ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

秋田県鹿角市、十和田大湯万座・野中「大湯環状列石」(世界遺産)です!!

2023-07-27 18:45:25 | 遺跡・史跡
 十和田大湯万座・野中地区は、鹿角市役所の北北東約7km、鹿角市役所十和田支所の東北東約4kmのところ

 鹿角市役所十和田支所から国道282号線を南へ、約600mの「上陣馬」信号を左(北東)へ国道103号線です

 道成りに約4.3kmで「腰廻」信号を右(南東)へ入ります

 河岸段丘斜面を約1.5km上って信号を右(南西)へ県道66号線です

 約200mの右側に「大湯ストーンサークル館」が有ります

 駐車場に入りました

 大湯環状列石とは、秋田県北東部の鹿角市米代川の支流である大湯川左岸、標高約180mの台地上に立地し。食料となるサケやマスが遡上し、捕獲できる川の近くであり、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。
 万座(まんざ)環状列石(最大径52m)と野中堂(のなかどう)環状列石(最大径44m)の二つの環状列石があり、いずれも大小の川原石を様々な形に組み合わせた複数の配石遺構を環状に配置し形成されています。
 それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが同心円状に配置されています。また、環状列石の周辺からは、土偶や土版、動物形土製品、鐸形土製品、石棒、石刀などの祭祀・儀礼の道具が数多く出土しています。
 二つの環状列石のそれぞれの中心の石と日時計状組石は一直線に並ぶような配置となっていることから、両者を関連づけて構築した可能性は高いと考えられます。また、この直線上は夏至の日没方向ともほぼ一致します。
 本資産は、定住成熟期前半の環状列石を主体とする祭祀遺跡であり、内陸地域における生業と祭祀・儀礼の在り方を示す重要な遺跡です。

 南西側のまずは万座環状列石を見にいきましょう


 県道沿いの南東側入口を入った所の標柱に案内図です

 北東側に環状列石です

 環状列石を見る展望台(低いですが)があります

 万座環状列石の東側に並ぶ石です

 南側から環状列石の縁を見ました

 掘っ立て柱建物が復元されています

 北側の「五本柱建物跡」を見ました

 西側の木立はクリの木でしょうか



 県道へ戻って南東側の「中野堂環状列石」です

 戻って、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青森県外ヶ浜町、平舘太郎右エ門沢「平舘台場跡のマツ」です!!

2023-07-13 18:30:16 | 遺跡・史跡
 平舘太郎右エ門沢地区は、外ヶ浜町役場の北約16km、外ヶ浜町役場平舘支所の北約3kmのところ

 外ヶ浜町役場平舘支所前から国道280号線を北へ、約2.8kmで国道右手に「道の駅たいらだて」があります


 道の駅の南側の「おだいばオートビレジ」の案内図です、すぐ東側に「台場」が在りますので行ってみます

 道の駅とオートビレジの間を東へ進むと「平舘灯台」です

 南へ進むと、左手に台場跡が在ります

 南側に広い駐車場がありますので利用させて頂いました

 説明版です
  青森県指定文化財
  外ヶ浜町指定文化財
    史跡 平舘台場跡
 平舘台場跡は、嘉永2年(1849年)に弘前藩が構築した砲台である。
 弘化4年(1847年)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸したことを受け、弘前藩が台場を設置した。
 台場の遺構は、やや扇形をした土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が7ヶ所、出入り口が2ヶ所残されている。
 土塁の高さは、約2.3m、幅は概ね10m、土塁内部は南北80m、東西11m程である。土塁には33本の松が植えられている。
 平坦地に造られた7つの砲台を持つ西洋流の台場として重要である。
     外ヶ浜町教育委員会
 *説明版の形が台場の形なのかな



 道路を灯台方向(北)へ戻るように進みます

 南側の砲台への入り口です、大きな松が土塁の上に生えています

 中ほどに「松前街道」の石碑です

 北側から見ました

 北側の台場入口です

 中へ入って北側から南側を見ました、東側に土塁の切れている部分に大砲があったようです

 南側の台場入口で見た松を台場内(東側)から見ました

 南側から、目通り幹囲3.5m(目測)の大木です


 台場の東側陸奥湾沿いを南側から見ました


 遠くに下北半島です

 下北半島の佐井村、仏ケ浦の南側の岩場が白く見えます

 沖を函館方面に客船が通ります

 *直ぐ南側の松並木に「長寿の松」というクロマツの巨木があるようでしたが見付けられませんでした

 では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青森県鰺ヶ沢町、建石町石神「餅ノ沢遺跡見学施設」です!!

