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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

首長に教育権限を集中させる教育委員会制度「改悪」を考える

2013-11-06 20:47:42 | 集会案内

教育の話って、ひょっとしたら人生のうち期間限定のものだと思っていませんか。自分の学校時代も、子どもの学校時代も、いろいろあるけれど時と共に終わってしまう話だと。でも、教育がどうあるかで、労働も福祉も生活も、実は決まってくると言ってもいいと思います。

市民のみなさん!教育委員会なんて関係ないわと思わないで!制度が変われば、軍事教育もありなんて時代になるいかもしれません。いつの時代も戦争は平和を名目にして始まるのですから。

伊賀さんから、「子どもに『教育への権利』を!大阪教育研究会」例会の案内が届きました。初めての方の参加、大歓迎とのことです。教育のねっこの話をしませんか?

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子どもに「教育への権利」を!大阪教育研究会 

例会のご案内

□日時 2013年11月9日(土) 18:00~21:00 
□場所 アベノ市民学習センター 特別会議室
           (地下鉄谷町線「阿倍野」下車、阿倍野ベルタ3階
 
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▼例会案内

首長に教育権限を集中させる教育委員会制度「改悪」を考える

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 文部科学省の諮問機関「中央教育審議会」は、教育委員会制度を抜本的に変更する「中間まとめ」を発表し「改革」案を2つ示しました。A案では、首長を教育行政の執行機関とし、教育長は首長の補助機関となり、教育委員会は首長や教育長から諮問を受けて答申を出す「諮問機関」となります。事実上、教育行政の権限は首長に集中し、現在の教育委員会は「解体」に等しい状態となります。B案では、首長が任命・罷免する教育長にこれまでの教育委員会の権限の大部分を委任し、教育委員会は教育長の事務執行について「日常的な指揮監督を行わない」としています。教育長の権限は絶大なものとなります。どちらも教育委員会の自立性と独立性を根本的に奪うことでは同じです。

 教育委員会「改革」は、「大津いじめ」事件や「桜宮体罰」事件などで教育委員会への批判が高まったことを背景にして、自民党が一気に教育委員会の「独立性」を剥奪しようとして進められたものでした。政府の教育再生実行会議で「提言」されたのがB案に近いものでしたが、今回の「中間まとめ」は教育の「独立性」を究極の形で剥奪
するA案を強く推しだしています。

 現在の教育委員会制度は、戦前の国家統制下にあった反省から、国家権力の政治介入の排除、一般行政からの教育行政の独立性、教育の地方分権と住民統制を原則として発足しました。戦後直後、教育委員会制度は教育基本法の具現化として重視されていましたが、自民党政権は1956年に教育委員会法を廃止し、「地方教育行政
法」を成立させ、教委育委員会制度を形骸化させていきました。現在の教育委員会制度の問題点は、発足当時の原則に照らして総括されなければなりません。

 今回の例会では、現在「中教審」で進められている教育委員会制度「改悪」はどのような内容なのか、「改悪」によって教育の「独立性」はどうなっていくのか、戦後教育の歴史的流れの中に位置づけて検討していきたいと考えています。

 

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大阪「君が代」不起立減給処分取消裁判第1回法廷

2013-11-06 18:37:24 | 「君が代」裁判

本日、大阪「君が代」減給処分取消裁判第1回法廷が開かれました。冒頭、原告の奥野泰孝さんは、信教の自由、教育の自由を主張し、堂々と意見陳述を行いました。以下に、その冒頭意見陳述を掲載します。

 

キリスト者として、不起立の訴

奥野泰孝(大阪府立支援学校 教諭)  

 

 私は今年3月27日、 口頭で出された職務命令に違反したということで減給10分の1、一か月という処分を受けました。その減給処分を取り消すことを訴えて提訴しました。「国歌斉唱」時の起立斉唱について、職務命令を出すことには大きな問題があります。国旗国歌法が国会で成立する時、この法に強制力がないことが確認されました。社会にあって「国歌斉唱」を人々に強制するのはまちがい、という考えが、大勢だったからです。核心的には、「思想、良心の自由を侵害してはならない」という憲法に違反することを避けたからです。

「教員になら強制していい」と処分者側は考えているようですが、学校教育においては、その事が本当に教育としてふさわしいのか考える必要があると思います。服務規律の問題ではなく、「国歌」や「君が代」をどう教えるかという教育の問題であり、人権の問題なのです。

