元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

百点満点のママと言われたい!――バリバリママがのんびり長男から学んだこと

2015-11-02 18:30:57 | 日記

http://voicee.jp/2015062711181

ほかの子と違ってきちんとできない息子

息子のKは、いつものんびりマイペース。

家でも外でも周りは気にせず、自分なりの楽しみを見つけてはニコニコとご機嫌で過ごしています。

それが、私のイライラの原因でした。

幼稚園の行事参観は、行くたびにハラハラしっぱなし。みんなが揃って歌を歌う時に、Kは一人だけ楽しそうに壁のポスターを眺めています。夏のスイカ割りでも、みんな体操座りで順番を待っているのに、息子一人だけが窓の近くで寝転がっています。

「あー、みっともない!ほかの子はきちんとできるのに、どうしてうちの子はできないの?」

よそのお母さんから、「あそこの親子はダメね」と思われはしないかと気になってたまらず、Kへの腹立たしさがこみ上げてきます。

「もう! 何であなたはちゃんとできないのよ!」と、家に帰り着くなり怒りを爆発させてしまいます。

私の手を焼かせる「困った子」

小学校に上がっても、Kは相変わらずマイペースです。朝の仕度も、私が声をかけるまで着替えもせず、ランドセルを前にぼんやりとしています。

仕方なく、「さっさと着替えなさい!」「時間割は揃えたの?」「給食袋は!?」と、イライラしながら指示を飛ばして、何とか学校に送り出します。

「どうしてあの子はこれほど私の手を焼かせるのかしら。こんなはずじゃなかったのに……」

思い描いていた理想的な子育てとはほど遠い毎日に、ため息ばかりがこぼれます。

私が子どもの頃は百点満点だったのに

私は、子供の頃から、息子とは正反対の性格でした。

父の仕事の都合で、小学校から中学校にかけて4回の転校を経験した私は、いつも周囲の目や評価を気にして行動していました。どの学校に行っても、「Mちゃんはトップクラスの子」という評価を得たくて、頑張りすぎるほど頑張っていました。

一度注意されたことは二度と繰り返さず、常に百点満点じゃないと気がすまない。そんな子だったのです。

それなのに、息子は私とは全然違う。

周りの評価など気にせず、人と競争しようともしない。ガミガミ叱っても、本人はいつもニコニコと笑っています。

私には、そんな息子が理解できません。

私が理想としていたのは、周囲が百点満点と評価してくれるような母子です。しかし現実は、「困った息子」に手を焼いて、毎日怒鳴ってばかり――。

私を困らせるK。イライラさせるK。私は、知らず知らずのうちに、Kのことを心の中で責め続けていたのです。

「ぼくはどうせダメだから……」

そんな日々の中、Kは、次第に何に対しても尻込みをするようになってきました。

1年生の夏休み、アスレチックのある公園に連れて行った時も、いっこうに遊具に向かっていこうとしません。もともとKは、体を動かすことが得意なほうではありませんでしたが、これまではそれなりに楽しそうに遊んでいたのです。

「何でやらないの?」

「ぼく、どうせこんなのできないから……」

ちっともやる気のない顔で言います。

そのうちKは、ちょっと困難にぶつかっただけで、すぐに「ぼくはどうせダメだから……」と言うようになりました。

いつもよりちょっとだけ高い鉄棒を前にしただけで、「ぼくにはムリだよ」とあきらめます。勉強のドリルで少し難しい問題が出てきた時も、「こんなのできない」と言って、すぐに投げ出してしまいます。

Kのやる気は、日に日にしぼんでいきました。

人に認められたくて頑張ってきた私

「このまま、何事にも挑戦する意欲のない子になっていったらどうしよう」と、私の心の中は、Kの将来への不安と焦りでいっぱいになっていきました。

ちょうどその頃、弟のYが幼稚園に入り、一人の時間が持てるようになった私は、幸福の科学の支部で開催される法話の視聴会に、よく参加するようになりました。

静かに一人で法話に聞き入る時間――。

なぜか、心に渦巻いていた焦りや不安が、少しずつ凪いでいきます。それは、まるでコップの中でかき混ぜられていた泥水が、ゆっくりと静止して、泥が沈み、水が澄んでくるような感じです。

そしてあるとき、法話を聴いていて、このような言葉が胸にしみ入ってきました。

「人間は、仏の子であると同時に、この世では不完全に生きている、不器用な生き物であることを認めなくてはいけないのです。自分もそうであるし、他の人もまたそうなのです」

子供の頃から、人に認められたくて頑張ってきた私。でもうまくいかない子育てにイライラしてばかりいた――。

自分では認めたくない、そんなダメな私を、仏はあるがままに受け止めて愛して下さっている。

私は、大きな安心感に包まれていることに気づきました。

それは、仏に許され、受け止められているという安心感です。

苛立っていた私の心は、次第に穏やかになり、それまで目についてしかたなかったKの行動も、気にならなくなっていきました。

自分は全然変わろうとしていなかった

家では、大川隆法先生の本を読む時間が増えました。

ある時、『幸福へのヒント』の中に、「子供は親の心の影なのだから、子供を責めずに、まず親から変わっていくべきです」という言葉を見つけて、Kを責めてばかりで、自分は全然変わろうとはしていなかったこの8年間を、深く反省しました。

そして、あるがままの私を仏が受け止めてくださったように、あるがままのKを、私も受け止めてみようと思ったのです。

それからは、自分の心の中にある「ちゃんとできないK」のイメージを打ち消す努力を始めました。

「息子にはムリかも」「ダメかも」そんな言葉が心に浮かぶたびに、「違う違う、そうじゃない。彼は大丈夫」と思い直すようにしたのです。

子供を責めない体操の先生

Kが、やがて3年生になる春休みに、弟のYが通う近所の体操クラブで、短期教室が開かれました。

「試しにKも行ってみる?」

と聞いてみると、少しためらった後、「行ってみる」と言います。

教室初日、Kがまださか上がりができないことを先生に伝えると、 「大丈夫ですよ、お母さん。高学年でも、もっと簡単なことを練習している子もたくさんいますから」と言ってくれます。

見ていると、その先生は、子供ができないことを決して責めません。それどころか、Kのちょっとした良い所を見つけては、どんどん褒めてくれます。

「Kくんは、体が柔らかいんだね。体操に向いているから、きっと上達するよ」

絶えず笑顔で励ましの言葉をかけてくれます。私もあんなふうにKの良いところを発見して褒めながら接していけばいいのかな、と思いつつ見学していました。

そして、短期教室の3日目。運動が苦手だったKが、たった3日でさか上がりができるようになったのです。びっくりしました。K自身も驚いていました。

空中さか上がりもできた!!

