【2024年】ツイッターつぶやき
能登の地震の被害は日を追うごとに被害の状況が拡大しています。
地震ではいつも避難所の問題が大きく取り上げられます。
被災地では、いろいろな支援がはじまっているようですが、やはり避難所の状況が悪い。
震災関連死をされた方が6名ほどいるようですが、相変わらず体育館にござのようなものを敷いて寝ている。
以前、段ボール箱のベッドがテレビで紹介されていましたが、こうした避難設備はなかなか広がらないですね。
一つの町でそろえるのは大変ですが、周辺自治体の在庫を集めるような仕組みも必要でしょう。
岸田さんが明日当たり被災地に行くようですが、ただ行ったというだけで終わってはね。。。
≪過去の日記≫
【2004年】
水羊羹、硬さといい控えめな甘さといい、われながら傑作だと思います。
しかし作りすぎたようで、弁当箱二つ出来てしまいました。
日持ちがしないと思うので急いで食べます。
そういえば以前、豆腐にも挑戦をしたのですが、もちろん大豆豆からですが、硬すぎて失敗でした。また挑戦をしたいと思います。
暇なときに一寸した手作りの食材はおもしろいし、見た目は売っているものにかないませんが、素人の味が出ていいのでは?
【2005年】
ユニクロに行ってきました。
息子がジャンパーをほしいと言うので買いに行ったのですが、案外いい値段でした。しかし質はよいようです。スパーでは娘の春先のジャンパーを買わされました。
スパーもそうですが、もう真冬のものは少なくなり、だんだんと春先のものが多くなっています。数年前、2月の半ば頃だったか、冬物が汚れて欲しいのでスーパーに行ったらもう春物ばかりで買えなかったことがありました。ワンシーズン前に買うべきものなのでしょう。そういえばファッション界は真夏頃に秋・冬物ですからね。。。。
ううう。。。。僕のものは、2枚990円のパンツ・・・・ハハハ
【2006年】
「先生はえらい」
ちくまプリマー新書
内田 樹 著
先生はえらい。先生だからえらいのではない。先生と呼ばれる人はいろいろある。医者や学校の先生、弁護士や政治家先生もいる。そうではなくて人生の師とも呼べるようなそんな先生のことである。
先生だからえらいとなれば、そこには先生と呼ぶほうの主体はなくなり、何が何でもえらいと思わなくてはならなくなるという強制でしかない。
だから先生はえらいというものも、世間がみんな先生というものはえらいものだと決めたから先生はえらいのではない。
しかし先生はえらいのである。
様々な先生といわれる人たちの中にも犯罪を犯す人もいる。犯罪とは言わないまでも人生の師と呼べるような先生は見渡しても本当にいるのか。先生はえらいと思うようなそんな先生がいるのか。いないのである。
先生と呼ばれる人も人の子である。理想を追い求めた観念的なえらい先生はいないのである。
しかし先生はえらいのである。
居もしないえらい先生。しかし先生はえらい。
ここに矛盾があるが、この矛盾を解くのが「私にとってあの先生はえらい先生なのだ」という主体から見ることからしかできない中にそこではじめて「先生はえらい」というものが実在できるのである。
それにしても、いくら主体的なものだといわれても人生の師といわれるような立派な先生がいないことには自分にとっても先生はえらいということにはならないだろうという疑念は残る。しかし、内田さんは恋愛のことを例に取る。
男女が恋愛をしているときは、相手が絶世の美男美女でもないし、性格も100%とはいえない。そのほかの点を見ても100%の相手に恋をするわけではない。しかしアバタも笑窪なのである。互いにこの人しかいないと思い(打算的な恋愛はぬきにして純な恋愛)燃えるのである。それと同じように100%完璧な人格者でなくとも先生として恋焦がれてしまったらその先生はえらいのである。自分個人という純然たる主体において。
恋愛相手を紹介されてのろけ話を聞かされたとき、のろけ話を聞かされ合わされても、下手をすればどこにもいる女(男)じゃないかと「はいはい」を聞いてばかりいるだけだろうが、同じようにえらい先生に会わされてもどこにでもいるようなただのおやじじゃないかと思うこともあるのではないか。そう考えれば恋愛もえらい先生にめぐり合うのもまったくの主体的なのである。
このような意味でえらい先生にめぐり合うには発想の転換が必要ではないか。そしてこの発想の転換から主体も生まれるのではないかというのが本書の語るところだと思う。
この本の目的が中学生や高校生に語ることを目的にされたものだから難しい言葉はない。わかりやすい本である。いろいろ話が脱線しながら楽しく話しをするといった本で読みやすい本である。
しかし、わかりやすく楽しく書かれた本とはいえ、そこには内田さん独特の哲学が展開されているのだと思う。その意味では大人が読んでもおもしろいと思う。その点でまた難しさがあると思う。
この主体的、主体性というものは、ある日彼女彼氏をめぐり合って一目ぼれというものはあるにしても、主体的にこの人と結婚をしようとはじめから思って付き合い結婚をするわけではない。付き合ってみていろいろなことを知りその中で盲目的な恋愛感情が生まれてきて、初めて結婚をしたいとなる。赤い糸で結ばれていたという意識はこの後になって感慨を込めて見つめたときに見えるのである。そうすると、ここでの主体的というのは、彼女彼氏に引かれていく自分自身にあるわけだ。あの人のことをもっと知りたい。あの一言にどんな意味があるのか。草津の湯でも治せぬ恋の病になってしまうのである。主体的に彼女を見つめていくのである。
これと同じように先生との出会いは偶然であるかもしれない。そしておもしろそうな先生というだけだったかもしれない。ここでもこの先生を人生の師にしようと主体的になるわけではない。やはり先生と付き合う中にあの言葉の中に何を言いたかったんだろ?と自らが知りたいという気持ちを起こすこと自体が主体性なのである。先生は人生の師であるという気持ちは、これを教えてくれたという後になって思うことなのである。崇拝に近いものになっていくのであり、主体的に先生を見つめていくのである。
ここではじめて自分にとって「先生はえらい」のである。主体において「先生はえらい」のである。それを「学びの主体性」と書いているのではないかと思う。
はじめに「人生の師と呼べるような先生は見渡しても本当にいるのか。先生はえらいと思うようなそんな先生がいるのか。いないのである。」と書いたが、ここから「学びの主体性」「先生はえらい」という矛盾したものを解決するのが発想の転換なのである。この発想の転換をわかりやすくいろいろと脱線をしながら導いていくところにこの本のおもしろさがあるだろう。
ある意味「先生はえらい」と漱石をしたって集まる弟子たちがいた。その弟子たちは、何も小説を学ぼうと集まっているだけではない。弟子たちは、それぞれに画家であったり物理学者であったり政治家だったり出版社を経営したり雑誌を出したり借金生活をしたりと様々まであり、その専門の道において師がいたわけだろうが、それでも漱石のところに集まってくる。もちろん漱石が有名な小説家になってから近づいた弟子もいただろうが、それもあるひとつの機会であり、やはり漱石の何かに惹かれて集まるのであり、弟子たちのとっては漱石は「先生」なのである。
弟子たちはそれぞれの道において学んでいるのだが、その専門的な学問を学ぶのとは違う意味で漱石のところに集まってくる。ここに弟子たちの「学びの主体性」があるのかもしれない。漱石にはいろいろな底知れない深さがあり、その言葉にまた自分の専門的な道のヒントになるようなものを弟子たちは見つけたのだろう。漱石は漱石で、物理学や絵などを弟子たちに学び、コミュニケーションがあり、世話を焼く中にもコミュニケーションがあったようである。
このような師弟関係をこの本は言おうとしているのかもしれない。
しかし、「学びの主体性」は、言い換えればその主体の持つ価値観によってということになる。
先の恋愛の例を見ても、「そうすると、ここでの主体的というのは、彼女彼氏に引かれていく自分自身にあるわけだ。あの人のことをもっと知りたい。あの一言にどんな意味があるのか。草津の湯でも治せぬ恋の病になってしまうのである。」と先に書いたが、「すごくいい人だと思うけど結婚までは。。。。よいお友達でいてください」という結論も出るわけで、結婚をすれば幸せだと思うけどやはり価値観が最後には出てくるわけだと思う。
会っていれば楽しいし会話も弾む。しかし結婚までは。。。というのは、まったくの主観であり価値観である。
本書では「帳良」という中国の物語(能楽)を例にとるが、そこには帳良の「太公望の兵法を学びたい」という主観と価値観があるわけで、この主観と価値観があったからこそ禅問答のように師の靴を拾い続けて悟り、兵法を会得するわけである。老いぼれたじい様が帳良にとっては「先生はえらい」ということになるのである。
帳良は、師から太公望の兵法とはこういうものだと直接に教えてもらわない。ただ、なぜ師はいつも靴を落として履かせるのだろうという疑問やその意味を考えさせられただけである。師の行動にどんな意味があるのか、何を語っているのか、ここに帳良の「学びの主体性」があるのである。
武者修行中の帳良は、兵法を学びたいという価値観を持っている。価値観を持っているから老いぼれたじい様の靴を拾い続けその意味を主体的に考え学ぶ。そしてその価値観に沿って老いぼれたじい様がえらい先生となる。まずは帳良の主体的な価値観がそれが漠然としたものであってもまずは存在をするということだと僕は思う。男女にしてもまずは自分の価値観において一目ぼれもあるのである。漱石の弟子も、漱石の作品を読んだり、漱石の人となりを聞いたりした中に価値観の一致も生まれるだろう。
しかし、この本では、この価値観をまず捨てよというのではないか?
