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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「亥の子まつり」

2015年11月30日 | 季節の移ろい・出来事

           
                                       猪の子もちをつく地区の子どもたち

穏やかな小春日和に、木枯らし吹き荒れる寒さも混じる冬の初め。
いよいよ11月も晦日を迎えた。一晩眠ったら師走のあわただしさを迎えることになる。
伝統的な祭りを保存しようという社会福祉協議会や自治会連合会、さらには子ども会連合会などが一緒になって、町には亥の子餅をつく音が響いた。

隣接する孫の住む町では、数々の伝統芸能が保存されており、四季折々に各地を巡回しながら、子どもたちに日本の旧き佳き昔を身をもって伝授している。
今回は「亥の子祭り」が行われた。
亥の子用槌に見立てた丸い石に、八方に分かれるように荒縄を括り付けた亥の子石と、それを打ち付ける畳半畳を、軽トラックに載せて、町内10数か所の集落を巡回する。訪れた集落の子供も大人も集まってきて、軽トラのスピーカーから流れるお囃子に合わせて、みんなで協力して石を畳に打ち付ける。

『旧暦十月、亥の日の亥の刻に行われ、亥の子の祝い、単に亥の子、また亥猪(げんちょ)とも言います。稲の収穫祭として亥の子の神を祭る西日本に多く分布する行事です。
猪の多産にあやかり、亥の月(十月)の初めの亥の日の亥の刻(午後九時から十一時)に、新穀でついた亥の子餅を食べ、無病と子孫繁栄を祈る年中行事でもあります。
また「亥の子節供は夕節供」という里諺があるとおり、子供たちの行事もすべて夜行われました。江戸時代、市中では、この日に炉や炬燵を開き、火鉢を出し始める習慣があったそうです。』

と言われるように、いろんな意味を込めた亥の子祭り。
亥の子石をつき終わると、集まった全員にお菓子が配られる。そのお菓子目当てに集まってくる子どもたちではあるが、地区のお年寄りが「亥の子祭りの由来を・・・」と、短めに上手に説明する。
子どもたちには今は理解できないかもしれないが、もう少し大きくなってパソコンでも開くことになれば、亥の子祭りの説明も納得いくように記されている。

このような行事の積み重ねが、子どもたちの心に、故郷の良さを感じさせるきっかけになれば幸いである。
何事によらず、何もしないよりは何かを仕掛け、長く続けることで伝統というものが生まれていくのであろう。

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「伝統を背負って」

2015年11月16日 | 家族・孫話

               
               参加することに意義を求めて、カー君       準優勝、関脇に叶う、兄ちゃん

孫兄弟が住んでいる地区には、『天下御免 豊太閤官許 田浦(でんぼ)相撲』という古式ゆかしき伝統行事がある。
地元の民俗芸能保存会によって手あつく守られており、今年423年目を迎えたという。
但し、年に複数回相撲大会が開かれたこともあって、回数としては今大会が435回目だということであった。

由来のあらましは、423年前、豊臣秀吉一行が文禄の役(1592年)朝鮮に出兵した際、瀬戸内海のこの地に「風待ち」のため仮泊した。数日間の滞在となったため、将兵の志気を鼓舞することや慰労の具として、相撲をとらせた。当時はちゃんとした土俵もなく、田んぼが土俵となった。それ以来この相撲大会は『田浦相撲』と書いて「でんぼずもう」と呼ばれている。しかも、豊臣秀吉から許可を得たことから「豊太閤官許天下御免」の旗印が受け継がれている。
そして現在でも、通津小学校校庭の一角には「鋼鉄四本柱屋根付き」の本格的土俵がしつらえてある。今は男女関係なく土俵に上がっている。

そんな恒例の由緒ある相撲大会。土俵に上がるのは、小学生は予選通過の選手だけ。服装は普通の体育服。
中学校は、クラスの中で適当に選手を決める。上半身裸、体育用半パンの上から、まわしを付ける。
市の相撲連盟から派遣された指導者が、本格的にまわしを締めてくれる。何もかもホンモノ仕立てである。

