ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県志木市、柏町3丁目「柏の城跡(史跡)と城山貝塚」です!!

2024-04-13 18:34:00 | 城跡・館跡・陣屋跡
 柏町3丁目は志木市役所の西南西約1.5kmのところ

 志木市役所前から県道36号線の栄橋を西へ渡って直ぐの「市場坂上」信号を斜め右へ県道113号線です

 約600mで「四季小学校前」信号を右(西)へ入ります、柏通りです

 約200mで「第2福祉センター入口」信号を斜め右へ入ると


 まもなく南東向きに第三小学校校門です

 避難所指定されています

 柏の城跡標柱です

 説明版です
   史跡 柏の城跡
 この一帯を遺跡とする柏の城は、木曽義仲の子孫である武蔵屈指の豪族大石氏が室町中期に造った居館である。
 そして京都聖護院の門跡道興准后が文明18年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集「回国雑記」に見える「大石信濃守といえる武士の館」とされている。
 ここで言う大石信濃守とは大石顕重のことで、本城は現八王子市の高月城だった。
 顕重以後の城主は定かではないが、大永年中(1521~1525)に修築が行なわれ、本丸(運動場のほぼ中央)、西の丸(長勝院境域)、二の丸(わき道に沿った校地の一角)、三の丸(前の市道を背にする一帯の宅地)を備えるに至ったと伝えられる。
 その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正のころは、大石越後守直久が城主だった。
 直久は顕重の曾孫大石定仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。
 柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国のほかの諸城と同じ時期の天正18年(1590)。
 徳川家康が江戸へ入府すると、家臣福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。
      昭和54年10月1日   志木市教育委員会


 大堀跡が南側に在るようですので行ってみました

 フェンス沿いに説明版が在ります

    柏の城大堀跡
 柏の城は、中世の城郭といわれていますが、築城年代や城主などは定かではありません。
 えど時代の記録などによると、志木第三小学校の校地に本曲輪、その東側にニの曲輪、市道をはさんだ南側に三の曲輪、長勝院のあったあたりに西の曲輪が築かれ、南から東への平地に大堀を堀り、その南側を追手(大手)としたといわれています。
 昭和60年、追手門と思われる部分を含む三の曲輪の発掘調査が行われ、大堀も約90mの長さにわたって検出されました。
 昭和55年の市史編さん室が行った発掘調査の結果と総合すると、この大堀は上幅約20m、底幅1.5m~2.5m、地表面からの深さ約4mを測る大規模な空堀であることがわかりました。
 また、昭和60年の発掘調査の際には、陶器・温石(かいろ)・硯などの遺物が出土しました。
     平成25年2月    志木市教育委員会

 西側の長正院跡は西の丸跡ですので行ってみましょう


 市指定天然記念物の「長勝院跡旗桜」です

 小学校側にシダレザクラです

 枝垂桜の根元の説明版です
   柏の城西の曲輪跡
 柏の城は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の室町中期からの居館といわれていますが、その築城年代などは不明です。
 江戸時代の享保12年(1727)から同14年にかけて舘村(現在の志木市柏町・幸町・館付近)の名主宮ケ原仲右衛門仲恒により執筆された「舘村旧記」によると、現在の第参三小学校に本曲輪が、その東側にニの曲輪、市道をはさんだ南側に三の曲輪が、そしてこのあたりには西の曲輪があったとされています。
 このあたりは、かつて亭の台とも呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説もあり、古来よりこの地域を統括するような有力な人物に関係する、なんらかの施設があったらしいことが推測できます。
 また、舘村八景(江戸時代の舘村の景勝地)の一つに「亭の下の夕照」とあり、この附近は、秩父連山から冨士山めで眺望できり景勝の地としても有名なところでした。
    平成6年2月35日   志木市教育委員会


 小学校の東側を北に降りて行くとです「城山貝塚」です

 「志木市指定 文化財 城山貝塚」標柱です

 説明版です
    城山貝塚
 この貝塚は、柳瀬川低地を臨む台地の突端に位置し、標高約10m、柳瀬川低地との比高差は約4mあります。
 周辺からは縄文時代前期(約5000年前)の諸磯式期の住居跡が発見されており、この貝塚も、同時代のものと推定されます。
 縄文時代前期頃は、気候が大変温暖な時代で現在に比べ平均気温が2度程高く、これにより極地の氷がとけ海水面が平均3m程上昇していました。
 そのため海は内陸深くに侵入しており、今よりずっと近くにせまっていたようです。
 貝塚は古代人たちが貝殻等を捨てたいわばゴミ捨て場のようなものですが、当時の食文化等を知ることができる大変貴重な資料でもあります。 
 城山貝塚から採集された自然遺物は今のところヤマトシジミ・マガキ・ハマグリ等の合わせて11種の貝類が確認されています。
 なお、「城山」とは、この辺一帯の字名です。
     平成2年3月30日    志木市教育委員会

 では、次へ行きましょう
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群馬県前橋市、河原浜町「大胡城跡」(県指定史跡)です!!

