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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県石岡市、常陸国分寺跡です!!

2015-02-28 21:01:22 | 遺跡・史跡
常陸国分寺跡は、石岡市役所の西約2kmの石岡市街地にあります

国分尼寺の南約1km、国道355号線と県道7号の交差点の北西側です

市街地にあるので、国分尼寺のような史跡公園はありません


史蹟 常陸国分寺址の石碑です

中門址石碑です

中門の石敷きでしょうか

常陸国分寺由来記です


 



国指定特別史跡 常陸国分寺跡の説明版です


常陸国分寺弘法大師堂です

常陸国分寺本尊薬師如来の御堂(本堂)です




市指定有形文化財 旧千手院山門(建造物)の説明版です

本堂です

.
市指定有形文化財 都々一坊扇歌堂(建造物)の説明版です

扇歌堂の由来です

銀杏の大木です


では、帰ります  
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茨城県石岡市、常陸国分尼寺跡です!!

2015-02-27 08:23:45 | 遺跡・史跡
常陸国分尼寺跡は、石岡市役所の北西約2kmの、

石岡二高の西側・国府小学校の北側に広がっています

石岡市街地の北側、県道7号線線から東に入った所です



小学校の西側通りから入ると、特別史跡国分尼寺跡・法華滅罪之寺跡石碑です


広々とした敷地が広がります

説明版が有ります
     国指定特別史跡 常陸国分尼寺跡
                所   在   地 石岡市若松三丁目一番
                特別史跡指定年月日 昭和二十七年三月二十九日
    国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅命により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた
   寺院である。
    国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町でまかなわれた。
    一般に、国分尼寺は国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多
   い。
    常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石が基壇上にあって保存され、全国的に見ても、
   極めて貴重な遺跡です。
    昭和四十四年から四次にわたる発掘調査のにより、各建造物基壇の規模や南大門跡・北方建物跡・西及び北を
   限る溝跡などが明らかにされている。
    発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが
   多い。
    また、土器の中では「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罰之寺を証明する資料となってい
   る。
                       昭和六十年一月      石岡市教育委員会
                                    石岡市文化財保護審議会
   (瓦制作地は、ここから北北西約9kmの瓦遺跡等と思われます・このブログの2月13日をご覧ください)


説明版の図面部分です、説明版の建っている所が中門の前です

金堂基壇です

基壇の上には、大きな桜の木があります

北側の講堂基壇です

金堂の南側小学校の建物の傍に南大門が有ったようです

では、次へ行きましょう
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茨城県石岡市、善光寺楼門(国重要文化財)です!!

2015-02-26 16:49:36 | 文化財・寺社
善光寺楼門は、石岡市役所の北西約14km、吾国山の南麓に有ります

県道42号線(笠間つくば線)の直ぐ西側です

国重要文化財の楼門です

ようこそ森林浴の道への案内板です

正面入り口です

木組みがわかります

軒下の様子出明日

左の仁王様です


右の仁王様です

裏側の様子です

山門の説明版です
      国重要文化財
        善光寺楼門
          所 在 地  石岡市太田字堂山九四八番地
          指定年月日  昭和五八年一二月二六日
    小田城主第十二代・小田左衛門尉成治公の母堂は小田家の菩提寺である山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰され
   出家の身となり「雪主比丘尼」と号した。成治公は、母堂の願いから善光寺再興を図り、新治群井白郷舘荘太田月光山
   山麓を安息の地と選び。文亀元年(1501)「月光院無量寿院善光寺」を建立し、新善光寺を此処に移した。
    元禄一四年(1701)十一月、善光寺は現在地の堂山に移されたが、当時を偲ぶ建造物は楼門のみとなってしまっ
   た。
    楼門とは二階造りの門を意味するが、当楼門は二階部分を造りながらも、何らかの原因により完成を断念した「三間
   一戸楼門」の形態である、戦国時代の世相の反映と思われるが、室町後期の細部建築様式を持ち、地方的特色を表した
   建造物である。
    二階は、縁と内部が一連となる厚板を切目状に並べ、この上に土居を置き円柱を立てている。列柱は上部粽付とし、
   台輪をまわし手先肘木の組物を乗せながら、その上部は未完成であるが「楼門」の名称で重要文化財の指定を受けた。
    平成五年度から七年度にかけて、楼門の解体修理が施工されたが、建築に関する記録は一切発見されなかった。
                  平成七年七月              石岡市教育委員会


階段を上って善光寺本堂へいきます

善光寺本堂です!!なんと惨たらしい光景でしょうか

右側の屋根は崩れています

では、次へ行きましょう


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茨城県笠間市、楞厳寺(国重要文化財)です!!

