夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「1月 9日という日」

2024年01月09日 07時53分17秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
ヤマト運輸がダイレクトメールなどの配達を郵政に任せるとして2万5千人の委託労働者の首を切るらしい。
宅配も人の労働の部分が大きいですから省力化で人を減らす。しかしその省力化は事業を減らしてのものですから本来の省力化ではなく事業の縮小でしょう。ダイレクトメールは郵政の仕事を奪うことからはじまった。しかし利益が少なくなれば手を引いてまた郵政に返すのでしょうか?
アマゾンは起き配達をはじめ受け取りボックスなどをコンビニの敷地などの置いたりしはじめ、今後はドローンも考えはじめている。労働者を集めるため、給与体系も改善しはじめている。
その中にヤマト運輸の省力化をどのように行うかなんでしょうか。

≪過去の記事≫

【2004年】
ううう。。。。
また麦茶バックと出汁バックを間違えた。。。。。
鍋が沸騰をしたのでふたを開けたら、いつもより濃い出汁がと思ったら麦茶ができていました。味噌を入れなくてよかったです。
あんこが残っていたので、観点寒天を買ってきて水羊羹にしようと作って見ました。今粗熱を取っているところです。さめたら冷蔵庫の中へ。今夜のデザートとして間に合うかな?
ちなみにメインディッシュは角煮です・・・・ことことと煮ているところ・・・・・
布団を干しました。今夜はぬくぬくです・・・ハハハ

【2005年】
久しぶりに角川のホームページをのぞきに行ったら、何と夏生さんの詩集が2月にはつばいと!!
「すみわたる夜空のように」という詩集。
今ちょうど「つれづれノート13」を再読している途中なのですが、そこに「創作意欲がわかない」という文があったのですが、その頃から約1年の間に創作意欲がわいたのかな?そういえばつれづれ13は、後半になると夏生さんの積極性が出ているような気がします。その積極性の延長に詩集の構想が産まれたのかもしれません。
詩人銀色夏生!
うれしいです。
欲を言えばみたかくんシリーズの続きも。。。(笑)少し欲張りかな。。。
また南房総に行ってきました。
館山あたりは風も強くて寒かったのですが、白浜や千倉に行くとほんと温かでした。菜の花も咲き、おはなばたけで花つみがされていました。好きな梅干も買ってきました。店の方の話しでは、塩分はだいぶ強いが、平成初期に漬け込んだものだそうです。なんとなく本物の梅干!という感じがします。
イカの一夜干とサザエも買って来ました。
この辺の名物は鯨なのですが、マンボウも有名らしく、料理屋のメニューにありました。今日は食べられなかったのですが、次回は食ってみたい。白身の魚でした。

【2006年】
成人の日。わが息子も成人式でした。
きれいな着物を着たお嬢さんたち。。。きれいですなぁ。
この頃が一番輝いてますね。
それにしても着物姿が多くなりました。
男連中は。。。渋くスーツまたは羽織袴(笑)
数年前のような荒れた成人式もなくなったようですね。
成人式を思い出そうとしたら思い出せない。。。たしか式典会場には行かなかったと思う。僕たちの頃は成人式なんて関係ねぇ。。なんていう変なツッパリがあった。70年安保の余波も残りそういう違ったツッパリが流行っていたのかもしれない。今はまた違った意味のツッパリはいるが成人式には集まるようです。これはよいのか悪いのか。。。解釈するには難しいいろいろなものが含まれているように感じます。
昔のようにかんけいねぇや。。。というのも変だが、変にお役所の言いなりになって集まるのもやはり変だと。。。。僕のようなへそ曲がりはいろいろと考えてしまう。成人の儀式(二十歳というわけではないが成人の証としての儀式は世界中にあるのだろう)に今の若い人は何を求めるんだろ?体や社会的には成人になるが、精神年齢は幼さが残る。。。そんなちぐはぐさを感じます。真ァ、僕たちが成人を迎えた頃、周りの大人たちも同じことを考えていたのかもしれませんね。こういうことを考えること自体が老人になってきてしまったことなのか。。。
もうそろそろ、3回目の成人式が近づいてくる(笑)
3回目の成人式気持ちだけでも初々しさを取り戻したいなぁ。。。

