【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
『きらきらひかる』
新潮文庫
江國 香織 著
あとがきに「ごく自然な恋愛小説を書こうと思いました」とあります。
しかし中身は同性愛の夫とアルコール中毒の妻が主人公です。どこが「ごく自然」なのか?「常識的」な目で見るならば異常な世界です。なぜ江國さんがこの中に「ごく自然な恋愛」を描こうとしたのか?
しかし僕が書いた「常識的」という言葉をもう一度見直さなければならないのかとも思います。睦月と笑子の両親は、この常識の中にいる。両親は、孫を産めという。そして睦月の同性愛と笑子の精神異常をお互いに知る中に苦悩する。同時に睦月や笑子もこの「常識」に苦しみ傷つく。もちろん睦月と笑子自身も世間の常識から見た自分たちの「異状」さに苦しむ。睦月は同性愛という恋愛感情からけして子供を授かるものはない。笑子はその精神状態から子供を育てることへの不安がある。
このような中に二人とその家族の中に「常識」との葛藤がある。
では、なぞ二人は見合いをして結婚という形態をとったのか、それは、睦月の恋人(男)紺の言葉「男が好きというのではなくて、睦月が好きだから」という言葉の中に答えがあるのではないかと思う。純粋にその相手が好きだから一緒にいるという気持ち。この純粋さを常識とぶつかりながらも捜し求められていくという作品だと思う。
しかしなぜこの人を純粋に好きになったから一緒にいるというものを同性愛や精神異常の二人から表現をしなければならないのか。
同性愛(世間で言う女装的なオカマといわれるものとは違う)や精神異常というのは、今の社会では世間に隠し通すか内密にするというものがあると思う。ここに極限の状態があり、その極限の状態の中に睦月や笑子の純粋な「基本的な恋愛」を描く。この中に人を好きになったからという純粋という大切さが画より強く強調されるのではないかと思う。
読者はこの純粋さに魅了されて常識として持つ同性愛という嫌悪感やいやらしさを感じないで作品の中に引き込まれるような気がします。性は人それぞれ、性だけではなくさまざまな世間の常識の中にすべての人は生きている。この世間の常識と自分らしさに苦しむことはたくさんあるだろう。純粋さを貫くのは難しい。
笑子は「銀のライオン」の話をする。睦月や紺、その友人たちを「あなたたちは銀のライオン」だという。睦月の父親も「笑子さんも銀のライオン」だという。銀のライオンは、時に発生する白いライオン。そのライオンたちは群れから離れて自分たちだけで草食で生きているという。そして短命だと。
世間の常識から離れて自らの純粋さの中に生きる睦月や笑子たちという銀のライオン。世間の肉食という常識から離れて草食というやさしさの中に生きる睦月や笑子たち銀のライオン。やさしさや純粋は、この社会の中では弱い。弱い中にもその中に身を置く覚悟、あるいはそのようにしか生きていけない人々。
睦月や笑子のような極限的な人間ではなくても、この社会の中でやさしく純粋にひっそりと生きている人々は多いだろう。しかし、このような愛すべき人々は少数である。
小説の最後は、、、、、
書きませんが、睦月や笑子、紺のつかの間かもしれない幸せに応援したくなるような結末です。
江國さんの作品は、「神さまのボート」と2冊目ですが、その作風は、二人の人間がそれぞれに主人公となり、それぞれの主語で語りかけられている。これはどちらがどちらに影響されたのかというものではありませんが、北村薫の作品に共通しますね。面白いと思います。
東京くもり。
11月に入ってしまいました。
下旬か12月上旬に低い山にでも紅葉を見に行きたいと思っています。去年も一昨年も行ったのですが、もみじには少し早くてちょうどよい時期は見ていません。紅葉は時期が難しいです。
【2004年】
ううう。。。11月ですね。。。どうも冬は苦手です。
これから2ヶ月、どんどん日照時間が少なくなります。寒さはそれほどでもないのですがお天道様を見る時間が少なくなるのは嫌いです。
そうは言っても、公園の桜の葉が色づき始めました。桜の葉などの紅葉は好きです。晴れた日に、桜の葉の紅葉の下でのんびりするような時間は好きだなぁ。。。。
この前、娘とドライブに言ったのですが、娘が腹が減ったというのでコンビニに寄ったのですが、棚には何にもならべていなくどんよりしてしまいました。サンドイッチが少しあったのですが何だか買う気にもならずに缶コーヒーだけを買って出てしまいました。コンビにも飽和状態で、コンビニを作れば儲かるという時代は過ぎたように感じます。たしかに客の入りが多いコンビにも我が家の近くにありますが、生き残るのはこのようなところでしょう。
今朝、卵がないので仕方なくコンビニに行ったのですが、やはり卵もないどんよりするようなコンビにでした。結局また歩いて繁盛するコンビニへ。。。。でも、いい散歩になりました。
【2005年】
洋服にS/M/Lというサイズ表示がありますが、その標準、たとえばシャツのMならばウエストや体重、袖の長さに標準があるはずですが、この標準がまた変わったのでしょうか?
というのも、10年以上前にやはりこの標準が変わり今までLでちょうどよかったものが袖の長さが長すぎるようになりしばらくMを買っていました。Lでは大きすぎMでは少し小さいので困っていました。ところがこの前Mサイズのシャツを買ったら、なんとなく袖の長さが長い。ウエストあたりは少しきつめ。。。。また標準サイズが変わったのかな?
漫才のアンガールズのような手足の長いやせた体型が標準になってきたのか?
ジーパンを買ったら裾合わせで切り取られて残る生地の長さにトホホとしてしまいます。
夕飯の後、またごろっと寝てしまったのですが寒くて起きてしまいました。
だいぶ気温も下がってきているようです。
ハムスターにスズちゃんは、昨日まで真綿を敷き詰めてその上で寝ていたのですが、さっき小屋をのぞいたらその真綿をドーム状にしてその中にもぐりこんでいました。小さな動物ですが一人いや一匹でいろいろと環境に応じて生きています。
僕もホットカーペットを入れてしまった。
【2006年】
「ヘヴンリー ブルー」 村山由著
「天使の卵」そしてその続編の「天使の梯子」の続編です。
春妃・歩太・夏姫のそれぞれの悲しくも透明な恋の物語。そしてその物語は、「天使の卵」から10年経た中に登場する慎一の恋。ヘヴンリーブルーは、さらに2年の歳月が流れます。
僕の「天使の梯子」の感想に最後には次のように書きました。
「最後の言葉は、慎一の『僕たちはそこからはじまる。』で終わります。
慎一は夏姫への愛を貫き通そうとする。しかし『そこからはじまる』のは、夏姫にとっても同じである。歩太にとっても。
春妃への思いは吹っ切れたにしても、夏姫にとっても、歩太にとっても「これからはじまる」のである。
夏姫にとっては、初めて歩太という男が存在するであろう。歩太にとっては、春妃を抜きにした一人の女性として夏姫が存在する。
この物語がこのままではすまない予感がするのである。」
やはり村山由佳さんにとっても、この物語を完結させるには「ヘヴンリーブルー」を書かざるを得なかったのでしょうか?
この作品は、2年後という意味では続編でもありますが、本の紹介としてはそして物語自体も「天使の卵」のアナザストーリーあるいは回想録というべき物語です。この物語の中でいちばん傷ついたのは夏姫であり、ボーイフレンドの歩太と実の姉の春妃との恋に苦しみ、姉を憎みとおしてその姉が死んでしまう中にその憎しみ続けた春妃への言葉が春妃を憎む以上の苦しみとして自身の苦しみになってしまう。そんな夏姫の苦しみの救いがどこにあるのか。ここをヘヴンリーブルーでは、夏姫の心の中としての回想として描かれます。
この夏姫の苦しみの救いはどこにあったのか。
「天使の梯子」では、春妃の死を受け止めると同時に、春妃の夏姫への姉妹としての愛情、歩太の春妃への同時に歩太の春妃への愛が本物であったこと、そして夏姫の歩太への思いが本物であったこと、そこに登場する慎一の純粋な夏姫への心。これらの愛が確かめられると同時に、それぞれの愛が憎み憎まれする中でそれぞれが苦しみを持っていた事が理解しあえたということ。そして互いの苦しみを癒してあげようという気持ちが高まるそんな高次の愛に救いが表れている。
これがまた死んではしまったが春妃自身の救いでもあった。
こういう中で『僕たちはそこからはじまる。』という慎一の言葉で終わるのである。
『僕たちはそこからはじまる。』ここに未来を見つめることができる。
残された3人の未来。。。。幸せということではなくても、春妃を心の中におきながらも生きていく自分を見つけること、ここに最後の救いがあるのではないか。それはまた春妃の救いでもある。「ヘヴンリーブルー」は、この救いを感じる作品です。
「天使の梯子」から2年後、夏姫は西洋朝顔ヘヴンリーブルー(makikoさんの「ミセスリビング」のサイト内のページをお許しをいただきリンクさせていただきました)に水をあげる。<天上(天空)の青>朝顔の花言葉は、愛情の絆または愛着の絆。。。ヘヴンリーブルーは、秋に咲くという。「ヘヴンリーブルー」は、ここからはじまる。
春妃の死により、残された夏姫と歩太、そこに現れる慎一。この三人にそれぞれに愛はある。この愛は春妃をめぐって起きた苦しみを互いに理解する中でそれぞれに絆がある。もちろん死んでしまった春妃と3人との絆でもある。愛情の絆または愛着の絆という朝顔の花言葉に、作品名「ヘヴンリーブルー」は、なるほどと感じさせられる。
夏姫の苦しみへの救いは、3人そして今はいない春妃との絆という表現で表されるのだろう。
慎一は、「天子の梯子」に登場し、春妃のことは知らないが、夏姫と歩太のなかに慎一が入ることで救いも生まれてきた。夏姫と歩太が結ばれることはけっしてなかった。互いにいたわる事は出来ても男女間の愛情にはならない。互いのいたわりの心は男女間の愛情以上のものになってしまっている。春妃から二人は解放されない。互いに未来を見つめることは出来なかっただろう。慎一は、歩太にとっては12年前の自分を見る鏡であり、夏姫にとっては、春妃がなぜ歩太を愛したのかの心の鏡でもある。その慎一がポツリともらした『僕たちはそこからはじまる。』という言葉。12年の歳月を感じるとともに、夏姫と歩太のなかに始めて未来をというものが見えてくる。ここで救いは完結するだろう。夏姫は、慎一が自分の前に現れたことを感謝する。この感謝は歩太のものでもあるだろう。
ここでは引用できませんが、最後に夏姫の救われた心が現れています。
12年前、春妃のおなかの中には新しい命が宿っていた。
春妃はヘヴンリーブルーの色の小さな靴下を編んでいた。歩太は、その靴下を今でも持っているだろう。歩太の描く絵にはヘヴンリーブルーの色がよく使われる。もう人物画は描かないが、そのヘヴンリーブルーの色の中に春妃は生きている。その絵の個展を開いた歩太。。。
歩太にも救いが現れている。
読み終わって本を閉じようとしたとき、もう一度ヘヴンリーブルーの色の見返しが目に写った。
明るい空の色のようなヘヴンリーブルーの色。そんな透明感のある作品でした。
【2007年】
妻も帰りが遅いというので子供たちと外食をしました。
久しぶりに回転寿司。。。。
車で15分ぐらいのところにおいしい回転寿司やさんがあります。お客の数は開店ごろに比べると少し落ちたかな?でも、店で魚をおろしているようで、あら汁もうまいです。
鬼のいぬ間にジョッキを2杯と大トロ(笑)
あっ、車の運転は息子ですよ。
11月ですねぇ。。。
小雨が降り肌寒さを感じたのですが、まだ車の窓を少し開けていないと蒸し暑いです。
立冬は8日です。という事は今が晩秋?
