ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

富山県富山市、馬瀬口「天満宮・馬瀬口の大サルスベリ」(県指定)です!!

2024-05-29 18:33:14 | 文化財・樹木
 ゴールデンウィークが開けて1週間がたった、2024年5月15日に、また富山に行ってきました

 今回は、前回回れなかった所と、岐阜県内の飛騨市と高山市の一部を廻って来ました

 馬瀬口地区は、富山市役所の南東約11kmのところ

 富山市役所西側の国道41号城址大通りを南へ進みます

 約1.9kmの「城南公園前」信号を左(東)へ、県道3号線です

 約1.4kmの「大泉本町」信号を鋭角に右(南西)へ、約100mで左(南東)へ

 さらに約100m突き当り(いたち川)を右(南)へ、県道179号三室荒屋富山線です

 道成りに約4.8kmで斜め左(南東)へ、約2kmで道路右手に「馬瀬口」の標柱が建っています

 右(南西)へ入ると間も無く左手に



 北西向きの天満宮参道入口です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 村社 天満宮の社號標です

 鳥居です

 鳥居の北側に目的のサルスベリですが~

 元々の幹が地上1m足らずで伐られています

 説明版です
   富山県指定天然記念物
     馬瀬口の大サルスベリ 
       所在地 富山県富山市馬瀬口305番地
       所有者及び管理者 天満宮
 馬瀬口の大サルスベリは根回り2.7m、目通り1.8m、を測る。樹齢は400~500年と伝えられている。
 サルスベリの原産地は中国南部で、北陸のような多雪地帯では生育が遅い樹木であり、本樹は県下ではめずらしい大樹である。
 サルスベリは樹皮の外側の層が一部剝離して美しい滑面を呈し、サルでも滑るといわれるほど滑らかであるためこの名が付けられた。また、8月上旬から咲き始め、百日近く咲き続けるほど花期が長いため百日紅とも呼ばれている。
 日本に伝来したのは江戸時代の初期で、以来花木として栽培されてきた。
 県下では寺院の前庭や墓地に植えられる慣習があり、大山町史によると、本樹が植えられている場所は毘沙門堂跡との記載があり、寺院との関係が推測される。
 昭和42年に富山県指定天然記念物に指定された。
       平成21年3月   富山県教育委員会・富山市教育委員会

 北西側から

 南西側から、石製の四脚鳥居の稚児鳥居脇に若枝を出しています

 南東側から


 拝殿です

 説明版です
   県指定文化財
     木造毘沙門天立像
 木造毘沙門天立像は、天満宮の本殿に安置されています。鎌倉時代の作といわれ、県内でいちばん古く美しい像です。
 ヒノキを使った寄木造(手足などを部分ごとに作って、合わせる造り方)で、足下では天邪鬼という子鬼を踏みつけていますが、お顔もからだつきも優しいのが特徴です。高さは110cmです。
 上杉謙信が越中に攻め入った時に、この像を祀ったと伝えられていますが、謙信が毘沙門天を深く信仰していたので、このような言い伝えができたようです。
 この像がこの地に安置されたのは、立山の北方の門を守るためや、水害を防ぐためだと伝えられています。
 4月4日に天満宮の祭りが行われますが、もともとこの日は毘沙門天のお祭りの日です。 
     平成19年3月   富山県教育委員会・富山市教育委員会


 本殿です

 では、次へ行きましょう



 2024・5・15・9・20
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富山県富山市、中老田「中老田のモチノキ」(市指定)です!!

2024-04-25 18:31:03 | 文化財・樹木
 中老田地区は、富山市役所の西約9kmのところ

 富山市役所西側の城址大通りを南へ進みます、約400mの「城址公園前」信号を右(西)へ、県道44号富山高岡線です

 道成りに約4.1kmの「茶屋町」信号を左(南西)へ、県道9号富山戸出小矢部線です

 道成りににしに向かい約4.5kmで、水路の橋の手前を左(南)へ入りました

 間も無く水路の西側にこんもりとしたモチノキが見えて来ました

 南側から水路の橋を渡って近付きました、未舗装路の脇に車を止めました



 東側から

 説明版です
   中老田のモチノキ
 このモチノキは、樹高約7m、根回り2.5mをはかり、樹齢400年~500年と推定されます。
 幹は地上36cmで2本に、1.6mで3本に分かれ、さらに細かな枝分かれによってこんもりとした半球状の見事な繁茂をみさています。
 モチノキは九州地方に多い暖地性の樹木で、本州中部以南では広く庭木として植えられています。
 またイチョウと同じく雄株と雌株の区別があり、本は雌株で秋には球状の果実をつけます。
 昭和48年3月28日、富山市指定天然記念物に指定されました。
 この地はかつて加茂社の境内で、本樹も神殿と拝殿の間に生えていました。神社は移転しましたが、モチノキは加茂社をしのぶ記念樹として地域の方々に大切にされています。
      平成21年3月    富山市教育委員会

 
 北側から


 西側から


 南側から

 では、次へ行きましょう


 帰り際の北側の農道から「モチノキ」を見ました


 2024・4・11・13・30
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富山県上市町、眼目「②立山寺の銀木犀と羅漢槇」(町指定)です!!

