ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県桐生市、相生「相生のマツ」(県指定)です!!

2018-12-31 07:19:37 | 巨樹・大木
2018年(平成30年)もこの投稿でお終いです

一年間御覧頂きました皆様に御礼申し上げます<(_ _)>


相生地区は、桐生市役所の西約3kmのところ

「JR両毛線」「東武鉄道桐生線」「わたらせ渓谷鉄道」の


三線の造る三角形のところに「相生のマツ」が在ります。

北西側から工場の中の細い道を進み、わたらせ渓谷鉄道の踏

切りを越えて東へ向かうと丘の斜面に、立っています。

脇の空き地に車を止めさせて頂きました


相生のマツが見えて来ました

南西側から見ると一本に見えます

天然記念物の標柱です

説明版です
  群馬県指定天然記念物 
   相生のマツ
     昭和30年11月8日指定
     桐生市相生町2丁目919-1
 アカマツ・クロマツ各一株が根元で完全に癒着し、
目通り3,6m、根本回り3,9m。地上2,6mの
ところで二幹にわかれて並び立つ。東の幹はアカマツ
で周囲2,5m、西の幹はクロマツで周囲2,3m、
樹高は約14mである。
 先年クロマツの先端に落雷があり、上部が枯れ、樹
皮がむけてしまった、さらに昭和56年にはアカマツ
の下枝が台風で折れ、その姿はわずかずつ変わってお
り、平成13年度には外科治療および支柱工事が施さ
れている。
 植栽時期は不明であるが、古くから相生のマツと呼
ばれていた。明治22年(1889)の町村制施行に
より蕪町、天王宿、天沼新田、下新田、如来堂、など
の小村が合併して一村を構成したとき、このマツにち
なみ共存共栄の村の発展を願い相生村の名がつけられ
た。

南東側から

根元に二基の祠が有ります

東側から見上げました

北東側から

支柱が正面に来ました

北西側から

西側から

では、次へ行きましょう


踏切りを「わたらせ渓谷鉄道の」汽車が通り過ぎて行きます

では、良いお年を
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群馬県前橋市、横室「横室の大カヤ」(国指定天然記念物)です!!

2018-12-30 06:38:59 | 巨樹・大木
横室地区は、前橋市役所の北約6kmのところ

国道17号線を北へ、上武道路を過ぎてすぐ

県道101号線を東へ進むと案内板が見えて来ます

南東側への道路を入ると右手にカヤの巨木が在ります

北側の駐車スペースを利用させて頂きました



案内板です、ここを南に入るとすぐです

北側駐車場から見ました

国指定の石碑が有ります

西側から

南側から

東側から見上げました

説明版です
  横室の大カヤ
 本樹は、地元の旧家である金澤氏の先祖が寛延2年(1749)
邸外に諏訪神社を奉祀してから神木として尊重・保護し、現在に至
っつているものである。カヤは本州・朝鮮半島などの比較的暖かい
地域に生育し、高齢巨樹になる特性がある。本樹は日本三大カヤの
一つに数えられ、日本有数の巨樹である。かつては秋になると四石
(約720㍑)もの実っをつけて人々の生活お支えたといあれてい
る。樹齢は千年以上と推定される。
      昭和8年(1933)国指定天然記念物に指定



上毛カルタの説明版です

では、次へ行きましょう
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東京都新宿区、新宿御苑の大木・花を見に行ってきましたの続きです!!

2018-12-29 07:38:25 | 巨樹・大木
新宿御苑にいくには、JR千駄ヶ谷駅・新宿駅

地下鉄新宿御苑前駅・国立競技場前駅・新宿三丁目駅などから

10分以内で新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門

三ケ所の出入り口に行くことが出来ます

車の場合は、大木戸門の側に駐車場が有ります

続きです


苑内西端のラクウショウの森にやってきました

地面からは気根?でしょうか、たくさん出ています、識別番号の最初は第05で始まっています

一番大きなものは、樹高25m、幹囲337cmの樹齢120年以上のようですが、見た目はもっと太く感じます

説明版です、北米原産のヌマスギの名で知られています


隣にはメタセコイアの林があります

説明版です、生きた化石で育つのが早く利用価値があまりないように書かれています

樹冠が特徴的なレバノンシーダー(レバノン杉)の林です

説明版です、かつて古代メソポタミヤ文明を支えた樹木だそうです

サザンカです、いろいろな色があります、苑内各所で見られました

新宿門南西側のプラタナスの巨木ですモミジバスズカケノキで案内図には表示されています、幹囲6,25mです

新宿門南側のヒマラヤシーダー(ヒマラヤ杉)です

レバノンシーダーより成長が早いそうです

新宿門そばのヒマラヤシーダーです

エコハウスレストランゆりのきの北側のユリノキです、苑内で一番太い幹囲6,6mのモミジバスズカケです

大きな枝が横に伸びています

西側から見ました

サービスセンター西側のツワブキです

九州の離島などでみられる変種のオオツワブキだそうです


サービスセンター前のジュウガツザクラも花を咲かせていました

大温室入り口近くのユリノキです

北米原産モクレン科ユリノキ属、明治9年に日本で最初に植えられた苑内で最も樹高の高い木だそうです、樹高約35m幹囲3,9mだそうです

大木戸休憩所前のヒマラヤシーダーです

大温室南東側斜面のタイサンボクです

南側から見上げました

説明版です、北米中南部原産のモクレン科ですが常緑です、香りの良い苑内で一番大きな花を春に咲かせるそうです、こちらも楽しみですね

大木戸門にやってきました、出て散策路を新宿門に向かいましょう

散策路沿いにはイチョウの大木が沢山在ります、こちらのイチョウにも識別番号がついています、第04―08号です

玉川上水内藤新宿分水路沿いに植栽されている植物の案内版です、秋の草花はなくなり冬のヤブコウジやセンリョウなどですね

黄色い葉を散らしています、こちらのイチョウにも識別番号がついています

旧新宿門衛所近くのこちらのイチョウにも、識別番号は、第04―11号です

新宿門近くのイチョウは葉をほとんど落としてしまっていました

新宿門前のサザンカです

では、新宿駅から電車で帰りましょう





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東京都新宿区、新宿御苑の大木・花を見に行ってきました!!

