明日から大荒れになるという話ですが、今日は気温も15℃近くまで上がり、鳥海山も裾野から山頂まで青空の中に真っ白になった姿を見せてました。
正確に云えば半分真っ白
内陸の方から見た富士山のような形ではなく、海岸側のにかほ市や遊佐町、庄内地方から見た鳥海山の方がしっくりくるのは、こっち側の住人の単なる贔屓目でしょうか。
鳥海山麓のこの辺では、山から雪が下りてくるといった表現がピッタリきます。昨日は一日中、鳥海山の山頂は厚い雲の中でしたが、雪の白い線は標高500m付近まで下りてきてます。
夕方少し晴れ間も見えて、日を浴びた稲倉岳もだいぶ下まで白くなってます。
静かな夕暮れです
庭先のドウダンも少し色あせて散り始めてます。
11月中旬、まだ紅葉の名残りがあるかと、行ったことのない天童高原へと足を延ばして見ました。
山麓の紅葉は終わりかけてます
山形百名山の面白山は奥の方でしょうか
登山口まで行ってみます
駐車場、この辺はキャンプ場になってるみたいです
葉っぱもすっかり落ちてしまいました。いつかまた来たいと思います。
大石田の「まんきち」のげそ天板蕎麦。天童高原の食堂では新そば祭りをやってましたが、予約のみでした。
秋田県立美術館で、木村伊兵衛展が開催されてます(1月23日まで)。
「秋田美人」という有名な一枚の写真は、木村に影響された「秋田派」といわれる写真家集団とともに県内を歩いた時に撮られたものなんでしょうか。
もちろん展示場内部の撮影は禁止ですが、
2階の休憩スペースから外を見ると
広小路側の雨に濡れた街路樹が、まだ黄色い葉っぱをつけてました。
※秋田派 岩田幸助、千葉禎介、大野源二郎の写真も展示されてます。
わが地方紙に元「天井桟敷」の劇団員だった関さんという人の回想が連載中です。秋田の農家の娘が地方の国立大に進み、20歳の時友人のバイクの後ろに乗って東京までデモにいったこととか、その後「天井桟敷」の講演に衝撃を受け、学校もやめ親にも言わず家出同然に上京し、劇団員の試験を受け舞台に立つことになったこととかが語られています。「書を捨てよ、町へ出よう」とはこのころの寺山修司の評論ですが、全国の少年少女たちが、家を出たくてうずうずしていたのかもしれません。「邪宗門」という渋谷公会堂で行われたその講演は、他の劇団の劇団員や観客の中で小競り合いや乱闘が発生するような挑発的な舞台だったようです。今の時代からは想像もできませんが、そこから少し遅れた時を過ごした私たちの世代にはその雰囲気がわかるような気がします。
まさに、疾風怒濤の時代だったんでしょうか。寺山修司と唐十郎、つげ義春や永島慎二のいる時代、もちろん高橋和巳も。
(吹浦海岸の夕暮れ)
「 人の一生かくれんぼ あたしはいつも鬼ばかり 」 昔誰かが唄っていたと