ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

佐本中野地区 中山神社

2014-05-16 05:00:00 | 田舎

再び38号線に戻り、佐本の中でも郵便局やGSがある佐本中地区は避けて走り抜け、中山神社を目指しました。今度は探さずとも目の前に鳥居が見えたので、ここが中山神社だということがすぐに分かりました。

             

ここも最初から階段を登って行かねばなりません。佐本が開拓されたのが江戸初期だと言いますから、アニミズムではないでしょうが、自然崇拝的で八幡神社にしても稲荷神社にしても水辺や山の上に有りました。山の上に信仰対象を造っておけば、わざわざ山の上まで登らなくても、家からでも山を見つめて祈っておれば良かったのかも知れません。

             

絵地図にも描かれていましたが石の太鼓橋が確かに有りました。佐本を開拓した三本清左衛門清直が大谷村郷谷渕から2kmに及ぶ難所を経て潅水路を造り、野添平中山の山脚を深く切り堀り、大井の溝を完成させたと案内板に書かれていました。現在佐本に野添の名は残っていないようですが、中山というのはこの神社の名前の起源でしょう。その大井の溝の上をこの太鼓橋が跨いでいるのです。この太鼓橋が出来たのが明治14(1881)年、追川村、栗垣内村、中村の人が施主になっていました。

       

支柱や接着剤も用いず、力学応用の珍しい参道橋で、幾度かの地震にも耐え、一分の狂いもなく、すさみ町の文化財になっています。スサミの文助、定一という人が石工として名を残しているようですが、このようなことが出来たなんて偉いものです。

文政12年の年号が彫られた石鉢のようなものに木が鉢を食おうとしているように立っています。決してこういう現象を目にしたことがあるプラタナスの木ではありません。登って行く道はつづら折れになっている所もありました。

             

5分ほどで鳥居に到達、太鼓橋以外は大谷にあった稲荷神社に似た造りでした。

             

こういうのを拝殿と呼んでいるのでしょうか?ここには狛犬がありませんが、水道が一対狛犬のように並んでいるのが滑稽です。

                        

花瓶と鈴が祀られている祠、何の神様が祀られているのでしょう?鳥居に貼られた千社札のような紙には“修験道 行者信仰の理念 世界平和 国家安泰 萬物萬象の立命祈願 修験節律根本道場 大和国 大峰蛇之倉 七尾山”と書かれていました。

             

中山神社から少し下ると中野川入口という標識、キイジョウロウホトトギスの里への矢印が見えますが、花の見ごろは10月なので今回は素通り、もう姫の家を出てから3時間近く経っていて、昼前なので食事にしたいし喉も乾いてきたのですが、近くに店らしき店は有りません。佐本中の郵便局やJAが有った辺りまで戻れば何か有ったかも知れませんが、面倒臭いので、それが間違いだったのですが、そのまま古座街道を歩きに出かけたのでした。

栗垣内地区 大泉寺

2014-05-15 05:00:00 | 田舎

おそらく大谷隧道が出来るまでは図書館や大谷会館の前の道を使っていたのでしょうが、今はトンネルを使う人(車)ばかりになっているのでしょう。私はそのまま旧道を使い、佐本追川という集落を目指したのですが、いつの間にか県道に戻ってしまっていて、追川の集落はパスして栗垣内入口と書かれた案内標識に従って県道36号線に入ったのでした。

             

絵地図にはあちらこちらにいろんな庚申さんがお祀りされていると書かれているし、石塔、石仏が並ぶとも書かれていますが、一つも見つけられません。一応は大泉寺といお寺を目指していたのですが、どうやら気付かずに通り過ぎたようで、引き返しました。途中左の山側に上る道が見え、その奥に石垣が見えたので、これが目的の大泉寺だと思い、車を停めたのでした。

             

立派な石垣ですが、下から見てもお寺かどうか分りません。こういう石垣って造る専門家がいるのでしょうか?石垣自体が都会には有りませんから、需要も無いので職業にしている人はいないでしょうが、昔は居たのかも知れませんし、村のみんなで協力して造ったのかも知れません。協力して造ったというよりは、無理矢理造らされたと言う方が正解なのでしょうが・・・

