暇な日曜日、本を読んでいました。
「悟らなくたって、いいじゃないか」・・・普通の人のための仏教・瞑想入門、と言う本であります。
本の帯には・・・<人生の糧>としての(信仰じゃなく)仏教活用法・・・ナンて事が書かれている、頭っから胡散臭い感じのする本であります。
で、240ページ程有る本の80ページ程を立ち読みしたんですけれども・・・いいぇ、自宅の自分の部屋で読んだ訳ですが、バランス円盤に乗って立ったまま読んだと、そう言う事であります。
いや、タイトルに釣られて中身は知らずにアマゾンでポチった本であります。
で、読んでみましたけれども・・・普通の人には意味不明じゃなかろうかと思う内容でありまして、サブタイトルの・・・普通の人のための仏教・瞑想入門と言う言葉は、少なくても仏教入門には役立たないかも、と思うモノでありました。
いや、仏教本は大好きでありましてかなり難解な物でもナントか読み続ける根性が有ると自分では思っているんですけれども、この本は毒にも薬にもならなそうだな、と、未だ1/3を読んだ時点で悟っちまった次第であります。
まず、著者の宣う普通の人の定義がナニですが、私が思う普通の人だと数ページも読み続ける気にならないんじゃないかと言うくらいに普通じゃないと思う訳であります。
で、まずケチをつけたい第一点は・・・日本人向けに日本語で書かれた仏教の解説本なのに矢鱈と英単語を使うバカさ加減に呆れる訳です。
ナンなんですかね? 私しゃ仏教用語なんて特殊な英単語は知りませんのでナニなんですけれども、普通の人は大概知らないでしょ? と、言う事で、この点だけでもこの本の中身の薄さがにじみ出ていると思うのは私だけでありましょうか?
で、瞑想についてアレコレと書いてある本なんですけれども、悟らなくたってねいいじゃないか、と題した本なのに、悟りには何種類も有るのだから、と、宣い、だからこそ自分が行きたい悟りへの地図が必用なんである、と、言う訳であります。
私しにはこの辺、意味不明であります。
悟りとは何か? が本来大命題になっちまうんですけれども、そこはナンボでも種類が有ると言われちまうと捉まえようが無く逃げられた感じがする訳でして、まったくスッキリしないのであります。
まっ、いいでしょう・・・悟りには種類が有ると200歩程も譲ります、が、その種類と言いますか、自分が求める道が分からないから仏の道にすがろうとするんじゃないのかぃ?と、思うのであります。
自分の行き先が分かっていたら瞑想の形なんてドーでも良いじゃネェかこの野郎、と、半ば怒りに似た気持ちさえ湧くんですけれども・・・お門違いでありましょうか?
いや、凡夫が瞑想するのは悟りへ向いたいから、そして、いつかは悟れたら良いなと言う淡い期待も含めて日々仏様の教えと向き合うと、自分は思う訳であります。
それを著者は瞑想するには行き先別の形が有るんで、まずはどこへ行きたいのかをマッピングしなければ瞑想しても無駄であり、場合に拠っては行き先違いで混乱するぞ、とまで宣っている訳です。
で、まだ半分も読んでいなくて半端な読書感想を書くのは浅はかと言うのもナニなんですけれども・・・著者の瞑想は形ありきで、方法と言いますか、まっ、瞑想にも流派が有るらしいんで、それぞれが導く場所はやり方に依って一定なのだと決めつけている、と、私は読んだ訳であります。
まっ、私は大乗しか知らない日本人なんで瞑想と言うと座禅が浮かぶ凡夫でありますが、行き先の理想は「無」である、なんて事を思う訳でして、行き先が沢山在る瞑想と言うのが想像出来ない訳であります。
で、序でに言うと「仏教の実践」と言う言葉が出て来るんですけれども、仏教を実践するってそんなに大層な事なんでありましょうか?