2024-03-25 06:44:04 | 城跡・館跡・陣屋跡
 河原浜町は、前橋市役所の東北東柏10km、前橋市大胡庁舎の北東約200mのところです

 前橋市大胡支所南側の「おんたけ坂」を東へ下り、「大川橋西詰」信号を左(北)へ
 
 約250mの「城山橋」の所を左(西)へ入ります

 トンネルが見えて来ます

 トンネル入り口右手に「大胡城跡」の石碑です

 左手には城跡の斜面が城壁となっています

 トンネルを潜って右手に石段がありますが、真っ直ぐ進んで二の丸に車を止める事が出来ました

 大胡城二の丸の標柱です

 二の丸から本丸南西側土塁と本丸西側の空堀を見ました

 南東側から本丸南側の空堀です

 説明版です(斜めなのは太陽が反射していた為です)
  群馬県指定史跡 大胡城跡
    所在地 前橋市河原浜町660-1
    指定年月日 昭和42年2月2日
 城郭は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を持つ。
 枡形門、水ノ手門虎口、空濠、土塁等の跡が良く残っている。中世上野の名士である「大胡氏」が拠ったと言われている。
 天正18年(1590)徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡領2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。
 牧野氏は、元和2年(1616)に越後(新潟県)長峰へ、そして長岡へと転封された。
 以後、大胡城は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2年(1749)酒井氏が姫路へ転封し際し、廃城となった。



 二の丸南西側には、橋の欄干が集められています

 附近に「水の手門」があったようです

 二の丸南東側には

「枡形門跡」です

 石垣が残ります

 北側です

 西側です

 二の丸南東側から大胡の街(南側)を見下ろしました、前橋市大胡支所のある場所は、城の三の丸だったようです
 
 *現在トンネルになっている所は、土砂崩れ防止のために空堀をトンネルにしたようになっています。本丸出入には、ここに木橋を架けていたのではないでしょうか
 
 戻って、トンネルそばの石段を本丸へ上ります

 石段を上がりました


 大胡城本丸です 

 本丸南西側土塁は高さ約3mの高土塁です

 本丸東端から南側です

 東側です

 北側には赤城山の裾野広がっています

 本丸北側にはカスリン台風による被害者の慰霊之塔です

 水害記念碑です昭和22年(1947)9月14日~15日に大胡では荒砥川が土石流となって多くの死者が出ています
 *この台風による死者は1077人、行方不明者は853人、負傷者は1547人となりました(理科年表) 。 その他、住家損壊9298棟、浸水384743棟 、耕地流失埋没12927 ha など、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらしました。

 北側の空堀です、この先にも北城や大胡神社のある近戸曲輪などが続きます
 
 
 神社のようですがお名前が分かりませんでした

 すぐ西側に記念碑です
  記念碑
   大胡城墟碑
  貴族院議員従三位勲三等子爵牧野忠篤撰弁篆額
 大胡城者藤原秀郷八世孫大胡次郎成家之所築也成
 家無子第重俊嗣稱大胡太郎任官左馬助歿在十四日
 逸年月其後子孫相継居於此至常陸介高繁移武州牛
 込天正十八年牧野右馬允康成来治於此慶長十四年
 十二月十二日歿子忠成嗣元和二年十二月移封於越
 後長峰而城墟焉爾後属前橋城主治下荒廃經年遂為
 竹林徒留城山之稱巳
 王政維新後為官有地明治七年春前橋藩士秋田啓太
 郎請官購有之明治三十一年十二月二十四日啓太郎
 歿所養女波留嗣後有故将以城山地貿貨河原濱村民
 相謀鳩金一千三百圓買之約永久不轉賣於是山林一
 町七段七畝十九歩為本村共有財産寶明治四十年四
 月四日也至今年更議建碑記顛末以論後昆云
   大正七年二月乙午之日 大竹勝衛敬書

 *二の丸の説明版より詳しく書かれていますね

 本丸の西側の土塁が切られています

 本丸西側の空堀です

 北西側の空堀です

 では、次へ行きましょう
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福島県南会津町、田島根小屋甲「鴫山城」(県史跡)は、今回も山頂まで行けませんでした!!

2023-08-19 06:29:38 | 城跡・館跡・陣屋跡
 田島根小屋甲地区は、南会津町役場のすぐ西側のところ

 国道121号線の一本南側の通りに「鴫山城」の案内板が有りますので南へ進みます

 間も無く砂利の駐車場に入りました

 鳥居が有ります

 道路の両側には侍屋敷があったようです

 案内図です

 説明版です


 馬頭尊・庚申塔・愛宕山の石碑が建っています

 侍屋敷跡が続きます

 先へ進みます

 遊歩道の距離表示があります

 鴫山城の鳥瞰図のの描かれた説明版です
   福島県指定史跡 鴫山城


 右側には丘の様な部分があります、この上にも侍屋敷があったようです


 西側の空堀です


 東側の堀跡には水が溜まっています 


 大門跡です



 西側の石垣です

 東側の石垣です

 広い草地の中に「井戸跡」の立札です

 「御平庭」は大門跡から漱清水の土塁まで登城路の東側の広い部分に数段続きます


 登城路の右側が、帯郭の下千畳(二の丸)です

 下千畳の東側虎口です

 登城路東側には土塁が延びています

 土塁の上に「鴫山城」の標柱です、土塁の上には祠があります

 御合清水です、綺麗な水が湧いていましたので、喉を潤わせて頂きました


 上千畳を西へ行ってみました


 上千畳(本丸)には、多くの政庁施設があったようです

 上千畳の西端から、下千畳の西端を見ました


 矢倉台跡です、下千畳と上千畳の西側虎口を守るようになっていたようです


 土門跡です、ここから詰城(愛宕神社)までの西側登山道が続いています

 下千畳の堀跡です、雨粒が当たってきましたので、戻ることにしました

 二重堀切になっているようです

 侍屋敷跡には「モジズリ」通称ネジバナが沢山さいていました

 残念ですが、次へ行きましょう

 この後激しい雨に打たれました、降り出す前に帰ってこられてよかったです
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新潟県上越市板倉区、別所「焼山城跡」です!!

