1月4日 実家の近くを走る
1月3日の新春矢作川マラソンを終わったその日、夕方から三重県志摩市の実家に帰りました。混雑を予想してたのですが、伊勢湾岸・東名阪自動車道・伊勢自動車道を避けて、節約も兼ねて伊勢湾をぐるりと囲む23号線で帰りました。休憩しながらだったのですが、4時間半で帰れました。
途中で四日市のコンビナートを通過するのですが、工場地帯は物凄い灯りでして、映画「ブレードランナー」の世界。このコンビナートはいづれは旅ランしてみたいなと思ってます。
さて翌日8時から、近くの海岸を走ってきました。いつもなら絶景ポイントがいくつもある熊野灘に面した太平洋側を走るのですが、今日は愛知県の渥美半島知多半島を眺める、伊良子水道側を走りました。
実家から国道を北上し、島茶屋(しまじゃや)という、昔から続いてる丘の上の茶屋から海岸を目指していきます。ちょうどここらへんが、旧阿児町と旧大王町との境になります。
現在ではお茶屋さんではなく、小さな駄菓子屋さんが有り、アイスとジュースを販売してます。夏場は結構皆さん足を止めておりますね。古くて風情があるので、近くのコンビニよりアイスは売れてるかもしれません。
畔名(あぜな)から海岸に向かう。ここは死んだ親父の在所です。ホントに小さな漁村。いつもなら北側に渥美半島が見えるのですが、本日は霞みがかって見えませんでした。
昨日以上にポカポカ陽気です。春みたいな気温なので、汗がダラダラです。
さて志摩の海岸線には、「近畿自然歩道」という自然路があるのですが、場所によっては表示が不確かで、土地勘の無い方は道に迷う事必定です。畔名から次の名田(なた)までは、小山の中を通るトレイルがあるのですが、表示が不確かなので行けませんでした。私も昔何度か通った事のがあるのですが、思い出せませんでした。
場所によっては手すりや階段が崩壊してる箇所もあります。作りっぱなしで手入れをあまりされてないようですね。もちろん使う人間もほとんどいません。だから文句も出ない(笑)。
えっ?私が言えばいいって?
元々自然路なんて「余程の所で無い限り、手すりなんぞいらん。階段なんぞいらん!」と普段から言ってる人間ですから(笑)。夏場に草刈りだけしてくれればよろしい。
隣の名田です。ここもホントに小さな集落。
浜まで出て漁師小屋から写真を撮ってると、おばちゃんに話しかけられた。
「観光のひとかえ?」
「波切から走って来たんやわ」
「なんや地元の人かいな。波切からって遠いやろう。よく走ってこれたなあ」
「正月は食い過ぎたんで、痩せんといかんやわ」
方言丸出しの会話である。基本的に三重県の南勢・伊勢志摩・中勢地方は、イントネーションは関西弁に近いです。単語がかなり独特なものがあります。
「あんたもテレビでやってる箱根みたいな走る選手かいなー」
・・・いえ(汗)・・・まあマラソンなんて知らん年寄からしたら、箱根の選手もマラソン大会でバカやってる人間も同じようなもんだろうなあ。
「テレビに映るようなのは知らんけど、田舎の小さなのには時々出とる。ほれ、春にスペイン村でマラソンやっとるやろう。昔出た事があるんやわ」
「ほおー、お兄さんも選手なんかあ。凄いわなあ」
この年寄りの頭の中は、「目の前にいるT岡=箱根のランナーと同じ」という図式に違いない。向うは日本でも上から数えて500人千人の人達。私は全国1千万をこえるランナーの下から数えた方が早い人間です。箱根のランナーとの間には、999万人がおります(笑)。
年寄の夢を壊すといけないので(説明するのがめんどくさいので)黙っておりました。
断崖絶壁の上に建つ大きな建物は、バブル期に建てられたリゾートマンションです。多分ガラガラだと思う。
再び海岸線から離れて丘を走り、最終の目的地・波切漁港を目指します。適度なアップダウンがあるので、汗が止まりません。正月なのでほとんど人もいません。
波切漁港をぐるりと回ってから、地元のお地蔵さんを参って来ました。有名な汗かき地蔵です。
江戸時代に漁師が海で網を引き揚げると、何とお地蔵さまが引き上がったそうです。
