「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「この一年」

2011年12月31日 | 趣味・・エッセイ

早かったような、ゆっくりだったような、とっても悲しく声も出ない日が続いたような、そして少し柔らかな笑顔がもどってきたような、複雑な一年であった。というのが、単的な正直な感想である。

何を語っても何を思い出しても、あの日を、あの3月11日を境に、思考回路はつながらなくなり、しゃべることさえ大きな声は憚られるような日々を過ごした。
遠く離れたこの地で、震災には直接被害もありはしないのに、気持ちの落ち込みはこれまで感じたことのない大きさであったことを改めて思っている。
だからこそ、一瞬にして全てを失われた被災者のお気持ちや如何に、と考え続けた一年であったと思う。

その一方で、相も変わらず二足も三足ものわらじを履いたような忙しさに追われ、気持ちの奥底にある悲しさや空しさを乗り越えて、充実した後半を過ごした感覚はある。
趣味の世界であったり、ボランティアの会であったりその内容は幅広い。そしてそれぞれに全力投球であったような。

なんだかんだ言いながら行きつくところ、孫と言う宝物が次々に繰り出す笑いの元をしっかり受け止め、自然に頬緩む和やかさを身体いっぱいに感じていられたことは有り難かった。どれほどのエネルギーになったことか。

この冬休み、5年と3年の兄ちゃん二人は、4泊5日という長丁場、大山でのスキー合宿に出かけた。最初は遊びのスキー教室くらいに思っていたらとんでもない話。
高校・中学も含めた中級以上の強化合宿だという。とたんにジジの心配は倍に膨らむ。
無事に帰ってくることを祈る思い。

当人たちはケロッとした顔で何事もなかったように帰ってきた。「面白かったよ」口をそろえる頼もしさ。心配したジジの立場がない。
一番印象に残ったこと「猛スピードでゲートをかいくぐる気持ちよさ」と兄ちゃん。さすが生真面目な本格的アスリートの卵か?次男カー君は「大山の高いところから真っ青い海が見えた、きれいじゃった、あれは忘れられん」やはりそうか。なんとなく納得の答えが。

そして三男坊は、お風呂に入ると湯気を見て「鬼が出てくるかね」という。お神楽のステージで、鬼が出てくるときには煙がもくもくとわく。相変わらずお神楽が頭から離れない悠雅君。こんな3人に囲まれ今年は暮れた。

さて来年、大きく変わることもない一年かもしれない。
それでも精一杯あれこれやって、やっぱり面白い一年であったと振りかえりたいものだ。

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「今年の収穫」

2011年12月30日 | つれづれ噺

                 
いよいよ残すところ一日となったこの一年。
全てを振り返るのは明日の仕事に残しておきたい。
本日ただ今思うのは、今年も色々あったよな~と、感慨ひとしおというところか。

今にして思えば、随分いろんな場所に色んな足跡を残してきた。
どこに、どんな足跡を・・・?それは靴箱に眠る靴に聞いてみなければ分らないが、またひとつ多くの経験を積んだ一年であることに違いはない。
そんな場面の一つひとつで身に着いたことも少なくない。忘れ去ったことも多くある。

そんな中で特に「今年の収穫」として特筆すべきが、旅先で見つけた小さな掛け軸に刻まれた言葉との出会いである。
気という字が長~~く書いてある。その中に心という字がまん丸く。腹と言う字は縦ではなく横に寝ている。人と言う字が大きく大きく、その中に見えないほどに小さく己という字がぽつんとある。『気は長く、心は丸く腹立てず、人は大きくおのれ小さく』 ということ。

京都の臨済宗の古刹「大徳寺」の数ある塔頭の中でも、日本最古の玄関として「国宝」に指定されている荘重な門構えを持つ、「大仙院」の客間に掛けられていた掛け軸の一つ。
また、室町時代の代表的な枯山水庭園及び方丈建築が歴史資料としても有名な大仙院。

この掛け軸に出会ったとき、何かに突き動かされた気がした。
自分にないものが全て凝縮されているような墨蹟。最後の部分、「人は大きく己は小さく」は、特に反省しきりの赤面ものであり、改良すべき点として肝に銘じた。
いいものに出会った。早速取り入れた。年賀状にも何枚か遣わせて頂いた。
今年の大きな大きな収穫。来年につなげて行こう。行けるかな~~?