       

階段を登ってみるとやはりお寺でした。三界万霊等とか小さな祠、これには阿弥陀仏が祀られていましたから阿弥陀堂と呼んでいるのかも知れません。

             

この辺りのお寺はお堂と呼ぶには相応しくないお堂の前の境内が狭いので、正面からお堂全体を写すことは困難です。山を削って土地を造ったので細長い境内になってしまうんでしょうね。

             

絵地図には十六羅漢堂が有ると書いてあったので、羅漢像が観れると思っていたのですが、お堂は有りましたが閂がかかっていたので、見ることが出来ませんでした。

       

階段の下には仙石山と大泉寺と彫られた碑、また大きな石碑が建っていましたが、何が書いてあるのかさっぱり解りませんでした。左の山にはフジの花が咲き誇っていました。

この後佐本川の支流・東栗垣内川の対岸に八幡神社があることになっていましたが、鳥居が見えないので何処の道を降りたら良いのか判らなかったので、そのまま帰ってしまったのでした。



大谷地区 稲荷神社

2014-05-14 05:00:00 | 田舎

防己集落を後にすると次は大谷集落、県道38号線から右に脇道を入らねばなりませんが、気が付かず大谷隧道手前まで行き過ぎてしまいました。Googleの地図を見ると大谷会館という建物が載っているのですが、貰ったお散歩絵地図には大谷会館は有りません。逆にGoogleの地図には目的の稲荷神社は載っていないので、相関関係が分らないのです。でも大谷会館自体はすぐに見つけることが出来ました。

             

大谷会館の前に愚車を停めたのですが、目的の稲荷神社は何処なのか判らず、歩いて38号線の方へ戻ったのですが、それらしき鳥居さえ見えません。大谷の集落は川向こうに広がり、大蔵寺というお寺も絵地図には載っていたのですが、そちらに向かおうとは思いませんでした。

             

大谷会館まで戻り、会館前を通過するとすぐに山へ登る階段が有るのが見え、絵地図にも階段が描かれていたので、ここかも知れないと思い、少し登ると漢詩の碑が建っていましたが、字があまり高くない凸状で書かれており、よく読めませんでした。父母・・から始まる詩であったことは覚えています。昭和41年晩秋の建立なので、もうじき50年経ちますが、その頃なら大己小学校にも未だ生徒が通っていたのですから、もっと人が住んでいたんでしょう。

       

階段を登ると燈籠が有ったので神社に行けると確信し、山道を歩き、5分ぐらいで初めて鳥居に到達しました。

             

絵地図にはツガの大木が聳え立つと書かれていましたが、どれがツガの木なのかよく分かりません。それにしても粗末なお堂です。毎日参拝する人もいなくなってるのかも知れません。

       

参道を5分も歩くと聞くと大きな神社みたいですが、ホントに寂れた神社です。でもしっかりと狛犬が並んでいます。左の写真の石像は何を彫っているのか分りませんが、坂に置かれているので、随分傾いています。

             

14~5分で愚車まで帰ってきました。私が停めておいたところは大谷会館の前でしたが、その反対側にも店のようなものが有ったのですが、閉まっていました。ガラス戸から中を見るとスチール棚が見えましたが何も乗っていません。よくよく外観を見ていると図書館のようでした。こんなところにも図書館が有ったんだと妙に感心したのでした。

防己(つづら)地区 八幡神社

2014-05-13 05:00:00 | 田舎

防己と書いて「つづら」と読む、その根拠が全く解りません。集落の名前ですから固有名詞なので、漢字に意味を持たせてない場合もあることは解りますが、昔からこの集落を「つづら」と呼んでいたのなら、パソコンでは廿楽や九十九、葛籠などの漢字として変換されるので、そのような字を当てそうなものです。ところがつづらを人命・地名で変換させると防己が出てくるのですね。昔の因幡の国、現在の鳥取市に防己尾(つづらお)城という城が有ったらしい。でも鳥取のお城と関連させるのは難しい、もっと調べていると防已黄耆湯(ぼういおうぎとう)と言う漢方薬が有るのが分りました。その漢方薬の成分に防已(ツヅラフジ科)の根や茎が使われているそうなのです。