2024-04-25 06:33:51 | 文化財・樹木
 眼目地区は、上市町役場の東約4kmのところ

 上市町役場北西側の「役場前」信号を東へ、約1.7kmの「北島」信号を斜め左(北東)へ、富山中部広域農道です

 約2.5kmで上市川右岸に渡った「野島」信号を右(東)へ、約1.2kmで一時停止を斜め右(南東)へ

 間も無く右手に立山寺の並木口駐車場が有ります

 スギの参道を抜け、トガの参道を過ぎて、左手に大椎の巨木を見て

 南西向きの立山寺山門前に至りました

 立山寺案内図です(本堂西側駐車場にあります)
 曹洞宗 眼目山 立山寺(りゅうざんじ)〔通称眼目の寺(さっかのてら)〕  
  由来と歴史
 当山は建徳元年(1370年)に曹洞宗大本山總持寺第2租峨山紹碩禅師の創設による屈指の寺であり、全国でもめずらしい、開創は山神と龍神の神霊による開基の寺であり、立山権現と北海大龍女を開基としている。
 眼目村は上市川扇状地の扇頂部平野および段丘上に位置し、咲花とも察花とも記された。
 慶長10年(1605)3代藩主前田利常が巡視した際、眼目山立山寺の由緒を聞き、察花の字を「眼目」にしてサッカと読むようにしたといわれる。
 本寺は正しくは眼目山護国殿立山寺と称し、新西国33ヶ所、6番目の寺で、開山は建徳元年(1370年)曹洞宗大本山總持寺二代峨山紹碩禅師の高弟大徹宗令禅師による開山の寺。
 七堂伽藍の整った立派な寺であったが、永禄年間(1558~1569年)上杉謙信が加越能攻めの兵火に類焼し開山堂のみ残った。
 天正年間(1573~1590年)、佐々成正が富山城築城のときに神通川の神を鎮めるため立山寺に祈祷を命じ、察花(眼目)村・極楽寺村の土地の中に寺領を設定し、立山寺の山の字から一画をとり、川の字にして立川寺と称せしめたといわれ、明治32年(1899年)34世長谷川天頴は立川寺の寺号を立山寺と改称した。
 

 町指定天然記念物説明版です(同上)
   立山寺境内町指定天然記念物 4種
      所在 上市町眼目15他 所有または管理者 立山寺
   立山寺のギンモクセイ  昭和43年3月16日指定
 本堂前に左右一対に植栽されている。
 ギンモクセイ(キンモクセイ)は、暖帯性の常緑広葉樹であって、古来より悪魔を追い払う信仰から植栽されている。
 樹齢は約300年で寺院との配置からも価値の高いものである。
   立山寺のらかんまき   昭和52年6月15日指定
 本堂左にあり、古木の風格がある。樹齢約400年と推定される。
 「らかんまき」は「いぬまき」の変種とされる。中国に原種があり、九州南部、沖縄に自生する常緑高木である。

 総門から入って参道を進むと・・・


 三門です

 中雀門です

 中雀門を潜ると左手に鐘楼です

 目的のギンモクセイ二本が左右に並んでいます

 境内左側の一本です

 南側から

 「上市町指定 天然記念物 立山寺の銀木犀」の標柱です


 南東側から

 北東側から


 境内右側の一本です、こちらには天然記念物の標柱は建っていません

 北西側から

 北東側から

 境内奥側から二本を見ました


 本堂前左手にもう一つの目的の「立山寺のらかんまき」です


 南東側から

 「町指定 天然記念 立山寺のらかんまき」の標柱です

 南西側から

 北西側から

 北東側から

 本堂(開山堂)です

 本堂前から振り返りました

 本堂前から突然・野兎が現われて逃げようとしませんでした

 では、次へ行きましょう


 2024・4・11・12・10
 
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東京都東久留米市、南沢3丁目 氷川神社「東久留米名木百選No.19クスノキ」です!!