物事を根源的に見なければならないと、交易をはじめて行ったクロマニョン人の沈黙交易を例に取り、この交易は交換物の価値において行われたのではなく、交易が愉快だから行われたのではないかとする。
この「交易が愉快」だというものは、一つの価値観において愉快なのである。5万年も昔の人たちは、そうは余裕ある生活をしていたのでもないだろうし、ましてや人を喜ばすような様々な種類の物を持っていたわけではないだろう。交換するには余剰の物が必要であり、またはどうしても交換したいとなれば、自分たちが必要とする物を節約して余剰としなくてはならなかっただろう。5万年も前だから贅沢をする王様もいないし一つの家族やそのグループほどの人たちの交易である。その中に物と物とを交換すること自体への喜びはないだろう。喜びがあるとすれば、自分たちの持っていない食い物や道具という物の使用価値を手に入れることである。
ましてや交易は一つの家族同士が行うわけではないだろう。山の家族が余剰のどんぐりの実1000個を沈黙交易に出したら、ある海の家族は10枚の干し魚を置いていき、ある家族は15枚置いていったら、そこにはどんぐり1000個の価値の違いが起こり、そうはゆとりのあるわけではない山の家族はどんぐり1000個は干し魚15枚の価値ありと見るのが普通である。海の家族が干し魚10枚を置いていったら、どんぐり700個だなとか。。。。といったものになるだろう。
いくら沈黙交易といっても言葉を持っていなかったのではないし、お互いにお得意さんともなれば、どんぐりは粉にしてクッキーにして食べればおいしいとか、干し魚はあぶって食ったほうがうまいとかの人との交流も出てくるわけで、クッキーを教えてくれた、あるいはあぶった干し魚を教えてくれたそれぞれの家族は偉いとなっていく。海の家族の奥様が山の家族の奥様に貝のネックレスをプレゼントしたり。。。。
「交易が愉快だ」というのは、こういう使用価値や交換価値に基づいたものであり、これが根源的なのではないか。その根源的なものから人と人との関係が深まりあの人はえら、ある意味お互いに先生になっていくだろう。
えらい先生というのはたしかに後になって感じるものである。
これは先の沈黙交易と同じで、まずは自分自身が持つ価値観からの人と人との交流が根源的であり、自分のやりたい学問があるとか、技術を学びたいとかの価値観から出発をする。この価値観を否定すること自体にえらい先生というもの、人生の師だといえるような先生を考えることに矛盾が出るのである。観念的になりわかりにくくなるのである。
ある学問や技術を学びたいと師事するだろう。その中で多くはただの学問や技術を教えてくれただけの「先生」に出会っただけかもしれない。また、優れた先生だとその分野だけを見れば尊敬できる「先生」もいるだろう。これが根源的なものである。この根源的なものからは必ず派生がある。それが人と人との関係である。自分の学びたいことという価値観がその先生の持つ人生観とつながったりもしていく。そこが見えるとただの生徒と先生ではなくなる。ここからえらい先生が、主観から主体から生まれる。
えらい先生というのは、先の沈黙交易の例をとるなら、どれだけ余剰のものを持っているかということである。
だから、「あの先生は学問的あるいは技術的には劣るところもあるが、人生観やその道へのこだわりやら何かその余剰な部分にひかれ、自分にとっては多くのヒントになるしなんとなくひきつけられるんだなぁ。。。」ということもありえるわけである。
学ぶ主体は、その自身の価値観と、その価値観からやはり派生するものをどれだけ持つか見ることができるかにある。
余剰なものを受け止めるだけの主体が必要だということであり、ガリ勉君や食うため金のためだけに学ぶ人には、えらい先生は見えてこない。せっかくのえらい先生の余剰なものがただの無駄話にしか聞こえない。
しかし、余剰なものを豊富に持っている先生だからといって、すべての人にえらい先生にはなれない。その余剰なものに引き付けられる人だけがその先生をえらいと思うことができるのであり、それはその人の価値観から来る。だからその先生はその人だけのえらい先生となりうるのである。
ここにコミュニケーションがあり、このコミュニケーションは、得体の知れないわからないものに基づくのではない互いの価値観のぶつかり合いであり、価値法則に基づくものなのである。
先生が何を言いたいのかわからないだけなら生徒・弟子は永久に何を言いたいかは見えてこない。
知らないことを話しているが、そこに自分の知りたいことのヒントを見つけるのが自分の価値観である。時には見当はずれに考えたりもするし、誤解もあるかもしれない。しかしその誤解や見当違いが自分の価値観においてヒントとなるのである。
人の持つこの価値観、これをあいまいにした「学び主体性」は、どこか観念的な個人主義を感じ、同時にそれは「先生はえら」というその先生自体が薄ぼんやりとした人間として現れ、どこの親父かわからないような人間もえらい先生となってしまう。
価値観というのはもちろん個人の中にあるのだが、この個人の価値観は今ある社会や人間の関係の中にあり、規定される。まったくの個人的価値観は存在しない。これは歴史的な経過の中にもあり、未来を見つめる基礎ともなる。社会性や人間の関係においた中にこそ「学びの主体性」はあり、これから離れた観念的な自由から来る主体性は存在しないのである。
【2007年】
足の裏。。。魚の目かな?
タコのように硬くなって、中心に白い根っこのようなものが。
そういえば、おやじが若い頃、魚の目が生長すると痛いからと剃刀でけずりとっていたっけ。。。。
僕も前にも出来たけど、そのときは抓めてとれば治ったけど。。。。
今度のは頑固そう。
夕食を作ったけど、なんだか味付けが濃すぎたようで、まずかったです。
時々スランプになる。。。。
もしかしてスランプというよりは、疲れているときに味付けが濃くなってしまうのかな?
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
今夜はキムチチゲ鍋
肉やアサリ、白子を入れて豆腐や油揚げ、そして野菜をたくさん。最後にきし麺を入れ仕上げはキムチ。キムチはあまり火を通さないほうがうまいです。
東京は暖かい日が続いていましたが、昨日から寒波がやってきました。これが本来の東京の冬。。。。空っ風ぴゅーぴゅー。。。。こういう日はキムチ鍋に限ります。
簡単ですしね。。。。そうそうスープはいつも市販のものを使います。
珊瑚の島で千鳥足(続ばらとおむつ)
角川文庫
銀色 夏生 著
2008年10月25日角川文庫より初版発行。
「ばらとおむつ」の続編です。
「ばらとおむつ」は2007年4月に発売になりましたが1年半ぶりの続編でした。「ばらとおむつ」という題名は、母親「しげちゃん」が脳梗塞で倒れ、その病状と介護の様子を兄「せっせ」がご兄弟たち(夏生さんは4人兄弟ーー「せっせ」、夏生さん、「テル」、「エミ」)にメール通信として出した通信の題名でした。今回の「珊瑚の島で千鳥足」もやはり「せっせ」の通信の題名です。珊瑚の島というのは、「せっせ」が「しげちゃん」を連れて南の島に移住すると言い出し、その計画から次の通信は「珊瑚の島で千鳥足」か!ということで名づけられたものです。さいわい?というのか、南の島への移住はまだでしたが、「せっせ」のいつか実現したい夢といった形で通信の題名としたのではないかと思います。本文中には南の島とはいわないまでも宮崎県の海の見えるような場所にとも。
ということで「せっせ」の通信「珊瑚の島で千鳥足」1号は、2007年3月12日にはじまります。(うん?夏生さんの誕生日?)
