夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「10月15日という日」

2024年10月15日 08時09分02秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

≪過去の記事≫

【2003年】
駅前の商店街をぼんやり歩いていたら、お尻のあたりにくさいものをもらしたおじいさんがぼうーっと歩いていた。
しばらくしたら、けたたましい赤ん坊の泣き声と「もうすぐおうちだからねぇ。。。。」と、お母さんの大きな声。その自転車はけたたましくすごい勢いで僕を追い抜いていった。まるで救急車が通り過ぎたみたい。
これがどうのというわけではないし、コメントを言うつもりもない。
僕はやはりぼんやりと歩いていた。
銀色夏生の「世の介先生」(角川文庫)を読んだ。夏生さん自身もあとがきに書いているように、潮社文庫の「ミタカ君と私」やその続編の「ひょうたんから空」と同じようなのほほんさが楽しい本でした。
僕はこの、のほほんとした気分で商店街を歩いていたのです。
うううう・・・・

【2004年】
1週間ぶりぐらいの晴れです。雲ひとつありません。
気持ちが良いので朝早くから洗濯をしています。程よい風も吹き洗濯物も気持ちよさそうです。
秋晴れの中、1泊でもいいから旅行にでも行きたいです。しかしそうも言っていられないのでまた日帰りでもいいから紅葉見物にでもいきます。立ち寄りの湯(もちろん純度100%!!)<笑>でも探してみたいです。

【2005年】
この二日ほど半袖でも汗ばむ陽気でした。
森絵都さん。。。すごいです!
「いつかパラソルの下で」をもう少しで読み終わりますが、目頭がウルウルしてきちゃいます。感動しますなぁ。。。
内容が死んだ父親の過去の謎を知りたくて生まれ育った地を訪れるという中身ですが、父親という男も幼い頃があり、青春があるわけです。子供たちがそんな父親の知らない部分をほんの少し知ること。。。そんな親子関係に同じ子を持つ父親としての僕から見た思いが残ります。
このようなないようですから、なおさらウルウルさせられるのでしょうが、森絵都さんの青年期の若い三人の兄弟を描くその筆力にも感動しました。大げさな表現もなく淡々と死んだ父親を見つめる。その中に自然さがあります。
今年の直木賞候補だったらしいですがうなずけます。
それにしても森絵都とはインパクトのあるペンネーム?ですなぁ。。。
どのような方なんだろ?

【2006年】
珈琲ショップに入ったら、眼光鋭い男が。。。
座るテーブルにはなにやら難しい本が2,3冊置いてある。でも、洋服はお世辞にもきれいではない。無精髭が伸びている。身なりを気にしない学者風。
時々こういう学者風や作家風の男を見る。
のぞくわけではないが、達筆な字で200字詰め原稿を埋めていく作家風の男。
珈琲ショップに似合いますなァ。。。。
その横でちんまりと本を広げる夕螺であります。。。。ムムム

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
久しぶりの「男の料理」です。。。。
昨夜はナスのひき肉はさみ揚げを作りました。ナスは縦に少し皮を残すように皮をむき、5ミリほどの厚さの輪切りにして塩水に漬けておきます。
ひき肉にした湯でしたにんじんやレンコンなどの野菜を長ネギのみじん切りを入れて団子状にします。これを水をよく切った先ほどのナスで挟みます。あとは天ぷらの要領で揚げるだけです。
醤油など好みの味で。。。。。
先ほどの肉が余ってしまいどうしようかと悩んだ末に柿をやはり5ミリほどにスライスしてはさんであげてみました。。。。うううう・・・・・お勧めはできません(笑)。。。。でもまずいというほどでもなくて柿の甘さが残り肉とよく合いました。ただ柿が柔らかくなりすぎでして。。。。柿は厚めにスライスをし、ひき肉を挟むのではなくて上に乗せて強火でさっと揚げれば柿の硬さも残りおいしいかもしれません。結城勇気のある方は挑戦してみてください。おいしかったら僕もつくります(笑)