処分の根拠となった大阪府の国旗国歌強制条例・そしてそれに基づく教育長の通達、それに基づく管理職の職務命令が憲法違反であると訴えます。

私の「不起立」という行為は、自分自身も含め社会の少数者の気持ちの現れであり、公共性があり、公益性のあるものであると考えます。全体の奉仕者として間違っていないと思います。私への処分は、府教委が人権侵害をし、「思想・良心の自由」を侵害し、「信教の自由」を侵害し、「表現の自由」を侵害し、そして憲法26条にある「学習権」をも侵害することになると思います。

卒業式にいたる状況

私は「国歌斉唱」時に起立するかどうかと、これまで管理職に何度も質問されてきました。特に2013年2月から3月にかけては、度を越していて、仕事に支障が出るほどでした。

3月1日(金)卒業式予行のあった日の昼、教室で生徒と共に給食準備中、K准校長がやってきて「式場外の職務を命ずる場合」について説明し、「今年の卒業式はどうするのか」と質問しました。私は「わかりません、迷ってます」と答え、また「どうして給食指導中にそんなことを言いに来るのですか」と訴えました。その場で議論が数分ありました。肢体不自由の生徒のクラスで、大人が配膳をしながら、生徒にも出来る事をさせるという「給食」という授業の最中です。また、クラス担任は複数ですが、トイレ介助から戻ってきていない人もいて手薄になっていました。児童・生徒の支援のため職員の仕事環境を整えるべき管理職が、給食指導を妨害するというような状況でした。

3月5日(火)朝9時5分、登校時の生徒の移動介助中の事です。廊下で車いすから歩行器へ移動しようと立つ生徒の介助をしていた時、背後から「おはよう!○○君」と准校長が生徒にあいさつの声。そして、私に「どう?卒業式でどうする?考えた?」と話しかけてきましたが、私は生徒の介助中なので、焦りました。生徒から目を離せない、そして廊下の立ち話で出来るような話題ではないのにと困惑し、「こんな状態だから後にしてください」と言うと、「11時に准校長室に来るように」と言われました。私は「生徒が学校にいる間は行けないかもしれません」と答えました。その日の4時間目(11時30分から12時5分)、授業中、教室前の廊下でH教頭が立っていました。私は見張られているように感じました。11時に准校長室へ行かなかったからだと思います。授業終わって(12時5分)、廊下で待つ教頭に「給食準備があるから准校長室へ行くのは、無理です」と伝えました。給食が終わる12時50分頃にも廊下に教頭が来ていました。私が午後の授業の準備に廊下に出ると「1時に准校長室に来るのは無理ですか」と聞かれたので「放課後なら行けます」と答えました。13時5分、准校長がHR教室まで来ました。「生徒がいるので後にしてほしい」と言いながらも「少しだけなら聞きます」と応じ、廊下で話しました。准校長は「立たないなら、入学式の時のように式場外の職務命令を出します。」と言い、私は「脅しですか。パワハラですよ。裁判に訴えるかもしれませんよ。准校長は任務としてやっているのでしょうが、おかしいと思いませんか」等と訴えました。5分ほどのやりとり。准校長は「伝えましたよ」と自分が「仕事をした」と念を押すように言って立ち去りました。このやりとりは近くにいる教員や生徒に聞こえていました。不安そうに見ている生徒もいました。私は職場の同僚の目にどう映ってるかということも気になってきました。

3月6日(水)16時15分~16時50分。准校長室で、T校長、K准校長、H教頭と面談で、意向確認されました。「迷っている」と答えました。

37日卒業式当日、ほとんど眠れない状態で朝を迎えた私は、やはり自分を裏切る選択はやめようと「立てません」と伝えました。すぐに受付業務を命じられました。しかし保護者の出席受付を確認し、受付業務を終了したので、介助や教育活動をしに生徒のいる式場に入りました。ところが式場内で教頭二人に、「式場を出るように」指示されました。国歌斉唱が始まり、立たないでいると「立たないなら式場を出てください」という指示に変わりました。

3月27日、府庁での処分伝達後に研修がありました。受講者は2人。大きな部屋で講義者以外に8人程の府教委職員に囲まれ監視されての研修でした。異常な雰囲気でした。私語を禁止され、質問も受け付けられない。研修の講師に質問をすると脇に居た職員から「静かにしなさい!」と言われ、講義終了後の質問に対しても、脇に居た職員から険しい顔で「早くこの部屋から出てください!なぜここに呼ばれているのか分ってるんですか!」というようなことを言われ追い立てられました。