             

ひょっとするとこの地域にその防已がたくさん自生していたのかも知れません。そうなると「つづら」と呼んでいた集落が防己と書くようになったのが頷けますが、事の真偽が分ったわけではありません。そもそも“防己(つづら)”と“防已(ぼうい)”ではよく見ると少し字が違うではありませんか。

             

大師像の石仏の反対側を佐本川の本流が流れていて、川向こうに神社の鳥居がチラッと見えました。これが地図で見ると江住から一番近い八幡神社、明治の神社合祀令の際、住民たちが抵抗したので残ったそうなのです。和歌山県って保守王国なのに政府に楯突く人も居るには居たんですね。

       

神社合祀令は住民の抵抗もあったようですが、多くは廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどの不満にとどまっていたようで、南方熊楠らの言論によって1910年に廃止になりました。

             

実際に足を運んでみると、境内などは皆無に等しく、前はすぐに川が流れています。この後他の神社にも寄るのですが、山の上に祀られているものが多く、この川辺にある神社といい、自然信仰を窺わせます。

             

次に立ち寄ったのが大己小学校跡。防己と書いて「つづら」と読んだのでしたから、大己は何と読むのでしょう?もうさっぱり解りません。人の名前なら「だいき」なのですが・・・

       

石碑には明治12年創立、昭和45年廃校と彫られています。明治12年は1879年、小学校としては早く出来てますね。その頃はこの地区ももっと人が多かったのでしょう。昭和45年は1970年ですから92年間有ったわけです。最後の卒業生は私より年下と言うことになりますが、どれ位の生徒数を輩出したのでしょうか?

             

だけど、この小学校には運動場の有った気配が有りません。大地が運動場だったのか?プールは川が有るから要りませんよね。

佐本を歩く 歓喜寺

2014-05-12 05:00:00 | 田舎

田辺駅で時間を潰していた時、ふと目に入ったパンフレットがありました。きっと熊野古道の地図を描いた人の手によるものだと思いますが、“ご自由にお持ちください”と案内されていたので1枚貰ってきました。地図はすさみ町佐本のもの、42号線を走っているとすさみや江住で佐本への案内標識があるし、七川ダムにも佐本への標識があるので、佐本ってどんなところかと興味を抱いていました。

             

30日に大雨が降った後5月1日は朝まで雨が残り、ようやく昼から晴れてきましたが、2日からは晴天になり、みんながやって来るまでは何もすることがなかったので、佐本へ行ってみようと思ったのでした。何処から佐本へ行けばよいのかと迷ったのですが、すさみまでは遠いし、地図に拠ればすさみからでは14km、江住からなら10kmなので、江住から上ってみようと考えたのでした。姫の家から江住まで約20分、佐本に着いたのが10時前でした。

この地図では左下から入ってくることになります。

             

まずは防己(つづら)という最初の集落にある歓喜寺に行ってみることにしましたが、バス停の防己下というところまで行き過ぎてしまい、何処にお寺があったのか気が付きませんでした。最初の三叉路まで戻り、地図をよく見ると道路から少し奥まったところにあることに気付き、ゆっくり進むときっとここだと思えるところが有りました。

       

田舎のお寺はお堂など無い所が多いので、遠くからはお寺だと確信するのが難しいものです。このお寺は石垣と大木が見つけるポイントになりました。境内には地蔵さんが並び、奥には墓場が有りました。

             

こういう石塔は代々の和尚さんの墓になっていることが多いのですが、このお寺ではどうだったでしょう。

                      

写真中央に聳える大木はどう見てもモクレンですが、私はこんなに大きなモクレンの木を見たことがありません。今更ながら地図を広げてみると、タイサンボク(モクレン科)と書いてありました。 