【2011年】ツイッターつぶやき
     拝啓 川上弘美 様

東京日記を拝読させていただきました。
ボウタイ付のブラウスとはどのようなシャツでしょうか。
ピンクのブラウス。。。。あんなのこ女の子ではない、女性でもない、やはりおばさんだという表現の中に想像力を膨らませました。たぶん化粧は濃いめの仕上がりではないでしょうか?特にチークなどは。そういえば川上さんは吉祥寺でチークをされて闊歩されているのでしょうか?以前の「東京日記」を思い出します。
こちらの僕のブログにも書きましたが、僕も電車の中でお化粧をする女性を時々見かけます。
先日などは、まぶたが腫れて青白い顔色のすっぴん女性が座席に座り、ものの10数分ほどで目元ぱっちりで血色の好い顔色の美人になりすたすたと降りて行った女性を見ました。
僕も目が釘付けで見とれてしまいました。その女性も僕がずっと見ていたことを知っていたのでしょう。降り時に僕を見てにこっと笑っていました。そのニコがまた美人でした。
今は「メイク」と言いますがやはり「化粧」ですなぁ。。。。。
 敬具

カナブン界とゴミ箱をつながっている。。。。。怖いですなぁ。でもその表現にドキッとしました。
我が家はいまだに台所とコバエ界がつながりっぱなしのようで、ごみ袋には常に2,3匹飛んでおります。
ゴミ袋に入り込んだところをさっと縛っておきました。半透明のごみ袋の中でまごまごとコバエは飛んでいます。そういえば、そのままゴミ回収に出すわけでして。。。。。コバエにとっては恐ろしいことになるわけです。
つまんで逃がす。。。。。。苦労しますがそれが正しい人の行為でしょうなぁ。

【2012年】ツイッターつぶやき
人は物心ついた時から知的なものは回りの情報から受け取り、その情報にはもちろんいろいろな知識もある。それが精神的な血になり肉となって一人の人間が出来上がっていく。
新聞や本などは何も新聞や本自体を買うのではなくてその中に書かれている知識や情報を買うのである。それを自分なりに受け取って血肉にする。血肉になったものはその個人の人間の知識や情報となるだろう。今までえ立木や情報の受け取り方が正しいかなどというのは意識しないうちに血肉となり、更なる知識や情報がそれを修正していく。
新聞や本には著作権などというものがあるが、本来はここには関係なく人はその中で得た知識や情報を自分のものとして日常に活かし時には文章などにして人に伝える。ただ、その知識や情報をそのままにコピーをして自分のものとして金銭を得るなら著作権に抵触するが。
こう見ると、新聞や本というものは配達されたり出版されたりした瞬間にその知識や情報は読者のものとなる。
それをどのように解釈して精神的な血肉にするかは読者にある。たしかに間違った受け取り方をしたり不十分だったりするのは初めから仕方ないものとしなければならないだろう。もちろん意識的に改ざんしたりする受け取り方は除いて。
新聞や本の知識や情報は、それを解説したり書評にしたりする職業の人々が現れる。一般の人々も今のようにネットが広がればそこに解説や書評そして感想的なものを書く。そしてこれらを基にさらに元のソースを抜きに解説や書評を基に議論が進む。ここでは元のソースを基にしながらもこれを受け取った人々の中での議論に発展しているのである。元のソースの解釈の仕方はそれが正しいかというものはもちろん元のソースを読まないでは議論にならないが、元のソースで提起されたものについてのそのもの自体は人それぞれに考えや情報があるわけだからそこに議論が映るだろう。元のソースから提起された一つの視点が解説になったり書評になったり、あるいは自身の感性を多分に入れながらの翻訳ともなる。これらはすでに元のソースから離れた一つの著作となっているのである。この皿に現れた著作からまた解説や評価が加わる。
人が成長する段階と社会の中の知識や譲歩の積み重ねや発展は同じようなものでしょう。

