「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「サボり心の功名」

2008年08月31日 | 趣味・・エッセイ
およそ1ヶ月前、私のいい加減さを「夕立の功名」と題してブログアップした。
先輩ブロガーからも「これは面白いね…」なんて言われてその気になった。かねてより、毎日新聞“男の気持ち”というエッセイ欄に採用されたいと思っていたので、思い切って投稿した。それが今日やっと念願かなって掲載された。
二番煎じで恐縮ですが、わがままをお許しいただいて、少し手を入れた掲載文をアップさせていただきます。


 先日夕方、出先で突然の大雨に見舞われた。この分だと、今日ばかりは家庭菜園の水遣りから解放されるぞと、雨の様子を聞くため我が家に電話を入れた。慌ただしい声で「今帰ったところよ」と言う。
 はて?どこへ行くと言っていたかいな。覚えがない。しばらく間を置く。
 「そっちはどんな?」と聞いてみた。「小さな陰はあるけど問題ないみたい。今後はエコー検査を増やすそうよ」
 思い出した。婦人科疾患で先日受診した精密検査の結果を、病院に聞きに行く日だったことを。
 検査結果を心配して電話してきたと思い込んでもらえたお陰で、こちらの曖昧な聞き方に、すべてまっとうな返事が返ってくる。
 当然ながら「そりゃーよかったよかった」を連発した。最後にちょこっと雨の様子を聞くと、案の定我が家周辺は降っていなかった。
 菜園の水遣りをサボりたい気持ちから、たまたま入れた電話によって、忘れていたカミサンの一大事を思い出し、面目を保った。
 馬の背を分けると言われ、局所的に大雨を降らす夕立に遭わなかったら、電話もしていなかっただろう。家に帰っても、カミサンから言い出すまで一大事に気付かなかったに違いない。まさに「けがの功名」。
 いや「サボり心の功名」と言うべきか。


新聞に掲載されなければ、ブログの世界だけで終わっていたものを…。いい加減さがついにバレバレ。只一言「どうせそんなことじゃろうて……」面目丸つぶれ!
それでも、“男の気持ち”へ挑戦してみたかったんよねー。
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「お泊まり」

2008年08月30日 | 家族・孫話
幼稚園年長の孫が一人でお泊まりしたいと言う。学校や幼稚園以外の生活では、兄ちゃんがいなければ夜も日も明けない次男坊が、勇気を振り絞って一人お泊まりに挑戦したのが3ヶ月前。その時は翌朝、早く家に帰りたくて仕方がなかった。

今回は、自ら言い出した一人お泊まり。3ヶ月前の経験がそうさせるのか、万事落ち着いた様子。要領も心得たもので、眠りたくなるまで下で散々遊び、眠気を催したらさっさと二階へ。横になったと思ったらもう寝息。

朝ご飯を食べたら散歩に出る。一人だと、長柄の網も要らなければ虫かごもいらない。どうかすると手をつないでゆっくり散策。例のタニシの卵が並ぶハス田のあぜ道。「じいちゃん、タニシの親子が抱っこしてる」と言う。よく見ると、田んぼの浅い水の中でタニシが交尾している。交尾の説明も面倒なのでさらっと通り過ぎる。この後タニシは更に新しい卵を産み付けるのだろう。

次は草むらに巣をかける女郎蜘蛛を指さし「じょうろうぐもはね、えいごでコガネグモって言うんよ」と教えてくれる。ちょっと違うけどなー、まあいいか、もうちょっと大きくなって説明しよう。

他にもあれこれ「じいちゃん…じいちゃん…」と彼独特の解釈の説明を受ける。
兄弟を連れる夕方の散歩とは全く異なる楽しさをくれる。最後に帰りがけの森のそばで栗の木を見つけて「栗とウニは同じなんよ…」と言う。「栗もねウニもね、トゲトゲの中から出てくるんよ」と。

ただただ「かー君は何でもよく知ってるねー」と言うだけ。
得意そうな一人お泊まりの翌朝散歩。頭の中が空っぽになり、新たなファイトが湧いてくる元気をもらった気がする。

