ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

秋田県由にかほ市、中三地「三日市稲荷神社のケヤキ」です!!

2022-07-31 18:25:20 | 巨樹・大木
 中三地地区は、にかほ市役所の北東約7kmのところ

 国道7号線を北へ、日本海東北道の金浦IC入口を過ぎた国道7号線のインターチェンジを下ります

 県道290号金浦小出線を右(東)へ小出方面へ道成に進みます

 白雪川を渡った十文字信号の北東側集落が三日市集落です

 県道から集落の東端の道を北へはいると三日市児童遊園地が有ります
 
 三日市児童遊園地脇に車を止めさせて頂きました

 遊園地の南西側に目的のケヤキの樹冠です

 北向きに社が鎮座します

 稲荷神社です

 御祭神は八幡大神と正一位稲荷大明神のようです

 社の右側からは、幹の一部しか見る事が出来ません

 社の裏側に回ってようやく太い幹を見る事が出来ました、目通り幹囲5.3mの巨木です
 
 *境内には説明版等はありませんでした

 北西側から見ました

 では、次へ行きましょう

 
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秋田県にかほ市、前川「前川のタブノキ」(県指定)です!!

2022-07-31 06:29:11 | 巨樹・大木
 前川地区は、にかほ市役所の北北東約3kmのところ

 国道7号線を北へ、道の駅象潟ねむの丘を過ぎて右側最初の交差点を右(東)へ

 JR羽越本線の踏切を渡ると道なりに北へ進みます、右手には「九十九島」が見えています

 さらに進むと工業団地の中へ、TDKの工場の先を右(東)へ

 突き当りの変形十字路を直進すると、

 田んぼの中の交差点に

 案内板です、確認しましょうちょうど天神女沼の北岸近くです、ここには天神男沼(北側)と女沼(南側)の大きな沼が南北に並んでいます

 交差点の北側は田んぼばかりです

 南側には九十九島が見えます

 ここも直進します

 クランクしながら砂利道を南東側へ進むと、右手に駐車スペースが有ります  

 天然記念物標柱が建っています、「秋田県指定天然記念物 前川のタブノキ」です

 ここから幅の広い遊歩道??林道??を進むます、下草は森の中なので草丈が短いので助かりました

 間も無くタブの大木が見えて来ます

 目通り幹囲3mほどのタブノキです、目的のタブノキはもっと大きいはずです

 更に先へ進むと

 大きな幹が見えて来ました

 目的の前川のタブノキです(北東側から)

 説明版です
 秋田県指定天然記念物
   前川のタブノキ
    指定年月日 昭和49年10月19日
    幹周り 550cm
    樹高  約20m
    推定樹齢 約600年
 タブノキはクスノキ科の常緑高木。暖地性で主に本州以南の沿岸部に生育している。葉の表面は緑色で光沢があり裏面は灰白色をしている。5月から6月に黄緑色の花を咲かせ、果実は扁球形、秋に熟して黒紫色になる。
 この地域は、対馬暖流の影響により秋田県の中でも温暖なことから、タブノキが多く分布しているが、この「前川のタブノキ」は、北限域に生育するタブノキの中では最大のものである。
 ここから南に約2kmはなれた蚶満寺境内にも幹周り4mを超えるタブノキの巨木が存在するほか、市内のタブノキ林2か所が県指定天然記念物に指定されている。
  *蚶満寺のタブノキは前々回紹介させていただきました

 西側から

 南側から

 東側から

 北側から



 天神女沼畔です、蓮の花が沢山咲いているのが木の枝の間から見ることが出来ました

 では、次へ行きましょう



 

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秋田県にかほ市、象潟町象潟島「象潟島めぐりコース」(国指定天然記念物・名勝)後編です!!

2022-07-30 18:31:20 | 文化財・寺社
 にかほ市役所の北約2kmのところ

 国道7号線を北へ、道の駅象潟ねむの丘の手前を右(東)へ入り

 蚶満寺の駐車場へ入りました

 では、島めぐりに行きましょう

 説明版です
 九十九島(くじゅうくしま)
  鳥海山の岩なだれがつくった大地
 鳥海山はおよそ60万年のあいだ活動を続けている火山です。
 今から約2500年前、鳥海山の山頂が大きく崩れ、大量の土砂が流れくだり海を埋め立てました。
 その後、このあたりは海とつながる浅い湖となり、たくさんの小島が浮かぶ風光明媚な土地となりました。
 しかし、1804年に象潟沖を震源とするマグニチュード7の大地震が発生し、象潟一帯は約2m隆起し、湖は一夜にして陸地と化しました。
 象潟は火山活動や大地震といった地球の営みの痕跡が残る貴重な場所として国の天然記念物となっています。
  なぜ芭蕉は象潟を目指したのか
 江戸時代に活躍した俳人・松尾芭蕉(1644~1694)がのこした紀行文「おくの細道」その旅の最大の目的地は宮城県の松島と象潟だったといわれています。
 江戸時代の象潟は、芭蕉が尊敬する西行法師や能因法師などが和歌に読み込んだ名所(歌枕)として知られていました。
 「おくの細道」紀行は全行程約2400km、日数約150日をかけて東北、北陸を巡って大垣にいたる長い旅でした。
 6月に松島を訪れた芭蕉はその後、平泉、山寺、酒田などを経て8月1日に象潟に到着します。天候は雨でした。
 芭蕉は象潟の情景を「松島が笑うがごと、象潟はうらむがごとし」と、松島と対照的な印象を持ち、「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んでいます。
 松島は、丘陵地が沈んでできた「溺れ谷」という地形です。波に削られて島の岩肌は白く、晴れた日はとても明るい印象を受けます。
 一方、象潟の九十九島は鳥海山が崩れてできた「流れ山」で、そこには鳥海山の溶岩が露わになっています。
 芭蕉が見た雨の象潟は、松島の明るさと対照的に悲しげな美女を連想させる風景に映ったのかもしれません。
 松島と象潟、成り立ちが違うふたつの地に芭蕉は引き寄せられたのでした。



