吉貴公墓所の右隣に、同じくらい立派なお墓があります。(↑トップ画像)
吉貴公嫡男で第22代・島津継豊公の夫人の墓が並んでいるのです。
こちら↓は前にも載せましたが吉貴公の墓。画像整理していても見間違うほど似ているのです!
写真を撮ってからずいぶん時が経ち、その間いろいろな事がありましたので、すっかり忘れていましたが、
この「継豊夫人」の墓石をぐるっと回り込んで後ろから撮ったものもありました。
おもて面を撮っていなかったようですが、側面の神号の画像があります。
一部不明ながら「改號 可◯(天?)霊華姫命」と読めます。
今度行くときには、おもて面に刻まれている法名も確認したいと思います。
墓所案内図で確認しますと、「21代吉貴」の右隣(画像では上隣)に「継豊夫人」とあるのがトップ画像の墓です。
おや?と思われた方があるかもしれませんが、有名な「竹姫=浄岸院殿」は図の左奥に表記があるように、「継豊夫人」と書かれたここではありません。
この墓の配置に関して詳しいことは存じませんので、ご質問は受け付けておりません。何卒ご了承下さい。
・まず、吉貴公の隣にある「継豊夫人」ですが、継豊公には「竹姫」の前に、毛利長門守吉元の女子、皆姫=瑞仙院殿がおられました。
なので、最初写真整理をしているときはこの墓については、
「継豊夫人」とあり「後夫人」ではないので、最初の「正室」瑞仙院殿の墓かな?と思っていたのです。
(ここでお断り:私の情報はほぼ全て『島津歴代略記』の表記順によります)
また、「竹姫」の次に記されているのは、
渋谷喜左衛門貫臣の女子、お嘉久=妙心院殿。
更に、島津求馬久房の女子、お登米=嶺松院殿。
となっております。
それで、今回の写真整理の際に、2018年5月19日投稿↓の自分の別ブログを読み返し、
『福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓』
なかなか深く分析していたなぁ、と自分でも感心したのですが(笑)、
継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、
その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生
とあるのです。(『島津歴代略記』参照)
福昌寺墓地には「継豊夫人」の墓の表記はこの2つだけなので正しいかどうかわかりませんが、宗信公の墓所もすぐ近くにあり、あながち間違いでは無いのでは?と思っています。
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☆と、ここでこの説はひっくり返ってしまいました
これに関して最後に書いていますが「妙心院殿」の墓は別の場所にあることがわかりました
なので、吉貴公の右隣の墓はやはり「瑞仙院殿(皆姫)」の墓のようですね。
「妙心院」の刻銘がある石碑(2017年6月4日撮影) これも供養の石碑かな
この宗信の母「妙心院」の名が刻まれた石碑は継豊公の墓所内にあるものだったと、気付きました。手前の石碑が上画像石碑の裏側で、画像奥に継豊公の墓があります。↓
宝暦十一年とあります。継豊公は宝暦十年(1760年)九月二十日、鹿児島に60歳で亡くなったそうです。
・さて次に、「竹姫」の墓ですが、吉貴公の墓の右手奥にあります。↓
こちらが「浄岸院殿(竹姫)」のお墓です。(↑2008年2月29日撮影↓)
美しい墓石だと思います (右奥は斉彬公の男子・哲丸さまのお墓)
「改號 清川玉藻姫命」とあります。
(史料も何も見ていないので、法名や神号についての確認まではしていません)
‥‥と、 ブログにここまで書いてきましたが、
画像をよく見ていたら、案内図画面の左上↓にある「哲丸」墓の更に奥まった所(図の左奥)に
「継豊後夫人(宗信実母)」とあるのに気付きました
こちらが「妙心院殿」ですね〜確認出来てよかった〜
『ー 略記』の配置図とも照合して「継豊後夫人」二人についても
更に(自分の中で)判明したことがあるので、また次回
改めて、自身の画像整理のためにメモとして記しているだけ、画像を並べているだけなので、
地元の観光を盛り上げる目的でも、歴史について語る目的でもなく、
何かの参考になればそれはそれで嬉しいですが、
ご質問は一切受け付けておりませんのでご了承下さい(まぁ、ないとは思いますが)
では