【2007年】
陽が出ても寒い一日でした。
「今の若い者は。。。。」これは年寄りの口癖でもあり、大人のたわごとである。
たしかに、今年も成人式で暴れたというニュースもあったし、犯罪の低年齢かもあったり、ニートという若者も増えている。しかし大人が作った社会の中で苦しんでいるのはこういう若者なのだ。
7日の「夕螺の掲示板」に「この前、商店街を歩いていたら、すれ違いざまに「こんちわ!!っす」という声。。。誰かなぁと思ったら、息子の同級生でした。」書いたけど、他にもバイト先に買い物に行ったらレジをしながらニコッとする息子の友だち。娘の友達も挨拶をしてくれる。
ところが、近所の大人の中には挨拶すらできない人もいる。
会釈ぐらいする人はまだまし。。。。
こっちから挨拶をすると、下を向いてしまったり、ぎこちない笑顔をする。
こう見ると、若い人に比べてどっちが大人だかわからなくなる。

【2008年】
昨日書いたゴミの問題で思い出しましたが、イタリアでは処分場が減らされて町にゴミが氾濫しているようですね。東京も人事ではないようです。
いろいろリサイクルが始まっていますが、もう一度考え直さねば。。。。
でも、発泡スチロール製の皿をリサイクルに出すには洗わなければならないが、潜在の消費や水の消費は増えるわけでして。。。。
いらに心配でしょうか?
車で安売り店に行って来ました。
ありとあらゆる種類のものが売られていますが、結局買いたいものがありませんでした。あれだけの品数と種類はあるにもかかわらず、大量に売れないものは?
実はシステム手帳を買いに行ったのですが、システム手帳というのはそうは数が出ないからかも知れない。
帰り道新しく出来た住宅展示場が有ったので暇つぶしによってみました。
いやぁ。。。。新しい家というのはいいもんですなぁ。。。。。。