通信「ばらとおむつ」は、2007年1月3日100号で終わっていますから、約2ヶ月ぶりに通信が復活したようです。「ばらとおむつ」の夏生さんのあとがきには、「ばらとおむつ」101号が載せられています。その中で「せっせ」は次の通信の題名を「珊瑚の島で千鳥足」にと。このように「せっせ」の通信「ばらとおむつ」と「珊瑚の島で千鳥足」はほぼつながった形で、夏生さんの作品としての「珊瑚の島で千鳥足」もまさに続きなのです。そして今年7月8日の100号まで「せっせ」の通信は続きます。
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」 (背表紙より引用)
銀色夏生家もいろいろと。。。。。
生きていればそこに家族がいて親戚がいて周りの人に囲まれて生活をする。その中に日々いろいろな出来事が起きて一つひとつに喜怒哀楽が。
毎日が大きな出来事にあるわけではないけどその中で一喜一憂しながら過ごしていきます。平凡のようでもありあわただしくもあり。そのあわただしさも平凡に。でもこの平凡を見つめるとそこにはまさに笑いと涙があるわけで、そして怒ったりぼうっとしたり。そのような日々をつづることの面白さをこの作品は教えてくれるのかもしれません。それは通信として自分と母親との暮らしを通信として兄弟に送る「せっせ」の書くものの中にも言えることだと思います。
夏生さんのご実家は、宮崎県と鹿児島県、熊本県の県境にあるようですが、小さな温泉町のようです。多分のんびりとした時間が過ぎていく町なのでしょう。そのような町に住みながら日々起きる事々。。。それを見つめる夏生さんと「せっせ」の生活への考え方というのか生き方が出ています。もしかしたらそれ以上に「しげちゃん」の毎日の生き方が出ているのかもしれません。
「つれづれノート」という作品が発表されたときからそれ自体が詩人・作家としての銀色夏生の日記エッセイではなく、一人の女性として生きる銀色夏生の世界でした。ですから読者は詩人や作家と向き合うというよりも自立して仕事をして子育てをしていく一人の女性と向き合うわけです。もちろん作家ですから収入や時間的な自由はありますし、時々は作品の話やプロとしての作家意識も語られますが、基本的には日々の生活や人間関係の中でどんよりと過ごす銀色夏生なのです。
この日々をどんよりとしながらも見つめる視点、そこに人生の楽しさを発見したりするその生き方ですね。それも肩を張って生きるのではなくて自然に過ごし見つめられること。それが魅力でしょうし、読者も自分のことを見つめることの大切さを読後に感じるのです。
その点は、「せっせ」の通信にも現れています。たぶん介護や家の整理などは大変なことだと思うのですが、その大変さは見えつつどこかその大変さをもクスッと笑ってしまうように書いていく。それも変にニヒルではなくて心から時には楽しんでいるようにも感じられます。介護を必要な「しげちゃん」に時には癇癪を起こしながらもお誕生日のささやかなイベントを兄弟に問う。土地問題では怪しげな不動産屋にはらはらしたり。生活パターンからの「せっせ丼」(笑)などなど。なんだか人生って面白いなぁと感じます。弟の「テル」も心臓に異変が。もちろんみな心配しますがどこかユーモア的にも読めます。「しげちゃん」ももちろんなのですが、ご家族みんなが人生を楽しんでいるように。。。。視点を変えれば苦しさも後になれば笑ってしまうようなことはたくさんあります。ここには日常を文章にするということの特殊性もあるのかもしれません。特に人に読んでもらうというまったくの私的な日記ではない性格の文章に。自分を客観視できるというのか、感情をある程度抑えられたときにしか文章にはなりませんから。
夏生さんは、人生はゲームのようなものと他の作品で書いていますが、この作品をお読みになるだけでその意味の深いことが読み取れると思います。ゲームのようなものとはぜんぜん不謹慎な言葉ではないのです。漱石が作品において、人は喜劇を演じると書いていますが、客観視をすればすべて滑稽なのかもしれません。もちろん漱石は死だけが悲劇だと。日常の中に怒るいろいろなこと。。。。そのときには激しい喜怒哀楽があるけど、それを文章にする余裕が生まれたとき、人は喜劇を演じることが見え、ゲームだよなぁ。。。と許したり落ち着いたりできるわけです。でも、それは根底に日々の出来事や社会の出来事を見つめる目を持っていて考えぬける方が持てる視点ではないでしょうか。
悲劇を見つめられるから喜劇として見える。。。。
東京に出てきた銀色夏生一家。。。。
今も
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」
ということを感じながら日々を生きていらっしゃることでしょう。
【2010年】
(記事なし)
【2011年】ツイッターつぶやき
今朝の朝日新聞1面に公立学校の先生の数が足りなくい状態が出ているとあった。
世紀の先生と常勤の代替先生そして非常勤といろんな先生がいるようですが、今は正社員が減って派遣社員やバイトといった人たちが増えている社会ですから教員の世界も同じ自体が発生しているのでしょうか。子供の頃、先生が風邪などで休んで自習となると喜んだものですが、今の子供たちはこの喜びを満喫できる幸せな状態なのか(笑)
今は失業時代といわれていますが、その反面人手が足りない状況が出ている。これはいろんな産業に出ているのではないかと思います。たしかに教員は資格を持った人しかできない職業ですからその資格を持った人が減ってくれば公立校などは人手が足りない状況にもなるのかもしれませんが、それが理由とはいえないのでは?
失業者が多い中で人手が足りない状況というのは、一方における過度の労働と一方における仕事がないという状況ですが、これは一見して矛盾ですね。なぜこの矛盾が起きるのか?
学校も例外ではないと思うのですが、日本全国利潤を上げるためには(あるいは公立の学校のようなところでは予算がありますから)人件費を「節約」使用とします。それは人件費を一人ひとりの額を下げるということでもありますが、より少ない労働者でより多くの仕事をさせるということでもあります。とうぜん労働は過密化したり時間外労働が増えたり中にはサービス残業も増える。このような方法が随所に見られる中に労働力の節約が出ているのですが、そうすれば必然的に職につけない人が増えるわけです。職についてもきつくて低賃金で正社員に比べて差別化されたりしていては辞める人も出てくるわけです。職がないなら何でもやれという今の社会の論理のある意味破綻です。よく失業とは言うが何でもいいから働くという意欲があれば食はあるといった論理を言う人がいますが、そのような論理は空論です。労働意欲がなくなるほどに低賃金と労働強化・長時間労働が続けば矛盾は出てきます。
学校の先生もいろいろと報道されるようなことがたくさんあったり、モンスター保護者(お客様)や主任制度の競争やら教員免許の更新やら大変らしいし、いろいろと精神的なものでダウンする先生も出ているという。先生という職業に憧れがあってもいざやるとなると正規の先生としては雇われないでやることは同じでは。。。。。。
失業時代の人員不足は矛盾ではなくて今の社会の考え方や動きからすれば何の矛盾もない必然なわけです。
こういう状態が長引けば労働の質の低下は出てくるでしょう。同時に同じようにさまざまな「節約」は商品やサービスの低下を招くことでしょう。低賃金層にはそれなりのものを、高賃金層には質の良い物。。。。。これが定着をしてくる。社会全体が衰退をしていく。。。。。
ここから飛び出ようとする人々が集まりつつあるのか?
政治や経済・文化などさまざまな分野の規制されたもの(権威なども含めて)に見切りをつけ、ただニヒルになるのではなくて何かを始めようとする動き?
