「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「ゆく年くる年」

2019年12月31日 | 季節の移ろい・出来事

                                            
                                                     G・ゴルフ仲間の手作りによる優勝カップ

長かったような、短かったような。目まぐるしい忙しさかと思えば意外にゆっくりした時間もあったような。
全てが過ぎ去った今ちょっと振り返っただけでも、これまでとは少し異なる「よーがんばったね~」と、「まだまだやれば出来たんじゃない??」という思いが交錯する1年であったような。よーく考えてみると「フロックな行事にも精一杯汗をかいたな~」と、小さなエッヘンの気持ち無きにしもあらず。

長年続けてきた中学時代の最後の同窓会に向けて、年初早々に行動開始。
4月3日、48人の出席を得て、延々5時間に及ぶゆったりの思い出話に花を咲かせた。「最後の同窓会」と至る所で宣伝してきたが、仲間の皆さんの耳には思うように届いていないようで「またやろうや」との言葉で別れた。何年先やら、そのときまで幹事としてのエネルギーが残っているかどうか。
10月には2年に1度の元の職場OB会の当たり年で、こちらも準備からアルバム作り、発送までの数ヶ月いい汗をかいた。

一方で、自分が年を取っていくことを自覚しながらも「単に老けていくのも面白くない、抵抗手段としてなにかないか?」考えた。
思い切って仲間を募り、グラウンド・ゴルフを始めることにした。あれこれ下準備をして4月に「お試し期間」を取り入れた。10数人の賛同を得た。5月半ば本格的にスタートした。このゲームは、①個人プレーである ②老若男女を問わず出来る ③途中からでも試合に参加できる自由度がある ④出来るときに出来る人が集まり、自分の腕を磨く。そんな気楽なゲームで、意外にも好評を博した。
少子高齢化で寂れた団地公園に、10人の高齢男女の歓声がよみがえった。我々の仲間だけで、これまで2回の大会を開くに至った。

中には木工を得意とする人がいて、「大会の優勝杯を私が」といって、手作り優勝杯をこしらえてもらった。クラブの色も、ボールの色も、その大会で優勝した人の持ち物に合わせるという念の入れようである。ちなみに、この暮れの大会では、赤いクラブに赤いボールの人が優勝した。誰かって?言わぬが花とうことで。

もちろん、地域活動や青少年育成の宿題サポート、竹細工教室、しめ飾り教室指導。それらのホームページ管理など、結構忙しかった。
そんなこともあって、結果的には自分の趣味である「書き残す」という点では物足りなさが残る結果になってしまったのかな。

兎に角あれやこれや色々あった中で、健康診断以外一度も病院に行くこともなく健康に過ごせたのは、ひとえにカミさんの功績大であろう。蓄えてきた健康体で「無事これ名馬」と言われる一年を終えた。
この財産を絶やすことなく、さらに暴飲暴食を慎み、伊達の薄着を戒め、暑さ寒さの備えを万全に健康維持に努めたい。

まだまだ出来そうなこと、やってみたいこともある。それらに挑戦できる健康体を維持できる、そんな年を迎えたいと思う。

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「切腹最中」

2019年12月08日 | つれづれ噺

     

世の中には色んなお菓子があり色んな菓子折りがあるものだ。
極ふつーの和菓子を並べた折の底から、眩しく輝く小判や金塊が出てくるのは、江戸時代の悪代官と豪商の取引に出てくる菓子折とばかり思っていた。
それがなんと、技術の最先端を行くはずの原子力発電の世界で、金塊を潜めた二重底菓子折がまかり通っていたと聞かされれば、ただ唖然とするほかない。
出しも出したり取るも取ったり。同じ穴のムジナのような気がしないでもない。

ここに出てくる菓子折のお話は、ちょっとレベルも次元も異なるお話である。といっても、某大手新聞の受け売りであることを断っておきたい。
現在の東京都港区新橋にある和菓子の「新正堂」というお店の「切腹最中」という菓子折が人気なのだそうな。(せっぷくさいちゅうと読まないでね)
12月ともなると、毎年ながら大きな話題となる「忠臣蔵」「赤穂浪士」「四十七士の討ち入り」などでおなじみの「忠臣仇討ち噺」である。