2018-12-28 06:18:49 | 巨樹・大木
新宿御苑は、都内の緑の楽園です

江戸時代の信州高遠藩主内藤家の江戸屋敷跡の一部です

明治に入り農業試験場等の街路樹の苗木等の生産を行ったようです

明治39年に皇室の公園として利用され

戦後昭和24年からは「国民の公園」として開放されたそうです

今回、JR中央線せんだがや駅から千駄ヶ谷門を利用しました

新宿御苑です

千駄ヶ谷門です

園内を案内図で確認しましょう

花の様子も確認できます、12月に入って花の数は少なくなっています

自動販売機でチケットを購入して園内へ入りましょう

正面左手にシナユリノキの大木が数本あります

西側から

左手角のシナユリノキです

北側から

ユリノキの北側の広場のシイノキの大木です

南西側から

千駄ヶ谷入り口の西側桜園地に行きましょう

ジュウガツザクラです、八重咲きの二期咲きですね

中の池の南岸に来ました、、大木標識がついていますが距離が遠いので確認できません

紅葉が見ごろです、条件の良さそうな場所にはカメラマンが多数いました

下の池の西岸には、スイセン・ペーパーホワイトの群落です

チャノキ(茶ノ木)の花です


下の池の北東岸のプラタナスの大木です

整形式庭園のプラタナスの並木が見事です

風景式庭園の南端にケヤキの大木が数本あります

南側から見ました

北側から見た樹冠です

風景式庭園の北側のケヤキです

南側から見上げました

風景式庭園の南西側です

ユリノキです

苑内の大木には、自然環境基礎調査 巨樹・巨樹林調章がついています、識別番号:第08―08号 2001年3月設置です
風景式庭園と中の池の間のヒマラヤスギです

中の池の橋の上から

中の池の南側から見ました

中の池南岸のカツラの巨木です

この木の名は?のパネルが苑内各所にあります、上の扉を開くと名前がわかりますsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/2f/7f5ea3779199834a53df0c752a91198f.jpg" border="0">
旧御涼亭西側のイチョウの大木です、識別番号:第07―11号です

中央休憩所南側、紅葉の枝越しにイチョウの大木です

木々の間のイチョウの大木です、識別番号が付けられていましたが確認できませんでした

交差点の広場から、識別番号:第07-08号のイチョウです

茶室翔天亭東側のハクモクレンです

説明には、推定樹齢約130年で都内随一の大木といわれているようです、樹高約14m、幹囲約2mです

南側から見上げました、開花時期の三月末が楽しみですね


長くなりましたので、続きにしましょう
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兵庫県姫路市、国宝「姫路城」の続きです!!

2018-12-27 09:04:08 | 城跡・館跡・陣屋跡
国宝姫路城の続きです

姫路市役所の北東約2kmのところ

JR山陽新幹線ひめじ駅の北東約1kmです

城の周りに数多くの駐車場が有ります

城の南東側の有料駐車場を利用しました

天守から出て来ました、備前丸曲輪に大きなエノキが在ります、城内最大の樹木です

備前丸の説明版です
  備前丸
 ここは備前丸という曲輪で、「御前丸」と呼ばれていた
時期もありました。もともと池田輝政の御殿がありました
が、本多忠政が城主になると、御殿は三の丸に移されたと
いわれます。敷地面積が狭いため、曲輪内には建物が密集
していたとみられ、昭和の大修理では、天守台石垣のすぐ
下で排水溝や建物の遺構が発掘されています。
 御殿が三の丸への移った後も、南側の石垣上には二重櫓
と長局、御対面所などが建ち並び、曲輪内には御台所と折
廻櫓がありました。御台所と長局など明治15年(188
2)に失火で焼失し、備前門の一部と折廻櫓だけが昔の姿
をとどめています。



天主を見上げるのに多くの観光客が集まっています

門の石垣の角には石棺が使われています

説明版です
  お菊井戸
 この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」
といわれています。
 永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権青
山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていまし
た。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住
み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知した
お菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げ
て殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました
。お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結
婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。
弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの
皿の一枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました
。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸
に投げ込まれました。
 その後、毎夜このいどから「1枚、2枚、3枚・・・・
9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたとい
います。やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊
大明神」として、十二所神社内に祀られました。