2023-07-07 06:29:33 | 遺跡・史跡
 建石町石神地区は、鰺ヶ沢町役場の東南東約8kmのところ

 鰺ヶ沢町役場前から国道101号線の信号を越えて、大間越街道を東へ

 約1.5kmで県道31号線に合流して更に東へ進みます

 道成りに約5.9kmで交差点の右手に石動神社の社號標が建っています

 ここを南へ入って約600mで斜め左へ、約500mで左手に石動神社です

 すぐ先(南東側)の道路沿い右側に「餅ノ沢遺跡」の展示館が有ります

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 南東側から展示館を見ました

 北側がメインの入り口です
   餅ノ沢遺跡
 餅ノ沢遺跡は、縄文時代前期後半から後期前半(約5500~3500年前)にかけての時期を主体とした遺跡です。
 1997年から1998年にかけて実施された県営中山間地整備事業に伴う発掘調査で、竪穴住居跡、石囲炉、配石遺構、石棺墓、埋設土器、土坑、捨て場、遺物包含層などの遺構と、段ボール箱約1000箱もの遺物が出土しました。
 特に注目されるのは、石棺墓、大形住居などの特殊な遺構や、赤色顔料入り土器、土偶などの祭祀的性格の濃い遺物です。
 餅ノ沢遺跡は縄文人の生死に対する考え方や、祭祀のあり方を考える上で非常に重要な遺跡と言えそうです。
       発掘調査・説明文  青森県埋蔵文化財調査センター
       

 北側展示館入口です

 第1号石棺墓が発掘調査時のまま展示されています、奥側に立てかけられているのが石棺墓の蓋です

 第3号石棺墓と第2号石棺墓の蓋が並んでいます

 南側から見ました

 南側に展示内容説明です 
  *石棺墓
 石棺墓は、扁平な石を箱型に並べ、その上に蓋石をのせた特殊な形態のお墓で非常に珍しい遺構です。
 この見学施設の中には、縄文時代中期の終わり頃(約4000年前)のものと推定される3基の石棺墓が、発掘調査の時のままで保存されています。
 蓋石に覆われた状態で確認されましたが、それを取り外して内部を調査したところ、第1石棺墓から副葬品と思われる管玉状の石製品が出土しました。はたして縄文人に階層差はあったのでしょうか。
  *大型住居跡
 石神神社の西側から検出された大型住居跡は長さが約30mもありました。
 調査区域内で全体を検出することはできませんでしたが、何回か建て替えられたようすが伺えます。
 その大きさは山内丸山遺跡で復元された大型住居に匹敵し、全国でも最大級の部類に属します。
 直径約4~5mの一般的な縦穴住居跡に比べると格段に大きいので、集会所、共同作業所、複合居住家屋など、特別な用途があったものと考えられます。
  *赤色顔料の入った土器
 石棺墓から約50m程北西で赤色顔料がびっしり詰まった土器が出土しました。
 復元してみると、注ぎ口と把手がついた極めて特殊な形の土器であることがわかりました。
 もう一点似たような形で内側に顔料が付着し、外側に人面が表現された土器も出土しました。
 縄文時代のお墓にはしばしば赤色顔料がまかれた例がありますが、餅ノ沢遺跡の石棺墓にもそれらしい痕跡がありました。
 これらの特殊な土器は石棺墓に赤色顔料をまくために使われた可能性も考えられます。
  *土偶
 狭い範囲の調査であったにもかかわらず、餅ノ沢遺跡からは100点の土偶が出土しています。
 十字形の板状土偶が主体ですが、完全な形のものはなく、どこかが欠けています。
 これらのほとんどは縄文時代中期の終わり頃のものと推定されますが、この時期のものとしては県内最多を誇ります。
 他にもミニチュア土器、土製品、石製品など祭祀に関連する遺物が多数出土していることから、餅ノ沢遺跡は何らかの祭祀を行なった場所である可能性も考えられます。