        ( 写真:タニシの交尾 白い部分は、太陽光線 )
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「夕立去って」

2008年08月28日 | 季節の移ろい・出来事
岩国の誇り、錦帯橋の架かる錦川をおよそ20㎞川上に走ったあたりで、とてつもない夕立に見舞われた。
あれは夕立というより集中豪雨といったほうが当たっているような大雨。
別に急ぐ用事もなく、クルマを止めて小やみになるのを待った。ほどなく雨は上がった。

川の表面を今降り込めた雨が、新しい早い流れとなってキラキラしながら下流へと急いでいる。
ふと見上げると、いつも見慣れた山あいながら、モヤがかかり見事な一幅の山水画をかもしだしている。

思わぬところで大雨に遭い「先が思い遣られるなー」と思い始めたすぐ後に、これほど見事な景色を提供してくれる。自然って面白い。

これほどきれいな川の流れ、周囲の山々と調和の取れた景色が「美川町」という名前の由来なのだろう。
ところがもう3年前になろうか、この川が怒り狂って氾濫し大勢の人が床上浸水などの大災害に見舞われた。これも自然がもたらす恐ろしい一面である。

今回の雨は、文字通りの夕立で、日の暮れ前に瞬間的に降って上がるからこそ、しばし見とれるような、雨上がりの景色を楽しませてくれる。このような雨が数時間も続いたらまたまた大変なことになるのだろう。

夕立は夕立らしくその分をわきまえて、乾きかけた大地にほどよい潤いを与えるのがよい。与え過ぎるのは罪作りだ。やはりほどほどがいいな。過ぎたるは及ばざるがごとしってね。アレッ違ったかな。

         ( 写真:山水画を思わせる夕立の後 )
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「しつけって・・」

2008年08月27日 | つれづれ噺
しつけって何だろう。躾・仕付けとも書く。
親が子に・先輩が後輩に・周囲の大人が周囲の子供達に、世間の常識や人間らしい生活をしていく為の礼儀作法を身につけさせること。と理解している。

先日、世界の一流企業を目指そうとする某大企業で、クリーン作戦の一環として工場駐輪場のゴミ拾いをした報告がなされた。結果は目を覆いたくなる惨状あったという。タバコの吸い殻はもとより、菓子・アメ類の袋・ペットフードの空き缶、果ては焼酎の空き瓶まで。

これって躾の範疇なのか、単に会社に対する嫌がらせなのか、はたまたさほどにレベルの低い従業員を多く採用している会社なのか。深くを詮索しない、したくもない。しかし現実なのである。

「日本の若者達が、最近行儀が悪い、マナーが悪いと批判されるのは、多くの若者が『少しでもよくなりたい』という夢を捨て『自分はこれでいいんだ』と人生を降りてしまっているからです。経済的格差より自己評価格差の方がずっと問題」(坂東眞理子著「女性の品格」)

家庭でやるべき「しつけ」を、いい年をした社会人の集団であるはずの会社という組織の中で、何で今更…という声が聞こえてきそうである。しかし実際には、家庭や私生活ではこんなことはしないだろうと思われることが、会社という集団生活の中では平然と行われるという、人間の持つ弱さみたいなものを摘み取る必要はあろう。

長い会社生活を経験してきたひとりとして、後輩諸氏に誇りを取り戻してもらいたいなという気はする。逆に、誇りもプライドも持てない昨今の企業体質に問題ありなのだろうか。
8月末とは言え、心の中を秋風が吹き抜けるような一抹の淋しさを感じる。
セガレはどうなんだろう、もう手遅れか。ならば孫には厳しく行くか、それもどうかな…?

