランド(約10万8千円)から1万ランド(約18万円)ぐらいの人が多いようだ。これが大企業に就職した大卒者になると、月給1万ランド前後からスタートし、四十代では日本の大企業に勤める大卒サラリーマンとほぼ同じ給与水準に達する。
ヘリエットは黒人女性では珍しく自家用車を運転していたので、1万ランド近い月収があったのではないだろうか。高度成長期の日本で自動車、クーラー、カラーテレビの「3C」が庶民の憧れだったように、経済成長著しい南アの新黒人中間層もローンを組んではこぞってマイカーを購入し始めていた。国内自動車販売台数はうなぎ上りで、2004年の年間約48万台は06年には70万台を超えるまでになった。新車購入者の四分の一、中古車購入者の約4割が黒人だという統計を見たこともあった。
だが、現在は年間6000台まで下がった日本の年間交通事故死者数が高度成長期には1万5000人を超えていたように、急激な自動車社会の到来は往々にして莫大な犠牲を伴う。歩道の未整備、歩行者保護やシートベルト着用などの安全意識が未熟なこと、事故の際の救命体制の整備が追いつかないことなどが相俟って、南アの2005年の交通事故死者は14,316人に達した。人口十万人当たりの死亡率30.5人は統計が存在する世界の44カ国でワーストワンである。
ヘリエットは7月下旬、ヨハネスブルグ市内の幹線道路で購入したばかりのマイカーを運転中に正面衝突し、シートベルトを締めてなかったためにフロントガラスで頭部を強打していた。
この時、彼女が医療保険に加入していなかったことが運命の分かれ目になったと言えるかもしれない。保険に加入していることが何らかの方法で確認されれば、救急車は保険会社と提携している近くの私立病院へ自動的に向かう。だが、現場に到着した救急車は公立病院へ向かった。発送先では頭部のレントゲン写真が撮影され、医師は「異常なし」と判断。なんと彼女を帰宅させた。交通事故で頭部を強打している状態でCTスキャンによる検査もしないなど、日本の読者には信じられない話かもしれない。だが、これが南アの公立病院の実態であった。
帰宅後、ヘリエットは吐き気と目眩(メマイ)を訴えて床に倒れ、今度は自宅から比較的近いヘレン・ジョセフ病院(公立)へ救急搬送された。病院の検査についての知識を持たないリリアンは、ヘリエットがどのような検査を受けたのか正確には知らないが、親族の話を総合すると、彼女はここで初めてCTスキャンの検査を受けたようだ。検査の結果、脳に重大な損傷があることが判明し、緊急手術が行われたが、状態は悪化の一途で危険な状態に陥った。
私とリリアンが病院に着いたのは夕方6時頃だった。冬の南アは日暮れ早く、外はすでに真っ暗だ。レンガ造りの古い病棟は、昭和20~30年代の建物のようだった。先に到着していた親族の案内で薄暗い廊下を歩いて行くと、短い蛍光灯が一本あるだけの暗い病室のベッドにヘリエットが横たわっていた。酸素吸入器をつけ顔はむくみ、紫色に変色している。マラソンを終えた後のような荒い呼吸を続け、静かな部屋に「ゼーゼー」という呼吸音だけが響いた。医学に詳しくない私にも、彼女は危険な状態にあることは即座に分かった。だが、病室には医師も看護師もいない。点滴一本を施されておらず、それどころか病棟全体ががらんとしていて、我々以外に人の気配がないのだ。
ヘリエットの様子を見るなり、リリアンは手で顔を覆って泣き出した。我々より一足先に病院に来ていた娘のタバホ(14歳)は、変わり果てた母親の姿を見て号泣し、親族の男性に抱きかかえられてようやく立っていた。
病棟の看護師詰め所をのぞきに行くと、太った黒人の女性看護師が2人でケラケラと笑いながら、おしゃべりの真っ最中だった。無性に腹が立った私は「ドクターを呼べ」と2人に詰め寄った。妙なアジア人の登場に、2人は一瞬、キツネつままれたような顔をしたが、一人が椅子に座ったまま机に肘をつき、ふてくされた表情で「ドクターはいない。夜は緊急の時しか呼ばない」と言った。「素人の俺が見ても患者は危ないと思うが、あれは緊急じゃないのか?」と言うと、同じ看護師が「うるさいわね。あたしの仕事じゃないわよ。あっちへ行きなさいよ」 と逆上して声を張りあ上げた。
彼女たちの名誉のために言えば、南アの公的機関では、彼女たちの対応は特別でもなんでもない。警察署、入国管理事務所、自動車車両登録のオフィスまで、こんな対応はザラにある。
私はリリアンを連れて家帰った。翌朝8時ごろ、ヘリエットが息を引き取ったとの電話がリリアンのところにあった。その日の夕方、再びリリアンを乗せて病院へ向かい、前日と同じ病室へ入った。亡くなってから半日近く経つというのに、遺体は同じベッドに寝かされたままだった。
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