でも、そういう季節感はありませんなぁ。
この日記は、12月の冬至までを秋とします。気候的には秋を冬至までとしても違和感がありませんね。
俳句的には困ります。
本音としては気候的にそんな季節を感じられないと思うのですが、二十四節季という区分では今日から秋とか冬ですよといわれるわけでして。季語的な狂いも出てしまうかな。。。そのうち。
【2008年】
「珊瑚の島で千鳥足(続ばらとおむつ)」
角川文庫
銀色 夏生 著
2008年10月25日角川文庫より初版発行。
「ばらとおむつ」の続編です。
「ばらとおむつ」は2007年4月に発売になりましたが1年半ぶりの続編でした。「ばらとおむつ」という題名は、母親「しげちゃん」が脳梗塞で倒れ、その病状と介護の様子を兄「せっせ」がご兄弟たち(夏生さんは4人兄弟ーー「せっせ」、夏生さん、「テル」、「エミ」)にメール通信として出した通信の題名でした。今回の「珊瑚の島で千鳥足」もやはり「せっせ」の通信の題名です。珊瑚の島というのは、「せっせ」が「しげちゃん」を連れて南の島に移住すると言い出し、その計画から次の通信は「珊瑚の島で千鳥足」か!ということで名づけられたものです。さいわい?というのか、南の島への移住はまだでしたが、「せっせ」のいつか実現したい夢といった形で通信の題名としたのではないかと思います。本文中には南の島とはいわないまでも宮崎県の海の見えるような場所にとも。
ということで「せっせ」の通信「珊瑚の島で千鳥足」1号は、2007年3月12日にはじまります。(うん?夏生さんの誕生日?)
通信「ばらとおむつ」は、2007年1月3日100号で終わっていますから、約2ヶ月ぶりに通信が復活したようです。「ばらとおむつ」の夏生さんのあとがきには、「ばらとおむつ」101号が載せられています。その中で「せっせ」は次の通信の題名を「珊瑚の島で千鳥足」にと。このように「せっせ」の通信「ばらとおむつ」と「珊瑚の島で千鳥足」はほぼつながった形で、夏生さんの作品としての「珊瑚の島で千鳥足」もまさに続きなのです。そして今年7月8日の100号まで「せっせ」の通信は続きます。
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」 (背表紙より引用)
銀色夏生家もいろいろと。。。。。
生きていればそこに家族がいて親戚がいて周りの人に囲まれて生活をする。その中に日々いろいろな出来事が起きて一つひとつに喜怒哀楽が。
毎日が大きな出来事にあるわけではないけどその中で一喜一憂しながら過ごしていきます。平凡のようでもありあわただしくもあり。そのあわただしさも平凡に。でもこの平凡を見つめるとそこにはまさに笑いと涙があるわけで、そして怒ったりぼうっとしたり。そのような日々をつづることの面白さをこの作品は教えてくれるのかもしれません。それは通信として自分と母親との暮らしを通信として兄弟に送る「せっせ」の書くものの中にも言えることだと思います。
夏生さんのご実家は、宮崎県と鹿児島県、熊本県の県境にあるようですが、小さな温泉町のようです。多分のんびりとした時間が過ぎていく町なのでしょう。そのような町に住みながら日々起きる事々。。。それを見つめる夏生さんと「せっせ」の生活への考え方というのか生き方が出ています。もしかしたらそれ以上に「しげちゃん」の毎日の生き方が出ているのかもしれません。
「つれづれノート」という作品が発表されたときからそれ自体が詩人・作家としての銀色夏生の日記エッセイではなく、一人の女性として生きる銀色夏生の世界でした。ですから読者は詩人や作家と向き合うというよりも自立して仕事をして子育てをしていく一人の女性と向き合うわけです。もちろん作家ですから収入や時間的な自由はありますし、時々は作品の話やプロとしての作家意識も語られますが、基本的には日々の生活や人間関係の中でどんよりと過ごす銀色夏生なのです。
この日々をどんよりとしながらも見つめる視点、そこに人生の楽しさを発見したりするその生き方ですね。それも肩を張って生きるのではなくて自然に過ごし見つめられること。それが魅力でしょうし、読者も自分のことを見つめることの大切さを読後に感じるのです。
その点は、「せっせ」の通信にも現れています。たぶん介護や家の整理などは大変なことだと思うのですが、その大変さは見えつつどこかその大変さをもクスッと笑ってしまうように書いていく。それも変にニヒルではなくて心から時には楽しんでいるようにも感じられます。介護を必要な「しげちゃん」に時には癇癪を起こしながらもお誕生日のささやかなイベントを兄弟に問う。土地問題では怪しげな不動産屋にはらはらしたり。生活パターンからの「せっせ丼」(笑)などなど。なんだか人生って面白いなぁと感じます。弟の「テル」も心臓に異変が。もちろんみな心配しますがどこかユーモア的にも読めます。「しげちゃん」ももちろんなのですが、ご家族みんなが人生を楽しんでいるように。。。。視点を変えれば苦しさも後になれば笑ってしまうようなことはたくさんあります。ここには日常を文章にするということの特殊性もあるのかもしれません。特に人に読んでもらうというまったくの私的な日記ではない性格の文章に。自分を客観視できるというのか、感情をある程度抑えられたときにしか文章にはなりませんから。
夏生さんは、人生はゲームのようなものと他の作品で書いていますが、この作品をお読みになるだけでその意味の深いことが読み取れると思います。ゲームのようなものとはぜんぜん不謹慎な言葉ではないのです。漱石が作品において、人は喜劇を演じると書いていますが、客観視をすればすべて滑稽なのかもしれません。もちろん漱石は死だけが悲劇だと。日常の中に怒るいろいろなこと。。。。そのときには激しい喜怒哀楽があるけど、それを文章にする余裕が生まれたとき、人は喜劇を演じることが見え、ゲームだよなぁ。。。と許したり落ち着いたりできるわけです。でも、それは根底に日々の出来事や社会の出来事を見つめる目を持っていて考えぬける方が持てる視点ではないでしょうか。
悲劇を見つめられるから喜劇として見える。。。。
東京に出てきた銀色夏生一家。。。。
今も
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」
ということを感じながら日々を生きていらっしゃることでしょう。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
子供の頃。。。。。
何かあると親や先生に
言いつける奴がいた
尖閣諸島問題を
アメリカに言いつけて
アメリカが介入してはだめだ
親や先生に言いつけてはだめだ
親が出てきてはだめだ
仲良くしてもらえなくなる
(Am8:36)
沖縄返還前
アメリカが沖縄に駐留し
返還後に尖閣諸島もある
こういう後ろ盾が
中国を刺激するのではないか
そして日本は
アメリカの駐留という歴史を
追認してしまう
まぁ、これが安保だが
(Am8:45)
勘違いしてはならないのは
日本は平和外交という独自の路線で
国際世論も引き込めるのでは
(Am8:55)
今年の夏。。。。
ユニットバスを
魔法瓶型に換えました
だいぶ古くなってもいましたし
残暑の頃や暖かい時期は
そうも魔法瓶の効用がわからなかったけど
急に寒くなってきた今日この頃
その威力にびっくりしています
さめませんなぁ。。。。。。
うん?魔法瓶。。。。
今は使わなくなった言葉ですなぁ。。。。
(Am9:24)
中国が油田やガス田を自国の領土とし
アメリカや諸外国の企業に協力を求めたら
アメリカは今の経済状態企業の状態から
アメリカは安保と経済を天秤にかけるだろうか
戦後占領した沖縄でもあるし
歴史をさかのぼった領有権・戦後処理
(Am10:44)
55年体制がすすむ中、市民派といわれる政治が台頭し社会全般の民主主義を階級間闘争を否定するかのような政治がいわれるようになった。自民党の腐敗あるいは社会党の万年野党の状態を否定をした中での既成政党ではだめだという動きもやはりこの市民は政治の影響があったのではないかと思う。
しかし市民派政治といわれるものには一つの落とし穴があるのではないか。
日本は民主的な政党政治である。民主的な国会を通じてその政治は行われる。もちろんその基本には選挙という形においても国民主権がある。この政治制度としての民主主義と現実の政策における民主主義は必ずしも一体なものではない。それは国民生活の中に現れる。民主的な制度のもとに政治は行われ具体的に日本の国民生活が現れるという民主主義は、今の国民生活を見ればどんな民主主義であるかが見えるだろう。
政党政治という民主主義は、国民の中にあるそれぞれの階層のどの階層に目を向けるかにその勢力関係において決まってくるある意味多数派の民主主義である。少数意見はこの民主主義は及ばないものである。
国民全般を市民と呼ぶ。だから市民とはこのいろいろな階層を抽象的に民主主義という中に規定するものではないか。
その中に市民派政治は、政治的理念も政策も抽象化された民主主義に右往左往をする。社会的な弱者に目を向けるが一方には企業や富裕層の利益がある。こちらを立てればあちらが立たない。どちらも日本市民なのだから。階級あるいは階層を見ないでその政策を立てるなら立ち往生をしてしまう。経済は矛盾する中にその解決を見つけて発展をする。この矛盾を道化と芽解決するかに立ち往生する。