      ( 写真:しつけをすれば、犬とウサギだって仲良く遊ぶ…)
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「ゆっくりさせてよ」

2008年08月25日 | 家族・孫話
一仕事終えていつものように、放課後児童教室で遊ぶ2年生の孫を迎えに行く。
顔を見るなり、得意そうにそっとビニール袋を手に持たせる。いつもとは様子が違うなと思いつつ袋の中身を確かめた。

手作りのしおりに「じいちゃん、いつもむかえにきてくれてありがとう・……」それに同じく手作りの可愛いストラップがくっついていた。

先生から「敬老の日のプレゼントを作ってもらいました…」との説明。
こぼれるような満面の笑顔でじいちゃんを見上げる孫。渇きそうになる喉にツバを飲み込み「ありがとう、いいのができたね、じょうずにつくってくれたね」頭を撫でる手をすり抜けてクルマに乗り込む。

そう言えば昨年はばあちゃんへのプレゼントだった、今もバッグにぶら下げている。じいちゃんも大事にしなければ。

それにしても、まだ今日は8月25日、敬老の日の20日も前である。随分早い気がするなー。それに敬老のプレゼントをもらうには、いささか抵抗があるなー。ちょっと可哀想なくらい早すぎるなーと思うジジ・ババである。

そうはいっても、学校の先生が子供達に敬老の気持ちを教えることには大賛成であるし教育上欠かせない事柄だと思っている。有り難い話である。

何をひもといても、敬老とは老人を敬うこと、老人とはお年寄りのこと、と言う程度の説明で、何歳になったら敬老や老人の対象になるというはっきりした定義はないようである。
ならば、孫手作りの敬老プレゼントは有り難くちょうだいするが、老人を敬う敬老の仲間入りは“もうちょっとゆっくりさせてよ”そう思いませんか、ご同輩!

我が家では、ジジ・ババなどはまだまだ若手。100才の大御所が敬老の日の主役である。

          ( 写真:敬老プレゼントの「しおりとストラップ )

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「夢のあと」

2008年08月24日 | スポーツ・観戦
  “鳥の巣や 強者どもが 夢のあと”
北京オリンピックが終わった。4年に1度しか開催されない大会で、それぞれ世界の頂点を目指した強者たちの夢舞台、熱い戦いが静かに幕を引いた。

 明日から4年後のロンドンに向けて挑戦を始める人もあるという。取りあえず今は、頭をスッカラにしてこれからの行動を練り上げる人が多いのだろう。当然、第一線の競技人生に終止符を打つ人も少なくないはずである。

 世界中を熱く燃えさせた全てのアスリートに拍手を、とりわけ日本選手団にねぎらいのエールを送りたい。
お疲れ様。そして陰で支えた多くの関係者の方々にも、国民のひとりとしてご苦労様と言いたい。

 その一方で、負け惜しみでもなければ結果論でとやかく言うつもりはない。しかし、今回の選手起用・チーム編成の在り方など、日本陸連やJOC(日本オリンピック委員会)の人たちは、近年にない反省材料も多かったのではないだろうか。それらの対処法や今後に向けた対応の在り方を、オープンに国民に分かりやすく納得できる方法で説明がなされることを期待する。

 我々の想像だに及ばない厳しい競争・厳しい練習を乗り越えて勝ち取った代表選手の資格。資格を得た日からオリンピック本番の戦いの日まで、ベストコンディションを維持し続けなければならない。そこにはアクシデントや不慮の故障発生が全くないとは、誰にも保証できない事柄であろう。

ギリギリのところで選にもれた、代表選手に次ぐ実力を持った選手がいるはずである。一朝異変が起きたとき、それらの選手にチャンスを与えるのも日本選手全体の層の厚さということにならないだろうか。

多くの感動・感涙にティッシュを濡らす名場面を見せてもらっておきながら、贅沢をいうことはない、と自分を叱りながらも次回への夢をついついふくらませてしまう。
勝負の世界には必ず意地悪や皮肉タップリの神様が存在する。それがツキという厄介者である。但しこの厄介者は、多くは怠け者や練習不足な人の味方はしない。それでも、ときにいたずら心を起こすことはある。

「強いもが勝つのならオリンピックなど要らない、勝った奴が強いんだ」柔道金メダル、内柴正人選手の言葉。

       ( 写真:閉会式を迎えた夜の「鳥の巣」 )
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「大切なもの」