【2009年】
「どこから行っても遠い町」
            新潮社
            川上 弘美  著
小説新潮とyom yomに連載された短編集です。2005年から2008年にかけて連載されたものです。yom yomの連載は読んだのですが、小説新潮のはじめの作品である「小屋のある屋上」から「蛇は穴に入る」までを今回読んでみてこの作品の全体像がわかりました。
短編集といっても連作短編で、
「連続して短編小説を織り成して一つの大きなストーリーにしたものを連作短編とも言う。」 (ウィキぺディア「短編小説」の項目からコピーさせていただきました)
ある主人公の物語という形をとらずにどこかある小さな町の商店街ですれ違うだけの人々のそれぞれを描いたような物語です。人は生きて人と何かしらの形で触れ合う。小さな町の中にもこんな人と人との交わりがあり、ある人にはこの人が交わり、この人はまたあの人に交わる。。。。それぞれに個としての人生があり、その個は他の個と1本の糸でつながる。このような糸は小さな町の中に絡み合うようにつながり切れたり結びついたりしながら絡み合っていきます。そしてそれは時間の経過の中につながりも切れることも新たに作り出して生きます。
魚屋のおばさんにはその人生がある。そのおばさんに客である女性の学校の先生がいてその先生にもその人生がある。その先生には教え子がいてその子供にもその人生があ。い小さな飲み屋の男女には長い人生の交わりがあり、その店でアルバイトをしている学生にも人生があり、客もまた魚屋に働く男としてのその人生がある。
このようなそれぞれの人々の人生は時間の経過の中にまた新たなつながりのある人々をつなげていく。
yom yomで読みはじめたときの印象は「古風な女」であった。「四度目の浪花節」という短編だったこともあるが、小さな飲み屋を開いている女将と使用人の男。その恋が浪花節的である。年上の女の恋する男への思いやりが帰って男を惑わせたり、男が他の女に手をつける中にその年上の女の苦しみがある。浪花節的なのである。
しかし連載が進む中に主人公が男にもなっていくし、若い女性にもなっていく。「おや?」と思いつつ連載が終わりました。今回この作品としてまとめられたものを読むと、この「古風な女」と感じたものが実は「平凡な人生」なのだと気付きました。古風な女とはどこか片隅で生きていくようなイメージなのですが、この古風な女は同時に平凡な生活の中に生きる女性なのであり、それは若いか年配かにかかわらず、女か男にもかかわらずに平凡なのである。しかし平凡ではある中にその平凡にそれぞれの人の人生は必ずあるのである。僕たちが待ちの商店街ですれ違う人々。時にはどこかで顔を見たようなぁ?そう、スーパーのレジの人とか。そんな人々に人生があるんだと気付かされる思いですし、僕自身もその町の中で誰かからすればすれ違う人なのであり、その僕にこうして人生があります。幸せかといえばそうでもなくていろいろと悲しいものを背負っている。でも不幸かといえばそうでもなくて小さな幸せに顔を輝かせる。でもどこか不幸のほうが多いかな?だからこそその不幸の合間の小さな幸せに喜ぶ。
「平凡、は、平均よりも、なんというんだろう、輪郭が決まらない、感じがある」 (「長い夜の紅茶」111ページより引用)
これが平凡というものでしょう。
平凡に生きる人々の物語。それがこの連作短編集「連続して短編小説を織り成して一つの大きなストーリーにしたものを」のすばらしさではないかと思います。平凡な人が集まって小さな町がある。その小さな町に人という人生の大きなストーリーがあるわけです。それぞれの短編に登場する人々。その人々がおりなす町の空気というのか色。そんなものを感じながらその空気や色という人生という大きなストーリーを感じるわけです。
「おれが決め、誰かが決め、女たちが決め、男たちが決め、この地球をとりまく幾数千万もの因果が決め、そうやっておれはここにいるのだった。」 (「どこから行っても遠い町」264ページより引用)
因果ですかぁ。。。。。。
一人ひとりは平凡にこの世に生を送る。さまざまな因果でその糸は結びついたり切れたりしながら。しかし。。。。「人はやがて死ぬる」(「蛇は穴に入る」100ページより引用)
魚屋の春田のおばさんは、死んでもこの町にさまよう。誰かの心に残る限り。
平凡とはいえ、そこに因果があるのなら誰かの心に残るだろう。その因果は生き続けてこの小さな町に残るのである。
すばらしい短編集でした。

【2010年】
(記事なし)

【2011年】
西伊豆方面にドライブに行ってきました。今回の目的は小アジ寿司と塩鰹。
小アジ寿司は西伊豆町の宇久須というところの名物のようです。柿エキスや蜂蜜を入れたご飯の握りずしで、紫蘇の葉の上にアジの刺身、その上に長ネギとおろし生姜が乗せてあります。醤油皿に醤油をいれて付けて食べようとしたら醤油はじかに寿司のかけるとのこと。。。。。
一人前大皿で13個、小皿で10個でした。大皿にしてみたのですが、13個は多いかなとも、アジだけですから飽きるかなとも思ったのですが、ところが次から次へと口の中へ。あっという間に13個食ってしまいました。ボリュームはもちろん十分です。でもいくつでも食べられるというおいしさでした。やはりアジは季節があると思うのですが、今の季節でも大丈夫でした。5月ごろがいいのか。。。。。
塩鰹は、やはり西伊豆町の田子というところにあります。じもとでは潮鰹となっていました。「しお」か「うしお」か?テレビのワイドショーで見たのですが、この田子というところ(小さな漁村でした)独特のもののようで、塩漬けの鰹を寒い風で干した正月魚だそうです。正月のお飾りだとも?ですから年末ぐらいにしかつくらないそうです。今日行った店は真空パックをしているそうでありました。かなり塩辛いものです。焼くと塩が噴出してきます。これを少し炙ってお茶漬けにしました。かなりおいしいです。。。。酒のつまみにいいかな。。。。塩辛いといってもイカの塩辛のようなもので、少量なら塩分も気にならないのでは?昔の塩ジャケを思い出しました。今は塩分控えめになってしまいもうあまりみなくなりましたね。焼くと白く塩が吹き出てくる鮭。ただしょっぱいというのではなくて魚の風味のある塩辛さですからおいしいしょっぱさです。
小アジ寿司も塩鰹もある地区のおいしいもの。。。。。今はB級グルメとかが流行ですが、これもある特定の地区の味付けや食べ方だったりしますが、小アジ寿司にしても塩鰹にしてもこのある地区だけのおいしいものという面では面白いと思います。