             

歓喜寺の手前に大師像の石仏が載っていたので、これも探しました。道端にあったのですぐに気付くことが出来ました。

             

Googleの地図を見ると見老津からも上れることが分りましたが、少し道幅が狭いようです。でもすさみからの道(県道38号線)との合流点で雫ノ滝という滝があったようで、その滝も見たかったものです。

             

     

5月3~5日の釣り

2014-05-09 05:00:00 | 田舎

今年のGW後半の週間天気は3日・4日が晴れ、5日は曇りという予報でした。30日に大量の雨が降って5月1日には上がり、以降2日もとても良い天気でした。三男とY下君が3日の朝、夜にA竹君と今回初登場のヒィチャンと呼ばれているソフトボールをやっている女の子がやって来る予定でしたが、3日の朝にやって来たのは三男の彼女と4月19・20日の釣行時に来ていたTAーYA君、予定外です。全部で7人、船は定員内ですが、狭い姫の家では収容できそうにありません。今回は常連のT中君の参加がありません。

                    

先ず3日、三男とTA-YA君を乗せ7時過ぎに出航するとY下君からの携帯で、富田近辺に居ることが確認できました。この日は二人共スロージギングに挑戦、出雲の双子島の横から船を流していきました。でも釣れる様子も無いので、大島の表に移動しますが、1時間半ほどでY下君を迎えに戻らなければならないので、そんなに遠くには行けません。須江の近くで糸を出していたら、案の定10時ごろにY下君から到着の電話、早速桟橋まで戻ります。テンヤとスロージギングの出来る場所を探しながら移動しますが、どちらにもアタリがありません。結局、九龍島近辺まで走りましたが、風が強くなってきて昼で切り上げることにしました。

               

4日は皆さん気合が入っていたようで、4時起きの5時には出航、昼から風が出るので早めに終了というスケジュール、初めて船に乗るヒィチャンが大丈夫か心配ですが、何とか釣りを続けてくれていました。最初は通夜島と白野港の水道を抜けた辺りで釣りを始め、ガシラやオジサンをぼちぼち上げていたら、TA-YA君がヒラメを釣りあげました。この船に乗ってヒラメが釣れたのは初めてです。ヒィチャンもガシラを釣ったので、私としても一安心。

             

須江港で一度トイレ休憩を設け、須江と臼島の間を流しているとヒィチャンが一所懸命リールを巻いていて、竿先を見ていても大きな魚が掛かっているのが分かります。釣り上げたのは43cmのアカハタでした。超初心者のヒィチャンが大物を釣ったので皆さんテンションが上がります。

             

それから10分ほど経って今度はTA-YA君が格闘を始めました。これも大きそうなのが分かります。

                       

釣れたのは50cmオーバーのマハタ、TA-YA君は前回スロージギングでは釣れそうもないマルハゲを釣ったり、その前は船の燃料切れになったりで、あまり芳しくなかったのですが、今回はどうやら主役の座を射止めたようです。串本でもどうやら徐々に釣れ始めたような感じがしてきました。後はおじさん二人が何も釣れていないのでした。今回、私は殆ど操縦席に座っていて、竿は一切出していません。

       

10時を過ぎてアタリが遠のいてきたので、樫野のカツオ島の沖まで移動、少し深場になっています。東からの風のせいなのか、潮の流れなのか船は須江方面へ早く流されていきます。そんな中でY下君にアタリ、リールを巻いているとリールの軸にPEラインが絡んでしまいリールが巻けなくなってしまいました。でも針にはしっかりと魚が掛かっていて、腕で手繰り寄せたのは40cmは超えるイラ、同時にA竹君も竿を曲げていて、そちらは50cm級のマダイ、これで全ての釣り人がボーズを免れたのでした。12時前には終了し、桟橋の港へと引き上げたのでした。発泡スチロールに入っているのはTA-YA君の釣果、彼は今回ここまで、夕方のBBQを楽しまずに大阪へ帰ったのでした。

