「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「応援団」

2015年05月31日 | 趣味・・エッセイ

                      

趣味の一つである、と言えるのかどうか。ただ好きで勝手にやっている慰みとして、エッセイをたまに書いている。
そんな趣味が高じて、エッセイ集なるものを自費出版して、多くの方に「出費」というご迷惑をおかけしたこともある。
それ以来自粛に自粛を重ねて、この頃ではただひたすら、自らの楽しみにだけにとどめて、書き貯めることにしている。

表だって発信するのは、このたび商標登録することになった毎日新聞「はがき随筆」の252字の世界にはどっぷりはまっていると言える。
そんなはがき随筆の、昨年度の年間大賞の授賞式が、北九州市小倉で開かれた。
小生の未熟な腕では、とてもお呼びも付かない高嶺の花ではあるが、仲間の二人がノミネートされていることから、拍手要員の応援団員として参加した。

山口県と九州全域の中から選りすぐった13篇が優秀作品としてノミネートされる。
その中から「毎日はがき随筆大賞」1編、「日本郵便㈱九州支社長賞」1編、「RKB毎日放送賞」1編、など、6編がこの席で改めて表彰される仕組みとなっている。もちろん、その他の7遍も「毎日はがき随筆賞」として表彰される。一度はその13編の中に我が名を残してみたいな、とは思うのだが。

今年の選者は、福岡県中間市在住の芥川賞作家「村田喜代子」さんであった。
今は絶版となっているが、「名文を書かない文章講座」という、彼女の若き日に著わした「文章の書き方の基本」といった、いうなれば参考書みたいなものを拾い読みする関係で、なんかしら親しみを覚える作家のひとりであった。そんな先生に今回直接お会いできて、言葉も交わすことができた。

その作家経歴たるや、芥川賞から女流文学賞・平林たい子賞・川端康成賞・芸術選奨文部大臣賞などなど、想像もつかないほどの華やかな作家生活を送られたことを改めて知った。さぞかし、後光が差すようなきらびやかな70歳・・・かと思いきや。
そこにもここにもいるようなフツーのおばちゃまであることに驚いた。
ご自身が選考された今回の一席の作品を、RKB毎日放送ラジオの女性アナが朗読するのを聞くときは、メガネを外して涙を拭きながら聞き入っておられる様子に、また一段と親しみを勝手に感じさせてもらった。

ミニ講演も、訥々としたしゃべりの中に、キラッキラッと光る言葉が転がり出てくる。
小倉行の目的は、応援団拍手要員ではあったが、実は「村田喜代子」という作家の人となりに触れることでもあった。
その目的は九分九厘まで果たされた。残りの一分は?作家の言葉をどれだけ身につけられるか、何かの形で体現できるか、これが問題である。
それにしても、久しぶりに気持ちの落ち着く意義ある時間を過ごせた・・・のかな。

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「不揃いの・・・ ・・・」

2015年05月28日 | 晴耕雨読

              

昨年10月の終わりに植えたタマネギ。7か月を経てやっと収穫期を迎えた。
元肥を入れ、しっかり耕して作った畑に、450本の苗を1本1本丁寧に植え付ける。「期待に応えて大きくなってくれよ」との願いを込めて。
正月が明けて寒の頃に「寒肥」を与える。ちょうどそのころヨトウ虫(芯切り虫)との闘いが始まる。なんせ「無農薬」が自慢の自家製品。
虫退治の農薬など使わないので、虫たちも大きな顔して寄って来る。

寒さをこらえて畑に足繁く出て行き、ヨトウ虫の兆候を観察する。ちょっと油断すると、たちまち芯を切られて細い葉っぱが転がっている。
割り箸でその周辺をほじくると、割り箸に負けないほどのヨトウ君がコロッと出てくる。「ご苦労さん」薄氷の張ったカンカンの水に泳がせる。
「キジも鳴かずば撃たれまい」。悪さをしに出て来なければ、氷水のお仕置きを受けることもなかったろうに・・・と。そんなこんなで7か月。

大きく伸びた茎が自然に倒れるころが収穫時期の目安。
タマネギが直接天日を受けて乾きやすいように、お天気続きの予報に合わせて引っこ抜くタイミングを計る。
ヨシッ今日だ!ということで一気に引き抜き、畑に転がして天日に晒す。この作業でまた一段と味がよくなる、と教えられた。