【2012年】
(記事なし)

【2013年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2014年】ツイッターつぶやき
安倍内閣が持つ二面性が大きくなりつつある。内面と外面といっては失礼になるかもしれませんが、このような二面性はこれまでの玉虫色とは違ったものとなるでしょう。玉虫色というのは国内外にもどちらとも取れる表現として受け取られるものですが、二面性というのはどちらが本音かがはっきりしてくる性格のものです。色がはっきりする。
安倍総理は中国や韓国そして今ではアメリカも含めて多くの国やマスコミが批判あるいは懸念する靖国参拝を「批判されるから参拝しないというのは間違い」として中国や韓国からの批判に反批判をしています。もちろんこれは私人としての参拝と受け取れることもできるものですが、同時に自民党内では「運動方針 靖国参拝継承」というものになりつつあります。靖国参拝は私人としても自民党は総理大臣をはじめとした閣僚や議員が参拝することを党の方針として決めるわけですから「私人」というものから離れていくことに間違いはないでしょう。
ソウルと国外には私人として参拝したと言いつつ、国内的には内閣総理大臣が参拝したという二面性がはっきりするわけです。これは玉虫色ではありません。当然中国や韓国の反発も大きくなるわけです。日本は批判を批判として受け止めないと国外に向けて発表をしたのですから中国や韓国は日本とのあらゆる協議を受け入れられないとなる。そうするとまた日本はそのような批判はさらに訊かないとなる。
国内と海外への二面性はやはりどちらかの色が濃くなっていくわけです。
これは何も靖国参拝だけを批判しているわけではなくて、さまざまな面でこの二面性が具体的な形として現れてきてしまうということです。国内的にも循環型の経済(金の流れが賃金や財政にも回る)を目指すとしますが、現実的にはアベノミクスの労働の規制緩和や社会保障は真逆な形になる危険性があります。日本経済の復活をアメリカと同じように主張することから経済の好調さをいいますが、その反面実体経済での国民生活に反映されない面が出てくる。先日このブログにも書きました「約束事」にも関連しますが、経済や外交などさまざまなところでの約束事が期待としては大きくなりますがその期待という面と実態あるいは政策面となるとアベノミクスがそのとおりに動いているのかという面が見えるようになる。
二面性が明らかになりそれが現実面でも目に見えなくなれば見えるようになればそれは不信や失望へと向かうでしょう。外交面では孤立です。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
日本の生産性の向上がどのように進められたかを思うに、高度成長期は確かに本来の生産性の向上が行われた時代だったでしょう。商品生産は機械やオートメーションの発達により少ない労働力量でより多くの商品を生産した。不況期もあったが、機械化によって余剰となった労働力は新たな産業や設備投資増に利吸収された部分もあった。もちろん労働者はその中で苦しめられたがそれでも将来は何とかなる程度であっても安心感はあった。
組合運動もある程度活発でストライキを構えながら毎年春闘での賃上げがあり70年半ばには大幅な賃上げもあった。反合理化闘争は労働条件の維持向上に貢献した。野党も数こそ自民党に負けたが、組合や市民団体との連携によりその発言力があった。社会保障も一定程度安定したものとなった。そして平和主義からの逸脱も歯止めをかけていた。
しかしその後経団連を中心とした生産性本部が活発化し、政府による三公社五現業攻撃が深まった。
親方日の丸論で民間と公務員とが分断され、その分断から公務員も民間も互いに労働条件を引き下げる競争に駆り立てられた。大幅賃上げはインフレを招くと否定され徐々に賃上げ率は下がる。
この過程が日本社会が言う生産性の向上という考え方が根付くと担ってしまう。
本来の生産性向上ではなくて労働者からの搾取協が生産性向上だと錯覚されはじめられる。
生産性を上げていく中でバブルが発生する。しかし労働者への分け前は賃上げと言っても多くて5%程度。猛烈な不動産バブルと金融バブル。企業は絵画などを買いあさる。地方にばらまかれた1億円で自治体は金の延べ棒を買うところも。箱もの行政。
今進められようとしている(今は挫折したが)女性の活躍も叫ばれて、働く女性が勝ち組とさらる。
大幅賃上げが下火になり、職場では高齢者が窓際族と呼ばれる。民営化も含めて公務員の労働条件の低下により、民間は公務員も汗をかいているのだからとさらなる合理化。勝ち組だった働く女性は仕事をとるか結婚をとるか。
財政再建は進められなかった。
バブルの崩壊後はさらに労働者からの搾取強化(賃金・労働時間・その強度から)で企業は生き残りを考え生産性向上が安易さを深めていく。
この労働者を犠牲にすることを生産性の向上とする姿勢は今も続いているのです。
しかしこのような生産性の向上が、今では生産性を上げていないことが表面化している。
ずっと低成長そしてゼロ成長ついにはマイナス成長へ。
少子化問題もその中に含まれるでしょう。
個人消費の落ち込みに改善がみられない。そこから国内の設備投資の伸び悩み。
生産性向上運動が結局は日本全体の生産性低下を長い時間かけながらも表面化させているのだと思います。

