前回の月桂院殿の墓に続き、もうひとりの吉貴公 後の夫人の墓です。
墓所の案内図画像↓、中央付近に小さく「吉貴 後夫人」とあります。
福昌寺跡の墓所には、それぞれの墓全てに表示があるわけではありませんので、重立った方以外は墓前での確認はできません。
『島津歴代略記』巻末の配置図のコピーを持って行った時もありましたが、5年前のこの時も後で画像を見ながら案内図と照らし合わせることに。
その中で、「これは‥‥墓石、なのか?」と思うものがあり、後で見てもわかるようになるべく周りの景色を写り込ませつつ写真に収めましたが、未だよくはわかりません。
それが、こちら↓です。
【画像1】(2017年6月4日撮影)
背の高いものはおそらく「六地蔵塔」。
手前のものが墓石なのか石碑なのか、今もこういった石碑や仏教に関するものなど詳しくはないのですが、4年前、別ブログにアップした時にも「六地蔵塔」というものもよく分かっていませんでした。
(神道についても特に詳しくはありませんが…)
また、一見墓石に見える石柱も、反対側には刻字があり改めて読んでみました。
画素数が小さく拡大してもはっきり読めないのですが、まず「浄國院殿‥‥」と読めます。
そのあとはよく読めませんが、左2行には「光明真言 百万遍」「光明真言 七十万遍」とあり、
亡くなった方への供養として奉納された石碑のようです。
【画像2】(2017年6月4日撮影) 後ろの階段は「宗信公墓所」への入り口↓です。
【画像1】にも写っていますが、『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』の記事で書いた「鍋保丸」の墓の右隣にある「重豪女子」の墓が右奥に見えます。↓
左手の石垣の向こう側は一段高くなっていて、「継豊公」の墓所区画です。
【画像3】
ここの案内図や『島津歴代略記』の巻末の墓地配置図で確かめてみるのですが、
「吉貴後夫人」の墓がはっきりしません。
もしかしたら、【画像2】の平台のようなものがそうなのかな?とも思いますが、
墓石が立っていません。いったいこれは、なんなのでしょうね?
ということで、「吉貴公後の夫人、慈恩院殿」の墓石ははっきりしませんでした。
※ 慈恩院殿 ‥‥ 相良大蔵長賢の女子
『島津歴代略記』には
夫人 ‥‥ 桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。零竜院殿。
名越右膳恒渡の妹。お須磨。月桂院殿。
に続いて記載されています。