どういうわけか、クラスでも身体は2番目に小さいカー君が出場することになったという。ま、いいか「オリンピック精神にのっとって・・・」
かっこうだけは一人間。大きな相手の身体に巻き付いて、土俵際で勝負はもつれた。審判から「物言い」が付いた。
協議の結果、相手の勇み足の前に、カー君の身体が完全に出ていた。ということで敢え無く一回戦敗退。でも出場した通気に拍手。

兄ちゃんはそうはいかない。小学校時代から予選突破の常連選手。足腰はスキーで鍛え上げている。
順調に勝ち進みいよいよ「大関」という優勝をを目指して決戦。互角の勝負、強引な勝負手が裏目となって、残念準優勝。
「関脇に叶う」という梵天を手に、嬉しさ半分口惜しさ半分。小中通じた田浦相撲の選手を卒業した。

     
             化粧まわしも凛々しく弓を大きく回して       肩に担いで、ヨイショッ!四股踏みにかかる兄ちゃん
 
これほどの由緒ある相撲大会だけに、儀式など相撲に関わる一連の行事は全て、大相撲並みのしきたりが織り込んである。
呼び出しも行司も勝負審判も、そして最後の弓取式も。
兄ちゃんは最後を飾る「弓取り式」を任された。化粧まわしを付けて、土俵の真ん中で左右に大きく弓を回し、チリを祓って四股を踏む。
大きな掛け声にちょっと照れながら、教わった通り堂々とやってのけた。世話役のお年寄りからお褒めの言葉がジジに寄せられた。

兄ちゃんにとって、栄光も悔し涙もあった9年間の慣れ親しんだ土俵に、弓取り式という晴れ姿で別れを告げた。
次なる試練に、この日のような晴れやかな笑顔を見せてくれることを、静かに期待しよう。 そして有難う孫兄弟!

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「秋の七草罪作り」

2015年11月14日 | 季節の移ろい・出来事

          

2年に1度行われる元の職場OB会。今年はその開催年。何か月前から準備して、総勢35人が集まった。
会の冒頭で先ず、前回開催から今回までの2年間に、お浄土や天国に召された方々のお名前を披露し、ご冥福を祈って黙とうを捧げることから始まる。近年では黙とうを捧げる方の数が増え始めた。特に今年の場合、10人のお名前を読み上げるに至った。2年間に10人である。

一人名前を読み上げるたびに、「エーッ」とか「もぅお」の声が聞こえる。
考えてみれば無理もない。定年退職後に仲間となった方ばかりである。35人中7人の女性が、ある程度平均年齢を下げてはいるものの、高齢者の集まりであることに変わりはない。現役の職場リーダーと工場内幹事を除けば、皆さん60-歳以上。歳に不足はない人たちの集まりである。
今回の最高齢出席は87歳であった。

そんなOB会の記念アルバム作りを任され、あれこれレイアウトを考えてみた。
全部で35人、テーブルは5つ。テーブル毎のスナップ5枚をA―4版に配置すると、微妙な隙間が生じる。
そんな隙間を季節にちなんで秋の七草で埋め合わせすることにした。

女性のテーブルはナデシコで決まり。他はキキョウやオミナエシなど適当にあしらって5つの花の配置は決まった。
ただし、秋の七草をあしらうとはいえ、二つはどうにも使えない。どこに張りつけても気が引ける罪な名前である。
その名は「クズ」と「ススキ」。思い切ってこの人のところかな・・・と並べてはみる。やはりそれは失礼だろう。
最後は自分のいるテーブルに「クズ」をあしらってみる。やはりイヤな感じがする。

ススキも同じようなもの。ススキのような髪の毛のテーブルにススキを配置するのもねー。
季節にちなんだ花を、というアイデアはよかったが、結局、クズとススキは使わず終い。秋の七草ならぬ秋の五草。
これでいいのだ。みんな精一杯働いて、高度成長を支えたいずれ劣らぬ企業戦士たち。疲れが出てきて当たり前。
そうは言いながら、お酒が入ると、昔とちっとも変らぬ「オイッ、おまえ、2年に1度と言わず毎年開け」などと威丈高な先輩も。
「あんたが幹事やる?」とは言わないが、さらりと交わして「また2年先にお会いしましょう」でチョン!