2015-02-25 20:46:56 | 文化財・寺社
楞厳寺(りょうごんじ)は、笠間市役所の北西13kmのところ

笠間市と栃木県益子町の間にある仏頂山の東斜面にあります

国道50号線の石井信号を県道1号線(宇都宮笠間線)で北へ入ります

約3km程で、楞厳寺への田舎道を左に入ると

楞厳寺への最後の分岐です、ヒメハル方向です



山門前の仏頂山楞厳禅寺の石碑です

重要文化財に指定されています

竟堅門の懸額です

棟の造りです

石積土台です

山門の裏側(西側)です

楞厳寺案内石碑が有ります
  国の重要文化財に山門と木造千手観音・国の天然記念物に姫春蝉が指定されています



離れて見ると、参道に山門の様子が良く解ります

楞厳寺へ行きましょう


山門から400mほど、楞厳寺下に駐車場が有り、説明版が有ります

こどもいきいき自然体験フィールド100選のNo23、ヒメハルゼミの発生地です

階段を上がります

階段の上にも山門が有ります、右の柱が傾いているようです


古い御堂が有ります

楞厳寺境内はヒメハルゼミの発生地です

本堂です


聖徳太子堂のようです

仏像が並びます

宝物庫が有りました

では、次へ行きましょう


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茨城県笠間市、西念寺(親鸞縁の寺)です!!

2015-02-24 04:07:31 | 文化財・寺社
西念寺は、笠間市役所の西約10km、JR水戸線いなだ駅の西約2km

国道50号線の北側丘陵の裾野に有ります

国道からの入口です

手前駐車場の先には、国道50号線沿いの庵田米生産地です

山門です、懸額には稲田山、山門前の石碑には、親鸞聖人遊行信證御制作地 浄土真宗別格本山とあります

御伝鈔(下の二)稲田興法の段の案内板です
    聖人越後の国より常陸の国へ越えて、笠間郡の稲田郷というところに隠居したもう。
    幽棲を占むといえども、道俗あとをたずね。蓬戸を閉ずといえども、貴賤ちまたにあふる、
    仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまち満足す。
    このとき、聖人仰せられて云わく。
    救世菩薩の告命をうけしいにしえの夢、すでにいま符合せりと。
     「御伝鈔は、親鸞聖人の曾孫に当たる覚如上人(本願寺第三世)が、聖人の三十三回忌に、
    稲田御草庵を始め、関東を親しく巡られて書かれた御一代記であり、全国二万の真宗寺院に
    於いて、毎年報恩講に拝読されている。」



山門の扉には、三つ葉葵

鐘楼です


県指定文化財 唐本一切経の宝物庫でしょうか

「ぬくめ鳥」の記です
      ―――良水の自決と北陸からの移民―――
     享保・天明・天保の日本三大飢饉の内で、最も長く広範囲に大きな被害を与えたのは、天明の飢饉であった。
     山間地が多い笠間地方は思うように復興が進まず、農民は働く気力を失っていた。そして、他の地方へ逃げ出
    す者が後を絶たず、口減らしのための間引きや堕胎、さらには盗みなども増えていった。
     笠間藩の苦哀を察した当山二十一世住職の良水は、長年の恩顧に報いるべく、入百姓(開拓移民)の策を献じ
    北陸へと旅立った、目指したのは越中(富山)である。彼は、有縁の各地で法座を開き、親鸞聖人の聖跡である
    稲田御坊を披露すると共に、飢饉による苦境を述べ、入百姓による復興を祈願したのである。
     幸いにして、浄土真宗篤信の理解・参道を得て入百姓が始まったが、幕藩体制下における集団入植は不可能で
    あるため、それは当山参拝をを名目にした内密の個別入植となった。入植が始まって十年後には、五十数戸の入
    百姓があったことを喜ぶ私記が残されている。
     入植は順調に進み、それに刺激されて地元農民の心も立ち直り、復興に励む者も増えていった、ところが、入
    百姓引き戻しの調査が、加賀藩で始まっているとの風聞が伝わってくる、このため入百姓たちは動揺し、早々と
    他の土地へ逃走するものも出始めた。
     それを知った良水は、入百姓の責任は良水個人にあることを伝え心配なく開拓に励むよう説得して動揺を静め
    入植に関する書類を焼却したうえで、自決した。
     文化五(1808)年旧暦六月十八日、良水六十二歳の時であった。
         風冴ゆる 夜はまた春の ぬくめ鳥
                     天明期の笠間藩主 牧野貞喜公
         霞みても 思いは捨てず 遠筑波
                     最後の笠間畔藩主 牧野貞明公
    付記 
     幸いなことに、入植は藩相互の問題にならなかった、
     入百姓政策については地元民にも一切知らされていなかった、このため、入百姓たちは北陸か逃げてきた罪人
    や悪党たちだと思われて、加賀っぽ・一向・新百姓などと呼ばれ差別されてきた、このような状態は、敗戦によ
    り既存の社会体制が大きく変化するまで続くことになる。
     そのような中で、入百姓の人々は当山の法座には必ず参詣し、入百姓同士の縁組も決まった、彼らは、親鸞聖
    人の教えを心の拠り所として、苦境を耐え抜いてきいたのである。
     良水没後二百余年の歳月が流れ、越中・越後の入百姓の子孫は数百戸に増え、今や当山の直参門徒の中核と、
    なっている。
         ほたる火や 入植偲ぶ 良水忌 
                     平成二十六(2014)年六月 稲田山二十七世 釈実乗                   