【2018年】ツイッターつぶやき
パット陽ざしが差し込んだ。
東京は日中17度まで気温があるらしい。
しかし夕方には冬将軍が襲来するという。
冬将軍のいないすきを狙って束の間の春に勇んで床屋に馳せ参じようかと思ったら休みだった。。。。
今は火曜日も月に2回休みだった。。。。
すっかり床屋に行く気も萎えてしまいまたしばらく足が向かないかもしれない。
でも、これから春の精が冬の隙間から顔を出してきますね。
僕の句集に
       芹乃栄清水香る
       水泉動春待つ
という句を載せましたが、七十二候の芹乃栄(せりすなわちさかう)、水泉動(しみずあたたかをふくむ)も冬の隙間から春が顔を出してその兆しを人が受け止めているような気がします。
(以上「暮らしの歳時記」を参考にさせていただいています)
厳しい冬には申し訳ないが日とはだれでも春を待ち焦がれるのかもしれませんね。生活の上では。
今咲いている花も春の花です。
本格的な春までじっと我慢をして一気にたくさんの花を咲かせます。
人も自然界の一員ですから春を待つ心は花たちと変わりないのでしょう。

林修さんが出ていた60年代70年代日本が元気だったことという番組を見ていた。
まぁ、犯罪も元気だったのですがこれについては今の日本の方が元気ですなぁ。お年寄りへの犯罪とか殺人の増加とか陰湿さが増しています。
こういった犯罪の元気さは別にして、なぜ60年代70年代は元気だったのでしょうか?
それは日本が高度経済成長時代だったからだという意見もあるでしょう。
しかしこれは逆立ちをした見方ではないかと思います。日本が元気だったから高度経済成長があったとみるほうが正しいと思う。
この時代というのは一口でいえば一人一人の人間が自由だったという事です。国家の縛りが弱かった。というのは当時の自民党も自由と民主主義を認めていたし更に野党社会党はその自由と民主主義を拡大させる役割を持っていた。今の与党と野党の違いが判らなくなるようなものはなかった。国民一人一人が自由に考え行動できることは大切なのです。
今の政治や社会の流れは力あるものに慮る社会になって、委縮してしまう社会が作られてしまいました。
この国民一人一人の自由の中に経営者も自由な発想でチャレンジできた。
現在のように慮り委縮した国民社会では経済もうまくいかないでしょう。生産性の向上は本来の生産設備の改善などを通じたものから労働者からどう搾り取るかになってしまった。この流れの変化が80年代の中曽根内閣当時ではないかと思う。日本生産性本部が本来の生産性向上から離れていく。すぐにバブル崩壊へとつながる。
日本はこのバブル崩壊でも、その後のリーマンショックからの立ち上がりが遅かった。結局生産性の向上が労働者からどう絞り取るかという呪縛から抜け出せなくなってしまったのです。
これに拍車をかけるのが安倍内閣でしょう。中曽根内閣からの夢であった改憲が行われようとしている。政治の委縮は日本の悲劇です。