【2013年】ツイッターつぶやき
安倍総理の所信表明演説があった。
その中で印象に残る言葉が「日本が直面している数々の課題は「意志の力」さえあれば、必ず、乗り越えることができる。」(日本経済新聞「首相の所信表明演説 要旨(2)」より引用。。。以下の引用も同じ)という言葉である。
「意思の力さえあれば」。。。所信表明演説の中身はまさにこの意思の力を見せることにあったのではないかと思います。それは「決める政治」「成長戦略の実行」という言葉に結び付きます。
そしてそこには「参院選で国会のねじれが解消され、「困難を乗り越えていけ」と、背中を力強く押してもらった。政策を前に進めることで応えていく。いや、応えていかねばならない。」という言葉に現れている。
しかし先の参議院選の勝利では、選挙結果は自民党の政策を支持された結果ではないというような総括をしていた。まさに国民意識も民主党への批判の高まりと二大政党制の中での自民党への投票という形だった。やはり安倍総理の「意思の力」の背景には「ねじれの解消」という多数派の論理が働くようになったのでしょう。
NHKの世論調査では、
「安倍内閣を「支持する」と答えた人は先月より1ポイント下がって58%でした。一方、「支持しない」と答えた人は、先月より3ポイント上がって26%でした。支持する理由では、「他の内閣よりよさそうだから」が39%、「実行力があるから」が22%、「政策に期待が持てるから」が16%だったのに対し、支持しない理由では、「政策に期待が持てないから」が44%、「支持する政党の内閣でないから」が18%、「人柄が信頼できないから」が17%などとなっています。」
支持する理由は「政策に期待が持てるから」が16%だったのに対し、支持しない理由では、「政策に期待が持てないから」が44%」。。。ある意味正確な世論調査かもしれない。支持する理由の1番が「他の内閣よりよさそうだから」で、「政策に期待が持てるから」が16%でしかない。一歩支持しない理由の一番が「政策に期待が持てないから」が44%となっている。支持する理由は政策ではなくて抽象的な他に政権を担ってもらいたい政党がないからとか実行力があるからというものです。国民も安倍総理にには抽象的な支持を示し、所信表明ではやはりこの抽象性に依拠したもの以外ではなかったということでしょう。ですから今も政策を支持されて「「困難を乗り越えていけ」と、背中を力強く押してもらった。」などと言えるようなものではないわけです。このような総理の姿勢に「人柄が信頼できないから」といった批判が支持しない理由にも現れているわけです。
「日本が直面している数々の課題は「意志の力」さえあれば、必ず、乗り越えることができる。」
この「意思の力」からの成長戦略の実行はそうとう国民意識から離れたものとなるでしょう。国民生活の豊かさや社会保障の充実から離れた、いや、これらを犠牲とした成長戦略が何をもたらすか?安倍総理の「意思の力」がデフレからの脱却や成長戦略としての経済の再生にはならないことを示しているでしょう。「意思の力」は改憲や集団的自衛権といった経済という下部構造の上に建つ上部構造の強化に現れることにしかならない。国家の意思の力を国民に定着させる。積極的平和主義。。。。戦争(戦争ができる国)で平和を守るという考え方を本来の平和主義に対して定着をさせることでしょう。