お菊井戸です

備前丸越に天守を見ました

修理の際に石垣から強度不足のため外された石棺が並んでいます

天守の鯱鉾が年代別に並んでいます

説明版です

チケット売り場まで戻って来ました

西の丸へ行きましょう


説明版です

西の丸は百件廊下から化粧櫓まで時計回りに回る事ができます

百間廊下です

説明版です
  百件廊下
 西の丸を囲むように築かれた長屋の長さが約300mもあ
るので、とても長いという意味で「百間廊下」とも呼ばれ、
建物内は城外側が廊下、城内側が部屋になっています。その
うち、ヨの渡櫓には廊下に面して納戸のある小さな部屋が並
んでいました。これが長局で、西の丸御殿で働く女中の住ん
だ部屋とみられます。
 また、この建物には、城外からの攻撃に対する防御機能も
ありました。城の西側は山がすぐ近くに迫っているため、防
御上の弱点でした。そのため、城外側(西)に向けて格子窓
や挟間がいくつも備えられました。格子は、木芯に鉄板を張
りその上から漆喰を塗り込んで頑丈に造られています。戦時
には廊下に鉄砲隊を配置すれば強力な防御線となり、雨天で
も火縄銃で射撃ができる利点がありました。通常は部屋を倉
庫として使用し、戦時には家臣の家財道具や家族を避難・収
容することもできました。一見すると特徴がなさそうですが
、実は姫路城の防御力を現している建物なのです。


化粧右櫓手前の百閒廊下から北東側の眺めです、堀に石垣と井戸が見えました


化粧櫓を出て来ました

姫路城の天守群と左側に化粧櫓を見ます

帰りは清水門から、城の東側から天守を見ました

では、次へ行きましょう
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兵庫県姫路市、国宝「姫路城」です!!

2018-12-26 06:25:30 | 城跡・館跡・陣屋跡
国宝姫路城です

姫路市役所の北東約2kmのところ

JR山陽新幹線ひめじ駅の北東約1kmです

城の周りに数多くの駐車場が有ります

城の南東側の有料駐車場を利用しました

駐車場そばの南東側から天守閣が見えます、屋根の鯱鉾のレプリカの間に写してみました

南側の入り口大手門と桜門橋です

説明版です
姫路城大手門と桜門橋
 姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では
最も格調高くかつ厳重な門でした。現在「大手門」と呼ん
でいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成した
もので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なって
います。また、大手門の内堀には桜門橋という木造橋が架
けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出
土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージし
て平成19(2007)年に築いたものです。


桜橋を渡って城内へ行きましょう

南西側土塁から天守群を望みました

姫路城の歴史の説明版です
  姫路城の歴史
 姫路は、古代には播磨国府が置かれ、中世には府中とし
て守護の拠点となりました。姫路城は府中に築かれた城で
、築城は14世紀まで遡るという説もありますが、やはり
16世紀中頃に黒田重隆・職隆父子が、御着城の端城とし
て築いたとみるべきでしょう。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉は播磨国を平定すると
、織田信長の命令により姫路城を築きます。このとき、三
重天守をもつ石垣造りの城郭となりました。城の周囲には
家臣が集住し、商人を移住させ城下町も整備されました。
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦の戦功で播磨国を与え
られた池田輝政は、城を大改修します。羽柴時代に縄張り
を踏襲しつつ、五重天守や高石垣を築き、規模も大きくし
ました。また、輝政は徳川家康の娘督姫を妻にしたことか
ら、2人の間に生まれた男子は大名に取り立てられて淡路
国や備前国が与えられ、池田一族の領地は約100万石に
もなりました。その本領が姫路城で、西国の豊富恩顧の大
名をけん制し、豊臣秀頼の大阪城を西側から包囲する役割
も期待されました。
 姫路城が完成するのは、池田氏にあと城主となった本多
忠政の時代です。元和4年(1614)にには西の丸を増
築し、三の丸の御殿も整備しました。池田時代に頓挫した
飾磨津と城下町を結ぶ運河(三左衛門掘)計画が、船場川
を改修することで実現できたのもこの時期です。その後、
城主は松平氏、榊原氏など親藩や譜代の大名が歴任し、酒
井氏のとき廃藩置県となりました。
 明治7年(1874)、旧城内には陸軍歩兵第十連隊が
駐屯し、明治29年(1896)には第十師団が置かれる
ことになりました。姫路は城下町から軍隊の町へと変わり
、第二次世界大戦中は2度の空襲を受けました。城内にも
焼夷弾が投下されましたが、城の建物に大きな被害はあり
ませんでした。
 昭和6年(1931)1月、大天守、西小天守、乾小天
守、東小天守とこれを結ぶ渡櫓が国宝に指定され、昭和3
1年(1956)、中濠以内107haが特別史跡に指定
されました。平成5年(1993)12月には、日本で初
の世界文化遺産に登録されました。


国宝・重要文化財一覧です

チケット売場です、入場券を購入して入ります

門です

門を潜りましょう

ここから天守群が遠くに感じますね

門です

井戸です、城内内には33(現在は11)の井戸があったそうです、この井戸は深さ8,8m、水深2,7mです

井戸の側から天守群をみます

狭い通路を進みます

天守群が近づいて来ました

小天守の唐破風を見上げます

「にの門」です

小天守前のくぐり戸のような「ほの門」です

油壁の説明版です

小天守の石垣に・・・

割れた?石臼がはめ込まれています「姥が石」です

通路が下りになります

天守閣への入り口です

大天守へ入ります

この先で靴を脱いでビニール袋にいれて急な階段を上って行きます

最上階には、城の守り神が祀られています

案内板です

最上階から南側の景色です

東側です

北側です

西側には、西曲輪の化粧櫓が見えます

天守閣内には天守の軸組模型です

説明版です



総構のジオラマです

説明版です


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兵庫県赤穂市、赤穂城跡本丸です!!