翌5日は朝からどんよりとした曇り空、BBQの疲れのせいかあまりテンションも上がっていません。雨は降らないだろうと思って出航したのですが、前日と同じ場所で竿を出したのにアタリは全く有りません。おまけに2時間ぐらいで雨が降り出しました。帰ることに決めたのですが、雨はどんどんきつくなり、くしもと大橋の下まで来ると激しく降り出し、前の灯台もかすかに見えるだけ、南防波堤に繋留しなければならないと思っていたので、どうなることかと思っていたら、車を取りに私とY下君が桟橋で降りた時には小雨に変っていて一安心、それでも苦労して南防波堤に停め、みんなで協力して後片付けをしたのでした。

ラフォーレ南紀白浜

2014-05-08 05:00:00 | 田舎

観福禅寺を後に門を出ると、来た時に気付かなかった池が左手に有り、龍賀(可)法印という(可)の意味がよく解らない坊さんが、“池のカエルの鳴き声を封じた”とあった門前池であることが理解できました。そう言えば、門前で見たアマガエルは鳴いていなかったなぁなどと考えながら、雨の中を歩いていました。

             

この池の中央に何か建ってるなぁ、何やろなぁと思いながら池を見渡すと・・・

       

ハクチョウが泳いでいました。寺の石垣の隅でエサか何かを啄んでいたので、最初は分からなかったのです。ということは、池の中央の建物はハクチョウの小屋ということになるのでしょう。お寺の門を出たのが5時半ごろ、まだ1時間余り時間を潰さねばなりません。雨の中をウロウロしていると、ブロック塀に白いペンキを塗り、その上から何か字が書いてありました。私は不思議に思って読んでいたのですが、往来する人は不思議そうに私を見ています。どうやら日本国憲法の前文が書かれているようですが、かなり昔に書かれたようで、もう字が全体的に読めなくなっていました。こんな田舎で積極的に憲法を大事にしようと思っている人がいることを思うと、なんだか嬉しくなってきます。

             

そうこうしているうちにU畑君から電話がかかり、もうすぐ帰るから前に来た時に一緒に飲んだ元校長先生を誘っておいてくれと家を教えてくれるのですが、ハウスの方とだけ言われても、苗字も覚えてないし、ハウスが何を指すのか、ビニールハウスなのかモダンな家なのか、よく分からなかったので誘うことは出来ませんでした。7時前になってやっと帰って来たU畑君、一緒に先生を誘いに行きます。先生は初めキョトンとしていましたが、暫くすると思い出したらしく、すぐに行くと言う返事、7時過ぎから酒盛りが始まりました。先生が持って来てくれた焼酎が“財寶”という銘柄、非常に飲みやすいから水で割らんとロックで飲むよう言われ、そうして飲んでみるとホントに飲みやすいので、毎日1,5ℓの水分を取らなアカンのを忘れてしまいました。

             

いつの間にか寝てしまった私、朝起きるとちゃんと布団で寝ていました。前夜のことは途中までしか覚えていません。録画した柔道の無差別級日本選手権を見せられ、9時過ぎに喫茶店に行き、その後温泉行きです。前来た時は『とれとれの湯』でしたが、今回は『崎の湯』に行こうとしたのですが、水曜日は休みでした。そこから少し山の方へ車を走らせて、着いたホテルがラフォーレ南紀白浜、そこの11階にある温泉に入浴です。

       

高台に有る上に11階の温泉ですから、眺めの素晴らしさにビックリです。眼前に白良浜が広がり、その先には円月島が見えていますが、普段目にするような角度では無いのでU畑君は違うと言います。でも地形からしても、斜めから見てもかすかに穴が確認できますから私は円月島であることを確信していました。それにしてもいろんな窓から見える光景は180度白浜の景色が堪能でき、白浜ってこんな地形だったのかと改めて思い直しました。窓で思い出しましたが、突然窓の上からシャワーが流れ出し、内窓を洗い流しています。内側を洗うのは良いとしても、どうせなら潮風が当たる外側も定期的に洗い流せばもっと良いのにと思いました。