【2014年】ツイッターつぶやき
1989年の総評解散そしてそれに引き続いて1996年の社会党の分裂と社民党誕生。これによって戦後の55年体制は形としても崩壊をした。
55年体制をどう見るかという面ではその評価は分かれるだろうが、自民党そして社会党や総評の前史も含めてだが戦後の日本を作り上げた一つの政治体制としての役割があったことは否定はできないだろう。たしかに政権交代のような形はできなかったが自民・社会の二大政党(両勢力の市民運動や労働運動も含めて)の中で日本は歩んできた。
もちろん共産党や民社党そして公明党という政党もあったしそこに結びつく市民や労働組合そして宗教組織もあったのだが、共産党のように独自路線を行くかあるいは中道として自民・社会の間に入った中間的政党もある意味自民・社会の対立の中での動きであったと思う。
この55年体制の中に自民党と財界に対する社会党と総評という形において戦後の平和や民主主義そして社会法保障などなどの制度が形作られてきた。上にも書いたように片山内閣は別としてずっと政権交代はなく自民党の数の上での独裁的な政治が続いたわけだが、社会党を中心とした国民・労働組合運動にもよって自民党の独走に歯止めをかけながらある意味改良を加えながら上にも書いた日本の体制を作り上げた。
この55年体制が総評の解散とそれに引き継ぎ社会党の分裂で55年体制の一角が崩れたわけだが、それから20年がたとうとした今戦後の自民党もまた崩壊をしてきているのではないか?
55年体制の中で、解釈改憲は一定の解釈改憲はあったにしろ自民党は憲法の範囲内として自衛隊法やその改正を位置付けて自民党なりの平和主義を保った。経済成長路線も国民生活向上や社会保障に充実を言って行った。これが戦後の保守の大きな流れとして自民党があった。
そこに現在安倍政権が誕生をして「戦後レジームからの脱却」を唱えた。
すでに総評社会党ブロックは存在をしていないわけだから、戦後レジームからの脱却は戦後保守としての自民党の解体にある。もちろん自民党自体が党として解体をするということではなくて戦後の平和主義と民主主義そして社会保障や国民生活の向上という面での政策や戦略の解体である。小泉元総理が自民党をぶっ壊すといっていたが、それの安倍版といってよいでしょう。
この自民党の変質があって初めて55年体制は終焉をしていくわけである。
その55年体制の終焉から何が生まれるかはこの3年間の安倍政権の動きを見れば見えてくるだろう。
平和主義と民主主義の制約と社会保障や国民生活の低下そして外交面においての旧植民地である中国や韓国(北朝鮮)との対立。そしてアメリカへの経済軍事的な依拠は変わらないまでも、日米安保の解釈上の変更としての集団的自衛権を通した日本独自の軍事行動の拡大である。
国民生活を経済的にも政治的にも制限をして外交上での旧植民地との対立、そこへの差別的な国内の言動の助長を制限しないこと。そして戦前の日本を歴史解釈上正当化をして世界に認めさせることとそこからの誇りの回復。それはぜんぜんの日本にかえることも想定しての動きでしょう。
「戦後レジームからの脱却」は左派あるいは一般的な国民を含めた国民への規制の強化であると同時に、旧保守層の抑え込みとして現れるほかはない。