何の分け隔てもなく、同じように作った畑に同じ時季に、同じように植えて同じ時期に収穫したのに。
ああそれなのに出来栄えは・・・。まん丸く肥って「どこからでもかじって・・・」と催促するような玉もあれば、「なんでもっと根を張らんかったのか」と叱ってやりたくなる華奢で細身、遠慮がちに育った玉もある。「これラッキョウの大型?」というのもある。「一口サイズでそれはそれでおいしいんよ」と慰められて、まいいか、たとえ小さくても全てを並べて天日干し。

こうして並べて上から見ると、まさに「不揃いのタマネギさん」。
肥やしが効きすぎて太るに太れなかったものもある。隣同士の玉がお互いの養分を取り合って、成長しきれなかったものもある。
畑の端っこで崩れそうな土をしっかり掴んで、大きく立派に育ったヤツもいる。
失礼を承知で勝手に言わせて頂くなら、4月に行った中学校の同窓会を思い出させるような、不揃いのタマネギたち。

こんな生意気なことを言う当人は、さてさて一体どのくらいの位置を確保できているんだろうか。

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「花を愛でて」

2015年05月26日 | 旅行・レジャー

                

    

今、バラの花が見事である。もちろん、鼻をくすぐる香りもまさに「今が旬」を感じさせる。
ちょっと足を延ばす覚悟さえあれば、あちらこちらでバラ祭やバラ展が開かれている。
バラ祭の当日を狙って、例年出かける隣町の大々的なバラ祭を今年は避けた。クルマで行けば、往復の大渋滞に巻き込まれる恐れがある。
ならば電車か?最寄りの駅まで行けば、そこからバラ祭会場までは無料のシャトルバスのサービスがある。そんな贅沢で迎えられるというのに。

今年は、国道を下って光市にある、あの梅見で名高い公園の、割とスリムなバラ祭に出かけた。
「バラ祭り」というほどのものかどうか、行った人が判断すればいいこと。全体的に小ぶりではあるが、観客も小ぶりなので、ゆっくり散策。
花の艶やかさも、香りも、ゆっくり存分に堪能できた。

小さな展示場の生け花展のコーナーには、如何にも手作りと思われる苔玉に、見事な一輪・二輪をあしらった秀作に出会った。
こういった方面に疎遠に生きてきたために、あしらってある花の名前など分からないが、芸術品としての価値はなんとなく分かる。
また、きれいなバラにはトゲがあるのを承知で、大輪のバラを無理やりこちらに向かせ、パチリ。いい記念になった。

速い話が、4月も5月も忙しく時間に追われる日々を過ごした自分への、束の間の小休止のバラ見学。これがいい。
これで終わったわけでもなんでもない、エンドレスに付いて回る忙しさ。
そんな中で、こういった肩の凝りをほぐすような時間を自分で作る。この努力は、今この年齢だから違和感なくできること、なのかな。
若くて血気盛んが取り柄のころでは、気付かない人間の「ゆとり」なのかもしれない。

いくらバラの花を愛で、香りに包みこまれても『ラビアンローズ』、バラ色の人生などとは縁のないわが生涯ではある。ま、それも悪くない。

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「笑顔の肖像権」

2015年05月22日 | ニュース・世相

                    

見事に晴れ上がった5月の青い空。それに湿度が低いとあって爽やかさはこの上ない。
一仕事終えた気持ちの余裕と、昨日までの肩の凝る思いを吹き払おうと、久しぶりお城山に登ってみた。
やはりここはいい。少々の疲れも、うなだれ加減な気分も、一気に払拭してくれるような爽快さが迎えてくれる。

温度は25度といえば決して低くはないが、湿度が40%とくれば、まさに爽快指数は最高に近い。
登山口とり付きの急な坂道は、モミジやヒノキに覆われて直射日光を遮り、ヒンヤリ肌寒さを覚える爽やかさ。
「やっぱりこの空気だ・・・」と一人ほくそ笑み、大きく大きく深呼吸。ついでに、よくぞがんばったな~と、この2週間ばかりを振り返る。

200種類とも言われる木々や植物の生息するお城山の道。空気の美味しさと、ヒンヤリ木陰がたまらなく優しい。
およそ25分かけて登ったところに、ロープウエー山頂駅がある。そこにはゆったりのんびりの自由広場がある。
絶好のお天気に恵まれて、幼稚園年長さんと思われる一団が遠足に来ていた。それはそれは賑やかで微笑ましい光景。格好の被写体である。
と、単純に思うのはこちらの独りよがりであり、状況判断が甘い、とお叱りを受ける恐れがあるのでご用心!!