【2012年】
(記事なし)
【2013年】ツイッターつぶやき
先日も書きましたが、安倍内閣が推し進める経済対策には企業優先の景気対策はありますが、国民生活への対策がありません。もちろん企業優先の景気対策も公共事業でのばらまきが主なもので、そこにはオリンピックの開催も含まれています。
今のデフレの分析をしないままにデフレをいきなりインフレに持って行くという誤った発想のもとに行われるわけですから、現在のデフレの原因である勤労国民の懐にある貨幣量の不足をどう解決するかがありません。
当然そこには失業問題や低賃金化がありますし社会保障の問題もあります。ここをどうするかが見えないのが今の安倍政権でしょう。
企業が発展あるいは利益を上げれば雇用も増えて賃金も上がり、税収は増えて社会保障に回るといった条件はどこにも見えないわけです。
経済の発展とデフレ対策は一致をするわけではなくて、新たな企業優先の景気回復と同時にその条件のもとにデフレは続くでしょう。もちろん見せかけのインフレ傾向が出るかもしれませんがそれも景気の回復といえるものではなくてそのインフレの中にデフレ傾向が発生するでしょう。貨幣の発行量(貨幣価値の低下)の中でのデフレですから影響は悪いほうに拡大するでしょう。
景気の回復と不況が同時に発生をし、国民生活はさらに追い詰められます。
【2014年】ツイッターつぶやき
日銀の調査によると12月の個人景況感が二期連続で悪化したという。その中で現在の収入が減って、物価は上がったと感じている。安倍政権が誕生して1年が過ぎ、政府や日銀・一部企業そして富裕層は景気の回復傾向を言っていますが、今回の個人景況感はその景気の回復傾向という認識と乖離したものとなっている。
円安は日銀の量的緩和により進んだが、実はこれまでの円高はドル安だったわけで、アメリカの景気回復(それも実体経済を反映しているかどうかはわからないあるが)によるドル高によって円安傾向は固定化しそうです。するとこの円安傾向はさらに輸入品目の値上がりとそれが原材料やエネルギーなどの場合はじわじわとさまざまな商品の値上がりとなる。そして消費増税が実施をされる。悪性の物価上昇はさらにひどくなり、それに加えて政府はこの悪性の物価上昇をデフレからの脱却として歓迎をしているわけですから一般国民の生活はさらに低下をしていくでしょう。賃上げは政府によるとボーナスが上がったと宣伝していますが、実態はこの景況感に表れているようにその効果は一部の業種に限られて多くの業種においてあるいは就労状況において収入は低下をし続けています。春闘などでの賃上げもやはり業種別あるいは就労環境において格差が生じるでしょう。そして全体的には低下するかもしれない。
この収入の低下と悪性の物価高を背景ともいえるようにスーパーの売れ行きは落ちて利益は大幅に落ちてきている。
こういった一般国民の生活の低下はスーパーなどの売れ行きに作用してそれは産業間に徐々に広まる危険性があります。それは景気の拡大の足を引っ張るでしょう。それは株価にも通貨にも影響が出るでしょう。するとまた政府・日銀は更なる緩和策と企業防衛のための低賃金化を行わざるを得ない。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2018年】ツイッターつぶやき
床屋に行ってきた。
昨日は暖かくて床屋日和でしたがあいにく休み。
仕方ないので今日行くことにしました。天気も良くて風もないのでまぁいいかと思って。。。。
床屋に行くと店内の暖房があまり効いていない。。。。
椅子に座ると親父がいきなり霧吹きで冷たい水を頭にまんべんなく吹き付けた。おでこあたりに滴が垂れる。
ぬるま湯ぐらい使ってくれればいいのに。。。。体が震える。
我慢をして髪を切ってもらっていると、親父が咳き込んでいる。
顔を剃ってもらうときも。。。。。
この時体はまだ寒いし。。。
風邪の予感・・・・・
帰りはパーカーの帽子を深くかぶって帰りました。煙草を切らしていたのでコンビニへ寄りましたが、たぶん女性従業員はコンビニ強盗かなと思ったに違いない。
まぁ、いつも行くコンビニですから店員の女性もほっとしたかも。
年末年始も風邪をひかずに過ごせたのはいいけど、ここにきて風邪もいやですなぁ。
うがいでもしてこよ・・・・・
【2019年】ツイッターつぶやき
2014年に消費税が5%から8%に増税された。
この中で便乗値上げがあったか、どのように便乗値上げがされたかが2014年の東京新聞に書かれている。
問題なのは政府がこのような便乗値上げを防止する法的なものを持ち合わせないということでしょう。というよりも、政府自体が2%の物価目標を立てていたわけですから物価が上がることを容認していたとも見えます。
同時に政府・日銀は量的緩和による円安誘導を行ったことから輸入品目の値上がりがありました。
個人消費は増税前の駆け込み消費がありましたが、増税後に消費は急激に下がっています。
今年10月にはさらに10%の増税が行われることになっていますが、政府は消費の落ち込みを減らすためにいろいろと対策を立てていますが、一時的な対策であり庶民生活は増税にさらされます。もちろん便乗値上げがないとは言い切れません。
以前に何度も書きましたが、賃金にも消費税をかけて労働者の益税にしなければ景気は落ち込むでしょう。社会保障の給付にも消費税分を上乗せするぐらいのことが必要です。
貧乏人泣かせの政治に歯止めが必要でしょう。
毎月勤労統計の不適切さにより失業給付金が過少給付され総額数十億円に上るという。その後過少給付金が膨れ上がり数百億円に上るという。
失業手当というのは失業した人にとっては命綱です。これを統計の変更をいつの間にか行って給付額が減少するというのは失業をした人たちの苦しさを国はないがしろにしているといってもいいでしょう。
「厚労省の担当者が2004年に本来とは異なる調査手法に変更した後、担当者間で15年間引き継がれてきた可能性があることも判明した。調査手法を正しく装うため、データ改変ソフトも作成しており、厚労省の組織的な関与の有無も焦点の一つだ。」(共同通信)
2004年といえば、小泉内閣だと思いますが、このころに年金制度改悪が行われていますが、強い内閣というのは無茶苦茶ですね。もちろん今の安倍内閣もですが。
【2020年】ツイッターつぶやき
今夜東京テレビで栃木県の真岡市など東京から近い都市のぶらり旅をやっていました。
そういえば東京テレビは漫才の千鳥が出演する「いろはに千鳥」という番組がありやはり埼玉県などの都市をぶらり旅というのか散歩というのか訪れる番組があります。今夜の旅番組も同じ系統の構成なのかもしれません。
これといって全国的な観光地や名物があるわけではなく、行ってみればどこにでもあるような小さな都市。そこで何を見つけるか、そうは感動するものはないのですが、それなりに1日楽しめそうです。
そういえば、僕も2005年前後に東京周辺の小さな観光地を巡ったことがありました。お寺に行っても京都や奈良の寺に比べようがないようなところ。でもそれなりに楽しめました。思わぬところにお地蔵さんなんかがあってしばらくその周りの景色を眺めたりしてのんびりできました。
今夜の東京テレビの番組を見ていて思い出しまたぶらっと出かけるのもいいかなと思いました。
昔、当時の交通公社だったと思いますが、そこから分厚く全20巻以上の観光ガイドブックがありました。そこには観光地だけではなくて市町村単位で小さなお寺や神社公園なども載っていて面白かったです。たしか東京から近い都市なども載せてあったと思います。今はこういうガイドブックはあるのでしょうか。
そういえば、「私の石仏散歩」というやはり10巻以上そろった本がありましたが、これも面白かった。ぶらっと出かけた先にこの本で紹介されていた石仏を何度か差がいた記憶があります。
できれば「ぶらタモリ」のような散歩ができれば最高なんでしょうが、まぁ、自分なりに興味をもって退屈しながらもぶらりと出かけるのもいいかなと思います。
【2021年】ツイッターつぶやき
飲食店が営業時間を守らないと罰則
コロナ感染で自宅待機・療養などで出歩けば罰則
感染者が保健所の指示に従わなければ罰則
2月になると思いますが国会が開かれてコロナ関連の特措法改正が予定されその中で罰則が次から次へと出てくるようです。
この間政府はずっとコロナ対策では国民に自助や自己責任を押し付けてきました。
政府はGO Toを強行して人の移動や密を作り出す政策を行ってきました。その結果が現在の第三派です。これについては政府への不満が大きくなり内閣支持率は下がり続け、現在は不支持が逆転しました。
政府の政策の失敗でもその責任は認めずにまるで国民が悪いとして罰則を強めます。
たしかに性具や自治体の要請に従わないことへの批判もあるでしょう。しかし現在医療のひっ迫から崩壊に向かい自宅待機や療養者がものすごい人数になっています。飲食店への補償も具体的にはなっていません。保健所もすでに手一杯状態です。こうした実態は政府の先を読まない無策からのものです。自己責任で何とかしろと言われてもできることできないことがあるでしょう。自宅療養で死んでいる人も出ています。その中で自宅から出れば罰則なんてありえない話です。
政府の無策に国民は当惑しています。その当惑は政府を信頼できないところまで来ています。
国民の実態を無視して国家権力が国民に対して罰則を強化する状態はすでに現政権が政権を維持できないところまで来ていると見たほうがよいでしょう。
以前このブログに自民党政権は経済において自壊すると書いたことがありますが、経済矛盾に加えてコロナへの無策が出てしまいました。強力な数の力を背景とした自公政権の自壊は早まっている。それは自浄能力が働かないところからきています。
【2022年】ツイッターつぶやき
午前中ぼうっとしながらスマホでコロナ情報をニュースサイトで読んでいた。
すると同じページに小池都知事の写真と感染対策という文字が。その隣に中国天津市でクラスターという記事があった。
中国もオリンピックを控えて大変だろうと思いながらニュースを開いたら、天津市で25人オミクロン株のクラスターがあったという。そこで天津市は1400万人全員を2日間で検査を行うと。。。。。
続いて東京都のニュースを見たら、木の発表の新規感染者数が1200人を超えたとして都知事はこの三連休を都民がどのようにして過ごすかによって違うから感染対策を行ってくださいと。。。。。
天津市の人口は東京都とほぼ同じですが、この対応の違いに愕然としました。今日の東京都の新規感染者数は800人ほどで昨日よりだいぶ減りましたが、これは検査件数が少ないことによります。三連休明けの明日もだいぶ減るでしょう。検査件数が減りますから。陽性率は一気に5.8%まで上がりました。危険域です。
中国もコロナにより経済の落ち込みが見えますが、それでも経済は成長をしています。検査を行って感染者を多く見つけてしまうと医療崩壊になり経済が止まってしまうという日本の論理が正しいのでしょうか。
【2023年】ツイッターつぶやき
昨日は暖かでしたが、今日は言って冷え込みました。風も強く日陰を歩いているとかなり寒かったです。
帰宅を急ぎながら笑える寒さ。
こう寒くなると鍋ですなぁ。。。。。。
今夜はキムチ鍋にしました。
白菜、チンゲン菜、エノキ茸、長ネギ、ニラ、豚バラ肉、牡蛎、結び蒟蒻、トッポギ。
〆はわが家の定番リゾットです。
残りのスープにご飯を入れてひと煮たち。
上にトマトのスライスととろけるチーズをたっぷり。
仕上げにオリーブオイルを振りかけて出来上がり。
鍋の具材でだいぶ満腹感があるのですが、リゾットは別腹。。。。。。
能登の地震の被害は日を追うごとに被害の状況が拡大しています。
地震ではいつも避難所の問題が大きく取り上げられます。
被災地では、いろいろな支援がはじまっているようですが、やはり避難所の状況が悪い。
震災関連死をされた方が6名ほどいるようですが、相変わらず体育館にござのようなものを敷いて寝ている。
以前、段ボール箱のベッドがテレビで紹介されていましたが、こうした避難設備はなかなか広がらないですね。
一つの町でそろえるのは大変ですが、周辺自治体の在庫を集めるような仕組みも必要でしょう。
岸田さんが明日当たり被災地に行くようですが、ただ行ったというだけで終わってはね。。。
≪過去の日記≫
【2004年】
水羊羹、硬さといい控えめな甘さといい、われながら傑作だと思います。
しかし作りすぎたようで、弁当箱二つ出来てしまいました。
日持ちがしないと思うので急いで食べます。
そういえば以前、豆腐にも挑戦をしたのですが、もちろん大豆豆からですが、硬すぎて失敗でした。また挑戦をしたいと思います。
暇なときに一寸した手作りの食材はおもしろいし、見た目は売っているものにかないませんが、素人の味が出ていいのでは?