2023-05-31 06:30:35 | 城跡・館跡・陣屋跡
板倉区別所地区は、上越市役所の南南東約16km、上越市板倉区総合事務所の南東約3kmのところ

 総合事務所前信号を南へ、約300mの針信号を左(東)へ県道95号線です

 約2kmで県道右手に「焼山城跡」の幟が出ています

 説明版があります、道路脇に車を止めさせて頂きました
   焼山城址案内
 永禄7年(1564年)上杉謙信の命により景勝が養子になった際、養護係として魚沼上田城(樺沢城)執事であった宮島三河守吉煕一族が1万石の武将として春日山城に着任、長男宮島若狭守吉房が氏祖の地宮島集落に館を構え曾根田焼山には山城を構え信濃から関田峠越えんお監視の任務にあたった。
 文録2年(1593年)9月に亡くなり、子宮島与八郎吉則が二代目1030石城主となったが慶長3年(1598年)上杉家の会津移封に伴いこの任が終わった。


 じゅんさい池まで車で入ります

 謙信公根越三城将供養堂跡です
 三城将とは、曾根田焼山城主 宮島若狭守吉房と別所小嶽山城主 高梨源五郎、福王寺御殿平城主 福王寺彦八郎孝重です

 途中には畑が広がっています、先の交差点からは林道になります

 軍用道路(馬道)の観音堂と庚申塔入口です、焼山城跡の幟が並びます

 右手にじゅんさい池です

 左手(東側)へ100mですので本丸跡へ行ってみました

 杉林の中を進みます

 杉林を貫けます


 緩く登って行きます、斜面にはスミレの群落です



 チゴユリの群落です

 石碑が在ります

 焼山城本丸跡の案内板です

 天保14年(1843)10月建立と思われる石碑には、宮島若狭守吉房之城跡とあります

 焼山城本丸跡の標柱です

 切岸状の斜面です

 本丸跡から北東側を望みます、木々が無かった戦国時代には関田峠からの道(現県道95号線)が見えたはずです


 土塁らしき地形も確認出来ました


 焼山城本丸跡から少し南側の板倉区栗沢の林道から西側に、日本百名山の妙高山・火打山と二百名山の焼山です

 その北側にはスキー場の有る大毛無山などの標高1400m前後の山々が望めました

 では、次へ行きましょう

 2023年4月22日午前9時25分訪問です
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富山県砺波市、庄川町隠「隠尾城跡」(市指定)です!!

2023-05-24 18:30:04 | 城跡・館跡・陣屋跡
 庄川町隠尾地区は、砺波市役所の南安島約13km、砺波市役所庄川支所の東約2kmのところ

 砺波市役所庄川支所南側の県道371号線を東へ、庄川を舟戸橋で渡り直ぐを右斜めの細い道路へ入って行きます

 約3kmの名ケ原集落で県道346号線に出て左(北東)へ、道成りに1.2kmで

 北東向き参道の隠尾八幡宮前に出ました

 参道入口の石碑は、東砺波郡東山見村隠尾部落図屋号記念碑です、中に「大欅」の文字が見えましたので行ってみました

 八幡宮の前の道を北東へ「隠尾部落」は屋号で表記の「ドブト」の一軒のみとなっているようです

 「大欅」の表記の位置にケヤキは見当たりません

 「イナベ」前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 形の良い若いケヤキが記念碑表記の道路反対側に有ります、目通り幹囲2.5m程です

 記念碑表記の池の脇を入いります

 砺波市指定文化財標柱と説明版です
   砺波市指定文化財  種類 史跡  指定日 昭和62年3月30日(令和5年2月21日名称変更)
     隠尾城跡(かくりょうじょうあと)
 隠尾は庄川右岸、鉢伏山南麓の小集落で、古くから鉢伏山を越えて砺波郡よ婦負郡を結ぶ間道があり、尾根伝いに五箇山と飛騨にも通じる要衝でした。
 南部氏の祖先は南部次郎佐衛門尉宗治といい、足利尊氏の弟である足利直義に仕えましたが、観応2年(1351)にこの地に逃れた館を構えたと言われています。
 その後、中興の祖である源左衛門尉尚吉の代に上杉謙信に攻められ落城し、尚吉自身も討死しました。
 その結果、子の源右衛門は飛騨に逃れますが、戦乱後の隠尾に戻り、城跡の傍らに住みました。その子息は今日にまで続き、城跡の隣接地には近年まで城主の末裔と伝わる家がありました。
 主郭の東西約21m、南北約29mの平坦地です。南側は谷に続く急崖で、ほかの三方は高さ約4mの切岸があり、東側に腰郭と西側に虎口があります。この虎口は土塁を備えた折れ虎口です。主郭上には「啼石(なきいし)」と称する石があり、南側の崖下には籠城用の飲料水にしたという湧水跡(城清水)が残っています。
    令和5年3月31日   砺波市教育委員会

 切岸ですね

 虎口です



 郭内です

 「啼石」のようです

 南側の谷です

 東側にも郭らしき平場が見えます


 西側の切岸の斜面には木々が繁茂しています

 
 白のサザンカが綺麗です

 では、次へ行きましょう
  
 2023年4月21日午前11時45分訪問です
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静岡県吉田町、片岡「小山城跡」(町指定文化財)です!!