この頃の親御さんは、子どもの肖像権とか個人情報などということに関して異常なまでに敏感である。
こういった、一見ほほ笑ましい光景であっても、ヘタにカメラを向けようものなら「変なおじさんか?」「痴漢の予備軍か?」などと疑われかねない。
可愛いと思う単純な感情でシャッター押しちゃいけないの?答えは「イエスー!」。勝手に撮ってはいけない。
どうすりゃいいの? 引率の責任者の許可を得る必要があるということ。しかも個人が特定できる顔写真を撮るなら保護者の許可が要るということになる。

地域の福祉活動などで児童対象の工作活動を行ったとする。出来上がった作品を手にした喜びの集合写真撮影。
それを広報誌に載せようとすると「顔出しはノー」という親の発言で、集合写真掲載はボツになることさえある。
いっそ集合写真に入らなきゃいいのに・・・と考えるのは、そんなことには無頓着に大らかに生きてきた我々世代の言い分である。
校長や保護者の許可なく、「個人が識別できる」画像使用はご法度である。

個人情報、肖像権、プライバシーなどなどの権利があまりにも異常に一人歩きして、人間のつながりや友達関係までプッツンしてしまいそう。
とはいうものの、じゃぁいったいこんな世の中に誰がした?
やっぱり、我々ではないのか。知らず知らずのうちに自分たちが、あの手この手の新たな手口の犯罪を思いつき、善良な市民が被害者となる。そんなケースが増えすぎて、個人情報を固く固く守ろうとする、自己防衛手段の一つ、ということなのだろう。
どこに愚痴を持っていくこともない。ワリーのは、アタシたち人間様である。

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「それとなく」

2015年05月18日 | つれづれ噺

                    

外出から帰って玄関を開けると、花の香りが優しく包んでくれる。
「オッ、珍しや豪華な花が飾ってある」と思いつつ話を聞いてみると、従姉が夫婦そろって、お花とお菓子を届けてくれたのだという。
この従姉は、103歳の皐月を元気に明るく謳歌している叔母の、80歳になる長女である。
長い間、年に一度の年賀状でのお付き合いであったのが、叔母が施設に入ったことでこちらが見舞いに行くようになってから、時々顔を合わせることに相成った。

「いつもありがとう、『〇〇ちゃん夫婦が遊びにきておくれるのが本当に嬉しい、有難い』と母が感謝しているんよ」と。
ささやかなものですが・・・などと、お花やお菓子、時には缶ビールが届けられたりする。
そんな気遣いなど無用に願いたい、こちらが勝手に行って元気をもらって帰るんだから、といっても「母の感謝の気持ちです」といって譲らない。

振り返って、私の母が施設に入院し、だんだん薄れゆく記憶の中で一番に喜んだ見舞客は、実の妹であるこの叔母さんであった。
こちらも、一回でも多く母を喜ばせようと、叔母さんを連れに行っては一緒に母を見舞ってもらってきた。
そんな恩義も確かにあるが、今はその時の恩返しというより、4歳も違った母の年を越えて尚103歳で元気に世間話のできる叔母さんは、言うなれば私たちの遊びに行く目的地の一つになっている部分もある。

お見舞いに食べ物を持って行っても、その場で食べてもらえるホンのわずかな量だけ。それに、いくら元気とはいえ長居ができるわけでもなく、少し話をして笑いあって引き上げる。別れ際にしっかり手を握って「バイバイ」。
別にお金をかけて見舞いするわけでもなく、たったこの程度のことであるが、叔母さんに喜んでもらえるのなら、これからも出来る限り続けたい。

ただ一つ気がかりは、叔母さんの長男が遠く岡山に住んでいる。わたしと同い年の高齢でもあり、事情もあって、そう度々見舞いに帰ることもできないでいる。
そこへもっていって、いくら近くに住むからと言って、私たちがあまりにも楽しいお見舞い時間を過ごすことは、従弟に悪いなと後ろめたさを覚えたりする。