2018-12-25 06:44:25 | 城跡・館跡・陣屋跡
続きです

赤穂市役所の南西約4kmのところに赤穂城跡が在ります

JR山陽本線あこう駅前から南へ入ったところです

城跡の北東側に歴史博物館があり

駐車場が有りますので利用させていただきました


大石神社から本丸へ向かいます

三の丸丸と二の丸間、二の丸門の東側の堀です

二の丸外堀です

西側の堀の二の丸側には石垣が築かれています

二の丸門跡説明版です
 二の丸門跡
 赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から
入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命、慶安元年(1648)
より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した
甲州流軍学の海岸平城である。
 ここ二の丸門跡は二の丸の入り口として、虎口はやや南よりの西
方白虎に開かれた切妻式櫓門が構られていた。二の丸門虎口の縄張
りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年(16
53)に変更したと言われる。
 文久2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、
藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼
ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討『高野の復讐<
和歌山県高野町>』の発端となった。
 また、二の丸門をはさんだ、東方の東隅櫓台にかけての石垣土塁
は、明治25年(1892)千種川の洪水による被害復旧と流路変
更のため、築石として使用され取り除かれた。
  平成10年3月          赤穂市教育委員会



大石頼母助屋敷門です

説明版です


中を覗くと、二之丸庭園です

本丸入口です

西側の堀です

東側の堀です

本丸門の説明版です
  国史跡赤穂城本丸門(復元)
 本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年を
後半の取壊しまでの約230年間存続していました。
 現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業
として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて、総事
業費約6,7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
 この平成の復元は、明治じだいの古写真をもとに、古絵図をはじめ
とする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩に
よる枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時
の姿によみがえらせています。
        平成8年11月  赤穂市教育委員会



本丸門です

本丸門を入ると御殿跡の平面展示があります

庭園です先に天守台があります

本丸庭園の説明版です


天守台登り口です

南側登り口から天守台上部です

南側

東側です


西側には御殿跡を見下ろします

北側の厩口門の白壁が見えます



説明版です
  赤穂城本丸
 赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、
そして外側に曲輪が取り付く三之丸の三つの曲輪によって構成され
ています、二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、
三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。
 藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿の南側には大泉池が広がり
御殿の内側から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪
庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生
活を潤しました。
 なおこれらの泉池のみならず生活のための水は、すべて約7km
上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。
  赤穂城本丸天守台からの風景
 赤穂城の築かれた、寛文元(1661)年は、江戸開府からすで
に60年以上経過しており、このころの城郭は防備の拠点ではなく
経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれ
ず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされ
ています。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴
らしい眺望を得ることができます。
 当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製
塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化差せていました。
広大な西浜塩田の開発は森時代をまたなければなりませんが、眼前
に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されて
いくさまを、藩主は眺めることが出来たのでしょう。



天守台を下りて来ました、厩口門本丸側です

南側の堀です

北側の堀です

厩口門を二の丸側から見ました

説明版です、発掘調査と絵図面などから5年をかけて復元されました
 



三の丸へ戻って武家屋敷公園です

案内板です、城の重要な門の警備のために重臣の屋敷がはいちされていました、板田式右衛門の屋敷跡だそうです



中を覗くと芝で屋敷跡が平面展示になっています


歴史博物館が見えて来ました

清水門跡です

駐車場に戻り、次へ行きましょう
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兵庫県赤穂市、赤穂城跡大石神社です!!

2018-12-24 07:36:42 | 城跡・館跡・陣屋跡
赤穂市役所の南西約4kmのところに赤穂城跡が在ります

JR山陽本線あこう駅前から南へ入ったところです

城跡の北東側に歴史博物館があり

駐車場が有りますので利用させていただきました




阿赤穂城跡案内図です確認しましょう

北側の堀沿いを大手門へ進みます

大手門と大手隅櫓です

史蹟赤穂城跡です

大手隅櫓と北側の堀です

大手門を入ると枡形です

大手隅櫓を内側から見ました

石垣に沿って回り込むと大石良雄邸長屋門です

説明版です
  大石邸長屋門
 この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代
が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋
である。
 門口約26,8m、奥行約4,8mの建物で、屋
根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、元禄
の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物
となっている。かつては、内蔵助と主税の父子が朝
夕出入し、又元禄14年3月主君の刃傷による江戸
の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である

 安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正
12年国の史跡に指定された。
 更に昭和37年に屋根の大修理を行ったが老朽甚
だしく、昭和52年11月から国・県及び市の負担
により、総工費3138万余円をかけて全面解体修
理を行い、昭和53年10月末に復元完了した。
                 赤穂義士会


大石神社東側の鳥居です

通りのかどに高倉源五衛門宅跡です

大石神社南側参道入口です

参道右側には四十七義士石造表門隊が並びます

左側には四十七義士石造裏門隊です

大石内蔵助像です

大石主税像です

大石神社説明版です
  四十七義士を祀る
 大願成就の神 赤穂大石神社
ご祭神 義士の統領大石内蔵助良雄命を始め・四十七義士命・
   中折の烈士萱野三平命・播州赤穂城主浅野内匠頭長直・
   采女正長友、内匠頭長矩の三侯
    浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・
   蘭丸・坊丸・力丸の七武将
由緒  大石神社は明治元年、明治天皇の東京行幸に際し、泉
   岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に神
   社奉斎の議が起こり明治33年神社創立が公許され、大
   正元年11月3日義士お崇敬追慕する方々の奉賛により
   御鎮座となった。
    ご祭神四十七士義士が一年十ヶ月の永い間艱難辛苦の
   末見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の
   神として全国よりお参りを頂いている。
    境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そし
   て義士片岡源五右衛門、大石瀬左衛門の邸跡一帯である。
    

義芳門の説明版です(門の写真の撮ったはずですが~)
  

紋の蔭には大きな恵比寿様と

大黒様です

手水舎です

大石内蔵助像と浅野家大阪蔵屋敷の船石です

社殿です

社殿の西側境内社に心願鈴が下がっています

大石神社は城跡の三ノ丸に在ります、本丸へ行きましょう

続きにします
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山口県周南市、徳山港に人間魚雷「回天」です!!