信教の自由につて

「君が代」の強制は、憲法20条「信教の自由」を侵している、と私は訴えます。

「君が代」は「国家神道」の宗教歌であり天皇を神と讃える讃美歌でありました。だから、そういうか過去から繋がり今を生きるキリスト者である私は、「君が代」を歌えません。

かつて天皇制は、軍国主義の下、国家神道によって政治的にも宗教的にも強化されました。国家神道は政府によって非宗教とされ、それ以外の教派神道、仏教、キリスト教などを国が管理支配するために宗教団体法が制定されました。宗教団体とし国の認可を得るための諸条件をクリアしなければならない、そして治安維持保法によって危険思想・反国家的信仰と見なされないようにしなければならない、という圧力の中で、日本のキリスト教会は妥協を迫られました。国策によってつくられた「日本基督教団」の中心的指導者となる冨田満は1938年に朝鮮に行き、神社参拝を拒否するキリスト者にこう言っています。「諸君の殉教的精神は立派だが何時日本政府は基督教を棄てて神道に改宗せよと迫ったか。その実を示して貰いたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したに過ぎまい。・・(中略)・・基督教が禁圧せらるる時にのみ我らは殉教すべきである。明治大帝が万代に及ぶ大御心を以て世界に類なき宗教の自由を賦与せられたものをみだりに遮るは冒涜に値する。」と。その後、朝鮮において神社参拝を拒否し、二千人以上のキリスト者が投獄され、50人以上の牧師たちが殉教しました。また「再臨信仰」を強調している教会は治安維持法に抵触しているということで弾圧を受けました。また国内では、ホーリネス系教職者130名以上が検挙された1942年43年のホーリネス弾圧では、起訴71名、うち実刑14名。そして7名の獄死者が出ました。検挙の理由は、天皇統治を否定すると判断されたからです。自己の信仰に忠実であろうとする者は、国家からだけでなく、軍国主義と天皇制に支配された日本社会から、多くの人権侵害を受けました。当時、子どもだった牧師から「日曜日、教会に行く時、石をなげられた」という実体験を聞きました。これは悲しいことです。しかしこの事実は歴史の証言として書物に記されています。この反省があるから日本国憲法20条があると思います。

憲法20条は、「何を信じてもいい」ということではなく、「国が国民に特定の宗教を押し付けてはいけない」ということを規定しています。「君が代」は、国家神道による国民精神の統制に使われてきました。「国家神道は宗教ではない」という政府の見解で、「天皇崇拝」を強制しました。大阪府が、「君が代」の意味や思想的な問題を無視して、あくまで公務員のルールだから守れと強制しているのと似ていると思います。この強制は、戦争責任を曖昧にし、日本の国家の道徳性を損ない、品性をおとしめています。「日の丸・君が代」は偶像礼拝につながります。偶像崇拝によって真実から目を背けさせられ、思考停止に陥ることは、ファシズムにつながると思います。本当の信仰は思考を活発にさせると信じます。私が昨年5月に人事委員会へ不服申立てをして以来ネット上(ニコニコ動画など)で私に対する言葉の暴力がエスカレートしています。このように書かれていました。「反日活動家」、「朝鮮へ帰れ」、「こんな教員は養護学校へ転勤させろ」等、何重にものしかかる差別的表現が露骨に書き込まれています。差別そのものを露わにしています。この空気がこの国の一部なのだと思うと悲しくなります。この空気は悪魔に支配されているようです。

児童生徒保護者への強制

私は教員だから「国歌斉唱」時、不起立を選び、「国歌斉唱」時でも式場内に居たのです。

教員に職務命令を出してでも起立斉唱をさせようということに反対です。教員たちが一斉に立ち「全員が立って歌うべきです」という態度を、見せつけることは、児童生徒・保護者への強制に繋がっていると思います。職場の前々校長は、私にこう言いました。「児童生徒に立つように指導するのが仕事です。保護者の方針で立たせたくないと言われれば、保護者を説得するのも仕事だと思います。」と。それは違うと思いますと私は反論しました。いろいろな心情があり、たとえ「国歌斉唱」があっても起立しない自由、歌わない自由が保障されるべきであり、それを公務員である教員は身をもって示すべきと思います。

私はかつて自分の子ども二人の卒業式にあたって、兵庫県の公立の中学校・高等学校の学校長に君が代の強制はやめてくださいとお願いに行きました。担任にも話をしました。娘の高校の卒業式「国歌斉唱」時、座っている私からは同じように座っている人はほとんど見えませんでした。しかし、自分の子どもを含む生徒二人と担任教師一人が座っているのが見えました。座っている教員がひとりでもいることに私はホッとしました。