2024-04-15 07:18:00 | 文化財・樹木
 南沢3丁目は、東久留米市役所の南西約700mのところ

 東久留米市役所の北側の「まろにえ富士見通り」を西南西へ進み、約200mの信号を左(南)へ

 約400m坂を下った落合川の毘沙門橋を渡って約50mで斜め右(南西)へ入ります

 約150mで「氷川神社」の案内表示が在りますので右(北)へ入ると

 氷川神社の鳥居が見えて来ます、幟旗が掲げられた氷川神社では祭礼が行われているようです

 鳥居脇の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 氷川神社社號標です

 参道石段を上がると右手に目的のクスノキが見えて来ました

 西側から

 「東久留米名木百選No.19クスノキ」のプレートです

 北北東側から

 東北東側から見上げました

 手水舎です

 拝殿です、中では祭礼が行われています

 本殿です

 本殿東側に本殿に向かう様に二柱の稲荷神社です
 
 *右の稲荷神社の御祭神は豊受大神(とようけおおかみ)で、左の稲荷神社の御祭神は宇賀魂神(うかのみたまのかみ)です。
 当地域において主に農地、屋敷を御守護頂く信仰があります。

 では、次へ行きましょう

 おまけです

 氷川神社の東側には南沢水辺公園が在ります


 早くもシャガが咲いていましたよ
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東京都東久留米市、本町4丁目南沢会館「東久留米名木百選No.75ヒノキアスナロ(別名ヒバ)」です!!

2024-04-14 18:32:00 | 文化財・樹木
 本町4丁目は、東久留米市役所の南側の地区です

 東久留米市役所の北側の「まろにえ富士見通り」を西南西へ進み、約200mの信号を左(南)へ

 約400m坂を下った落合川の毘沙門橋の手前の信号を左(東)へ、「多門寺通り」です

 間も無く左手に多門寺境内入口です

 東側の駐車場に車を止めさせて頂いたまま直ぐ西側の南沢会館前に在る「東久留米名木百選No.75ヒノキアスナロ(別名ヒバ)」を見にいきましょう

 西側の道路から目的のヒノキアスナロです

 北側から見ました

 「東久留米名木百選No.75ヒノキアスナロ(別名ヒバ)」のプレートです

 根元の標柱と説明版は「市指定旧跡 共立学校跡」です
   東久留米市指定文化財   本町4丁目13番
     共立学校跡 旧跡第2号
 共立学校は、明治18年(1885)10月、当時南沢673番地であったこの場所に開校した公立小学校です。
 前年、前沢に開校した成蹊学校の通学区域が東久留米の西側であったのに対し、共立学校は東側の南沢村・小山村・門前村・落合村・神山村・栗原新田などが通学区域でした。
 明治39年(1906)に成蹊学校と共立学校が合併して、前沢(現第一小学校の向かい側)に久留米尋常高等小学校の本校が開校し、当初の共立学校は東分教場として使用されました。
 当時は、校舎の前に2本の大きなヒバの木が校門のようにそびえ立っていたといわれ、この木がそのうちの1本です。
    久留米市教育委員会

 東側から見上げました

 *アスナロは、裸子植物マツ綱のヒノキ科アスナロ属に分類される唯一の現生種である、またはその基準変種である 。別変種として、「ヒノキアスナロ」がある。高木になる常緑針葉樹であり、小枝は十字対生するやや厚い鱗片状の葉によって扁平に覆われ、裏面に目立つ白色の気孔帯がある。"花期"は5月、球果は木質でその年の秋に熟し、基準変種では鱗片に明瞭な突起があるが、「ヒノキアスナロ」では突起が目立たない。冷温帯に生育する日本固有種であり、基準変種は本州、四国、九州、「ヒノキアスナロ」は北海道南部から本州北部に分布する。(ウィキペディア一部抜粋です)

 北側の建物が「南沢会館」です

 南沢会館前にはイチョウの大木も在りました

 では、次へ行きましょう

 
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東京都清瀬市、中里「清瀬市の名木・巨木百選No1ソメイヨシノ」です!!

