「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「ふるさとの味わい」

2024年05月19日 | つれづれ噺
    家の前から見る川のせせらぎ 
               

50数年前から見慣れた故郷の川の流れ、せせらぎ、カジカガエルの鳴く声。
うっそうとスギやヒノキが生い茂る山また山。そんな原風景は何年たっても変わらない、もちろんおっとり柔らかな人情も。ただ変わったのは、そこに住む人がいなくなったこと。つまり何度訪れても物言わぬ空き家が迎えてくれる。

心地よいせせらぎ、どこまでもきれいな空気。ただただ用事もなくふわっと訪れるには最高の癒し空間である。実家は義兄夫婦も街中の近代的施設の住人となって、肝心なふるさとの実家もご多聞に漏れず空き家の一軒となっている。昨年半ばから月に一度か二度、実家の窓と言う窓を開け広げて、家の中に風を入れ風を通す役割を受け持っている。もちろん、青梅の収穫にも季節にあわせて訪れている。

義兄は91才になるが、介護認定は対象外の元気さで、施設入居といっても家賃を払って介護&食事付き、自由に暮らせる優雅なご身分で、年なりに元気である。実家に風を通しに帰るたびに義兄を誘って一緒に実家に帰る。その一日は義兄にとって、例えようのないやすらぎと郷愁を誘うようだ。畳に座って缶ビールをうまそうに飲んでいる。この畳の上で過ごした数十年、大好きな酒で飲み明かしたこともいくたびか。そんな思い出が通り過ぎるのか、酒飲みにしては少なすぎる缶ビールが実にうまそう。若い頃には貧乏だった私たちは何かと不義理もしてきたのだろうが、いま、そんなころのほんのわずかな恩返しというか恩送りをしている。ふる里は有難きかな、ふる里はそぅっと静かに懐かしむものかな。
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「大きな衣替え」

2024年05月12日 | つれづれ噺

 

このように茂り枝葉を広げていた、我が家の樹齢50数年、幹の周囲は36cmのクロガネモチの木。
狭い敷地ながらも南東の一角を居場所として、長い年月をかけ根を張り枝を広げてその存在価値を示して来た。元は、無謀にも26才で大きなローンを組んで最初の家を建てたときに、会社の先輩が新築祝いといって贈ってくれたクロガネモチの木である。当時は親指と人さ指で丸を作るくらいの大きさだった。

約25年の後に新たに建てた今の家に引っ越すときも一緒にやってきて、南東からの風雨を身体を張って守ってくれた心強くも優しい思い出多い木である。
そんな守り神的な我が家のクロガネモチも、私たちと同じで年を取って来た。根っこは長く伸びて家の中に入り込む危険性が出て来た。枝葉は広がり過ぎていつか切る時が来る。そんな負の遺産を若い者に押し付けるのは気の毒。これは私たちの手で処分をして解決しておかなければ。と思い立ったカミさんに尻を叩かれ、惜しい、となかなか思い切れない私にせっついてくる。ついに観念して裁断することに決め
た。

天に向かって枝を切るのにチェーンソーは危険で使えない。しゃーない、新品の剪定用ノコギリをゲット。
丈夫な幹に脚立を縛って固定し、兎に角安全は念入りに、しかも懐かしさと感謝で抱き着くようにして落ちないよう、右手一本で思いっきりノコを引いた。段々スマートになってくる。そしてついに・・・。



そしてついにこんな姿になってしまいました。でもこれ以上の伐採はひとまず置いといて、この幹から新たな枝葉が広がるのを楽しんだ後に根っこからバッサリ。これはもう覚悟をしておかなければならないだろう。
私たちの後のことはどうなるか分からないが、兎に角若い者に負担を負わさない心遣いはしておきたい。

それにしても、がんばって年を重ねたのにご苦労さんで終わってしまう。人間も同じ、万物みんな同じ足取りで新旧交代していくということだね~。そしてもう一つ、季節的に言えば程よい衣替えにもなった。

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「あれから2週間」

2024年04月23日 | つれづれ噺

                 

背中より大きい、重いランドセルを背負って、笑顔や半ベソの学校生活を始めたピッカピカの1年生。
あれから2週間がたった。我が家の孫さんも含めて、どんな成長を見せているのだろうか。
ランドセルから必要品を取り出し、先生の説明の通り、机の上や引き出しにちゃんと整理出来ているだろうか。必要品を取り出したランドセルは、後ろの棚に自分の手で納められているだろうか。