物語の片方の主人公「浅野内匠頭」の終焉の地、すなわち切腹して果てたのが、東京港区新橋にあった大名屋敷である。
その屋敷内に店を開いていた菓子屋の前身が「新正堂」の先祖ということになる。
この「切腹最中」は、敵役の吉良上野介を意識したものでも、天下の御政道の過ちを攻撃する意味合いのものでもないのが面白い。
つまり、切腹に至った自らの誤りに気付き、それを勘弁してもらうために用いる『ごめんなさい菓子折』といわれている。

自分の非を認めない。責任転嫁は上手。素直に謝る反省に欠ける。そんな風潮がはびこる今の世の中で、自分のミスによって迷惑を掛けた取引先に謝りに行くときの手土産としてサラリーマンに重宝されているという。切腹するほどの気持ちを伝えるためなのだそうだが・・・・・・。
そこ(底)には「切腹してお詫びを申し上げたい」という謝りの気持ちと「ユーモアを分かち合う」気持ちが隠されている。小判や金塊とは大違い。

かつては東京本社で品質保証部サービスエンジニアとして顧客巡りの経験を持つ身。切腹最中を手土産にするほどの重大事に至らなかったのは幸いである。
ただ、今の世の中には切腹最中などでは収まらない、実際に切腹に値する先生と呼ばれる人が多いのも確かだ。
こんな菓子折で許してもらえる付き合いは、やはり信頼関係という裏打ちがあるから成り立っている。今一度信頼を取り戻すお働きを願いたいものである。 

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『消えゆく忘年会』

2019年12月07日 | 趣味・・エッセイ

         
              今年を最後に消えてゆく、名残の忘年会(イメージ)

これまでに何回酒を酌み交わしただろう。何回笑い合って心底楽しんで来ただろう。花見、ビアーパーティ、忘年会などなど。
もちろん、飲んで騒ぐのが目的の集団などではなく、積極的にお勉強する会、言うなれば向学の士の集まりである。
その名を「岩国エッセイサロン」という。エッセイをしたため、各種の新聞読者投稿欄に投稿を志す有志が集う会である。

その歴史は丸っと14年。長いのか短いのかはそれぞれの判断にお任せするとしよう。
スタートは2006年1月。一人の定年退職者がひまを持て余し気味の中で「何か楽しい時間の過ごし方はないか」と考えた上たどり着いたのが、自由気ままなエッセイを書いて新聞に投稿する会、つまりエッセイサロンである。もちろん代表は発案者の茅野 友氏。
向学の士の集まる会が何故サロン(遊び場)なの?というご質問もあろうが、そこに発案者の心の広さ、大らかさを感じるのである。

「エッセイを書く会」というと、ちょっと腰が引ける人も多かろう。そうではなくてサロン、遊びの広場として気軽に集まりましょう、と呼びかけたのが始まりで、多くの人が軽い気持ちで参加してきた。最高19人という会員に膨らんだ。それが今である。
月に1度、3~3.5時間のサロン定例会活動は、代表が作る資料と個人製作途中のエッセイ合評が中心となる。
その運営方法といい、内容の濃さ幅広さは、博学多才、ウイットに富み、皆を笑わせたり煙に巻いたり。
会員にとっては、月1回の定例会がそれはそれは楽しみであった。笑いの中に確かな栄養が隠されていた。

そんな楽しみの会が、今年の忘年会をもって終止符を打つことになった。代表が高齢になられたとか、格別体調不良というわけでもないのだが、ここはご本人の「ここらが潮時、いつかは終わりが来るのだから」というツルの一声で、皆が元気に笑って別れられる時を「けじめ」ということで、サロンの幕を閉じることになった。

それぞれに思いはあろうが、辞めて欲しいなどと言う人が一人もいない。むしろ「何で辞めるの?もっと続けて欲しい」の声が圧倒的ではあるが、後を引き受けられない我々にも責任の一端があるし、代表の決断を覆すことは出来ない。
今となっては、ただただ長い間の代表努めご苦労様。楽しい時間を有難う。で締めくくりたい。

今年1年分の新聞掲載作品を1冊にまとめる「花水木第14号」の出来上がりを受け取るのが来年1月24日。
その日が、14年続いた岩国エッセイサロン最後の日。
皆さんの気持ちをまとめて代表に贈る感謝状。さてどんな風に仕立て上げようか。腕にヨリをかけて、最後のご奉公を。 

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「訃報」

2019年12月05日 | 幼馴染の動向

              