2021-12-09 06:39:55 | 城跡・館跡・陣屋跡
片岡地区は、吉田町役場の北北西約1kmのところ

国道150号線の片岡信号を北へ

間も無く左手に「怪しい天守閣」丘の上に見えて来ます、小山城展望台です

小山城展望台駐車場に車を止めさせて頂きました



小山城駐車場です、怪しい天守閣の小山城展望台が見えています


能満寺山案内図です

説明版です
 小山城跡
  所在地 片岡2519-1
   町指定文化財第4号
  指定日 昭和39年4月1日
 小山城は、戦国末期の平山城である。
 遠州進出を企てた武田信玄は、その重要拠点である小山の砦を攻略し、元亀二年(1571)砦を修築して、小山城と命名し、大熊備前守長秀を城主とした。
 徳川軍は、これを攻め取ろうとして、十余年のわたり激しい戦いが繰り返されたが天正十年(1582)二月遂に落城した。
 城跡には三日月堀、三重掘、井戸跡が残り,落城の悲しい物語もある。
  吉田町教育委員会


案内図です



大手口へ行きましょう、駐車場の反対側(北側)なので、県道に戻って南東側から展望台を見ました

太平洋岸自転車道です

北側に回り込んで来ました、用水路(かつての水堀かも)を渡って

右に上がって行きます

大手門あたおだそうです

井戸跡だそうです

右手に三重掘りが有ります

展望台への道を通って先に西側の入口へ行って見ます

郷土資料館です

直先に空堀が有ります


三重掘の南端です

堀に掛けられて橋を渡ります


左右の堀です

展望台が見えて来ました

立派な石垣です

東側の堀です、すぐ先には虚空蔵尊が在ります

三日月堀に馬出です

左右の空堀です

虚空蔵尊前から能満寺境内を通って駐車場に戻りました

では、次へ行きましょう



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兵庫県明石市、明石公園「明石城跡」です!!

2021-11-26 06:35:38 | 城跡・館跡・陣屋跡
 JR山陽本線(神戸線)あかし駅の北側に明石公園が有ります、かつての明石城の跡です

 あかし駅北口を出て左(西)へ進み信号を渡ると明石城大手口です



史跡 明石城跡です

兵庫県立明石公園案内図です

大洋漁業の創業者「中部磯次郎」翁の造です

西側の堀です、菊花大会の幼稚園や保育園児の育てた菊の鉢が並びます

東側の堀です

大手門虎口を入ると左の庭園へ、正面右(東)に巽(たつみ)櫓、左(西)に坤(ひつじさる)櫓です

東側の明石城武蔵の庭園内から巽櫓を見ました

東ノ丸下から見ました
.
巽櫓を下から見上げました

二ノ丸への登り口です

中段の武者走りでしょうか、巽・坤櫓が並んで見えました

二ノ丸虎口です

二ノ丸です、奥が東ノ丸です

本丸への虎口です

虎口から巽櫓を見ました

本丸入口です

大きなヤマモモの木が在ります

東側の長い塀から巽櫓です

西側の坤櫓です

南側を見下ろしました

坤櫓です

大きなクスノキの在る天守台です

天守台と坤櫓です、坤櫓が小天守の様にすぐ隣に建ています

天守台入口です

天守台上から坤櫓です

本丸の中の小山は人丸塚です


説明版です
  遺跡 人丸塚
 1.弘仁2年(812)僧空海がここに楊柳寺を建てた
 1.任和のころ(880年のころ)住職覚証が柿本人麿公の夢のおつげで人麿公えお祀った
 1.明石築城後は城の守り神として祀られてきた
    兵庫県

本丸北西側の虎口です、下って稲荷曲輪へ行きましょう

左に本丸の石垣を見ながら下ります

南西側なら天守台を見上げました

稲荷曲輪から坤櫓と左に天守台です

稲荷曲輪から坤櫓の下を南へ下ります

中段の武者走りです

右に稲荷曲輪の石垣を見ながら下ります

坤櫓を見上げえました

下った所にラクウショウの大木です

県内最大のラクウショウです

郷土記念物の標柱です、明石公園の大ラクウショウ、県内最大のラクウショウです

公園大手口前まで戻って来ました、クスノキの大木です

では、次へ行きましょう
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熊本県八代市、松代城町「八代城跡」です!!