登校時のルールには慣れたろうか、通学路のややこしい箇所や、危険個所は頭に入ったろうか。
我が家の孫さんは遠距離通学のため、路線バスを利用する。これはこれで色んな制約や危険も伴う。但し、5年生になったお姉ちゃんがいてくれる。これは有難いことである。本人はもちろん安心して通えるし、親も安心して送り出せる。そしてもう一つ、5年生になったお姉ちゃんにとっても、後輩と接するいい学習材料になっているのだと思う。姉妹の小競り合いなどしている場合ではない、ということを一つ勉強してくれると有難い。

私たちの地区には、二つの小学校一つの中学校、それぞれに学校運営協議会という、校長先生をはじめ多くの先生と、地区の代表的な数人が協議会を作って、常に学校支援の方法を考え、1年生対象の昔遊びや、読み聞かせなど、色んな活動をしている。それとともに、地区社会福祉協議会が「竹細工教室」「しめ飾り教室」などを計画実践している。

地域の高齢者パワーの活用や、様々な余力を十分に活用する地盤が整っているのかな。そんな地域の余力によて、ピッカピカの1年生が、それとなく学校という生活に馴染んでくれたらいいね。

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「三回忌法要」

2024年04月20日 | つれづれ噺

                     

すぐ近くに住んでいた私のすぐ上の姉の三回忌法要を無事に執り行った。
若くして都会に出て色んな仕事をする中で、良縁に恵まれ結婚もした。しかし、結果的に破局となりその後長いおひとりさま生活が続いていた。故郷に戻ってからも気が向くままの優雅な生活であったが、身寄りといえば私と妹、姪っ子などで、葬送などを仕切る親族には恵まれなかった。

2年前の急逝のときにも触れたが、文字通りの眠るがごとき往生で、周囲に何の迷惑も負担もかけない、まさしく一人で生きて、周囲の多くの人に見守られ可愛がられた挙句は、たった一人で静かに旅立った。最後の最後までおひとりさまを通した一生であったのかもしれない。そんなことを思いつつ、葬儀告別式、四十九日法要、納骨、新盆供養、一周忌そして三回忌法要という一連を、喪主という形で無事に済ませて、大いに肩の荷を下ろした一日でもある。

若くして創価学会の信者となっていたため、学会の法式にのっとって全てを進めた。お陰で、という言い方が正しいかどうかは別としても、すべてが一連のルールとマニュアル通りに進行されるので、にわか喪主にとっては有難い葬送儀式の一式であった。何はともあれ三回忌法要を済ませられたことは姉にとっても私たちにとっても一つ安堵を頂くことになる。

今回携わった姉の見送り一連の中でつくづく思うのは、人の一生はまさに千人千通り、万人には万通りの生き方があるのだと改めて感じたことである。そしてどれが正解かなどというケチな話ではないということ。つまり、人の一生において不正解などというものはない。それを判定する役割を持つものもいない。ただ一つあるとすれば、その一生を生きた本人だけが良し悪しを決めること。つまりは万人すべからく幸福な一生だったといえることだと思う。言葉足らずをお叱りあるな。死生に関する個人の感情天井なし。

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「手紙」

2024年03月22日 | つれづれ噺

              
              秋に植えた我が家の水菜。いつしか菜の花盛りに

書かなければ、思いを伝えなければ、と思っていた一通の手紙をやっと今日書き上げた。明日投函しよう。
交通事故で突然84歳の命を絶たれた私の実の姉には、二人の息子がいた。私にとって可愛い甥っ子であった。

二人とも高校を出ると九州と東京の大学を出てそのまま都会に居ついてしまった。
母親が急逝したため故郷の家を守るなどの話が出来ないまま、ふる里への思いを残したまま都会の生活に馴染んでいった。特に長男の方は「母ちゃんが苦労して建てた家に住む」といって、定年退職後家族を都会に残し単身故郷に戻って来た。近くに住む私たちは何がしかの応援をした。

そのうち、長男君が思いもかけない重篤な病に襲われた。八方手を尽くしたが改善がみられないまま、ふる里の家を売却して都会に帰らなければならなくなった。弟の方はそれより前に、もらった家をさっさと売却処分して都会に帰っていた。兄の方は一人での田舎暮らしも長かったので、叔父、甥の関係も深化していった。そんな可愛い甥っ子の長男の病は命に関わるため身体の一部分を切除という一大事に至った。

それからしばらくして私自身も、「オーイ、元気か!」などと軽く言えるような状況ではなくなった。
しばらく音信がとだえたまま、互いが相手を思いやって静かに暮らしていた。が、私の方は五体満足、若い彼は障がい者となっている。電話をかけるのは忍びない。生の話を聞くのも辛い。せめて手紙で彼の胸の内を確かめたかった、そんな少し気の重い手紙であった。書くのが苦手ではないが、こういった手紙は難しいね~。

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「復活!」

2024年02月15日 | つれづれ噺

      

