電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

内田義雄『武士の娘~日米の架け橋となった鉞子とフローレンス』を読む

2016年06月28日 06時04分07秒 | -ノンフィクション
講談社+α文庫で、内田義雄著『武士の娘~日米の架け橋となった鉞子とフローレンス』を読みました。本書は、『鉞子(えつこ)~世界を魅了した「武士の娘」の生涯』という題で、2013年に単行本として刊行された評伝が、題名を変更して文庫化されたもので、オリジナルの杉本鉞子著『武士の娘』(大岩美代訳・ちくま文庫)は、残念ながら県立図書館にも配架がありません。それはともかく、本書の構成は次のとおり。

序章:エツ・イナガキ・スギモト
第1章:幕末維新に翻弄される父と娘
第2章:戊辰戦争と明治の稲垣家
第3章:婚約そして東京へ
第4章:空白の五年間
第5章:アメリカへの旅立ち
第6章:フローレンス・ウィルソン
第7章:帰国
第8章:賞賛された「不屈の精神」
第9章:協力者の死と戦争への道
第10章:鉞子が遺したこと
終章:黒船(The Black Ships)

本書を読み、はじめて知ったことがたくさんありました。

  • 稲垣鉞子の父親・平助は、長岡藩の筆頭家老で、非戦論の立場から主家存続を図ったが、主戦論者の河井継之助らに敗れ、失脚したこと
  • 明治維新の後、鉞子は東京に出てミッション系の女学校に給費生として学び、代わりに卒業後の五年間、遊廓のある浅草地域のミッション系私立小学校で教師として働き、熱心さと有能さを評価されていたこと
  • 渡米した兄が仲立ちして、サンフランシスコで事業を営む杉本松雄と婚約、オハイオ州シンシナティに移り、親日家のウィルソン夫妻のもとで結婚する。夫妻の姪フローレンスは、このとき花嫁の鉞子に付き添ってくれた人であったこと
  • 米国で夫が急死し、二人の子を育てる鉞子のエッセイ修行に、フローレンスが助力したこと。後にベストセラーとなる鉞子の自伝的小説『武士の娘』も、フローレンスの存在がなければ成らず。しかしフローレンスは絶対に自分の名前を載せることを許さなかったこと
  • 杉本鉞子は、太平洋戦争の終結を見た後に、昭和25年に亡くなっていること。日清・日露・日中戦争と太平洋戦争と続く争いを、戊辰戦争で非戦論を主張したために失脚した家老の娘は、何を思いながら見ていたのだろうか

鉞子は、米国における日本人初のベストセラー作家であるとともに、日本人初のコロンビア大学非常勤講師となります。そのころの感慨:

「米国人でも日本人でも人情に変わりはなく、ただ皮想が異なっておるばかりで、紳士はどこでも紳士、淑女はどこでも淑女、であるということに帰着いたしました」(p.227)

このあたり、今では常識となっていますが、当時の日本女性が自分の体験を通じて得た結論なのですから、言葉の重みが違います。



ところで、勇ましい論は人の耳目を引きますが、恭順を唱える非戦論は腰抜けだと非難されます。結果的には、藩主の地位は家老の努力によって保たれたというのに、藩主は家老を疎んじ、失脚させてしまいます。このあたりは、どうも君主のあり方の影響が大きいようです。もう一つ、河井継之助が抜け目なく確保したガトリング砲でしたが、どうやら使い方がわからなかったのか、活躍した形跡がないようです。

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