2020-04-30 06:36:18 | 城跡・館跡・陣屋跡
ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前の4月12日八代市内へ・・・

八代市役所は現在工事中です、市役所の西側に

八代城跡公園が有り、本丸跡には八代宮が鎮座します

JR鹿児島本線やつしろ駅前から市内循環バスに乗り

市役所前で降りました、城跡の南東側です。


中心市街地マップも確認しました

南側の八代宮参道から城跡公園入口です


城跡の案内板です

説明書きです
   国指定史跡 八代城跡
 元和8年(1622年)に築城された八代
城とその城下町八代町は、今も江戸時代の姿
をよくとどめています。築城当時からある周
辺のお寺や神社は現在も同じ位置にあり、当
時の町割りが今の人々の暮らしの中に受け継
がれています。
 八代城の中心となる本丸には、大小の天守
台と8つの櫓が築かれ、中央には大規模な本
丸御殿が設けられていました。外観4層、地
下1階の大天守がありましたが、寛文12年
(1672年)に落雷で焼失し、その後は再
建されませんでした。 
 現在は、お堀と石垣の一部が残り、本丸跡
には明治16年(1883年)に八代宮の社
殿が落成しました。八代城跡は今なお八代市
中心部のシンボルとなっています。


堀に掛かる橋の上から左右の石垣を見ました、かつてはこの橋はなかったのです

石垣を切って参道を造ったわけですね、鳥居の位置が大手門の位置です

二ノ丸とされている部分が堀の南側道路から東側に回って市役所の位置です

では、かつての順路から行きましょう(余呉くんのお城のページが参向になりました)

城跡の南東側石垣です、二の丸が鈎の手に曲がっている部分です

東側の本丸入り口欄干橋です

南側と

北側の石垣です

枡形虎口です

高麗門跡・欄干橋跡の標柱です
 高麗門は本丸の正面にあたる表枡形門の
一の門です。枡形門とは四方を石垣で囲み、
敵の直進を避けるとともに、敵の側面及び
背面から攻撃するために喰い違う二箇所に
門を設けたものです。一の門には幅二間一
尺の高麗門を設けていました。この高麗門
は、現在本町一丁目の本成寺に移されてい
ます。二の門は頬当御門と呼ばれて東西九
間南北三間を測り、石垣の上に設けられて
いた櫓門でした。また、欄干橋は本来木造
の太鼓橋で、八代城築城年を示す元和8年
(1622)銘の擬宝珠が残されています


枡形内から東側高麗門と欄干橋方向を見ました、石垣が高麗門の土台ですね

北に向って直角に曲がると石垣の間に頬当御門と呼ばれた櫓門が有ったようです

また直角に西に向きます、白い壁が八代宮社務所の建物です、かつての本丸御殿の位置です

さて、南側に回りましょう


南側石垣への石段です、八代宮参道西側井戸の所です

南側石垣の上から東を見ました、切られてしまった部分と横箭掛の石垣です

南側の石垣上を西へ行きます、まだ桜が残っています

月見櫓の標柱です
 本丸の南西隅に建つ月見櫓は二階建ての
櫓です。一階は梁間五間・桁行六間、二階
は梁間三間・桁行四間の大きさが有ります
。屋根は入母屋造で、本瓦葺です。北側の
小天守との間は「石落とし」二箇所を持つ
三十八間の長塀が有ります。また、東側の
十二間櫓との間は、同じく「石落とし」二
箇所を持つ四十六間の長塀で結ばれていま
す。

北へ進みます

小天守台です

小天守跡の標柱です
 小天守は東西九間、南北四間半を測る外
観二層内観三階(地下部分を含む)でした
。大天守とは東西四間・南北八間の渡櫓で
結ばれており、当時は大天守の下の平場か
ら石段を登って小天守の地階に入り、渡櫓
を通って大天守の地階へと通じていました


小天守の地階部分の石垣と大天守台です

大天守地階への入り口です

東側から天守台の石垣です

大天守跡の標柱です
 大天守は、東西十間、南北十一間を測る
外観五層内観六階(地階部分を含む)でし
た。屋根の両棟には鯱が載って偉容を誇っ
ていましたが、築城から五十三年後の寛文
十二年(1672)2月19日落雷による
火事で焼失してしまい、その後再建される
ことはありませんでした。

天守台には、昭和天皇の展望碑が建てられています

北側の展望です、堀の北側には三の丸と北の丸です

北側の虎口の守り、唐人櫓への石垣です

では、北側の虎口からの入り口を確認しましょう


北西側から天守台です

北東側から

屋根の付いた廊下橋と廊下橋門の石垣です

廊下橋門の標柱です
 廊下橋門は、本丸の搦手口にあたる裏枡
形門の一の門です。枡形門とは四方を石垣
で囲み、敵の直進を巡すとともに、敵の側
面及び背面から攻撃するために喰い違う二
箇所に門を設けたものです。廊下橋門は両
側の石垣の間に東西五間、南北二間藩の櫓
門で、その下部に門を設けていました。現
在でも門の礎石が残されています。

枡形です

埋門跡の標柱です、北側の枡形二の門です

門の内側右手石垣の上には唐人櫓が有りました

では、次は北の丸にある臥龍梅です
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山梨県甲府市、丸の内「甲府城跡(舞鶴城)」(再訪)です!!