Kは、さか上がりができた喜びで、自分から体操クラブに入ることを決めました。

鉄棒で最初に取り組んだのは、もう一段難しい「空中さか上がり」です。高い鉄棒を使って、腕支持の姿勢からスイングしてさか上がりをするという技です。

「これは、さすがにKにはムリかな。あと1、2年すればできるようになるかしら」

難しい技を前に、ついつい否定的な思いが湧いてきます。

ところが、3週間後のことです。

「そうそう、その調子だ。足を勢いよく上げて!」

先生の指導を受けながら、Kが練習を繰り返します。失敗しても、失敗しても、あきらめず、歯をくいしばって必死に挑戦するK。

「あの子の中に、こんなに頑張る力があったなんて……。頑張れ、K!あと少し!」

私は、手に汗を握り、心の中で精一杯応援しました。

次の瞬間、Kの体がきれいにくるっと回ったのです!

「K、すごい!すごい!」

私は、周りの目も気にせず夢中で立ち上がり、手をたたいて喜びました。そんな私を見て、Kも、いつもの何倍もの笑顔で笑っていました。

ごめんなさい、K

「Kは、子供の頃のママよりも、ずっと鉄棒が上手だね」と言うと、彼はちょっと得意そうです。

小さい頃から、できないことを責められてばかりで、自分の良さや個性を母親に認めてもらえなかったK。

それは、子供にとってどんなにつらいことだったでしょう。

やはり、Kが自信ややる気を失っていった原因は、彼自身にではなく、私にあったのです。

「怒ってばかりのママだったね。それなのに、あなたは、いつもおだやかに笑ってくれていた。ごめんなさい、K。私に平和で優しい心を教えてくれて、ありがとう」

Kへの反省と感謝の気持ちが、胸にこみ上げました。

「ぼく、野球部に入るからね」

Kは、器械体操の技がどんどん上達しました。

「今日さ、体育の時間に、ぼくの体操のフォームがきれいだって、先生や友だちから褒められたよ」

「すごいじゃない!」

私には、Kの頑張りや成長が嬉しく思えてなりませんでした。

やがて小学校を卒業し、中学に上がった彼は、「野球部に入る」と言い出しました。周りはみんな少年野球のチームに入っていた子ばかりで、 初心者のKがその中でやっていくのは大変なことです。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ。やってみたいんだ!」

自分の意志を持ち、新しいことに挑戦していく息子が頼もしく思えます。普段は相変わらずのマイペースですが、私にはない、彼の平和で穏やかな魂の持つ力を、強く感じるこの頃です。

自分とは違う個性を受け入れてその成長を慈しむという、母親としての大きな幸福を、Kは教えてくれました。

あなたのおかげで、ママは少し成長できたのではないかな、と思っています。


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社内恋愛の失敗を引きずっていた私――彼の気持ちがわかるようになった

2015-11-02 18:30:40 | 日記

http://voicee.jp/2015050111017

死んでしまえたらどんなに楽だろうと思った

私が幸福の科学に入信したきっかけは、失恋でした。

別れた彼とは社内恋愛でした。短大を卒業して入社した食品メーカーで、2年先輩の彼と知り合ったのです。彼は高校を卒業してすぐに入社しているので、年齢は私と同じです。

彼は人柄がよく、明るい性格で、職場の誰からも好かれていました。

お付き合いを始めてから2年くらいは、とても幸せでした。週末はショッピングに行ったり、映画を観たり、食事をしたり、いつも楽しく過ごしていました。私はずっと「きっと、この人と結婚するんだろうな」と思っていました。

ところが付き合い始めて2年目を過ぎた頃から、彼が急にパチンコや競馬にのめり込むようになってしまったのです。

二人で過ごす週末も、彼は私をパチンコに付き合わせようとしました。私は興味がないし、お金もムダになるので断ると、彼はひどく不機嫌になります。その頃から、彼は何かにつけて、私を拘束するようにもなりました。

「どうしちゃったの? あんなに優しかったのに……」と、私は彼の変化に戸惑いました。そんな状態が2年ほど続きましたが、ある日、些細なことで大喧嘩をしてしまい、4年続いた二人の関係が、破局を迎えてしまったのです。

食事もノドを通らず、眠れない夜が続きました。「私の人生、もうおしまいかも…」と感じられ、いっそ死んでしまえたらどんなに楽だろうと思ったこともありました。

支部を訪ね徐々に元気を取り戻していった

私は何とか気持ちを切り替えたいと思い、幸福の科学の支部を訪ねることにしました。幸福の科学の信仰を持っていた姉に連れられて、地元・青森の支部に何度か行ったことがあったからです。「明るくて、素敵な所だな」という印象でした。