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「始まりのお終い」

2011年12月29日 | つれづれ噺

 

年末仕事はじめが昨日。そして今日早くも仕事納め。
そのくらいに昨日、今日とよく働いたいうことかな。それにしてもたったの二日・・・。

そうはいってもその内容たるや、数え上げれば驚くほどの充実ぶりである。と、本人は思っている。しかも普段からやっていればなんてことはない内容であるにもかかわらず。
世間の口に戸は立てられぬ、人が何とも言わば言え。我がなすことはわれのみぞ知る・・・。
あれ~どこかで聞いたようなセリフ・・・。

ご覧の通り、障子も張り替えたのだ。
但し、値段は少し張るが、アイロンの熱で簡単に仕上がるというスグレもの。障子を張るのだから少々値段も張るというもの。

なんだかんだ言いながら、障子にボールをぶつけたり、わざと足を突っ込んだりする不届き者が3人も、遊び場がわりにする我が家の日本間。こうして張り替えてもいつまできれいなままでいるのやら。まあそれも仕方がない。破るやつがいるからまた繕う。繕うからまた破る。
せめて正月のお客が終わるまでくらいはもたせてもらいたいものだ。

これは一例。他にも盛りだくさんで、いささか腰のちょうつがいがおかしくなったような。
ひょっとすると寝正月か・・・??とんでもない、そんなやわでは3人の応援団長などつとまらぬ。
だからというわけでもないが、今日で我が家の年末仕事納めにして、明日は、一夜飾りとならぬよう、早目にしめ飾りや神棚・お仏壇のお供えなどしてゆったりお正月を迎える準備を整えよう。

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「年末仕事はじめ」

2011年12月28日 | 晴耕雨読

       
         豆のおろぎと霜対策

官庁は今日が仕事納め。いよいよ明日から6連休。
休みに入ったお父さんを待ちうけて、「年末の仕事はじめ」となる家庭も多いのだろう。ちょっとお気の毒な話ではある。

我が家も似たようなものである。今日あたりから年末もろもろの作業が本格的に始まる。差し当たって今日はお餅つき。といっても、昔のようなことはない。
石臼の準備も要らなければ、セイロウだ、かまどだ、たきぎだ・・・という一連の餅つきグッズも必要ない。台所でウィーンと器械が回れば間もなく搗き上がる。後はこねるだけ。

こんな年末行事も普通に出来ることはこの上ない幸せなことである。
今年は、身近な友の二人が、親との永遠の別れとなった。その人たちは、お餅を搗くでもなく、神棚や仏壇に鏡餅を供えることもない。しめやかな正月となる。

一大イベント餅つきが終わった。と思ったら、畑のグリンピースやスナック豆が、10センチ以上に伸びておろぎを欲しがっている。連日の寒さでしもやけも起こしそう。
春先に吹き荒れる春一番を見越して、頑丈なおろぎをしっかり立ててやる。
溜め込んでおいた枯れ草を、豆の周辺にマフラーのように巻いて、霜対策を施す。年内の農作業はやっとこれで終わる。

明日からは、網戸やガラス戸の高圧洗浄。外回りの清掃など、文字通り年末仕事始めの様相。各員奮励一層努力せよ・・・の号令を自らに言い聞かせ、やるしかない。
普段の怠惰のツケが年末に回ってきただけのこと。帳尻を合わさなくては。
どう考えても、仕事納めというより、仕事始めが似合う年の瀬の我が家である。