2020-03-08 06:38:41 | 城跡・館跡・陣屋跡
甲府駅の南東側に甲府城跡が有ります

城跡の西側には山梨県議会議場や

南西側には甲府市役所庁舎などがあり

甲府の町中に大きな舞鶴公園となっています




史跡 甲府城跡です


甲府城跡南側入口です

案内板です、城内を確認しましょう

鍛治曲輪です

坂道を登って行きます

坂下門跡の説明版です(門は復元されていません)

正面左が二の丸です、ここを右へ

鉄門下です

中の門跡です(ここにも門が有ったようです)

鉄門です

説明版です
 甲府城の歴史
 今から410余年前、豊臣秀吉の命により
浅野長政・幸長によって甲府城は築城されま
した。築城は、江戸の徳川家康をけん制する
目的でしたが、江戸幕府が開かれると代々徳
川一門や柳沢氏の居城となりました。
 鉄門復元整備事業のねらい
 かつて城下町から見上げた鉄門は、明治初
年に他の建物と共にすべて取壊されてしまい
ました。この鉄門を復元し歴史景観を再現す
ることは、甲府城跡の文化的価値や理解をよ
り高めるものと考えています。また、甲府中
心市街地からの眺望は、新たな魅力と人の流
れを生み、城下町甲府の風格と活気を取り戻
すものと期待されます。

山梨県教育委員会・埋蔵文化財センター


鉄門を入ると右手に天守台です

天守台の説明版です、天守台に登りましょう


西川の風景です、南アルプスの山々が綺麗に見えています、右に特徴的な甲斐駒ケ岳、鳳凰三山、白い雪をかぶっ

た間ノ岳と農鳥岳、日本第二の高峰北岳は鳳凰三山の後に山頂が見えます


南側です、鉄塔の左手に富士山が見えています


東側です



北側です、山の中腹から上には、甲府では雨が雪になっていました

北側の稲荷曲輪を見下ろしました

北東側の稲荷櫓が綺麗ですね

では、甲府駅から身延線の電車に乗って身延町へ行きます
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福島県南相馬市、小高区村上「村上城跡」です!!

2020-03-07 06:48:00 | 城跡・館跡・陣屋跡
避難指示が解除されてしばらく経ちました

太平洋を望む小高い丘の上に村上城跡が有ります

本丸跡には貴布根神社が在って参道は南側から

崖を登るような道になっています

城跡としての登城口は北側かなと

北側から丘に上がることにしました



城跡を南側から見ました、登城口は北側のようです

西側を回って北側の道路を進みます

東日本大震災の津波被害地に松の苗木が育てられています

ここが登城口のようです

木段に手すりが有ります

平にされている部分は郭の跡でしょうか

右に曲がるように上がって行きます

岡の上に出ます

祠に石塔・石造が並んでいます

手水舎です

丘の北側に貴布根神社の社殿です

南側に続く参道の西側には、古四王社の社殿です

説明版です
 南相馬市指定文化財第4号
   村上城跡
1、指定年月日 昭和41年3月31日
2、種類    史跡
3、所在地   小高区村上字舘腰舘内地内
4、説明
  慶長元年(1596)相馬藩主第16代
 義 は、東に蒼海を望み西に湖沼をめぐら
 す、四願一望、最も要害の地と定め、十塁
 を築き濠をめぐらしまさに殿舎を建てよう
 とした前日、火事が起きて山積みした材木
 がたちまち灰になってしまったと伝えられ
 る。義 はこれを不吉として、牛越に城を
 築いて慶長2年、小高城から移った。当時
 の築城様式を後世に伝える重要な史跡であ
 る。旧本丸跡には貴布根神社・古四王社な
 どが祭られている。海岸の浸食により、城
 跡と推定される一部は海に没している。




震災の被害です、鳥居が倒れてしまっています

貴布根神社の石塔は立っています

丘の上は広い草地(刈払いがされていました)です

東端です、戻りましょう

車で東端へ向かいます

城跡の東端です、太平洋の荒波に崖が崩れています

北側に続く海岸線です

大きな防潮堤が築かれています

では、次へ行きましょう



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埼玉県所沢市、滝の城址の夫婦樫と桜のハートマークです!!

2019-04-01 06:20:57 | 城跡・館跡・陣屋跡
3月31日、久しぶりの滝の城址訪問です

所沢市役所の東約6kmのところ

武蔵野台地が柳瀬川に落ち込む段丘の上に本丸跡があります

国道463の南側の県道179号線から南に入ると

所沢東病院の向かい側に入口が有ります

城跡内の二の丸跡が駐車場になっています

この先を左です

「武州滝の城」の幟があります

こちらの幟には「所沢滝の城」とあります

鳥居をくぐると二の丸です

鳥居脇右の二重掘りです

左側の堀跡です

社務所脇に案内板が有ります、滝の城のパンフレットも設置されています

本丸へ行きましょう

右(南側)の堀跡のサクラが見頃です

左(北側)の堀跡です、以前来た時より綺麗に管理されています

手水舎です

拝殿です

本殿です

拝殿西側の土塁上に御神木でしょうか、注連縄の巻かれた夫婦樫です

案内板です

城跡碑です

こちらも立派な城址碑です

説明版です

本丸跡のサクラです、こちらはまだ五分咲きですね

本殿裏側から馬出お見ました

元は橋があって本丸の出入口はこちら側だったようです

城跡の東側斜面には横穴墓群があります、古代からの斜面をそのまま城に使用していたのでしょうか

柳瀬川沿いの滝の城運動公園沿いのサクラは満開のようです

武蔵野線を貨物列車が通っていました

本丸跡のサクラです


帰り際の本丸入口でハートマークを見つけました

サクラの木の幹にできた瘤がハートに見えました

山梨県富士吉田市の小室浅間神社参道のハートマークと遜色ないと思います

二ノ丸のサクラです

可愛いスミレが咲いていました

では、次へ行きましょう

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茨城県土浦市、土浦城(亀城)跡です!!

