どうも記憶の迷路にはまり込んでるような・・・・。
まあ、どうでもいいことと云えばそれまでですが、気にはなります。
国鉄バスが霊峰まで開通したのが昭和34年、たぶんその後少しずつ上に道路は伸びて、ネット上に残っている1967年発行の『あきた』という冊子?の中の鳥海山の説明にはバスが終点の鉾立まで行っており、その上のマイクロウェイブまで道路が整備され、バスも延長される旨が書かれています。終点近くには町営「せきれい山荘」があることも。
昭和42年ころの賽の河原の道標にはせきれい荘から5.8キロの表示
「せきれい山荘」?そんな呼び名だったか。そういえばその頃の小学校の学校登山で、まだ残っていた旧登山道をしばらく登ってマイクロウェイブまで辿ったような記憶が。
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『小滝を過ぎ、バスは緩斜面を迂廻しながら登ってゆく。車窓からは大草原の下に美しい海岸線を眺める。
終点鉾立まで七十分であるが近くに象潟町営の二階建ヒュッテ「せきれい山荘」(三十名収容、一泊二食六百円)がある。』
とあるので「せきれい山荘」は結構下の方にあったのですね。大平のマイクロウェーブ中継所は記憶にありますが、鉾立口のマイクロウェーブ中継所は記憶にありません。
地元の人間でもよっぽどの山好き以外は、昔のことは記憶の彼方です。まあ、知ってる人間もだんだんいなくなってます。
1969年(昭和44年)にはブルーライン有料化前の象潟-吹浦間に鳥海観光道路開通とあります。東雲荘もこの年に建てられているので、鉾立山荘もこの前後なんでしょうかね。