       

12時前に白浜駅まで送って貰ったのですが、次の電車は1時38分発だとか、白浜の駅前って案外何も無いところなので、U畑君の友達と一緒に昼食をとることになり、田辺方面へ向かいました。朝食が遅かったのであまりお腹は減っていませんでしたが、時間が有り余るので仕方ありません。ところがその喫茶店の定食のご飯が多い、田舎って何処へ入ってもご飯の量が多過ぎます。お陰でその晩は夕食抜き、翌朝も、その昼も食べる気にはなりませんでした。

                       

1時過ぎに駅まで送って貰い、駅周辺を見て回りましたが、ホントに何も無い所です。駅の飾り付けも何かよそよそしい感じがします。南紀白浜に電車でやって来る人は、一目散にバスやタクシーに乗って海岸方面へ向かうのでしょうね。

観福禅寺

2014-05-07 05:00:00 | 田舎

雨の中、田辺の街を少しばかり散策したけど時間はなかなか経たないので、駅の横にある『木紙布庵えん』という地産の土産物を売る店に入り、少し時間を費やして1冊1500円もする『紀南の地名』という本をⅠ・Ⅱ巻2冊買ったのでした。その内容についてはいずれ何処かで書くかも知れません。紀南と言いながら、殆どが田辺の記述ですが、姫の地名の所以も少しばかり書かれていました。

             

それでも未だ電車が出発するまでには1時間ばかり有り、何もすることが無いので待合室の椅子に座って時間を過ごしたのでした。16時38分発の新宮行き普通列車に乗り、紀伊新庄・朝来・白浜の次が紀伊富田です。朝来という字は兵庫県に朝来(あさこ)市があり、椿温泉の近くに朝来帰(あさらぎ)という集落が有り、すさみ町と白浜町を結ぶ国道42号線上に朝来トンネルがあり、紀勢線の朝来駅は「あっそ」と読みます。他にもこの字を使っている所があるかも知れませんが、読み方だけでもいろいろあるものです。5時前に紀伊富田駅に着きましたが、肝心のU畑君は6時半まで仕事、これから未だ1時間半も時間を潰さねばなりません。

       

U畑君の家に行ったのは1年半ほど前、あの時は車で迎えに来てくれましたから、今回駅からどう歩けば良いのか、どうも不安です。駅を降りて信号を渡るとすぐに白華山・観福禅寺の案内柱が立っていたので、時間潰しにそちらへ行ってみようと思いながら歩いていました。途中でも案内柱があったので、このお寺へは簡単に行くことが出来ました。

             

門前には“禁殺生”の表示石(案内板にそう書かれていた)、1732(享保17)年、若山寺社奉行所より境内周八町、禁殺生地の指定を受け、禁殺生石を下し置かれたそうで、現在でも境内境界地に数個残っているそうです。若葉色の葉が落ちてると思っていたら、動いたのでよく見ると、それはアマガエル、普通2~3cmなのに、このアマガエルは5cmぐらいありました。

       

境内を奥に進むと高野素十という人の句碑があり、“使はざる 秋炉一つの お寺かな”あまり上手くは無いと思うのですが、高浜虚子の高弟だとか、でも終生俳壇とは無縁を通した人だそうです。もっと奥にはお墓が見え、案内札が立っていたので行ってみると、歴代の住職のお墓らしきものが並んでおり、どれだかは判りませんが、龍賀(可)法印の墓が史跡と指定されていました。そう言えば門前にもその石碑が新しく建てられていましたね。

             

『妙善』と彫られたこれは墓碑なのでしょうか。こちらには何の説明も有りません。

       

この頃になると、少し雨も緩んできて、少しは楽になってきました。無縁仏の列や居所の前のソテツ、お地蔵さんがあったので、これが案内柱に書かれていたボケ除けの地蔵なのかと思ったのですが、違いました。

             

弘安寺本尊阿弥陀堂、明治27年にこの観福禅寺に移されたもののようです。

                       

