最高裁の上告棄却決定を受けて、原告団一同の思いは、先に掲載しました。いわば、原告一同の最大公約数的な思いです。
しかし、私たちには、当然ですが、一人ひとりの個の思いがあります。私たちは原告団一同の思いをみなさまにお伝えすると同時に、また、それぞれ個人の思いもまたお伝えしたいと考えました。
どうか7名それぞれの思いをお読みください。
◆最高裁第三小法廷による上告棄却決定に抗議する
井前弘幸
私は、2014年入学式の「国歌斉唱」の際に「不起立」であったとして、同年6月に「職 務命令違反」として戒告処分を受けました。処分後1年以上も経ってから、処分に関わる「研 修」(2016年 1 月)が行われ、そこで「意向確認書」なる文書が手渡されました。このよ うなことは、国歌斉唱時の不起立による被処分者に対する以外には一切行われていません。大 阪府は、同文書にあらかじめ「今後、卒業式・入学式等における国歌斉唱を含む上司の職命令 に従います。」という内容を記載し、これに署名捺印するか、校長からの記載内容と同じ質問に 「はい」と答えない限り、再任用を認めませんでした。
上告人梅原は、2016年度末に退職し、「再任用」を拒絶され、大阪府の非常勤講師の職か らも排除されています。私は、大阪高裁において請求が認められ、校長が職務命令を行わなか ったこと及び私への戒告処分の取消しが確定しました。しかし、「今後、・・国歌斉唱を含む上 司の職命令に従います」という文書に署名捺印または「はい」と答えることは、私が「職務命 令を受け、それに従わなかった」とを認めることであり、署名捺印や「はい」と回答をするこ とは一審、二審における自分の主張を虚偽にしてしまうことであり、絶対にできないことでし た。結果として、上告人梅原やそれ以前の被処分退職者らの粘り強い大阪府への働きかけによ って、「卒業式・入学式等における国歌斉唱を含む」の文言が「意向確認」から削除され、私は 辛うじて「再任用」されました。上記上告人やそれ以前からの再任用拒否の取消を求める先達 らの取り組みがなければ、私は後に裁判所によって取り消された不当な処分を根拠に、学校と いう職場から排除されていたことになります。
そもそも、「君が代」不起立 3 回で「免職」にするという条例、教職員を起立させることで 子どもたちに愛国心を教え込むよう定めた条例を強行可決させたのは、府議会内の一会派の独 断です。一会派の政治的な圧力に教育行政が抗うことを諦め、教育長が直接個々の教職員全員 に起立を命ずる通達を発するという大阪の特異な現状に対して、裁判所は完全に目をつぶった ままです。
すでに、2回目の戒告処分を受け、「次は免職も」という警告書を受け取っている教職員が複 数存在しています。3回で「免職」を「標準」だと規定した条例のもとでさえ、大阪府は「事 情聴取」の場面への弁護士、同僚教職員、所属組合等第三者の立会いすら全面的に拒否して譲 りません。さらに、事実上、懲戒処分決定を行う大阪府人事監察委員会教職員分限懲戒部会は その構成委員名すら非公開とされ、「免職」処分が非公開かつ責任者不明のままで強行されるこ とになります。教職員が、3回目の処分で実際に「免職」となるまで、裁判所は判断を先送り するのでしょうか。下級審における裁判官の人権感覚を疑い裁判所への不信感は募るばかりで したが、最高裁の今回の決定には怒りしかありません。
◆上告棄却通知を受けて
梅原聡
「君が代」起立斉唱を強制することは、思想良心の自由や教育の自由、信教の自由を侵す重大な憲法違反である。これが基本的な私たちの主張です。ところが、裁判所は、起立斉唱は儀礼的所作であるとか、間接的制約にすぎないとか、私たちには理解できない言葉でごまかし、 起立斉唱を強制する職務命令の不当性を認めてきませんでした。加えて、今回の裁判では、大 阪の国旗国歌条例、職員基本条例の違法性を指摘したり、教員としての良心の自由の侵害につ いて判断を求めたりしてきましたが、これにも裁判所は答えようとしません。裁判所は国民の 声に真摯に耳を傾け、言葉を尽くして法の精神を語って欲しいと心から思います。