2018-12-23 06:43:57 | 遺跡・史跡
徳山は、工業都市ですね~

ホテルの窓からコンビナートの夜景が綺麗でした

翌朝・・・

JR山陽本線とくやま駅南口から見える徳山港へ散歩に行きました

徳山漁港には多くの舟が並んでいます

徳山港から「回天の訓練基地」のあった大津島へのフェリーが出ます

傍らに「回天」の実物大模型が展示されています

説明版です
   『人間魚雷「回天」実物大模型』展示場
 この人間魚雷「回天」は、平成18年9月に公開された
映画「出口のない海」の撮影で使用された実物大の模型で
周南市で製作されたものです。
 回天烈士の国難に殉じていった若者達の崇高な精神や人
命の尊さ、そして平和の大切さを多くの方々に知っていた
だき後世に伝承するため、「回天レプリカ等保存協議会」
が周南市の玄関口徳山駅から臨むことができ、大津島へ向
かうフェリー乗り場の導線上に展示したものです。
 最終場面のロケが行われた大津島には、調整工場からト
ロッコで「回天」を運搬するために設けられたトンネルと
魚雷発射試験場がほぼ当時のまま保存されています。また
回天で尊い犠牲になられた145名の烈士銘碑や遺品をは
じめ、貴重な回天関係の資料等収蔵・展示している「回天
記念館」があり、館内に、米国シアトルに現存する回天の
操縦席を再現し、映画でも搭乗シーンに使われた国内唯一
の「内部操縦席模型」も展示します。
            平成18年11月
            回天レプリカ等保存協議会
ウィキペディアでは
 回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改
造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径
61cm、重量2,7t、炸薬量780kg、時速48ノ
ットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。
回天はこの酸素魚雷を改造した全長14,7m直径1m、
排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タン
ク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船
装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1
,5tとした場合、最高速度は55/kmhで23キロメ
ートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であ
ったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にか
かわらず乗員の命はなかった。
 と、ありました

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福岡県宗像市、吉留「平山天満宮の大クス」です!!

2018-12-22 08:11:11 | 巨樹・大木
吉留地区は、宗像市役所の東南東約8kmのところ

県道29号線の平山口信号を南へ県道87号線に入ります

間も無く県道87号線の西側に平山天満宮が鎮座します

参道入口には案内板や石燈籠に平山天満宮大楠に石碑もあります

参道入口から入って行く道路は生活道路ですが細いので

参道入口の県道道路脇に車を止めさせて頂きましった



道路脇に平山天満宮大楠の石碑が建っています

平山天満宮入口案内板です

参道の鳥居が見えます

参道入口石段と一の鳥居です

石段を入ると二の鳥居です

二の鳥居の右手斜面に目的のクスノキが在ります

大クスです、昼なお暗いと言った感じの境内も夕方になり暗さが増してきました


説明版です
 福岡県指定天然記念物
  平山天満宮の大クス 1本
   指定年月日 昭和50年8月14日
   所在地 宗像市吉留平山天満宮境内
 平山天満宮は標高100mの台地の上にあり、その
境内に本樹は生育している。
 くすのき科クスノキは常緑の喬木で、日本産の濶葉
樹中最も大きく、生育期間も最も長いものである。枝
葉には芳香があり、病虫害は少なくて育ちやすいので
古くから社寺林などに栽培されたようで、巨樹が各地
にある。
 本樹もその一つで、樹齢は400年位と推定されて
いる。
    記
胸高周囲 北幹  7,8m
     南幹  2,5m
根回り     14,8m
樹高      33,1m
枝張り  東  19,0m
     西   7,7m
     南  16,6m
     北  11,8m
            平成4年3月31日
            宗像市教育委員会
 



天然記念物大楠の石碑です

石段入口から見ました

手水舎です

石段を上がりましょう

石段を上ったところから見ました

拝殿が見えて来ました

狛犬です

天神様といえば寝牛ですね

拝殿です

本殿です

文化財説明版です
  平山天満宮本殿
 平山天満宮は永延2(988)年に大宮司宗像氏能が
創建したと伝えられていますが、詳細は分かっていませ
ん。菅原道真を祀る天満宮として宗像地域で最も古く、
近世以降は吉留村の村社として人々に信仰されました。
 本殿には「天保14(1843)年夘六月吉祥日」と
いう墨書があり建築年代が推定できます。装飾は簡素で
、これは天保13(1842)年に出された華美を禁じ
る倹約令が影響していると考えられます。覆屋をもつ板
葺の本殿は18世紀末以前における宗像地域の特徴の一
つであり、平山天満宮本殿は現在までその様相を保って
いる貴重な建造物といえます。

 市指定有形文化財(建造物)
 2013年5月22日指定     宗像市教育委員会



境内社です

拝殿前境内から大クスを見ました

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福岡県鞍手町、八尋「十六神社のクスノキ」です!!

