ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

防己(つづら)地区 八幡神社

2014-05-13 05:00:00 | 田舎

防己と書いて「つづら」と読む、その根拠が全く解りません。集落の名前ですから固有名詞なので、漢字に意味を持たせてない場合もあることは解りますが、昔からこの集落を「つづら」と呼んでいたのなら、パソコンでは廿楽や九十九、葛籠などの漢字として変換されるので、そのような字を当てそうなものです。ところがつづらを人命・地名で変換させると防己が出てくるのですね。昔の因幡の国、現在の鳥取市に防己尾(つづらお)城という城が有ったらしい。でも鳥取のお城と関連させるのは難しい、もっと調べていると防已黄耆湯(ぼういおうぎとう)と言う漢方薬が有るのが分りました。その漢方薬の成分に防已(ツヅラフジ科)の根や茎が使われているそうなのです。

             

ひょっとするとこの地域にその防已がたくさん自生していたのかも知れません。そうなると「つづら」と呼んでいた集落が防己と書くようになったのが頷けますが、事の真偽が分ったわけではありません。そもそも“防己(つづら)”と“防已(ぼうい)”ではよく見ると少し字が違うではありませんか。

             

大師像の石仏の反対側を佐本川の本流が流れていて、川向こうに神社の鳥居がチラッと見えました。これが地図で見ると江住から一番近い八幡神社、明治の神社合祀令の際、住民たちが抵抗したので残ったそうなのです。和歌山県って保守王国なのに政府に楯突く人も居るには居たんですね。

       

神社合祀令は住民の抵抗もあったようですが、多くは廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどの不満にとどまっていたようで、南方熊楠らの言論によって1910年に廃止になりました。

             

実際に足を運んでみると、境内などは皆無に等しく、前はすぐに川が流れています。この後他の神社にも寄るのですが、山の上に祀られているものが多く、この川辺にある神社といい、自然信仰を窺わせます。

             

次に立ち寄ったのが大己小学校跡。防己と書いて「つづら」と読んだのでしたから、大己は何と読むのでしょう?もうさっぱり解りません。人の名前なら「だいき」なのですが・・・

       

石碑には明治12年創立、昭和45年廃校と彫られています。明治12年は1879年、小学校としては早く出来てますね。その頃はこの地区ももっと人が多かったのでしょう。昭和45年は1970年ですから92年間有ったわけです。最後の卒業生は私より年下と言うことになりますが、どれ位の生徒数を輩出したのでしょうか?

             

だけど、この小学校には運動場の有った気配が有りません。大地が運動場だったのか?プールは川が有るから要りませんよね。