旧参道へ戻って来ました、案内板があります

 1⃣蚶満寺です

 正面に駒留島です


 どの木も立派な黒松です、中には目通り幹囲3.9mの大木もあるそうです

 左に進むと大岩があります

 3⃣駒留島(北側)です

 右手に鮓蓋島です

 大きな「史跡名勝 天然記念物 象潟」の石碑です

 右手に見えるのは、鮓桶島です

 遊歩道左手に「みのわ島」のマツです

 上堂ノ森です



 4⃣下堂ノ森です



 右手に鮓桶島です



 5⃣弁天島です

 奈良島への遊歩道は草刈りされていないので戻ります

 説明版です
   天然記念物 象潟
 およそ2500年前に鳥海山が大きく崩れて岩なだれが発生し、海に流れ込んだ岩の固まり〈流れ山〉は多くの島々となり、やがて島々をかこむように砂嘴が発達して一帯は入り江となった。
 島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として象潟は広く知られることとなった。
 しかし、文化元年(1804)6月の大地震によってこの地域は隆起して陸地となり、往古の潟は一変して現在の稲田と化したのである。
 象潟は、火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録として学術上の価値が極めて高いため、昭和9年1月22日、国の天然記念物に指定された。
   文部科学省
   管理団体 にかほ市

 では、次へ行きましょう
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秋田県にかほ市、象潟町象潟島「蚶満寺のタブノキと島めぐりでマツ」前編です!!

2022-07-30 06:27:20 | 巨樹・大木
 象潟町象潟島地区は、にかほ市役所の北約2kmのところ

 国道7号線を北へ「道の駅・象潟ねむの丘」の手前右側に丸万商事のガソリンスタンドがあります

 この北側の通りが蚶満寺の参道(新参道・西向き)です

 JR羽越本線の踏切を渡って、参道右手(南側)の駐車場に入ります


 象潟島めぐりコースは左です

 蚶満寺境内案内図です、タブノキは本堂脇を通った北東側にあるようです


 皇宮山 蚶満寺です(新参道入口)


 芭蕉像です


 西施像と説明石碑です
  西施(中国四大美女の一人・紀元前502~470年頃没)
 中国の春秋末期時代、越国苧蘿村(今の浙江省諸墍市)の人。
 呉、越の両国が「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれました。
 越王勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王に献し、呉王の心を乱し、政治を怠たらせる政策を立てた。
 西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。
 後、呉国を滅ぼし会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。
 救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人松尾芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。
 その句が、「奥の細道」に見れる次の句である。
    象潟や 雨に西施が ねぶの花
 この句が縁で、象潟町が平成2年から、平成17年からはにかほ市として西施の故郷中国浙江省諸墍市と友好関係を深めています。
   にかほ市
   象潟町日中友好協会


 ネムノキの花です


 芭蕉像の北側の境内の松です、目通り幹囲3.6mの黒松です


 旧参道です(北西向きですがJR羽越本線の線路で遮られていますが道の駅の前まで通じていたようです)

 電車が通過するところでした(駒留島手前の遊歩道から)


 山門の仁王門です

 見事な彫刻があります


 山門を潜ると左手には大きなケヤキの木が見えました

 右手にはお堂です

 六地蔵様です

 説明版です
  歌枕の地「象潟」を守った、蚶満寺二十四世覚林和尚
 象潟は、平安時代の頃から八十八潟九十九島の風景を、能因法師・西行法師が歌に詠んだ歌枕の地として広く知られ、風流人にとっては、憧れの地であった。
 江戸時代には芭蕉・一茶など名の知れた文人墨客が数多く来訪した。しかし、文化元年(1804)の大地震で潟底が隆起し、陸地に変貌してしまった。
 経済的に苦しい本荘藩は、象潟の景観保持の方針を変更し、島々を崩して新田開発に着手した。
 蚶満寺は古くから象潟を寺領とし維持管理の任にあった。二十四世覚林和尚は、寺領に対する不当な行為を改めるよう、嘆願書を送り、繰り返し交渉したが、開田は続けられた。覚林の奔走は続き、蚶満寺を閑院宮家の御祈願所とすることに成功し、宮家の権威を後ろ盾に開田を阻止した。藩は藩命に背いたとして、蚶満寺に理不尽な行為をした。
 覚林は、身の危険を感じ、上野の寛永寺に逃れたが、謀られて捕らえられ本荘に送られた。牢に入れられること4年5か月、冬の寒い日に牢死したという。
 覚林が命と引き換えに遺した島々と風景は「象潟」として国の天然記念物・名勝に指定され、往時を偲ばせている。この歴史と覚林和尚の功績を忘れず、感謝報恩の心で、語り伝えていくことを誓い、ここに記す。
   平成29年7月25日
   覚林和尚を顕彰する会
 


 位牌堂です

 左に本堂です

 鐘付堂(鐘楼)です


 本堂手前を北側の墓地の先には、袖掛地蔵尊と神功皇后袖掛けの松跡です

*神功皇后(西暦169年~269年)仲哀天皇の后で、応神天皇の母です。日本書紀では「気長足姫尊」と記されています。
 記述では、主に九州や関西、そして三韓征伐の朝鮮半島あたりが出て来ます、しかし、象潟まで来ていたとは知りませんでした。


 墓地はら戻って庭園に入ると正面に目的のタブノキです(北西側から)

 南西側から

 庭園端から

 北側から、目通り幹囲4.7mの大木です


 木登り地蔵ですが解かりずらいですね~

 木登り地蔵の有るタブノキです


親鸞聖人御腰石です

北条時頼公のつつじです(北条時頼は、1227~1263、鎌倉幕府5代執権です)が、ここまで来ていたのでしょうか

 では、戻って島めぐりに行きましょう
 



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秋田県にかほ市、象潟町横岡「中島台RCの森・あがりこ大王」(森の巨人)です!!