これは依然以前旧ブログにも書いたのですが、今の経済政策は市場においての貨幣量を問題としているが、貨幣量が多くなっても経済はそうは成長しないことが明らかになりつつある。貨幣量は同じでもその貨幣が回転を速めたらどうなるだろうか?市場においては貨幣量の増加と同じ効果を生むでしょう。しかしここでは貨幣の価値に変化はないのですから貨幣量がただ増加した時に比べるとその分だけ経済は成長をする。
たとえばある商店が1億円で商品を仕入れてそれを1年で売りつくして2000万円の利益を得たとする。資本1億円は年に1回転である。ところがこの1億円で仕入れた商品が半年で売りつくせたら資本は2回転して利益は4000万となるでしょう。これは極端な例で実際にあり得るかどうかはわからないが、半年といわずの10か月で売りつくすならばやはり利益は伸びてその分だけ資本の回転が早まったこととなり同時にそれは貨幣の回転も早まったということである。
これは商店などだかではなくて製造業にも言えるでしょう。やはり1億円の資本の回転が早まればそれだけ利益は増加をする。また工場や機械などは減価償却も早まって早まったことによりより新しい効率の良い工場や機械を入れることができる。そこでまた設備投資に貨幣は回転する。機械などを生産する企業の資本の回転(貨幣の回転)を早める。
資本の回転=貨幣の回転によって経済は成長するでしょう。
もちろんこの貨幣の回転が現実なものになるかどうかは商品が売れることが前提ですからそこには消費にも貨幣は回転しなければならない。すなわち労働者の賃金などにも貨幣は回転していかなければならないということである。工場、商店消費へと商品は開店を上げて貨幣は消費者から商店向上にそしてまた消費者(労働者の賃金)へと回転も早まる。
この中で貨幣量が足りなくなる場合も出るがそこで初めて多少の貨幣量の増加はもちろんあり得るだろう。しかし基本は貨幣の回転なのである。
この貨幣の回転がどこかで滞れば経済には重大な矛盾が現れる。貨幣量が増えても当座貯金が増えていくだけであったり企業の内部留保あるいは金融市場のギャンブル的な投資に貨幣が吹きだまって一般国民には貨幣が回転しなければ経済は矛盾をきたすということである。
今必要なのは貨幣量ではなくて以上書いてきた貨幣の回転速度を上げることなのである。
このように見れば賃金=コストではないことは明らかである。
この賃金がうなぎ上りに上がっていく(雇用増や時短も含めて)ことを調整するのはより少ない労働力でより多くの商品を生産することによる商品価値の低下に求めねばならない。国民生活はこのより安い商品の消費により賃上げや雇用増そして時短のコストも下がるでしょう。またエネルギーや原材料などの消費も省エネや自然エネルギーの活用などで減らしていく。それは科学の発達に依拠するが、その科学の発達からの実用もまた生産性の向上である。
これが経済が求める社会の発展でしょう。
通貨は高くなり商品価値の低下から安く輸出もできるようになる。
ただし相当年収の格差は低くなることは間違いないでしょう。もう一方における贅沢と一方における貧困はなくさねばならない。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊に「雇用の改善 伸び悩む賃金」という記事がありました。その中でなぜ賃金が伸び悩むのかの一つの答えが「日本型雇用が足かせ」になっているとありました。
日本型雇用とはどのようなものでしょうか?
「残業も転勤も当然の正社員」か「低賃金で雇用が不安定な非正規社員」かの二者択一を迫る。(上記リンクサイト紙面より引用)
これが今の日本型雇用の実態と言えるでしょう。だいぶ前から若い人が中心に企業に縛られたくない、自由な働き方をしたいという要求が出ていました。これが上記に答えになってしまったのです。
派遣法ができてそれが改悪をされて多くの非正規雇用労働者が出てしまいました。派遣労働が自由な働き方をしているのかと言えば、見えてくるものは低賃金の現実だけではないでしょうか?場合によってはバイトの掛け持ちで労働時間が伸びてしまうことはないでしょうか?たしかに転勤もないわけですし嫌ならやめればよいのですが、それが自由化といえば、非正規とはいえ次の仕事を探すのも大変でしょう。やはり契約切れは怖いはずです。
上記のように日本型雇用の矛盾は噴き出ていてこれが低賃金化の温床の一つです。
本来の日本型雇用の形態は、正社員としての終身雇用でした。それに並行して年功序列型賃金が採用されていました。これこそが日本の高度経済成長を支えた日本型の雇用形態なのです。
この本来のお日本型雇用形態が壊されて今の劣悪な雇用形態と賃金形態が生まれてしまったのです。
終身雇用や年功序列型賃金はもちろん矛盾もありました。
転職をすれば賃金が減ってしまう、転勤も断れないといったものがたしかにありました。この面では確かに企業に縛られていたと思います。年功序列で若い人の低賃金も言われました。
しかし総評の労働運動はこの矛盾を労働運動の中で改善を使用として一定の成果を生んでいたのです。
労働者が企業に縛られたくないというのはこの労働運動やその労働運動に連帯をする政党がより強くならなければ改善はしていかなかったのです。ここを見ないで企業に縛られたくないという個人は個人として非正規の道を選ばざるを得なくなってしまったのです。
企業と労働運動の闘争という形がずっと続いていくのもまた一つの矛盾です。その解決の一つが社会民主主義という政治でした。

