前回、倉山作太夫家の家系図を追って、倉山作太夫久籌の室は「島津登久備 孫女(永吉家二男家)」であるという記述を紹介しました。
そこで前回のように、『島津家家臣団系図集 下巻』で「210 島津登家[永吉家二男家](登家)」を確認すると、
「島津登久備」とは、「島津登久包」の祖父であり、久包の妹が「倉山作太夫久籌 室」と確認出来ました!
ということは倉山作太夫久籌夫婦は、久包の長女・タネ(名越右源太盛貞時行=左源太時敏 室)の叔母夫婦であると判明しました
さらに良く見ると、久包の父・「島津久命」は実は先代「久備」の従弟「掛橋輝次 兼治」が養子に入っており、
またその「久命」の妹(久備 女子)は「島津求馬久馮 室」とありました
なので、「島津求馬久馮夫婦」は島津登久包の叔母夫婦!という事になります
←右端に「島津求馬久馮 夫婦」の刻銘あり!
と、ここで「島津登久包」を再確認してみました。
「八郎権五郎登 若年寄(斉彬公) 家老(忠義公) 戊辰戦争出役」
「久包」には弟もあり、「輝次 門十郎矢九郎 平山七郎右衛門 嗣」とありました。
(‥‥ん?「平山」 )
ところで、久包の長男で、タネの弟も「久籌」なのでややこしいです。
写真の中央にある「島津矢柄久計」は島津矢柄家「薩州家准二男家」(矢柄家)にその名があります。
前述の系図集では
「134 島津矢柄家 [薩州家准二男家](矢柄家)一所持格 庶子号岩越」とあり、
「本宗家八代久豊公二男 用久」に始まります。
「久計 弥一郎矢柄」とだけ。
その長男に、「久敬」とあるのですが、続けて「弥一郎矢柄 室 菱刈杢之氶隆徴 妹」とのこと。
「島津矢市郎久敬」とは文字が違っているのですが‥‥。別人でしょうか??
「菱刈杢之氶隆徴」について、同様に「146 菱刈氏本家 [藤原北家庶流](藤馬家)一所持 本領菱刈院」にて確認。
「隆(実)徴」の妹「島津矢柄室」とあり、その父「隆珍」の弟に「久籌」とあり、
「孫五郎倉山作太夫久喜養子」とありました!
正に!島津登久包の妹の夫でありました〜 グルグル回って一周した感じ
「倉山久籌」について前回省いた箇所があるので再度、
「久籌 孫五郎作太夫 琉球在番奉行 実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備 孫女(永吉家二男家)」
☆10.30 追記:昨年6月13日に福昌寺で撮った写真に「菱刈安房隆観」「島津登久備」の名がありました
関連記事 → 『調所笑左衛門などの刻銘を確かめに』
ふと、(倉山作太夫)久籌の子供たちに目をやると、
長男・久昌の長男「藤五郎」という人がいて、(どこかで見たような‥‥)と思ったら、
永吉島津家「貴久公四男家」(中務家)を継いだ、タネの実弟「久籌 権五郎主殿又七」の長女・フユさんのところに「倉山藤五郎妻」と書いてあるのを以前見ていたので見覚えあるはずですね
「藤五郎 西南役薩軍狙撃一番左小隊長 於佐土原戦死 ‥‥
室 島津又七久籌長女冬(永吉家)」
また、藤五郎の父・久昌の妹・ヌイさんは、「島津求馬久邦室」であり、
ヌイさんの息子「久能」さんも「応 吉織衛 西南役戦死 ‥‥ でした。。
室 比志島静馬範雅女」
西南の役戦没者名簿で 確認しなくては‥‥‥。
それでは、今夜はこの辺で
☆☆☆☆☆☆
追記(11/4)
南洲墓地墓石配置図により確認! 栗川久澄の一つ置いた右隣にありました!!
たまたまですが、戦没者のネームプレートでも一つ置いた隣同士!