2022-07-29 18:29:35 | 巨樹・大木
 象潟町横岡の中島台レクレーションの森は、にかほ市役所の東南東約18kmのところ

 県道58号線を東へ道なりに鳥海山の北側の山裾を進みます

 浜道地区の小滝信号を左(北東)へ鳥海グリーンラインとなって進むと

 県道298号線との交差点を右(南東)へ県道58号線を更に進みます
 
 右手に見えていた鳥海山が雲に隠れてしまいました

 標高460m坂道を登り切った先はゲートが閉まっています、右に駐車場があります

 ここが森への入り口です

 にかほ市近郊マップです

 遊歩道です

 案内板です
   鳥海自然休養林
    中島台地区
 自然休養林は、多くの方々に健全なレクリエーションの場として豊かな自然に親しみながら、のんびりと楽しんで、いただこうと指定したものです。
 中島台地区は樹幹の屈曲したブナの奇形木が多く、大小の転石、湿原、滝、、渓流などが加わり、さながら大自然庭園のような森林景観が見られます。
 おたがいに、この貴重な自然を保存し、楽しいレクリエーションの場とするよう心がけましょう。
 なお鳥海自然休養林は、この地区と祓川地区にわかれております。
   東北森林管理局 由利森林管理署
 *あがりこ大王まで所要時間41分となっています

 国有林からのお願いの表示版に「あがりこ女王」への説明があります、獅子ヶ鼻湿原からの遊歩道を整備しました

 管理棟の脇に保御活動協力金の受付です、早朝の遊歩道への入場者には熊よけの鈴を着けるように案内があります

 遊歩道を進むと分岐です右へ進みます

 遊歩道は木道になっていますが、滑り止めの横木が邪魔で歩きにくいです

 緩くのぼりながらブナの根際を廻って進みます

 奇形のブナが沢山見られます、このあたりから沢音が大きくなってきます

 橋が見えて来ました

 案内板です、右へ

 橋を渡ります

 下流側

 上流側です

 橋は丸太で出来ています

 橋から進みます

 一段上がって

 沢沿いの一段上を先へ進みます

 先に案内板が見えて来ます

 ここを左ですね

 タマアジサイが綺麗です

 間も無く大きな幹が見えて来ました

 「燭台」と呼ばれるブナの巨木です

 特徴的な枝を伸ばしています

 遊歩道の反対側(右側)に説明版です  
   燭台
 奇形巨木ブナ「あがりこ大王」と見間違うほどの大きな奇形ブナ。
 太い幹と、幹から立ち上がった枝の形が西洋のロウソク立ての形に似ていることから「燭台」と名付けられました。
 また、右側の枝が腕のように立ち上がり、それがニンフ(森の妖精)の座れるような形になっていることから、別名「ニンフの腰掛」とも呼んでいます。
   象潟町 由利森林管理署
*「右側の枝が腕のように立ち上がり」は、背を向けて見ている方向になりますね

 説明版前から見ました

 遊歩道奥側から

 更に奥から
 
 先へ進みましょう

 このあたりがブナ林の中心部のようです、周りが高い窪地のような所です

 炭焼き窯です

 説明版です
   炭焼き窯
 ブナ林を利用した炭焼きは、江戸時代末期より行われてきました。
 現在、中島台レクリエーションの森では、炭焼窯跡が26個発見されていますが、中でもこの窯は今でも使用出来るほど完全な形で残ています。
 この地域では、一度伐採したブナが萌芽し成長すると再び伐採(90年位のサイクルで)しましたが、再度萌芽するように何本かは残して切ったことが明らかになっており、炭焼きがブナの奇形の原因との説がもっとも有力になっています。
   象潟町・由利森林管理署
*標高540m付近です

 炭焼き窯の前から「あがりこ大王」が見えています

 倒木の脇を進みます

 目的の「あがりこ大王」です

森の巨人たち100選の表示版です
  NO20「あがりこ大王」
 ■樹種 / ブナ
 ■推定樹齢 / 300年以上 
 ■樹高 / 25m
 ■幹周 / 7.62m
 林野庁 / 森の巨人「あがりこ大王」を保存する会
 巨樹・巨木保護中央協議協

 説明版です
   あがりこ大王
 全国に数ある巨樹・巨木の中から「森の巨人たち百選」に選定された”あがりこ大王”は、中島台レクリエーションの森の主ともいえる奇形を誇り、幹周は7.62mで奇形ブナでは日本一の太さです。
 ”あがりこ大王”の命名は、幹が上がったところで、子に分れている形から名づけられました。



 周りの木道を右回りに進みます

 北側から

 北東側から

 東側から

 南東側から

 南側から

 南西側から

 西側から
 

 雨が少し当たって来ましたので、急いで戻ります

 駐車場へ着くころから小雨になりましたが、本降りにならなくて良かったです

 では、次へ行きましょう

*秋田県緑化委員会の情報誌「もりのかぜ」Vol2の表紙に載っていました
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秋田県にかほ市、象潟町横岡「横岡神明社のシナノキ」(市指定)です!!

2022-07-29 06:28:08 | 巨樹・大木
 ここからは2022年7月17日取材分です

 にかほ市は、秋田県の南西端日本海に面して、平成17(2005)年10月1日に由利郡内の仁賀保町・金浦町・象潟町が新設合併して発足しました。

 象潟町横岡地区は、にかほ市役所(象潟庁舎)の南東約6kmのところ

 県道58号象潟矢島線を道なりに鳥海山北部山裾へ進みます

 早朝に見えていた鳥海山山頂は雲が掛り始めています

 浜道集落で県道58号線は北へ鳥海グリーンラインとなります

 まっすぐに県道131号線鳥海ブルーラインを南へ進みます

 間も無く「奈曽の白滝」信号を左(東)へ坂道を登っていくと横岡地区です

 消防の屯所と横岡自治会館前をすぎた道路脇に車を止めて

 ここを右へ歩いて行きます

 横岡バス停です

 道路左手に鳥居が見えて来ました

 ここを左へ

 参道です、西北西向きに神明社が鎮座します

 鳥居です

 上郷村横岡神明社の社號標です

 手水舎です

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 拝殿前参道から右に分かれた、社殿の南側の社への参道になっています