夕方、同級生の奥方から電話が入った。
中学1年から机を並べ、長じては同窓会の幹事を長いこと一緒にやり、発言力もある中で、常に力強い味方の一人であった彼がこよなく愛した奥方から。
「主人がついに亡くなりました」という訃報の連絡であった。

ここ数年、入退院の繰り返しが続き、見舞うたびに少しずつ失われていく迫力を感じてはいた。
初めの頃は「こんなのは病気のうちに入らんよ。早くよくなってまた遊ぼうよ」という激励に確かな反応を示し、本人もその気であった。
それが、入院生活が長引いたり、足越が弱って行くのを自覚するようになって、中学時代のやんちゃ坊主の顔も薄らいでいった。
羽振りが良かった頃の工務店の代表としての顔も、短い時間の中で老いを感じさせるようになっていた。

詳細な病状をここに記すことはしないが、あれこれ合併症が進行したのはこの目にも分かっていた。
奥方にはわりと早い段階で医師からの重要宣告はされていたことも、聞いていた。
「12月3日未明に臨終を迎え、安らかな笑顔の永眠にホッとしています」「葬儀も子ども達だけで済ませました」とのご報告を頂いた。
こればかりは如何ともし難く、ついにそのときが来たか、という思いの弔意を延べ、改めて幹事仲間数人で焼香に伺うことにした。

我々にとって、ギラギラ輝く真夏の太陽ではなかったが、ほっこりの暖かさで人々をホッとさせる晩秋から初冬にかけての、柔らか太陽であったような彼。
そんな太陽も夕暮れとともに静かに海に沈んでいく、柔らかい夕陽のごとく。これほど確かな自然の摂理に抗う方法などありはしない。
50歳から本格的に始めた同窓会幹事団の中で、黄泉路への先導者となった彼に、仲間の多くの悲しみと感謝の気持ちがある。
お悔やみ状ではなく、惜別の意を込めた感謝状を贈りたい気分である。

そしていつも思うのは、先に逝く者はいい。残された者は大変だ、ということ。
それも自由な選択肢などありはしない。ただ歳の順番だけは間違えないで欲しい。老少不定という言葉もあることを知ってはいるが。
出来れば「ごめんなさい」と先に逝くのがいい、などと勝手なことを思ってはいるが、これも平生の生き方を天が公平に判断するのだろう。

長い付き合いの友の逝去に 合掌。

 

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「師走はじまり」

2019年12月02日 | カープ一喜一憂

                         

居間にある電話台の上の壁を定位置として陣取り、年がら年中のスケジュールで小生を追い立てる我が家のメインカレンダー。
令和で初めて迎える師走の教訓として「安らぎの生活は人の働きに感謝するところに生まれてくる」と大書されている。
否が応でも一番目に付きやすいところにぶら下げてあり、月初めの2・3日はこの教訓を目で追う。しかしその後は段々感じなくなる。
只ひたすら行事予定の書き込みだけを追うことになる。

そんな師走初日の予定欄には、午前8時:「海岸清掃」、13時:「タウンリポート」との走り書きがある。
師走ついたちに海岸清掃?などと思いつつも、予定を決める段階では小生自身仲間に入っていたのだ。あれこれ言わずに予定通り清掃予定の海岸へ。寒風の中、少人数に別れ、回収ゴミ運搬用に借り上げた漁船に乗って漂着物のたまり場へ。打ち上げられたプラゴミと、ビン・缶に絞って回収を始める。

  
 風に吹き寄せられた大量のプラゴミ。      回収したゴミを漁船に積み込んで                               小山に積まれた回収ごみ        

本来なら、あの暑い海の日に実施する行事である。しかも地元社会福祉協議会の年間最大イベントで、500も600人もの多くの人が参加してくれる。それが、今年は台風に邪魔されて事業の中止を余儀なくされた。それでも、漂着ゴミを放っておけば再び海に流れ出ることになる。この寒い時期ではあるが少しでも回収しようと呼びかけた。そうして集まったのは20人足らず。

それでも、大量のビン、缶類と、大型プラゴミを小山に積むほどに回収した。
そのことと、カレンダーの教訓との関連を聞かれると返答に窮するが、ほんの一握りの人からでも感謝される活動につながったとすれば、まあそれはそれでよしとしよう。

所詮こういった活動は、人に強制できるものではないし、自らが汗をかき、自らを慰める自己満足の世界である。
師走ついたちに汗をかき、手を汚しておけば、あとはいいことがあるばかりよ、と思いたくなるが果たしてどうかな。

  

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