2024-04-11 19:14:00 | 文化財・樹木
 中里地区は清瀬市役所ののある所です、市役所の北北西側約500mの金山橋が在ります

 柳瀬川は、埼玉県入間市の狭山湖に源を発し、都県境に沿って北東へ流れ、志木市で新河岸川に合流する一級河川です

 今回は金山橋から城前橋の間にある「清瀬10景・清瀬川とサクラ並木」に選定されています

 
 金山橋から下流側を見ました

 柳瀬川の表示版です

 八分咲き、ほぼ満開の木々が多いようです

 右岸の河川敷を下流に進みます

 川面にカモが泳いでいます

 河川敷には露店商の出店が並んで賑やかです

対岸に赤い花が咲いています

 何の花でしょうか~

 並木の中の木も花を付けています
 
 クヌギの花ですね




 鷺が魚を探しているようです


 河原の大きな石に、ぴょんと乗りました


 この辺りは五分咲きかな


 桜のトンネルを進みます


 土手に草花の群落です

 
 ハナニラです


 ムスカリです

 次の桜のトンネルです

 多くの花見客で賑わって居ます

 清瀬市の名木・巨木百選のプレートです

 北側から見ました

 更に北東へ進みます

 長く成りましたので続きとさせて頂きます
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東京都東久留米市、野火止3丁目下里本邑遺跡公園「東久留米名木百選No.20クスノキ」です!!

2024-03-24 06:30:50 | 文化財・樹木
 春分の日を過ぎて間も無く🌸桜(ソメイヨシノ)の開花宣言が東京でも出そうなので、今日から午前と午後の一日2回の投稿を再開したいと思いますので、ご覧くださいね

 野火止3丁目は、東久留米市役所の北西約2.5kmのところ

 「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです

 道成りに進んで西南西に向きを変えた約900mの「野火止1丁目」信号を右(北北東)へ、都道15号小金井街道です

 約200mで黒目川の上落馬橋を渡ります、約100mで左へ、東久留米特別支援学校の雑木林と都営住宅の間の道を西へ進みます

 約200mで都営住宅西側を北へ入って、クロガネモチの木を見て、すぐ北側の野火止用水沿いのグレープフルーツを見ました

 野火止用水沿いの野火止通り(水道道路)を西南西へ進みます

 雑木林のみちの案内板です

 道路が黒目川への下り坂に差し掛かると歩道の左手(東側)に

 下里本邑遺跡公園入口です

 下里本邑遺跡公園です

 説明版です
   下里本邑遺跡公園
 遺跡がある場所は、むかし下里の「本邑」と呼ばれていたことから、それが遺跡の名前になりました。
 黒目川と出水川が合流するこの場所は、日あたりの良い高台と、豊かな水の流れ、さらに川の脇に広がる河川敷があることから、原始・古代の人々が住む理想的な条件を満たしていました。
 下里本邑の地に最初に人が住み始めたのは、氷河時代の終わりころにあたる旧石器時代(今から約3万年前)で、ナウマンゾウやオオツノジカなど大型動物の群れを追って生活する狩人の時代でした。
 今から約1万年前ころになると次第に暖かくなって氷河時代が終わります。
 縄文時代になると、台地と川岸を利用したムラがつくられるようになりました。ところが、縄文時代中期を過ぎると生活の跡がとだえます。
 そして弥生時代を迎えます。下里本邑遺跡は、東久留米市域で弥生時代のムラがつくられた唯一の場所です。台地の上から、竪穴住居跡とともに方形周溝墓が発見されています。方形周溝墓は、当時の指導者の墓です。推定ですが、黒目川の川岸近くに水田があった可能性も考えられます。
 その後、この場所からまたもや人間の生活の跡がとだえます。
 奈良時代の終わりころ(今から1200年程前)になると再びムラがつくられるようになり、それは平安時代まで続きました。
 下里本邑遺跡は、いくつもの時代にわたって生活の場となった「複合遺跡」と呼ばれる貴重な遺跡です。そのため、このような大切な文化財を後世の人々に伝えようということになり、遺跡の主要部分約8000㎡が保存され、遺跡公園として整備されました。さらに公園内の低地部分には、下里本邑遺跡の特徴を説明して土器や石器類を展示した「下里本邑遺跡公園」もつくられました。
 みんなでこの下里本邑遺跡を大切に守って行きましょう。
     東久留米市教育委員会
 *下里本邑遺跡公園は、南側の黒目川左岸沿いにあります。

 公園の広場にはテーブルやベンチが据え付けられています

 平安時代の住居跡の説明です
   平安時代の住居跡
 この場所には、発掘調査によって発見された平安時代(約1000年前)の住居跡が埋没保存されています。
 東西3.6m、南北2.8mの長方形の住居跡です。カマドや柱の跡はなく、ごく簡素な作りの住居だったと思われます。
 現在公園となっているこの台地には、同じころの住居跡が他にも残されていると推定されます。
     東久留米市教育委員会


 すぐ東側(公園中央付近)に目的のクスノキです

 北側から太い幹を見上ました

 南西側から

 南東側から、久留米市の名木百選のプレートは有りませんでした


 東側から見ました

 では、次へ行きましょう
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東京都東久留米市、野火止2丁目「東久留米名木百選No.22クロガネモチとNo.21グレープフルーツ」です!!