日本人と言いますか、私の仏教感で言うと「仏教の実践」なんてのは常に「御陰様で」の気持ちを忘れない・・・そんなもんで十分だと思うんですが・・・。
いや、著者は大乗は相手にしていない、と言いますか、タイやミャンマーの上座部仏教の話しをしているんで自分とは食い違っても仕方が無いと言えばそれでお終いなんですけれども・・・だったら日本の在家の凡夫は放って置けば大乗仏教にしか触れない訳で、それに対して、オメはナニが言いたいんだ? 自分がチョビットばかし上座部の勉強をしたから吹かしたいのか? しかも、教養高い所で英語なんか混ぜ込んで、と、疑っちまう訳であります。
で、本の帯の裏には以下のように書かれている訳であります。
「正しい/本当の仏教」に拘るのは不毛
煩悩は消滅させるべきものか、させなくてよいのか
瞑想をすれば人格が良くなるとは限らない
瞑想することでかえって苦しむ「瞑想難民」問題
「思い通りに振る舞うこと」が自由ではない
仏教の一部だけを取り出した「マインドフルネス」への懸念
ナンて事も書かれていまして、実に興味を引く訳ですが、恐らく、この本を先まで読み進んでも納得の行く答えは書かれていないだろうと私は予想する訳であります。
さて、実はこの本の著者は二人になってまして、魚川裕司とプラユキ・ナラテボーの対談が本になっている訳であります。
で、私がこき下ろしているのはこの本のここまで、約1/3を殆ど一人で語った魚川裕司に大してのアレな訳であります。
で、パラパラと少し先まで捲ってみると、ここからはプラユキ・ナラテボーの言葉が主に成って行く訳であります。
で、サラッと目を通した感じではプラユキ・ナラテボーの言葉には仏様の匂いがするな、なんて偉そうなことを思った訳であります。
いや、プラユキ・ナラテボーはタイの僧院の坊さんなんですが日本人であります。
タイのお寺で日本人向けに瞑想の指導をしている徳の高い坊さんなんだそうであります。
恐らく、この本もここから先はちゃんと仏様の道に沿っていると期待している訳であります。
と、言うことで、的外れな読書間想はこれまでにして続きを読みたいと思います。
「悟らなくたって、いいじゃないか」・・・普通の人のための仏教・瞑想入門、と言う本であります。
本の帯には・・・<人生の糧>としての(信仰じゃなく)仏教活用法・・・ナンて事が書かれている、頭っから胡散臭い感じのする本であります。
で、240ページ程有る本の80ページ程を立ち読みしたんですけれども・・・いいぇ、自宅の自分の部屋で読んだ訳ですが、バランス円盤に乗って立ったまま読んだと、そう言う事であります。
いや、タイトルに釣られて中身は知らずにアマゾンでポチった本であります。
で、読んでみましたけれども・・・普通の人には意味不明じゃなかろうかと思う内容でありまして、サブタイトルの・・・普通の人のための仏教・瞑想入門と言う言葉は、少なくても仏教入門には役立たないかも、と思うモノでありました。
いや、仏教本は大好きでありましてかなり難解な物でもナントか読み続ける根性が有ると自分では思っているんですけれども、この本は毒にも薬にもならなそうだな、と、未だ1/3を読んだ時点で悟っちまった次第であります。
まず、著者の宣う普通の人の定義がナニですが、私が思う普通の人だと数ページも読み続ける気にならないんじゃないかと言うくらいに普通じゃないと思う訳であります。
で、まずケチをつけたい第一点は・・・日本人向けに日本語で書かれた仏教の解説本なのに矢鱈と英単語を使うバカさ加減に呆れる訳です。
ナンなんですかね? 私しゃ仏教用語なんて特殊な英単語は知りませんのでナニなんですけれども、普通の人は大概知らないでしょ? と、言う事で、この点だけでもこの本の中身の薄さがにじみ出ていると思うのは私だけでありましょうか?