【2005年】
ユニクロに行ってきました。
息子がジャンパーをほしいと言うので買いに行ったのですが、案外いい値段でした。しかし質はよいようです。スパーでは娘の春先のジャンパーを買わされました。
スパーもそうですが、もう真冬のものは少なくなり、だんだんと春先のものが多くなっています。数年前、2月の半ば頃だったか、冬物が汚れて欲しいのでスーパーに行ったらもう春物ばかりで買えなかったことがありました。ワンシーズン前に買うべきものなのでしょう。そういえばファッション界は真夏頃に秋・冬物ですからね。。。。
ううう。。。。僕のものは、2枚990円のパンツ・・・・ハハハ
【2006年】
「先生はえらい」
ちくまプリマー新書
内田 樹 著
先生はえらい。先生だからえらいのではない。先生と呼ばれる人はいろいろある。医者や学校の先生、弁護士や政治家先生もいる。そうではなくて人生の師とも呼べるようなそんな先生のことである。
先生だからえらいとなれば、そこには先生と呼ぶほうの主体はなくなり、何が何でもえらいと思わなくてはならなくなるという強制でしかない。
だから先生はえらいというものも、世間がみんな先生というものはえらいものだと決めたから先生はえらいのではない。
しかし先生はえらいのである。
様々な先生といわれる人たちの中にも犯罪を犯す人もいる。犯罪とは言わないまでも人生の師と呼べるような先生は見渡しても本当にいるのか。先生はえらいと思うようなそんな先生がいるのか。いないのである。
先生と呼ばれる人も人の子である。理想を追い求めた観念的なえらい先生はいないのである。
しかし先生はえらいのである。
居もしないえらい先生。しかし先生はえらい。
ここに矛盾があるが、この矛盾を解くのが「私にとってあの先生はえらい先生なのだ」という主体から見ることからしかできない中にそこではじめて「先生はえらい」というものが実在できるのである。
それにしても、いくら主体的なものだといわれても人生の師といわれるような立派な先生がいないことには自分にとっても先生はえらいということにはならないだろうという疑念は残る。しかし、内田さんは恋愛のことを例に取る。
男女が恋愛をしているときは、相手が絶世の美男美女でもないし、性格も100%とはいえない。そのほかの点を見ても100%の相手に恋をするわけではない。しかしアバタも笑窪なのである。互いにこの人しかいないと思い(打算的な恋愛はぬきにして純な恋愛)燃えるのである。それと同じように100%完璧な人格者でなくとも先生として恋焦がれてしまったらその先生はえらいのである。自分個人という純然たる主体において。
恋愛相手を紹介されてのろけ話を聞かされたとき、のろけ話を聞かされ合わされても、下手をすればどこにもいる女(男)じゃないかと「はいはい」を聞いてばかりいるだけだろうが、同じようにえらい先生に会わされてもどこにでもいるようなただのおやじじゃないかと思うこともあるのではないか。そう考えれば恋愛もえらい先生にめぐり合うのもまったくの主体的なのである。
このような意味でえらい先生にめぐり合うには発想の転換が必要ではないか。そしてこの発想の転換から主体も生まれるのではないかというのが本書の語るところだと思う。
この本の目的が中学生や高校生に語ることを目的にされたものだから難しい言葉はない。わかりやすい本である。いろいろ話が脱線しながら楽しく話しをするといった本で読みやすい本である。
しかし、わかりやすく楽しく書かれた本とはいえ、そこには内田さん独特の哲学が展開されているのだと思う。その意味では大人が読んでもおもしろいと思う。その点でまた難しさがあると思う。
この主体的、主体性というものは、ある日彼女彼氏をめぐり合って一目ぼれというものはあるにしても、主体的にこの人と結婚をしようとはじめから思って付き合い結婚をするわけではない。付き合ってみていろいろなことを知りその中で盲目的な恋愛感情が生まれてきて、初めて結婚をしたいとなる。赤い糸で結ばれていたという意識はこの後になって感慨を込めて見つめたときに見えるのである。そうすると、ここでの主体的というのは、彼女彼氏に引かれていく自分自身にあるわけだ。あの人のことをもっと知りたい。あの一言にどんな意味があるのか。草津の湯でも治せぬ恋の病になってしまうのである。主体的に彼女を見つめていくのである。
これと同じように先生との出会いは偶然であるかもしれない。そしておもしろそうな先生というだけだったかもしれない。ここでもこの先生を人生の師にしようと主体的になるわけではない。やはり先生と付き合う中にあの言葉の中に何を言いたかったんだろ?と自らが知りたいという気持ちを起こすこと自体が主体性なのである。先生は人生の師であるという気持ちは、これを教えてくれたという後になって思うことなのである。崇拝に近いものになっていくのであり、主体的に先生を見つめていくのである。
ここではじめて自分にとって「先生はえらい」のである。主体において「先生はえらい」のである。それを「学びの主体性」と書いているのではないかと思う。
はじめに「人生の師と呼べるような先生は見渡しても本当にいるのか。先生はえらいと思うようなそんな先生がいるのか。いないのである。」と書いたが、ここから「学びの主体性」「先生はえらい」という矛盾したものを解決するのが発想の転換なのである。この発想の転換をわかりやすくいろいろと脱線をしながら導いていくところにこの本のおもしろさがあるだろう。
ある意味「先生はえらい」と漱石をしたって集まる弟子たちがいた。その弟子たちは、何も小説を学ぼうと集まっているだけではない。弟子たちは、それぞれに画家であったり物理学者であったり政治家だったり出版社を経営したり雑誌を出したり借金生活をしたりと様々まであり、その専門の道において師がいたわけだろうが、それでも漱石のところに集まってくる。もちろん漱石が有名な小説家になってから近づいた弟子もいただろうが、それもあるひとつの機会であり、やはり漱石の何かに惹かれて集まるのであり、弟子たちのとっては漱石は「先生」なのである。
弟子たちはそれぞれの道において学んでいるのだが、その専門的な学問を学ぶのとは違う意味で漱石のところに集まってくる。ここに弟子たちの「学びの主体性」があるのかもしれない。漱石にはいろいろな底知れない深さがあり、その言葉にまた自分の専門的な道のヒントになるようなものを弟子たちは見つけたのだろう。漱石は漱石で、物理学や絵などを弟子たちに学び、コミュニケーションがあり、世話を焼く中にもコミュニケーションがあったようである。
このような師弟関係をこの本は言おうとしているのかもしれない。
しかし、「学びの主体性」は、言い換えればその主体の持つ価値観によってということになる。
先の恋愛の例を見ても、「そうすると、ここでの主体的というのは、彼女彼氏に引かれていく自分自身にあるわけだ。あの人のことをもっと知りたい。あの一言にどんな意味があるのか。草津の湯でも治せぬ恋の病になってしまうのである。」と先に書いたが、「すごくいい人だと思うけど結婚までは。。。。よいお友達でいてください」という結論も出るわけで、結婚をすれば幸せだと思うけどやはり価値観が最後には出てくるわけだと思う。
会っていれば楽しいし会話も弾む。しかし結婚までは。。。というのは、まったくの主観であり価値観である。
本書では「帳良」という中国の物語(能楽)を例にとるが、そこには帳良の「太公望の兵法を学びたい」という主観と価値観があるわけで、この主観と価値観があったからこそ禅問答のように師の靴を拾い続けて悟り、兵法を会得するわけである。老いぼれたじい様が帳良にとっては「先生はえらい」ということになるのである。
帳良は、師から太公望の兵法とはこういうものだと直接に教えてもらわない。ただ、なぜ師はいつも靴を落として履かせるのだろうという疑問やその意味を考えさせられただけである。師の行動にどんな意味があるのか、何を語っているのか、ここに帳良の「学びの主体性」があるのである。
武者修行中の帳良は、兵法を学びたいという価値観を持っている。価値観を持っているから老いぼれたじい様の靴を拾い続けその意味を主体的に考え学ぶ。そしてその価値観に沿って老いぼれたじい様がえらい先生となる。まずは帳良の主体的な価値観がそれが漠然としたものであってもまずは存在をするということだと僕は思う。男女にしてもまずは自分の価値観において一目ぼれもあるのである。漱石の弟子も、漱石の作品を読んだり、漱石の人となりを聞いたりした中に価値観の一致も生まれるだろう。
しかし、この本では、この価値観をまず捨てよというのではないか?