完全個室で本を読んだり寝転んだり、何不自由のない優雅な施設生活に見える。
が、母親には母親の、完全に満たされない想いは胸のうちから消えることはないのだろう。
そこらあたりも考慮しながら、、それとなくお見舞いに行き、ホンの少しでも叔母さんを勇気づけられたら、黄泉路の彼方で私の母も喜んでいてくれるに違いない、と思う。

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「ジャガイモの花」

2015年05月16日 | 晴耕雨読

                   

5月半ばにして早くも夏日や真夏日の到来がニュースの主役を張り、熱中症で病院に搬送されたという救急車の画像がテレビ画面に流される。
我が住む町は、幸いなことに適度な日照りが大地をあたため、同じように適度な雨が大地を潤してくれる今年。
畑にとっては最高の循環が作物を太らせるようである。同時に、畑周辺の草の成長も半端ではない。里の草刈り機を借りて汗を流す。

そんな好天に恵まれて、タマネギもジャガイモも、ニラもニンニクもとてもよくできた、と思いたい。
タマネギは上から見れば一目瞭然。玉の大きさがちゃんと目に見えるので「オ~玉太りは順調じゃ」とはっきり言える。
ニラも、すでにギョーザのネタになったが、2回目3回目が新たな芽を出し、青々と茂るので成長の度合いが分かる。

問題はジャガイモ・ニンニクなど根菜の成長具合を予測する場面である。
なんせ素人菜園、まだ経験の浅さが災いして、茎の下の発育ぶりがなかなか読み切れない。
そんなとき、表面に出ている様子、つまりジャガイモなら、茎の肥り具合・勢い・色などでおおよその見当をつける。さらに決め手は「花の咲き具合」
ということになるだろうか。勢いのいい青黒い葉っぱを押しのけるように、ふんだんに花を咲かせる様子は「今年は期待できる」と自画自賛のニヤリ!

茎の勢いがよくてお天道様に恵まれたら特に問題ないじゃん、と思われそうだが、そこが素人の浅はかさ。
『その勢いの本質を読みながら「追肥」の加減を考える。追肥の成分も重要となる。やり過ぎると枯れる。』
こんな話をする同級生の受け売りで、イッパシげなことを言っているだけの話である。

野菜も子育ても似たようなもので、成果・結果を気にするあまり、性急に発育を促すと途中で枯らしてしまう危険が伴うということ。
孫兄ちゃんは今年中学3年生。高校受験という試練を控えている。さーどうする。
彼には彼の長~~い一生がある。叱咤激励という肥やしをほどほどに、ゆっくり花を咲かせる時節を見守っていくのかな~
そうなると、まだ完全に成長していない茎が、風や雨に叩きのめされる危険からは守ってやらねば・・・。

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「一つ山越しゃ・・・」

2015年05月13日 | つれづれ噺

                                         

「今が働き盛り」と自認しながら、汗水流して働きに働いていたあの若いころ、青島幸男という直木賞作家が華々しい活躍をしていた。
マルチタレントなどという言葉では収まりきらない、それはそれは多才というか多芸というか、何をやってもズバ抜けた成果を残し、世間から高い高い評価を受けた。あまりにも時代にマッチしていて、小憎らしいほどの才能にちょっと反発したくなる部分もあったが、やはり大きな憧れを持った人の一人でもあった。
数々のヒット曲を作詞した中に「ホンダラ行進曲」というのがある。
     
     ♪♪  一つ山越しゃ ホンダラッタホイホイ  
          も一つ越しても ホンダラッタホイホイ
         越しても越しても ホダラホダラタホイホイ 
          どうせこの世は ホンダラッタホイホイ
         だからみんなで ホンダラッタホイホイ
            ホンダララ ホンダララ ・・・ ・・・ ♪

と続く、例のクレージーキャッツが演じ、かつ歌う無責任野郎のひと節である。
このところ、なんかしらこの歌に惹かれるというのか、身に詰まされるというのか、共感してしまう自分がいる。

「取り敢えず引き受けてやってみるか・・・」という、軽い気持ち?でもないのだが、誰かがやらなきゃならんことならやってみるか・・・と引き受けてしまう。
一旦引き受けたら「世間に対して恥ずかしくないように・・・」とか「同じやるんなら持てる力を出し切って・・・」などと、ありもしな力を振り絞ってみる。
ハマリ込んで取り組んでいる間は疲れなど感じもしないないほどである。
ふと我に返って振り返ると、それなりの成果は残っているように思うが、大きな大きな疲れも残っていることに気付く。