 *三内丸山遺跡(このブログの2012年11月2日投稿、もう10年も前になってしまいましたが)は、、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡。世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」に登録された、国指定の特別史跡でもあります。
 *三内丸山遺跡が陸奥湾から約5kmの地点だったのに対して、餅ノ沢遺跡が鰺ヶ沢の日本海からでも約9kmの内陸にあったことを考えると、大型住居跡や石棺墓・数多くの土偶など重要な遺跡であることは明白ですね

 では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田県能代市、磐杉沢台「外野神社跡のケヤキと杉沢台遺跡(国指定史跡)」です!!

2023-06-28 06:28:55 | 遺跡・史跡
 磐杉沢台地区は、能代市役所の北北東約6kmのところ

 能代市役所から国道101号線を北へ、米代川を能代大橋で渡り約3.5km進みます

 交差点を右(東)へ県道209号線です、すぐにJR五能線の踏切を越えてまた直ぐに斜め左(北東)へ

 まだまだ県道209号線を進みます

 約1.4kmで斜め右へ小土集落へ入って行きます、そのまま集落を貫けると

 正面にケヤキの森です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 祭神 馬ヶ相染神 外野神社跡の石碑です

 祠です

 *蒼前様(そうぜんさま)は、東日本に分布する馬の守護神で,相染,勝善とも書く。正月あるいは年に数度の厩祭をする場合が多く,厩に蒼前様のお札を貼り,祈禱してもらう。近世期には猿回しを専業とする猿太夫と称する者が厩祈禱と守護札の配札にまわっていた。秋田では,旧佐竹北家の厩番に伝えられてきたが,神仏分離以降祈禱師に転じたといわれ,彼らは厩祭だけではなく,獣医の役割や馬に関するいっさいの世話をしていたという
 
 祠の後ろ側のケヤキです

 南側のケヤキです

 南西側のケヤキです

 西側から見上げました、主幹が枯れてしまった形になっています


 東へ農道を進むと「杉沢台遺蹟」の標柱です


 説明版です
   国指定史跡 杉沢台遺蹟
      昭和56年9月3日指定
      所在地 能代市磐字杉沢台
 杉沢台遺跡は、東雲台地北側とその斜面にかけて形成されており、範囲は35000㎡に及ぶ。縄文時代前期を中心とする集落遺跡で、昭和55年秋田県教育委員会により4672㎡の範囲で発掘調査が行われた結果、多数の遺構が発見されている。
 大形住居跡4軒を含む、合計44軒の竪穴住居跡が検出されたほか、貯蔵穴などに使われたフラスコ状ピットも100基以上発見されており、中には土器片や貝殻などが捨てられているものもあった。とくに長軸31m、総面積222㎡におよぶ竪穴住居跡は縄文期では日本最大級と注目を浴びた。この住居は、柱穴の重複関係から、少なくとも3回の建替えがおこなわれたと考えられている。大形住居を中心とした集落は東日本全般にわたって存在することが知られており、本遺跡は当時の集落や社会構造を解明していくうえで重要な遺跡である。
 平成15~17年の能代市教育委員会の調査でもフラスコ状ピットや住居跡が史跡周辺から発見され、縄文集落が広がっていることが判明した。これまでの調査で、縄文時代前期・後期・晩期・弥生時代、平安時代の複合遺跡であることが確認されている。
      能代合教育委員会

 説明版の北側です


 説明版の北西側です

 南側です

 杉沢台遺跡前から西側のケヤキのある社叢を見ました

 では、次へ行きましょう
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬県太田市、新田市野井「新田義貞挙兵の生品神社」(国史跡)です!!