で、瞑想についてアレコレと書いてある本なんですけれども、悟らなくたってねいいじゃないか、と題した本なのに、悟りには何種類も有るのだから、と、宣い、だからこそ自分が行きたい悟りへの地図が必用なんである、と、言う訳であります。
私しにはこの辺、意味不明であります。
悟りとは何か? が本来大命題になっちまうんですけれども、そこはナンボでも種類が有ると言われちまうと捉まえようが無く逃げられた感じがする訳でして、まったくスッキリしないのであります。
まっ、いいでしょう・・・悟りには種類が有ると200歩程も譲ります、が、その種類と言いますか、自分が求める道が分からないから仏の道にすがろうとするんじゃないのかぃ?と、思うのであります。
自分の行き先が分かっていたら瞑想の形なんてドーでも良いじゃネェかこの野郎、と、半ば怒りに似た気持ちさえ湧くんですけれども・・・お門違いでありましょうか?
いや、凡夫が瞑想するのは悟りへ向いたいから、そして、いつかは悟れたら良いなと言う淡い期待も含めて日々仏様の教えと向き合うと、自分は思う訳であります。
それを著者は瞑想するには行き先別の形が有るんで、まずはどこへ行きたいのかをマッピングしなければ瞑想しても無駄であり、場合に拠っては行き先違いで混乱するぞ、とまで宣っている訳です。
で、まだ半分も読んでいなくて半端な読書感想を書くのは浅はかと言うのもナニなんですけれども・・・著者の瞑想は形ありきで、方法と言いますか、まっ、瞑想にも流派が有るらしいんで、それぞれが導く場所はやり方に依って一定なのだと決めつけている、と、私は読んだ訳であります。
まっ、私は大乗しか知らない日本人なんで瞑想と言うと座禅が浮かぶ凡夫でありますが、行き先の理想は「無」である、なんて事を思う訳でして、行き先が沢山在る瞑想と言うのが想像出来ない訳であります。
で、序でに言うと「仏教の実践」と言う言葉が出て来るんですけれども、仏教を実践するってそんなに大層な事なんでありましょうか?
日本人と言いますか、私の仏教感で言うと「仏教の実践」なんてのは常に「御陰様で」の気持ちを忘れない・・・そんなもんで十分だと思うんですが・・・。
いや、著者は大乗は相手にしていない、と言いますか、タイやミャンマーの上座部仏教の話しをしているんで自分とは食い違っても仕方が無いと言えばそれでお終いなんですけれども・・・だったら日本の在家の凡夫は放って置けば大乗仏教にしか触れない訳で、それに対して、オメはナニが言いたいんだ? 自分がチョビットばかし上座部の勉強をしたから吹かしたいのか? しかも、教養高い所で英語なんか混ぜ込んで、と、疑っちまう訳であります。
で、本の帯の裏には以下のように書かれている訳であります。
「正しい/本当の仏教」に拘るのは不毛
煩悩は消滅させるべきものか、させなくてよいのか
瞑想をすれば人格が良くなるとは限らない
瞑想することでかえって苦しむ「瞑想難民」問題
「思い通りに振る舞うこと」が自由ではない
仏教の一部だけを取り出した「マインドフルネス」への懸念
ナンて事も書かれていまして、実に興味を引く訳ですが、恐らく、この本を先まで読み進んでも納得の行く答えは書かれていないだろうと私は予想する訳であります。
さて、実はこの本の著者は二人になってまして、魚川裕司とプラユキ・ナラテボーの対談が本になっている訳であります。
で、私がこき下ろしているのはこの本のここまで、約1/3を殆ど一人で語った魚川裕司に大してのアレな訳であります。
で、パラパラと少し先まで捲ってみると、ここからはプラユキ・ナラテボーの言葉が主に成って行く訳であります。
で、サラッと目を通した感じではプラユキ・ナラテボーの言葉には仏様の匂いがするな、なんて偉そうなことを思った訳であります。
いや、プラユキ・ナラテボーはタイの僧院の坊さんなんですが日本人であります。
タイのお寺で日本人向けに瞑想の指導をしている徳の高い坊さんなんだそうであります。
恐らく、この本もここから先はちゃんと仏様の道に沿っていると期待している訳であります。
と、言うことで、的外れな読書間想はこれまでにして続きを読みたいと思います。