今住んでいる千葉で最寄の支部がどこにあるか、実家の姉に連絡して聞き、訪ねました。そこでは支部長や信者の方々が温かく迎えてくださいました。

幸福の科学に入信してからは、支部の方々に本当によくしていただきました。皆さん、私の悩みを親身になって聴いてくださり、励ましたり、慰めたりしてくださいました。

青年部の活動や地域の伝道活動にも積極的に参加しながら、私は徐々に元気を取り戻していきました。それでも、彼のことを思い出すと、胸が苦しくなりました。

不幸を愛する自分の傾向に気がついた

転機が訪れたのは、入信して1年半が経った頃のことです。書籍『成功の法』を読みながら、私はその一節に引き込まれました。

「私は、そういう人(不幸を愛する傾向がある人)に言いたいのです。できれば、一メートル以内に詰め寄って、言ってみたいのです。

『あなたは、幸福になりたいのか、なりたくないのか。それをはっきりさせなさい。どちらなのかを決めなさい』と、そのように言いたいのです」

ハッとしました。心のなかで「このままではいけない。私、幸福になりたいと本気で思ってなかった」と自分の声がしました。

彼のことが忘れられないのは、私がいつまでも思い出にしがみつき、不幸な自分を抱きしめていたからだったのです。

その日から、私は心を入れ替え、強く、明るく生きていくいこうと心に誓い、支部の活動も仕事も、それまで以上に積極的に取り組みました。

「朗らかに生きよ」「笑顔は努力に比例する」――。私は何度も何度も『成功の法』をひもといて、一日一日を一生懸命に生きていきました。

失恋の原因を考えて気持ちの整理をつけられた

半年ほど経つと、彼とうまくいかなくなった原因を、落ち着いて考えることができるようになりました。

そして、破局の根本的な原因が、社内での二人の立場の変化だったことに気づいたのです。栄養士の資格を持ち、衛生管理の仕事をしていた私は、毎年、仕事の責任が重くなりましたが、生産ラインで働く彼の仕事は変わりません。

最初は先輩・後輩の関係だったのに、やがて社内のポジションが逆転してしまったのです。

入社当時、ずいぶん大人に見えた彼が、頼りなく見え始めたことも思い出しました。それが私の態度にも表れていたのでしょう。彼はプライドが傷つき、パチンコや競馬で辛さをまぎらわせようとしたのだと思います。

ある日、彼がテレビで競馬を見ている時、私が衛生管理の資格試験の勉強を始めると、「一緒に観ろよ!」と怒鳴られたことがありました。その時は理不尽に思ったけれど、いま思えば、彼の気持ちを逆なでしていたのです。

彼の気持ちが理解できたことで、私は気持ちの整理をつけることができました。彼を幸せにできなかったことは残念ですが、失恋のおかげで私は信仰に出会い、精神的にも一歩、成長することができたように思います。これからも、人生いろいろあるでしょうが、何があっても仏への信仰を胸に、力強く歩き続けていきます。


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本当の自分に出会うことができた!

2015-11-02 18:30:23 | 日記

http://voicee.jp/201403208751

2012年の3月、日本のHappy Scienceの学生メンバーが、フィリピンへ布教活動に来ていたのがきっかけで僕はメンバーになりました。

マニラの街で、一生懸命、布教活動をする彼らをたまたま見かけ、以前から日本に興味があった僕は、自分から彼らに声をかけました。

そして、「近くにあるHappy Scienceの支部に来ないか?」と誘われたので、行ってみることにしたのです。

支部では、スピリチュアルに関するさまざまな話を聞かせてくれて、これまで自分が知らなかった世界がどんどん開けていく気がして、胸の高鳴りがとまりませんでした。

僕はその場ですぐにメンバーになり、それから大川隆法総裁の英語版書籍『太陽の法』『黄金の法』『創造の法』など、時間の許す限り、読めるだけの本を読み進めていきました。

その内容は、「宇宙の法則」や、「人間がこの世に生まれてくる意味」など、これまでに出会ったことのない、とても奥深いものでした。

「この教えをもっと深く学びたい――」。そう思った僕は、2013年、日本を訪問。

「Happy Science」の研修施設、聖地・四国正心館で3週間の雲水修行をしました。

研修や瞑想などを通して、静かに自分の心と向き合い、「人や自分を不幸にする間違った心を持っていないか」、「今後どのように生きれば、神仏に恥じないまっとうな人生を生きられるのか」などを考え続けました。

そして、雲水修行を終える頃には、心の汚れが取れ、身も心も軽くなり、本当の自分に生まれ変わることができたのです。

今後はフィリピンはもちろん、各国にこの教えを伝え、世界を一つにする活動をしていきたいです。

 


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自分を信じる言葉の力で東大合格へ!

2015-11-02 18:29:36 | 日記

http://voicee.jp/2014071110042

東京大学に合格

大学受験の結果、私は東京大学に合格することができました。

受験という人生のターニングポイントで成功したのは、「言葉の力」を使い、自分を信じることができたからだと思っています。

言葉の力で不安な気持ちを吹き飛ばす

東大受験を決意したのは高校1年生の時、「東大目指してみたら?」と担任の先生から持ちかけられたことがきっかけです。

母校から東大に進学した人が過去いなかったこともあり、はじめはなかなか決意できませんでした。

でも、「人は生まれて来る前に自分で人生計画を立ててくる」という幸福の科学の教えを思い出し、「この受験も、自分で決めてきた人生計画の一つかもしれない」と、勇気を出してチャレンジする決意を固めました。

高校3年生になってからは、朝4時半に起きて数学に2時間取り組み、休み時間には生物・化学の暗記、昼休みには走って図書館に行くぐらい寸暇を惜しんで勉強を続けました。

「いくら勉強しても足りない……」

そんな不安な気持ちを振り切ろうと、私は自宅の壁に貼ってある大川隆法先生の言葉を読み上げるようになりました。

およそ青年が心の中で強く信じ、その実現を期待した事柄は、やがて歳月を経て現実化するのである。

その間、うまずたゆまず、明るい心を持って精進を続けることだ。道は必ず開け、雄大な成功の大地が眼前に展開することだろう」(『青春に贈る』まえがきより)