2023-03-24 18:29:47 | 遺跡・史跡
 新田市野井地区は、太田市役所の西北西約7km、太田市役所新田庁舎の北東約2kmのところ

 太田市役所新田庁舎前から東へ進みます、新田庁舎東信号の丁字路を左(北)へ

 約1.3kmの信号を右(東)へ、道成りに進んで次の信号を左(北)へ県道322号線です

 間も無く左手に生品神社が南向きの参道で鎮座します

 鳥居前に駐車場が有ります

 太平記の里案内図です


 生品神社の社號標です

 手前の砂利の駐車場に、新田義貞公の像が有ります

 説明版です
  国指定史跡 新田荘遺跡
 生品神社境内
   所在地 群馬県新田郡新田町市野井640他
   指定  平成12年11月1日
 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。
 昭和9年に建武の中興600年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成12年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
 義貞が旗挙げを行った時はわずか150騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となった、15日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
 神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿のまえには義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
 現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年5月8日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
 平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。
    平成13年7月
      文部科学省
      群馬県
      新田町・・・*2005年3月28日に平成の大合併により新しい太田市となった

 説明版のそばに「史跡 新田義貞挙兵伝説地」の標柱です

 駐車所の西端に説明版にあった「床几塚」です

 石碑です

 社務所の後ろ(西)側に「挙兵塚」です

 石碑です


 参道を進みます、ニノ鳥居です

 参道左手に手水舎です

 三ノ鳥居です

 参道左手には神楽殿(舞殿)です

 参道右側には、説明版い有った新田義貞公が旗挙げの時に軍旗を掲げたクヌギの切株です

 説明版です
   神代木
 此の木は櫟(クヌギ)なり、新田義貞公挙兵の際大中黒の旗を此の樹に掲げ戦捷うぃ祈願す。
 爾来鬱蒼と繁茂せり、周囲二丈(6m)余、高さ十丈(30m)にたっす。明治37年6月9日白晝(日中)静穏の時大音響ありて倒れたり、依って其の一部を遺し滋に記念とす。
 爾後春秋星霜90有余年風化に依り腐食朽壊の状なり、依って燻蒸処理をしポリウレタン系合成樹脂加工に依り脆弱破損部の強化修復をし最後シリコン材塗布に依り保存処理した。
 同時に覆屋も新築して未来永劫後世に遺すものとす。
   新田義貞公挙兵666年祭に際して
        生品神社

 かつて6mに及んでいた幹は、半分くらいの幹周で遺されています

 参道左手には、石祠が多数集められています

 拝殿です

 本殿です

 本殿左手には、冨士嶽浅間大神の石碑と祠です、後ろ側のブロックの建物は古御札納所です
 
 では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田県三種町、下岩川宮ノ目「宮ノ目神社の宮桜と板碑」です!!

2022-10-28 18:28:07 | 遺跡・史跡
 三種町下岩川宮ノ目地区は、三種町役場の東約12kmのところ
 
 国道7号線の西鵜川信号を左(北)へ、県道212号森岳鵜川線です

 秋田自動車道の高架を過ぎて東向きに道成りに進みます

 JR奥羽本線の踏切を渡ると県道は南に向きを変え、間も無く県道4号線との交差点です

 交差点を右(南西)へ道成りに進み、T字路を左(東)へ五城目方面へ

 道成りに北から南へ回り込む様に約8km進むと道路が山裾に近付きます



 県道脇に宮ノ目神社の板碑の入った御堂です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 案内板です、板碑とは板状の碑。中世身分の高い人や、金持ちの墓標としてつくられた。この板碑は五輪塔を刻んだ珍しい形式で、戦国時代末期のものである。平成元年11月1日 山本町教育委員会

 宮ノ目神社の御堂です


 すぐ後ろ側に、宮桜です

 幹は倒れてしまっています

 案内板です、菅江真澄遊覧記に、近郷一の桜といわれた木のあと 昭和63年10月 山本町教育委員会

 *この頃にはすでに倒れていたようです

 南側から

 すぐ南側の鳥居を潜って稲荷神社へ行ってみます

 参道を登ります

 杉林の中を進みます

 奥に建物が見えて来ました

 西向きに稲荷神社の社殿です


 境内入口のアカマツの大木です

 社殿です

 では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新潟県佐渡市、下加茂「日本一大きな杉の切り株・太郎杉遺株」です!!