2008年08月23日 | 家族・孫話
 夏休みの思いで作りのお手伝いで、小学2年と年長の孫兄弟を引き連れて廿日市市のちゅーピープールに出かけた。

 大波発生や流水プールをはじめ、ウオータースライダーという大型流水滑り台など、幼児向けから大人用までまさにお好み次第。

 着いた途端にやる気満々の二人。
 今ここにいたと思えばもうあちら、あちらと思えばもうその次へ。監視員の目は行き届いているものの、うれしさ余って何をしでかすかわからない相手。しかも同じような頭、同じような浮輪が動き回る。あっという間に見失う。
 大切な宝物のあずかりもの。必死に捜す。

 悪戦苦闘の5時間余り。帰りの車が動き出すと間もなく、スースー心地よい寝息を立てる。こちらは日焼けも出費も身にしみる。
 夏休みが早く終わるのを待つ世の母親の気持ちが痛いほど分かる。

 しかしジジ・ババにとっても大切な夏休み。
 子らの成長とともに、やがて必要とされなくなるときが来るのが見えているだけに、今がいとおしい。
  
     (2008.08.23 中国新聞 「広場」 掲載)  ( 写真: 水を楽しむ 孫親子 )
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「頂点を極める」

2008年08月22日 | スポーツ・観戦
日本のソフトボールチーム、念願の金メダル。世界の頂点に立った!!
厚い壁にはね返され、何度も挑戦し、また挫折。さらに練習に練習を重ね、辛抱し、お互いを信頼し合うチームワークを作り上げて行ったのが今の姿なのだろう。

3大会連続世界一の王者アメリカに、最後の最後に勝って手にした金メダル。
感動無しには見られない。それほど価値のある勝利だったと思う。
勝利の瞬間、チームメート全員が、人差し指を天に突き上げ喜び合う瞬間は、まさに勝利者のみに与えられる歓喜である。

見ている私自身、鳥肌の立つ思いを味合わせてもらった。シドニーもアテネも北京もそれぞれに、身の震える感動をもらった。もちろん、長野・ソルトレイクシティー・トリノと続いた冬季オリンピックも、数々の感涙を抑えることの出来ない名場面へいざなってくれた。

その感涙や感動は、日本選手が勝ったことだけに送る拍手ではなかった。勝負の世界の鉄則は、今更言うまでもなく、勝者があって敗者がある。
特にオリンピックの世界では、敗者に送るエールや拍手も少なくない。それは何故か。

オリンピックは、野球を除いては全てがプロではないアマチュア選手であり、純粋に世界の頂点を目指して、4年に一度、持てる力を精一杯ぶつけ合うところに感動が生まれる。そして勝者は精一杯のパフォーマンスで喜びを爆発させることが許される。そこがまた感動を呼ぶ。

このように考えてくると、プロ野球ペナントレースで、ホームランを打ったからと大騒ぎをするのは決して品格のある姿とは言いにくい。広島カープの外国人選手が言っていた。「自分はいつも投手に敬意を払っている、だから決勝ホームランを打ってもはしゃぐ気持ちにはなれない…」と。
相撲の世界でも同じこと。横綱は角界の頂点なのである。相手は言うなれば全員が格下なのだ。格下の相手に勝つのは当たり前のこと。それを敢えて“これみよがし”の仕草には品格も人格も疑いたくなる。(ちょっと厳しすぎるかな…?)