このお地蔵さんが白い汗をかくとめでたい事が起こり、黒い汗をかくと悪い事が起こるという言い伝えがあります。
波切に小学生時代に住んでおったのですが、毎年2月の終りに「地蔵祭り」が開催されて、街のメイン通りには出店がわんさか出ていたのを覚えております。
その隣の思案地蔵さまが祀られております。思案地蔵は江戸時代末に起きた「波切騒動」で亡くなった人々を供養するため,当時の仙遊寺の住職によって発意されたものです。
天保元年(1830)幕府直轄地の代官所への納入米を積んだ船が大王島沖で難破した。沖を漂流中の難破船を漁民が発見、船中の大量の「濡れ米」を持ち帰る。
翌年、役人が夜更けに覆面をして波切に取り調べに出張。里人は強盗と間違え役人一人を殺してしまいました。庄屋以下14人が江戸送りとなり、牢死し、475名の村民が罰せられた・・・。
というのが「波切騒動」という事件です。これは表向き。
「えー!難破船の米を持ちかえっただけで、14名の死罪って!」
と思いますが、これには裏がありまして・・・。
・・・・・・
漂到物を拾う習慣が古くから見られていたが、天保元年(1830)大きな問題を起こしたことがあった。
その年の10月、中国の御城米300石を1300石積の船に積み込み江戸へ下る途中、波切の村人達が、その米を奪い取り、船には石を積んで沈め、難破船の如く見せかけたのである。
鳥羽の郡奉行も印形をおして書類を大阪の奉行へ回し、船頭はさらに大阪で取調べをうけたのだが、はしなくも船頭の口から偽装難船であることが暴露された。それまで波切では毎年5、60艘の難破船があるのだが、本当の難破船というのはほんの5、6艘に過ぎず、後は船頭と馴れ合いの上の擬装難船であった。もしこれを船頭が承知しないときは残らず殺してしまったということである。
ところがそれまでの擬装難船は民間の荷を積んでいるものに限られていたので、荷主のほうもそういう不正をかぎわけることは難しかった。それが今度は御城米を取ろうというのである。庄屋の久右衛門は今まで公儀のものをとった例が無い。したがって危険も多い。もし露見でもすると命を失うような事になるから、今回は思いとどまった方がよかろうと村人を制止した。
しかし年寄りをはじめ村一統の者はこういうことをするのに公儀だからといって恐れるところはないではないかとて、久右衛門の制止を押し切ってことを決行したのである。ところが、村の中がよく結束していてこそ悪事も外へもれないが、村が二つに割れては、秘蜜がいつまで秘密のままでおれるはずは無い。伊勢の悪党どもがこれを聞いて10人ほどで党を作り、武士に化けて波切へ乗り込み吟味を始めた。島中の者はいろいろ陳弁したが許さず、江戸表へ召し捕ってゆこうとおどした。それをやっと100両ほど出して内密に許してもらったが、この役人は偽役人であり、事件は納まったわけではない。
悪党どもはこれに味を占めて、今度は顔ぶれを変えて乗り込み、住民達が、すでに吟味もあってことは住んでいるというのを『この方より外に公儀から役人を使わした事は無い。それはきっと偽者であろう。きっと吟味を遂げて、そのものどもを召し取るであろう』とまことしやかにだまして、又金を取って立ち去った。
こうたびたび金を取られてはさすがに村中も困り、骨折りも空しくなって何の益も無い事になるから、この後はたとえ公儀の役人でも、ことごとく打ち殺して海へ投げ込もうではないか、と申し合わせた。
そういうこととは知らず、代官所多羅尾の手代村上は足軽2人と2人を連れて波切へ乗り込んできたのであるが、ちょうど夜に入ってのことで、土地の様子のわからぬままに、民家の戸をたたいて庄屋の家へ案内を請うたが、知らぬと答えてろくに返事もしない。2、3軒をたずねたが皆同様なので、手代はおこってに家の男を叩かせると、家の男は『人殺しだ、助けてくれ』と大声で怒鳴った。すると村中は申し合わせのしてある事とて、太鼓鉦をならして集まってきて、足軽とを1人ずつたたき殺してしまった。手代は刀を抜いて大勢を相手に切り結んでいたが、力尽きて頭に2箇所、股に2箇所、その他にも傷を受けて、ほうほうの態で逃れて浜にうち倒れていた。