【2018年】ツイッターつぶやき
最近はめったに自転車も乗っていなかったのですが、いろいろと用事があり自転車であちらこちらと走り回りました。
自転車は妻用に買ったママチャリで小さな自転車です。
久しぶりに長い距離を乗りましたが気持ちがよいですね。足の運動にはスポーツジムでも自転車のようなものがありますが、健康にはいいのでしょうね。
車では気が付かない風景がそこにはあります。少し路地に入った所に小さな祠があったり鉢植えの花が咲いていたり。こうした風景は車からでは見る余裕がないです。
たまにはぶらっと自転車で出かけるのもいいかもしれません。
若いころは自転車でサイクリングに行っていました。2泊ぐらいで関東をグルとしたり。今日自転車を乗りながら思い出しました。

【2019年】ツイッターつぶやき
参議院の音喜多さんが東京の避難所について共助、自助の視点で書いている。
人口が過密する東京の避難所の実態は避難所がいっぱいになりは入れなかった一方で非難する人が少なかったという。非難する人たちが少ない割には避難所は満員状態。この矛盾は過密都市東京特有のものなのかもしれません。
避難所の数やスペースが圧倒的に足りていないということが言えます。一方で非難する人が少ないというのは、大丈夫だろうという気持ちが多いということもあるでしょうが、避難所に行って無暑さ寒さで苦しむだけで非常食などもないことに嫌気が出るのではないでしょうか?
上記記事で音喜多さんは、共助や自助を呼び掛けています。日常から親せきや友人など親しい人と災害があった時に互いに避難できるように話し合っておくことなどと。たしかに共助や自助は大切なことはわかりますが、国や自治体避難を呼びかけますね。そして避難所を開設する。子の避難所はもちろん公助です。公助がある程度充実している中でそれでも間に合わないときは共助や自助があるでしょう。公助の充実をやる気がない中で共助や自助を呼びかけるのは政治の怠慢です。
特に水害時は学校の体育館で大丈夫でしょうか?
我が家の避難指定場所の体育館を見ると、水害時にこの体育館自体が水害に巻き込まれるのではないかと思います。
避難所といっても学校の体育館を避難所と呼ぶだけの公助です。
体育館を3階建てぐらいにするとか、新しくマンションが建てられるときは国や自治体の資金援助で避難所階を作るとか。やり方はたくさんあるはずです。
これから戦闘機をたくさん買い込むのですが、その税金があればどのくらいの防災設備を備えられるか。。。。。これもまた国防なのです。国民のために国が動かないで戦争という国防を考える国ではだめです。そのような国は戦争にも負けます。なぜなら国民の疲弊を自助でとなりますから。

川上弘美さんの「東京日記 マグマ大使のサイン。」が更新されました。
子供のころからずっと色紙に書かれたサインをもらったという記憶がない。
もちろん有名な人やヒーローに握手してもらった記憶もない。
それでもいくつかのサインはある。
すべて本の背表紙裏に書いていただいたいわゆるサイン本です。
一番大切にしているのは、詩人銀色夏生さんのサイン。
サイン本というとどこかで作家がサインしたものを本を売るときにサイン本として積まれているというのがほとんどですが、この銀色夏生さんのサインは目の前で書いていただいたもの。
たしか握手もしていただき感動しました。「なつを」の字は細くて可憐。
そして川上弘美さんのサインも欲しかったのですが、新刊の発売などのイベントに出かける機会もなくあきらめていたとき、もうだいぶ前ですが、ある季刊誌が廃刊になるというのでそのイベントに川上弘美さんがいらっしゃると。お顔をも見たことがなかったので出かけていきました。50代ぐらいになられていたか?おきれいでした。イベントが始まる直前に行ったので本の売り場も見ずに会場へ。なんか、「川上弘美サイン本」とか書かれた張り紙が?帰りに見ようとしたら、イベントも終わりいってみたらもう売り切れ。
この時は残念でした。。。。。
サインよりもお顔を見てお声を聴けたことは一生の思い出です。