「今さら気が付いても遅いよ!!自分でのめり込めば疲れも出るだろうよ、そんなこたー分かってることじゃないか」と叱られたり笑われたりすることが多いのに、なかなか懲りない。これが私の生きる道・・・などと大袈裟に考えるわけではないが、そんな星の下に生まれたのかな~などと思う。

一つ山越えりゃまた次の新たな山が目の前に。まあ考えてみれば、その繰り返しが生きていることの証明なのかも。
目の前に越える山が存在しなくなった時は「ご苦労さん・お疲れ様」と手を合わされて楽になるのだろう。
その時が来るまでは、格別な意識をしないまま、流れに逆らうこともなく、今の状態で生きて行くのだろう。

一つ山越しゃホンダラッタホイホイ、越しても越してもホンダラホダラタホイホイ! 
あきらめるか、開き直るか。どっちにしてもホンダラッタホイホイ・・・ ・・・か。

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「しまなみウオークⅡ」

2015年05月09日 | 旅行・レジャー

       
              西瀬戸自動車道(しまなみ海道) 多々良大橋1480m           多々良大橋中央付近の看板

「絶景のしまなみ海道ウオーキング」ツアーに申し込んでいた。
いずれも日帰り、全3回の行程で今回は2回目。多々良大橋を歩いて渡るコースに参加した。

あいにくの小雨模様。傘が要るほどではないが、降らないというわけではない、というへんてこりんなお天気。
これが快晴なら、随分遠くまで望める、瀬戸内海国立公園の他島美、きれいな海の景色を満喫できたのであろう。
そう思いながらも、この曇り空には曇り空でしかない、また一種違った風景が見られたのは、それはそれでよしとしよう。

今回は、正式名を「西瀬戸自動車道」通称「しまなみ海道」のうち、前回紹介した、耕三寺や平山郁夫美術館のある「生口島(いくちじま)から、広島・愛媛両県の県境をまたぐかたちで架かっている多々良大橋1480mを歩いて渡るのがメインのバスツアーである。
な~んだ、たったの1480mか、などと鼻で笑うのは早計である。橋のはるか手前の駐車場でバスとお別れ。歩き始める。

巨大なハープか、白鳥が大きく羽を広げた姿を想像させる多々良大橋。斜張橋としては世界一の規模を誇る。その雄大さ、見事さは、この足で歩いて渡り、時に見上げ、鳴き龍の声を聞いてこそ実感できるというもの。
県境を越えて渡った先は瀬戸内海で4番目に大きな島「大三島」のしまなみ公園を目指す。歩き始めから終点まで全長4kmのコース。そのうちの
1480mが橋の部分ということである。

四国へのバスツアーなどで何度か渡っている多々良大橋。高速でぶっ飛ばし、時間短縮が何よりの手柄になる高速道路の、今一つ違った側面、つまり、これほど巨大な建造物も元はと言えば、人間の手と知恵が、全ての部分で息づいているの思い知るときである。

正直なところ、4km歩いたとはいっても、起伏もない平坦なアスファルト道路。涼しさもあってタオルを使うほどでもない距離と行程、いささか物足りなさは残った。でもまあ参加者の年恰好を考えれば、これくらいがちょうどよかったのかも、などと勝手に思う。
次回の最終回は、来島海峡大橋三橋を全て歩く6kmコース。6月の蒸し暑さの中を挑戦ということになる。

なんでお金出してまで遠くに出かけ歩くのか?確かにそうだ。近くにいっくらでも歩くところはあるじゃん。
そうはいかないのだ。バスで遠くまで出かけ、見知らぬ土地を踏破する。ここに意義があるのだ・・・という「ことにして、次回を楽しみにしている。

 

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「GNO」

2015年05月05日 | 晴耕雨読

                       

何もしなくても2日の土曜日から6日水曜日まで、5連休のGWを満喫した人も多かったのだろう。
ごった返す人混みや交通渋滞はできる限り避けたいと願う高齢者にとっては、GWだからと言って特に外出予定を立てるでもなかった。
急遽孫兄弟に頼まれて、近くの花火大会に出かけたくらいのものである。