そこへ村人がまた押しかけてきて海へ投げ入れようとしたが、手代は気丈の者で『お前達を城米を盗み、狼藉をしつつなお身をまっとうしようと思うのか。私は公儀から吟味に来たもので、元来米を盗み取ったのだから、米が別状なければ命にかかわる事はあるまい。頭取の者2、3人は罪はのがれがたいから遠島くらいにはなるだろう。しかし今私を殺してしまえば、皆死罪になってしまうであろう。私はいまさらいのちを惜しいとは思わないが、よくよく考えてみよ』といった。しかしいきり立っている者にはその言葉も耳に入らず、撃ち殺して海へ入れようとわめきたてるところを、年寄りのものが『露見したうえは頭取の流罪はやむを得まい、命にはかえられぬから助けてやれ』といって差し止めた。今一人生き残った足軽も村人に取り巻かれて命が危うくなったが、『罪を重ねて命を失うような事をするのは自業自得だ。はやく私を殺して罪を重くするがいい』と大声で叫んだので、皆ひるんで手を加える事ができなかった。
このことが鳥羽へ注進され、さらに藤堂家にも出陣を促し、3000人の武士が波切村を取り巻き、住民700人を召し取って取り調べのうえ関係のうすい300人は許し、残り400人は一応牢屋へつながれたのである。
こうしてそれぞれ罪名も決まり、多くの犠牲者を出して事件は落着するのであるが、これが偶然の出来事ではなく、慣習化された略奪のほんの露頭の一部に過ぎなかったことは、事件の進行の途中におけるいろいろの出来事でも察せられる。
「日本残酷物語第1部 貧しき人々のむれ」(平凡社)より
・・・・・・
とこれが真相(笑)。村全体で強奪と殺人を犯しておったらしい。うちの先祖様は略奪強盗犯だったのかあー!
元々が九鬼義隆という戦国時代の和寇(海賊)をしていた地域なので、江戸時代になっても同じような事を繰り返してらしい。うちの先祖様は人間のクズだったんだー。
200年前の事です。
ここから延々と続く緩い坂道を登り、実家に帰りました。ひいい、暑かったあ!
と約10キロ、1時間半の歴史の旅であった。

午後は別の所を旅ランしましたので、それは別記事で(笑)。
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1月3日の新春矢作川マラソンを終わったその日、夕方から三重県志摩市の実家に帰りました。混雑を予想してたのですが、伊勢湾岸・東名阪自動車道・伊勢自動車道を避けて、節約も兼ねて伊勢湾をぐるりと囲む23号線で帰りました。休憩しながらだったのですが、4時間半で帰れました。
途中で四日市のコンビナートを通過するのですが、工場地帯は物凄い灯りでして、映画「ブレードランナー」の世界。このコンビナートはいづれは旅ランしてみたいなと思ってます。
さて翌日8時から、近くの海岸を走ってきました。いつもなら絶景ポイントがいくつもある熊野灘に面した太平洋側を走るのですが、今日は愛知県の渥美半島知多半島を眺める、伊良子水道側を走りました。
実家から国道を北上し、島茶屋(しまじゃや)という、昔から続いてる丘の上の茶屋から海岸を目指していきます。ちょうどここらへんが、旧阿児町と旧大王町との境になります。
現在ではお茶屋さんではなく、小さな駄菓子屋さんが有り、アイスとジュースを販売してます。夏場は結構皆さん足を止めておりますね。古くて風情があるので、近くのコンビニよりアイスは売れてるかもしれません。


さて志摩の海岸線には、「近畿自然歩道」という自然路があるのですが、場所によっては表示が不確かで、土地勘の無い方は道に迷う事必定です。畔名から次の名田(なた)までは、小山の中を通るトレイルがあるのですが、表示が不確かなので行けませんでした。私も昔何度か通った事のがあるのですが、思い出せませんでした。
場所によっては手すりや階段が崩壊してる箇所もあります。作りっぱなしで手入れをあまりされてないようですね。もちろん使う人間もほとんどいません。だから文句も出ない(笑)。
えっ?私が言えばいいって?