2019-03-04 06:17:49 | 城跡・館跡・陣屋跡
土浦城跡は、土浦市役所の北西約1kmmのところ

国道125号線と国道354号線の交差点の南東側に有ります

常陽銀行の有料駐車場を利用しました




国道125号線と国道354号線の亀城公園北交差点を東へ入ると亀城公園です

亀城公園入口正面は霞橋を渡ると本丸への入り口です、正面の櫓は東櫓です

史跡碑です、土浦城址及び櫓門とあります

北側の堀です

南側の堀です

霞門です、本丸には入らずに戻ります

説明版です
  亀城公園案内図
 土浦城が築かれた時期は定かではありませんが、
現在知られている土浦城は江戸時代に整備されたも
のです。江戸時代前期には松平氏、西尾氏、朽木氏
等、中期以降には土屋氏が城主となりました、土浦
城を拠点とする土浦幡は、土屋氏のときに藩領が9
万5000石となり、常陸の国では水戸藩に次ぐ領
地の広さをほこりました。
 土浦城は「亀城」とも呼ばれています、明治時代
以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、
自治会館等として利用されてきました。
 昭和に入り本丸と二の丸の一部を公園として整備
し、亀城公園の名で現在も親しまれています。
 昭和27(1952)年には櫓門とともに茨城県
史跡第1号となりました。
 櫓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝え
られ、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方
で唯一現存するものです。階上に太鼓を置き、時刻
を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれてい
ました。

南側に回ってみましょう

南側の堀越しに東櫓です

二ノ丸から見ました、東櫓と長塀が続きます


南側の入り口は旧前川口門です

説明版です
  市指定文化財 建造物
   土浦城旧前川口門
    指定 昭和46年(1971)7月13日
 この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた
高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形
式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町
屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている
。江戸時代末期の建築である。
 明治18年(1885)に土浦戸長役場(のち町役
場)の門として、さらに大正9年(1920)には田
宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後
、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる
「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(198
1)移築されたものである。
  平成14年(2002)3月
               土浦市教育委員会

門の東側、外丸側の土塁跡です

門の西側、外丸の土塁跡です

内側二の丸、門の東側です

西側です

二ノ丸から堀越しに太鼓櫓前を見ました

真中の築山に二の丸跡の石柱があります

ここにも説明版があります、文面の内容は東側のものとほぼ同じですが、図面が違いますね

櫓門(太鼓櫓)です

櫓門前に土浦城址碑が有ります

櫓門を入ると本丸です、東櫓です

近付いて見ました

土浦市立博物館付属展示館になっています

西櫓です

近付いて見ました

説明版です
  土浦城 西櫓
由来 本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主
  西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立され
  たとされ、西櫓はその一方の櫓である。
   土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃
  藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、
  象徴として存在していた。
   土浦城内の建物は、明治以降、本丸館を始め多
  くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、
  昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西
  櫓を残すのみとなった。
   そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキテ
  ィ台風により、小破し、昭和25年復元を前提と
  して解体された。
   その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石の
  みが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎな
  かったものを、市民の浄財をもとに復元したもの
  である。
    平成4年7月   土浦市教育委員会

西櫓脇からの本丸全景です


西櫓北側の堀です

南側の堀です

堀の外側から西櫓を見ました

二ノ丸へ戻りましょう

南西側出口の橋です

南西側の橋の上から北側の堀です

南西側の土浦小学校の前を通って北側に回ります


浦和市立博物館の脇に、土浦城櫓門の礎石や土浦領境界石などが有ります

では、次は亀城のシイです
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茨城県行方市、小幡「小幡城跡」です!!

