幽玄洞ブログ

岩手県一関市東山町からローカルな情報を発信していきます。

幽玄洞30周年!岩手日日正月版掲載

2011年11月24日 | 幽玄洞

今年も残るところあと1ヶ月になりましたが、2011年の今年は幽玄洞がオープンしてから30周年の年に当たります。
昭和55年に発見され、翌年オープンし、現在に至りますが、このたび2012年の岩手日日の元旦号に掲載されることになりました。掲載に当たっては、5代目の社長、展示館に地元の化石を紹介している七田清さん、開洞に携わった東山ケイビングクラブ代表の菊地敏雄さんの3人の記事が予定されています。

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      七田さんと岩手日日さん

岩手県地学教育研究会会員の七田さんは「石を叩いて30年」と言うほど化石に魅了された一人です。
定年になってから論文を書き始め、これまでに「岩手の地学」に腕足類、ウミユリ、リン木の化石を発表しています。自身が採集したその化石の中では動物門であと8つ未発表のものがあり、「1年に1つでもあと10年はかかる。80歳までに完成させたい」と意欲を見せていました。

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初代渡辺和男社長が父親に当たる現在の渡辺和敏社長は、5代目の社長になります。
30年前を振り返ると、初代社長が幽玄洞の会社設立の話をした時、渡辺家では大反対だったそうです。
「商売のバクチはしろ、という人だった」と、今は亡き初代社長の口ぐちを思い出しながら、幽玄洞設立当初のエピソードを語りました。

菊地敏雄さんの取材が終わりましたら、また報告します。

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紫雲石硯の歴史

2011年11月16日 | 東山町

一関市東山町の特産品といえば「紫雲石硯」が名高い。
この硯を今に伝える職人は現在、佐藤鐵治先生ただ一人。その先生が昨日幽玄洞を訪れ紫雲石硯を納めてくださり、貴重なお話をうかがうことができました。

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先生は昭和5年11月生まれの満81歳。
祖父の鐵三郎氏が山に紫雲石を採りに行くときに手伝うため一緒に行き、いい石を見つけたとき彫ってみたいと思ったことがきっかけで、二十歳頃から作り始めたといいます。
戦後、学校を卒業してから地元の田河津小学校の教員となり、平成3年に岩清水小学校校長を最後に退職なさいました。
その後、東山町町会議員を一関市との合併まで4期務められるなど、同町のために貢献されました。
教職をはなれてから本格的に作り始めたそうです。

紫雲石硯の歴史を遡ると雄勝硯(宮城県)の職人で山本儀兵衛という方が、同町田河津夏山で硯を彫ったことが始まりです。息子の幸冶郎さんが同地にたった一人残り、硯を彫り続けていました。年老いた幸冶郎さんを鐵治先生のお宅で住まわせ硯彫りを続けさせますが、終戦後帰国した息子さんが引き取り帰っていきます。その際置いていった道具を使い見よう見まねで鐵三郎さんが50歳を過ぎた頃から作り始めて今に伝わっています。
先生は「元祖は山元幸冶郎さん、幸冶郎さんの恩返しなのだろう」と振り返ります。
今年、東日本大震災により雄勝町も津波で甚大な被害を受けましたが、硯の灯は消えていないのだと感じました・・・

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平泉と東山

2011年11月15日 | 幽玄洞

2011年6月、世界遺産として登録された平泉は国内で12番目の登録で、東北では初となる「文化遺産」です。

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            中尊寺

「中尊寺」「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」「金鶏山」の5か所が、登録の対象となりましたが、「柳之御所遺跡」「白鳥舘遺跡」「骨寺村荘園遺跡」「長者ヶ原廃寺跡」「達谷窟」等の登録は見送られましたが、現在追加登録を目指しています。
先週訪れた平泉は紅葉シーズンで、金色堂の向かいの紅葉が赤く染まりとても綺麗でした。

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柳之御所遺跡は、古くから藤原清衡・基衡の屋敷跡と伝えられていた場所で、発掘調査によって発見された遺構や遺物から「吾妻鏡」に見える平泉館(政庁)の可能性が高いとされています。
この場所から東の方を見ると束稲山(たばしねやま)がそびえ立っています。

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       柳之御所遺跡

藤原三代の頃、束稲山に桜を植え、平泉の人々はそれを眺めてわが世の春を謳歌した。束稲山の姿が、京都の“東山”に似ているのでこの山を「東山」と呼んだ。これが「東山」の名の起こり(「東山町の歴史」より)とか。また、古い書き物には、延暦7年(788年)桓武天皇が紀古佐美(きこさみ)を征東大将軍に任命し、紀古佐美軍が胆沢の蝦夷を討つため衣川を渡って、北進したが「東山」から討って出た敵軍に大敗したと記されており、「東山」の地名が見える最初だとも言われています。
柳之御所遺跡のすぐそばには、北上川が流れ束稲山から向こう側は幽玄洞や猊鼻渓のある東山町です。

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はじめての銀杏の実

2011年11月12日 | 幽玄洞

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幽玄洞のまわりの銀杏の木も黄色く色づいて秋が深まってきました。
いつ植えた木なのか・・・いつになったら実がなるのか?
そのうちの1本に今年、実が20から30個ほど付いていました。

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秋空に木の葉が落ち始めた木からオレンジ色のさくらんぼのような実が顔をのぞかせています。

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鎮魂・宮沢賢治「雨ニモマケズ」創作切り絵展-吉田路子ー

2011年11月07日 | 東山町

一関市東山町松川にある「石と賢治のミュージアム 太陽と風の家」では11月2日から広島県呉市在住で岩手県花巻市出身の吉田路子さんの切り絵展が開催中です。30日まで。
吉田さんは賢治作品を題材とした切り絵や朗読で各地をまわり、今回同館では3回目となります。

今年は震災を経験し、賢治の生きた100年前の背景と重なるように感じます・・・
宮沢賢治の生涯は災害との結びつきが多く、実弟の清六さんも著書「兄のトランク」の中で彼の生涯と作品を決定していると語っています。
賢治の誕生する約2か月前の1896年(明治29年)6月には明治三陸大津波、生後4日目には陸羽大地震が。1923年(大正12年)1月の上京から8か月後の9月には関東大震災が起き、亡くなる前の1933年(昭和8年)3月には昭和三陸大津波が発生します。
その他にも妹の死や河川の氾濫や冷害による凶作といった自然現象、日露戦争や世界恐慌、第一次世界大戦など社会をとりまく環境は厳しいものでした。

2011年3月11日東日本大震災が発生。
吉田さんは当日アトリエのある福山市で、この大災害を知ります。
大津波の映像が流れ、驚愕の事実を受け入れられない吉田さんに知り合いの方がメールで賢治の作品作りに導きます。「4月の展示は『雨ニモマケズ』にしましょう。」と。
春の彼岸前に完成させると心に決め、鎮魂、復興を祈願し、1週間で10点の仏画を完成させました。
「春と修羅」や「永訣の朝」のフレーズが頭をよぎりながら、涙で目を曇らせ、「念彼観音力」と唱えながら絵に向き合ったそうです。
千手観音菩薩、普賢菩薩と並ぶ仏画には「雨ニモマケズ」の詩がそえられ、10点目で完結します。その他「どんぐりと山猫」の童話を色彩よく表現した切り絵も展示しています。

以前大船渡や大槌で朗読会を行い、「やまなし」を読んで一緒に唱歌を歌ったことがあったそうです。出会った方の無事を祈りながら鎮魂、復興への願いを指先に込めた力強い作品ばかりです。

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