だからといって、特に読書に親しむとか、新聞にじっくり目を通すとかいう格別なことをするわけではない。
但し、今日に限っては新聞の「読書」欄から拾った、新刊書籍の話題をひとくさり、柄にもなくご披露してみたい。
ということで、ジャイアンツ相手に大勝して喜ぶカープ選手の写真とは、直接関わりのない内容であることを先ずはお詫びしておきたい。

見城徹著「たった一人の熱狂」という新刊が話題になってますよ・・・というお話。
かつて、角川書店でヒット作を量産したスーパー編集者が、堀江貴文氏と藤田晋氏が始めたソーシャルメディアで、昨夏から発信してきた言葉を基にした書き下ろしだそうである。

そこに出てくるイニシャルにふと目が留まった、「GNO」
「ジャイアンツの長嶋・王さん」という意味ではない。「ジャイアンツノー」という意味でもないようだ。
ここでいうGNOは、G=義理。N=人情。O=恩返し。ということで、人間が成功を収める一つの要件として、義理と人情、恩返しという人間の深層にひそむ心のよりどころをないがしろにしてはならない。つまり、そういった感情を大切にしなければ本当の成功は難しいのではないか、という解説である。

もっといえば、「小さなことでも真心込めろ」「地味な雑用でも自分の心がけ一つで黄金の仕事に変わる」と熱く語られているのだそうな。
「相手を一発で口説き落とせるキラーカード」を多く胸に秘めて行くように、懐の深さを養っていくことが肝要と。
同じカードでも、量販店のポイントカードばかりでは、いくらあっても大したことにはならないとの皮肉も付け加えられていた。

10枚などと大きな望みは言わないが、せめて1枚でもキラーカードなる物を胸の奥にしまっておきたいものだ。
その上で、昔かたぎだと笑われようが、義理と人情恩返し、「GNO」を改めて胸に刻んで生きてみたいと思うのだが・・・。

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「我がなす道は・・・」

2015年05月03日 | つれづれ噺

                
                大河ドラマ「花燃ゆ」 草莽編をいろどる人物図。これに竜馬が加われば・・・

長州、山口県を舞台にした幕末の動乱から維新への道のりを描く大河ドラマ「花燃ゆ」の視聴率が芳しくない、と評されている。
同じ長州に生まれ育った小生から見ても、タイトルや取り上げた主人公に、若干の無理があったのかな、などといっぱしげなことを思わないでもない。そうは言っても、視聴者に媚を売ることなく、「吉田松陰」という人物を描くのに、何の問題ありや、堂々と放送すればいい、とも思う。
あの激動の時代を駆け抜けた多くの志士たちに、「あなたのこころざしとは何ですか」と問いかけ、思考転換という多大な影響を与えた松下村塾の「吉田松陰」。近代日本の創始者である。

「親思う心にまさる親心けふのおと(音)ずれ何ときくらん」という辞世の一首を見ても、単なるはねっ返りの暴走族ではないことは明白である。
あっさりタイトルを「吉田松陰」とした方がもっと興味深かったのかな。
でもね、30歳の若さ、志半ばで罪人扱いの打ち首という方法で非業の死を遂げる壮絶な生き方を、妹「ふみ」の目を通して客観的に描いてみるのも面白いあじわいがでてくるのではないか、と期待していた部分もあるにはあった。

まあ視聴率の高低は別にして、いよいよ坂本竜馬が登場するに至った「花燃ゆ」。本格的に面白くなると改めて期待する。
「骨太の幕末ドラマに切り替えよ・・・」と、低視聴率をなじる声が大きいようだが、坂本竜馬の登場によって、「骨太な幕末ドラマ」に切り替わる要素は十分である。
「我がなす道は我のみぞ知る」とのセリフを残して今夜は終わった。
正式には、「世の中の人がなんとも言わば言え、我が為す道は我のみぞ知る」である。と、司馬遼太郎著「竜馬が行く」にはそう書いてある。

末期を迎えた幕府側の賢者「井伊直弼」が暗殺され、維新回天を実行する、坂本竜馬・桂小五郎・西郷隆盛など、歴史の主役が登場する今後の「花燃ゆ」大いに期待できる。期待して観ていきたい。 
可愛い井上真央が演ずる「松陰の妹」をつい応援したくなる。彼女の一生懸命さが伝わってくるから。

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