そう声に出すと、不思議と「私は頑張れる」と感じるようになったのです。

言葉の力のすごさに気づいた私は、自分の目標も繰り返し声に出すようになりました。

具体的な目標を言葉にする

言葉の力を最も実感したのは、高校3年生の1月のことです。

ちょうどセンター試験直前の日、早朝からの勉強で疲れていた私は、苦手な数学の問題が解けず、悩んでいました。

「なんで数学解けないんだろう。もうすぐ試験なのに……」

お風呂で気分転換しようとしたとき、ふと『青春に贈る』の「心の中で強く信じ……」の部分が頭をよぎりました。

「もう一度、言葉の力を信じてみよう──」

私は、センター試験の目標を全体の95%(900点中855点)にしていたので、お風呂の中で、「センター95%絶対とる」と声に出してみました。1回では、気持ちはついてきません。2回、3回と口に出し、ふと鏡を見ると、疲れた顔が少しずつ笑顔に変わりはじめました。

次第に気持ちが明るくなり、200回ほど繰り返したとき、心から「私は大丈夫!」と思えました。

おかげで自信を持って勉強を続けられ、センター試験、二次試験ともにパスし、無事合格を勝ち取ることができたのです。

積極的な言葉を繰り返し口に出し、あきらめずに努力を続け、最後まで自分を信じきれたことが合格につながったと実感しています。


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倒産からの復活――新しく立ち上げた会社で売上げ倍増

2015-11-02 18:28:50 | 日記

http://voicee.jp/2015070411201

「これで、倒産だ」

2001年のはじめ、私は一大決心して起業を決意しました。

そして、折からのエコロジーブームに乗り、環境保全機器の販売代理店を始めたのです。

以前勤めていた自動車関連企業で営業成績がトップクラスだったこともあり、営業には自信がありました。「自分ならできるんじゃないか」と思っていたのです。

しかし、現実は甘くはありませんでした。チラシを配ったり、飛び込みの営業もしましたが、商品が売れません。ついに融資まで断られ、4カ月後、資金繰りが行き詰まってしまいました。

「これで、倒産だ」

体が震えました。

生活費さえ工面がつかない状況の中、不安と悔しさが入り混じり、生きた心地がしませんでした。

そしてある時、実家にいる弟が「一緒に仕事をしよう」と誘ってくれたので、かなり悩みましたが現実を受け止め、廃業の手続きを進めました。

弟と起業して再出発をはかる

私は、技術士をしていた弟と、制御機器メーカーを立ち上げました。

主な仕事は制御盤の製作や電気工事です。図面を見ながら、ドリルで穴を開けたり、細かい配線もします。営業畑を歩んできた私にとって、すべてが初めての経験で大変でした。

不況で注文が取れず、経営面でも厳しい状況です。給料の未払いが続き、とうとう長男を保育園に通わせることもできなくなりました。質素な食事に、着るものすら買えない生活。不安そうな妻の顔を見る度に、心の中で家族に詫びました。

見通しの甘さにより、手痛い思いをし、一度は会社をたたんだ自分です。「今度こそは持ちこたえなければ」という思いでした。

幸福の科学の支部に通うようになった

その頃、以前から入信していた幸福の科学の支部精舎が新しく建立されると聞きました。

「地域のユートピアづくりに少しでも貢献させていただきたい」

以来、会社と支部の発展を祈念して、「経済繁栄・成功祈願」を毎月することに決め、以前にも増して、今ある支部に通うようになりました。

総裁先生の御法話を学んだり、信者の皆さんと語らっていると本当に心が癒されていきます。支部に行く度に、事情を知っている支部長や法友が失意の私を励ましてくれ、何度となく勇気をもらいました。

復調のきざしが見え始めた

ある日のことです。打開策を求めて書籍『発展思考』を読んでいるときにハッとしました。

「人間の心なるものは、ちょうど磁石のようなもの」
「人びとの幸福を願う心を持っている人のところに幸福が集まる」

「私は、相手の幸福を願っていただろうか。注文を取りたい一心で、自社のこと、自分のことばかり考えていたのではないか……」

やるべき事が見えてきました。

私どもの強みは技術力だったので、それをより生かす方向でサービスを充実させることにしました。

部品の販売から、設計、プログラム作成、配線、工事、試運転まで一貫して請け負う、小回りのきいたサービスを売りにすることにしたのです。通常こういう業界では、大手以外ではあまりやっていないことです。

さらに同業他社が敬遠する納期の短い仕事や現場が遠い仕事でも引き受け、お客様の利便性を考えたサービスを打ち出していきました。

ある機械メーカーから初めて注文をとることができ、一気に目の前が明るくなりました。

その後も試行錯誤が続きましたが、徐々に新規の顧客が増え、経営が安定していったのです。

研修を受けて迷いが消えた

そして、中部正心館で経営に関する研修に参加しました。

研修のなかで、これまでのことを振り返っていきました。

倒産によって辛いことも経験しましたが、「人生は一冊の問題集」という真理に表されるように、私の魂を成長させるために必要な試練だったのだと思います。

そして、多くの方に見守られ、ご指導いただきながら仕事をすることができました。今自分がこうしてあるのも、お世話になった方々のおかげであり、目に見えない世界からの導きであったのだと目頭が熱くなりました。

「私心を去って、仏やお客様が喜ばれる選択をしていくしかない」

その後、経営は軌道に乗りはじめ、売上げは3期連続で倍増。従業員も増え、今は社長としてさらなる発展に向けて挑戦しています。

これからも精進して、さらに企業を発展させ、ユートピア建設に貢献したいと考えています。


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脳動静脈奇形と水頭症からの回復【難病克服①】

2015-11-02 18:28:30 | 日記

脳動静脈奇形と水頭症からの回復【難病克服①】

http://voicee.jp/201308296103

突然の入院、手術、そして後遺症……

東日本大震災の余震が続く、2011年の4月12日。
私は二度目の浪人生活をスタートさせていました。
その日、母から「また今日も地震があったけど大丈夫?」と電話があり、「特に問題ないよ。