手水です



稲田禅坊のお葉つきイチョウです

説明版です
     世界的珍種御葉つき銀杏
   往古より言い伝えに、親鸞聖人御草庵の庭前に銀杏の実を葉に包みて蒔き給いしところ、葉先に実る不思議ありと
  東京大学農学部向坂教授参詣あり、隅々実物を見て植物学上世界的な珍種天然記念物お葉つき銀杏であることが確証
  された。
   銀杏は化石の植物と言われ百万年前の物である 老木に出来る現象でもないのであるが、それが聖人の蒔き給いし
  ものであって見れば参拝の念仏者にとって特になつかしいものである、参拝者は一粒の実を参拝ん記念に蒔いて深き
  佛縁を喜んでいる。
   明治四年大火の際類焼したるは惜しむべきも、後に樹枝繁茂して往年の樹勢に復帰するは嬉し、越後の七不思議と
  言い、又、祖蹟の神原の井や銀杏樹の不思議を目のあたり拝見出来ることは、信者にとり脅威であり大きな喜びであ
  ろう。


桜の根株です


御杖杉の根株です


神原の井(かんばらのいど)です
   



本堂です

東側の山腹へ上がります

新しい鐘楼です


太子堂です


親鸞聖人頂骨堂です 
       親鸞聖人頂骨堂由来記
     親鸞聖人が稲田より御帰洛されてからも尚南都北嶺の山徒の迫害あり、ややもすれば腕力を以って事を決せんとし
    嘉禄安貞の頃、法然上人の東山吉水の墳墓を暴かんとして、門弟の頼綱入道蓮生らを苦しめたのである。
     聖人ご入滅の折り、稲田禅房第二世の法興房教念は上洛して、すでに京都在住の覚信尼公(聖人の末姫)に、恵信
    尼公(聖人のご内室)深い思し召し(東山の大谷(地名)の墓を心配しておられる事)をお伝えしたので、覚信尼公
    は聖人のお頂骨をひそかに教念に分与された。
     かくして安全な稲田へ、ご分骨は教念により供奉され、無事帰着してより恵信尼公を始め道俗に披露申し上げたの
    である、ご草庵に於いて別中陰の法遥を営み、結城・笠間の諸大名その他お弟子を始め、ご帰依の道俗参集して追慕
    の情に咽び報恩の誠をしるしたのである。
     参集の道俗の中には分骨の希望もあったが、末世に至って散逸することを憂い、お弟子方相謀り護持掟書を作り、
    恵信尼公の意志に従って京都より十年早く、ご草庵の裏山の勝地に、真言最古の御廟としてお頂骨を奉安した、これ
    によって稲田ご草庵が関東教団の中心地になったのである。
       護持掟書
     太祖聖人の遷化は弘長に壬戌十一月二十八日なり、依りて尊骸を鳥辺野に荼毘に奉りき。
     我等一同この稲田にご尊骨を供し奉りて恋慕哽絶の道俗に拝せしむる所なり。
       一に、師教紕縿の人
       一に、驕慢邪心の人
       一に、門弟削名の人
     已上の輩に拝を許さざる條 後弟譚話決擇の上は、教念が門弟子孫まで長く守り奉り申すべきものなり、若しこの旨
    を背かん者は冥罰を蒙るものなり
       慧信 性信 唯圓 真  明空 入信等
       弘長三発亥 三月六日 教念花押
    噫 聖人の入滅は既に七百五十余歳を経たり、徳音無常の風に隔つと も、御遺骨をこの地に留め給う、有縁の道俗宜し
    く追慕の誠を呈し報恩の志を運び、お骨堂の護持経営を勿緒にすること勿れ





六角堂ご夢想の山の説明版です

本堂の屋根越しに加波山を見ます

では、次へ行きましょう
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茨城県桜川市、羽黒城跡です!!

2015-02-23 09:35:54 | 城跡・館跡・陣屋跡
羽黒城跡は、桜川市役所の東北東約7kmの羽黒山の西斜面に有ります

国道50号線、JR水戸線はぐろ駅入口から一本北側の道路を東へ

棟峰山から西に延びる尾根道をたどり、石切り場への林道入り口を右に

溜池の所から羽黒山を望みます、この先に、羽黒山への登山口が有ります

城跡標識が有ります、車を止めるスペースが有ります

二所神社の鳥居です

羽黒山二所神社への寄付松苗木千五百本移植の記念碑が有ります

参道を進みます

分岐が有りますが、真直ぐ登ります

角度が急になります、足元の枯葉で滑らないように注意しながら進みます

ロープが付けられているので助かります

ようやく急な上りが終わります

堀切と切岸が確認できます


西側の眺めです、足元を国道50号線が走り、日光連山まで見る事が出来ました

薮の中にも堀切が有りますが、良く解りませんね~

参道を進みます、左手の薮の中には郭跡が連続しているようです

大きな堀切です

下側の郭から、上側(三の郭?)の廓切岸を見ます、比高6mほどでしょうか

参道は緩く登ります

薮の中に堀切が有ります、上側が二の郭の様です

参道を行きますが、城の登城路は、削られてしまっているようです

一の郭と二の郭の間の堀です

一の郭お虎口です

土塁の切れ間が入口に成っています

一の郭の真ん中に、二所神社の社が有ります

虎口側の土塁(石積み)の様子です

南側にも、土塁に切れ目が有りますが、さきは崖です

東側土塁の上から、一の郭全景です

《では、実際に登ってきたルートを紹介しましょう》

溜池側に曲がらず、尾根筋を石切り場への林道を入って行きます

林道が急になる手前に車を転回できるスペースがありますのでそこに車を置いていくことにします(ぬかるんでいます)

林道の路面にはアスファルトがらが敷き詰められています

歩きにくい林道を進みます

石切り場は薮に成っていて入れないので手前から右手の尾根道に取り付きました

尾根を進むとガレ場の脇へ出ました

ガレ場に沿って登ります

もうすぐ尾根筋に出ます

石碑のような三角形の石が見えると

一の郭の土塁の上に出ました

では、次へ行きましょう
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茨城県桜川市、小山寺富谷観音(国重要文化財三重塔)です!!