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「来た来た!ついに来た!!」

2011年12月27日 | つれづれ噺

     
          晴れて無料で渡れることになった、国の名勝錦帯橋

郵便受けに岩国市役所発信の茶封筒が入っていた。
高齢障害課、とやや遠慮気味に少し小さく書かれている。
なにもやらかした心当たりはないよな~と思いながらも、確かに私宛てなので開封する。

来たのだ。ついに来たのだ。「敬老優待乗車証」なるものが。
「敬老対象者の仲間入り」という公認の事実を見せつけられた思いがする。
但し、どう考えても本人の意識とは大きな大きなズレを感じてしまう。早い話が、「俺ってそんな敬老扱いしてくれなくたっていいのに」「まだ若いよ~」と思いたいのだ。

ああそれなのに!「平素より高齢者福祉につきましては、格別のご理解をいただき、熱くお礼申しあげます。さて、あなたは・・・」丁重に敬老年齢に達したことが書かれている。
入橋料300円の名勝錦帯橋が、晴れて無料で渡られる。岩国市が運営する市内の路線バスは、一乗車に付き100円という格安料金となる。

大きなお金などありはしないが、滅多に利用しないバス運賃も、錦帯橋の渡り賃も、そのくらいの小銭は持っているよな~と、身勝手なことを思ってしまう。
そんなわがままを言うから、「この頃は扱いにくいお年寄りが多いよね~」とひんしゅくをかうことになるのだろう。

仕方がない、というか、事実を認めるしかない。
これからまだまだ続くであろう、駅前での飲み会に参加するとき、420円かかったバス賃が100円で済む。錦帯橋も無料。この恩恵を有り難く受け止めることにしよう。
それが行政への参画であり、可愛いがられる年寄りへの近道ならば・・・。

でもやっぱり、ちょっと複雑・・・。

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「よんち」

2011年12月26日 | 趣味・・エッセイ

        
         行燈のある風景(昼行燈はご法度)

『 出先の妻から「炊飯器のタイマー入れるの忘れた。スイッチ入れといてね」と電話。
 おっ、またか。 そう言えば最近、トイレの電灯消し忘れも目立つようになった。
 あのしっかり者でさえ、年相応に来る時が近づきつつあるのかなと心配する。

 かたや「おれの携帯知らんか、ちょっと鳴らしてみてくれ」
 「この前、買ってきたあれはどこに置いたかのー」
 などと似たもの同士のかばい合いは続く。

 「お父さん、しっかりしてよ、認知と認知で『よんち』なんてシャレにもならんよ、ハハハ」と豪快に笑う。
 いつまで、こうして笑っておられるんじゃろう。 』
                
                      2011.12.26 毎日新聞「はがき随筆」 掲載


このところ昼行燈も時々見られるようになった。かなりの締まり屋でうるさかったのに・・・。
今の社会の流れから言っても、電灯消し忘れやエネルギーの無駄遣いは厳に慎まないと。
“ 気をつけよう、物忘れから来る、認知症 ”
昼行燈は、あの忠臣蔵、大石内蔵助に任せるのがよろしいようで・・・。 

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「こんなクリスマスも」

2011年12月25日 | 季節の移ろい・出来事

      

思いがけない静かなクリスマス。
昨夜のイヴといい今日の本番といい、近来まれにみるおとなしいクリスマスとなった。
早い話が、孫君たちも我が家にやってこれなかったし、クリスマスプレゼントも訳あって花より団子を選んだこともあり、なんとなく華やかさに欠ける昨日今日であったということか。

昨夜のイヴは、娘の家にママ友3世帯が集まって大宴会になったらしく、孫たちも自分ちで大騒ぎしたようだ。ババは、朝から夕方まで娘の注文に応じて台所に立ちっぱなしのおさんどん。日の暮れ頃にはグッタリお疲れ。