市民派政治も否定をするものではないし、制度的な抽象的な民主主義は維持しなければならない。しかし同時にこの社会にある階層化された国民をどう見るかも必要である。そしてこの階層化がどのくらい経済をゆがめているか、それは今の日本が衰退する姿でもある。制度的な抽象的な民主主義を本来の現実的な国民生活にある矛盾を解決する民主主義と一体化させなければならない。それが社会民主主義だろう。
先進国の経済は国内の国民生活を犠牲にしなければ成り立たなくなっているまでに資本主義の成熟から衰退に向かっている。資本主義を維持しながらも階級あるいは階層に目を向ける資本主義らしくない資本主義を目指さないと破綻に向かうだろう。市民派政治と社会民主主義は違う。でも近いところにはある。民主党の衆議院選大勝のマニフェストには社会民主主義の芽はあった。しかし結果は市民派政治の悪いところが出ている。政治も経済も外交も抽象的な民主主義を言うだけに終わっているのではないか。あるいはこの抽象的民主主義が一人歩きをして官僚支配から政治主導へと現れ、事業仕分けという議論も何もない中に政治主導が民主主義の強権をして現れる。壊すのはいいがそのあとに何も残らないで新たな制度が生まれない。抽象的な民主主義が強権に変わるとき外交もうまくいかなくなる。アメリカの戦争という抽象的な民主主義に名を借りた外交がうまくいかないことは目に見えているのに、安保を見せ付けた中国への民主化要求はうまくいかないだろう。
【2011年】ツイッターつぶやき
以前にも何度かきましたが、企業が労働力商品を労働者から買った場合(注意をしてほしいのですが、企業は労働者自体を買ったのではなくて労働力を買ったのです。ですから人身売買に消費税をかけるとか、神聖な労働に消費税をかけるといった論理ではないのです)、これまでは消費税を支払っていなかった。
消費税というものは広く浅く国民すべてがその収入と支出において支払うべきものだと思うが、ここから企業の労働力商品の消費は神聖化されてかけられていない。今のような深刻な事態になった時に企業も労働力商品を買ったなら消費税を支払うべきなのです。
5%の消費税、そうは企業にとっては重い負担ではないでしょう。一般庶民個人はもっときつい中消費増税を言われているのですし、国家公務員は賃下げまで言われている。この中で企業利益は聖域だという論理は通じないはずです。株や金融商品などなどに投資をしたり外国企業を買収したり、このような利潤追求の失敗が目立ってくるでしょう。それならば労働力商品を買った時に支払う消費税にある意味の投資をした方が良いのではないでしょうか。
ある意味の投資とは、労働力商品を買った時の消費税は、まず労働者の懐に賃金と一緒に入り労働者はそれを預かります。そして5%の消費税の中から200万から300万程度にかかる消費税を労働者の益税とします。この益税部分は消費に回り企業に帰ってくるのです。消費の拡大は企業の活動に有益ですから、企業にとっては景気回復へのある意味の投資にもなります。その意味での5%の消費税導入ははそう破そうは損する話ではないはずです。
300万円までを益税とするなら
年収90万円のパートやバイト。。。。。5%の消費税は4万5千円(すべて益税)・・・国への上納は0円
年収300万円の新入社員や派遣。。。 5%の消費税は15万円 (すべて益税)・・・国への上納は0円
年収500万円の中堅社員。。。。。。。5%の消費税は25万円(15万円は益税)・・・国への上納は10万円
年収800万円の高齢社員。。。。。。。5%の消費税は40万円(15万円は益税)・・・国への上納は25万円
年収1500万円の管理職。。。。。。。5%の消費税は75万円(15万円は益税)・・・国への上納は60万円
年収1億円の役員。。。。。。。。。。。5%の消費税は500万円(15万円は益税)・・・国への上納は485万円
どうでしょうか?
労働者の平均年収を400万円として×労働者数ですから、消費伸びや国の税収もそうとうあがるはずです。
昨夜はおでんをしました。
でも、おでんをおかずでは飯を食えませんので、高菜寿司とミニトマト寿司を作りました。
高菜寿司は、高菜の漬物の葉っぱの部分で酢飯を包むだけです。
ミニトマト寿司は、まな板に時任菜適当な大きさのラップを敷き、真ん中にブロッコリースプラウトと半分に切ったミニトマトを乗せ、その上にしゃけのフレーク状のものをふりかけ、あとは酢飯を乗せて敷いておいてラップで包み形を整えるだけです。
しゃけの塩味そしてミニトマトの甘さが酢飯によくマッチをしておいしいですよ。お子さんも喜ぶと思います。
大きさは二口大ぐらいがいいと思います。
おでんの残りが冷蔵庫に。。。。味が染みてうまいんですよねぇ。。。。。あハハハ
【2012年】ツイッターつぶやき
そろそろ西日が輝く駅前通りをうつむき加減にとぼとぼ歩いていた
いつもより車の交通量も少なく
歩いている人も少なかった
西日は寂しく光る
交差点も近いので顔を上げると
信号の黄色や赤が西日に照らされいつもよりどぎつく光る
そこへ交差点を曲がって僕に向かってくる自転車が
西日がまぶしい
自転車が近づき思わず「わっ!!!」って声を出してしまった
その自転車には髪が長い女性がにたっとして乗っていた
口はまさに口裂け女!
長い髪が風に舞い口裂け女が向かってくる
さっと通り過ぎて行った
振り向くと後ろに小さな女の子が乗っていて
オレンジと黒のハロウィンの衣装
あの女性の口を思い出した。。。。。
ハロウィンのカボチャのお化けキャラクターの口
口紅で書いたのでしょう
近くには保育園がありますからハロウィンのお祭りでもやったのかな
あの口のまま私服に着替えて急いで保育園を出てしまったのでしょうか
あの女の子、お母さんも仮装し活躍して楽しかったのでしょうね
【2013年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2014年】ツイッターつぶやき
デフレだインフレだと貨幣量を問題とする。
しかしデフレもインフレも貨幣量の問題ではなくて貨幣の回転が問題なのである。
デフレは貨幣量が足り何のではなくてだ物知多貨幣が回転しないのが問題でむしろデフレは貨幣量が多すぎるのである。経済が停滞をする中で貨幣量は多すぎとなるのである。
インフレの当初は貨幣の蓄積過程であり貨幣の回転を鈍くして市場の貨幣量が足りなくなるのである。そこでやはり貨幣量の増加を行いインフレとなる。
現在の金融政策が貨幣量だけを問題にして貨幣の回転を見ない中に経済の好循環は生まれないのである。
貨幣の回転が低下している中で貨幣量を増やせば名目上のインフレを起こすことができるがその名目上のインフレはやはり貨幣の蓄積過程であり貨幣の回転を鈍くする。名目上の好景気と実体経済の不況が同居をしてスタグフレーションとなる。
スタグフレーションは経済の成長を促さない。
デフレからの脱却は企業の持つ資本の回転が早まることである。
この企業には莫大な貨幣量がある。この貨幣を回転させることにより企業はまた資本の増殖を行える。これは生産面での経済の好循環である。
同時にこの資本の回転を早めるにはその企業が生産する商品やサービスがやはり速く回転しなければならないということでありそれは消費を意味する。そうならば消費の側の貨幣の回転の増大が必要となる。しかし資本の蓄積過程で貨幣は企業に集まりそれが賃金という形で消費を担う労働者に廻らなくなる。するとここに貨幣の回転が滞ることとなる。貨幣の回転は消費に向けられなければならない。これが消費から見た経済の好循環である。
生産の好循環と消費の好循環は貨幣量ではなくて貨幣の回転が問題であることは明白だろう。
消費の側の経済の好循環は何も賃上げで労働者の懐に入る貨幣量を増やすことだけではない。
物価が下がることによって相対的に労働者の貨幣量は増える。
この物価は円るぎー問題もあるが経済の法則性からの生産性の向上が商品価値を下げるのであるから労働者の懐にある貨幣量の相対的な増加は必然である。絶対的な貨幣量の増加が必要なのではなくてこの相対的貨幣量の増加は貨幣の回転から得られる。
企業の資本の回転も同じだろう。貨幣量を増やして名目上の物価高でコストが膨らみ貨幣量が足りなくなるといった矛盾を引き起こすのではなくて生産性の向上の中でコストも下がることにより相対的な貨幣量は少なくなる。絶対的な貨幣量が問題ではないのである。
今の経済学は自己のインフレ政策(実はスタグフレーション政策なのだが)を正当化するために貨幣量よりも貨幣の回転を言う者にデフレ派というレッテルを張るのでしょう。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
昨日書きました「労働価値説から見た企業利益と成長」の続きのようなものです。
昨日は労働価値説から見て企業利益の減少を書きました。
それは生産性の向上による商品価値の低下からでした。一つの商品に必要な労働力量が生産性の向上により減少するからです。
なぜこのようなことを企業は行わざるを得ないのでしょうか?