も、頭が痛いから切るね」と言ったことを覚えています。


しかしその少し後、突然激しい頭痛に襲われ、病院に救急搬送されてしまいました。

診断結果は、脳動静脈奇形(AVM)による脳内出血。血管の異常により動脈と静脈が混ざる、一万人に一人の難病です。私は、頭の異常な血管を抜き取るという難しい手術を受けました。

手術は無事成功しました。しかしその後、脳に水がたまり、肥大化してしまう「水頭症」という後遺症を患ってしまったのです。

生まれつきの病気などはなく、すべて突然の出来事でした。

脳に溜まった水を流すために「シャント」という管を脳室からお腹まで通す手術を2回受けましたが、体が炎症を起こしたため、結局通すことができませんでした。長引く入院と予定外の手術に、両親も精神的にこたえていたようです。

「信仰」による治療

ちょうどその頃、湯布院正心館で「『奇跡のガン克服法』講義―病気を治す心構え―」が説かれました(2011年6月12日)。


その御法話を収録したDVDとDVDプレイヤーを、お世話になっていた支部長が送ってくださり、母が病室で私に聞かせてくれていたそうです。


また、私のために何度も祈願を受けてくれていました。友人のお見舞いなど、周囲の支援はとても大きな力になっていたと思います。

私が今記憶にあるのは入院から3ヶ月後の7月以降のことです。


病室には携帯型ご本尊を立てていて、そのとなりには大川隆法総裁先生の当時の最新刊が置いてありました。曖昧な意識の中、それらを手にとり、読み始めるようになりました。


脳の病気で一部記憶を失っていたため、はじめは漢字が思うように読めずに苦しみましたが、「わからないところは一つひとつ聞こう」と心掛けてから、少しずつ読めるようになっていきました。


すると、「今、自分は生かされているんじゃないかなぁ」などと、普通は考えないようなことを考えはじめるようになり、荒れていた心が静まっていったのです。


水頭症がみるみる回復。一時帰宅が可能に

 

その頃から、徐々に「医学では説明し難い現象」が起きはじめました。
水頭症は、管(シャント)を入れたまま退院し、定期的に通院しなければならない病気ですが、背中から間接的に抜いていた水がピタッと止まったのです! 医師もつかめないような状況でした。

脳の回復も順調で、「一日前のこと」を思い出せるようになるなど、ひとつずつできることが増えていました。iphoneでメールを送ったときには、母もびっくりしていました。

さらに、ごはんも食べられるようになって太りはじめるほどに。薬も飲まず、手術器具も一切ない状態でした。


そこで8月の1週目、一時帰宅の申請をすると、「1泊2日でよければ……」ということで許可が得られ、新宿精舎で「スーパーベガヒーリング」と「悪質宇宙人撃退祈願」を受けることができました。

手術器具なしで退院

次の週は三連休でした。
「今度は、2泊3日で一時帰宅できないでしょうか?」と相談をしてみました。

すると、医師の口から驚きの言葉が発されました。
「まぁ元気だからね。今なにか処置しているわけでもないから、退院しましょうか」
と、退院の許可が出たのです!

脳室には、手術が必要な分量の水が残っていました。しかし、「再手術だ」と頑(かたく)なに言っていた医師を笑顔にしてしまうほど、私の体は回復していたのです。

前例がないことが起こり、「絶対に、信仰による奇跡だ」と感じました。救っていただいたことへの感謝の気持ちと、「もっと信仰心を深め、完治させたい」という気持ちが強く湧きおこりました。

 

そしてその後、箱根精舎で雲水修行(幸福の科学の精舎で、一定の期間、館内の整備や運営補助、研修参加等を通して心を見つめる修行)をすることを決意したのです。

光ある時を生きよ

『光ある時を生きよ』の第三章「人生に勝利する詩」では、病について次のように説かれており、「逆境に置かれた自分」という自己像を変えさせてくれました。

人々よ
病に負けるな
病の時には
病を最大限に利用せよ
あなたはまず反省の時間を得た
この時に哲学者にでも
詩人にでもなれるではないか
病の時間を利用して
長編小説を構想し大作家にでもなればよい

 



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養女に出された寂しさが解消された時

2015-11-02 14:24:05 | 日記

養女に出された寂しさが解消された時

http://voicee.jp/201402158607

私は、自分が小さい頃に養女に出されたことを、不幸だと思っていました。しかし、今は自分自身の境遇に対する見方が全く変わり、心から感謝できるようになりました。
きょうは、私のたどった心の軌跡をお話しします。


夫の浮気、離婚……

いまから十数年前、私は離婚しました。長年、前夫の浪費癖や夜遊びなどに悩まされてきましたが、3人の子供のためを思って、ひたすら耐えていました。

しかし、そのなかで夫の浮気が発覚。さらに長男が成長するにつれて、「おまえなんか!」と父親に反抗するようになったのを見て、「もう限界だ」と別れる覚悟を決めたのです。

私は子供たちを連れて実家に戻りました。長男は中学に入ったばかり、下の娘はまだ幼稚園でした。

愛を裏切られて……

前夫と出会ったのは20歳の頃。彼は遊び仲間のグループの一人でした。彼はとてもマメな人で、「体調が悪い」と言えば薬を買って車で届けてくれるし、よく高価な宝石を私にプレゼントしてくれました。スキーで捻挫したときは、毎日、会社まで車で迎えにきてくれました。

そんな彼の強烈なアプローチに押されたカタチで結婚。

ところが、塗装工をしていた夫はバブル崩壊のあおりで仕事が激減しました。極端に少ない額のお給料では足りず、私たち家族は一日1000円に満たない倹約生活でした。

彼はアルバイトもしましたが、そのお金を生活費に回してくれず、ブランド物を身につけ、夜も遊び回って帰ってこなくなりました。そして浮気──。

「こんなはずじゃなかった……」

幼い頃から人一倍、愛を求めていた私。実は生後すぐに養女に出されてしまい、心に寂しさを抱えていたのです。「こんなに強く私を愛してくれる人なら大丈夫だろう」という夫への期待は、見事に裏切られました。