今日は、ジジの方が朝からお出かけ。素敵なプレゼントを頂いた一日を過ごした。
孫君たちは、明日から4泊5日という試練の「大山スキー教室」に出かける。
そのため朝が早いから今夜もやってこなかった。つまり二日続きで孫に振られたわけだ。

そんなことでプレゼントも、向こうで何かの足しになるようにポチ袋となった。
それにしても5年生と3年生。まるっきり初対面の大ぜいの子どもたちと、うまくやって行けるのか気がかりだ。それが婿殿は至って楽天的。「なんとかするでしょう」という言葉にうなずくしかない。昔から言われている「可愛い子には旅をさせ」を地で行くことになる。

集団生活に対応できるのか弟カー君。どうもマイペースなところが気が気ではない。ついつい「兄ちゃん、ちゃんと面倒みてやってね」という話になる。
元気で無事に笑顔で戻ってきたら、お年玉は弾まなきゃならないだろう。
本来なら毎日が騒々しい冬の長期休暇なのに、まるで静かな静かな気の抜けたような年末。おまけに、手の届かないところで過ごす二人に心配だけを募らせる。

まあ仕方がない。大切な成長過程の試練だ。静かなクリスマスの延長で静かな年末を過ごすとしよう。スマフォを手にして大喜びの友を冷やかすのも悪くはなさそう。

そうだ!今一つのクリスマスプレゼント!!母との別れという悲しみを乗り越えた浅田真央が、女子フィギアスケート全日本選手権を制し、素敵な笑顔を見せてくれた。

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「永く心を寄せて」

2011年12月23日 | ニュース・世相

      我が家の国旗はこれほど高くはない

天皇誕生日の朝、テレビ画面に天皇陛下のお顔が大写しされた。
折よく、玄関に国旗を掲げて居間にもどったところであった。

東日本大震災の直後、3月16日に発表された陛下自らのお言葉の再現であった。
多くの被災者を気遣い激励されるお言葉と、日本国民みんなが、被災された人々や地域に「永く心を寄せて復興につなげて行こう」という趣旨の特別放送の再現であった。

時あたかも「天皇誕生日」という日に敢えて再放送したものであろうが、新聞も読まずに先ずは国旗を掲げて、腰を落ち着けるタイミングでこの放送に出会った不思議を感じている
国民の祝祭日は家にいる限り国旗を掲げる。ある意味でそれは、お墓にお参りして手を合わせるのと同じくらいに、亡き父に対してのはなむけみたいな感覚で国旗を掲げている。
これは我ながら不思議な感覚であるが、子ども心に聞かされた父の、父らしい理屈で国を守り平和を守ることの大切さを教えてくれたことへの感謝の気持ちなのかもしれない。

「降りかかる火の粉は何としても払え、それが男であり家族を守る者の使命だ。同時に、自らの危険も顧みず火の粉を振りまく愚か者になってはいかん・・・」と。 
そのためにも、火の粉を振り払う腕力は付けておけ。とも、明治生まれの気骨ある迫力で諭された。国旗を掲げるたびにチラッと頭をよぎる父の顔。

それよりなにより、まさしく陛下のお言葉通り、自ら生きようと必死に闘う被災者のことを誰もが忘れず、永く心を寄せ、みんなで復興に向かう気持ちを持ち続けなければならないことを、天皇誕生日の今日、改めて肝に銘じなおした次第である。

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「今日のヒーロー」

2011年12月22日 | 趣味・・エッセイ

                        

今日のヒーローは言わずと知れた「かぼちゃ」と「柚子(ゆず)」である。
ヒーローインタビューなどは行われないが、誰も文句は付けないであろう。
が、中には梅の一品種で、この頃にほころぶ「冬至梅」や、疫鬼を払うと言われる小豆(あずき)を入れた「冬至粥」などを上げる人や地方もあるかもしれない。
プロ野球のヒーローには、文句を付けたい選び方がしょっちゅうあるが、二十四節気の一つ「冬至」とくれば、やはりかぼちゃとゆずがもっとも無難なヒーローであろう。