それは企業間競争にあります。
ある同じ商品を生産する企業がABCの3社あったとします。A社生産性を上げて一つの商品を80円で生産できるようになったとします。BC社は生産性が同じで商品は100円とします。このABCの各社は商品市場に商品を出します。市場での商品価格は平均的な100円で売れたとします。するとA社は一つの商品につき20円の特別な利益を得ることができるでしょう。80円の価値の商品が100円で売れるのですから。市場における独占度から見ると、A社は他の企業よりも10円安く90円で売っても特別な利益は10円残りますから市場において優位に立つことができます。
このように生産性の向上は利益の拡大と市場の独占度を上げることができることから生産性の向上は企業間競争となります。
しかし、BC社も負けずに生産性を上げていきA社と同じ80円の商品生産が始まったとします。この時市場での平均価格は80円となります。100円から80円と商品価格が減少するのもまた企業間競争の湯数理競争によります。
するとどうでしょうか。この産業では商品価値の低下により商品の価格も減少して同じ数量の商品を生産しても企業の利益は減少するでしょう。
この産業内においては、生産性の向上の家庭において商品価格の継続的な低下が起きていることになります。いいかえればデフレです。
ですからデフレもまた労働価値説から見れば必然なのです。
しかしこの産業内の企業は利益が減ったとしても安定的な利益を得ています。しかし企業はこれでは満足しないでしょう。上の例でいえば20%の生産拡大をしなければ初めの利益を確保できません。そこで20%の生産拡大を各社が行います。するとどこかで商品の過剰が生まれるでしょう。特に労働の節約により労働者数や賃金を切り下げて行うならば、労働者の購買能力は低下をします。この労働者の購買能力の低下はさらに商品の過剰を生み出すでしょう。
商品過剰が目に見えてくると企業は生産の縮小に向かいます。労働者の首切りやさらなる賃金低下が起こります。ここから更なる購買力の低下から商品の過剰がまた生み出されます。
ひどいときは先の3社のうち一番生産性の悪い企業が倒産という事になります。
ここまでくると単なるデフレではなくてデフレ不況になります。
こう見ると、デフレ不況時には貨幣量は足りないのでしょうか?確かに市場内の貨幣量は労働者の懐において発生をしますが、貨幣量の問題ではなくて貨幣自体の回転が鈍くなっていると見たほうがいいでしょう。
【2018年】ツイッターつぶやき
昨日ビオラを買ってきました。
今年は少し贅沢をしてサントリーの花がたくさん咲くというビオラも一つ買いました。
300円ほどでほかのビオラに比べると約3倍の値段ですが、夏にサントリーのフェリースターという極小ニチニチソウがきれいに咲きましたのでビオラも楽しめるのではと思いました。
ほかは98円でしたが脇芽もたくさん出ていて元気な花でした。花の苗選びというときれいにたくさんの花が咲いているものを選んでしまいますが、咲いている花はすぐに終わりますしやはり脇芽がたくさんある苗を選ぶべきだと思っています。でも、ビオラでも色によって脇芽の出方にも違いがあるりますね。
苗の土も今年はよい土でした。ひどいときは粘土で根っこが固まっていたり、黄色い変な土がボロボロだったり。安い花選びも中の土までは確認できませんからなぁ・・・・困ります。毎年行く花屋さんはそうはひどいついは少ないですが。
これで今年の植え替えも一応終わりです。
そうそう・・・・
フェリースターはまだ元気なので新芽が出ているところから長い茎を切り鉢に植え替えました。まだ寒さもそうはひどくないのでしばらく日向に出しておいて本格的な冬になったら出窓に移したいと思います。一度日に塗装の冬越しが成功したことがありましたので大丈夫かなぁ。。。。。と
gooお題「ハロウィンイベントに参加しますか?」
ハロウィンイベントってどんなものかわからないし、ハロウィン自体がなじみがない。
ハロウィン”イベント”ということですから人が少数でもたくさんでも集まることなんでしょう。渋谷の騒動はやはりイベントだったのでしょうか?迷惑だとはいえあれだけの人が集まれば儲ける人もいるでしょう。そして集まる人ははじめは自然発生的なものだったのでしょうが、マスコミが騒げば広まりますなぁ。。。。
ということで、ハロウィンに便乗したまさにイベントだったのでしょう。
クリスマスだ大晦日だといえば人が集まり、それ自体がイベントなんでしょう。
とはいえ、ハロウィンとはなにかもわからずに若い人たちが最近に始めた騒動ですから批判的にみられますが、でもそれを見て批判ばかりもしていられないでしょう。
ハロウィンも宗教的な面が強いと思うのですが、その宗教抜きにしたイベント化になっています。しかし多くの日本人も神社に初もうでをして結婚式を教会でして、死ねばお寺のお世話になる。多くのイベントが宗教抜きになっています。
宗教でも政治経済でもなんでもイベント化すれば集まってしまい同一方向に向かって進む。そういえば会社の休みも盆正月や春と秋の連休にどっと集団で休み休暇は捨てる状態です。個人的な休みは冠婚葬祭ぐらいとか。。。。。
渋谷のスクランブル交差点はすべての車が止まって歩行者優先です。そこに束縛されない自由を感じますね。ですからその束縛されない(されたくない)という心がいびつな自由な行動となるのでしょう。そしてそこに上気した日本人の団体行動が加わり集団心理にもなっていく。
こういったものが社会の隅々にまで行き渡った社会なんです。日本は。
とはいっても日本人は根が単純で正直で温厚ですから、変なイベント的な集団行動も批判します。しかしそれもまた集団的な意見を取り入れたいい子のものとなってしまう。
この中で政治のポピュリズムも完成して今後改憲が土俵に上がってくるのです。
【2019年】ツイッターつぶやき
オリンピックのマラソンと競歩が札幌での開催になった。都知事は「同意しないが決定を妨げない」とした。
来年度からの共通維持の英語入試に民間の英語検定を入れるとしてきたが、地域格差と家計格差の中で延期に追い込まれた。それでも政府はこの延期を「受験生の立場に立った思いやりのある英断」という言葉で表した。
二つの記事はまったく違う中身の記事ですが、どちらも日本政府の態度は「蔑ろさ」にある。
誰を蔑ろにしているのか?
オリンピックでは選手を蔑ろにしている。
IOCは猛暑の中での協議は選手の進退に大きな影響が出るからとしているが、日本はこれに「同意」をせずにIOCに決定権がるからとする。たしかに暑さ対策を300億円も出して行ったとはいえ猛暑自体がなくなるわけではなくて選手の負担は大きいでしょう。そして選手が倒れるようなことはないという確約もない。
民間英語試験の延長は若い高校生を蔑ろにした。
英語入試に民間の試験を導入すると決めた時点で地域格差や家計の格差は見えていたはずです。それをずっとごり押しをしてきて格差については「自分の身の丈に合わせて頑張って」と格差を無視をして若い高校生を蔑ろにした。これが問題になって「自分の身の丈」発言を隠して「受験生の立場に立った思いやりのある英断」とごまかした。
今の保守政治は経済面でも格差の拡大そして貧困層を増やしている。貧乏も自助努力とされる。災害に対しても自助が強調される。この公助から自助は国民を蔑ろにしていることに等しい。これと同じ論法と考え方が上の二つの問題にも現れたということです。
【2020年】ツイッターつぶやき
楓蔦黄(もみじつたきばむ)11月2日頃(七十二候)
なんだか忙しくして心落ち着かない日々ですが、公園の前でふと木々を見上げたらだいぶ紅葉していました。すでに桜は落ち葉に。楓ともみじの違いが分からないのですが、僕の住む周りにはなかなか見当たりません。のんびりと散歩でもすればたぶんあるのでしょうね。
欅の黄色やオレンジ色がきれいです。
東京では里の秋とはいきませんがそれ名入りに晩秋を見つけることができます。
公園の低木の効用もきれいですね。
ベランダのほうき草が真っ赤になりところどころ茶色くなっていました。
刈り取ってビニール袋の中に入れてほぐすように揉んだら実がたくさん採れました。
来年蒔きたいと思います。
【2021年】ツイッターつぶやき
都内の鉄道では乗客がホーム下に落ちないようにホームドアが多くつけられるようになっています。乗客が落ちないようにという面では安全面が向上しています。
しかし私鉄の京王線で走行中の車内で刃物を持った男が暴れ人を刺し火も点けたようです。
電車は緊急で駅に停車をしたのですが、電車のドアもホームドアも開かず逃げる乗客は窓を開けてホームに出ていました。
安全を守るホームドアが何か緊急事態があると電車のドアもホームドアも開かない状態があり得るという負の面が出てしまったようです。
電車のドアとホームドアがずれたりする塗料ドアは開かない。電車のドアを手動で開けてしまうと電車が停止位置を直せない。
火災などが発生した場合でホームドアが同じ状態になった時乗客は車内に閉じ込められ被害が大きくなってしまうかもしれませんね。
【2022年】ツイッターつぶやき
買い物で店の入り口の近くまで来たら僕と同じぐらいの年恰好の男性が店の入り口で思いっきり倒れた。具合が悪くて倒れたのではなくて入口においてある靴底をきれいにするマットで足がもつれたようでした。マットですから1センチぐらいの厚さです。年を取るとほんの少しの段差でも倒れることがあると言いますが、何かの加減で厚さ1センチでも倒れてしまう。
先日足の小指を思いっきりぶつけてしまい今も腫れています。まぁ、足がもつれてぶつけたということでもないのですが、若いころに比べると足元がおぼつかなくなっているのは確かです。この間はベランダで洗濯物を干して部屋に入ろうとしたら、段差のアルミサッシの下でにやはり足の小指をぶつけた。歩く時の足の上げ方が低くなっているんでしょうね。筋力の衰えでしょうか。
階段などは案外さっさと降りたりしているのですが、ぼうっとしたりするとやはり足のあげる高さが低いので躓いたりしてしまうのでしょう。
そういえば柱などの腕の肘もよくぶつけるようになっている。
いつも緊張して行動することは不可能ですが、ある程度意識して動かねばなりませんなぁ。
【2023年】ツイッターつぶやき
日銀が1%まで長期金利を容認したが限りなく1%に近づいている。同時に円は151円の円安。
株価は700円以上上がった。
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
『きらきらひかる』
新潮文庫
江國 香織 著
あとがきに「ごく自然な恋愛小説を書こうと思いました」とあります。
しかし中身は同性愛の夫とアルコール中毒の妻が主人公です。どこが「ごく自然」なのか?「常識的」な目で見るならば異常な世界です。なぜ江國さんがこの中に「ごく自然な恋愛」を描こうとしたのか?