2015-02-22 16:19:55 | 文化財・寺社
小山寺富谷観音は、桜川市役所の北約7km、富谷山の山頂近くにあります

国道50号線から県道41号線を北へ進みと正面に見える山が富谷山です

富谷観音参道入り口です、富谷山は公園に成っているので、公園道路を進むと駐車場が有ります

笠間県立自然公園の案内板です

富谷ふれあいの森案内板です

茨城森林浴の道100選の64番、富谷山です

小山寺富谷観音入口です

小山寺の説明版です
    小山寺(富谷観音)
       宗派 天台宗
       国指定重要文化財 三重塔
       県指定文化財  十一面観音坐像・多聞天・本堂・楼門・鐘楼
     天平七年(735年)、聖武天皇の勅令により行基菩薩が開山したと伝えられ、古くから開運・安産・子育ての
    祈願所として知られている。
     本尊の十一面観音菩薩は行基の作、脇士不動尊は慈覚大師の作、多聞天は運慶の作と伝えられている。
     本堂は四柱作りで江戸時代に再建された。
     三重塔は寛政六年(1465年)、多賀谷朝経が旦那となり大工宗阿弥家吉とその息子によって再建された。
     関東以北ではまれにみる室町時代の塔で、細部の装飾にすぐれ、屋根はこけら葺で、頂上には鉄及び青銅製の
    相輪がある。
                       岩瀬町観光協会

小山寺へ行きましょう

楼門へ向かいます




楼門です

小山寺の文化財説明版です

楼門の後ろ側に手水が有ります、倶利伽羅竜王像が有ります


富谷観音の説明版です

本堂へ向かいましょう

本堂は階段を上った右に有ります

階段上から楼門を見下ろします

手水舎です





本堂です、沢山の額が掲げられています

本堂東側に弁財天が祀られていますが、池に水が有りませんでした




市指定天然記念物 小山寺の大杉です


境内にしの端に三重塔です





三重塔説明版です
     国指定重要文化財(旧国宝)
      小山寺三重塔
                明治三十九年四月十四日指定
    当山は、施無畏山宝樹院小山寺と称し、通称、富谷観音と呼ばれている。
    天平七年(735)、聖武天皇の勅命により行基菩薩が創建したと伝えられる。
    本尊は、十一面観世音菩薩で、不動明王毘沙門天を脇侍として安置する。
    南北朝のころ、結城・多賀谷・大野の諸民が堂塔を修造し、江戸時代現在の規模に改修された。
    この塔婆(三重塔)の相輪宝珠刻銘に寛政六年(1465)、多賀谷朝経が大旦那となり、大工棟梁宗阿弥家吉等に
   より造営されたとあり、和様の形式を基調とし、唐様を交え細部の装飾に見るべきものがある。
    室町時代の作りとしては、優れたものの一つで、ことに内部の佛壇は、まれに見る傑作である。
    また、本尊十一面観世音菩薩坐像は、鉈彫様式による欅材一木造りで、平安時代の作と伝えられ、全国的にみても、
   これほどの大作は珍しく、県としても貴重な存在であり、県指定文化財(昭和四十六年十月二十八日)となっている。
                                            茨城県教育委員会
                                            桜川市教育委員会


階段を下ると、水神様を祀った井戸が有ります

駐車場に戻ってきました、岩瀬の街並みを見下ろします、南には加波山が聳えます

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茨城県筑西市、小栗城跡です!!