【2019年】ツイッターつぶやき
いくらなんでも国(総理・内閣)がこういうことするわけないだろう。。。。。
という常識を国民は持つ。これが最低限の国への信頼である。それは最低限の政治への信頼である。
しかし去年は総理大臣のモリカケ疑惑が出た。その後も政治家や官僚の疑惑そして公文書の隠ぺいや改ざんが問題になった。
経済もずっと経済の好循環は道半ばとされて胡麻化されてきた。掲示の好循環は国民生活に及ばなければただの企業や富裕層そして不労所得者への富の配分で、経済の好転はない。
消費増税は社会保障へというこの間の様々な掛け声は実現しないで終わっている。
琉球新報は
「安倍晋三首相がNHK番組「日曜討論」で、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の埋め立てについて「土砂投入に当たって、あそこのサンゴは移している」と、事実と異なる発言をした。一国の首相が自らフェイク(うそ)の発信者となることは許されない。」
と伝えている。
去年はアメリカのトランプさんからフェイクという言葉が多用された。
「嘘も方便」という言葉が日本にはあるが、現実はフェイクです。方便ではなくて詭弁により国民をだますポピュリズムです。こういう社会に日本はなりつつあります。改憲も同じ方法が使われるでしょう。
もちろん国民も嘘でもいいから強い日本を望むでしょう。
それにより日本(人)の誇りは維持されますから。
しかし日本の実態は経済も政治も下降線をたどることになるでしょう。それがまた社会や経済を混乱させる。持続可能な社会は精神論に変わっていく。そのためには文化や歴史も改ざんされたりもしていくでしょう。そこに貧困化(窮乏化)する日本人は精神論に頼ることになる。もちろんそこで利益を得る人々は現れるでしょうが。

2018年 4月13日(金)「バブルと格差の拡大」
株価と実体経済は金融経済の中では乖離する。
ロイターに「ロフィット・リセッション」という言葉が出ていた。アメリカにおいて景気の後退期に入るのではないかという不安が出ているということでしょう。企業業績の低下は株価を下げますが、この株価がバブル状態であればその株価の下落は激しいものになるでしょう。
アベノミクスと日銀の量的緩和での株価もバブル状態です。もしかしたら日本はいつものごとくアメリカ以上の矛盾が出るかもしれない。

【2020年】ツイッターつぶやき
イランはアメリカを中心とした諸外国から核開発に対して経済制裁を受けてきた。そしてあめりはこれでもたりないとしてイラン核合意から離脱をして更なる独自の経済制裁を行いそれに協力しない国には制裁的な締め付けを行った。
核大国そして核の先制使用を放棄していないアメリカの主張にイランは耐えてきたのだと思います。もちろんイランの核開発には反対ですが、たんに反対ではなくて核兵器削減を行わないアメリカにも憤りを禁じ得ない。
今回革命防衛隊の司令官をテロ的な暗殺をされてイラク駐留の米軍基地への攻撃という報復を行いましたが、トランプさんは死傷者はいないと発表をしてイランの報復に対して「すべて順調だ」と訳の分からない言葉を発しながら現在のところはさらなる軍事行動は起こさないようです。
一方イランは、今回の攻撃に先立ってアメリカに対して犠牲者を出さないよう事前にアメリカに対して通告したとも報道されています。
自国の国民の絶大な支持を持つ司令官の暗殺に対してもその報復は耐えに耐えたものに限定をしているように感じます。これまでの中東で行われた聖戦とは違う行動を行っています。ある意味アメリカの挑発には乗らないという態度でしょう。
トランプさんもこの状態の中ではさらなる軍事行動は起こしにくいでしょう。さらにアメリカ国内に対しても説明らしき説明を行えない状態です。そこから暗殺に対してはアメリカ世論も支持になびかない。ポピュリズムに乗らないアメリカ人がそこにある。それはイラクのフセイン殺害の苦い経験があるでしょう。大統領選を有利にはできないかもしれないことは明白です。
この状態を継続しながらアメリカも折れることが必要でしょう。