2018-12-21 07:05:54 | 巨樹・大木
八尋地区は、鞍手町役場の南西約4kmのところ

県道55号線の西側に十六神社が鎮座します

東向きの参道の一の鳥居は県道の東側に立っています

社殿は長い石段を登った丘の上になっています

二の鳥居の側に目的のクスノキが在ります

二の鳥居の前に車を止めさせて頂きました



一の鳥居が、道路の東側に有ります


参道を入って来ました、石段の入口に二の鳥居です

十六神社です鳥居右側に樟の巨木が見えています

目的のクスノキです

説明版があります
 私たちの町の象徴植物
   樟(クスノキ)
 クスノキ科の常緑高木、木全体に芳香があり、
日本列島の暖地から熱帯北部に広く生育します。
町では住民の間に自然保護とその意識を高め、昭
和56年5月に、町の木に指定し、育成につとめ
ています。私たちの町のシンボルとして大切に保
護しましょう。
  昭和57年3月    福岡県・鞍手町

石垣の上に載っています、目通り幹囲14,4mの巨木ですが、主幹んがなくなって幹の外周のみになってしまっているようです

注連縄が巻かれていますので御神木のようです

鳥居の内側から見ました

参道石段です

長い石段を上って来ました

狛犬です

手水鉢です

拝殿です

本殿です

神楽殿です

境内社です

境内の楠の木の大木です

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福岡県北九州市、小倉南区呼野「大山祇神社の公孫樹」(県指定天然記念物)です!!

2018-12-20 06:49:29 | 巨樹・大木
呼野地区は、北九州市役所の南約14kmのところ

小倉南区役所からも南へ約10kmの距離があります

国道122号線を南へ、九州自動車道小倉南インターチェンジを過ぎ

国道の旧道を進むと、JR日田彦山線よぶの駅を過ぎて

道路右手に石鳥居が在ります、参道入口です

すぐ手前に圓龍寺の駐車場が有りますので利用させて頂きました
(大山祇神社まで車で入ることもできます)

参道鳥居です

県指定天然記念物の標柱です

狛犬です

参道はJR日田彦山線線路で侵入禁止になっていますのですぐ西側にある圓龍寺への参道を利用しました

円隆寺の参道です

浄土真宗 本願寺派 圓龍寺です

踏切りの無い線路を超えます

本堂です、本堂の前を通って大山祇神社の参道へ

参道を更に進みます黄色く色付いた公孫樹の樹冠が見えています

大山祇神社入口鳥居です、境内に目的の公孫樹が見えています

鳥居下から見上げました

説明版です
 県指定天然記念物
大山祇神社の公孫樹
    昭和37年7月26日指定
 公孫樹は中国原産の落葉樹で、化石植物といわれる
ように、太古の時代から現在に至るまでほとんどその
形が変化していません。花粉の中から精虫を生じるこ
とや、老木では幹から乳(気根)が垂れ下がる現象が
あることなど、普通の植物とは異なる特徴をもってい
ます。
 この公孫樹は雌の巨樹で、県下でも最大級のもので
す。一部空洞化した主幹部は、地上から5m余のとこ
ろで4本の大枝に分かれています。梢の部分に老化現
象が見られ、また、枝の一部が台風で折損したことも
あり、樹勢が衰えていました。平成7年、9年の二度
にわたる本格的な治療によって蘇り、秋には大粒のギ
ンナンがたくさん実るようになりました。
 樹高    30,7m
 胸高幹囲   8,5m
 枝張り東西 23,0m
    南北 16,5m
             北九州市教育委員会

境内参道から見上げました

境内北側から見ました

お百度石があります

参道石段を上がりましょう

石段上から見ました

水盤です

拝殿建物に由来が掲げられています




本殿です

境内社です

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福岡県直方市、植木「花ノ木堰の大公孫樹」(県指定天然記念物)です!!

2018-12-19 06:41:46 | 巨樹・大木
花ノ木堰は、直方市役所の北北西約4kmのところ

九州自動車道とJR九州新幹線が遠賀川を渡るところで

遠賀川に西側から合流する支流の犬鳴川に設置された堰です

堰の近く川の左岸側堤防脇に大公孫樹が在ります

堤防道は狭いので、河川敷に下りて

大公孫樹の東側に車を止めさせて頂きました

堤防道路からイチョウの樹冠を見ました


堰堤とイチョウです、河川敷の南側から見ました

南側河川敷から

東側から

堤防脇に上がって南側から

北西側から

説明版です
  花ノ木堰の大公孫樹(福岡県指定天然記念物)
 この大公孫樹は、樹齢千年と推定され、遠賀川土手
にある公孫樹の中でも大きなものです。昭和35年、
福岡県天然記念物に指定されました。
 昔は、木屋瀬と植木の間を船で渡るための渡し場が
あった場所で、赤間街道が通っていました。また、筑
豊の石炭を運搬していた五平太船の船頭たちに、川を
上下する際の目印としても親しまれていました。
 大公孫樹は、胸高周囲8,3m、根回り17,6m
樹高28,4m、枝張り東西25,4mと大変大きな
ものです。また、幹からは大小10余の乳瘤(柱状の
瘤)が垂れ下がり、先端が切り取られている瘤もあり
ます。瘤はその昔、母乳の分泌に効果があるといわれ
ていたため、武乳の出ない母親たちの民間信仰の対象
になっていたことの名残りです。
 鞍手・遠賀地区の田ぼを潤す山田川用水を取水する
ため、明暦2年(1658)から花ノ木堰の築造が始
まりました。堰は何度も改修され、昭和51年3月に
現在の花ノ木堰が近代的可動ゲート(水門)として完
成しました。大公孫樹の南西側の土手には、堰の縮小
模型が所在します。 



猿田彦大神が祀られています

花ノ木堰堤です

花ノ木堰の記念碑です
  花ノ木堰
 遠賀の沃野は紀元前の昔、古代日本人の狩猟時代から
農耕の新しい転位をもたらした。遠賀川式土器にはじま
る弥生時代の水稲文化から発祥した地である。
 雨が降りつづき遠賀川が洪水になると。堤防の水嵩を
見守り。日照りがつづいて犬鳴川の水が涸れると、火を
焚いて慈雨を乞い、八木山の地肌が傷めば、植林をして
水源を庇った。
 人命と財産を注いで、厳しい自然と闘ってきた。祖先
の血と汗の鼓動が、堰の川底に脈々と息づいている。
 花ノ木堰が創建されてから318年の時が流れた。遠
賀川の慈久の流れは、今日も流れる、明日も流れる。
 題字 衆議院議員 三原朝雄書
 碑文 伊藤虎彦撰 小田隆一揮毫



イチョウの歌碑です

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福岡県水巻町、立屋敷「八剱神社の大イチョウ」です!!