2015-02-21 17:23:29 | 城跡・館跡・陣屋跡
小栗城跡は、内外神宮の直ぐ西側にあります

小貝川の蛇行する丘陵のにしの端に城跡が有ります

内外神宮の鳥居脇から西側の道を進むと小栗城跡です

鳥居脇の城跡案内の石碑です

小栗城跡の入口です

入口の西側の様子です、数段に削平されています

入口に説明版が有ります、現在位置の記しの位置が違いましね
   (伝)小栗十五代城主小栗判官平助重公の顕彰由来板
                   並びに小栗城周辺の案内図
桓武天皇の曾孫平上総介高望公から七代の子孫と伝えられる平重家公(平上総介重幹公の四子)は平安時代の
  久寿二年(1155)にこの地方に伊勢皇大神宮小栗御厨(神領)の保司(管理人)となって要害の地であった
  小栗山(筑西市宮本)に築城し、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代まで三百年余りの間、栄
  枯盛衰の歴史の中にこの地方を統治されました。
   その十四代城主であった小栗孫次郎平満重公は、室町時代の永応三十年(1423)八月二日、関東公方足利
  利持氏との激戦に敗れ小栗城は落城しました。
   伝承によれば、この落城により満重公親子(助重)と家臣十名は、一族の小栗貞重等を(美濃、岐阜県大垣市)
  を頼って落ち延びる途中応永三十三年(1426)三月十六日に、相州豪族(神奈川県横浜市)横山氏館での歓
  待宴膳の毒酒によって、満重公と家臣十名は毒殺されて上野ヶ原(神奈川県藤沢市)にすてられたが、幸いにし
  て、時宗総本山遊行寺(神奈川県藤沢市)遊行寺十四代、他阿太空上人の高配によって境内墓地に厚く埋葬され
  ました。
   幸運にもこの大難を逃れ九死に一生を得た小栗助重公は、一族の小栗貞重の元に落ち延びたのち十余年を経た
  嘉吉元年(1441)の結城合戦に、幕府軍の将として大活躍をなし得た論功により再び小栗場に複しました。
   なお助重公が旧領に復した嘉吉年間(1441~1443)のころに、御先祖ご供養のため菩提寺であった、
  天照山太陽寺(筑西市井出蛯沢)を再び新しく建立なり、毒殺と言う非業の死をとげられた父満重公と十勇家臣
  の追善供養のために、境内墓地に大九重層塔と、家臣十人原五輪供養塔十基を建立されたと伝えられています。
   この施主助重公が天照山太陽寺中興の開基で在り、世上有名な小栗判官と称された室町戦国の武将で、小栗十
  五代城主、小栗彦次郎平助重公であります。
   御戒名。  (天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)


堀底道を本丸へ向かいます

堀底道を登り切ります

少し下ると、本丸入口です、見學者の記帳ノートが設置されています

竪堀のような溝を越えて行きます

階段を上がると

腰廓です

虎口のような階段を上がります

北側に回り込む様に進むと

小貝川が見渡せます

虎口状の道を更に上へ行きます

上からの小貝川の眺めです

更に上へ

また腰廓の様です

更に上へ行きましょう

そこにも腰廓状の平場が有ります

平場を南へ進むと送電線の鉄塔が有ります

送電線の手前に本丸への上り口が有ります

北側には土塁が残ります




本丸址です

北側の一段高く成った部分は櫓台でしょうか

南西側の眺めです、小貝川が南へ流れています


南下にも郭が有ります、戻りましょう


送電線鉄塔の下を進みます


東へ進むと土橋に堀跡が有ります

鉄塔下へ戻り、矢印通りに南へ進みます

南下の郭を西へ

階段を下ります

階段が急になって、林の中を抜けると

道路に出ました

ここへ出てきました

東へ進んで、内外神宮へ戻ります

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茨城県筑西市、内外大神宮です!!

2015-02-19 07:33:13 | 文化財・寺社
内外大神宮は、筑西市役所の北北東約7kmのところ

県道45号線が丘を越える手前、小貝川の蛇行の内側にあります

大神宮鳥居前に駐車スペースがあります

鳥居です

内外大神宮石碑です

参道を進みます

階段を上がります

右手に手水舎です

左側に神楽殿です

大々神楽の説明版です
   県指定無形民族文化財
     小栗内外神宮太々神楽
                 昭和四十一年三月七日指定
   寛延四年(1751)六月山城国(現京都府)愛宕郡三島神宮宮司、友田左京及び祇置大政所市大進の両名に
  より時の内外大神宮宮司、小栗山城守宣政に伝授され、その後、伊勢神楽師の指導を受け、十二神楽三十六座を
  成立させた、更に小栗三喜が舞に工夫をこらし、現在の神楽師に伝承された。
   神楽は、岩戸神楽で、あくまで神代神話にもとづいた神楽、三十六座により勇壮なる舞と融和的な舞とで構成
  されている。
   十二神楽とは十二の場面に登場する三十六柱の神々のことである。
   内容は神々の功績をたたえ、平穏な自然と作物の豊穣を祈り、悪を払い幸福を祈願する神楽である。
   この十二神楽のほかに、八岐大蛇退治の舞がある。この舞は大正初期に神楽師の師匠が作ったものである。
   春四月二十日、秋十一月十日の例祭にこの神楽が奉納される。
                  平成二年三月二十日        筑西市教育委員会






境内社の社殿も立派な物です

階段右手にも境内社があります


拝殿です

本殿へ行きます


玉垣に門があります



内宮本殿と外宮本殿です

重要文化財です

説明版です
   重要文化財(建造物)
     内外大神宮   内宮本殿 付・内宮御門
             外宮本殿 付・外宮御門
                  平成二十一年十二月八日指定
   社伝によれば、大同元年(806)頃に創建され、応永年間(1394~1428)に兵火により社殿を焼失
  したとされる。
   本殿は向かって右に内宮本殿・天照大神を祀り、左に外宮本殿・豊受大神を祀る。
   建築手法は、共に三間社神明図造茅葺(銅板仮葺)であるが、外宮は全てにおいて内宮より規模を減じている
  。
   現社殿の建立年代は、延宝七年(1679)で、地元の大工によって建てられている。
   当地は、「神宮雑記」によれば寛治~康和年間(1087~1104)には伊勢神宮領となり、県内でも唯一
  の御厨(小栗御厨)であったことが明らかにされている。
   この御厨の地に鎮座する内外大神宮は、正統的な神明造本殿を二棟平行並立させる形式としてわが国で現存す
  る最古のものであり重要である。
   また、伊勢神宮御厨に勧進された神明社として建築年代が明らかな点においても価値が高い。
            平成二十二年三月二十五日    筑西市教育委員会