元々自然路なんて「余程の所で無い限り、手すりなんぞいらん。階段なんぞいらん!」と普段から言ってる人間ですから(笑)。夏場に草刈りだけしてくれればよろしい。
隣の名田です。ここもホントに小さな集落。

「観光のひとかえ?」
「波切から走って来たんやわ」
「なんや地元の人かいな。波切からって遠いやろう。よく走ってこれたなあ」
「正月は食い過ぎたんで、痩せんといかんやわ」
方言丸出しの会話である。基本的に三重県の南勢・伊勢志摩・中勢地方は、イントネーションは関西弁に近いです。単語がかなり独特なものがあります。
「あんたもテレビでやってる箱根みたいな走る選手かいなー」
・・・いえ(汗)・・・まあマラソンなんて知らん年寄からしたら、箱根の選手もマラソン大会でバカやってる人間も同じようなもんだろうなあ。
「テレビに映るようなのは知らんけど、田舎の小さなのには時々出とる。ほれ、春にスペイン村でマラソンやっとるやろう。昔出た事があるんやわ」
「ほおー、お兄さんも選手なんかあ。凄いわなあ」
この年寄りの頭の中は、「目の前にいるT岡=箱根のランナーと同じ」という図式に違いない。向うは日本でも上から数えて500人千人の人達。私は全国1千万をこえるランナーの下から数えた方が早い人間です。箱根のランナーとの間には、999万人がおります(笑)。
年寄の夢を壊すといけないので(説明するのがめんどくさいので)黙っておりました。

再び海岸線から離れて丘を走り、最終の目的地・波切漁港を目指します。適度なアップダウンがあるので、汗が止まりません。正月なのでほとんど人もいません。


このお地蔵さんが白い汗をかくとめでたい事が起こり、黒い汗をかくと悪い事が起こるという言い伝えがあります。
波切に小学生時代に住んでおったのですが、毎年2月の終りに「地蔵祭り」が開催されて、街のメイン通りには出店がわんさか出ていたのを覚えております。

天保元年(1830)幕府直轄地の代官所への納入米を積んだ船が大王島沖で難破した。沖を漂流中の難破船を漁民が発見、船中の大量の「濡れ米」を持ち帰る。
翌年、役人が夜更けに覆面をして波切に取り調べに出張。里人は強盗と間違え役人一人を殺してしまいました。庄屋以下14人が江戸送りとなり、牢死し、475名の村民が罰せられた・・・。
というのが「波切騒動」という事件です。これは表向き。
「えー!難破船の米を持ちかえっただけで、14名の死罪って!」
と思いますが、これには裏がありまして・・・。
・・・・・・
漂到物を拾う習慣が古くから見られていたが、天保元年(1830)大きな問題を起こしたことがあった。
その年の10月、中国の御城米300石を1300石積の船に積み込み江戸へ下る途中、波切の村人達が、その米を奪い取り、船には石を積んで沈め、難破船の如く見せかけたのである。
鳥羽の郡奉行も印形をおして書類を大阪の奉行へ回し、船頭はさらに大阪で取調べをうけたのだが、はしなくも船頭の口から偽装難船であることが暴露された。それまで波切では毎年5、60艘の難破船があるのだが、本当の難破船というのはほんの5、6艘に過ぎず、後は船頭と馴れ合いの上の擬装難船であった。もしこれを船頭が承知しないときは残らず殺してしまったということである。
ところがそれまでの擬装難船は民間の荷を積んでいるものに限られていたので、荷主のほうもそういう不正をかぎわけることは難しかった。それが今度は御城米を取ろうというのである。庄屋の久右衛門は今まで公儀のものをとった例が無い。したがって危険も多い。もし露見でもすると命を失うような事になるから、今回は思いとどまった方がよかろうと村人を制止した。