水盤です

 南側の社です

 神明社社殿との間に目的のシナノキです

南側から

 社の脇(南東側)から

 文化財標柱です
   シナノキ(一本)
 横岡神明社境内にあるシナノキの根元の太さは5m以上、根回りは11m以上ある。
 シナノキの樹皮の繊維は、昔から布、縄、製紙などの原料として利用されてきた。
 このシナノキは県内代表的な巨樹である。
 
 神明社には南側にも参道入口があります

 もともとはこちら側がメインの参道だったようです

 村社 神明社です

 石碑が並びます

 鳥居です

 天然記念物標柱です「にかほ市天然記念物 シナノキ」となっています

 では、次へ行きましょう
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新潟県阿賀野市、「国指定瓢湖鳥獣保護区の子供達」です!!

2022-07-28 18:35:12 | ドライブ
 2022年7月16日取材分です、秋田県への途中で寄ってみました

 「瓢湖」は阿賀野市役所の東北東約1kmのところにある湖です

 「国指定瓢湖鳥獣保護区・ラムサール条約湿地」に訪れるのは久し振りです

 冬場に白鳥を見に行ったり、春の桜のシーズンのこともありました

 夏はやはり蓮の花の時期です、まだ早いかなと思ってましたが、咲いていましたよ

 瓢湖白鳥会館です、駐車場は西側にあります

 白鳥のオブジェの歓迎門です

 瓢湖です、冬と違ってカモも少ないですね





 蓮の花が咲いています



 蓮は朝一番に咲きますので、少し遅い時間でしたが綺麗な花を見ることが出来ました


 カルガモの家族です、小さなヒナ達が頑張って追っています

 天然記念物 水原ハクチョウ渡来地の標柱です



 羽などの怪我で帰れない白鳥が湖の北西岸に集まっていました

 蓮の葉の上を歩くバンです





 バンの親子が仲良く泳いでいました

 東側の湖の岸辺でも白鳥が休んでいました

 あやめ園は花が終わって手入れ待ちです

 では、秋田県を目指して出発しましょう
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新潟県佐渡市、中興「大佐渡スカイライン・白雲台」です!!

2022-07-28 07:25:50 | ドライブ
 今回の佐渡旅行最後になりました

 大佐渡スカイライン・白雲台は、佐渡市役所の北北西約7kmのところ

 国道350号線を北へ、新保八幡神社前にスカイライン入口信号があります

 ここを左(北西)へ、新保ダムやゆずろ公園をすぎるまでは緩く登ります

 航空自衛隊佐渡分屯基地を過ぎると急に坂がきつくなります

 航空自衛隊佐渡分屯基地から大佐渡スカイライン・白雲台までの

 大佐渡スカイライン東側は航空自衛隊の管理道路ですので注意しましょう

 (西側の佐渡金山から白雲台までは、良い道ではないようなので止めました)

 きつい登りを進んで来ました、道路左の駐車場広場に入ります


佐渡の地図です、白雲台の位置です

各観光地までの距離が表示されています


 白雲台周辺マップです

 金北山までは航空自衛隊の許可が必要ですが1時間半の距離です

 妙見山のレーダーサイトです

 徒歩約30分で行ける距離です



 交流センター白雲台です

 ソフトクリームを買って、国中平野の眺めを楽しみました


 両津湾方面です、今日も弥彦山は見えません

 両津港をアップで

 加茂湖と佐渡空港滑走路です

 佐渡クリーンセンターの煙突と佐和田中学校です

真野湾にそそぐ国府川下流部です、県道194号線の落合橋と生コン工場や国際佐渡観光ホテル八幡館がみえました


 真野湾方面です

 では、両津港へ戻ることにしましょう

 両津港です、本日最終便に乗ります、今回は「おけさ丸」です

 (前の時間の便(ときわ丸)は、数日前から予約で一杯でした)

 乗船受付を済ませて、待ち時間に、ターミナルビル「シータウン佐渡」で早めの夕食にしました
 
 おおきな「トビッキー」です、これは動きません(トキの森公園保護センターではうごいていましたが・・・)

 佐渡の観光地ですが・・・半分もいっていませんでした

 ターミナルビルから日が傾いてきた金北山です
 
 そろそろ車に戻って、おけさ丸の到着を待ちました

 

 おけさ丸が入港です

 前のゲートが開いて、乗用車・普通トラック・大型バス・大型トラックなど出て来ます、満載だったようです

 乗り込みましょう、新潟港から埼玉まで帰るため、2等客室で寝て行きましょう

 では、佐渡の旅はお仕舞いです、また、近いうちに行ってみたいと思います
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新潟県佐渡市、相川「国指定佐渡金銀山遺跡・宗太夫抗」です!!

2022-07-27 19:40:39 | ドライブ
 相川地区は、佐渡市役所の西約10kmのところ

 国道350号線から県道31号線へと西へ進んで

 中山トンネルを貫けると相川の街です

 街の手前で県道31号線は右(北)へ坂道を登って行きます

 短い道遊トンネルを貫けて右へ上って行きます

 道遊の割戸が見えて来ます

かつての鉱石運搬のトロッコのトンネルのようです

 道遊の割戸が大きくなってきます


 大切山抗跡です(ガイドツアーで入れるようです)

 観光施設となった佐渡金山の坑道入口前駐車場は、観光バスや観光客のレンタカーが沢山止まっています


 国指定史跡 宗太夫抗説明版です
   宗太夫抗
 宗太夫抗は、坑口の高さが約3m、幅2m、坑道の断面が大きい江戸初期に開抗された大型坑道である。
 鉱石の運搬機能と採掘技術発達した1690年代(元禄時代・初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。
 部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気抗、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなど、江戸期の旧抗の諸条件を完備していて、大型の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。
 脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」抗の一鉱区として開発された。
 平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。