2024-03-23 18:32:37 | 文化財・樹木
 野火止2丁目は、東久留米市役所のの北西約2kmのところ

 「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです

 道成りに進んで西南西に向きを変えた約900mの「野火止1丁目」信号を右(北北東)へ、都道15号小金井街道です


 約200mで黒目川の上落馬橋です

 「雑木林のみち 小山・金山コース」の案内板です

 黒目川・落合川ジョギング。ウォーキングコースの案内板です

 *市内の北側を流れる黒目側と南を流れる落合川は、それぞれ東北東に流れて埼玉県新座市との境近くで合流します、川沿いは市民の憩いの場や健康管理に使われているようです

 約100mで左へ、東久留米特別支援学校の雑木林と都営住宅の間の道を西へ進みます

 約200mで都営住宅西側を北へ

 都営住宅北側に公園の縁に、クロガネモチの木が4本在ります

 南西端の一本です

 東京都営住宅供給公社がプレートを付けてくれています、201-008です

 すぐ北側の1本です

 201-010です

 北側の道路沿いの一本です、二本の幹が立ち上がった一番太いクロガネモチです

 201-012です

 南側から見ました

 更に東側の一本です

 201-16ですが、東久留米市の名木百選のプレートは有りませんでした

 すぐ北側の野火止用水沿いにもう一本の東久留米市の名木が在りますので行ってみます

 公園の直ぐ西側から北への道路を進むと、約100mで野火止用水沿いの野火止通り(水道道路)に出ました

 西側の用水沿いに黄色い丸い実をつけたグレープフルーツです

 北東側から見ました

 奥側のフェンスに東久留米市の名木百選No21 グレープフルーツのプレートです

 北西側から

 西側にももう一本細いグレープフルーツが在りました

 では、次へ行きましょう
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東京都東久留米市、幸町4丁目米津寺「米津家墓所と東久留米名木百選No.60シキミ」です!!

2024-03-22 19:23:00 | 文化財・樹木
 幸町4丁目は、東久留米市役所の西約1kmのところ

 「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです

 約200mの信号を左(西)へ、約400mで右手に

 米津寺の参道入口です

 長い参道を進んで「ヤマザクラ」と「モミジ」を見て

 本堂です

 本堂西側の墓地入口には六地蔵様です
 
 米津家墓所は、墓地の一番奥(北側)近くにあるようです

 東向きに米津家墓所の入り口です、入口には六地蔵様が三体づつ南北に別れていらっしゃいます

 説明版です
 東京都指定史跡 
     久喜藩主・長瀞藩主米津家墓所
       所在地 東久留米市幸町4丁目2番40号米津寺墓地
       指定 平成8年3月18日
 圓通山米津寺(旧多摩郡前沢村)は、万治2年(1659)米津出羽守田盛を開基とする臨済宗妙心寺派の寺院であり米津家の菩提寺である。
 本堂左手奥の墓域に、2代田盛・4代政矩・6代政崇・8代政容の墓標と供養塔や石灯籠などが並んでいる。墓標の形状は笠付六角塔身型で統一した形式であり、都内多摩地域に残る唯一の大名家墓所である。塔身には臨済宗の重要な典耤である「碧巖録」の引用がある。
 米津家は三河出身の徳川譜代の家臣で、初代田政は慶長9年(1604)から20年間江戸町奉行を勤め、武蔵・下総・上総に5000石の領地を与えられた。2代田盛は大番頭を経て大坂定番となり、10000石を加増されて15000石を領する大名となった。
 3代政武は弟田賢に3000石を分知し、自らは12000石を領して久喜に陣屋を構えて武蔵久喜藩が成立した。4代政矩は弟政容に1000石を分知したため所領は11000石となった。7代通政は寛政10年(1798)出羽村山郡長瀞村(現在の山形県東根市)に所領を移された。
 門前村・神山村・前沢村(現在の東久留米市)、乙津村・上代継村・下代継村(現在のあきるの市)、木榑村(現在の練馬区)などが米津藩であった。
   平成9年3月31日 建設
        東京都教育委員会
 *文面は参道入口にあった説明版と同じでした