西側の土塁の上から本殿を見ます

重要文化財標柱です

拝殿の右手に覆い屋があります


御遷殿です

説明版です
   重要文化財(建造物)
     内外大神宮   御遷殿<遷宮> 
                   平成二十一年十二月八日指定 
   一間社流造で、向拝柱及び方柱の大面取り、海老虹梁の袖切などの細部手法や全体の形式は、室町時代の古様
  をとどめている。
   扉金具刻銘「祈迎 厚木大和守 同柳町源右衛門 元亀五年 甲戌二月吉日 敬白」により、天正二年(15
  47)の建立と判り、室町時代の建築として重要である。
            平成二十二年三月二十五日    筑西市教育委員会    

重要文化財です

では、小栗城跡へ行って見ましょう
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茨城県筑西市、新治郡衙跡です!!

2015-02-18 21:52:13 | 遺跡・史跡
新治郡衙跡は、筑西市役所の北東約6kmの国道50号線の南側にあります

直ぐ東側は桜川市の面しています。

新治廃寺跡の東側に押しボタン信号が有ります、この信号を南に入って

分かれ道を右に進むと、畑の中に史跡碑があります

史跡 新治群莪跡の碑です

史蹟 新治郡家及 不動倉址茨城縣指定の碑です

説明版です
   国指定史跡 新治郡衙跡
         昭和43年5月20日指定
  この遺跡は、奈良時代の常陸国新治郡の郡衙(役所)の跡で、昭和16年と同18年の再度にわたって調査され
 その全貌が明らかにされました。
  確認された遺構は四群に分かれた建物跡で、東部群に十三棟、北部群に二十五棟、西部群九棟、南部群に四棟の
 計五十一棟を数え、その範囲は十二ヘクタールの及んでいたものと思われます。
  このうち東部群十三棟は、類聚国史に「弘仁八年冬十月癸亥、常陸圀新治群災、燒不動倉十三宇、穀九千九百九
 十斛」とある記事に符号することから、不動倉跡と推定されます。
  また、各群とも建物の基礎は砂礫の混じった土を使って地固めをしてその上に礎石を置くが、屋根は草葺きか板
 葺きであったと考えられます。
  ここ古郡の地は、奈良時代の地方官衙として郡衙跡の調査された遺跡の先駆けでもあり、地名と文献記載記事を
 裏付けた遺跡としても重要であるとともに、新治国造系譜をひく新治郡の大領家を中心として栄えた様子がうかが
 える貴重な遺跡です。
                  平成二十五年三月       筑西市教育委員会


東側の様子です

北側の様子です

南側には、筑波山が見えました

では、次へ行きましょう
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茨城県桜川市、市村家館跡です!!

2015-02-17 20:47:34 | 城跡・館跡・陣屋跡
市村家館跡は、桜川市役所の南西約6kmのところ

谷貝峰城跡の南約1kmの所にあります

県道148号線を南へ、西に入ると住宅地の中に天神様が有ります

鳥居と社殿が有ります

天満宮の額です

社殿の壁に説明版が有ります
       下谷貝天満宮
    一・御祭神は菅原道真公である。
    一・天正年間(1580年頃)の頃、市村家一統の先祖が河内の国より移住したとき、道明寺天満宮より
      分祀したものと言い伝えられている。
    一・以来、近隣諸家の崇敬をあつめているが、明治新政府の命により鴻巣明神・鹿島神社と共に三所神社
      として、旧谷貝村の村社いも参加している。
    一・社殿は明治の始めまで現在地の南側大字下谷貝字天神453-1にあったが、明治三十五年道真公千
      年祭の折りに、拝殿、鳥居、灯籠などを整え現在のものとなった。
    一・祭日は一月二十五日、六月二十五日(百万燈)十一月二十五日
     ・十一月二十五日の祭礼が最も大切なものとされ、午前二時奥殿の御開帳をするのがしきたりとされて
      いる。
                             =平成十匕年四月十日市村家文書写=
社殿の北側に門のある大きな住宅が市村家のようですが、写真撮影は遠慮しました

社殿の周りには、石塔などもありました

鳥居の前の梅の木(白梅)が花を咲かせていました

では、次へ行きましょう
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茨城県桜川市、谷貝峰城跡です!!