 今回は、一番短い(約30分)コース、右の宗太夫抗へ入ります、他には約40分の道遊抗(明治期の展示)やガイドツアーの無名異抗や大切山抗への山師ツアーなどもあります


 天井に丸太が組まれた階段を下りると



 説明版が並んでいます

 更に下ると・・・

 水上輪による水の汲み上げの様子です

 下側からも上げています、水上輪は、江戸時代前期の承応2年(1653)に佐渡金山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプです。紀元一世紀頃ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスの弘安したアルキメデスポンプが祖形とされ、これを佐渡金山に伝えたのは、京都(一説には大阪)の水学宗甫と言う人だそうです。

山留大工の仕事は、落盤防止です、佐渡鉱山は固い岩盤で出来ていますが、断層や軟弱な所には、栗や楢の木材で補強していたそうです

穿子たちの出入りあらためです、坑道の出入り口には検問があって、鉱石や物資の持ち出しを監視するとともに、出入りを記録して給与支払いの管理をしていたそうです

ここから上りです

 掛樋(坑内で湧き出した水は、桶で横持ちし、斜面は水上輪を、垂直にはツルベを使い、水平ではこのように樋を使って抗外に運び出した。
 風送り堀子は、気絶(酸欠)を防ぐため、敷(採掘現場)に風を送る唐箕(送風機)を使う様子です


 休息所です、作業は4時間交代で行われ、金穿大工は他の坑内労働者と違って、技術者として処遇されていたので、食事や休憩時間がとれ、蓆の上で横になることもできた



 坑道が深くなると出水量が増えて、ツルベや手桶で湧水をかい出す重労働をしたのが水替人足です、江戸時代後期には江戸や大阪から無宿人が僅か(約90年間で1874人)ではあるが送られてきたようです


 さらに上へいきます

 狸穴は、細い鉱脈をたどりながら、やっと潜れるくらいに掘り進んだ坑道です


 下に見えるのは、鉱脈を掘るための鏨(タガネ)を贈る桶を金穿大工に届けるところです

 坑内の測量風景です

 探鉱抗道の跡です、緑色の凝灰岩の間に白い石英質の部分をタガネやツチで掘り進んで鉱脈を探していました


 金銀山大盛りを願った幕府の役人が行った儀式の様子です、金穿大工が竪に走る鉱脈にタガネを打ち込んでいます

 まもなく出口です

 地上への出口を出ました、正面のお土産屋さんが出口の通路です

 さて、少し奥へ行ってみましょう


 この先は大佐渡スカイラインです




 大立竪(国重要文化財)の保存工事が行われています
  *竪抗(立抗)とは、地下の鉱脈を掘るための垂直坑道(地中エレベータ)。
 日本初の洋式竪抗。明治10(1877)年ドイツ人技師レーの指導で完成。
 当初の深度は165m、地下には50m毎に3段の水平坑道がありました。
  動力:馬力⇒蒸気(1880)⇒電気(1908)
 現在の立抗櫓は昭和15(1940)年完成。平成元(1989)年の休山まで使用。最終深度は352m。
 岩盤をくり抜いた巻揚機室には巻揚機と空気圧縮機が操業当時のまま保存されています。(内部は一般非公開)


 道遊の割戸の裏側が見えました

 では、大佐渡スカイラインの反対側入口へ行きましょう
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新潟県佐渡市、相川「国指定佐渡金銀山遺跡・北沢浮遊選鉱場跡」です!!

2022-07-26 06:30:11 | ドライブ
 相川地区は、佐渡市役所の西約10kmのところ

 国道350号線から県道31号線へと西へ進んで

 中山トンネルを貫けると相川の街です

 街の手前相川中学校入口信号で県道31号線は右(北)へ坂道を登って行きます

 短い道遊トンネルを貫けて左へ下ります

 佐渡奉行所前を下った右手に北沢浮遊選鉱場跡があります

 駐車場に車を止めて、まずは左手の濁川を橋で渡って西側(右岸)から見て行きましょう

 佐渡相川史跡マップです、左下側に相川技能伝承展示館と北沢選鉱場が記載されていて、左が北になっています、

 
 相川技能伝承展示館と濁川の間の通路を通って


 北沢地区施設群です、右が西です
   北沢地区施設群
 北沢地区は、明治期に入り佐渡鉱山の本部組織である御料旭佐渡支庁が置かれて、佐渡鉱山全体の一大拠点となった。
 また、北沢地区では、明治から昭和にかけて、当時最先端の選鉱、製錬技術が実用化されていった。
 このため、北沢地区には濁川両岸の斜面地を利用して、金銀生産ラインの最終工程を受け持つ製錬所や選鉱場などの施設が次々とつくられた。
 特に、昭和12年(1937)以降、佐渡鉱山は国策による増産体制を整えるために、北沢地区にある施設の大改修を行い、昭和27年(1952)までこの施設を使って操業を続けた。
 北沢地区に残る主な施設には、明治期に建設された佐渡鉱山の本部建物(旧御料庁佐渡支庁、後の旧鉱山事務所)や旧北沢青化、浮選鉱所などがある。また昭和初期の増産体制のもと建設された主要施設として、東西約115m、南北約80mの規模を有す北沢浮遊選鉱場、直径50mのシックナーなど巨大な施設がある。
 このほか急斜面の物資運搬をおこなう装置であるインクラインや、各施設に電力を供給したレンガ造の火力発電所、機械部品類の製作・修理を担当した工場跡など、佐渡鉱山の生産システムを支えていた一連の施設群も残っている。



