
さて。
ここのところ、春の風に吹かれ、咲き競い始めた花々に、すっかり牙を抜かれた感のある、ぶ~すか女だが。
あんまりにも毎日毎日人が殺されるのと、それにまつわる犯人近辺の人々のコメントが気になるので、久々にぶ~すか言ってみる。
しかし、その前に。
家族による家族殺しが次々起こる背景にも思いをめぐらせてみたいと思う。
私は他国のことは知らないが、どうにも、ここ最近、
「息子が母親を殺してコンクリートに詰めた」だの、
「息子が母親の喉を刺した」だのが
この国で多いから。
いつだったか。
『日本ほど男の子が母親にべったり育てられる国はない』
という、コラムかなにかを読んだ。
だから結婚しても、配偶者に母親の役割を求め、本当の意味での自立が出来ないのだと。
私は子供を育てたことがないので、偉そうなことも言えないし、それが合っていることなのかどうなのかもわからないが、確かに、親殺しや子殺しは、農耕民族の血が流れる国民の発想かな、と、似たような観点から、時おり思うことがある。
(無理心中も日本だけのものだというし)
人手を必要とする農耕生活だからこそ、密着し、共に畑を耕し、ずっと一緒に生きていかなければならない状況に起こる閉塞感と息苦しさ。
愛情が深ければ深いほど、密着度が深ければ深いほど、さらに深まる憎しみと、そこから逃れたいという思いは、本人にも説明のしようがないものなのかもしれない。
もちろん、それが理由で殺人を犯していいわけなどあるはずがないが、例えば、短絡的に殺傷事件に走る中学生のニュースを見るにつけ、彼らには日常生活でどこにも逃げ場がないのだもんな、という思いにもとらわれる。
小学生や中学生にとって。
学校(もしくは塾、習い事)と家庭は彼らの全世界だ。
その両者でうまくやっていけず、誰にも理解されなかったら、追い詰められてしまうことは想像に難くない。
それが例えば大人なら、酒を飲んでくだをまく場所や金もある。
風俗にいって若いおねえちゃんに慰めてももらえる。
女性なら、ヤケ食いやら、ヤケ買い、旅行でもいい。
職場以外にも友人がいるだろうし、それぞれ違う世界で、別人格として振舞ってもいい。
また、逃げ場のなくなった少年でも、非行仲間を作ったり、バイクで走り回ったりするだけの、柔軟性があればまだいいだろう。
しかしそれもなければ、彼らが自分には未来も何もないと思っても仕方がない。
彼らに、まだ生きてもいないこれからの未来や、そこに起こる楽しいことや喜びをどれだけ説いたとて、理解できるはずなどないのだから。
誰かを殺めたらどうなるか。
彼らが真実味をもって考えるのは、今の世の中では難しいように思う。
殴られたこともなければ、痛みはわからない。
食べ物に不自由したことがなければ、おなかいっぱいに食べられる幸せはわからない。
寝る場所が常にあるのなら、それがあることをことさらに有難く思うこともないだろうし、お金を稼ぐことがどれだけ大変か、目にする機会もないに等しい。
彼らが小さい頃から目にするサスペンスドラマじゃ、とるに足らない理由で人がばんばん殺され、
犯人は人情刑事に優しく同行を促されるだけ。
老いも死も、身近で見たことがない。
あまりにモノに満ち溢れすぎて、目先のものに踊らされ惑わされているこの社会と、あまりにパターン化された世の動きに、彼らが本当に必要なものを見出すのは、とても大変なのだろう。
彼らの心は純粋だが、いかんせん経験の蓄積が少ないので、誰かの心と添ったり、重なることもまだあまり出来ない。
それ以前に、自分の中で起こるホルモンと自我の爆発に、自分自身がついていけずに、戸惑い、恐れ、傷つき.....
どうしていいかわからず、始終助けてくれと叫びたいに違いない。
(しつこくいうが、だからといってそれが、殺人を犯していい理由にはならないが)
と。
前置きが延々と長くなってしまったが、本題は簡潔。
犯罪を犯した犯人(少年、成年関わらず)の近所に住む人たちのインタビューを見ると、必ず、
「挨拶も普通にするし、いい人だと思ってました」
と、多数の人が語る。
でも、挨拶がきちんと出来るとどうしていい人なのだろうか?
挨拶がきちんと出来る人には、心の闇がないと思うということか。
私はむしろ、日頃きちんと振舞い、無理して生きている人にこそ、心の闇が出来やすいと思うのだが。
もちろん。
礼節は大切。
挨拶も大切。
だけど、それだけでくくるのはとても危険。
それに.....