こちらが、案内柱に記されていたボケ封じのお地蔵さんだそうです。

                    

地蔵さんの右に『奈良大阪和歌山ぼけよけ二十四地蔵尊霊場第七番』、左に設立趣旨として、21世紀を迎え高齢化社会云々と綴られている石碑が建っています。鐘楼の壁に架かった『みちしるべ』と書かれた訓示、残念ながらボケていますが、“過ぎ去るを追い 念(おも)うことなかれ、未だ来らぬを待ち 設くることなかれ、 ・・・ ただ現在の法を観よ、うごかず たじろがず、ただそれを知りて育てよ。今日なすべきことを為せ。誰か明日 死の来るを知らんや。”
             
             

写真としては電柱の支柱が邪魔でしたが、門横にあった水掛不動尊。あらゆる悪魔を降伏されるため憤怒の相をした明王、ここまで観てなかなか立派なお寺だと思いました。

蟻通神社

2014-05-02 05:00:00 | 田舎

29日は朝から土砂降りの雨、義弟は釣りを諦めていそうもなく、朝早くから起き出してソワソワしています。仕方がないので海の状況を見て貰うことにし、取り敢えずカッパを着て船を泊めてある桟橋の港へ向かいました。大島への眺望は真っ白で何も見えませんし、コメリの沖を見ても波が高いのが分かります。

                       

これだけ雨が降れば何処へ行っても何も見てまわることが出来ません。義弟が串本に来たのは約25年ぶり、大島に橋が架かったのさえ知らないと言うので、大島港に向かいました。樫野だと車を停めてから歩かないといけないので、この雨ではムリと判断したのです。いつもの波止場では誰も釣りをしていません。田代港へも行ってみましたが、4人の釣り人を確認しただけ、この雨で釣りをするなんて根性ものです。その後、宇久井に義理の兄が住んでいるので時間つぶしに行ってみることにしましたが、在宅されていませんでした。

       

42号線を戻って来て、田原から山道を選んで、一枚岩に行ってみることにしました。思ったよりも遠くて42号線からの方が早かったかも知れません。一枚岩を観て感動した様子の義弟、私も岩の所々から落下する小さな滝を見て、いつもはこんな水量では無いし、数も多いので良いものを見たと思ったのでした。

昼近くになったので義弟はそろそろ帰ることに、前夜富田の友達から電話があり、私も白浜まで行くことに決めたので、田辺まで私がクロスロードで送り、大阪まで義弟がクロスロードで帰ることにしたのでした。潮岬観光タワーで近大マグロ丼を食べようと思っていたのですが、古谷魚店に寄ってなんやかんやしているうちにすっかり忘れてしまって、とれとれ市場で昼食をとったのが1時を過ぎてしまい、紀伊田辺駅に着いたのが2時ごろ、そこから私はJRで紀伊富田駅を目指しますが、何と電車は4時半ごろまで有りません。

             

時間が有り余っているので、何処かを目指してブログのネタを探したいのですが、この雨では写真写りも良くないでしょうし、傘を差した上に荷物を二つ持っているのですから、カメラを向けるのも一苦労です。それでも少しぐらいは歩いてみようと思い、駅前の商店街を抜けて歩き始めました。

                    

商店街を抜けて左へ行けば闘鶏神社が有りますが、この天気では勿体ないと思い右へ歩いて行きました。こちらの方角は上屋敷町だったか本屋敷町だったか忘れましたが、私が結婚するまではその町が本籍であり、近くに南方熊楠が住んでいたそうなので気になっていたのです。でもそんな町は見当たらず、蟻通神社という石碑の建った鳥居に出くわしました。

             

蟻通神社の由来は、昔外国の使者がやって来て、法螺貝を取り出し、「この貝に糸を通して見せよ、出来なければ属国にする」と迫り、神々は困惑したのでしたが、一人の若い神様が私がやって見せると言い、法螺貝に蜜を流し込み、蟻に糸を結んで法螺貝の穴に入れてやると、蟻は蜜を追って複雑な法螺貝の穴を通り抜け、外に出てきたので糸が法螺貝を通り抜けることが出来ました。ここまででも胡散臭いのですが、外国の使者は「日の本の国は、やはり神国である」と恐れて、その知恵に感服して逃げ帰ったと、日本国を神の国にしたい者の魂胆が丸出しの由来文が有りました。