物事を根源的に見なければならないと、交易をはじめて行ったクロマニョン人の沈黙交易を例に取り、この交易は交換物の価値において行われたのではなく、交易が愉快だから行われたのではないかとする。
この「交易が愉快」だというものは、一つの価値観において愉快なのである。5万年も昔の人たちは、そうは余裕ある生活をしていたのでもないだろうし、ましてや人を喜ばすような様々な種類の物を持っていたわけではないだろう。交換するには余剰の物が必要であり、またはどうしても交換したいとなれば、自分たちが必要とする物を節約して余剰としなくてはならなかっただろう。5万年も前だから贅沢をする王様もいないし一つの家族やそのグループほどの人たちの交易である。その中に物と物とを交換すること自体への喜びはないだろう。喜びがあるとすれば、自分たちの持っていない食い物や道具という物の使用価値を手に入れることである。
ましてや交易は一つの家族同士が行うわけではないだろう。山の家族が余剰のどんぐりの実1000個を沈黙交易に出したら、ある海の家族は10枚の干し魚を置いていき、ある家族は15枚置いていったら、そこにはどんぐり1000個の価値の違いが起こり、そうはゆとりのあるわけではない山の家族はどんぐり1000個は干し魚15枚の価値ありと見るのが普通である。海の家族が干し魚10枚を置いていったら、どんぐり700個だなとか。。。。といったものになるだろう。
いくら沈黙交易といっても言葉を持っていなかったのではないし、お互いにお得意さんともなれば、どんぐりは粉にしてクッキーにして食べればおいしいとか、干し魚はあぶって食ったほうがうまいとかの人との交流も出てくるわけで、クッキーを教えてくれた、あるいはあぶった干し魚を教えてくれたそれぞれの家族は偉いとなっていく。海の家族の奥様が山の家族の奥様に貝のネックレスをプレゼントしたり。。。。
「交易が愉快だ」というのは、こういう使用価値や交換価値に基づいたものであり、これが根源的なのではないか。その根源的なものから人と人との関係が深まりあの人はえら、ある意味お互いに先生になっていくだろう。
えらい先生というのはたしかに後になって感じるものである。
これは先の沈黙交易と同じで、まずは自分自身が持つ価値観からの人と人との交流が根源的であり、自分のやりたい学問があるとか、技術を学びたいとかの価値観から出発をする。この価値観を否定すること自体にえらい先生というもの、人生の師だといえるような先生を考えることに矛盾が出るのである。観念的になりわかりにくくなるのである。
ある学問や技術を学びたいと師事するだろう。その中で多くはただの学問や技術を教えてくれただけの「先生」に出会っただけかもしれない。また、優れた先生だとその分野だけを見れば尊敬できる「先生」もいるだろう。これが根源的なものである。この根源的なものからは必ず派生がある。それが人と人との関係である。自分の学びたいことという価値観がその先生の持つ人生観とつながったりもしていく。そこが見えるとただの生徒と先生ではなくなる。ここからえらい先生が、主観から主体から生まれる。
えらい先生というのは、先の沈黙交易の例をとるなら、どれだけ余剰のものを持っているかということである。
だから、「あの先生は学問的あるいは技術的には劣るところもあるが、人生観やその道へのこだわりやら何かその余剰な部分にひかれ、自分にとっては多くのヒントになるしなんとなくひきつけられるんだなぁ。。。」ということもありえるわけである。
学ぶ主体は、その自身の価値観と、その価値観からやはり派生するものをどれだけ持つか見ることができるかにある。
余剰なものを受け止めるだけの主体が必要だということであり、ガリ勉君や食うため金のためだけに学ぶ人には、えらい先生は見えてこない。せっかくのえらい先生の余剰なものがただの無駄話にしか聞こえない。
しかし、余剰なものを豊富に持っている先生だからといって、すべての人にえらい先生にはなれない。その余剰なものに引き付けられる人だけがその先生をえらいと思うことができるのであり、それはその人の価値観から来る。だからその先生はその人だけのえらい先生となりうるのである。
ここにコミュニケーションがあり、このコミュニケーションは、得体の知れないわからないものに基づくのではない互いの価値観のぶつかり合いであり、価値法則に基づくものなのである。
先生が何を言いたいのかわからないだけなら生徒・弟子は永久に何を言いたいかは見えてこない。
知らないことを話しているが、そこに自分の知りたいことのヒントを見つけるのが自分の価値観である。時には見当はずれに考えたりもするし、誤解もあるかもしれない。しかしその誤解や見当違いが自分の価値観においてヒントとなるのである。
人の持つこの価値観、これをあいまいにした「学び主体性」は、どこか観念的な個人主義を感じ、同時にそれは「先生はえら」というその先生自体が薄ぼんやりとした人間として現れ、どこの親父かわからないような人間もえらい先生となってしまう。
価値観というのはもちろん個人の中にあるのだが、この個人の価値観は今ある社会や人間の関係の中にあり、規定される。まったくの個人的価値観は存在しない。これは歴史的な経過の中にもあり、未来を見つめる基礎ともなる。社会性や人間の関係においた中にこそ「学びの主体性」はあり、これから離れた観念的な自由から来る主体性は存在しないのである。
【2007年】
足の裏。。。魚の目かな?
タコのように硬くなって、中心に白い根っこのようなものが。
そういえば、おやじが若い頃、魚の目が生長すると痛いからと剃刀でけずりとっていたっけ。。。。
僕も前にも出来たけど、そのときは抓めてとれば治ったけど。。。。
今度のは頑固そう。
夕食を作ったけど、なんだか味付けが濃すぎたようで、まずかったです。
時々スランプになる。。。。
もしかしてスランプというよりは、疲れているときに味付けが濃くなってしまうのかな?
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
今夜はキムチチゲ鍋
肉やアサリ、白子を入れて豆腐や油揚げ、そして野菜をたくさん。最後にきし麺を入れ仕上げはキムチ。キムチはあまり火を通さないほうがうまいです。
東京は暖かい日が続いていましたが、昨日から寒波がやってきました。これが本来の東京の冬。。。。空っ風ぴゅーぴゅー。。。。こういう日はキムチ鍋に限ります。
簡単ですしね。。。。そうそうスープはいつも市販のものを使います。
珊瑚の島で千鳥足(続ばらとおむつ)
角川文庫
銀色 夏生 著
2008年10月25日角川文庫より初版発行。
「ばらとおむつ」の続編です。
「ばらとおむつ」は2007年4月に発売になりましたが1年半ぶりの続編でした。「ばらとおむつ」という題名は、母親「しげちゃん」が脳梗塞で倒れ、その病状と介護の様子を兄「せっせ」がご兄弟たち(夏生さんは4人兄弟ーー「せっせ」、夏生さん、「テル」、「エミ」)にメール通信として出した通信の題名でした。今回の「珊瑚の島で千鳥足」もやはり「せっせ」の通信の題名です。珊瑚の島というのは、「せっせ」が「しげちゃん」を連れて南の島に移住すると言い出し、その計画から次の通信は「珊瑚の島で千鳥足」か!ということで名づけられたものです。さいわい?というのか、南の島への移住はまだでしたが、「せっせ」のいつか実現したい夢といった形で通信の題名としたのではないかと思います。本文中には南の島とはいわないまでも宮崎県の海の見えるような場所にとも。
ということで「せっせ」の通信「珊瑚の島で千鳥足」1号は、2007年3月12日にはじまります。(うん?夏生さんの誕生日?)