2015-02-17 07:18:38 | 城跡・館跡・陣屋跡
谷貝峰城跡は、桜川市役所の南西約5kmの所、谷貝小学校の南側

県道148号線を南へ、谷貝小学校の南を西へ進むと

西側の田んぼに突き出すような部分があり、この中に城跡が有ります

この道路を北から上がってきました

南へ続きます

東側の道路です

城跡の中心部の十字路です、西側城跡への入口です、駐車には道路脇を利用させて頂きました

一郭へ行って見ます


堀跡です、北から登ってきた道路は、堀跡を壊さないように作られているのでしょうか


こちら側が二郭でしょうか

一郭南側の堀跡です

踏み跡がありました、一郭へ行って見ます

堀底です、きれいに管理されています

一郭内部です、真四角に近いと思われ、土塁が四方に巡っています

南面土塁です

東面土塁の上です

東側の堀の先に道路が有ります、その先にも同じ高さで郭や居館が有ったのでしょうか

東側土塁の中ほどに虎口が有ったようです、四方の土塁に切れ目はここだけでした

北側の堀跡です、少し薮に成っています

北側の堀も同サイズのようです

西側の堀ですが、解りにくいですね

二郭を西へ行って見ます

祠が有ります


一郭のに市側の郭の様です、土塁が残っています


西への虎口の様です


笹の窪みは堀跡の様です

西側へ出ました

西側の虎口です

南側の様子です

西側道路から北を見ます

では、戻って次へ行きましょう

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茨城県土浦市、東城寺と経塚群です!!

2015-02-16 06:17:44 | 遺跡・史跡
東城寺は、土浦市役所の北西約10kmのところ

清滝観音の西約2kmにあります


東城寺の裏山には日本三大経塚と言われる史跡があります




山門です


参道を進むと階段に成りますが、左へ進むと本堂の脇の駐車場まで進むことが出来ます

階段を登り切ると本堂前の境内です



鐘楼です


結界石です






本堂です




文化財案内板です

和讃の石碑です

本堂裏側の洞窟です

経塚へ行って見ます

本堂裏側の山の中腹にあります

経塚が見えてきました




一番大きな経塚はフェンスにおおわれていますが、多くの保存状態はあまりよくありません


経塚で説明版です
  
    史跡 東城寺経塚群
   明治三十五年学術調査の結果、十二箇所にわたって経塚が発見され、内一つは大塚と命名された。十二の経塚群から
  銅製の経筒六個をはじめ、和鏡、花瓶、壺、皿、椀、短刀、硝子小珠、写経など多くの出土品があった。
   二個の経筒には、次のような毛掘りの銘が施されており、当時、常陸平氏が寺の外護として栄ていたことや、比叡山
  とのかかわりが深かったことなどがわかる。
  *経塚(1)大塚の経筒(高さ30cm・口径16cm・青銅製)
       天治元年 甲 歳 「辰」 「次」 十一月十二日乙酉
       奉安置銅壺一口
       行者延歴寺沙門経暹
       大壇那陰子平致幹
       銀「作」三國将時
  *経塚(3)の経筒  (高さ26cm、口径14cm、青銅製)
       保安三年大歳 仁 寅 八月十八日 甲 辰
       如法経書写供養願主
       聖人僧明覚大壇越平朝臣致幹
         法界衆生平等利益所
       「奉」遂果如右敬白
  *平致幹(むねもと)
    納経の施主平致幹は、ここから北西約6km北条の多気城を本拠をもち、常陸大掾職初代の国香から六代目にあたる
   その領域は現在の筑波・真壁・新治・猿島・北相馬・東茨城・鹿島・行方の各郡の大部に及び、当時、六郡の領主と称  
   したと云われるほどの富豪で、武力に秀で、その財力、文化力の勝れていた武人であった。
    天台宗であった東城寺(現在は真言宗)を外護していたことがわかる。
  *末法の世
    当時は、貴族の支配体制が大きくくずれて地方の政治は乱れ、寺院は世俗化して僧兵の横暴が目立ち将来に対する不
   案がつのる一方であった。
    釈迦の入滅後2000年を経て、現世はいよいよ末法の世となり、佛の教えの衰えは即ち世の中の衰えとおなじであ
   るとする末法思想が、強く人々の心をとらえるようになった。
  *納経の人々
    末法第一年は、永承七年(1052)にあたる。末法の世に、財あり信仰深かったものは、経文を筒に納め、経塚を
   築き、経典を後世に伝えて、その善行によって世の乱れを直し、また、自己の極楽往生を願ったという。
    延暦寺沙門経暹は、後に辻法眼と称され、天台宗の明 をもって名高く、多くの弟子が天台座主に任ぜられている。
    聖人僧明覚は、経暹の法孫にあたり、天台宗の蘊奥をきわめた。
    東城寺は恒武天皇の勅願寺として、比叡山の根本中堂と、琵琶湖のほとり坂本の日吉大社とを、東国に勧進して建立
   されたといわれ、経塚から出土した経筒銘は、この関係の深かったことを物語っている。
                  昭和61年8月30日     土浦市教育委員会

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茨城県土浦市、坂東観音26番霊場、清滝観音です!!