こうした裁判の積み重ねの結果、学校には上に対してものを言えない雰囲気が蔓延し、過酷 な労働条件の中で、子どもたちにきちんと向き合う余裕もなく、唯々諾々と指示に従うだけの 先生の姿が年々増えていくように感じます。この裁判を通して、裁判所の在り方に無力感を感 じてきましたが、別に行っている再任用拒否の国賠訴訟を通して、不起立処分の不当性を掘り 起こし、すべての不起立処分を撤回させる判決を出させることができるように今後も闘ってい きたいと思います。
◆信教の自由を訴えて来た立場から
奥野泰孝(支援学校教員、クリスチャン)
私は、この裁判で 2012 年 3 月の戒告処分の取り消しを求めていますが、現在、府人事委員 会に不服申立てしているのは、2013 年 3 月の「減給処分」、2015 年 5 月の「戒告処分」です。 2013 年「減給処分」は最高裁で棄却されましたが、教育の問題として人事委員会で審査準備中 です。2015 年「戒告処分」は、支援学校での「君が代起立斉唱」が教育での合理的配慮を欠く ものではないかと訴えています。
2011 年 6 月の大阪府議会で国旗国歌条例が決まる時、審議時間は非常に短いものでした。そ の年の 3 月、東日本大震災が起き、日本社会は政治的に大事な懸案をたくさん抱えていました。 そんな時、大阪で、十分議論されず、教育長の反対も押し切り、そして少数者の意見が傾聴さ れず、現場の従事者より政治や行政の思惑が優先されて大阪維新の数の力で、国旗国歌条例や 職員基本条例が決まったのです。
国旗国歌条例は、その条文にある目的を読むと、教員だけでなく府民である保護者・児童生 徒の内心まで踏み込んでいて、明らかに憲法違反です。国の国旗国歌法は、単に国旗は「日の 丸」、国歌は「君が代」と定め、行為に対する強制は無いので、明らかに違います。職務命令に従 うことが、子どもたちに民主主義に反することを教えることになり、取り返しのきかないこと だと判断した教員が、「不起立」を選んだのは、教育公務員の判断として間違っているとは言え ないでしょう。
今回の弁護団声明に、「大阪の事例は教員の思想良心に対する『直接的な制約』にあたることがより一層明白なケース」とありますが、クリスチャンである私の場合、信教の自由について も訴えています。
憲法 20 条「信教の自由」について、今年 11 月出版された「憲法訴訟の十字路」の中で、元 最高裁判事の泉徳治さんはこう述べています。「自己の宗教上の信念に基づき起立斉唱ができ ない者も存在する。宗教上の信念に反する起立斉唱行為を強制されない自由が憲法 20 条 1 項 および 2 項の信教の自由の保護範囲に含まれることは明らかである。」と。このケースにあっ ては、更により一層「直接的制約」であることが明白であり、私は間接的制約論に対する突破口 になると考えていました。しかし、最高裁は、信教の自由の判断をしませんでした。条例と職 務命令の目的は違憲ではないか、目的達成のための手段も違憲ではないか、ということが審査 されなければならなかった。高裁までの判決も、思想良心の自由に対する判例をそのまま、信 教の自由に当てはめ、憲法に「信教の自由」が謳われている意味をないがしろにするものでした。 憲法 20 条は、靖国神社や天皇制というものが国家宗教として働き、宗教弾圧をし、国民の心 を縛り、戦争の暴走を止められなかったことの反省から生まれました。
私の父が尋常小学校 3 年生だった時(平成天皇が生まれた当時)のクラス文集に担任の先生 は「よき日本人」と題する文章でこう書いています。《・・・大せつなことは「人のためなら喜 んで自分がぎせいになることのできる人」になることです。むつかしいことばでいふと、「無我 の人」とか「没我の人」になることです。・・・人がこまつてゐる時、心からしんせつに助けて あげる人、こんな人を「無我の人」といふことが出来ます。こんな人が戦争に行けば、ばくだ ん三勇士のやうなりつぱなはたらきをして、天皇陛下ばんざいをとなへて死んで行く人です。 もう一度言ひます。私らは大日本帝國のしんみんです。先生のいはれることをよくきいて、「無我の人」になるやう心がけ、はやく大きくなって神の國大日本帝國のために喜んで死ねる人に なろうではありませんか。》
天皇制には麻薬のような危険性がある。人間を殺し、国を死なせる危険性があると、私は教 員の立場から、そして信仰者の立場から訴えています。
◆最高裁にとって憲法とは何なんでしょうか!?