以前にも書いたが、人が殺されたり、大きな事故で多数の被害者が出てるのに、インタビューに笑顔で答える、世の中の人間も本当に危険。
そんな人間が人の親だったりするかと思うとぞっとする。
毎日子供が異常者に殺され。
毎日親が子供に殺され。
毎日バラバラ遺体が見つかり。
子供が子供を殺す日本。
現役小中学生アイドルに大人の男達が群がり、水着写真集が出される社会。
まだ性も生もわからぬ子供に唇を濡らさせ、ポーズをとらせるカメラマンと、出版社と、所属事務所と、メディアと、それを許す親。
おかしくないか。
何かが狂っていないか。
ここで私がいくら喚いても、何も解決はしないが。
これで誰もぶ~すかすらいわなくなったら、それこそこの国は終わりそうな気がする。
ここのところ、春の風に吹かれ、咲き競い始めた花々に、すっかり牙を抜かれた感のある、ぶ~すか女だが。
あんまりにも毎日毎日人が殺されるのと、それにまつわる犯人近辺の人々のコメントが気になるので、久々にぶ~すか言ってみる。
しかし、その前に。
家族による家族殺しが次々起こる背景にも思いをめぐらせてみたいと思う。
私は他国のことは知らないが、どうにも、ここ最近、
「息子が母親を殺してコンクリートに詰めた」だの、
「息子が母親の喉を刺した」だのが
この国で多いから。
いつだったか。
『日本ほど男の子が母親にべったり育てられる国はない』
という、コラムかなにかを読んだ。
だから結婚しても、配偶者に母親の役割を求め、本当の意味での自立が出来ないのだと。
私は子供を育てたことがないので、偉そうなことも言えないし、それが合っていることなのかどうなのかもわからないが、確かに、親殺しや子殺しは、農耕民族の血が流れる国民の発想かな、と、似たような観点から、時おり思うことがある。
(無理心中も日本だけのものだというし)
人手を必要とする農耕生活だからこそ、密着し、共に畑を耕し、ずっと一緒に生きていかなければならない状況に起こる閉塞感と息苦しさ。
愛情が深ければ深いほど、密着度が深ければ深いほど、さらに深まる憎しみと、そこから逃れたいという思いは、本人にも説明のしようがないものなのかもしれない。
もちろん、それが理由で殺人を犯していいわけなどあるはずがないが、例えば、短絡的に殺傷事件に走る中学生のニュースを見るにつけ、彼らには日常生活でどこにも逃げ場がないのだもんな、という思いにもとらわれる。
小学生や中学生にとって。
学校(もしくは塾、習い事)と家庭は彼らの全世界だ。
その両者でうまくやっていけず、誰にも理解されなかったら、追い詰められてしまうことは想像に難くない。
それが例えば大人なら、酒を飲んでくだをまく場所や金もある。
風俗にいって若いおねえちゃんに慰めてももらえる。
女性なら、ヤケ食いやら、ヤケ買い、旅行でもいい。
職場以外にも友人がいるだろうし、それぞれ違う世界で、別人格として振舞ってもいい。
また、逃げ場のなくなった少年でも、非行仲間を作ったり、バイクで走り回ったりするだけの、柔軟性があればまだいいだろう。
しかしそれもなければ、彼らが自分には未来も何もないと思っても仕方がない。
彼らに、まだ生きてもいないこれからの未来や、そこに起こる楽しいことや喜びをどれだけ説いたとて、理解できるはずなどないのだから。
誰かを殺めたらどうなるか。
彼らが真実味をもって考えるのは、今の世の中では難しいように思う。
殴られたこともなければ、痛みはわからない。
食べ物に不自由したことがなければ、おなかいっぱいに食べられる幸せはわからない。
寝る場所が常にあるのなら、それがあることをことさらに有難く思うこともないだろうし、お金を稼ぐことがどれだけ大変か、目にする機会もないに等しい。
彼らが小さい頃から目にするサスペンスドラマじゃ、とるに足らない理由で人がばんばん殺され、
犯人は人情刑事に優しく同行を促されるだけ。
老いも死も、身近で見たことがない。
あまりにモノに満ち溢れすぎて、目先のものに踊らされ惑わされているこの社会と、あまりにパターン化された世の動きに、彼らが本当に必要なものを見出すのは、とても大変なのだろう。
彼らの心は純粋だが、いかんせん経験の蓄積が少ないので、誰かの心と添ったり、重なることもまだあまり出来ない。
それ以前に、自分の中で起こるホルモンと自我の爆発に、自分自身がついていけずに、戸惑い、恐れ、傷つき.....
どうしていいかわからず、始終助けてくれと叫びたいに違いない。
(しつこくいうが、だからといってそれが、殺人を犯していい理由にはならないが)
と。
前置きが延々と長くなってしまったが、本題は簡潔。
犯罪を犯した犯人(少年、成年関わらず)の近所に住む人たちのインタビューを見ると、必ず、
「挨拶も普通にするし、いい人だと思ってました」
と、多数の人が語る。
でも、挨拶がきちんと出来るとどうしていい人なのだろうか?
挨拶がきちんと出来る人には、心の闇がないと思うということか。
私はむしろ、日頃きちんと振舞い、無理して生きている人にこそ、心の闇が出来やすいと思うのだが。
もちろん。
礼節は大切。
挨拶も大切。
だけど、それだけでくくるのはとても危険。
それに.....