2015-02-15 06:25:31 | 坂東三十三観音霊場
清滝観音は土浦市役所の北北西約13kmのところ

筑波パープルラインのみなみ側斜面にあります

県道199号線の突き当りになります


参道入り口の案内板です、坂東二十六番 南明山清滝寺です

山門の下です、駐車場は左に進むとあります

水郷筑波国定公園特別地域の案内板です、図のオレンジの丸が清滝観音です

清滝観音の説明版です、ちょっと傷みが目立ちますね~

    清滝観音
   坂東33ヶ所霊場の26番札所で有名な清滝観音は、推古帝15年(607)に竜ケ峯に創建され、大同年間
  (806-810)徳一上人により古観音に移されたと伝えられる真言宗の寺です。
   匕堂伽藍を備えた大きな寺は、天正年間(1573-1592)小田氏・佐竹氏の兵火により焼失し、江戸時
  代に現在地へ再建されたと伝えられているが、昭和44年(1969)本堂、昭和48年(1973)仮堂が火
  災にあい、現在の本堂は昭和52年(1977)に再建されました、江戸時代に建てられた山門が、昔日の面影
  をつたえています。    文化財を大切にしましょう        環境庁 茨城県


山門です

階段を進みます

寺社巡りと田園風景の道コース案内です

本堂です

手水舎です

鐘楼です

歓喜無料の石碑です

弘法大師堂です

本堂再建記念碑です

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茨城県石岡市、丸山古墳と奥津城跡です!!

2015-02-14 16:15:37 | 城跡・館跡・陣屋跡
丸山古墳は、石岡市役所の北東約8kmの、県道42号線沿いの運動公園の南側の丘の上にあります

県道42号線が90度に曲がる直ぐ西側から北へ入る細い道を進みます

駐車場は、丸山古墳入口の直ぐ先にあります

県道脇には、史跡丸山古墳の石碑が有ります

案内板にしたがって進みます

佐志能神社前の案内板です

史跡丸山古墳と佐志能神社の説明版です

   高友の丸山丘陵の中央の丸山古墳と佐志能神社は、大和朝廷の東国討伐に大きな功績を残された第十代祟神天皇
  第一皇子豊城入彦命の奥津城であり、命を奉斎した社として、古くから崇敬され顕彰保存されてきた。
   昭和二十七年、丸山古墳の性格を学術敵に究明する必要から、明治大学の後藤守一教授の指導の下、高部民
  の、十日間の協力奉仕による発掘調査の結果、前方後方墳(長55m、高7m)で、後方部中央からご遺体を納め
  た粘土棺が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅鏃、勾玉、管玉、小玉、鉄刀、鉄剣等多数の遺品が副葬されていた
   古墳の築造は四世紀末から五世紀初頭の頃と推定され、東国地方に於ける貴重な古墳であることが明らかにされ
  た(昭和27年12月18日県指定)
   佐白古墳、二子塚古墳等の縁の古墳約三十基を丸山古墳群と称す。
   副葬品は八郷地域内の出土品と共に柿岡博物館に保管、一般に展示公開されている。
    昭和五十五年    丸山古墳保存会   県文化財保護協会  


神社入口です

下には、県道沿いに鳥居が見えます

古代散策ロードの案内図です

丸山古墳へ行って見ます

入口から北へ進みます


大きな堀跡があります

廓内です

虎口の土塁です

史跡丸山古墳説明版です

    県指定史跡 丸山古墳
          所 在 地  石岡市柿岡字丸山4123
          指定年月日  昭和27年12月18日
   丸山古墳は、八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の流域に展開する広大な洪積地に南面した、柿岡の高友丘陵の景勝の
  地に占める全長55m高さ7mの前方後円墳で、古くから祟神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城として伝承され、
  古墳の近くに鎮座する佐志能神社とともに顕彰されてきた。
   昭和27年12月明治大学後藤守一教授の指導の下に学術調査が行われ、その結果、後方部の墳頂下約2mの地点
  粘土床が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅鏃、勾玉、鉄刀、刀子などの副葬品が出土した。
   これらのことから丸山古墳は前方後方墳という珍しい墳形であるとともに、副葬品の内容などから、五世紀初頭の
  頃に築造された県下でも代表的な古式古墳となっており、東国の古墳時代の研究には欠かせない存在である。
          昭和55年11月            石岡市教育委員会


丸山古墳へ行きます、鉄製の扉が有ります


墳丘への登り道です

前方部です

墳丘上です

後円部の登り口に五輪塔が有ります

後円部から前方部を見ます

古墳の周りに堀が有ります

北側へ続きます

堀跡と土塁が周濠と交わります

虎口まで戻ってきました

二子古墳へ行って見ます



二子塚古墳入口は、佐志能神社の東側からの入口です



二子塚古墳の説明版です
   
     二子塚古墳(丸山4号墳)
   古墳は恋瀬川左岸の高友地区の後背に連なる50~60mの丘陵部に所在し、丸山古墳(丸山1号墳)の東方
  30mに位置する。
   古墳としては、横穴式石室を有する中規模の前方後円墳であり、主軸を西北方を示し、丸山古墳及び筑波山に
  相対して築かれている。
   昭和29年度において、明治大学考古学研究室及び高友地区の奉仕活動を得て埴輪円筒列の調査と、明治時代
  に乱掘の被害を受けている横穴式石室の修復作業が行われた、墳丘からはきめ細かな粘土を用いて焼かれた円筒
  埴輪や形象埴輪(人物・馬)など出土している。
   県内の横穴式石室を有する前方後円墳としては、比較的早い時期に築造されたものと考えられる。
     所 在 地   八郷町大字柿岡字丸山4118番地の2
     古墳の規模   全長35m
             後円部径20.5m  高さ3m
             前方部端幅18m   高さ2.7m
                平成14年3月  八郷町教育委員会



全体像は把握できませんが石室の部分は覆い土がなくなっています

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