しかし年寄りをはじめ村一統の者はこういうことをするのに公儀だからといって恐れるところはないではないかとて、久右衛門の制止を押し切ってことを決行したのである。ところが、村の中がよく結束していてこそ悪事も外へもれないが、村が二つに割れては、秘蜜がいつまで秘密のままでおれるはずは無い。伊勢の悪党どもがこれを聞いて10人ほどで党を作り、武士に化けて波切へ乗り込み吟味を始めた。島中の者はいろいろ陳弁したが許さず、江戸表へ召し捕ってゆこうとおどした。それをやっと100両ほど出して内密に許してもらったが、この役人は偽役人であり、事件は納まったわけではない。
悪党どもはこれに味を占めて、今度は顔ぶれを変えて乗り込み、住民達が、すでに吟味もあってことは住んでいるというのを『この方より外に公儀から役人を使わした事は無い。それはきっと偽者であろう。きっと吟味を遂げて、そのものどもを召し取るであろう』とまことしやかにだまして、又金を取って立ち去った。
こうたびたび金を取られてはさすがに村中も困り、骨折りも空しくなって何の益も無い事になるから、この後はたとえ公儀の役人でも、ことごとく打ち殺して海へ投げ込もうではないか、と申し合わせた。
そういうこととは知らず、代官所多羅尾の手代村上は足軽2人と2人を連れて波切へ乗り込んできたのであるが、ちょうど夜に入ってのことで、土地の様子のわからぬままに、民家の戸をたたいて庄屋の家へ案内を請うたが、知らぬと答えてろくに返事もしない。2、3軒をたずねたが皆同様なので、手代はおこってに家の男を叩かせると、家の男は『人殺しだ、助けてくれ』と大声で怒鳴った。すると村中は申し合わせのしてある事とて、太鼓鉦をならして集まってきて、足軽とを1人ずつたたき殺してしまった。手代は刀を抜いて大勢を相手に切り結んでいたが、力尽きて頭に2箇所、股に2箇所、その他にも傷を受けて、ほうほうの態で逃れて浜にうち倒れていた。そこへ村人がまた押しかけてきて海へ投げ入れようとしたが、手代は気丈の者で『お前達を城米を盗み、狼藉をしつつなお身をまっとうしようと思うのか。私は公儀から吟味に来たもので、元来米を盗み取ったのだから、米が別状なければ命にかかわる事はあるまい。頭取の者2、3人は罪はのがれがたいから遠島くらいにはなるだろう。しかし今私を殺してしまえば、皆死罪になってしまうであろう。私はいまさらいのちを惜しいとは思わないが、よくよく考えてみよ』といった。しかしいきり立っている者にはその言葉も耳に入らず、撃ち殺して海へ入れようとわめきたてるところを、年寄りのものが『露見したうえは頭取の流罪はやむを得まい、命にはかえられぬから助けてやれ』といって差し止めた。今一人生き残った足軽も村人に取り巻かれて命が危うくなったが、『罪を重ねて命を失うような事をするのは自業自得だ。はやく私を殺して罪を重くするがいい』と大声で叫んだので、皆ひるんで手を加える事ができなかった。
このことが鳥羽へ注進され、さらに藤堂家にも出陣を促し、3000人の武士が波切村を取り巻き、住民700人を召し取って取り調べのうえ関係のうすい300人は許し、残り400人は一応牢屋へつながれたのである。
こうしてそれぞれ罪名も決まり、多くの犠牲者を出して事件は落着するのであるが、これが偶然の出来事ではなく、慣習化された略奪のほんの露頭の一部に過ぎなかったことは、事件の進行の途中におけるいろいろの出来事でも察せられる。
「日本残酷物語第1部 貧しき人々のむれ」(平凡社)より
・・・・・・
とこれが真相(笑)。村全体で強奪と殺人を犯しておったらしい。うちの先祖様は略奪強盗犯だったのかあー!
元々が九鬼義隆という戦国時代の和寇(海賊)をしていた地域なので、江戸時代になっても同じような事を繰り返してらしい。うちの先祖様は人間のクズだったんだー。
200年前の事です。
ここから延々と続く緩い坂道を登り、実家に帰りました。ひいい、暑かったあ!
と約10キロ、1時間半の歴史の旅であった。

午後は別の所を旅ランしましたので、それは別記事で(笑)。
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