 正面の墓碑です

 左手(南側)に3基の墓碑です、一段低い台座になっているようです

 米津寺で3番目の目的の「シキミ」です

 東側から

 「東久留米名木百選No.60シキミ」のプレートです

 *シキミ(樒、学名: Illicium anisatum) は、マツブサ科シキミ属に分類される常緑性小高木から高木です。
 葉は枝先に集まってつき、春に枝先に多数の黄白色の花被片をもつ花をつけ、本州から沖縄諸島および済州島に分布します。
 アニサチンなどの毒を含み、特に猛毒である果実が中華料理で多用される八角に似ているため、誤食されやすい危険な有毒植物です。
 ときに仏事や神事に用いられ、しばしば寺院や墓地に植栽されておるい、また材や抹香、線香として利用されることもあります。
 別名が多く、「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」などがあります。(以上ウィキペディア一部抜粋です)

 
 薄黄色の花が咲いています

 北東側から

 北側から見ました

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東京都東久留米市、幸町4丁目米津寺「東久留米名木百選No.44ヤマザクラとNo.97モミジ」です!!

2024-03-21 18:48:00 | 文化財・樹木
 幸町4丁目は、東久留米市役所の西約1kmのところ

 「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです

 約200mの信号を左(西)へ、約400mで右手に

 米津寺の参道入口です

 臨済宗 妙心寺派 米津寺の寺号標です

 そばに説明版が建っています
   東京都指定史跡 
     久喜藩主・長瀞藩主米津家墓所
       所在地 東久留米市幸町4丁目2番40号米津寺墓地
       指定 平成8年3月18日
 圓通山米津寺(旧多摩郡前沢村)は、万治2年(1659)米津出羽守田盛を開基とする臨済宗妙心寺派の寺院であり米津家の菩提寺である。
 本堂左手奥の墓域に、2代田盛・4代政矩・6代政崇・8代政容の墓標と供養塔や石灯籠などが並んでいる。墓標の形状は笠付六角塔身型で統一した形式であり、都内多摩地域に残る唯一の大名家墓所である。塔身には臨済宗の重要な典耤である「碧巖録」の引用がある。
 米津家は三河出身の徳川譜代の家臣で、初代田政は慶長9年(1604)から20年間江戸町奉行を勤め、武蔵・下総・上総に5000石の領地を与えられた。2代田盛は大番頭を経て大坂定番となり、10000石を加増されて15000石を領する大名となった。
 3代政武は弟田賢に3000石を分知し、自らは12000石を領して久喜に陣屋を構えて武蔵久喜藩が成立した。4代政矩は弟政容に1000石を分知したため所領は11000石となった。7代通政は寛政10年(1798)出羽村山郡長瀞村(現在の山形県東根市)に所領を移された。
 門前村・神山村・前沢村(現在の東久留米市)、乙津村・上代継村・下代継村(現在のあきるの市)、木榑村(現在の練馬区)などが米津藩であった。
   平成9年3月31日 建設
        東京都教育委員会

 両側を住宅に囲まれた長い参道を進みましょう

 境内が見えて来ました

 まず一つ目の目的の「ヤマザクラ」です

 「東久留米名木百選No.44ヤマザクラ」のプレートです

 東久留米市の保存樹にも指定されています

 北東側から見ました

 西側に光寿堂(八角堂)が東向きにあります

 本堂前に二つ目の目的の「モミジ」です(南東側から)

 南側から

 西側から

 「東久留米名木百選No.97モミジ」のプレートです

 本堂です

 境内西側には、左(南)から畜魂供養塔・鰻之供養塔・そして祠の中には石橋供養塔です

 長く成りそうなので、続きとさせて頂きます
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東京都東久留米市、小山1丁目子ノ神社「東久留米名木百選No.No.62シラカシの切株とNo.88ムクロジ」です!!