養女と知った日

私が初めて、自分が養女だと知ったのは、小学校3、4年生ぐらいの夏だったと思います。東京の下町で育った私は、毎年夏になると、栃木にある母の田舎に遊びにいきました。

一人娘の私にとって、大勢のいとこたちと一緒に自然豊かな山や川で遊び回る日々は、とても楽しみでした。

ある日、一緒に遊んでいた3歳年下のいとこが、思い出したように言いました。

「ねぇ……ほんとうは、Hちゃんってさ、私のお姉ちゃんなんだって」

突然の言葉にびっくりしましたが、幼いなりにも、それがどういうことか、なんとなくのみこめました。

「いとこが私の妹……じゃあ、田舎のおばさんが私のお母さんってこと?」

口数の少ないおばさん。私から話しかけたりすることもあまりなく、なんだか自分の母親という実感がわきません。おじさんはすでに亡くなっていました。


私はいらない子

「私はお母さんのほんとの子供じゃないんだ。もらいっ子なんだ」

頭のなかで「もらいっ子、もらいっ子」という言葉がぐるぐる回り、ほんとうにショックでした。

ちょうどテレビでは、山口百恵が養女役のつらい境遇を演じる連続ドラマを放映していました。養女というイメージは私の心に暗い影を落としました。

「田舎は4人もきょうだいがいるのに、なんで私だけ養女に出されたの?私はいらない子だったの?」

「私はいらない子」という独り言を、何度つぶやいてきたことでしょう。

養女の事実に気づいて以来、心の底に「私は親から必要とされていなかった存在」という孤独感がありました。そんな私の心を満たしてくれるような、ほんとうに愛してくれる人を求めて、前夫と結婚したのです。

結婚前、私を追いかけ回していた彼。それを私は、自分だけに対する特別な愛情の証と信じ込んでしまったのでした。

「いらっしゃいませ」

離婚後、子供を連れて戻った私を、養父母は黙って迎えてくれました。何のあてがあるわけでもありません。

ただ、失意のなかにも、一条の希望のようなものが胸の内に宿っていました。その一条の希望──私の心の拠りどころとの出会いは、離婚の2年前、偶然とも言えるきっかけからでした。

ある日、いきつけの美容室に行ったところ、お店が閉まっていました。

「あー休業日かあ。どうしよう。また出直すのも大変だな。うちの子が待ってるし、次いつ来られるかわからないし……」

CLOSEDの札を眺めながら、しばらく店の前で思案していると、前に見かけた美容室をふと思い出し、そのお店に行ってみることにしました。

「──いらっしゃいませ。こちらは初めてですか?」

雰囲気のよい店内。店長さんらしき男性が迎えてくれました。初めての店だと、なかなか思うような髪型にしてもらえないことも多いので、ちょっと不安でしたが、私の要望をよく聞いてくれ、素敵にカットしてもらえました。

思いきって来てみて正解です。

すっかり気に入った私はリピーターになり、店長さんとも顔なじみになりました。

けれども、これがのちのち私の人生を大きく変えていく出会いであったとは、この時点ではまだわかりませんでした。


運命のトビラを開いて

ある日、店長さんに髪を切ってもらいながら世間話をしているうちに、いつのまにか家庭の悩みを口にしていました。

「実は夫とうまくいかなくて……」
「そうなんですか。それは大変ですね」

店長さんは鏡ごしに心配そうな表情を向けました。

「──あ、そうだ。そういうことなら、いい本がありますよ。よかったら読んでみますか?きっと何かしら参考になることがあると思いますよ」
「えっ、本ですか?私はちょっと……」

子供の世話で、毎日てんてこ舞い。ぜんぜん本を読む余裕などなさそうでした。でも、美容室から出たあとも、店長さんの言葉が気になってしかたありません。

結局、それから何日かたって、やっぱり貸してもらうことにしました。本を適当にパラパラと開いてみるうち、いつのまにかひきこまれていきました。

「夫の愛情不足を嘆く人は、あちらにもこちらにもいます。……女性はどうやら愛情に飢えている動物であり、愛情が与えられないと、“飢え死に”をしてしまうもののようです」(『「幸福になれない」症候群』第3章)

自分に語りかけてこられるような感じがして、不思議なくらい早く読み終えることができました。店長さんにお礼をいって、本を返しました。

「おもしろかったですか?まだほかにもいろいろ本があるから、貸しましょうか」

こうして私は大川隆法先生の本を読むようになったのです。

大川先生のお話のなかには、愛についての話がたくさんあり、気になります。「与える愛」とか「奪う愛」とか、まだよくわからないながらも、ここに自分の求めているものがあるような気がします。

私は未来への期待感を抱いて、幸福の科学に入信しました。

その後、離婚など、つらい出来事もありましたが、幸福の科学と出会っていたことが、そうした日々のなかで私の心の支えとなったのです。


心のなかの変化

ある日、玄関チャイムの音がしました。

「こんにちは。私、幸福の科学の者ですが……」

幸福の科学に入ってしばらくして、近所の信者さんが訪ねてきてくださいました。近くで集いを開いているそうです。新たな人たちとのご縁は、私にとって、とても新鮮でした。

幸福の科学の人と出会って、私のこれまでのお付き合いとは違うと思ったのは、心を開いて何でも話し合える雰囲気があることでした。

私もみなさんと一緒に集いに参加したり、支部の活動に出たりしているうちに、だんだん新しい生活のリズムができ、気持ちにも余裕が出てきました。

ある日、支部で、ある方から、「一度、これまでの人生で、自分が人に与えた愛と、人から与えられた愛を、全部書き出して比べてみるといいですよ」とすすめられました。

私は、そのやり方をヒントに、心に引っかかっていた前夫について考えてみることにしました。彼と出会った頃からの出来事をいろいろと思い出していくうち、(彼にはけっこうお世話になってたなあ)と、あらためて思いました。