つまり、スポーツの世界は、将来を担う子供達が多く注目している。勝者が全てで、敗者を切り捨てるような行為は、決していい人材作りに貢献しないだろう。

スポーツを通じて勝つための技量やテクニックを指導しなければならないが、負けて強くなる人間としての粘り強さを同時に教えていく必要がある。勝者を讃え、敗者を尊ぶ人間形成こそが、頂点を極めるにふさわしい勝者と言えるのだろう。

       ( 写真:歓喜の肩車で祝福、日本ソフトボールチーム )
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「百日紅(さるすべり)」

2008年08月21日 | 季節の移ろい・出来事
 ひところの灼け付く夏の太陽が少し遠のいてくれたのか、朝夕が凌ぎやすくなるのは嬉しい。
 気候的にも間違いなく暑い夏であったが、4年に1度のスポーツの祭典オリンピックはもっと熱く燃えた。その一方で、本来なら暑い夏の話題を独占するはずの高校野球が、今年ばかりは少し影の薄い存在になったのは気の毒である。

 暑い陽射しに立ち向かうのは、オリンピックや高校野球だけではない。身の回りに目を向けてみると、この陽射しに向かってけなげに咲く花もある。その代表格は夾竹桃だと思い込んでいた。インド原産で暑さや水不足にも強く、うだるような暑さの中を敢然と咲き、見事な色とりどりの花を楽しませてくれる。

 ところが今ひとつ、広げた枝葉いっぱいに見事なピンク色で、暑さに弱る人々の心を柔らかく慰めてくれる「さるすべり」の花が見頃である。花の時期が長いことから百日紅とも呼ばれる。こちらは中国南部原産で、古く我が国に入ってきたこともあって、そのたたずまいは我々の生活に溶け込んでいるようだ。

 毎年夏には樹皮がむけてスベスべしていることから、さるすべりと呼ばれ、その幹は奇妙に曲がりくねってコブを作る特性を生かして、そのまま床柱や装飾材に使われることが多いという。

  炎天の 地上花あり 百日紅      高浜虚子

 ちなみに、花言葉は「敬愛・潔白 雄弁」と言われ、あまり縁がない言葉が並んでいる。

 過ぎゆく夏を惜しむほどの感傷は持ち合わせていないが、風にゆらぐサルスベリを見ていると、実に身近なところにも季節季節に、確実に花を咲かせ、人々の気持ちをほぐす木々があることを感じてホッとする。

       ( 写真:見事に咲き誇る“さるすべり”)
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「不思議発見」

2008年08月19日 | つれづれ噺
お盆を迎えたとたんに、あれほど灼け付くようだった夏の太陽が、雲に隠れる日が多くなってきた。雨もそこそこ降るようになり、大地も畑も人間様も少し潤ってきた感がある。嬉しいことである。

天気予報では、連日のように日本列島どこかで、大雨洪水や雷の警報・注意報が流されている。そのたびに耳するのが気圧の変動とか、不安定な大気という言葉。

分かったようで分かりにくいし、よく飲み込めない。自分に分かりにくいことを説明するのも本意ではないので、気圧とか天気予報については置くことにさせてもらおう。興味のある方は是非検索されたい。

ここでは単純に、我が家の窓から眺める瀬戸内海の島々が見えたり隠れたりする現象を”不思議発見”と題して問題提起してみたい。というのが、上の写真の通り、左側は全く島影が見えない。ある日突然、右側のように見事な島が現れる。それも手が届きそうなほど近くに、はっきりした形で肉眼で十分に見える。

位置的に考えられるのは、広島県の採石場として有名な「大黒神島」に違いない。そう言えば、島の緑が削られて採石した跡が見える。

昔の人の知恵か、母が「山寄せしているから雨が降る}とよく言っていたのを思い出す。言われてみると確かに、気圧が下がって荒れ模様の前触れで、近くの山がはっきりくっきり近く見えた記憶は何度かある。

只、この写真ほど変わりようが鮮明ではなかった。この島影の見え隠れはやはり気圧の影響で、空気の透明度や透視率が変動するからなのだろうか。それとも科学的な根拠があるのだろうか。 もし、ご存じの方がおられたら、哀れな不思議発見者に、その根拠や概要をご教授頂けると有り難い。

日々、何気なく眺める海の景色にもこれほどの差があるものだ、何故そうなるのかは不思議というより他ない。これだから、何事にも意識を持って接しなければ大事なものも見逃してしまいそうである。またまた反省!!

       ( 写真:同じ窓から眺める瀬戸内海の有り様 )

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