2024-03-20 19:08:40 | 文化財・樹木
 小山1丁目は、東久留米市役所の北約1kmのところ

 「東久留米市役所前」信号を北北西へ「本町ふれあい通り」です
 
 約200mで丁字路信号を左(西南西)へ、約150mで「南沢交番前」信号を右(北)へ

 約300mで黒目川を曲橋で左岸(北側)に渡ると間も無く大圓寺山門が見えて来ます

 大圓寺の東側の通りを北へ進みます

 間も無く鳥居が見えて来ます

 鳥居脇のケヤキと石段中段のウラジロガシを見て

 更に石段を上がります

 右側境内に手水舎です

 左側境内には大きな切り株です

 幹が切り倒されています、東久留米の名木百選No.62シラカシの切株です

 拝殿です

 説明版です
   子ノ神社略記
 1、鎮座地 東京都東久留米市小山1丁目14番25号
 2、祭神  大国主命
 3、例祭  祈年祭  2月20日
       例大祭 10月 2日
       新嘗祭 11月20日
 4、境内地 2323㎡(704坪)
 5、由緒
 当社は小山村の鎮守にして、文録元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ、除地1町5段(4500坪)を有し、社地には槻・杉雑樹など繁茂していたといわれる。
 拝殿は、文政元年(1818)10月建立し、後明治4年(1871)8月、明治42年(1909)5月等数回に亘り修築がなされた。
 神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使であり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われる。
 祭神大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして国土開発の神であると共に、縁結び・子孫繫栄・五穀豊穣の神とされている。
 創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の初め、300石を賜り小山村の地頭となった。神社の西方畑地にその屋敷跡があったという。後、寛文5年(1665)2月死去し江戸牛込多聞院に葬られたといわれている。
 氏子によって奉納される神田流の「おはやし」は、昭和42年3月市の無形文化財に指定されている。
 6、境内末社
 (1)稲荷神社
 保食神を祀り玄和年間(江戸初期)字稲荷山(当村南方)、字西原(当村西方)、字大堂(当村北方)にそれぞれ創立された3社は、明治11年(1878)8月境内末社として合祀された。
 毎年2月初午を祭日とする。
 (2)津島神社
 牛頭天王を祀り毎年7月27日を祭日とする。
     昭和55年10月2日
          子ノ神社
 *白く塗られているところには落書きのイタヅラが有るようです



 本殿覆い屋です

 本殿西側に目的のムクロジです

 北側から

 「東久留の米名木百選No.88ムクロジ」のプレートです

 西側から

 南西側から見上げました

 拝殿東側に津島神社と稲荷神社です

 では、次へ行きましょう
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東京都東久留米市、小山1丁目子ノ神社「東久留米名木百選No.27ケヤキとNo.9ウラジロガシ」です!!

2024-03-19 19:33:54 | 文化財・樹木
 小山1丁目は、東久留米市役所の北約1kmのところ

 「東久留米市役所前」信号を北北西へ「本町ふれあい通り」です
 
 約200mで丁字路信号を左(西南西)へ、約150mで「南沢交番前」信号を右(北)へ

 約300mで黒目川を曲橋で左岸(北側)に渡ると間も無く大圓寺山門が見えて来ます

 大圓寺の東側の通りを北へ進みます約200mで

 鳥居が見えて来ます

 子ノ神社の社號標です

 目的一つ目のケヤキです


 南側から見上げました

 「東久留米の名木百選No.27ケヤキ」のプレートです

 保存樹でもあります

 鳥居前南東側から見ました

 鳥居です

 参道石段を上がります

 石段中段の狛犬の東側にヒコバエが藪の様になって目的のウラジロガシです

 南西側から

 「東久留米の名木百選No.9ウラジロガシ」のプレートです

 南側から見上げました

 
 更に石段を上がりましょう

 少し長くなりそうなので続きとさせて頂きます
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東京都東久留米市、小山2丁目大圓寺「東久留米名木百選No.79ボダイジュとNo.74ヒトツバタゴ」です!!

2024-03-18 18:30:56 | 文化財・樹木
 小山2丁目は、東久留米市役所の北約500mのところ

 「東久留米市役所前」信号を北北西へ「本町ふれあい通り」です
 
 約200mで丁字路信号を左(西南西)へ、約150mで「南沢交番前」信号を右(北)へ

 約300mで黒目川を曲橋で左岸(北側)に渡ると間も無く大圓寺山門が見えて来ます

 大圓寺参道入口です

 仁王門です

 仁王門を潜ると正面に本堂です

 本堂前の石灯籠一対は、上野寛永寺に墓所があります、8代将軍「徳川吉宗公」の墓前にあったものです。
 「有徳院殿」とあるのは吉宗公の戒名です。
 昭和39年に御寄附頂きました。
     61世山主

 大圓寺会館前に目的のボダイジュです

 東側から見ました、東久留米市の名木百選のプレートは有りませんでした

 大圓寺会館前のイチョウです

 保存樹です

 北東側から見ました

 境内東側に西向きに護摩堂です

 護摩堂の直ぐ北側に目的のヒトツバタゴです

 南西側から見上げました

 「東久留米名木百選No.74ヒトツバタゴ(別名ナンジャモンジャ)」のプレートです

 *ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子、Chionanthus retusus)とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種です。
 同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名があります。
 別名はナンジャモンジャノキであるが、「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種には、ヒトツバタゴのほかにクスノキ(樟)、ニレ(楡)、イヌザクラ(犬桜)、ボダイジュ(菩提樹)などがあり注意を要します。(以上ウィキペディア一部抜粋です)

 南東側から見ました

 では、次へ行きましょう
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東京都東久留米市、小山2丁目 大圓寺「東久留米名木百選No.65ダイオウショウとNo.95モミジ・No.78ヒメシャラ」です!!