しかし僕が書いた「常識的」という言葉をもう一度見直さなければならないのかとも思います。睦月と笑子の両親は、この常識の中にいる。両親は、孫を産めという。そして睦月の同性愛と笑子の精神異常をお互いに知る中に苦悩する。同時に睦月や笑子もこの「常識」に苦しみ傷つく。もちろん睦月と笑子自身も世間の常識から見た自分たちの「異状」さに苦しむ。睦月は同性愛という恋愛感情からけして子供を授かるものはない。笑子はその精神状態から子供を育てることへの不安がある。
このような中に二人とその家族の中に「常識」との葛藤がある。
では、なぞ二人は見合いをして結婚という形態をとったのか、それは、睦月の恋人(男)紺の言葉「男が好きというのではなくて、睦月が好きだから」という言葉の中に答えがあるのではないかと思う。純粋にその相手が好きだから一緒にいるという気持ち。この純粋さを常識とぶつかりながらも捜し求められていくという作品だと思う。
しかしなぜこの人を純粋に好きになったから一緒にいるというものを同性愛や精神異常の二人から表現をしなければならないのか。
同性愛(世間で言う女装的なオカマといわれるものとは違う)や精神異常というのは、今の社会では世間に隠し通すか内密にするというものがあると思う。ここに極限の状態があり、その極限の状態の中に睦月や笑子の純粋な「基本的な恋愛」を描く。この中に人を好きになったからという純粋という大切さが画より強く強調されるのではないかと思う。
読者はこの純粋さに魅了されて常識として持つ同性愛という嫌悪感やいやらしさを感じないで作品の中に引き込まれるような気がします。性は人それぞれ、性だけではなくさまざまな世間の常識の中にすべての人は生きている。この世間の常識と自分らしさに苦しむことはたくさんあるだろう。純粋さを貫くのは難しい。
笑子は「銀のライオン」の話をする。睦月や紺、その友人たちを「あなたたちは銀のライオン」だという。睦月の父親も「笑子さんも銀のライオン」だという。銀のライオンは、時に発生する白いライオン。そのライオンたちは群れから離れて自分たちだけで草食で生きているという。そして短命だと。
世間の常識から離れて自らの純粋さの中に生きる睦月や笑子たちという銀のライオン。世間の肉食という常識から離れて草食というやさしさの中に生きる睦月や笑子たち銀のライオン。やさしさや純粋は、この社会の中では弱い。弱い中にもその中に身を置く覚悟、あるいはそのようにしか生きていけない人々。
睦月や笑子のような極限的な人間ではなくても、この社会の中でやさしく純粋にひっそりと生きている人々は多いだろう。しかし、このような愛すべき人々は少数である。
小説の最後は、、、、、
書きませんが、睦月や笑子、紺のつかの間かもしれない幸せに応援したくなるような結末です。
江國さんの作品は、「神さまのボート」と2冊目ですが、その作風は、二人の人間がそれぞれに主人公となり、それぞれの主語で語りかけられている。これはどちらがどちらに影響されたのかというものではありませんが、北村薫の作品に共通しますね。面白いと思います。
東京くもり。
11月に入ってしまいました。
下旬か12月上旬に低い山にでも紅葉を見に行きたいと思っています。去年も一昨年も行ったのですが、もみじには少し早くてちょうどよい時期は見ていません。紅葉は時期が難しいです。
【2004年】
ううう。。。11月ですね。。。どうも冬は苦手です。
これから2ヶ月、どんどん日照時間が少なくなります。寒さはそれほどでもないのですがお天道様を見る時間が少なくなるのは嫌いです。
そうは言っても、公園の桜の葉が色づき始めました。桜の葉などの紅葉は好きです。晴れた日に、桜の葉の紅葉の下でのんびりするような時間は好きだなぁ。。。。
この前、娘とドライブに言ったのですが、娘が腹が減ったというのでコンビニに寄ったのですが、棚には何にもならべていなくどんよりしてしまいました。サンドイッチが少しあったのですが何だか買う気にもならずに缶コーヒーだけを買って出てしまいました。コンビにも飽和状態で、コンビニを作れば儲かるという時代は過ぎたように感じます。たしかに客の入りが多いコンビにも我が家の近くにありますが、生き残るのはこのようなところでしょう。
今朝、卵がないので仕方なくコンビニに行ったのですが、やはり卵もないどんよりするようなコンビにでした。結局また歩いて繁盛するコンビニへ。。。。でも、いい散歩になりました。
【2005年】
洋服にS/M/Lというサイズ表示がありますが、その標準、たとえばシャツのMならばウエストや体重、袖の長さに標準があるはずですが、この標準がまた変わったのでしょうか?
というのも、10年以上前にやはりこの標準が変わり今までLでちょうどよかったものが袖の長さが長すぎるようになりしばらくMを買っていました。Lでは大きすぎMでは少し小さいので困っていました。ところがこの前Mサイズのシャツを買ったら、なんとなく袖の長さが長い。ウエストあたりは少しきつめ。。。。また標準サイズが変わったのかな?
漫才のアンガールズのような手足の長いやせた体型が標準になってきたのか?
ジーパンを買ったら裾合わせで切り取られて残る生地の長さにトホホとしてしまいます。
夕飯の後、またごろっと寝てしまったのですが寒くて起きてしまいました。
だいぶ気温も下がってきているようです。
ハムスターにスズちゃんは、昨日まで真綿を敷き詰めてその上で寝ていたのですが、さっき小屋をのぞいたらその真綿をドーム状にしてその中にもぐりこんでいました。小さな動物ですが一人いや一匹でいろいろと環境に応じて生きています。
僕もホットカーペットを入れてしまった。
【2006年】
「ヘヴンリー ブルー」 村山由著
「天使の卵」そしてその続編の「天使の梯子」の続編です。
春妃・歩太・夏姫のそれぞれの悲しくも透明な恋の物語。そしてその物語は、「天使の卵」から10年経た中に登場する慎一の恋。ヘヴンリーブルーは、さらに2年の歳月が流れます。
僕の「天使の梯子」の感想に最後には次のように書きました。
「最後の言葉は、慎一の『僕たちはそこからはじまる。』で終わります。
慎一は夏姫への愛を貫き通そうとする。しかし『そこからはじまる』のは、夏姫にとっても同じである。歩太にとっても。
春妃への思いは吹っ切れたにしても、夏姫にとっても、歩太にとっても「これからはじまる」のである。
夏姫にとっては、初めて歩太という男が存在するであろう。歩太にとっては、春妃を抜きにした一人の女性として夏姫が存在する。
この物語がこのままではすまない予感がするのである。」
やはり村山由佳さんにとっても、この物語を完結させるには「ヘヴンリーブルー」を書かざるを得なかったのでしょうか?
この作品は、2年後という意味では続編でもありますが、本の紹介としてはそして物語自体も「天使の卵」のアナザストーリーあるいは回想録というべき物語です。この物語の中でいちばん傷ついたのは夏姫であり、ボーイフレンドの歩太と実の姉の春妃との恋に苦しみ、姉を憎みとおしてその姉が死んでしまう中にその憎しみ続けた春妃への言葉が春妃を憎む以上の苦しみとして自身の苦しみになってしまう。そんな夏姫の苦しみの救いがどこにあるのか。ここをヘヴンリーブルーでは、夏姫の心の中としての回想として描かれます。
この夏姫の苦しみの救いはどこにあったのか。
「天使の梯子」では、春妃の死を受け止めると同時に、春妃の夏姫への姉妹としての愛情、歩太の春妃への同時に歩太の春妃への愛が本物であったこと、そして夏姫の歩太への思いが本物であったこと、そこに登場する慎一の純粋な夏姫への心。これらの愛が確かめられると同時に、それぞれの愛が憎み憎まれする中でそれぞれが苦しみを持っていた事が理解しあえたということ。そして互いの苦しみを癒してあげようという気持ちが高まるそんな高次の愛に救いが表れている。
これがまた死んではしまったが春妃自身の救いでもあった。
こういう中で『僕たちはそこからはじまる。』という慎一の言葉で終わるのである。
『僕たちはそこからはじまる。』ここに未来を見つめることができる。
残された3人の未来。。。。幸せということではなくても、春妃を心の中におきながらも生きていく自分を見つけること、ここに最後の救いがあるのではないか。それはまた春妃の救いでもある。「ヘヴンリーブルー」は、この救いを感じる作品です。
「天使の梯子」から2年後、夏姫は西洋朝顔ヘヴンリーブルー(makikoさんの「ミセスリビング」のサイト内のページをお許しをいただきリンクさせていただきました)に水をあげる。<天上(天空)の青>朝顔の花言葉は、愛情の絆または愛着の絆。。。ヘヴンリーブルーは、秋に咲くという。「ヘヴンリーブルー」は、ここからはじまる。
春妃の死により、残された夏姫と歩太、そこに現れる慎一。この三人にそれぞれに愛はある。この愛は春妃をめぐって起きた苦しみを互いに理解する中でそれぞれに絆がある。もちろん死んでしまった春妃と3人との絆でもある。愛情の絆または愛着の絆という朝顔の花言葉に、作品名「ヘヴンリーブルー」は、なるほどと感じさせられる。
夏姫の苦しみへの救いは、3人そして今はいない春妃との絆という表現で表されるのだろう。
慎一は、「天子の梯子」に登場し、春妃のことは知らないが、夏姫と歩太のなかに慎一が入ることで救いも生まれてきた。夏姫と歩太が結ばれることはけっしてなかった。互いにいたわる事は出来ても男女間の愛情にはならない。互いのいたわりの心は男女間の愛情以上のものになってしまっている。春妃から二人は解放されない。互いに未来を見つめることは出来なかっただろう。慎一は、歩太にとっては12年前の自分を見る鏡であり、夏姫にとっては、春妃がなぜ歩太を愛したのかの心の鏡でもある。その慎一がポツリともらした『僕たちはそこからはじまる。』という言葉。12年の歳月を感じるとともに、夏姫と歩太のなかに始めて未来をというものが見えてくる。ここで救いは完結するだろう。夏姫は、慎一が自分の前に現れたことを感謝する。この感謝は歩太のものでもあるだろう。
ここでは引用できませんが、最後に夏姫の救われた心が現れています。
12年前、春妃のおなかの中には新しい命が宿っていた。
春妃はヘヴンリーブルーの色の小さな靴下を編んでいた。歩太は、その靴下を今でも持っているだろう。歩太の描く絵にはヘヴンリーブルーの色がよく使われる。もう人物画は描かないが、そのヘヴンリーブルーの色の中に春妃は生きている。その絵の個展を開いた歩太。。。
歩太にも救いが現れている。
読み終わって本を閉じようとしたとき、もう一度ヘヴンリーブルーの色の見返しが目に写った。
明るい空の色のようなヘヴンリーブルーの色。そんな透明感のある作品でした。
【2007年】
妻も帰りが遅いというので子供たちと外食をしました。
久しぶりに回転寿司。。。。
車で15分ぐらいのところにおいしい回転寿司やさんがあります。お客の数は開店ごろに比べると少し落ちたかな?でも、店で魚をおろしているようで、あら汁もうまいです。
鬼のいぬ間にジョッキを2杯と大トロ(笑)
あっ、車の運転は息子ですよ。
11月ですねぇ。。。
小雨が降り肌寒さを感じたのですが、まだ車の窓を少し開けていないと蒸し暑いです。
立冬は8日です。という事は今が晩秋?
でも、そういう季節感はありませんなぁ。
この日記は、12月の冬至までを秋とします。気候的には秋を冬至までとしても違和感がありませんね。
俳句的には困ります。
本音としては気候的にそんな季節を感じられないと思うのですが、二十四節季という区分では今日から秋とか冬ですよといわれるわけでして。季語的な狂いも出てしまうかな。。。そのうち。
【2008年】
「珊瑚の島で千鳥足(続ばらとおむつ)」
角川文庫
銀色 夏生 著
2008年10月25日角川文庫より初版発行。
「ばらとおむつ」の続編です。
「ばらとおむつ」は2007年4月に発売になりましたが1年半ぶりの続編でした。「ばらとおむつ」という題名は、母親「しげちゃん」が脳梗塞で倒れ、その病状と介護の様子を兄「せっせ」がご兄弟たち(夏生さんは4人兄弟ーー「せっせ」、夏生さん、「テル」、「エミ」)にメール通信として出した通信の題名でした。今回の「珊瑚の島で千鳥足」もやはり「せっせ」の通信の題名です。珊瑚の島というのは、「せっせ」が「しげちゃん」を連れて南の島に移住すると言い出し、その計画から次の通信は「珊瑚の島で千鳥足」か!ということで名づけられたものです。さいわい?というのか、南の島への移住はまだでしたが、「せっせ」のいつか実現したい夢といった形で通信の題名としたのではないかと思います。本文中には南の島とはいわないまでも宮崎県の海の見えるような場所にとも。
ということで「せっせ」の通信「珊瑚の島で千鳥足」1号は、2007年3月12日にはじまります。(うん?夏生さんの誕生日?)
通信「ばらとおむつ」は、2007年1月3日100号で終わっていますから、約2ヶ月ぶりに通信が復活したようです。「ばらとおむつ」の夏生さんのあとがきには、「ばらとおむつ」101号が載せられています。その中で「せっせ」は次の通信の題名を「珊瑚の島で千鳥足」にと。このように「せっせ」の通信「ばらとおむつ」と「珊瑚の島で千鳥足」はほぼつながった形で、夏生さんの作品としての「珊瑚の島で千鳥足」もまさに続きなのです。そして今年7月8日の100号まで「せっせ」の通信は続きます。
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」 (背表紙より引用)
銀色夏生家もいろいろと。。。。。
生きていればそこに家族がいて親戚がいて周りの人に囲まれて生活をする。その中に日々いろいろな出来事が起きて一つひとつに喜怒哀楽が。
毎日が大きな出来事にあるわけではないけどその中で一喜一憂しながら過ごしていきます。平凡のようでもありあわただしくもあり。そのあわただしさも平凡に。でもこの平凡を見つめるとそこにはまさに笑いと涙があるわけで、そして怒ったりぼうっとしたり。そのような日々をつづることの面白さをこの作品は教えてくれるのかもしれません。それは通信として自分と母親との暮らしを通信として兄弟に送る「せっせ」の書くものの中にも言えることだと思います。
夏生さんのご実家は、宮崎県と鹿児島県、熊本県の県境にあるようですが、小さな温泉町のようです。多分のんびりとした時間が過ぎていく町なのでしょう。そのような町に住みながら日々起きる事々。。。それを見つめる夏生さんと「せっせ」の生活への考え方というのか生き方が出ています。もしかしたらそれ以上に「しげちゃん」の毎日の生き方が出ているのかもしれません。
「つれづれノート」という作品が発表されたときからそれ自体が詩人・作家としての銀色夏生の日記エッセイではなく、一人の女性として生きる銀色夏生の世界でした。ですから読者は詩人や作家と向き合うというよりも自立して仕事をして子育てをしていく一人の女性と向き合うわけです。もちろん作家ですから収入や時間的な自由はありますし、時々は作品の話やプロとしての作家意識も語られますが、基本的には日々の生活や人間関係の中でどんよりと過ごす銀色夏生なのです。
この日々をどんよりとしながらも見つめる視点、そこに人生の楽しさを発見したりするその生き方ですね。それも肩を張って生きるのではなくて自然に過ごし見つめられること。それが魅力でしょうし、読者も自分のことを見つめることの大切さを読後に感じるのです。
その点は、「せっせ」の通信にも現れています。たぶん介護や家の整理などは大変なことだと思うのですが、その大変さは見えつつどこかその大変さをもクスッと笑ってしまうように書いていく。それも変にニヒルではなくて心から時には楽しんでいるようにも感じられます。介護を必要な「しげちゃん」に時には癇癪を起こしながらもお誕生日のささやかなイベントを兄弟に問う。土地問題では怪しげな不動産屋にはらはらしたり。生活パターンからの「せっせ丼」(笑)などなど。なんだか人生って面白いなぁと感じます。弟の「テル」も心臓に異変が。もちろんみな心配しますがどこかユーモア的にも読めます。「しげちゃん」ももちろんなのですが、ご家族みんなが人生を楽しんでいるように。。。。視点を変えれば苦しさも後になれば笑ってしまうようなことはたくさんあります。ここには日常を文章にするということの特殊性もあるのかもしれません。特に人に読んでもらうというまったくの私的な日記ではない性格の文章に。自分を客観視できるというのか、感情をある程度抑えられたときにしか文章にはなりませんから。
夏生さんは、人生はゲームのようなものと他の作品で書いていますが、この作品をお読みになるだけでその意味の深いことが読み取れると思います。ゲームのようなものとはぜんぜん不謹慎な言葉ではないのです。漱石が作品において、人は喜劇を演じると書いていますが、客観視をすればすべて滑稽なのかもしれません。もちろん漱石は死だけが悲劇だと。日常の中に怒るいろいろなこと。。。。そのときには激しい喜怒哀楽があるけど、それを文章にする余裕が生まれたとき、人は喜劇を演じることが見え、ゲームだよなぁ。。。と許したり落ち着いたりできるわけです。でも、それは根底に日々の出来事や社会の出来事を見つめる目を持っていて考えぬける方が持てる視点ではないでしょうか。
悲劇を見つめられるから喜劇として見える。。。。
東京に出てきた銀色夏生一家。。。。
今も
「日々の出来事は
ふりそそぐ雨のように
あますところなく
涙と笑いを届けてくれる」
ということを感じながら日々を生きていらっしゃることでしょう。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
子供の頃。。。。。
何かあると親や先生に
言いつける奴がいた
尖閣諸島問題を
アメリカに言いつけて
アメリカが介入してはだめだ
親や先生に言いつけてはだめだ
親が出てきてはだめだ
仲良くしてもらえなくなる
(Am8:36)
沖縄返還前
アメリカが沖縄に駐留し
返還後に尖閣諸島もある
こういう後ろ盾が
中国を刺激するのではないか
そして日本は
アメリカの駐留という歴史を
追認してしまう
まぁ、これが安保だが
(Am8:45)
勘違いしてはならないのは
日本は平和外交という独自の路線で
国際世論も引き込めるのでは
(Am8:55)
今年の夏。。。。
ユニットバスを
魔法瓶型に換えました
だいぶ古くなってもいましたし
残暑の頃や暖かい時期は
そうも魔法瓶の効用がわからなかったけど
急に寒くなってきた今日この頃
その威力にびっくりしています
さめませんなぁ。。。。。。
うん?魔法瓶。。。。
今は使わなくなった言葉ですなぁ。。。。
(Am9:24)
中国が油田やガス田を自国の領土とし
アメリカや諸外国の企業に協力を求めたら
アメリカは今の経済状態企業の状態から
アメリカは安保と経済を天秤にかけるだろうか
戦後占領した沖縄でもあるし
歴史をさかのぼった領有権・戦後処理
(Am10:44)
55年体制がすすむ中、市民派といわれる政治が台頭し社会全般の民主主義を階級間闘争を否定するかのような政治がいわれるようになった。自民党の腐敗あるいは社会党の万年野党の状態を否定をした中での既成政党ではだめだという動きもやはりこの市民は政治の影響があったのではないかと思う。
しかし市民派政治といわれるものには一つの落とし穴があるのではないか。
日本は民主的な政党政治である。民主的な国会を通じてその政治は行われる。もちろんその基本には選挙という形においても国民主権がある。この政治制度としての民主主義と現実の政策における民主主義は必ずしも一体なものではない。それは国民生活の中に現れる。民主的な制度のもとに政治は行われ具体的に日本の国民生活が現れるという民主主義は、今の国民生活を見ればどんな民主主義であるかが見えるだろう。
政党政治という民主主義は、国民の中にあるそれぞれの階層のどの階層に目を向けるかにその勢力関係において決まってくるある意味多数派の民主主義である。少数意見はこの民主主義は及ばないものである。
国民全般を市民と呼ぶ。だから市民とはこのいろいろな階層を抽象的に民主主義という中に規定するものではないか。
その中に市民派政治は、政治的理念も政策も抽象化された民主主義に右往左往をする。社会的な弱者に目を向けるが一方には企業や富裕層の利益がある。こちらを立てればあちらが立たない。どちらも日本市民なのだから。階級あるいは階層を見ないでその政策を立てるなら立ち往生をしてしまう。経済は矛盾する中にその解決を見つけて発展をする。この矛盾を道化と芽解決するかに立ち往生する。