それにしても、秋の七草にはトゲもないのに、トゲのある名前が付けられたものではある。

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「祥月命日」

2015年11月10日 | 家族・孫話

                     

平成20(2008)年11月10日、17時26分。
100歳7か月を一期として永遠の眠りについた母。
『浄寿院釈妙華』として、仏壇から私たち家族の有りようを見守ってくれている。

あれから丸7年という歳月が流れた。
49日法要はじめ、一周忌、三回忌を、そして七回忌法要を昨年11月9日に執り行ってきた。
今年は仏事は特に予定してはいないのだが、実質的な七年目という点で、何かしら胸の奥に感じるものがある。

明治の生まれという一つの誇りが心の支えとなっていたようで、何事があろうと、ぶれない軸となるものを持って生きてきた母であったような。
6人姉弟の中では、5番目の小生が、3番目に長い67年の付き合いであった。
長姉は40台前半に、長男は60代半ばで逝き、親より先に逝くこの上ない親不孝をしてしまったが、母は恨み言の一つも言わず、自らがお浄土へ召されるまで、二人をこよなく愛していた。もちろん、そばにいる私たちには「頼り切る安心」という形で愛情を示してくれた。

7年たった今でも、イチョウやカエデが紅葉し、コスモスがヒヨヒヨと風に揺れるさまを見ると、胸の奥が湿っぽくなる。
その一方で、昨年83歳で亡くなった国民的映画俳優の高倉健さんの命日が、母と同じ11月10日ということで、世上何かと賑やかなのを見て、あの世で苦笑しているのだろうか。それとも、「あんたはえらく早いお詣りじゃったね~」などと、健さんに話しかけているのであろうか。などと思うと少し気持ちを慰められる部分もある。

     “ 散りたくて風を待ちゐる大銀杏 ”       阪本 謙二

貧乏に耐え、身を粉にして働いて子どもの成長を見届けた、ふつうの母親であって、人が見上げる大銀杏ほどの華やかさもなかったろうと思う。
こんな句が適当かどうかは別としても、少なくとも私たち子どもから見れば、見上げるほどの大銀杏にもふさわしい生涯であった、と改めて思う。

真新しいお花を供え、お線香を香らせて、合掌!

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「興味津々」

2015年11月09日 | ニュース・世相

         

近代日本の夜明け、明治維新の陰の立役者「坂本龍馬」。
若き日に、剣術修行を目指してあの土佐の高知から、単身江戸留学を果たし、その後の日本を動かす原動力ともなった男の青春物語。
そのエピソードの一つを物語る「なぎなたの免状」が出てきた、と大きく報じられた。
龍馬ファンならずとも大いに興味の湧く歴史の事実ではある。龍馬大ファンにとってはまさに垂涎ものである。

色んな物語の中で、坂本龍馬は剣豪であったことはよく知られている。桂小五郎も、武市半平太も、それぞれ塾頭をつとめ、剣術にかけては御前試合の筆頭に掲げられる達者であった、と司馬遼太郎さんから教わってきた。
あの幕末の激動期を闊歩するには、人並みすぐれた思想と見識、そして身を守る武術の腕も確かなもの、つまり文武両道でなければ、大仕事を無し得えかったということかもしれない。

その確かな剣術に加えて「なぎなた」も免許皆伝の腕前であったとは、また一つ、龍馬を知る上の興味深いところでもある。
『北辰一刀流長刀兵法目録』というのが正式な名称で、なんと長さ2m70センチに及ぶ長尺巻物だという。

【長刀兵法目録は長さ270cmの巻物仕立てで、書かれた時期は安政5年(1858年)と記されている。「駒返」「金剛剣」など、長刀の技と思われる21項目のほか、流派開祖の千葉周作や師匠で周作の弟、千葉定吉らの名前が記されている。また、龍馬の婚約者と伝えられる定吉の娘佐那(さな)の名もあった。剣術に関する皆伝は坂本家の子孫が火災に遭って焼失したとされる中で、貴重な現存資料となる】と書かれている。

