1996年の台湾の総統選挙直前、台湾の民主化、自由化、本土化(台湾化)を進めようとした李登輝氏の当選を阻止すべく、中国は演習にかこつけて台湾海峡にミサイルを発射した。日本の沖縄近海にもその影響は及んだが、当時の橋本龍太郎政権は「公海上で行われる演習を国際法違反とは言いにくい」「中国には自制を求める」と言っただけである。
米国はこのとき、中国の軍事演習に名を借りた台湾への脅しに対抗すべく二隻の空母戦闘群を台湾近海に派遣した。横須賀を母港とするインデペンデンスだけでなく、中東方面に展開しているニミッツまで呼び戻して台湾攻撃の危機を封じ込んだ。
実は日本にも使えるカードがなかったわけではない。政府開発援助(ODA)である。中国はまだまだ日本の資金を欲していたのだから、台湾への露骨な軍事的威圧に対して「ODA四原則に照らして円借款の見直しをせざるを得ない」と言うことはできたはずである(ODA大綱では、①環境と開発の両立、②軍事的用途、国際紛争助長への使用の回避、③軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造・武器の輸出入の動向への十分な注意、④民主化促進、市場経済導入、基本的人権、自由の保障への注意――この四点を供与の際に考慮する原則としている)。
日本が中国の核実験に対する制裁として少額の無償援助を凍結したとき、中国は内々に「困る」と訴えてきたことがある。度を越した中国の軍国主義は経済面でもマイナスになるという日本の意志をいかに伝えるかに工夫は必要だが、中国はカネの力を痛感している国だからこそ効果があった。
中国に対する日本の経済的優位を活かすべきだったが、摩擦回避と事なかれ主義でその機会を逸した。モノを言うのは軍事力だけではない。その意味で振り返れば、湾岸戦争時の多国籍軍(米国)への130億ドルの拠出は日本の意志を世界に伝えることに大きな抜かりがあった。米国の言いなりにという姿を世界に晒(さら)したことは本当に残念だった。
現実の国際政治における外交・安全保障政策の基本は、各種紛争の未然防止にある。脅威となりそうな国には、その“野心”が軍事的にも経済的にも割に合わないことを覚(さと)らせる明確なシグナルを発することが必要である。安保法制の整備にはそうした意味があった。
「韓国人や中国人と話して、遊んで、酒を酌み交わし、もっともっと仲良くなってやります。僕自身が抑止力になってやります。抑止力に武力なんて必要ない。絆が抑止力なんだって証明してやります」
若者がこう熱く語るのは自由だが、現実の厳しさを知ることも彼らの成長には必要である。それを知らない理想論は。ただの空想や妄想の類(たぐい)に、あっという間に堕ちていく。現実にある脅威を見たとき、それに備えるための議論のどこが「反知性主義」なのか。
甘ったれてはいけない。「新しい日本人」は現実の厳しさに立ち向かっていく人たちである。
---owari---
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