北半球では、正午における太陽の高度は一年中で最も低く、また昼が最も短い一日。
つまり、今日を境に、明日からはわずかながら日が長くなっていく節目の日であり、いよいよ本格的な冬に入り、寒さも厳しくなってくるよという警告を与える日でもある。
そこで、あの香り豊かなゆずをお風呂に入れて、香りを楽しみながらゆっくり湯に浸かって身体を芯から温めなさい、風邪対策をしなさいという先人の教えなのだろう。

同じ「至る」という一字なのに、冬に至る時は「とうじ」と濁音になる。夏に至る時は「げし」と言って濁りが取れ清音になる。同じ読み方にするために、夏に至るを「げじ」と呼んではちょっと風流に欠けるな~。かといって冬に至るを「とうし」ではちょっと重みに欠けるし、なんかしらスースー風が吹き抜けるような・・・。やれややこしや、ややこしや。

今でこそかぼちゃもゆずも年がら年中スーパーの店頭に並ぶが、その昔は夏に獲れるかぼちゃをこの時期まで保管するには、あれこれ試行錯誤があったに違いない。
夏場の最盛期には蹴っ飛ばすほどの値打ちであっても、この時期になると希少価値が生まれ、ヒーローとしての値打ちがつくのである。たかがかぼちゃ、されどかぼちゃ。

それぞれに季節や需給バランスにおいて、誰もがいつかはヒーローたり得るのである。その時季や風向きを見極める眼力が、ヒーローを生み出すリーダーの資質ということかな。
その反対側で、任命責任がリーダーに問われるのは当たり前のことである。

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「基本を守るということ」

2011年12月21日 | 晴耕雨読

       

初挑戦した秋ジャガイモの出来具合が、この年末の大きなお楽しみの一つであった。
この春、同じく初めて挑戦した春ジャガイモの意外な出来栄えに味をしめて、お友達の言う通りに、秋ジャガにも手を出した。基本に沿って慎重に、ひたすら真面目に・・・。

出来た出来たよくできた。茎を引っこ抜いた時点ではビー玉を大きくしたくらいのイモがコロコロ。やっぱり素人には無理か・・・と思いながらゆっくり掘り上げていく。
オッ!出てきた。ン?ここにもあるあそこにも埋まっている。それもスーパーに並んでいるのを上回る形のよさ、大きさそして色白さ。ゴロゴロ出てくる。

植える時期こそちょっと遅くなったが、植え方、肥料の与え方、途中の手入れなどなど、お友達の言う通り基本をきっちり守った。いい加減な吾輩にしては珍しく慎重だった。
土には、これまた別の友が届けてくれたモミガラをふんだんに混ぜ、土をふっくら柔らかく。
ジャガイモが柔らかい土の中で、伸び伸び育ったのがよくわかる。

もうひとつの初挑戦が丸大根と蕪。
        
これも、ネットの家庭菜園などではなく、お友達の指示を仰いで素直に従った。
結果がご覧の通り、お正月を前に、自前の蕪や丸大根が口に入るという寸法。これは気持ちのいいことである。ついでに「やらしゃーなんでも出来るじゃないか・・・」と。

この犬も食わない自慢話は別としても、蕪だってスーパーに並んでいるのと全く遜色なし。
葉っぱは虫食いだらけの完全無農薬。白さとスベスベ感は、こっちの方が優っている。どうだ!!

このように基本に忠実なら、畑の生りものもちゃんと答えを出してくれる。
ところが、基本や参考になる書物など世の中に氾濫しているというのに、物を書くという作業はいつまでたっても横ばいか下降気味。畑の作物のような結果がなかなか見えてこない。
やはり基本に忠実だけでは、味わいとか人間の感情に訴える機微に欠けるということか。
基本を守るということ、やっぱり行うは難しである。

 

 

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