その免許皆伝巻物が、今月13日から高知県香南市のテーマパークで一般公開されるという。
これは是非現物を見てみたいと思う。
晩秋のしまなみ海道を自らの運転で駆け抜けてみようか。それとも旅行会社のバスツアーを待つか。ちょっと考えてみよう。
いずれにしても、このような貴重な資料がどこかに潜んでいるということもある。

ダンシャリ!!「不要なものは出来るだけ処分して、後の者に迷惑をかけないように引き渡すのが年寄のエチケット・・・」とい声も聞こえるが。
まあもっとも、我が家などにそれほど貴重な資料もないだろうから、やはり言われる通り「断捨離」を進めるべきかな~。

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「6歳児の秋」

2015年11月06日 | 家族・孫話

   
          1、構えて              2、始動             3、狙い澄まして  

                                    
                            4、打つぞ~          5、カッキ~~ン           6、ナイスバッティング

つるべ落としと言われる秋の日暮れの早さ。
4時に幼稚園から帰ってくる6歳児の悠雅君にとっては、日が暮れてボールが見えなくなるまでの40・50分というわずかな時間が、今はとても大切な野球練習の時間となっている。

幼稚園バスから降りて家に入るなり「今日は何?」と、先ずはおやつの品定め。
たいていは好物が並べてある。テレビを見ながらあっという間に平らげる。
幼稚園での運動量によって、食欲も日替わりとなる。どうかすると「ばあちゃん、おにぎりが欲しい」「エ~、まだ食べられるの?」「ウン」!

腹ごしらえが終わる4時半になると、テレビはプッチン。さっさと靴を履いてお出かけ支度。
グラブとボール、金属バットを抱えて「じいちゃん行くよ~」との催促。
グラブだけは兄ちゃんのお下がりがお気に入りで、新しい物を買ってくれとは言わない。
これまで2年あまり使っていた65cm、450gの木製バットが夏の終わりに折れた。
新たに70cm、600gの金属バットを買ってやった。同時に、1個400円もする練習用ボールを6個も。

全てがお気に入りで、雨さえ降らなければ間違いなく団地公園でうっすら汗をかかされる。
日が短くて有り難い、のはジジの方だけ。その上ジジの脚力は落ちる一方。足の運びは段々遅くなり、目の前のフライさえ、気持ちの上では完全にキャッチしているはずなのに、どうしても一歩前にポトン。昔とは程遠いジジの守備ではあるが、バッティングピッチャーはまだまだいける?

生意気にも、これが6歳児のバッティングフォームである。
バットを立てて構える。体を縮めて左足を上げる。ボールに目を付けて左足を下ろす。バックスイングから振り出す。このバットスピードはなかなかのもの。金属バットが、カッキーンと小気味よい音を立てる。どうかすると無遠慮に、ピッチャーに向かって真一文字に飛んでくる。
へたにお腹で受け止めようものなら大笑いして喜ぶ。最後のフォロースイングがまたいい。
ここまで教えたつもりはないのだが、テレビの野球をしっかり見て、自分なりの咀嚼をしているような。

まさにこの上ないジジバカ丸出し。大笑いされそうな話だが、年齢不相応なこのバッティングフォーム、打球の速さと飛距離に、ついニンマリ。
早い話が子どもの能力は計り知れない。ならば、単純に今の状態から未来を勝手に想定して「ひょっとしたら・・・」などと夢を見れば、生意気6歳児と遊ぶのまんざら悪くないし、疲れも少ない。

言ってみれば、夢をみられるのは今のうちである。

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「冬備え」

2015年11月04日 | つれづれ噺

                  

11月の声を聞いて、急に冷え込む晩も多くなったような。
広かったリビングに、今年もまぁるい炬燵が鎮座した。いっぺんにリビングが狭く感じられるようになった。
四方八方まぁるく足を突っ込める炬燵が不自然でなくなった。まさに冬備えの最たるものであろうか。

着るものはと言えば、黒っぽいジャンパーやリバーシブルなど、一枚余分に羽織る上着が何枚か吊るされた。
パソコン用足先ウオームグッズも出して、秋の日差しに晒した。
本格的な冬に愛用するチャンチャンコも日に当てて、いつでも着用可能となった。ただこのチャンチャンコだけはもうしばらく先の話し。