【2021年】ツイッターつぶやき
報道を見ると新規感染者数の後に「〇曜日としては過去最高」と報道されてきた。
東京でも全国でも日曜や月曜の新規感染者数はガクッと下がる。
やはり年末年始の連休中は下がりましたね。
でもそれは連休中で検査数も平日よりも減るからです。
今週は3連休ですから火曜日までは発表される新規感染者数は減るでしょう。
年末年始もその後の土日も下がったとしてもこれまでの数値を大きく上回っている。この三連休も同じでしょうね。
しかし下がったとしても10月から12月の数値に比べればものすごい上昇をしています。
毎週7日間の新規感染者数を比べてきたとき、今までは毎週100人ぐらい増えているのではないかと思っていたのですが、現在は数百人に跳ね上がっている。
東京も新規感染者数が3000人、5000人と増加してもおかしくない勢いですし、全国にしても1万人は目の前ではないかと思われます。
なぜなら陽性率も急激に高くなっているからです。
市中感染者を検査数が少ないので見つけることができない。すると感染はさらに増加をしますね。
菅総理は東京の新規感染者数1000人を超えたのでびっくりしたそうですが、それから緊急事態宣言も考えたのでしょう。しかしこれだけ感染者数が急激に上昇するともう手の打ちどころ手の施しようがなくなってしまいます。緊急事態宣言で感染者数増加を横ばいにする程度でしょう。この横ばいが続く中で第四の波は必ず起きます。それは第二波と第三派の経緯を見ればわかります。

【2022年】ツイッターつぶやき
去年7月28日に2回目のワクチンを接種しました。
12月末で5カ月になります。
コロナワクチンも接種すれば感染しにくいと言われていましたが最近では感染しても重症化しないに変わったようです。これはワクチンの効果がどのくらい持続するか諸説もありやはり効果はそうは長く持続しないことが分かったからでしょうか。たしかにオミクロン株が武の感染者数が多くなっていますが、今のところ死亡者数は少ないようです。しかし重症者数は感染が広がるにつれて多くになりますし、重症者数が多くなれば死亡者数も時間差で多くなりますね。新規感染者数が急増していますがここからどのくらい重症者数が増加するかはまだわからないでしょう。
オミクロンはもともと感染力が高いが毒性は少ないとも言われていますから重症者数が今のところ少ないからと言ってそれをワクチンの効果だとするのはまだ早いのかもしれない。
ワクチン効果は6カ月ほどならば3回目を接種する。これで医療崩壊もなければ良しとするのでしょうか。
むやみやたらとワクチンに頼ることは危険ですね。
オミクロンの次の変異株も現れるかもしれない。これを繰り返していくとウイルス自体がワクチンに負けないように変異するかもしれない。オミクロンだってそれはわからない。
人間の体自体がワクチンに負けてしまう。
国民皆検査ぐらいの検査数と隔離が必要でしょう。それには国のハード面の対策が必要です。

【2023年】ツイッターつぶやき
朝晩は寒いですが昼間はよく晴れて気温も高く気持ちの良い一日でした。
大きな公園まで行って散歩。ユニクロのダウンジャケットでは暑いぐらいでした。
今週末は19度まで気温が上がるそうです。4月中旬の気候だそうで桜も咲くか?
まぁ、桜は咲かないでしょうが花の木々の目が膨らむでしょうね。

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