      

神社を後にしてもう少し道なりに歩き、一区画過ぎた所で一回りするようにして戻ることにしました。40代の頃でしょうか、Y下君と釣りに行くようになった頃、おそらく2時間や半日の年休を取って串本を目指していたのでしょうが、この田辺で夕食になることが度々あり、何度か訪れた店を思い出しました。店の名前も思い出せないのですが、きっとこの店構えだったような気がします。周りの店も変わったのでしょうし、夜と昼では雰囲気も違いますから何とも言えませんが、あの頃店を切り盛りしていた夫婦は今でもこの店で働いているのかと、当時を甦らせていたのでした。


 

          

4月28日の釣り

2014-05-01 05:00:00 | 田舎

28日と29日は雨予報だったので、串本には30日以降に行く予定だったのですが、義弟が28日から釣りに行きたいし、雨は3時までは持つと言うので、仕方なく朝6時半に大阪を出発したのですが、途中から雨が降り出したり、止んだりを繰り返し、高速を降りてからは前にダンプが走ったので、泥の飛沫が飛んで来て車は泥だらけになってしまい、そのまま雨が降り続いたなら、江住を過ぎることさえ出来れば、雨が泥を落としてくれるはずだったのに、途中からは全く雨が降らなくなり、10時前に串本に着いた頃は青空も見える始末、雨で車に着いた泥が流れると言う淡い期待は、夜から降り始めた雨が解決してくれくれたのでした。

             

朝飯抜きで一目散に走って来たので、オークワで朝食用のパンと昼食の弁当とお茶を買って、すぐに船を繋留している南防波堤へ直行、あまり波も風も無いと思っていたので、直接猪喰鼻を抜けて東の浦へ行ったのですが、波も結構高く、南風も強かったので、船はすぐに磯に近寄ってしまい、釣りを楽しんでいるどころではありません。仕方なく橋杭岩の方へ移動、こちらは波は大丈夫、それでもやはり南風が強く、これまでは南へと流されていた船は北へ流されていきます。そのせいなのか、釣りをしているのが一人だけだったのか、どちらか判りませんが、兎に角何も釣れないのです。こんなことは初めて、その前の週にアナゴやトラフグやマダイが釣れたタイ島の近くまで行ったのですが、釣れたのはトラフグと同じサイズのクサフグだけ、また元の橋杭岩まで戻りますが、アタリすら無いとのこと。

             

橋杭岩と権現島の間を流しますが、すぐに橋杭岩に寄っていってしまいます。橋杭岩の1番の磯を撮っていたら、危うくその磯に当たりそうになるぐらい早く流されるのです。南と西からも風が吹いていました。

             

3時ごろまで粘りましたが、結局何も釣れず、諦めて帰ることにしたのですが、元の南防波堤に戻そうと思ったのですが、西風が強いのと空いているスペースが無いので、上手く接岸できず、未だ解体中の船が残っている桟橋の波止場へ停めることにしました。最近までよく停泊していた大きな工事用の船が居なくなったので、東側にスペースが空いたのです。

先週来た時には漁協の建物が完成したのを見ていましたが、忙しかったので写真を撮る暇が有りませんでした。もう漁協はここに移転したのでしょうか。



釣りに行きたいと言いながら、自分で釣り道具を持ってこなかった義弟は何を考えていたのか、私の道具を使ったので私は今回一切釣りをしていません。まぁ一旦姫の家へ帰っていたら、竿もリールも有ったのですが、時間が勿体ないと思って早く船を出したのですから、仕方ありません。でも風が強かったので、船が思ったよりも早く流されたので、私が釣りをしていたら何処かにぶつかったかも知れないと思うと、ずっと運転席に居て良かったのかも知れません。