通信「ばらとおむつ」は、2007年1月3日100号で終わっていますから、約2ヶ月ぶりに通信が復活したようです。「ばらとおむつ」の夏生さんのあとがきには、「ばらとおむつ」101号が載せられています。その中で「せっせ」は次の通信の題名を「珊瑚の島で千鳥足」にと。このように「せっせ」の通信「ばらとおむつ」と「珊瑚の島で千鳥足」はほぼつながった形で、夏生さんの作品としての「珊瑚の島で千鳥足」もまさに続きなのです。そして今年7月8日の100号まで「せっせ」の通信は続きます。
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」 (背表紙より引用)
銀色夏生家もいろいろと。。。。。
生きていればそこに家族がいて親戚がいて周りの人に囲まれて生活をする。その中に日々いろいろな出来事が起きて一つひとつに喜怒哀楽が。
毎日が大きな出来事にあるわけではないけどその中で一喜一憂しながら過ごしていきます。平凡のようでもありあわただしくもあり。そのあわただしさも平凡に。でもこの平凡を見つめるとそこにはまさに笑いと涙があるわけで、そして怒ったりぼうっとしたり。そのような日々をつづることの面白さをこの作品は教えてくれるのかもしれません。それは通信として自分と母親との暮らしを通信として兄弟に送る「せっせ」の書くものの中にも言えることだと思います。
夏生さんのご実家は、宮崎県と鹿児島県、熊本県の県境にあるようですが、小さな温泉町のようです。多分のんびりとした時間が過ぎていく町なのでしょう。そのような町に住みながら日々起きる事々。。。それを見つめる夏生さんと「せっせ」の生活への考え方というのか生き方が出ています。もしかしたらそれ以上に「しげちゃん」の毎日の生き方が出ているのかもしれません。
「つれづれノート」という作品が発表されたときからそれ自体が詩人・作家としての銀色夏生の日記エッセイではなく、一人の女性として生きる銀色夏生の世界でした。ですから読者は詩人や作家と向き合うというよりも自立して仕事をして子育てをしていく一人の女性と向き合うわけです。もちろん作家ですから収入や時間的な自由はありますし、時々は作品の話やプロとしての作家意識も語られますが、基本的には日々の生活や人間関係の中でどんよりと過ごす銀色夏生なのです。
この日々をどんよりとしながらも見つめる視点、そこに人生の楽しさを発見したりするその生き方ですね。それも肩を張って生きるのではなくて自然に過ごし見つめられること。それが魅力でしょうし、読者も自分のことを見つめることの大切さを読後に感じるのです。
その点は、「せっせ」の通信にも現れています。たぶん介護や家の整理などは大変なことだと思うのですが、その大変さは見えつつどこかその大変さをもクスッと笑ってしまうように書いていく。それも変にニヒルではなくて心から時には楽しんでいるようにも感じられます。介護を必要な「しげちゃん」に時には癇癪を起こしながらもお誕生日のささやかなイベントを兄弟に問う。土地問題では怪しげな不動産屋にはらはらしたり。生活パターンからの「せっせ丼」(笑)などなど。なんだか人生って面白いなぁと感じます。弟の「テル」も心臓に異変が。もちろんみな心配しますがどこかユーモア的にも読めます。「しげちゃん」ももちろんなのですが、ご家族みんなが人生を楽しんでいるように。。。。視点を変えれば苦しさも後になれば笑ってしまうようなことはたくさんあります。ここには日常を文章にするということの特殊性もあるのかもしれません。特に人に読んでもらうというまったくの私的な日記ではない性格の文章に。自分を客観視できるというのか、感情をある程度抑えられたときにしか文章にはなりませんから。
夏生さんは、人生はゲームのようなものと他の作品で書いていますが、この作品をお読みになるだけでその意味の深いことが読み取れると思います。ゲームのようなものとはぜんぜん不謹慎な言葉ではないのです。漱石が作品において、人は喜劇を演じると書いていますが、客観視をすればすべて滑稽なのかもしれません。もちろん漱石は死だけが悲劇だと。日常の中に怒るいろいろなこと。。。。そのときには激しい喜怒哀楽があるけど、それを文章にする余裕が生まれたとき、人は喜劇を演じることが見え、ゲームだよなぁ。。。と許したり落ち着いたりできるわけです。でも、それは根底に日々の出来事や社会の出来事を見つめる目を持っていて考えぬける方が持てる視点ではないでしょうか。
悲劇を見つめられるから喜劇として見える。。。。
東京に出てきた銀色夏生一家。。。。
今も
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」
ということを感じながら日々を生きていらっしゃることでしょう。
【2010年】
(記事なし)
【2011年】ツイッターつぶやき
今朝の朝日新聞1面に公立学校の先生の数が足りなくい状態が出ているとあった。
世紀の先生と常勤の代替先生そして非常勤といろんな先生がいるようですが、今は正社員が減って派遣社員やバイトといった人たちが増えている社会ですから教員の世界も同じ自体が発生しているのでしょうか。子供の頃、先生が風邪などで休んで自習となると喜んだものですが、今の子供たちはこの喜びを満喫できる幸せな状態なのか(笑)
今は失業時代といわれていますが、その反面人手が足りない状況が出ている。これはいろんな産業に出ているのではないかと思います。たしかに教員は資格を持った人しかできない職業ですからその資格を持った人が減ってくれば公立校などは人手が足りない状況にもなるのかもしれませんが、それが理由とはいえないのでは?
失業者が多い中で人手が足りない状況というのは、一方における過度の労働と一方における仕事がないという状況ですが、これは一見して矛盾ですね。なぜこの矛盾が起きるのか?
学校も例外ではないと思うのですが、日本全国利潤を上げるためには(あるいは公立の学校のようなところでは予算がありますから)人件費を「節約」使用とします。それは人件費を一人ひとりの額を下げるということでもありますが、より少ない労働者でより多くの仕事をさせるということでもあります。とうぜん労働は過密化したり時間外労働が増えたり中にはサービス残業も増える。このような方法が随所に見られる中に労働力の節約が出ているのですが、そうすれば必然的に職につけない人が増えるわけです。職についてもきつくて低賃金で正社員に比べて差別化されたりしていては辞める人も出てくるわけです。職がないなら何でもやれという今の社会の論理のある意味破綻です。よく失業とは言うが何でもいいから働くという意欲があれば食はあるといった論理を言う人がいますが、そのような論理は空論です。労働意欲がなくなるほどに低賃金と労働強化・長時間労働が続けば矛盾は出てきます。
学校の先生もいろいろと報道されるようなことがたくさんあったり、モンスター保護者(お客様)や主任制度の競争やら教員免許の更新やら大変らしいし、いろいろと精神的なものでダウンする先生も出ているという。先生という職業に憧れがあってもいざやるとなると正規の先生としては雇われないでやることは同じでは。。。。。。
失業時代の人員不足は矛盾ではなくて今の社会の考え方や動きからすれば何の矛盾もない必然なわけです。
こういう状態が長引けば労働の質の低下は出てくるでしょう。同時に同じようにさまざまな「節約」は商品やサービスの低下を招くことでしょう。低賃金層にはそれなりのものを、高賃金層には質の良い物。。。。。これが定着をしてくる。社会全体が衰退をしていく。。。。。
ここから飛び出ようとする人々が集まりつつあるのか?
政治や経済・文化などさまざまな分野の規制されたもの(権威なども含めて)に見切りをつけ、ただニヒルになるのではなくて何かを始めようとする動き?