昨年の入学式で私は新入生の担任なのに生徒が式場を出るまで式場に入るなと職務命令を出されました。それを受け入れましたが、私の中には、教員としてこれでいいのか、人としてこれでいいのかという思いが残りました。そして2013年3月の卒業式での受付業務の職務命令も、私を生徒や保護者・来賓から隠すためだったと思います。しかし、私は教員としてすべき仕事があるので、君が代のある式場へ入ったのです。今年の入学式では、新入生の担任ではないので、駐車場係をしました。開式ギリギリにやってきた新入生と保護者が車を降りて校舎に入ろうとして入れなくて困っていました。駐車場係としての前半の業務が終わり、校舎内に入ると事務職員が「もう国歌斉唱は終わりましたか」と聞きます。私は「わかりません。終わったのでしょう」と答えました。国歌斉唱が終わった段階で、その事務職員はカギの束を持ち、校舎出入り口の開錠をしてまわっていました。同僚が式後そのことを事務長に言うと「奥野対策で校長から言われていた」と答えたそうです。管理職は、私が駐車場から式場に入ってこないように校舎への出入り口を事務室前以外、事務職員に施錠させていたのです。

学習権の侵害。特に特に特別支援学校において。

児童・生徒たちは、「君が代」について事実を知り、考え、自分で判断するという機会を奪われ、学習権を侵害されています。「人権」諸問題の中で、この重要な事実は学校で隠されてはいけません。

職務命令であっても、私が従えないのは、長年、教員として生徒の前で「間違っていると思うことは一人でも発言して行こう。一人の発言から世の中が変わっていく」という内容の事を言ってきたからです。33年になる教員生活で同和教育推進の係、人権教育の係を長くやってました。大阪の同和教育では「天皇制を考えて行こう」という主旨の授業がありました。天皇制の元で侵略戦争があり、アジアの多くの人々が天皇の軍隊に苦しめられたのだと伝えました。天皇制を疑うということは学問として間違っていません。このような学びの後で、「君が代」起立斉唱は強制できません。そもそも教育に強制はなじまないと私は考えています。

8年前、現在の特別支援教育の現場に来て、私が気がついたことは、「本人の努力で何かをできるようになる、あるいはできるように支援すること」が教育にとって大事なのではなくて、「仲間と一緒に関係を深めながら、できないことができるようになる、お互いにわからなかったことがわかるようになる、それが大事なことなんだ。学校で支援していくことなんだ」ということです。それは私に、イエス・キリストの教会の在り方を思い出させます。強いものが勝つ競争社会が肯定されるのではなく、共に支えあいながら成長して行き、正しいものこそ前に進める、そのような社会こそ目指すべき社会ではないかと思います。そのことを目指す教育でなければならないと思います。前大阪府知事が言った「面従腹背」などということが学校教育現場の行動原理として勧められるなんて信じられないことです。私は弱い人間。不安に襲われ、孤立を恐れ、迷いが入り込みます。「たかが三分間立ってるだけじゃないか」「口パクでも歌った真似をすればいい」という声が聞こえてきます。もし、そのようにして自分の良心を裏切るなら、それは恐ろしいです。

支援学校の教員は、児童生徒の安全を守るという責任があります。生徒の中には、起立したくても、できない者がいます。むしろ長時間、同じ姿勢でいることが、危険を伴う者もいます。それぞれが、自分たちの可能な状態で、式に出席しています。状態が安定していなければ、式にすら出席ができない児童生徒もいるわけで、その児童生徒1人1人に適切に対応することが、教員には求められています。一律に「起立」を強制することなど、あってはならないことです。こんなこともあります。起立できない生徒に寄り添い「校歌斉唱」時には、着席し、生徒と同じ目線で共に校歌を歌っている教員が、「国歌斉唱」時には、起立する。職務命令が出されているからです。また、周りで起立することによって立てない生徒の視野を塞いでいることも学習権の侵害です。学校が「国歌斉唱」を強制することは、児童生徒の学習権の侵害となることは、明らかです。たとえ職務命令が出されても、私は、いや、教員は子どもたちの学習権を保障する立場に立つべきだと考えます。職務命令違反という処分を受けましたが、私は職務を全うしたと考えます。よって私に対する減給処分は不当でありただちに取り消すことを訴えます。

