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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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⑤ 寿国寺にあった4人の島津家女性の墓

2022-07-06 12:02:37 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

FBで歴史に詳しい方たちとつながることが出来て、新たに気付くことやご教示いただくこともあり、これまでに撮ってきた写真についての解明ができることもあります。

第21代・島津吉貴公の墓所のあたりを一通り撮影したのは今から5年前の2017年6月4日でした。

目的は月桂院殿の墓石をもう少し丹念に見て、写真に収めることでしたが、

吉貴公や月桂院の並びの向かいにある墓石も随分立派な、存在感のあるものだったので、これも是非とも納めておこう、と相成りました。

それがこうして、ブログに記せるようになるとは、我ながら「よくぞ撮っておいたものだ!」と悦に入っている昨今です(笑)

さて、その墓石群ですが、FBFのブログで、市内武町にあった「寿国寺跡」から移設された島津家の女性たちのお墓だということを知ったのです。

その「寿国寺」は、何年か前のこと、『島津歴代略記』を読む中で、島津の歴代ご当主が寺社仏閣を建立されているのを目にし、それぞれが成した事業・功績などをノートに書き出そうとしていたのですが、

『ー 略記』の「第22代・島津継豊」の項に、

「継豊も信仰厚く、祖先源頼朝を祭る(ママ)鎌倉の白旗神社」に神供料を供え、徳川家康を祭る(ママ)日光東照宮に参詣し、鹿児島郊外の武に黄檗宗(オウバクシュウ)の寿国寺を建立しました。」(前述の『ー 略記』p.124)

とあり、それで「寿国寺」をネット検索して見つけたのが、

ブログで繋がった「クマタツ1847」さんの記事↓でした。 

ジージの南からの便り『鹿児島にあった笑岳寺と寿国寺』(2011.12.12) ←是非ご一読を

(別ウィンドウで見る場合は→こちらからどうぞ

 

クマタツさんが子供の頃遊んだ場所が「笑岳寺墓地」と「寿国寺跡」だったそうです。

クマタツさんの記事には「第21代島津吉貴が茶円迫にあった真言宗の地蔵院(ここに鼻取地蔵があった)をここに移した。そして僧の玄黙に命じて再興し、黄檗宗の寺として元持山寿国寺と改め開山した。」とあります。

吉貴公が「真言宗の地蔵院」を移したあと、「黄檗宗の寿国寺を建立」したのが継豊ということでしょうか。

リンク先のブログ記事には、「拙ブログ11月25日に書いたように島津家の墓が4基あり、歴代当主の御夫人や息女、側室が葬られていたが、ここも区画整理にともない福昌寺に改葬された。」と書かれていますが、

その島津家の女性たちの4基の墓が、福昌寺のこの4基だというわけですね

それも「島津綱貴公夫人」などの墓だと、最近になってまた別のFBのお友達から教えて頂いたのです。

 

ジージの南からの便り「鹿児島市武にあった島津墓地のこと、再び』 (2011.11.25) ←こちらも是非

(2017.6.4撮影)

 福昌寺島津家墓地の案内図をご覧いただくとわかるように、それぞれ歴代の藩主のご夫人たちのお墓だったのですね。

以前も墓地案内図を見ていたはずなのですが、改めて認識した次第で、

今になってピンと来たというか、とても嬉しかったのです

それもあって、福昌寺の写真を見直すきっかけを頂き、こうして新たに記事にし直してみようと始めたのでした

 

 左が「斉宣後夫人」の墓。

前述のクマタツさんの記事で、武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行の「武郷土誌」によると

「「一番左側ののには中央に
      蓮亭院殿香顔玉溶大姉
                      と刻まれている。
 これは第26代島津斎宣公後の御夫人で丹波加賀守長祥元の妹にあたる方である。」とある、

とありましたので、4基のうち一番左のが「蓮亭院殿」の墓ですね!

 

中央の大きなものは「綱貴夫人」の墓。その右隣は「綱貴女子」で、右端の「綱貴後夫人」の墓は手前の灯籠に隠れて写っていませんね。

 

 

ずいぶん立派なものだったので、何枚も撮っていました。

こちらが「綱貴夫人」だったのですね(2017年6月4日撮影)

 

 

 

 ちょうど、月桂院殿の墓の亀趺碑越し、右に少しだけ写っていたのが「綱貴後夫人」の墓です。

 

 もっと前の2008年2月29日に撮ったもの↓にはしっかり写っていました。

ほら!上の画像と続けて見ると「こんにちわ〜っ!」てヒョコッと出て来た感じです(笑)

 

 

 月桂院殿の墓と向かい合う「綱貴後夫人」の墓(右奥)

墓石の背面を写す目的で撮ったものですが、ここにもしっかり写っていましたね

 

 

☆『島津歴代略記』でさらに確認してみました。

島津綱貴公は吉貴公の実父(吉貴公は綱貴長男)

吉貴公の母は「二階堂十郎左衛門宣行の女子。お重。蘭室院殿」

 

綱貴公には『ー 略記』で見る限りは4名の室があり、「蘭室院殿」は4人目に書かれています。

おそらく、おそらくですが、これはその「蘭室院殿」かな、と思うのですが、

これもまた次回訪ねた折に、刻字など残っていないか確認してみたいと思います。

   ・

   ・

   ・

と、ここでまたしても

クマタツさんの「2011年11月25日」のブログ記事『鹿児島市武にあった島津墓地のこと。再び。』を読み直して見たら、4基のお墓について詳しいことが書かれていました〜

(上のリンク、ページが飛んでしまうので別ウィンドウで見たい方は→こちらをクリックして下さい)

武にあった島津家所縁の墓地について、「昭和49年2月20日 武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行の「武郷土誌」によると、」とあり(内容は上記リンクをご覧下さい)、この墓は「吉貴公の実母(蘭室院殿)」の墓ではないことがわかりました〜

この右端の「綱貴後夫人」の墓「信証院殿 … 江田五兵衛国重の女子。お豊。」の墓でした。

 

 改めて自分で撮った写真画像で「福昌寺墓地 案内図」の部分撮りのいくつかをみて見たところ、

ありました〜!

「吉貴実母」他3基まとまって墓地の奥手、第18~20代ご当主墓の後方に並んでいるようですね。

                       画像右手上部↓

ではまた

 

 


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