 対岸の選鉱場跡です、右端には発電所跡です


 左側から鉱石を右へと送っていたようです




 左側の廃墟は佐渡金銀山で使用した工具類をつくった鋳造工場跡です
   北沢地区工作工場群
 北沢地区工作工場群は、濁川を挟んだ北沢浮遊選鉱場の対岸に位置し、佐渡鉱山の各施設で使用する機械部品の製造や修理のためにつくられた施設です
 この場所には、明治20年代には、すでに選鉱、製錬施設のほかに、機器製作場や鍛冶場などが設置されていた。
 さらに昭和10年代の大増産時代になると、木工工場や鋳造工場、仕上工場、製缶工場、分析所など複数棟の施設がつくられ、昭和27年(1952)まで稼働したが、時間の経過とともに数多くの施設が撤去された。
 平成20年、明治以降の施設全容を確かめるために発掘調査がおこなわれ、当時の建物の基礎部分が残っていることが判明した。現在の広場は、昭和の大増産時代の建物配置に基づいたものである。




 北側には50mシックナーです
   製材及雑作業場跡・50mシックナー
 手前の製材及作業場跡では、機械部品の原型となる木型用材を製材加工。発掘調査によって、コンクリート製の壁や床、機械の台座などが確認された。
 奥に見えるシックナーは、昭和15年(1940)に完成した直径50mの泥鉱濃縮装置である。濁川上流にある間ノ山搗鉱場から排水された泥状の金銀を含んだ鉱石は、この装置で水分を分離する工程を経たのち、対岸へと送られた。対岸の北沢浮遊選鉱場では、他の金銀原料と一緒に処理されて精鉱が生産された。

 では、左岸側へ行きます、駐車場まで戻って発電所跡前から広場へ行きます



 火力発電所跡です
  北沢石炭火力発電所跡
 この建物は、明治40(1907)年に佐渡で初めて建設された石炭火力発電所跡です。
 500キロワットのスチームタービン1基が設置され、その運転開始により精錬所の蒸気機関が廃止され、電動機に替わりました。
 日中戦争の開戦に伴い、昭和13(1938)年から国を挙げて行われた金の大増産期に1800キロワットに増強されましたが、昭和15(1940)年に大間石炭火力発電所(9800キロワット)が完成したことにより、その役割を終えました。




 選鉱場跡です
   金銀鉱浮遊選鉱場跡
 コンクリート製の基礎は、粉砕した鉱石から金銀鉱物を回収する工場跡です。
 日中戦争開戦に伴い、昭和13(1938)年から国策により始まった金の大増産期に建設され、昭和15(1940)年から稼働しました。
 浮遊選鉱とは、粉砕した鉱石を特殊な薬品加えた水槽の中で浮遊させ、泡に付着させて回収する選鉱方法です。
 この選鉱場は、金銀鉱石に対する浮遊選鉱法を実用化させた施設で、技術史上、世界的にも画期的なものでした。
 その規模は東洋一を誇り、この施設の操業開始により月間7万トンの鉱石処理が可能になりました。
 当時、鉱山での出鉱量は月間約5万トンでしたので、不足分の約2万トンは、相川の海岸に堆積した「浜石」(長年の浸食作用で海岸に流れ着いた鉱石)を採取した補いました。
 鉱石と浜石はトロッコと立坑(垂直坑道)で浮遊選鉱場へ運ばれ、まとめて選鉱にかけられました。
 選鉱場は、昭和27(1952)年、佐渡鉱山の大縮小によって解体されました。


対岸の鋳造工場跡と50mシックナーがよく見えました

*夜にはライトアップされてインスタ映えポイントになるらしいですが~

でhあ、次へ行きましょう

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新潟県佐渡市、真野「真野宮と佐渡歴史伝説館」です!!

2022-07-25 18:29:01 | ドライブ
  今回は、佐渡の歴史を学びに「佐渡歴史伝説館」に来ました

  先日、石抱きの梅」と「真野御陵」に来た時に前を通りました

  では、

  
 「佐渡歴史伝説館」の駐車場へ入りました

 佐渡歴史伝説館への入り口です

 案内図です、まずは西側の「真野宮」へ行きましょう

 真野宮の社號標です

 前の道路から真野宮参道を見ました

 参道の橋を渡ります

 案内板です
  真野宮・順徳天皇行在所遺跡 入口
 真野宮は順徳天皇を奉祀し、菅原道真・日野資朝を配祀してある。
 天皇は在島22年、仁治3年45歳で真野宮(真輪寺)で崩御された。
 大正9年現社殿造営、昭和17年の七百年祭に神域を拡張した。


 手水舎です

 山門です

 拝殿です

 本殿です


 境内の松です、皇太子殿下(現・上皇様)御参拝記念樹です

 北西側から

 本殿北東側に順徳天皇行在所跡があります、職員の方々が草刈り作業をされていました

 文化財の一石五輪塔です、平たい形の五輪塔は珍しいですね~

 右下には、古墳の石室があります

 説明版です
   真野町三貫目沢西古墳(えぞ塚)
 佐渡の古墳は真野町大須付近に25基ある。
 近年の開発で多く破壊されるのを恐れ、真野宮境内に一基を移築したものである。
 佐渡の古墳は横穴式石室の円墳である。
 出土器は、人骨、直刀、鉄・、土器などがある。
 6世紀なかば「えぞ」と呼ばれた人達がこの地に渡来し築かれたという。

 では、「佐渡歴史伝説館」へ行きましょう


 佐渡歴史伝説館への通路にケヤキの大木です

 南側から見ました


 西側が入口です

 右手に広い池があります

 池際に棒高跳び?をする人形です・・・阿新丸(くまわかまる)です
 今から660年程前、阿新丸の父日野資朝は北条高時を討とうとして失敗、佐渡に流され、本間山城兵尉奉宣に監禁された。
 13歳の阿新丸は京都より佐渡を尋ね父への対面を頼んだが叶わず、返事は変わり果てた父の首であった。
 ある霧の晩、父の仇と本間山城守の寝所に忍び、一刀のもとに切りすてたが、それは父の仇ではなく、直接父を切った本間三郎であった。
 城内は大騒ぎとなったが、阿新丸は竹の反動を利用して堀を飛び越えやっと京都に帰ることが出来た。
 後に後村上天皇につかえて中納言にに出世したという。

 入口では、コロナ対策です

 まずは、順徳上皇の第一皇女「慶子女王」です、館内をアンドロイドが、順番に場所を変えながら説明していきます

 上皇が出て来ますよ
 
 黒木御所の時の情報からすると、この様な綺麗な姿だったかわかりませんね~

 次は日蓮処刑の場面です、雷が起こって処刑が中止になったとか

 日蓮の塚原問答の場面です

 次は観世元清(世阿弥)の能を舞うシーンです


 次は、おじいさんとおばあさんが囲炉裏端で話をします、前に子供が聞き入っていますが・・・人形でした

 話に合わせて、右手の紙芝居のようなステージが場面場面で表現されていました

 間にまだまだ場面が隠れていますよ

 佐々木象堂の工芸展示があります、昭和天皇在位60年記念切手の図案にもなった「瑞鳥」です

 お昼時になって、レストランで昼食「ブリカツ丼」にしました

 観光バスで、大勢の観光客が集まって来ましたので、早々に退却しました

 では、次へ行きましょう
 
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新潟県佐渡市、西三川「西三川ゴールドパーク」です!!

2022-07-25 06:36:01 | ドライブ
 西三川地区は佐渡市役所の南南西約15kmのところ

 国道350号線を南西へ真野湾沿いを進みます
  
 西三川に入って国道350号線から県道432号線へ

 間も無く「西三川ゴールドパーク」です

 砂金取りをする為にやってきました

 先日、下黒山地区の稲荷神社へ行った時に前を通りましたね

 道路北側に乗用車用の広い駐車場があります


 横断歩道を渡って・・・

 砂金取り施設「佐渡西三川ゴールドパーク」です

 入場に際しては、手指の消毒と検温、コロナ対策はしなくてはいけませんね~

 入場料を払って、まずは、資料館を回ってみました


 大判小判、延べ棒、工芸品など豊富な陳列や、西三川砂金山の説明などがあります


 中学校の遠足の人達が居なくなるのを待って、砂金取り会場へ

 
 二十人ずつ体験が出来るプールがズラリと並んでいます

 案内されて、先に来ていた男性陣5名と同じプールで砂金取り体験をさせていただきました

 係の女性がまず実演しながらお皿の使い方、砂の分け方などを教えてくれます

 暑い日だったので冷たい水が気持ちよかったです

 さ、実際にやってみましょう

 一回目・・・3粒とれました

 二回目からは、一粒あったりなかったりで・・・

 男性陣が終了時間になり、案内の女性に「そろそろ時間ですよ」と

 最終的には12粒採取することが出来ましたよ

 では、次へ行きましょう
 
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新潟県佐渡市、羽茂本郷「草苅神社のウラジロガシ」(市指定)です!!

2022-07-24 18:33:21 | 巨樹・大木
  羽茂本郷地区は、佐渡市役所の南南西約18kmのところ

 国道350号線を南へ、小村簡易郵便局を過ぎて

 県道287号線(遠回り)の一つ先(近道)を斜め左へ坂道を下って行きます

 道なりに進んで、遠回りしてきた県道287号線に出ました

 坂を下りながら東へ、羽茂川を渡ってすぐを左(東)へ県道81号佐渡縦貫線です

 県道81号線にはいって直ぐ左に細い橋が羽茂川に架かっています、これが草苅神社参道です


 県道沿いに案内板が出ています


 橋の上から草苅神社の鳥居が見えました

 村社 草苅神社の社號標です

 境内に車を止めることが出来ました


 参道左側には能舞台です

 説明版です
  新潟県指定文化財 (有形民俗文化財)
   佐渡草苅神社能舞台 (平成9年3月28日指定)
 明治初期以前の建築と推定され、農村風景の中に溶け込みながらも堂々とした風格を感じさせる能舞台です。
 舞台は正面入母屋造、背面寄棟造の茅葺で、本舞台と後座からなり、正面の梁には若葉が彫られており、鏡板に松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。舞台以外の施設は一時失われてしまいましたが、近年の修復により地謡座、鏡の間、複式橋掛り、裏楽屋が常設されました。
 江戸時代に始まった演能は現在も継続されており、毎年6月15日の草苅神社例祭に薪能が奉納されています。
   平成25年3月
   佐渡市教育委員会


 文化財標柱です、能舞台と目的のウラジロガシが並記されていま


 神輿舎です

 鳥居です

 手水舎です


 鳥居脇から目的のウラジロガシを見上げました

 つつじのピンク色が綺麗な参道石段です

 石段下から見ました


 ここにも天然記念物標柱です

 石段中段から見ました

 石段上境内から

 狛犬です

 拝殿です


 本殿ですが藪になってしまってよく見えません


 拝殿東側に連理の木です

 説明版です
   連理の木
 樹種 サカキ(本サカキとも言い、暖地性で佐渡にはない木である。)
 連理 二本の木の幹や枝が一つになっているのを言い、男女の仲むつまじい様とされる。
 〇白天楽の「長恨歌」に「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」とある。
 〇また、草苅神社の祭神「素戔嗚尊」が、八岐の大蛇を退治して櫛稲田媛を救け、媛との新居を作られるとき詠まれた御歌に、
    八雲起つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を
  とあって、夫婦相愛の歌、日本最初の和歌といわれる。
     草苅神社社務所

 連理の木を見に行きましょう


 中段の幹が左右から繋がっています
 
 連理の木の上から本殿を見ることが出来ました

 では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、阿佛坊「佐渡唯一の五重塔(国重文)・妙宣寺、雑太城跡」です!!