長い間、引き出しの奥に眠っていた自慢の「腕時計」。
自分で言うのもおかしいが、言っておかないと写真だけでは中味を理解してもらえないので、敢えて言う、血統証付きの高級品。数多い持ち物の中でも唯一これだけは人前に出せる代物である。

長い会社勤めの中で、ヘルメットに青い線を入れてもらった時の記念に、東京の兄貴から贈られた逸品。汗と脂の結晶といった意味合いもある。かなりの年数使って、いつしかデジタルや太陽光発電などの安っぽいものを気軽に身に付けるようになって、ついつい引き出しの奥に半分無理やりに眠らせていた。

先日ふと思い出して腕に付けてみたが動こうとはしない。オー、電池切れか、軽い気持ちで近くのベテラン時計屋さんへ。私と年の近い、叩き上げの職人肌の店主がすぐさま電池を変えたが動かない。あれこれ触ってみたけど動かない。しばらくして「これはこの部分とこの部分がダメになっている可能性がある、東京の○○へ送って調べてもらいましょう」ということになった。「但し、古い時計なので部品があるといいのですが・・・」修理予算はン万円。一旦は持ち帰って思案した。それほどの修理代をかけるか、修理代でそこそこのものが買えるじゃん。

いやいやそうじゃない。人生の大半をかけた会社生活の勲章の思い出みたいな品。思い切ってオーバーホールすることにした。約1ヵ月、今日時計屋のオーナーから電話があった。予算通りのン万円に消費税を支払って、再びこの腕に巻くことになった。復活である。「大事に使って下さいよ」という時計屋オーナーの言葉を守って、これから先はしっかり使うことに決めた。今一度復活を試みたい私自身と、復活を果たした逸品とセットでがんばってみたい。

 

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「ついに入院?」

2024年02月09日 | つれづれ噺

                

突然ですが、ついに入院! といっても私ではありません。
私の相棒以上、片腕、もっと上の脳の半分。そのくらいの深い信頼度と長いお付き合いの二階のノートパソコン。大事に大事に使って来たし、一階のパソコンとは使う内容が少し異なり、少しオーバーだがしなやかに明晰に私の頭脳の半分として様々な仕事をしてきた。かけがえのないパソコンがついに病気になってしまった。

使い手の粗っぽさに加えて、足りない知識や認識をおっぽらがして、無理な注文を投げかけ過ぎた使い手の、無知と不注意が原因。そんなことによって、何一つ文句も言わずに全てを受け止めようとする、パソコンの許容度と底知れない優しさに甘えて、何でもかんでも解決してくれることを望んだ結果、とうとう怒らせてしまったのであろう。

従って、何がどうなったのか、どこを押したからおかしくなったのかとかそんな生易しいものではなく、もうグジャグジャになってもうて、それでなくともパソコン音痴に近い我が知識では修復など出来ない状態まで優しいパソ子さんを追い込んでしまった。 シマッタ!! 後の祭り!!

プロフェッショナルのパソコンプログラマーに持ち込んで、不具合内容だけをしっかり説明して入院させた。優しいプロとの出会いで目下修復作業中である。なかなか難敵のようで、2週間が過ぎたが、もう1週間預からせて下さいとのこと。パソ子が悲鳴を上げているのに、更に未熟な腕でリカバリーするなど負の追い打ちをしてしまった。実際にいつ里帰りして定位置に座って半分脳の役割を果たしてくれるのか。3週間に及ぶ入院費用は如何ほどかなど、今度はパソコン不調を元に戻す悩み以上の悩みとなっている。やっぱり、生きている限り悩みとは縁が切れないということか。ちょっと違う気もするけどね~。

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「気象予報士の日」

2024年02月05日 | つれづれ噺

                                                            

一日のテレビ放送に占める天気予報の時間はいったいどのくらいあるのだろう、などと勘繰ってみたくなるほど天気予報、気象情報が頻繁に報じられる。それは時にまたかよと邪険に目をそらすこともある。ところが大切な行事やお楽しみ会などを予定していると、その日の予報は早くから気になるし、晴れておくれと願いながらお日様マークに安堵したり喜んだりする。

国家試験の難関を突破して資格を得た気象予報士さんによる天気予報は、災害発生の多い近年特に貴重な情報として扱われるようになった。
そんな背景もあって、アメリカでは今日は「気象予報士の日」と定められているそうな。

気象予報士は、さまざまな観測データから総合的に判断し、独自の天気予報を行う気象のスペシャリスト!想定外の異常気象が後を絶たない昨今、気象情報は農漁業、交通、流通産業、観光・レジャー産業など、あらゆる社会機構にとって欠かすことができません。
気象に関する正しい情報を提供し、アドバイスできる人材として、気象予報士のニーズは高まっています。というのは気象予報士学院の生徒募集要項の一節であるが、当を得ているとおもっている。

