超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

カントの理解を整理する

2020-06-24 00:29:38 | 無題
カッシーラーの「カントの生涯と学説」読み終わる。
総じて、カッシーラーは頭が良すぎて細部にこだわり、根本的なカントの考えの見取り図を取り逃がしている。
カッシーラーの説明より、引用されるカント自身のことばのほうが、明快なのである。
まず、カントがコペルニクス的な転回と言っているのは、
認識が対象に先立つ、ということである。
ひとがものをそれと分かるのは、ひとが生まれつき持っている、ものを知る受け皿(感性、理解力による認識能力=純粋理性)が
元々あるからである。
ものをそれと分かる生まれつきの受け皿の第一は、空間と時間という受け皿であり、
それに従って理解の枠が成り立っている。
その受け皿を通じて、感覚された対象がそれとして受け取られるのである。
現れとしての物の背後に、物それ自体があるかどうかは知りえない。
また、ひとの理性は、世界は有限かとか、神はあるかとか、魂はあるかについては、人間の限界上知りえない。
ただし、そうしたことを考えてしまうのが、ひとというものである。
実践理性の話からいえば、内なる理性の声は、「どんなときでも正しいと思えること」をするように訴えてくる。
また、ひとは自然は合目的に作られていると判断力によってみなしている。本当に自然は合目的かは別問題である。
ただし、ひとの理解の枠を超えて、美しいものとか、自然への畏れがひとを捉えてしまうことが多々ある。

今書いたことはこれまで学んできた要諦だが、改めて「世界の大思想」で確認してみたい。

どのようにその対象を受け取るかその受け皿は生まれつき有る

コメント (3)
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