2024-03-17 18:49:45 | 文化財・樹木
 小山2丁目は、東久留米市役所の北約500mのところ

 「東久留米市役所前」信号を北北西へ「本町ふれあい通り」です
 
 約200mで丁字路信号を左(西南西)へ、約150mで「南沢交番前」信号を右(北)へ

 約300mで黒目川を曲橋で左岸(北側)に渡ると間も無く大圓寺山門が見えて来ます

 大圓寺参道入口です

 仁王門です

 仁王門を潜ると正面に本堂です

 仁王門の東側に、二つ目の目的の「ダイオウショウ」です(西側から)

 南西側(仁王門脇)から

「東久留米名木百選No.65ダイオウショウ」と「保存樹木」のプレートです

 南側から

 南東側から

 東側から見ました


 三本目の目的の「モミジ」と西側に「ヒメシャラ」ですがヒメシャラには表示が有りません

 西側から

 南側から

 「東久留米名木百選No.95モミジ」のプレートです

 東側から見ました

 長くなりましたので続きとさせて頂きます
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東京都東久留米市、小山2丁目大圓寺「東久留米名木百選No.71ニッケイ」です!!

2024-03-16 18:53:00 | 文化財・樹木
 小山2丁目は、東久留米市役所の北約500mのところ

 「東久留米市役所前」信号を北北西へ「本町ふれあい通り」です
 
 約200mで丁字路信号を左(西南西)へ、約150mで「南沢交番前」信号を右(北)へ

 約300mで黒目川を曲橋で左岸(北側)に渡ると間も無く大圓寺山門が見えて来ます

 大圓寺参道入口です

 天台宗 普門山 大圓寺の寺号標です

 参道入口右手(東側)に庚申塔と石橋供養塔です

 説明版です
   東久留米市指定文化財  小山2丁目10番
 右 庚申塔
 庚申信仰は、60日ごとの庚申の日の夜に眠っている人の体から三戸の虫が抜け出て、その人の罪を天帝に報告するという道教の思想からきたとされています。
 人々は、庚申の夜には儀式や宴会をしてすごしまいた。
 この庚申塔は市内で最も古い延宝8年(1680)の造立です。
 左 石橋供養塔
 目黒川に架けた石橋の供養塔で、天保6年(1835)に造られたものです。
 観音立像が彫られており、もとは橋の傍らにあったものと思われます。
 大正13年(1924)に改修した記事も見られます。
      東久留米市教育委員会

 左手(西側)にも庚申塔と馬頭観音塔です

 説明版です
   東久留米市指定文化財  小山2丁目10番
 右 庚申塔
 庚申信仰は、60日ごとの庚申の日の夜に眠っている人の体から三戸の虫が抜け出て、その人の罪を天帝に報告するという道教の思想からきたとされています。
 人々は、庚申の夜には儀式や宴会をしてすごしまいた。
 この庚申塔は延享3年(1746)の造立です。
 左 馬頭観音塔
 馬の供養や無病息災、交通安全を願って天保9年(1838)に造られた馬頭観音塔です。
 もとは旧下里村の秩父道(所沢街道)沿いにあったものです。
 左側面に「東 いたはし(板橋)五里、西 八わうし(八王子)五里、南 江戸四つ谷五里、北 川ご絵(川越)五里」と刻まれていることから、五里五里馬頭と呼ばれて親しまれています。
      東久留米市教育委員会
 *都道4号線と下里本邑通りの交差点付近から、東板橋は約21km、西八王子駅は約20km、南東に約23kmで四ツ谷、来たに約21kmで川越喜多院附近に成りますね、南だけが全体的な方向が違っているようです

 北側に水子地蔵尊です
 
 更に北側には、東向きに地蔵堂です


 境内南東側に鐘楼です

 鐘楼の北側に、まず一つ目の目的の「ニッケイ」です

 北西側から

 「東久留米名木百選No.71ニッケイ」のプレートです

 東側から

 南東側から見ました

 参道に戻ると仁王門です

 仁王門前左手に「矢部藤九郎の墓」です

 長く成りそうなので、続きにさせていただきます
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