2018-12-18 06:36:35 | 巨樹・大木
立屋敷地区は、水巻町役場の南西約1kmのところ


国道3号線から、遠賀川右岸堤防上を走る県道73号線に入ると

間も無く堤防の側に八剱神社が鎮座します

参道脇に車を止めさせて頂きました



遠賀川の右岸堤防上に案内板が有ります堤防上の夫婦銀杏が見えます

堤防を下りた道路が参道です

手水舎です

説明書きです
  八剱神社境内の井戸
 井戸は組合わせでなく、板石を6枚合せ六角形をして、
古い様式をみせている。
 深さは15尺から20尺くらいで生活の基本的な設備だ
けに、見事な行程の美しさを示している。
 立屋敷遺跡から発掘された井戸側をみてもあの時代に既
に井戸が掘られていたことが証明される。
  手洗い石
 明治7年(1874年)、戸長(大庄屋)、副戸長(庄
屋)、保長、13名連名で八剱神社の献納




目的の大イチョウです、南東側から見ました

狛犬です


拝殿です

本殿です

由緒です
  八剱神社由緒
主祭神  日本武尊・砧姫命
合祀神社 保食宮・天津神社・国津神社・天満神社
     多賀神社・宮地嶽神社・貴船神社
境内社  月読神社・馬野神社・天照大神社・猿田彦神社
由緒
 第12代景行天皇の御代、日本武尊は筑紫の熊襲征伐の
途次、この地にて砧姫を娶られた。尊が東国征伐の帰途、
崩御されたのを聞き、尊の仮宮跡に社祠を築き「御館大明
神」として祭るを当神社の起源とする。後に「八剱大明神
」と改称。
 文治元年(1185年)山鹿城主、山鹿秀遠が、社殿を
造営、その後も、尚武の神として、大内、小早川、黒田、
と城主、国主により5度、社殿は造営された。
 当神社は元は、水巻の庄数ヵ村の産土神であったが、遠
賀川の改修工事(1628年)により分村、分霊して、今
では立屋敷地区だけの神となっている。
 境内の大銀杏樹は、日本武尊のお手植えと伝承、樹齢千
九百年、県指定の天然記念物で、昔から祈願してこの樹皮
を煎じて飲めば母乳が出ると伝えられ「乳の神様」と近郷
はもとより遠方からも多くの参拝があり、今も祈願者があ
る。
 社宝として、壇の浦の源平合戦の戦勝祈願に、山鹿秀遠
が奉納した県内最古の「木造の狛犬と随身像」があり、共
に町の文化財に指定され、「水巻町歴史資料館」に展示さ
れている。
 社殿内の一対の大型絵馬は、天保11年(1840年)
近隣の20ヵ村で祈願奉納したもの、裏面に作成経過が詳
しく書かれ民俗資料としても、貴重なものとされている。
 境内のチシャの木は県内第三の巨木で町の指定文化財で
ある。
 合祀の、保食宮は古来より、五穀豊穣祈願の郡宗社であ
った、寛文10年(1670年)蝗害発生の際、当村の蔵
富吉右ェ門が「この神のお告げ」を受けて、鯨油を駆除剤
に使い害を免れたと人々に伝えた、その後九州はもとより
西日本一帯までも拡まった、これが日本農業の害虫防除の
始まりとされている。
 この御神徳により、享保17年(1732年)黒田継高
公の命で堤防の上の二本の、夫婦銀杏樹は当時の境内樹で
ある。



石碑です、創祀千九百年祈念です




拝殿前から

南側根元から見上げました


説明版です
 福岡県指定天然記念物
   八剱神社の大イチョウ
所在地   福岡県遠賀郡水巻町立屋敷3丁目13番30号
所有者   宗教法人八剱神社
法量    樹高 22,26m、幹周囲 9,7m、
      推定樹齢約1900余年
指定年月日 昭和53年(1978)3月25日
(伝説・由来)
 イチョウは2億数千万年前に出現し、最盛期には15種も
ありました。気候の変動などでほとんどが絶滅してしまい、
現在ではアジア地域に一種類しか自生していません。八剱神
社の大イチョウは雄株の古木で、神社の由緒には、日本武尊
が熊襲征伐の時に立屋敷に立ち寄り、讒言により都からこの
地に逃れてきた砧姫という娘と結ばれて、その証として植え
られたものとして記されています。
 江戸時代の地誌「筑前國續風土記拾遺」に巨木として記さ
れ、その後、明治45年(1912)、境内の東側に東久世
通禧の筆による「霊樹碑」が建てられました。さらに、大正
3年(1914)の「大日本老樹名木誌」には「日本武尊御
手植ノ公孫樹」として紹介されています。
 ところで、慶長6年(1601)、この周辺の砧姫墓とい
われる小山から鏡などの出土品がみつかり、鏡はその傍らに
お堂を作って祭ったということです。
 イチョウの枝には、気根と呼ばれるこぶがあり、母の乳房
に似ていることから、皮を煎じた汁を飲むと母乳の出がよく
なると伝えられ、昭和30年代までは母娘連れの参拝者も多
く、お礼参りの煎じかすを収めた袋が近くに吊り下げられて
います。
 一方、近年イチョウの遺伝学的な研究によって、同じ遺伝
子をもつものが、韓国慶尚北道亀尾市や島根県大田市などに
所在することがわかり(平成16年段階)、いずれも推定樹
齢600年以上といわれています。
 イチョウがいつごろ中国や朝鮮半島から日本に伝来したの
かは諸説がありますが、その手がかりとなるもので興味深い
ものです。
                  水巻町教育委員会