【2012年】
(記事なし)
【2013年】ツイッターつぶやき
先日も書きましたが、安倍内閣が推し進める経済対策には企業優先の景気対策はありますが、国民生活への対策がありません。もちろん企業優先の景気対策も公共事業でのばらまきが主なもので、そこにはオリンピックの開催も含まれています。
今のデフレの分析をしないままにデフレをいきなりインフレに持って行くという誤った発想のもとに行われるわけですから、現在のデフレの原因である勤労国民の懐にある貨幣量の不足をどう解決するかがありません。
当然そこには失業問題や低賃金化がありますし社会保障の問題もあります。ここをどうするかが見えないのが今の安倍政権でしょう。
企業が発展あるいは利益を上げれば雇用も増えて賃金も上がり、税収は増えて社会保障に回るといった条件はどこにも見えないわけです。
経済の発展とデフレ対策は一致をするわけではなくて、新たな企業優先の景気回復と同時にその条件のもとにデフレは続くでしょう。もちろん見せかけのインフレ傾向が出るかもしれませんがそれも景気の回復といえるものではなくてそのインフレの中にデフレ傾向が発生するでしょう。貨幣の発行量(貨幣価値の低下)の中でのデフレですから影響は悪いほうに拡大するでしょう。
景気の回復と不況が同時に発生をし、国民生活はさらに追い詰められます。
【2014年】ツイッターつぶやき
日銀の調査によると12月の個人景況感が二期連続で悪化したという。その中で現在の収入が減って、物価は上がったと感じている。安倍政権が誕生して1年が過ぎ、政府や日銀・一部企業そして富裕層は景気の回復傾向を言っていますが、今回の個人景況感はその景気の回復傾向という認識と乖離したものとなっている。
円安は日銀の量的緩和により進んだが、実はこれまでの円高はドル安だったわけで、アメリカの景気回復(それも実体経済を反映しているかどうかはわからないあるが)によるドル高によって円安傾向は固定化しそうです。するとこの円安傾向はさらに輸入品目の値上がりとそれが原材料やエネルギーなどの場合はじわじわとさまざまな商品の値上がりとなる。そして消費増税が実施をされる。悪性の物価上昇はさらにひどくなり、それに加えて政府はこの悪性の物価上昇をデフレからの脱却として歓迎をしているわけですから一般国民の生活はさらに低下をしていくでしょう。賃上げは政府によるとボーナスが上がったと宣伝していますが、実態はこの景況感に表れているようにその効果は一部の業種に限られて多くの業種においてあるいは就労状況において収入は低下をし続けています。春闘などでの賃上げもやはり業種別あるいは就労環境において格差が生じるでしょう。そして全体的には低下するかもしれない。
この収入の低下と悪性の物価高を背景ともいえるようにスーパーの売れ行きは落ちて利益は大幅に落ちてきている。
こういった一般国民の生活の低下はスーパーなどの売れ行きに作用してそれは産業間に徐々に広まる危険性があります。それは景気の拡大の足を引っ張るでしょう。それは株価にも通貨にも影響が出るでしょう。するとまた政府・日銀は更なる緩和策と企業防衛のための低賃金化を行わざるを得ない。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2018年】ツイッターつぶやき
床屋に行ってきた。
昨日は暖かくて床屋日和でしたがあいにく休み。
仕方ないので今日行くことにしました。天気も良くて風もないのでまぁいいかと思って。。。。
床屋に行くと店内の暖房があまり効いていない。。。。
椅子に座ると親父がいきなり霧吹きで冷たい水を頭にまんべんなく吹き付けた。おでこあたりに滴が垂れる。
ぬるま湯ぐらい使ってくれればいいのに。。。。体が震える。
我慢をして髪を切ってもらっていると、親父が咳き込んでいる。
顔を剃ってもらうときも。。。。。
この時体はまだ寒いし。。。
風邪の予感・・・・・
帰りはパーカーの帽子を深くかぶって帰りました。煙草を切らしていたのでコンビニへ寄りましたが、たぶん女性従業員はコンビニ強盗かなと思ったに違いない。
まぁ、いつも行くコンビニですから店員の女性もほっとしたかも。
年末年始も風邪をひかずに過ごせたのはいいけど、ここにきて風邪もいやですなぁ。
うがいでもしてこよ・・・・・
【2019年】ツイッターつぶやき
2014年に消費税が5%から8%に増税された。
この中で便乗値上げがあったか、どのように便乗値上げがされたかが2014年の東京新聞に書かれている。
問題なのは政府がこのような便乗値上げを防止する法的なものを持ち合わせないということでしょう。というよりも、政府自体が2%の物価目標を立てていたわけですから物価が上がることを容認していたとも見えます。
同時に政府・日銀は量的緩和による円安誘導を行ったことから輸入品目の値上がりがありました。
個人消費は増税前の駆け込み消費がありましたが、増税後に消費は急激に下がっています。
今年10月にはさらに10%の増税が行われることになっていますが、政府は消費の落ち込みを減らすためにいろいろと対策を立てていますが、一時的な対策であり庶民生活は増税にさらされます。もちろん便乗値上げがないとは言い切れません。
以前に何度も書きましたが、賃金にも消費税をかけて労働者の益税にしなければ景気は落ち込むでしょう。社会保障の給付にも消費税分を上乗せするぐらいのことが必要です。
貧乏人泣かせの政治に歯止めが必要でしょう。
毎月勤労統計の不適切さにより失業給付金が過少給付され総額数十億円に上るという。その後過少給付金が膨れ上がり数百億円に上るという。
失業手当というのは失業した人にとっては命綱です。これを統計の変更をいつの間にか行って給付額が減少するというのは失業をした人たちの苦しさを国はないがしろにしているといってもいいでしょう。
「厚労省の担当者が2004年に本来とは異なる調査手法に変更した後、担当者間で15年間引き継がれてきた可能性があることも判明した。調査手法を正しく装うため、データ改変ソフトも作成しており、厚労省の組織的な関与の有無も焦点の一つだ。」(共同通信)
2004年といえば、小泉内閣だと思いますが、このころに年金制度改悪が行われていますが、強い内閣というのは無茶苦茶ですね。もちろん今の安倍内閣もですが。
【2020年】ツイッターつぶやき
今夜東京テレビで栃木県の真岡市など東京から近い都市のぶらり旅をやっていました。
そういえば東京テレビは漫才の千鳥が出演する「いろはに千鳥」という番組がありやはり埼玉県などの都市をぶらり旅というのか散歩というのか訪れる番組があります。今夜の旅番組も同じ系統の構成なのかもしれません。
これといって全国的な観光地や名物があるわけではなく、行ってみればどこにでもあるような小さな都市。そこで何を見つけるか、そうは感動するものはないのですが、それなりに1日楽しめそうです。
そういえば、僕も2005年前後に東京周辺の小さな観光地を巡ったことがありました。お寺に行っても京都や奈良の寺に比べようがないようなところ。でもそれなりに楽しめました。思わぬところにお地蔵さんなんかがあってしばらくその周りの景色を眺めたりしてのんびりできました。
今夜の東京テレビの番組を見ていて思い出しまたぶらっと出かけるのもいいかなと思いました。
昔、当時の交通公社だったと思いますが、そこから分厚く全20巻以上の観光ガイドブックがありました。そこには観光地だけではなくて市町村単位で小さなお寺や神社公園なども載っていて面白かったです。たしか東京から近い都市なども載せてあったと思います。今はこういうガイドブックはあるのでしょうか。
そういえば、「私の石仏散歩」というやはり10巻以上そろった本がありましたが、これも面白かった。ぶらっと出かけた先にこの本で紹介されていた石仏を何度か差がいた記憶があります。
できれば「ぶらタモリ」のような散歩ができれば最高なんでしょうが、まぁ、自分なりに興味をもって退屈しながらもぶらりと出かけるのもいいかなと思います。
【2021年】ツイッターつぶやき
飲食店が営業時間を守らないと罰則
コロナ感染で自宅待機・療養などで出歩けば罰則
感染者が保健所の指示に従わなければ罰則
2月になると思いますが国会が開かれてコロナ関連の特措法改正が予定されその中で罰則が次から次へと出てくるようです。
この間政府はずっとコロナ対策では国民に自助や自己責任を押し付けてきました。
政府はGO Toを強行して人の移動や密を作り出す政策を行ってきました。その結果が現在の第三派です。これについては政府への不満が大きくなり内閣支持率は下がり続け、現在は不支持が逆転しました。
政府の政策の失敗でもその責任は認めずにまるで国民が悪いとして罰則を強めます。
たしかに性具や自治体の要請に従わないことへの批判もあるでしょう。しかし現在医療のひっ迫から崩壊に向かい自宅待機や療養者がものすごい人数になっています。飲食店への補償も具体的にはなっていません。保健所もすでに手一杯状態です。こうした実態は政府の先を読まない無策からのものです。自己責任で何とかしろと言われてもできることできないことがあるでしょう。自宅療養で死んでいる人も出ています。その中で自宅から出れば罰則なんてありえない話です。
政府の無策に国民は当惑しています。その当惑は政府を信頼できないところまで来ています。
国民の実態を無視して国家権力が国民に対して罰則を強化する状態はすでに現政権が政権を維持できないところまで来ていると見たほうがよいでしょう。
以前このブログに自民党政権は経済において自壊すると書いたことがありますが、経済矛盾に加えてコロナへの無策が出てしまいました。強力な数の力を背景とした自公政権の自壊は早まっている。それは自浄能力が働かないところからきています。
【2022年】ツイッターつぶやき
午前中ぼうっとしながらスマホでコロナ情報をニュースサイトで読んでいた。
すると同じページに小池都知事の写真と感染対策という文字が。その隣に中国天津市でクラスターという記事があった。
中国もオリンピックを控えて大変だろうと思いながらニュースを開いたら、天津市で25人オミクロン株のクラスターがあったという。そこで天津市は1400万人全員を2日間で検査を行うと。。。。。
続いて東京都のニュースを見たら、木の発表の新規感染者数が1200人を超えたとして都知事はこの三連休を都民がどのようにして過ごすかによって違うから感染対策を行ってくださいと。。。。。
天津市の人口は東京都とほぼ同じですが、この対応の違いに愕然としました。今日の東京都の新規感染者数は800人ほどで昨日よりだいぶ減りましたが、これは検査件数が少ないことによります。三連休明けの明日もだいぶ減るでしょう。検査件数が減りますから。陽性率は一気に5.8%まで上がりました。危険域です。
中国もコロナにより経済の落ち込みが見えますが、それでも経済は成長をしています。検査を行って感染者を多く見つけてしまうと医療崩壊になり経済が止まってしまうという日本の論理が正しいのでしょうか。
【2023年】ツイッターつぶやき
昨日は暖かでしたが、今日は言って冷え込みました。風も強く日陰を歩いているとかなり寒かったです。
帰宅を急ぎながら笑える寒さ。
こう寒くなると鍋ですなぁ。。。。。。
今夜はキムチ鍋にしました。
白菜、チンゲン菜、エノキ茸、長ネギ、ニラ、豚バラ肉、牡蛎、結び蒟蒻、トッポギ。
〆はわが家の定番リゾットです。
残りのスープにご飯を入れてひと煮たち。
上にトマトのスライスととろけるチーズをたっぷり。
仕上げにオリーブオイルを振りかけて出来上がり。
鍋の具材でだいぶ満腹感があるのですが、リゾットは別腹。。。。。。
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