2022-07-14 18:26:26 | 遺跡・史跡
 下川茂地区は、佐渡市役所の南約13kmのところ

 真野から県道65号線を南へ、急な登り下りにカーブが多く走りにくい道路です道路です

 山を抜けて、一度下りきると県道81号佐渡縦貫線の交差点の丁字路になります

 県道65号線は赤泊港・県道81号線は羽茂本郷の標識が手前にあります

 県道81号線を右へ進むと約700mで左へ、羽茂川を渡って森の中へ入っていきます


 五社神社の手前を左へ入ります

 しばらく進むと「太郎杉公園」の案内表示が出てきます

道なりに進むと、「太郎杉公園」です、広い駐車場があります


広い道路を歩いて進みます

苔に覆われています、歩かれていないようです

建物が見えて来ました

まず一階へ行ってみました

ドアに鍵が掛かっていますが、窓から中を覗くことができ、大きな切り株が有ります


二階への石段を登って・・・

太郎杉の館です、二階のドアから中に入ることができました


一階に大きな切り株が有ります

かなり腐朽が進んでいます

かつての切り株の写真です

説明版です
  太郎杉切り株
 太郎杉は江戸時代末期に伐採されたと伝えられ、次のような民話が語り継がれている。
 「太郎山」に聳える太郎杉は子守をしていた地元の娘に恋をし、若者の姿となって娘と逢瀬を重ねていた。
 殿様の命令で切られることとなった前夜、太郎杉は「俺は切られてもその場を動かんが、お前が来れば動く。それで貰える褒美で暮らせ。お前は俺の子共を何万と宿している。山で用をたすと種が出て、杉の木が生えて杉山になる」と娘に言い別れた。
 太郎杉は切られたが、人々がどんなに頑張っても動かず、人々は娘に助けを求めた。太郎杉は娘の声にあわせて運ばれ、海を越えていった。その後川茂には太郎杉の子が広がり、杉の産地として栄えた。
 太郎杉は大き過ぎて佐渡の樵では手が出ず、能登から来た樵によって伐採された。並みの長鋸では短く、地元の鍛冶屋が継ぎ合わせて一本とした。幹に遮られて相手が見えず、間に合図をする者がいて調子を合わせた。伐採には半年の月日がかかった。切り株に莚八枚を敷き、樵13人が輪になり酒盛りをした等、大きな杉であったことが語り伝えられている。
 太郎杉株の大きさ
  長径 3間(5,4m)
  短径 2間(3.6m)
  幹周 8間(14.5m)
  推定樹齢2000年以上
  (1935年、川茂大杉山・太郎杉切株踏査書より)
 太郎杉は川茂杉と呼ばれる、萌芽力・生命力の強い品種で、麓の五社神社には現存する最大の川茂杉(幹周5.2m、樹高30m)が神木として残っている。
 この展望台により切り株を保存し、赤泊村が大杉の産地であったことを長く伝える。
     赤泊村

南側から

東側から

西側の森を見ました

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡県伊豆市、修善寺「源範頼墓所」です!!

2022-02-23 06:24:09 | 遺跡・史跡
 修禅寺の西約500mの所に、「源頼朝」の弟「源範頼」の墓所があります

 範頼は、現在の日枝神社の参道にあったといわれる「信功院」に、建久4年(1193年)頼朝の誤解から幽閉され、

 翌年梶原景時率いる500騎の不意打ちにあって、防戦の後に自害に追い込まれたと言われております。

 
修禅寺山門前の観光ガイドの案内図です、「修繕寺」の左の「独鈷の湯」のすぐ左に「範頼の墓」の文字が有ります


桂谷川沿いの道路から一段上の修禅寺の西側の道路脇に案内板が有ります、480mだそうです

西に向かってきた道路をここで曲がります、あと130mとあります

墓地はこの上です、あと70mですね


墓所です

手水です

大きな五輪塔です


桂谷八十八ヶ所第八十一番 本尊千手観世音菩薩の石碑です

説明版です
  源範頼の墓
 範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。
 
 治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義家を倒し、次いで一ノ谷で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
 その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
 建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討の際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。
 範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
   伊豆市

案内図です

上側の道路から修善寺の温泉街を見下ろしました

では、駐車場に戻って次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県神戸市、垂水区東舞子「舞子公園」です!!