この問題は、私にとって、宗教の問題でも政治の問題でもなく、「信仰」の問題であり「教育」の問題なのです。                          (2013年11月6日)

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中教審報告を先取りするかのような維新エージェント中原教育長

2013-11-06 15:25:22 | 中原教育長下の大阪の教育

安倍内閣教育再生実行会議提言を受け、文科省中教審が審議経過報告を出しました。それを見ると、大阪府中原教育長が、まるで、それらを先取りするかのような行動をしていることがわかります。これは、現行の教育委員会制度においては、あきらかに教育長の権限を越えるものです。今回の一連の教科書採択問題は、それに起因して起こっています。

しかし、何より問題なのは、中原教育長や維新の会府議団がそのことを知らずに行ったのではなく、確信犯として、つまり知った上で行なったのではないかと思われることです。日頃から権限と責任が口癖の中原教育長にそれらの知識がなかったわけではないでしょう。では、なぜ、知っていながら敢えて行ったのか?制度改正というのは、現実が先行し、それを後追いするかのように行なわれるのが常ではないでしょうか・ここでも、国政における安倍自民党政策を先行し、ある意味実験台的に行う維新政治の有り様が見て取れます。

安倍自民党と中原教育長・橋下大阪市長・松井知事大阪維新の会とが目指す教育政策は同じです。私たちはその視点をもって彼らを批判していく必要があるのではないでしょうか。

下記は、昨日締切ぎりぎりで送った「今後の地方教育行政の在り方について」へのパブリックコメントです。

 

新しい教育委員会の組織と役割を、「教育長は地方行政の責任者として個別具体的な事務の執行を行う」ことと「教育委員会が審議すべき事項を、特に政治的中立性等の確保や、地域住民の意向の反映が必要とされる事項に限定する」ことに二分しているが、これは現実的に不可能である。なぜなら、「政治的中立性」は、すべての個別具体的な事務執行との関連において確保されるべき問題であるからである。

現に、本年、大阪府教育委員会で問題となった教科書採択問題がそれを明確に表していると言える。中原教育長は、教科書採択という「個別具体的な」「事務の執行」として実教出版教科書を教育委員会に諮ることなく、「一面的」であると教育委員会見解を示し、最終的に教育委員会会議で「条件付き採択」を決定した。しかし、それは大阪府議会で他の教育委員から内部告発を受けることとなった。それによると、大阪府維新の会府議団と中原教育長の「勉強会」と称した会議によって、著しく教科書選択が政治的影響を受けたことを思わせるのに十分な内容であった。このことは現行に教育委員会制度があるからこそ、中原教育長の暴走とも言ってよい、政治的中立性を損なう行為があからさまにされたわけだが、組織と役割を二分してしまえば、そのような政治的中立性を確保できているかどうかさえ確認できず、すべては、教育長の「個別具体的な事務執行」という形で行われてしまう危険が非常に高い。

そもそも、何をもってそれらの事項を線引きするかという問題である。線引きは極めて困難であり、曖昧にならざるを得ない。そのように組織と役割をそのように二分することは、教育が時の政治(議会による多数決原理)によって左右される事態を招く。憲法を鑑みれば、公教育は個々人の社会権である公教育の政治的中立性を確保するために、現行の教育委員会制度を議会から独立した第三者委員会にすべきである。事務方をつかさどる教育長はあくまで教育委員会の決済と委任を受けた範囲でしか、その権限を与えてはならない。

次に首長と教育委員会の関係であるが、前段から導き出される結論は、自ずと教育委員会の独立性を確保することとなる。政治で選ばれる首長が教育長を直接任命することの弊害はいたるところで見られる。何よりも問題は、繰り返すことになるが、政治的多数決の世界から教育行政は独立していなければ個々人が持つ教育への権利を保障できないと考える。

また、新しい教育長及び教育委員会の制度の方向性で示されているA案では、「教育が政治の侍女となる」制度と言ってもよく、これでは教育委員会制度はあってなきにも等しい。B案にしても、「教育委員会は教育長の事務執行について日常的な指示を行わないこと」とあるが、このような曖昧な表現をもって事実上、教育長の権限を強化する遣り方はひじょうに危険である。

それでは、最後にどのような地方教育行政が望まれるかについて述べておくこととする。まず、憲法の理念に基づき、個々人の教育への権利をどのように保障できるかという観点から考えれば、対話型の教育委員会がのぞましい。つまり、児童・生徒、保護者、教職員、地域住民を含め、様々な立場のものが十分に対話できるような教育行政のあり方を目指すべきと考える。

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