以前にも書いたが、人が殺されたり、大きな事故で多数の被害者が出てるのに、インタビューに笑顔で答える、世の中の人間も本当に危険。
そんな人間が人の親だったりするかと思うとぞっとする。
毎日子供が異常者に殺され。
毎日親が子供に殺され。
毎日バラバラ遺体が見つかり。
子供が子供を殺す日本。
現役小中学生アイドルに大人の男達が群がり、水着写真集が出される社会。
まだ性も生もわからぬ子供に唇を濡らさせ、ポーズをとらせるカメラマンと、出版社と、所属事務所と、メディアと、それを許す親。
おかしくないか。
何かが狂っていないか。
ここで私がいくら喚いても、何も解決はしないが。
これで誰もぶ~すかすらいわなくなったら、それこそこの国は終わりそうな気がする。
本当に久々に、
erima様節を堪能した気がいたします。
お説に関してですが、
いつも同じことに繰り返しになりますけど、
(だって、付け加えることなんてないんだもん)
「ほんと、そうだよなあ」と思います。
知らない人をみたら逃げるように、
「助けてー」と叫ぶように、
防犯ベルを携帯するように、
促す社会のどこが健全なのだろう。
人が人を警戒するようになっちゃあおしまいですよ。
でも、そうせざるを得ない土壌があるのも確か。
子供に英語を学ばせる前に、
人としてこれから生きていく上で核となるあらゆるもの、
生きていく、生き抜く方策も必要ですが、
柔らかい魂に
暖かい記憶を伴う「何か」を教えられる人が
はたしてどれだけいることか。
犯罪がごく身近に迫ってきた今、
最後の砦となるものは何なのか、
問われているような気が、ちょっぴりいたします。
以前はたとえば薬やさんの近くには薬やさんは作らないとか、お互いに他人への配慮というものもあったと思うのです。
規制緩和だとか自由競争だとかよくわかりませんが、今はコンビニの目の前に別のコンビニがたちます。
それが競争を悪化させ結局は私達自身の首を絞めているような気がしてならないのです。
ゲームではリアルな人型に容赦なく切りかかり、銃を撃ち込み、それを平気でやっている子供達がどう発達していくのか・・。
そしてどうしてこうロリコンなのでしょうね・・・。
二十歳そこそこでももうおばさんだからどうとか・・?
止まる事のない、キーボードを叩く指に、
ぶ~すか言えるようになっただけ、
心が少し元気になってきたのかなー、と、
ふと、思いました。
実際。ちびくんを失くしてからというものの、
何かに腹をたてる余裕もなかったような気がしましたから...。
でも。
大切な者を失くしたからこそ、
思いが自然と被害者にいく。
全然次元の違うことかもしれませんが、
今の私には確かにそうなのです。
私たちが子供のころ。
親が教えてくれたことは、人を傷つけちゃいけない。
弱いものをいじめてはいけない。
人のものを盗んではいけない。
そんなシンプルなことでした。
それを破ろうとすれば容赦なく殴られたことも、
間違いではなかったと、心から思います。
親、教師関わらず。
いまや。教師が子供に体罰をしようものなら大問題。
「道徳」が否定され、「甘やかす」と「可愛がる」の
違いを理解出来ない親も増えてきました。
「子供だから仕方ない」という言葉が、
子供をただの動物に育てあげてしまう。
彼らは自分が自身の子供に対して犯している罪に
気づいているのでしょうか。
もし、今の社会が崩壊したら。
生き残れる子供が、親が、何人いるでしょう。
「学ぶ」ということの本当の意味を、
誰もが考えなければいけない社会が、今の日本だと思います。
夜があって、盆や正月のあった時代。確かに人は生き物の一員としての生き方をしていたように思います。
眠った街を歩く時。そこには休息があって、人それぞれに時間があった。ガツガツしてないから、譲りあったり、配慮したり出来たんですね。
それがいまや。24時間、電気も、お金も、情報も、垂れ流し。それにまつわる、人間が垂れ流す内面的な汚物も垂れ流しです。それを見て育つ子供たちがそんな風になるか。想像するのはたやすいことです。
しかし、基本は、良い本や、悪い本の中から。または良いゲームや悪いゲームの中から。何を拾い、何を選び取る子供に育てるのか、ということだと思うんです。子供はどんなに親が止めようとも、見たいものは見ますからね。私は、親は子供を半殺しにしてでも、基本的な善悪を教え込んでおくべくだと思っています。実際私もそうされましたし。
ロリコンは、このログにも書いてありますが、母親に支配され、恋人のように精神的に寄りかかられ、育つ男が多いからなのでしょうね。
今まで女に支配されてきたから、女が怖い。自分に自信もない。でも、小さな子供なら、または少女なら、自分の思い通りになる。そう思うんでしょう。SEXに自信がなくとも、「経験のない子供なら、馬鹿にされない」と。
吐き気がしますね。