2021-12-06 06:36:56 | 遺跡・史跡
淡路ジェノバラインで淡路島から明石港に戻って来ました

次は、JR山陽本線(神戸線)あかし駅から神戸方面の電車で、まいこ駅まで行きます

新快速で一駅でした、平行する山陽電鉄(山陽電気鉄道)の舞子公園駅でも行くことが出来ます

まいこ駅は、明石海峡大橋の北側の起点です

駅の屋上には、タクシーや高速バスの乗り場があります

南側の国道2号線を超える高架道路を下ります

舞子公園です


明石海峡大橋です

左の建物が旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)です

明石海峡大橋を真下から見上げました、舞子海上プロムナードは時間切れでした

橋の科学館も閉館時間を過ぎていました

舞子駅から次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県淡路市、岩屋「ジェノバライン帰り便」です!!

2021-12-05 06:32:33 | 遺跡・史跡
淡路島の北の端から、岩屋港に戻るのにバスを利用しました

岩屋から高速道路のサービスエリアや観光スポットを回て、一回の乗降り500円、乗降り自由では1000円だそうです


大谷川バス停(ここからだと東行き・右回り)です

バスに乗って、岩屋港ポートビルに戻って来ました

出航まで時間が有るので、ビル2Fの「お食事処 浜ちどり」で食事を摂ることにしました

メニューは「たこしらすご飯」です明石蛸?のから揚げと味付けしらすが、お茶漬けで美味しかったです


帰りの船が入って来ました

 まりん・あわじ(平成27年8月2日就航)
 ■船型:減揺装置付高速双胴船(アルミ合金製9
 ■総トン数:118トン
 ■航海速力:24ノット(最大速力27ノット)
 ■最大搭載人員:旅客180名(1F室内150名・2Fデッキ30名)、船員3名、自転車20台、小型バイク(125cc以下)8台
 ■主機関:ヤンマー製高速ディーゼル1080kw×2基(1468馬力×2)
 ■寸法:長さ32.7m、幅8m
 ■製造会社:ツネイシクラフト&ファシリティーズ株式会社(広島)

 出航時間には、西風は更に強くなっていました、双胴船で揺れ低減装置が付いているため、揺れが「行き」で乗った「まりーんふらわあ2」より少なかったようです

行きで乗った「まりーんふらわあ2」です

では、次へ行きましょう


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県淡路市、岩屋「藤原定家和歌の題材・松帆の浦と台場跡」です!!

2021-12-04 06:16:45 | 遺跡・史跡
 淡路島の北端に位置する「松帆の浦」です

 「鳥の山展望台」から北へ県道31号線淡路サンセットラインの歩道を緩く下って行きます


 途中で、明石海峡大橋が段々近くなって


 橋の下からさらに県道31号線を北西へ歩きました

道端に大きなリュウゼツランです

ヤギが草刈?をしています

「松帆の浦」への入り口です、「望楼 青海波」現在はパソナグループの保有施設となっています

中へ入らせて頂きました

松帆の浦台場跡です
  海面をにらむ13砲門
 文久3年7月(1863年)阿波藩領主蜂須賀候は、徳川幕府将軍家茂の命で、この地に明石海峡を通る外国艦隊を迎撃するため大砲を据え、一大砲塁とした。
 砲塁は真北の明石天文台の方向にむきΛΛ型に土塁が築かれている。海に面した土塁の基礎部分は高さ約2mの花崗岩の切石で築かれており、その上部は・・の急傾斜で粘土が盛られていて土塁・・・は・・・土塁の最上部は巾4mある。土塁の内側・・上部から1~2mが切り取られ・・防・壁となっている。さらに二段低くなって・・・上部と大砲を据え付ける場所となっていた。
 ・・・阿波藩中老職の寺沢男也以下70名の藩士と付近の村から260名を保・口中・を・・・し台場の中央部の広場で連日練兵訓練がおこなわれた。また台場の中には合拮所・兵・・・が棟を連ねていた・・・・(読めなくなっています)

