☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

西郷従道と台湾と曾祖父・轟と

2018-07-20 18:14:58 | 曾祖父・轟のこと
いつもお読みいただきありがとうございます

一昨日7月18日は西郷従道の命日だったそうで、先日知りました。
 天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日
 以上、「西郷従道」Wikiより

今日はFacebookにアップしたものをこちらに記しておこうと思います。
……

西郷隆盛の弟・西郷従道についての「歴史人マガジン」の紹介記事です。
        
https://rekijin.com/?p=27762

私の父が 湾生(第二次大戦前に台湾で生まれ育った日本人)なので、従道の名前は以前からよく耳にしていました。更には、宜蘭庁長官だった、西郷隆盛の長男(愛加那との子供)菊次郎の事も。

ただこれまでは、西郷隆盛の弟・従道と隆盛の長男・菊次郎が、私の中で途中ですり替わってしまう事が時々ありました。どちらも台湾との関わりがあるためですが、一人ひとりに焦点を当てて知る事で捉え直すことは大事ですね。

考えること・思う事が色々ありました。
例えば、曾祖父と、曾祖父の兄・名越時成とのこと。
曾祖父・轟は西南戦争に従軍し、負傷した後も延岡・長井村で最後まで戦い政府軍に投降し市ヶ谷に収監、その後上申書を残し帰郷(明治11〜12年ごろか?)。その後結婚して明治14年には長男(私の祖父)が生まれています。

と、ここで祖父の姉の誕生日を確認したら、「明治9年9月15日」に生まれていました
ということは、西南戦争に行く前に結婚し長女も生まれた翌年に参戦していたという事に今気づきました〜(゚∀゚)‼️

ともかく、曾祖父の兄は薩摩藩英国留学生🇬🇧で1865年に渡英、翌年帰国後は詳しいことは分かりませんが、史料や関連本を読む限りは郷里では思うように生きられなかったのかもしれません。英語教師をしたと書かれたものもありますが。

そして、父親である左源太時敏は長男(嫡子)を失うわけにいかないと、一時期奄美に住まわせたのかもしれません。一説には「座敷牢に閉じ込めた」と伝わっていますが、本当のところは大事な嫡男を戦争に参加させてはいけないと思ったのかも。この点については黎明館の内倉氏からご教示頂きました。

ところが次男である曾祖父・轟の方が西南戦争に参加するとは、父、左源太時敏も思っていなかったのでは?とも、内倉さんはお話しされました。

どの家族でも、子供の頃からお互いにに影響は受け合っても兄弟のその後の生き方はそれぞれなんだな、と思う事でした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大円寺いろいろ | トップ | 黎明館学芸講座「なごや左源... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

曾祖父・轟のこと」カテゴリの最新記事