市民派政治も否定をするものではないし、制度的な抽象的な民主主義は維持しなければならない。しかし同時にこの社会にある階層化された国民をどう見るかも必要である。そしてこの階層化がどのくらい経済をゆがめているか、それは今の日本が衰退する姿でもある。制度的な抽象的な民主主義を本来の現実的な国民生活にある矛盾を解決する民主主義と一体化させなければならない。それが社会民主主義だろう。
先進国の経済は国内の国民生活を犠牲にしなければ成り立たなくなっているまでに資本主義の成熟から衰退に向かっている。資本主義を維持しながらも階級あるいは階層に目を向ける資本主義らしくない資本主義を目指さないと破綻に向かうだろう。市民派政治と社会民主主義は違う。でも近いところにはある。民主党の衆議院選大勝のマニフェストには社会民主主義の芽はあった。しかし結果は市民派政治の悪いところが出ている。政治も経済も外交も抽象的な民主主義を言うだけに終わっているのではないか。あるいはこの抽象的民主主義が一人歩きをして官僚支配から政治主導へと現れ、事業仕分けという議論も何もない中に政治主導が民主主義の強権をして現れる。壊すのはいいがそのあとに何も残らないで新たな制度が生まれない。抽象的な民主主義が強権に変わるとき外交もうまくいかなくなる。アメリカの戦争という抽象的な民主主義に名を借りた外交がうまくいかないことは目に見えているのに、安保を見せ付けた中国への民主化要求はうまくいかないだろう。
【2011年】ツイッターつぶやき
以前にも何度かきましたが、企業が労働力商品を労働者から買った場合(注意をしてほしいのですが、企業は労働者自体を買ったのではなくて労働力を買ったのです。ですから人身売買に消費税をかけるとか、神聖な労働に消費税をかけるといった論理ではないのです)、これまでは消費税を支払っていなかった。
消費税というものは広く浅く国民すべてがその収入と支出において支払うべきものだと思うが、ここから企業の労働力商品の消費は神聖化されてかけられていない。今のような深刻な事態になった時に企業も労働力商品を買ったなら消費税を支払うべきなのです。
5%の消費税、そうは企業にとっては重い負担ではないでしょう。一般庶民個人はもっときつい中消費増税を言われているのですし、国家公務員は賃下げまで言われている。この中で企業利益は聖域だという論理は通じないはずです。株や金融商品などなどに投資をしたり外国企業を買収したり、このような利潤追求の失敗が目立ってくるでしょう。それならば労働力商品を買った時に支払う消費税にある意味の投資をした方が良いのではないでしょうか。
ある意味の投資とは、労働力商品を買った時の消費税は、まず労働者の懐に賃金と一緒に入り労働者はそれを預かります。そして5%の消費税の中から200万から300万程度にかかる消費税を労働者の益税とします。この益税部分は消費に回り企業に帰ってくるのです。消費の拡大は企業の活動に有益ですから、企業にとっては景気回復へのある意味の投資にもなります。その意味での5%の消費税導入ははそう破そうは損する話ではないはずです。
300万円までを益税とするなら
年収90万円のパートやバイト。。。。。5%の消費税は4万5千円(すべて益税)・・・国への上納は0円
年収300万円の新入社員や派遣。。。 5%の消費税は15万円 (すべて益税)・・・国への上納は0円
年収500万円の中堅社員。。。。。。。5%の消費税は25万円(15万円は益税)・・・国への上納は10万円
年収800万円の高齢社員。。。。。。。5%の消費税は40万円(15万円は益税)・・・国への上納は25万円
年収1500万円の管理職。。。。。。。5%の消費税は75万円(15万円は益税)・・・国への上納は60万円
年収1億円の役員。。。。。。。。。。。5%の消費税は500万円(15万円は益税)・・・国への上納は485万円
どうでしょうか?
労働者の平均年収を400万円として×労働者数ですから、消費伸びや国の税収もそうとうあがるはずです。
昨夜はおでんをしました。
でも、おでんをおかずでは飯を食えませんので、高菜寿司とミニトマト寿司を作りました。
高菜寿司は、高菜の漬物の葉っぱの部分で酢飯を包むだけです。
ミニトマト寿司は、まな板に時任菜適当な大きさのラップを敷き、真ん中にブロッコリースプラウトと半分に切ったミニトマトを乗せ、その上にしゃけのフレーク状のものをふりかけ、あとは酢飯を乗せて敷いておいてラップで包み形を整えるだけです。
しゃけの塩味そしてミニトマトの甘さが酢飯によくマッチをしておいしいですよ。お子さんも喜ぶと思います。
大きさは二口大ぐらいがいいと思います。
おでんの残りが冷蔵庫に。。。。味が染みてうまいんですよねぇ。。。。。あハハハ
【2012年】ツイッターつぶやき
そろそろ西日が輝く駅前通りをうつむき加減にとぼとぼ歩いていた
いつもより車の交通量も少なく
歩いている人も少なかった
西日は寂しく光る
交差点も近いので顔を上げると
信号の黄色や赤が西日に照らされいつもよりどぎつく光る
そこへ交差点を曲がって僕に向かってくる自転車が
西日がまぶしい
自転車が近づき思わず「わっ!!!」って声を出してしまった
その自転車には髪が長い女性がにたっとして乗っていた
口はまさに口裂け女!
長い髪が風に舞い口裂け女が向かってくる
さっと通り過ぎて行った
振り向くと後ろに小さな女の子が乗っていて
オレンジと黒のハロウィンの衣装
あの女性の口を思い出した。。。。。
ハロウィンのカボチャのお化けキャラクターの口
口紅で書いたのでしょう
近くには保育園がありますからハロウィンのお祭りでもやったのかな
あの口のまま私服に着替えて急いで保育園を出てしまったのでしょうか
あの女の子、お母さんも仮装し活躍して楽しかったのでしょうね
【2013年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2014年】ツイッターつぶやき
デフレだインフレだと貨幣量を問題とする。
しかしデフレもインフレも貨幣量の問題ではなくて貨幣の回転が問題なのである。
デフレは貨幣量が足り何のではなくてだ物知多貨幣が回転しないのが問題でむしろデフレは貨幣量が多すぎるのである。経済が停滞をする中で貨幣量は多すぎとなるのである。
インフレの当初は貨幣の蓄積過程であり貨幣の回転を鈍くして市場の貨幣量が足りなくなるのである。そこでやはり貨幣量の増加を行いインフレとなる。
現在の金融政策が貨幣量だけを問題にして貨幣の回転を見ない中に経済の好循環は生まれないのである。
貨幣の回転が低下している中で貨幣量を増やせば名目上のインフレを起こすことができるがその名目上のインフレはやはり貨幣の蓄積過程であり貨幣の回転を鈍くする。名目上の好景気と実体経済の不況が同居をしてスタグフレーションとなる。
スタグフレーションは経済の成長を促さない。
デフレからの脱却は企業の持つ資本の回転が早まることである。
この企業には莫大な貨幣量がある。この貨幣を回転させることにより企業はまた資本の増殖を行える。これは生産面での経済の好循環である。
同時にこの資本の回転を早めるにはその企業が生産する商品やサービスがやはり速く回転しなければならないということでありそれは消費を意味する。そうならば消費の側の貨幣の回転の増大が必要となる。しかし資本の蓄積過程で貨幣は企業に集まりそれが賃金という形で消費を担う労働者に廻らなくなる。するとここに貨幣の回転が滞ることとなる。貨幣の回転は消費に向けられなければならない。これが消費から見た経済の好循環である。
生産の好循環と消費の好循環は貨幣量ではなくて貨幣の回転が問題であることは明白だろう。
消費の側の経済の好循環は何も賃上げで労働者の懐に入る貨幣量を増やすことだけではない。
物価が下がることによって相対的に労働者の貨幣量は増える。
この物価は円るぎー問題もあるが経済の法則性からの生産性の向上が商品価値を下げるのであるから労働者の懐にある貨幣量の相対的な増加は必然である。絶対的な貨幣量の増加が必要なのではなくてこの相対的貨幣量の増加は貨幣の回転から得られる。
企業の資本の回転も同じだろう。貨幣量を増やして名目上の物価高でコストが膨らみ貨幣量が足りなくなるといった矛盾を引き起こすのではなくて生産性の向上の中でコストも下がることにより相対的な貨幣量は少なくなる。絶対的な貨幣量が問題ではないのである。
今の経済学は自己のインフレ政策(実はスタグフレーション政策なのだが)を正当化するために貨幣量よりも貨幣の回転を言う者にデフレ派というレッテルを張るのでしょう。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
昨日書きました「労働価値説から見た企業利益と成長」の続きのようなものです。
昨日は労働価値説から見て企業利益の減少を書きました。
それは生産性の向上による商品価値の低下からでした。一つの商品に必要な労働力量が生産性の向上により減少するからです。
なぜこのようなことを企業は行わざるを得ないのでしょうか?