砲台の上はベンチが有り公園化されています
 

砲台の上から明石海峡大橋を見ました


明石海峡を進む客船が見られました


少し西側の海辺の様子です



松帆の浦プレートです(岩屋ポートビル前に有ります)
 島の最北端で、激しい潮流で全身が潮騒にとりつつまれる。
 古来、松帆は製塩が盛んな地で、塩を作るための朝の「藻刈り」や夕刻の「藻焼き」の風景は高貴な人々が関心をもち、藤原定家・柿本人麻呂・笠朝臣金村らがその思いを和歌に託した。
  来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ
   藤原定家(新勅撰集)
 藤原定家・・・応保2(1162)~仁治2(1241)
  藤原俊成の子で「小倉百人一首」「新古今集」「新勅撰集」の選者。
  歌論書「近代秀歌」「毎月抄」、日記「名月記」、歌集「拾遺愚草」がある。
  正二位・権中納言まで進み、和歌所寄人となった。
  和歌史上最高の歌人といわれるほど名が高く「松帆の浦」はこの歌をきっかけとして歌枕となった。

では、バスで岩屋港へ戻ります
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県淡路市、岩屋「寂蓮法師和歌の題材、鳥の山展望台」です!!

2021-12-03 06:24:36 | 遺跡・史跡
 鳥の山展望台へは、近畿自然歩道の一部を通り

 観音寺の裏山(南側)の上の高台へ向かいます


高雄山観音寺前から道標を西へ向かいます

道路脇の擁壁に「鳥ノ山展望台」の案内板です

コンクリート舗装された急な道路を登って行きます、次の交差点も左です

ようやく峠状の所が見えて来ました

近畿自然歩道の案内板です

ここから近畿自然歩道をはずれて「鳥ノ山展望台」へ向かいます

イノシシ出没!!通行注意です、イノシシが歩道脇を掘り起こしていた跡が見られます

東屋が見えて来ます

淡路和歌の路の石碑です
  鳥の山
 あはぢ島 かよふしるべも 立つけぶり かすみにまがふ  すまの明ぼの
   寂蓮法師(百治百首)
 淡路島に渡る舟をよぶ合図を送るため 火を焚くと その煙が須磨の夜明けの日に紛れて見分けがつかないことだま
   寂蓮法師・・・
 俗名を藤原定長といい、幼い頃に藤原俊成の養子となり、32歳で出家し


鳥の山のプレートです(ポートビル前に有ります)
 その昔、海を渡るとき、迎え舟をよぶために「しるしの煙」という合図の火をこの付近で焚き、対岸の船頭に知らせた。
 舟を出すことができる場合、須磨から火を焚いて返事をしたが、霞や霧で煙が見えないことがよくあったと言われている。
   淡路島 かよふしるべも たつけむり 霞にまかふ 須磨のあけぼの
     寂蓮法師(百治百首)

足元に岩屋港と明石海峡対岸の神戸市垂水区から須磨区を見ました



「せきれい丸」遭難者慰霊碑です

建立説明版です
 昭和20年12月9日午前9時15分ごろ、松帆崎沖合で、淡路聯絡汽船「せきれい丸」(34トン)が、定員超過と風波のために転覆、349名が遭難した。(死者・行方不明者304名、生存者45名)
 当時は戦後の混乱期で、十分な供養もなされないまま今日に至ったが、このたび明石海峡の架橋工事が始まるのを機に、犠牲者の慰霊とともに平和と海上安全の願いをこめて、この塔を建立した。
  昭和62年12月9日
   「せきれい丸」遭難者慰霊碑建立会


復興基準点です



淡路サービスエリアの大観覧車が見えました

では、次は「松帆の浦」へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県淡路市、柿本人麿和歌の題材「大和島」です!!

2021-11-30 06:25:37 | 遺跡・史跡
大和島は、岩屋漁港の先に在ります

「絵島」の前を通って国道28号線を南へ


岩屋漁港の先に「絵島」を大きくしたような盛り上がりが見えて来ました

明石海峡と言えば「タコ」ですね、タコ漁に使う「蛸壺」が並んでいました

大和島です、またまた逆光になってしまっています

 淡路 和歌の路  大和島の石碑です

 天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
 柿本人磨呂(万葉集)
 *筑紫(九州)から都を恋しく思いながら、船路をやってくると、明石海峡から懐かしい大和の山々が見える。
 柿本人磨呂・・・生没年未詳
 持統・文武天皇の両朝(690~707)に仕えた万葉の代表的歌人。歌聖としてあがめられた宮廷歌人である。
 彼は明石の高地に居を定め、海峡より朝夕この島を眺めることを唯一の楽しみにしていた。
 島の頂上にはイブキが群生し、天然記念物に指定されている。