そのわりには、「してもらって当然」という思いで、ぜんぜん感謝してなかった私がいました。なぜそんな態度になってしまったのかを、さらに考えていくうち、恐ろしいことに気がつきました。

「あなたが追いかけまわしたから、私は結婚してあげたのよ」

心の底に、常にそんな思いが潜んでいたこと──ゾッとしました。自分が夫に愛されることばかり考え、思い通りにならなくて苦しんでいましたが、自分から夫に何かしてあげようとは思っていませんでした。

こういうのが「愛を奪っている」ということなんだと気づき、このままではいけないと思いました。

私はさらに反省していきました。もしかしたら、前夫だけではなく、他の人にも知らないうちに「奪う愛」になっていたかもしれない――。

これからは、私も愛を与えられるような人になりたいと思いました。


新しい生活のなかで

その日以来、私は他の人の幸せを意識するようになりました。でも、思いを切り替えるというのは難しいものです。

泉からあふれ出る水のように、愛を与えられる人──そんな理想のイメージにはほど遠く、「私のことをわかってほしい」という思いが先に立ってしまいます。つい人の目を気にする自分がいました。

私は幸福の科学の活動をしたり、仲間にアドバイスをもらったりしながら、少しずつ自分を変えようと努力しました。

仲間のなかでも特にお世話になっていたのが、私に幸福の科学のことを教えてくれた美容室の店長、Sさんでした。

Sさんは私に困ったことがあると、よく相談に乗ってくれました。何より、同じ信仰を持っていることで、互いに気持ちが通じ合えるのです。子供たちもSさんと親しくなりました。

私も彼の誠実な人柄にひかれるようになり、離婚から3年後、再婚することになったのです。

その後は、初めから家族だったように自然で、みんなで車に乗ってスキーに行ったり、テーマパークで楽しんだり、温泉を巡ったり……わが家のアルバムに楽しい思い出が追加されるたびに、私は「幸福の科学に出会ってから、ほんとうに幸せなことが増えたなあ」という実感をかみしめました。

また、可能なかぎり幸福の科学の精舎研修にも、主人と2人で参加していきました。

前夫への反省を通してはっきりしてきたのは、私の「愛されたい」欲求は根深く、それはやはり養女という生い立ちからきているということでした。

自分の過去をしっかり見つめたい――。私は、東京正心館の「両親に対する反省と感謝」研修を受けにいくことにしました。


父母の本心

養女と知った当時、私は子供心に「聞いてはいけないんだ」という気持ちがして一人で抱え込んでしまいました。それが自分の正直な気持ちにフタをしてしまった最初だったと思います。

以来、私も親類も正面からその話題を出さないながらも、話の端々にチラチラにおわせることで、いつしか暗黙の了解のようになっていったのです。こうして親類のような親きょうだいのような、微妙な感じが続いていました。

でも、私の心の影は置き去りにされたまま……。

研修中、「大悲・父母恩重経」を唱え、心を鎮めて瞑想していると、突然、心のなかにある光景が浮かんできました。田舎の家の広い座敷に寝かされている赤ちゃん──それは私でした。実の両親が私をのぞき込んでいます。

両親は顔を見合わせて、ため息をつきました。しだいに私を渡す日が近づき、どんどん無言になっていく両親。もうしばらくすると娘を手放さなければならない……。

寂しく悲しい気持ちになっている2人の心の内が、手にとるように感じられます。

「私のこと、いらなかったんじゃなくて、あげたくなかったんだ」

私は涙があふれ出し、嗚咽が止まらなくなりました。以前、上の姉が何気なく言っていた話の断片を急に思い出しました。

「父ちゃん、Hをあげたあと、心配でそっと東京まで見にいったんだよ。そしたらKおばさんが、Hを背負って鼻歌うたいながらおむつを洗濯していたから、安心したって」
「でもね、Hをあげたあと、父ちゃんと母ちゃんは寂しくて悲しくて、結局もう一人産んだんだよ。生まれた妹を抱いてね、『かわいかんべぇ。東京に行ったHに似てるべ』って、近所を歩いて回ってたんだよ」

早くに亡くなってしまった実父。写真でしか知らない人が、まぎれもなく私の父親であるということが、このとき初めて実感として迫ってきました。

そして実母。4人目の私を妊娠したとき、農家の嫁として朝から晩まで働きづめだっただけに、ずいぶん悩んだようです。

ある日、畑から戻った母は慌てました。高い縁側のふちで、3歳児だった長女が生まれて間もない次女を必死でつかんでいたのです。一人で床を這い出した次女が落ちかかっていたそうです。

「仕事が忙しくて、子供たちの面倒もろくにみてやれない。こんな状態で産んでもかわいそうだ。……いっそ子供のいない妹夫婦に預けたほうが、ずっと大切にしてくれるんじゃないか」

私を養女に出したのは、苦悩の末の決断でした。

田舎に行くと、いつも田や畑に出ていた実母。野良仕事から帰ってくると、「来たかぁ。ほら、とうもろこし茹でたぞ。食べろ」とすすめてくれました。

無口で、いつもニコニコ微笑んでいる人。親子の会話は少なかったけれど、やりとりの一つ一つがあたたかい……。あの母が苦しんで苦しんで、ほんとうに私のためを思って養女に出した気持ちを思うと、泣けてしかたありませんでした。

そして考えてみると、養父母も優しい人で、私を大切に育ててくれました。小さい頃、私の洋服は全部、養母のお手製でした。大好きだったキリンや馬のぬいぐるみまで作ってくれていたのです。