明日の朝はまとまった雨になります。などと予報が流れると、オッ明日は少し早めに起きて早めに出かけないと渋滞するぞ、などと考えたのは昔の話。今では、孫君の通学時間帯に雨じゃかわいそうに、などと思う程度。そんなふうに、いまでは天気予報は私たちの身近な生活の中に溶け込んだ大切な情報である。日本でもどこかに気象予報士の日を作ってあげてもいいね~。 

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「高齢の働き者」

2024年01月16日 | つれづれ噺

                  

乗用車とは別に、言うなればサイドカーとして、義兄が山間の里で愛用していた軽トラックをもらい受けて以来、養子先の我が家の強力な助っ人として働いてくれている。古い古い世代のギアチェンジ、車検が通るからまあ載せていただこうというほどのおんぼろろ~ではあるが、ひとたび走り出すと4WD馬力でゴンゴン走る。そんな馬力があるから、いざと言う時の頼もしいお助けマンの役割りを果たす。

いつ寿命が切れてもおかしくないというほどのロートルである。まさに高齢者なのにその見事な働きぶりについつい甘えて、ありがとうねなどと声を掛けながら色々お世話になっている。ただこのロートルも、私のような普通の人間が感謝しながら運転する分には何の問題もない。ただ、倅のようなカーキチに言わせると「アクセルのワイヤーの滑りが悪いので足を離した時のアクセルペダルの戻りが遅いね」とか「ウインカーの左右の早さが異なるのでどこかおかしいよ」とか。高齢ゆえのちょっとした息切れも厳しく指摘する。

それもこれも、常時運転するこのロートルに何事もないようにとの気遣いではある。近いうちに知り合いの車屋さんにでも行ってみよう。それにしても、雨にも負けず風にも負けず、急な登り坂も4WDで突っ走る。荷物?そんなもんは目じゃないよと言わんばかりの奮闘ぶり。ロートル軽トラばんざいである。

運転するこのロートルも、軽トラの馬力にあやかりたいが今はちょっとね、無理が効かない状態だから。それもこれも明日になればこれからの方向性が出される。運転者の車検みたいなもので合格すれば儲けものってところですかね~。

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「悪魔のいない世の中は」

2024年01月13日 | つれづれ噺

           
                   この世は悪魔の天国か?

正月元旦の能登半島地震から日がたつにつれて、新たな被害も見つかり、先の見えない自然災害の大きさにおののくばかりである。そんな激甚災害に指定される被災現場においてさえ、まるで悪魔の仕業ような犯罪が人間の手で行われている。傾いた家主の弱みに付け込んで、応急修理費と称するブルーシートを玄関前に積み上げたり、碌な修復もせずに高額な修理代を請求して騙し取るという。日本人としては有り得ない犯罪である。何年か前までは。

今は違う。情や義理、限度限界をはるかに超える、非人間的な犯罪がそこここに転がっている。ほんの少しの油断や不注意で足を取られて転んで大けがをさせられる。そんな犯罪を生業(なりわい)として暗躍するグループが捕まって一段落するのかと思う間もなく、連日〝絶て特殊詐欺“ といった犯罪被害の記事が後を絶たない。

正月明けから山口県でも1千数百万の被害が2件発生している。いずれもキャッシュカードを騙し取られる前後の暗証番号を口に出して相手に伝えている。銀行職員だの警察官だの弁護士だの、様々な職業を並べて不安を煽る劇場型と言われる芝居をして引っかける。引っかからざるを得ないように間髪を入れずまくし立てて、80歳を超えた高齢女性の思考を麻痺させてしまうのだろう。私たちのパソコンに誘惑の画面が出て、クレジットカードの情報を抜き取ろうとする仕掛けは1日に何通も入ってくる。

今一度考えておきたいことは、暗証番号を他人に教えることは「財産の根こそぎ放棄」であることを周囲の高齢者に口を酸っぱくして教えてあげたい。しかもキャッシュカードを手放すこと自体も同じく「財産根こそぎ放棄」なのである。ここ数年、オレオレ詐欺以来あれだけ騒がれている特殊詐欺に未だにまんまと騙されるのも如何なものか。いくら手口が巧妙化したとしても、とどのつまりは「キャッシュカード」「暗唱番号」「現金を受け取りに行く」という形になるのだろう。どこかで何かのヒントを得て誰かに話してみて欲しいものだ。

❝ 浜の真砂は尽きるとも 世に盗賊の種は尽きまじ ❞ と大見得を切ったのは日本駄右衛門だったかな。
歌舞伎の世界に君臨するのは許せるが、現実の世界で純真な人々を苦しめる奴は許せないね~。

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