歌碑が有ります、同じ和歌ですね

北側の岩壁が板状に浸食されています、島の回りに歩道が有ったようですが、流されてしまって通行できなくなっていました

西側の岩壁です

南側から

 北西側に天然記念物説明版が有ります
 県指定文化財 大和島のイブキ群落
  指定年月日 昭和48年3月9日
  所有者・管理者 淡路町
 大和島は、東西南北ともに約20m、高さも約20mあり、面積約0.5㌶を占め、島の中腹以上に植物群落があり、主としてイブキ優先である。
 この島は砂岩や礫岩からなり・・・

では次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県淡路市、西行法師和歌の題材「絵島」です!!

2021-11-29 06:20:50 | 遺跡・史跡
 今回の目的です、和歌の題材になった場所5ヶ所を廻ります

 岩屋港のすぐ近くや、岩屋漁港のすぐ東側、岩屋港の西側のお寺、その上の展望台、そして淡路島の北の端に在る場所です

 一日1か所づつ投稿させて頂きます

今日は、岩屋港の岩屋ポートビルを出ると正面にあるのが「絵島」です、行って見ます

逆光ですね~

西側から、、説明版が有ります
  郷土記念物 絵島
 指定区域 淡路町岩屋字恵島884-4(1153㎡)
 指定年月日 昭和63年3月25日
 約2000万年前の砂岩層が露出した島で、長年の風雨の影響で岩肌は不思議な絵模様を描き、自然が創った芸術品となり、淡路島のシンボルとなっている。
  兵庫県

南側から

また案内石碑です
  淡路 和歌の路  絵島
 千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな
  西行(山家集)
 *千鳥の鳴いている絵島の浦の澄んだ月を、波に映して見ている。今夜の絵島は何と美しいことであろうか。
 西行・・・元永元(1118)~建久元(1190)
 鳥羽上皇の武士で23歳で出家。山辺赤人以来の自然歌人として宗祗・芭蕉からも範とされた。
 「平家物語」の「月見」の巻に「福原の新都に移った人々が、海峡を渡り、絵島の月を愛でながら歌会を催した」と記述があり、古来より多くの歌人を魅了してきた美しい砂岩の小島である。
  淡路市

橋が工事中で絵島には渡れませんでした

ポートビル前のプレートです
  絵島
 砂岩の小島で岩肌の縞模様が美しい。日本発祥の地、国生み神話の「おのころ島」の異名をもち、多くの歌人がその美しさを歌に詠んだ。「平家物語」の「月見」の巻に「福原の新都に移った人々が、海峡を渡り、絵島の月を愛でながら歌会を催した」と記述されている町の代表的な景勝地である。

次は、大和島へ行きます





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県明石市から淡路島へ「明石海峡を淡路ジェノバラインで渡る」です!!

2021-11-28 06:39:05 | 遺跡・史跡
 JR明石駅南口を出て右へ、スクランブル交差点を南へ進みます

 国道2号線を渡って真っ直ぐ進むと


淡路ジェノバライン岩屋行きの明石側乗り場です

平日午前中は一時間に二便が運航しています

岩屋港からの船が到着します

今日は風が強いので、船が揺れないか心配でしたが

到着した「まりーんふらわあ2」はかなり大きな船です
 進水年月日 1992年3月
 造船所   瀬戸内クラフト
 長さ    31.40m
 幅      6.50m
 深さ     2.60m
 満載喫水   0.97m
 総トン数   104t
 船質     軽合金
 燃料     経由
 旅客定員   235人
 機関メーカー ヤンマー
 主機     2200馬力
 最高速力   27.5ノット
 *明淡高速船時代からの船だそうです、平成19年1月1日から淡路ジェノバラインに引き継がれています

さっそく乗り込みましょう



明石海峡大橋の下を潜って岩屋港へ向かいました、風が強かったため波しぶきが窓を濡らしています

*二階の展望デッキに乗った観光の方は「寒かった~帰りは中がいいや」と言っていました

 

島内側から岩屋港ターミナルです、淡路市内を廻るバスやタクシーの待合所やお土産・レストランなどがあります

では、岩屋港周辺を見て行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする