再び38号線に戻り、佐本の中でも郵便局やGSがある佐本中地区は避けて走り抜け、中山神社を目指しました。今度は探さずとも目の前に鳥居が見えたので、ここが中山神社だということがすぐに分かりました。
ここも最初から階段を登って行かねばなりません。佐本が開拓されたのが江戸初期だと言いますから、アニミズムではないでしょうが、自然崇拝的で八幡神社にしても稲荷神社にしても水辺や山の上に有りました。山の上に信仰対象を造っておけば、わざわざ山の上まで登らなくても、家からでも山を見つめて祈っておれば良かったのかも知れません。
絵地図にも描かれていましたが石の太鼓橋が確かに有りました。佐本を開拓した三本清左衛門清直が大谷村郷谷渕から2kmに及ぶ難所を経て潅水路を造り、野添平中山の山脚を深く切り堀り、大井の溝を完成させたと案内板に書かれていました。現在佐本に野添の名は残っていないようですが、中山というのはこの神社の名前の起源でしょう。その大井の溝の上をこの太鼓橋が跨いでいるのです。この太鼓橋が出来たのが明治14(1881)年、追川村、栗垣内村、中村の人が施主になっていました。
支柱や接着剤も用いず、力学応用の珍しい参道橋で、幾度かの地震にも耐え、一分の狂いもなく、すさみ町の文化財になっています。スサミの文助、定一という人が石工として名を残しているようですが、このようなことが出来たなんて偉いものです。
文政12年の年号が彫られた石鉢のようなものに木が鉢を食おうとしているように立っています。決してこういう現象を目にしたことがあるプラタナスの木ではありません。登って行く道はつづら折れになっている所もありました。
5分ほどで鳥居に到達、太鼓橋以外は大谷にあった稲荷神社に似た造りでした。
こういうのを拝殿と呼んでいるのでしょうか?ここには狛犬がありませんが、水道が一対狛犬のように並んでいるのが滑稽です。
花瓶と鈴が祀られている祠、何の神様が祀られているのでしょう?鳥居に貼られた千社札のような紙には“修験道 行者信仰の理念 世界平和 国家安泰 萬物萬象の立命祈願 修験節律根本道場 大和国 大峰蛇之倉 七尾山”と書かれていました。
中山神社から少し下ると中野川入口という標識、キイジョウロウホトトギスの里への矢印が見えますが、花の見ごろは10月なので今回は素通り、もう姫の家を出てから3時間近く経っていて、昼前なので食事にしたいし喉も乾いてきたのですが、近くに店らしき店は有りません。佐本中の郵便局やJAが有った辺りまで戻れば何か有ったかも知れませんが、面倒臭いので、それが間違いだったのですが、そのまま古座街道を歩きに出かけたのでした。