志水博子
最高裁棄却決定を受け取り、やはり、という思いの中に虚しさと悔しさ、そして怒りの入り混じった気持ちがありました。
私は「君が代」不起立で2度懲戒処分を受けました。1度目は 2012 年戒告処分を、2度目は 2013 年累積加重によりさらに重い減給処分を。そしてその折には警告書が発出されました。 「警告―今後あなたが同一の職務命令に違反した場合、免職もあり得る」と書かれていました。 私はその数日後に定年退職を迎えましたのでクビにはなりませんでしたが、再任用は不合格で した。
日本国憲法のもとで 38 年間教員をしてきましたが、その最後の場面で思いもかけず「職務 命令」が出ました。むろん初めてのことです。しかも、その命令は、ウタを歌え、国歌を歌え というものです。世界中探しても、そんな「命令」を教員に出す国がどこにあるでしょうか。
「君が代」の歴史、日本の植民地政策によりこの国で生きることを余儀なくされた在日の生徒の存在、被差別の状況におかれた生徒の存在、そして、国歌というシンボルを通して子ども らを縛ることーー多くの問題があります。ですが、最も問題であることは、こんな馬鹿げた命 令で教員を支配することの恐ろしさです。
私は本年 3 月まで、1 年数ヶ月の間、大阪市立中学で講師をしていましたが、そこで見たの は閉塞状態におかれた学校の現実でした。おかしいと思っても声をあげることができない教員 たちは政治が関与した教育行政のもと、思考停止にならざるを得ないのかもしれません。一番 の被害者は間違いなく子どもたちです。「君が代」を強制した、その先にある教育の一端をかい ま見た思いです。
いったい、今回の決定に「日本国憲法」は在るのでしょうか。憲法を忘れた司法のもとで私 たちは生きていかなければならないのでしょうか。これが日本の司法の現実なのかもしれませ んが、私はどうしても納得できません。
◆教員として最高裁に抗議します
増田俊道
私たちの戒告処分の根拠となっている「君が代」強制条例は、その目的で「我が国を愛する 意識の高揚」と書いています。大阪府の条例であるにもかかわらず、大阪府に多数在住してい る在日外国人や外国にルーツのある人のことを無視しているか日本への同化を迫るものになっ ているのです。私はこのことにあくまでこだわっており、最高裁の判断に期待していました。 日本の司法が、「国家主義・排外主義」を擁護する立場に立ったことに満腔の怒りを覚えます。
また、私は現職の大阪府教員であり、すでに「君が代」不起立による戒告処分を 2 回受けて いるので、職員基本条例によって「3分の2免職状態」におかれています。これから、自分の 思想・信条を曲げて職務命令に従うだけのロボットのような教員生活を送るのか、3回目の処 分をされて免職になって終わるのか、二者択一なのです。「君が代」強制条例と職員基本条例を セットで制定した大阪府の異様さも最高裁が判断しなかったことによって、私のような思いを する教職員が今後もうまれるのではないかと危惧します。
また、私は現職の大阪府教員であり、すでに「君が代」不起立による戒告処分を 2 回受けて いるので、職員基本条例によって「3分の2免職状態」におかれています。これから、自分の 思想・信条を曲げて職務命令に従うだけのロボットのような教員生活を送るのか、3回目の処 分をされて免職になって終わるのか、二者択一なのです。「君が代」強制条例と職員基本条例を セットで制定した大阪府の異様さも最高裁が判断しなかったことによって、私のような思いを する教職員が今後もうまれるのではないかと危惧します。
◆最高裁の棄却判決を受けて
松村宜彦
12月18日、上記裁判の判決が「棄却」となったことを知った。私たちが、この問題での いくつかの憲法上の異議申し立てを行ったにもかかわらず、その事に一言も触れないという意 味で「憲法判断を欠いた」判決であった。最高裁判所の一番の存在理由は、合憲、違憲の判断を行うところにある。この卒業式での君が代不起立はまさに思想・信条に関わる事項であり憲 法の定める個人の思想・信条の自由が守られるかを問うものであった。この点において、最高 裁は行政権力の意向に従ったものと言える。
もし、最高裁が以前出した判決の内容を維持したと仮定するなら、それは余りにも世間の非 常識判決と言わざるを得ない。卒業式で君が代斉唱時に、君が代に敬意を払うために起立して おごそかに声を出して歌うことが「儀礼的所作にあたり、その職務命令は合憲で、思想信条を おかすものではない」とするなどの内容は、思想・信条の意味を考えたこともない人間にしか 言えないことである。まさに、裁判所の常識は世間の非常識と言える。
そもそも卒業式に国歌「君が代」を持ち込むことが必要と考える一般教員など一人もいない 状況で、命令で強制し、命令に従わなかった教員を不利益処分で脅すなどの行政権力の恣意的 振る舞いは許されない、それは必然的に教育の歪みにつながっていく。行政権力の恣意的振る 舞いを裁判所は許してはいけない。司法は行政に忖度してはならない。
いま、安倍政権の教育の民営化・右傾化、大阪維新の教育破壊の中で、そこで働く教員は疲 弊し、教育現場では問題が山積みの状態になっている。教育で起こっている困難点の多くが、 日本の政治すなわち行政の歪みゆえに起こっていることを見た時、教育現場から卒業した者が なすべきは、日本の政治を正すことである。私はその事に今後も力を注いていきたいと考えて いる。
◆裁判所もアベ化現象!平気でうそをつく最高裁
山口 広
最高裁がわれわれの訴えを棄却した。当然、棄却は充分予想された。理由もなく問答無用の 決定があると。しかし、一応理由というのが書いてある。
その理由とは、「民訴法(民事訴訟法)の 312 条の第 1 項又は第 2 項~に規定する事由に該当 しない」からという。
その民訴法 312 条第 1 項・第 2 項は「上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲 法の違反があることを理由とするときに、することができる。」云々だ。
なにを言うか。われわれは、「君が代」強制の職務命令とその根拠になった大阪府の「君が 代」条例が憲法違反だと、最初から最後まで訴えているではないか。最高裁は、そんなわれわ れの訴えに、何らかの判断を示すべきなのに、まるで、「憲法違反」の訴えがなかったとする 棄却理由である。
これはあったことをなかったことにする手法、平気でうそをつくアベの手法そのものである。 こんな司法がまかり通ってはいけないし、こんな政治がまかり通ってはいけない。みんなの力 で何とかしないと。
正しい教育観をもち、それを貫く難しい現状。
さして何もできませんが、今後もできることを応援していきたいと思います。