2019-02-09 06:43:33 | 城跡・館跡・陣屋跡
小幡地区は、行方市役所の北約9kmのところ

県道2号線・県道50号線・県道184号線と来て

観音寺の案内板を入り、参道入口に車を止めました

観音寺の敷地と北側の小学校跡はかつての小幡城の跡だそうです


観音寺緑地環境保全地域説明版です、白く囲まれた部分が本丸と三の丸の部分だそうです、書学校の敷地が二ノ丸だそうです




観音堂東側の土塁跡です


観音堂北側の土塁跡です


西側の土塁跡です


三ノ丸(観音堂周辺)と本堂側の境に空堀が有ったようです、今は段差はわずかです

西側の空堀跡は道路になっています

東側の空堀跡です



本堂西側の庫裏まえまで広い平場が本丸でうす


鐘楼の載る部分は土塁の跡のようです


本堂脇に城跡碑が有ります
  小幡城跡
 平安初期、小幡と行戸を余戸の里と言う。
 小幡旧記に、桓武天皇の孫、平高棟王(804~867)、平氏の祖
 大同元年(806)5月小幡に宮郭を移す。同3歳子戌2月18日筑
紫施音寺より、如意輪尊、満開上人郷に移す。
 旧記、根元家文書 記最後焼失 疑問残
 伝記、堂山、平の屋敷跡と言う。今年附近より和銅開珎か、古銭堀出
す。
 元正2年(1260)行方十郎房静寛が、行方郡小幡郷大和田村を買
取(現郵便局から元水門の間附近を言う)
 寺伝であは、その頃、忍性上人によって観音寺を中興したと伝えられ
ている。
 上人の足跡、根元家へ一泊、漢方薬、ねずみの薬を上人から伝授、家
伝として長男に直伝、平成2年晴一没にて絶えた。
 鎌倉中期、常陸大掾平氏系の幹が初見、幹知の名ある、玉造城主3代
、景政の子、辰幹は小幡氏分流か、該当地、我が小幡、最も有力、当時
の城は館と言って正しくは豪族屋敷と言う。
 文保元年(1317)時綱(真壁郡)、永享元年(1429)には、
鉾田町の烟田氏の守護領に、なっている。
 寛正5年(1464)玉造正重、、小幡城完成し正忠六郎に渡される

 天正6年(1578)正幹は佐竹軍に敗れる。
 天正19年(1591)佐竹軍、武田、行方の双方から攻撃、一騎打
戦にて、士、阿間美六郎忠政敗れ落城。
 城跡、本丸今の観音寺本堂のある一帯、土塁を残している 二の丸空
堀を埋め小学校敷地、三ノ丸観音堂の一帯
 天正13年 大掾清幹、高岡の砦を攻める。領主、飯田又次郎


茨城百景、巨木三本松
 高さ42m、幹周り約12m、樹齢約800年位、小幡城の庭木、関
東では、類なく、茨城巨木写真展一位、昭和39年枯れ伐採。数個の皮
を保存、遠くは鹿島より見えたと言う。




本堂東側の土塁跡です

本堂北側の土塁は二の丸との境になっています


二ノ丸との境の空堀跡です


一段下がって北側の二の丸跡は小学校解体の工事中でした

では、次へ行きましょう
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茨城県行方市、小高「小高城跡」です!!

2019-02-07 07:12:45 | 城跡・館跡・陣屋跡
小高地区は、行方市役所の北北西約5kmのところ

国道355号線の南坂下信号から岡を上るように県道184号線を北へ

小高のカヤを見た後、北へ進むと県道5導線に出る手前のカーブに

小高城跡の説明版が建っています

説明版前の道路脇に車を止めさせて頂きました





説明版のある城跡入口です

説明版です
  小高城跡
 平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹が郡司として
行方の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。その子
景幹(一説宗幹)は源平の戦において源氏に与し、屋島の戦
いで没した。
 元暦元年(1184)、その所領は景幹の四子に分与され
、長子為幹は行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子
幹政は玉造に進出した。彼等は、それぞれの地名を名字とす
る地頭として、「行方四頭」と呼ばれた。鎌倉時代初期、行
方城主であった為幹はここ小高の地に居城を移し、小高氏を
名乗った。その後裔は開発や社領侵略などにより、次第にそ
の勢力を拡大し、小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根
、繁昌、吉川まで支配したこともある。
 戦国時代末期、天正19年(1591)2月、幾多の戦乱
を生き延び約400年にわたりこの地を支配し、十数代を数
えた小高氏も、佐竹氏の「南方33館の仕置」により鹿島・
行方の所城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。
 小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。
慶長7年(1602)、大山義則が城将のとき、佐竹氏の秋
田移封により廃城となった。
               行方市教育委員会


城跡に行って見ましょう

北側へ進みましょう

大きな平場が有ります

一段高く成った平場でうす

これ以上は無理なようですので・・・

次へ行くことにしました

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埼玉県美里町、広木「伝大伴部真足女の遺跡」です!!

2019-01-21 06:32:24 | 城跡・館跡・陣屋跡
広木地区は、美里町役場の西南西約3kmのところ

国道254号線の南側、本庄市との境近くに

伝大伴部真足女の遺跡が在ります

道路脇に車を止めさせて頂きました

案内版です

石碑があります

正面から



説明版です
 万葉遺跡
   伝大伴部真足女の遺跡
  県指定旧跡(昭和36年9月1日)
 ここ一帯は大字広木字御所の内と呼ばれています。
 堀形の田畑に囲まれた90m四方の遺跡が、防人檜前舎人石前
(さきもりひのくまのとねりいわさき)の館跡といわれています

 真足女は、檜前舎人石前の妻で、防人に赴くことになった夫に
、この悲しい別れに臨んで、惜別の情を詠じたのが、防人の歌と
して、万葉集巻10に載せられています。
 「枕太刀腰に取り佩きまかなしき背ろがまき来む月のしらなく」
 この歌は夫を思慕する妻の真情を、遺憾なく吐露したもので、
1200余年後の今日でも、なお切々として、人の心を打ってや
まないものです。           美里町教育委員会




防人檜前舎人石前之館跡の石碑です

歌碑です

左の石碑は読めませんでした

この平面が館跡でしょうか

では、次へ行きましょう
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