それは企業間競争にあります。
ある同じ商品を生産する企業がABCの3社あったとします。A社生産性を上げて一つの商品を80円で生産できるようになったとします。BC社は生産性が同じで商品は100円とします。このABCの各社は商品市場に商品を出します。市場での商品価格は平均的な100円で売れたとします。するとA社は一つの商品につき20円の特別な利益を得ることができるでしょう。80円の価値の商品が100円で売れるのですから。市場における独占度から見ると、A社は他の企業よりも10円安く90円で売っても特別な利益は10円残りますから市場において優位に立つことができます。
このように生産性の向上は利益の拡大と市場の独占度を上げることができることから生産性の向上は企業間競争となります。
しかし、BC社も負けずに生産性を上げていきA社と同じ80円の商品生産が始まったとします。この時市場での平均価格は80円となります。100円から80円と商品価格が減少するのもまた企業間競争の湯数理競争によります。
するとどうでしょうか。この産業では商品価値の低下により商品の価格も減少して同じ数量の商品を生産しても企業の利益は減少するでしょう。
この産業内においては、生産性の向上の家庭において商品価格の継続的な低下が起きていることになります。いいかえればデフレです。
ですからデフレもまた労働価値説から見れば必然なのです。
しかしこの産業内の企業は利益が減ったとしても安定的な利益を得ています。しかし企業はこれでは満足しないでしょう。上の例でいえば20%の生産拡大をしなければ初めの利益を確保できません。そこで20%の生産拡大を各社が行います。するとどこかで商品の過剰が生まれるでしょう。特に労働の節約により労働者数や賃金を切り下げて行うならば、労働者の購買能力は低下をします。この労働者の購買能力の低下はさらに商品の過剰を生み出すでしょう。
商品過剰が目に見えてくると企業は生産の縮小に向かいます。労働者の首切りやさらなる賃金低下が起こります。ここから更なる購買力の低下から商品の過剰がまた生み出されます。
ひどいときは先の3社のうち一番生産性の悪い企業が倒産という事になります。
ここまでくると単なるデフレではなくてデフレ不況になります。
こう見ると、デフレ不況時には貨幣量は足りないのでしょうか?確かに市場内の貨幣量は労働者の懐において発生をしますが、貨幣量の問題ではなくて貨幣自体の回転が鈍くなっていると見たほうがいいでしょう。
【2018年】ツイッターつぶやき
昨日ビオラを買ってきました。
今年は少し贅沢をしてサントリーの花がたくさん咲くというビオラも一つ買いました。
300円ほどでほかのビオラに比べると約3倍の値段ですが、夏にサントリーのフェリースターという極小ニチニチソウがきれいに咲きましたのでビオラも楽しめるのではと思いました。
ほかは98円でしたが脇芽もたくさん出ていて元気な花でした。花の苗選びというときれいにたくさんの花が咲いているものを選んでしまいますが、咲いている花はすぐに終わりますしやはり脇芽がたくさんある苗を選ぶべきだと思っています。でも、ビオラでも色によって脇芽の出方にも違いがあるりますね。
苗の土も今年はよい土でした。ひどいときは粘土で根っこが固まっていたり、黄色い変な土がボロボロだったり。安い花選びも中の土までは確認できませんからなぁ・・・・困ります。毎年行く花屋さんはそうはひどいついは少ないですが。
これで今年の植え替えも一応終わりです。
そうそう・・・・
フェリースターはまだ元気なので新芽が出ているところから長い茎を切り鉢に植え替えました。まだ寒さもそうはひどくないのでしばらく日向に出しておいて本格的な冬になったら出窓に移したいと思います。一度日に塗装の冬越しが成功したことがありましたので大丈夫かなぁ。。。。。と
gooお題「ハロウィンイベントに参加しますか?」
ハロウィンイベントってどんなものかわからないし、ハロウィン自体がなじみがない。
ハロウィン”イベント”ということですから人が少数でもたくさんでも集まることなんでしょう。渋谷の騒動はやはりイベントだったのでしょうか?迷惑だとはいえあれだけの人が集まれば儲ける人もいるでしょう。そして集まる人ははじめは自然発生的なものだったのでしょうが、マスコミが騒げば広まりますなぁ。。。。
ということで、ハロウィンに便乗したまさにイベントだったのでしょう。
クリスマスだ大晦日だといえば人が集まり、それ自体がイベントなんでしょう。
とはいえ、ハロウィンとはなにかもわからずに若い人たちが最近に始めた騒動ですから批判的にみられますが、でもそれを見て批判ばかりもしていられないでしょう。
ハロウィンも宗教的な面が強いと思うのですが、その宗教抜きにしたイベント化になっています。しかし多くの日本人も神社に初もうでをして結婚式を教会でして、死ねばお寺のお世話になる。多くのイベントが宗教抜きになっています。
宗教でも政治経済でもなんでもイベント化すれば集まってしまい同一方向に向かって進む。そういえば会社の休みも盆正月や春と秋の連休にどっと集団で休み休暇は捨てる状態です。個人的な休みは冠婚葬祭ぐらいとか。。。。。
渋谷のスクランブル交差点はすべての車が止まって歩行者優先です。そこに束縛されない自由を感じますね。ですからその束縛されない(されたくない)という心がいびつな自由な行動となるのでしょう。そしてそこに上気した日本人の団体行動が加わり集団心理にもなっていく。
こういったものが社会の隅々にまで行き渡った社会なんです。日本は。
とはいっても日本人は根が単純で正直で温厚ですから、変なイベント的な集団行動も批判します。しかしそれもまた集団的な意見を取り入れたいい子のものとなってしまう。
この中で政治のポピュリズムも完成して今後改憲が土俵に上がってくるのです。
【2019年】ツイッターつぶやき
オリンピックのマラソンと競歩が札幌での開催になった。都知事は「同意しないが決定を妨げない」とした。
来年度からの共通維持の英語入試に民間の英語検定を入れるとしてきたが、地域格差と家計格差の中で延期に追い込まれた。それでも政府はこの延期を「受験生の立場に立った思いやりのある英断」という言葉で表した。
二つの記事はまったく違う中身の記事ですが、どちらも日本政府の態度は「蔑ろさ」にある。
誰を蔑ろにしているのか?
オリンピックでは選手を蔑ろにしている。
IOCは猛暑の中での協議は選手の進退に大きな影響が出るからとしているが、日本はこれに「同意」をせずにIOCに決定権がるからとする。たしかに暑さ対策を300億円も出して行ったとはいえ猛暑自体がなくなるわけではなくて選手の負担は大きいでしょう。そして選手が倒れるようなことはないという確約もない。
民間英語試験の延長は若い高校生を蔑ろにした。
英語入試に民間の試験を導入すると決めた時点で地域格差や家計の格差は見えていたはずです。それをずっとごり押しをしてきて格差については「自分の身の丈に合わせて頑張って」と格差を無視をして若い高校生を蔑ろにした。これが問題になって「自分の身の丈」発言を隠して「受験生の立場に立った思いやりのある英断」とごまかした。
今の保守政治は経済面でも格差の拡大そして貧困層を増やしている。貧乏も自助努力とされる。災害に対しても自助が強調される。この公助から自助は国民を蔑ろにしていることに等しい。これと同じ論法と考え方が上の二つの問題にも現れたということです。
【2020年】ツイッターつぶやき
楓蔦黄(もみじつたきばむ)11月2日頃(七十二候)
なんだか忙しくして心落ち着かない日々ですが、公園の前でふと木々を見上げたらだいぶ紅葉していました。すでに桜は落ち葉に。楓ともみじの違いが分からないのですが、僕の住む周りにはなかなか見当たりません。のんびりと散歩でもすればたぶんあるのでしょうね。
欅の黄色やオレンジ色がきれいです。
東京では里の秋とはいきませんがそれ名入りに晩秋を見つけることができます。
公園の低木の効用もきれいですね。
ベランダのほうき草が真っ赤になりところどころ茶色くなっていました。
刈り取ってビニール袋の中に入れてほぐすように揉んだら実がたくさん採れました。
来年蒔きたいと思います。
【2021年】ツイッターつぶやき
都内の鉄道では乗客がホーム下に落ちないようにホームドアが多くつけられるようになっています。乗客が落ちないようにという面では安全面が向上しています。
しかし私鉄の京王線で走行中の車内で刃物を持った男が暴れ人を刺し火も点けたようです。
電車は緊急で駅に停車をしたのですが、電車のドアもホームドアも開かず逃げる乗客は窓を開けてホームに出ていました。
安全を守るホームドアが何か緊急事態があると電車のドアもホームドアも開かない状態があり得るという負の面が出てしまったようです。
電車のドアとホームドアがずれたりする塗料ドアは開かない。電車のドアを手動で開けてしまうと電車が停止位置を直せない。
火災などが発生した場合でホームドアが同じ状態になった時乗客は車内に閉じ込められ被害が大きくなってしまうかもしれませんね。
【2022年】ツイッターつぶやき
買い物で店の入り口の近くまで来たら僕と同じぐらいの年恰好の男性が店の入り口で思いっきり倒れた。具合が悪くて倒れたのではなくて入口においてある靴底をきれいにするマットで足がもつれたようでした。マットですから1センチぐらいの厚さです。年を取るとほんの少しの段差でも倒れることがあると言いますが、何かの加減で厚さ1センチでも倒れてしまう。
先日足の小指を思いっきりぶつけてしまい今も腫れています。まぁ、足がもつれてぶつけたということでもないのですが、若いころに比べると足元がおぼつかなくなっているのは確かです。この間はベランダで洗濯物を干して部屋に入ろうとしたら、段差のアルミサッシの下でにやはり足の小指をぶつけた。歩く時の足の上げ方が低くなっているんでしょうね。筋力の衰えでしょうか。
階段などは案外さっさと降りたりしているのですが、ぼうっとしたりするとやはり足のあげる高さが低いので躓いたりしてしまうのでしょう。
そういえば柱などの腕の肘もよくぶつけるようになっている。
いつも緊張して行動することは不可能ですが、ある程度意識して動かねばなりませんなぁ。
【2023年】ツイッターつぶやき
日銀が1%まで長期金利を容認したが限りなく1%に近づいている。同時に円は151円の円安。
株価は700円以上上がった。
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