どうも記憶の迷路にはまり込んでるような・・・・。
まあ、どうでもいいことと云えばそれまでですが、気にはなります。
国鉄バスが霊峰まで開通したのが昭和34年、たぶんその後少しずつ上に道路は伸びて、ネット上に残っている1967年発行の『あきた』という冊子?の中の鳥海山の説明にはバスが終点の鉾立まで行っており、その上のマイクロウェイブまで道路が整備され、バスも延長される旨が書かれています。終点近くには町営「せきれい山荘」があることも。
昭和42年ころの賽の河原の道標にはせきれい荘から5.8キロの表示
「せきれい山荘」?そんな呼び名だったか。そういえばその頃の小学校の学校登山で、まだ残っていた旧登山道をしばらく登ってマイクロウェイブまで辿ったような記憶が。
終活ではありませんが、いろいろ整理していると、いろいろ出てきます。1970年前後、中学生の頃は、ラジオから流れるアメリカのロックやポップスをよく聴いていました。
今はもうない、町の唯一のレコード店、学校帰り、CCRの『雨をみたかい』にするか、ザ・ショッキング・ブルーの『ヴィーナス』を買おうか迷ってました。《1910フルーツガム・カンパニ-》、なんて素敵な響きだったか。結局、その時はCCRを選んだんですが、2つとも持ってたとは・・・・。シングルレコードが400円、決して安くはありません。
鳥海山が噴火したのは、1974年3月、高校の卒業式の当日だった。が、当時の友人たちに聞いても記憶はさまざま、バラバラです。
新山、荒神岳の周辺から噴火したのですが、噴煙はみえません。
南側、外輪の外側に火山灰が広がっています
秋田県側から
写真は、たぶん噴火後の3月~4月頃にヘリから撮ったんでしょうが、当時は泥流とか、河川の酸性化とかいろいろ問題が生じています。なにせ鳥海山は、休火山どころかほぼ死火山と学校では習ってきましたから、それなりにびっくりはしました。
引き出しの中に埋もれ、二度と顧みられることもないであろう、個人の記憶の中の写真
昭和37~8年ころの鉾立山荘 このころは鳥海ブルーラインも開通していないので、現在の鉾立ではなくもっと下の方にあったのか?小学校の5、6年の頃にはまだ下鉾立付近にあったと思うが、当然記憶の中にはない。
これは昭和40年代の後半、噴火したあとのものだろうか。前の建物とは別?
虫穴?付近
外輪、どの辺から撮ったのか
いずれこの写真を撮影した人間もとうの昔に記憶の中にいってしまい、何がなんだかわかりませんが、ただただ、埋もれていくのだけは確かなのかもしれません。
五重塔から少し先へ
南谷への入り口
足跡はありますが
参道から10分ちょっと、今は東屋と池と
句碑のある南谷
読めません
4歳くらいの女の子がお父さんと初詣
凍った石段が危ない
急坂を下りて
約2時間ほどで随神門まで戻ってきました。
「 有難や 雪をかほらす 南谷 」 松尾芭蕉
この季節、雪の香りは漂ってはいませんが、年に一度は歩いてみたくなります。