2022-07-24 06:41:30 | 文化財・寺社
 阿佛坊地区は、佐渡市役所の南約5kmのところ

 県道381号線を南東へ道なりに進み、一宮橋信号で右へ県道65号線で南西へ進みます

 武田地区に入って県道190号線との交差点です、南東側へ県道190号線を進むと

 間も無く北西向きに妙宣寺の山門(仁王門)が見えて来ます



 県道沿いに妙宣寺入口です仁王門前の道路脇駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 前方に仁王門

 右手上に五重塔の上部が見えます

 

 境内案内図です


 石段を上がります、右手に五重塔が見えました

 仁王門です

 立派な仁王(金剛力士)像です


 説明版です
   妙宣寺
 古くから北陸道七ヶ国法華の棟梁で、寛文年中、身延、池上、中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年に立本山と定められた名寺である。
 もとは順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為成(阿 房日得上人)の開基と伝え、初め金井新穂にあったが、嘉暦元年(1326)雑太城主本間

 佐渡配流の時、     日得は深夜ひそかに食物を運び、その危難を救った話は有名である。
 日蓮真筆の曼荼羅、消息文、日野資朝の写経等を蔵するほか、境内にある文政8年(1825)  五重の塔  境内社 である。
  *大部古くなって読めない所が多くなっていますね~


 仁王門を潜ると、右手に五重塔です


 国指定重要文化財 妙宣寺五重之塔の石柱です

 参道は直角に曲がります五重塔説明版です
    妙宣寺五重塔 一基
     新潟県佐渡市阿仏坊
     指定 昭和61年12月21日
 文永8年(1271)佐渡に配流された日蓮聖人に帰依した阿仏坊日得上人を開基とする。
 この五重塔は、文政10年(1827)佐渡相川の棟梁茂三右衛門父子によって建立されたもので、高さ23.1m、初重の総間3.49mの小型の塔で、塔身部が長い。
 この塔は、現在残る江戸時代に建てられた数少ない五重塔の一つで、比較的保存がよく、全体の比率や五重軒の肩垂木などに時代の特色があらわれており、組物に和洋と禅宗様の肘木を混用し、心柱は杉の一本造りで、心柱と四天柱を各層で緊結するなど、独自の手法も見られる。
   平成21年11月
    文部科学省
    本山 阿仏坊妙宣寺

 南側から

 南西側から

 離れてみました

 境内には深い堀があります

 説明版です
   雑太(さわた)城跡
 雑太郷地頭本間氏の戦国期の城跡である、
 築城の時期は6世紀前半ころと考えられ、三郭から成り、現在も土塁・空堀の一部がみられる。
 天正17(1589)年、越後上杉景勝の佐渡支配により、城は廃され、上杉氏代官直江兼続によって城地は妙宣寺に与えられ、現在に至っている。

 山門です

 門を潜ると右手に、日野資朝の墓があります

 説明版です 
   日野資朝の墓
 正徳2年(1325)、後醍醐天皇の側近の日野資朝は倒幕計画が発覚し、鎌倉幕府執権北条高時により、佐渡に流された。
 壇風城に幽閉されること7年、元弘2年(1332)に城主本間氏     資朝を処刑    荼毘にふされ    野山へ葬ったと伝えられる。
 資朝は明治8年、真野宮に合祀され、同17年に従二位を贈られた。
 *こちらも読めない所が多くなっています

 境内には多くの建物が並びます、まずは番神堂です
 法華経守護と当山鎮護の為に各善神を奉祀する。
 1,妙見大菩薩
  北極星の化身といわれ日本国総鎮護の善神
 1,三十番神
  日本国内の主神三十体で毎日の当番守護神
 1、清正公
  法華経信者の代表として昔から諸人の信仰を集めている


 宝蔵です

 祖師堂です、宝蔵・本堂とともに庫裏から廊下で繋がっています

 案内版です
  祖師堂
 明治13年再建(1880)6間(11m)四面三方縁造り、宗門最古の宗祖御木像(文永11年(1274)在銘)並びに、当山開山阿仏坊日得上人、千日尼、捨身供養の御木像を安置する


 本堂です

 案内版です
   本堂
 文久3年再建(1863)12間(22m)四面の大堂で島内最大の堂宇。江戸期本堂建築の様式を今に残している。


 境内右手の庫裏前にはクスノキの大木です


 庫裏前の池にはスイレンとショウブが綺麗に咲いていました

 では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、新穂青木「とのさま杉」(市指定)です!!

2022-07-23 18:33:48 | 巨樹・大木
 ここからは2022年6月22日取材分です

 今日で佐渡を離れますので、お世話になった新穂ダムキャンプサイトのカマドや流しを綺麗にして帰ります
 
 では、

 新穂青木地区は、佐渡市役所の東北東約5kmのところ

 県道65号線が北をを向いて間も無く右手に熊野神社が鎮座します

 すぐ先を右(東)へ進み三叉路を左へ入ると右手にビニールハウスが建ちます

 奥と手前のビニールハウスの間のあぜ道を進むと正面に墓地が有ります

 墓地の奥に目的の「とのさま杉」が在ります
 (新穂ダムキャンプサイトから約2.5kmの近さです)

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 ビニールハウスの間です

 ここを進みます


 墓地の奥に目的の「とのさま杉」です


墓地の入り口に説明版です
  市指定文化財 天然記念物
   新穂青木のとのさま杉
    平成16年3月1日指定
 樹高20.7m、胸高周囲4.4m、枝張り東西20.9m、南北19.5m、に及ぶ天然杉の巨木である。
 中世青木郷を統治した地頭青木殿は、室町時代の最盛期には国見山にまで達する広大な領地を得るが、天正17(1589)年に佐渡を攻めた越後の上杉景勝によって滅ぼされ、「とのさま杉」の根元に墓石一基を残すのみとなった。
 この杉は明治末頃伐採の危機にあうが、青木城四家老の末裔である斎藤家がこの地を買い取り、墓石とともに保護されて現在に至る。
 青木殿の隆盛と凋落を伝える記念物として、天然杉の遺存種として貴重である。
    佐渡市世界遺産推進課文化財室
    平成23年10月1日設置


 望遠レンズで撮影しました

 西側から

 北西側から


 北側の道路から見ました

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