【2020年】ツイッターつぶやき
菅内閣は70%以上の高い支持率があったが、ここにきて7%支持率を下げているようです。
ここにきて日本学術会議の6名の名簿を拒否したことが大きく批判されていますが、こうしたものはそうは影響力を買えるものではないでしょう。内閣の姿が見えないところに魅力がなくなっているのかもしれません。安倍さんはこの辺はうまく国民に期待感を持たせましたが、菅総理はその点では不器用なのかもしれません。携帯料金の値下げを言い出したり、国民一人当たり5万円を支給するというミクロ的な人気取りを行いますが、国民生活全般に期待感を持たせることはできずにいます。
もちろん期待感作りはそれ以上のものではないことは安倍内閣ではっきりしていましたが、その国民の失望をさらに別な形で作り替えることができずにいるのでしょう。
一方では超タカ派の姿勢を示し始めています。国民に期待感を持たすことがd機内超タカ派ながくは続かないでしょう。
でも、国民もそろそろ期待感を捨てる時期に来ているでしょう。
現実野経済状態や生活実態を見つめながら今の内閣が何をしようとしているのか見なければいけない。

【2021年】ツイッターつぶやき
今日、東京上野でATMに並んでいた男性がいきなり刺されたという事件があった。その後愛知県で通り魔的に女性が刺された。山梨県の殺人放火事件も数日前です。
殺人(未遂)事件が多いですね。
怨恨や通り魔のような殺人を起こす人はめったにいないでしょうが、ネット上を見ると誹謗中傷問題が取り上げられ始めています。この誹謗中傷でも子供たちが自殺などに追い込まれていますから殺人と紙一重にもなります。ネット上に現れる誹謗中傷がいつ現実世界での殺人に結びつく可能性はあるでしょう。
殺人やネット上の誹謗中傷の動機がどのような心理状態から生まれるかわかりにくいですが、一つ言えるのは政治や社会が何でもありになりそれが正されるような自浄作用がなくなっていることにあるのではないでしょうか。悪いことでもばれなければいいばれても力で抑えたりうやむやにできる。その反面こうした社会に対しての怒りも沸くわけでそれが正義感にもつながる。しかしこの正義感がまた何でもありの行動を正当化してしまう。
社会はどんどん住みにくくなります。

【2022年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2023年】ツイッターつぶやき
視聴率は悪いようですが、大河ドラマの「どうする家康」を毎週面白く観ています。
今回のドラマに限らず歴史上の人物が描かれていますが、一定の歴史上の事実はあるわけですがその事実の解釈というのは 作家によります。歴史小説も案外作家の解釈が僕たちに刷り込まれているでしょう。大河ではある人物がその時々に悪人に描かれたり主人公なら讃えられて描かれます。
どうする家康も一つの解釈としての人物像でしょうから、その人物像での家康を楽しんでいるわけです。
ただ武家社会を完成させたのは家康ですから、いろいろ解釈はあるでしょうが天下統一する過程は面白いですね。大河ドラマの面白さの一つは奥方ですなぁ。歴史上の人物も奥方によって大きく変わる。武家社会は男社会ですがその中で女性の力が大きい。今の夜も変わりありません。
どうする家康の面白さは、前回の北条義時が終わる最終回に家康が出てきてつながりを見ましたが、頼朝そしてその後の北条氏の武家社会の始まりと家康の武家社会の完成のつながりが面白い。何も天下取りが面白いわけではなく、貴族社会から封建社会への歴史の発展を見ることができます。その社会には現在から見ればひどいと思われるものが正義だったはずでその時代の正義において貴族社会は崩れ去り封建制度が生まれる。新しい社会の夜明けです。
前々回の太河は資本主義の誕生を描きました。これも歴史の流れですね。その明治の社会にはその社会の正義があった。それぞれの時代はその中の正義で動き社会は発展した。
今資本主義の正義が事故崩壊しつつある。いつの日か資本主義が崩壊する大河ドラマが生まれるかもしれませんね。さて、その主人公はどういう人だろうか。残念ながらそれまで生きてないでしょうね。その主人公の奥方の力はどう働くか?楽しみですなぁ。。。。。。
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