社殿の東側には月読神社です

立派な石鳥居の天照大神社です

馬野神社です、御祭神は保食大神です

大きな水盤が有りました

大イチョウの根元の猿田彦神社です


相撲の土俵が在りました

遠賀川の土手上から見下ろしました

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福岡県岡垣町、高倉「高倉神社の綾杉」(県指定天然記念物)です!!

2018-12-17 06:36:05 | 巨樹・大木
高倉地区は、岡垣町役場の西南西約2kmのところ

県道288号線を南へ入ると、西向きに高倉神社が鎮座します

神社の北側入口に駐車場が有りますので利用させて頂きました


神門です

手水舎です

境内には相撲の土俵があります

高倉神社由緒です

由緒書です
 高倉神社御由緒
御祭神 天照皇大神・大倉主命・菟夫羅姫命
 當社は国史所載の古社にして第14代仲哀天皇8年正月
己卯朔  筑紫に行幸し給ひし時、岡の縣主の租熊鰐周防
姿歴浦に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入ら
むとし給ふ。時に神異あり天皇勅して、挟抄者倭國菟田の
人伊賀彦命を祝部としめ給う、神功皇后摂政2年5月午の
日に、この地に神祠を建て神田千町を以って定めらる。即
ち大倉主命、菟夫羅姫二神の本宮なり。
 古来武人の崇敬厚く年中3度の大祭には、在廰の官人を
して祭儀を監察せしめられ、武家執政の後も検使を遣わし
て祭儀を授けせしめらき。天文5年九州探題大内義隆公社
殿の造営ありしも、永禄2年大友宗麟の兵火にかかり、壮
麗なりし社殿も貴重なる社宝と共に鳥有に帰せしが、天正
15年国主小早川隆景公之を再建、慶長18年黒田長政公
梵鐘及び鳥居の献納あり、以来歴代の国主・神田・神山を
寄進して、崇信の念珠に厚く、宝暦元年旧遠賀郡の惣社と
して定めらる。
 明治5年11月郷社に列せられ対症年に縣社に昇格す。
現今の神殿、幣殿は明治9年旧遠賀郡の造営によるものに
して、古は神傳院、千光院、總智院、勝業院、正覚院の6
坊あり又社家、五家、巫女四家ありしも、明治初年同時に
廃せらる。
 境内には御神木として、杉、楠、松、楓、柳の5樹あり
しが、今は神功皇后御親栽と傳えられる綾杉と楠のみ残せ
り。
  史蹟
伊賀彦命古墳・綾杉・大楠(縣重要文化財指定5本)




石段を上がると直ぐに拝殿です

左手に綾杉が見えています


本殿です

拝殿前左手に「綾杉」が在ります


拝殿前から


説明版です
 高倉神社の綾杉
   所在地 岡垣町大字高倉 高倉神社内
 社伝によると神功皇后が三韓征伐のときに自ら
植えられたといわれています。
 その際苗木を逆さまに植えられたので「逆杉」
とも呼ばれ神木として崇められてきました。
 昭和45年に原因不明の火災により幹の空洞部
分が黒焦げになったといわれています。
樹高    10,0m
胸高周囲   5,7m
樹齢    700年(推定)
県指定文化財 昭和38年5月指定
  平成15年3月   岡垣町教育委員会



幹の真中に祠があります

綾杉明神祠の由緒です
 この綾杉は、神功皇后が三韓征伐より無事凱旋
され、お礼まいりの際、御手植えされた杉であり
ます。その時サカサマにお植えになったので一名
サカスギとも云い伝えられています。
 その時代から千六百年を経た杉ということにな
りますが、永禄2年、今から四百余年前、有名な
織田信長の桶狭間の戦いの前の年にあたりますが
当時の九州豊後の大名大友義鎮(宗麟)によって
焼討ちにあい、拝殿宝物などすべてを焼失しまし
た、幸いに綾杉のの一方の樹皮が生きのこり、枝
葉が出て、現在のように成長しているのでありま
す。
 従って中は空洞になり、今でも焼けた幹が残っ
ています(昭和45年不審火により再度炎上した
ものを平成10年に保護した状態です)。
 社殿改築の際、地ならしをしたので相当地に埋
まっています、昭和38年に県の重要文化財に指
定されました、もともと綾杉というのは杉の種類
で、普通の杉の葉と違い、刀形をして枝の内側に
まきこんだ葉をつけています。
  平成14年12月吉日  高倉神社社務所 



拝殿脇から見ました


結界の中に

神の木こいのき 幸福の木だそうです




恋の木社の拝殿なのでしょうか、五円玉を形ちどった「御縁」の石碑があります


本殿東側の境内社です、各祠には六柱づつの神様が祀られています

参道石段右側の杉の大木です

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