このように身の回りの備えは完全に冬バージョンとなった。
それなら今一つ、気持ちも切り替えて冬備えが要りそうである。「風邪を引かんよう気を付ける」「寒さに縮こまりそうな背筋を伸ばして、イチニッイチニッ」ウオーキングも本格化させねばならない。
望年会の予定もちらほら入り始めた。お酒に対する体調管理も、大切な冬備えかな。

つい先日訪れた里の川も、紅葉には少し間のある、木々の青さを水面に映し、見事な群青色を湛えている。
どこかで見たような色だと思ったら、先に紅葉の旅に出かけた、山形県と岩手県の県境に広がる、蔵王高原の「お釜」の色であった。
予約していた年賀状も今日届けられた。また一つ気忙しい思いのこの時季でもある。

今日はタマネギの苗も600本を予約した。これもまたまぎれもない冬への備えである。
こうしてあれこれ冬に備えて態勢を整え、後は元気で年末を過ごし、元気に正月を迎えることだ。
などと言うと、なんと能天気で気楽な生活か、と思われるご仁もあろうが、実は・・・、やはりそうなのである。

また一人、同級生が軽い脳梗塞で入院したという情報が入った。
出来る準備は早めにして、それなりの体力強化。その結果元気に過ごす。これ以上の幸せはない。

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「村の鎮守様」

2015年11月01日 | つれづれ噺

      

夫婦そろってあまり体調のかんばしくない、義兄夫婦の見舞いかたがたカミサンの里を訪れた。
途中で思い出したように「11月1日は里の祭りじゃった」という。
それならお酒の一本も提げて行けばよかったのにと思ったが、時すでに遅し。もう酒屋など全くない田舎道を走っていた。
まるっきり手ぶらでもないので、お酒はないまま里に着いた。

例の梅もぎに行くあの里である。
かつては鉱山産業や林業などで栄え、お正月や秋のお祭りなどには、芝居一座がやってきたり、出店もあって賑わったという。
今やその面影はなく、住む人のいなくなった空き家が目立ち、独居高齢者がちらほらという集落となってしまった。
ここ数年、お祭りらしき行事も途絶え、お祭りを目当てに里帰りする子や孫の姿も見られない。

遠くから出向いて来られたのであろう神主さんが「そろそろ始めましょうか」と声をかけて、祝詞の奏上が始まった。
見守るの人はたったの4人。玉ぐし奉てんもあっという間に終わる。
部外者がその輪に入るわけにもいかず、わずかなお賽銭をチャリンと鳴らして投げ入れ、柏手を打つだけ。
ただそのとき、拝殿の上がり口に、ピンクや黄色の子供の靴が揃えてあった。
ひょっとすると、お祭り当番に当たった人が、無理に頼んで孫たちに里帰りさせたものかな。

そういえば若いころ、盆踊りの時季に里帰りした折、この鎮守様の境内で、「これ見よがし」に派手な手振りで盆踊りの輪を盛り上げた若気の至りを思い出した。今はもちろん、盆踊りも何もない。
当時は、お宮の前には旅館があり、仕出屋も兼ねていてずいぶん羽振りよく見えた時代でもある。
まさにあれから40年。お祭りはおろか、ひっそり静まり返るだけ。
それにしては、お祭りの幟旗をよくぞ建てたものである。祭り行事まではできなくとも、せめてもの心意気で建てたのであろう。

時まさに晩秋。里帰りをするたびに、夏であろうが正月であろうが、うら侘しい晩秋を感じさせられる。
6歳の孫優雅君は、「ハヤ釣りに行こう」というとすっ飛んでついてくるが、やがてその楽しい遊びさえも出来なくなりそう。
誰が悪いとかの問題ではない気がする。中流階級になれた私たちが、多くの子供を作らないこと、核家族が当たり前になったっこと。
そのほかにも理由はあるのだろうが、かつての賑わいの最後の頃を少し知っているだけに、なんかしらはがゆい思いは残る。

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