夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2014年 4月29日(火)「貧困化」

2014年04月29日 12時15分24秒 | 「思うこと」
人の社会全体もそうですが経済というものも人の営みから生まれるものです。
この人が作り上げている経済に貧困化というものがありますから貧困化そのものもまた人が作り上げているということになります。
しかし人はこの貧困化を良しとはしないでしょう。ではなぜこの貧困化を悪とするのに人は自らが貧困化を生み出してしまうのでしょうか?
それはそのそれぞれの時代や条件により社会が生産できる富に限界があるということと、その富の配分関係にあります。もちろん財前提としては自然の中に人の社会もあるのですからこの自然の条件で富の量も制限をされます。これはいつの時代においても変わりないでしょう。しかし人はこの自然に自ら働きかけることによってある程度は「自然のままに」という動物とは違った形でこの自然の限界を克服することができます。ですからここではこの自然の条件は考えないこととして、その限界内に営まれる人の生産は社会そのものに内包する生産される富の限界とその富の配分関係を見ることにします。
社会において生産される富の限界は、先ほど書いた自然への働きかけとしての科学の発展に依拠しますしその科学技術が劣る場合は富の生産に大きな制限が出るのですから、今の世界全体を見てもその制限はアンバランスとなります。その制限が強い社会においては貧困化も大きくなります。(もちろん今までも今もグローバル化の中にありますから途上国の貧困は先進国がその富を吸い上げるならばその途上国の貧困は世界規模の富の配分からの貧困化となることはいうまでもありません。先進国が低賃金層を求めて途上国に進出するというのも同じです。)
しかしこれだけを見て貧困化というものは考えられないでしょう。その社会においての富の配分関係によりはじめて貧困化は生じるのです。途上国においてこの富の配分が平等に行われていれば先進国に比べれば貧困はありますが、その途上国内においては貧困化は生まれないでしょう。逆に先進国は途上国に比べて豊かさがありますが、その富の配分が不公平な形で行われるならばそこには貧困化が生まれます。ですから貧困化は貧困率という率で表されます。先進国内で貧困とはいえ途上国の貧困よりは豊かだという見方が一般的ですが、それで自分は貧困ではないとは言えないわけです。自分がいる社会の中での貧困化が問題なわけです。社会の中で生産される物やサービスなどはたくさんあるのに自分がそれを受け取ることができなくなった。それはやはり貧困化なわけです。
社会そのものそして経済も人の営みから生まれる。しかしなぜかその経済の中で貧困化が生まれる。その貧困化は社会関係の中での富の配分の不平等さから生まれる。結局は貧困そのものや貧困化はその配分のやり方を支配する社会の形態による。ですから貧困や貧困化はやはり人の営みの中で作りださえれ散るものだということです。そうならばこの社会の中で貧困や貧困化を個人の責任としては見ることはできないでしょう。貧しくなるのは自分の能力不足だといった考えは捨てるべきです。もちろんこの能力の違いによる多少の格差は否定できませんが、その格差が貧困を生み出すというのもまた否定されるべきなのです。

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