私は気づきました。「私は恵まれていた! 私には母が二人もいて、他の人より2倍も愛されていた」――そう思ったとき、長年ひきずっていた心のなかの影は消え、あたたかい気持ちで満たされたのです。

研修のなかで、私は実母に手紙を書きました。「お母さん」と呼ぶのは初めてです。

「お母さん、私を宿し、10カ月大切に育て、無事産んでくれてありがとう。私の幸福を願い、信じ、東京に養女に出してくれてありがとう。お母さんが私の幸せを心から願いつづけてくださったお蔭様で、今の私があります。心から感謝しています。ありがとう。──あなたの娘・Hより」

実母は80歳。帰省時には、いとおしむように2人のときを過ごしています。またこの体験を通じて、私を慈しんで育ててくれた養父母への感謝もいっそう深まりました。

魂の絆をかみしめて

再婚後、わが家はもう一人、男の子に恵まれ、4人の子供になりました。その子もいま、小学校二年生。明るく活発で、わが家のアイドル的存在です。

ほかの子供たちも主人とほんとうの親子のように暮らしているのを見ると、血の繋がりを超えた深い絆を感じるのです。

幸福の科学では、親子の魂は天上界で約束して生まれ合わせてくると学んでいます。肉体的な血縁があってもなくても、確かに魂の深い縁で結ばれている人たちがいるのだと実感しています。

最後に、幸福の科学と出会えた幸福に対し、主に心から感謝申し上げます。



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いじめ、不登校、非行……私が立ち直るまで

2015-11-02 14:23:50 | 日記

いじめ、不登校、非行……私が立ち直るまで

http://voicee.jp/2013113016

 私はいま一児の母です。10代のとき、私は不登校や非行など荒れた生活をしていました。そんな私が、立ち直ることができたのは、仏法真理と家族の励ましのおかげです。

転校先でのトラブル

 中学2年生の時でした。

「M、またお父さん転勤だって」

 母の言葉に、私はショックを受けました。せっかく、今の学校に馴染めたのに、また転校。 父の都合に合わせてばかりの引っ越しが不満でした。私の父は“転勤族”で、中学だけでも2度目の転校。しかも、今度は東京から遠く離れた、地方の学校……。

 泣く泣く転校して間もなくのこと。

「ちょっと、トイレに来てよ」

 クラスメートに言われて、トイレに行くと、何人かの女子が集まっていました。

「あんたのその態度、ムカつくんだけど」

「なにその茶髪? スカートも短くして何様のつもりよ」

 転校したばかりで、制服も東京の学校のままでした。東京ではふつうの格好なので、びっくりしました。このことがきっかけで、私はいじめられるようになったのです。

不登校

 ある日、机の中に手紙が入っていました。

「みんなから、いろいろ言われているみたいだけど、大丈夫? 学校のことで分からないことがあったら、私に聞いてね。Y」

 話したことはありませんでしたが、明るい世話好きそうな子からの手紙でした。嬉しくもありましたが、同情されているようなみじめさも感じました。その後も手紙が続き、彼女から話しかけてくるようになりました。

「Mさん、一緒に帰らない?」

 誘われれば一緒に帰りましたが、私の態度は消極的でした。つい意地を張り、Yさんに対しても素直に心が開けなかったのです。そのうち、Yさんもあまり話しかけてこなくなり、私はクラスのなかで孤立した存在になっていました。

 ある朝、急にお腹が痛くなりました。病院に行き、数日学校を休んだら痛みは取れましたが、それから朝起きるのがかったるくなり、どうしても起き上がれません。私は不登校になってしまったのです。

 学校に行かなくなって数週間が過ぎ、母は、先生や教育委員会に相談して、他の中学に移る手続きをしてくれました。もともと学校が嫌いなわけではありません。この学校さえ移ればなんとかなると思いました。

 私は、次の学校では服装や髪型に気をつけ、クラスに早く馴染めるように、できるだけ“いい子”を演じようと努力しました。しかし、同級生との距離はいっこうに縮まりませんでした。まじめな態度がかえってわざとらしく見えたのかもしれません。

「M、カバンの中、見せてみろ」

 ある日、先生が私に言ってきました。カバンを開くとタバコが入っていて、びっくり。誰かの嫌がらせでした。私が必死に説明すると、先生も変だと思ったのか、いたずらだと分かってくれました。でも、陰険ないじめにショックを受けました。

「もう、嫌だ。学校なんて行きたくない」

 私は再び不登校へと逆戻りしてしまいました。

私の青春、返してよ!

「M、ちゃんと話し合おうよ」

 母に話しかけられても、「放っておいて」と、ふとんを頭から被って動こうとしない私。そのうち、父が怒りはじめました。

「いい加減にしろ! いつまで学校に行かないつもりなんだ!」

 父はお酒を飲んでいるようでした。昔から、父はお酒を飲むと人が変わったように怒りっぽくなります。大きな声で怒鳴られて、私もキレました。

「何よ! お父さんが転勤したからいけないんじゃない。私の青春、返してよ!」

 取っ組み合いの喧嘩になりました。私のあまりの荒れように、父は途中で匙を投げたようです。それからは私に何も言わなくなりました。私のことは母に任せたようでした。

「私のことなんて、どうだっていいんだ」

 国立大学を出て、大きな会社に勤めている父──できの悪い私を厄介者に思っているような気がしました。

東京に戻りたい……

 私は虚しさに襲われ、リストカットをするようになりました。家の近くの崖に何度も行ったりしました。でも、その場に行くと、もう一歩が踏み出せませんでした。以前、母から聞いていた話が心にひっかかっていたからです。

「『死んだら楽になる』って自殺する人が多いけれど、天国に還れないで不成仏霊になって苦しむんだって」

 母は幸福の科学の信者でした。私も、小学生の頃から、母に仏法真理の話を聞いていました。死んだ後まで苦しみたくないと、恐くなって、思い止まりました。

 ある日、母に自分の正直な気持ちを打ち明けてみました。

 「私、東京の学校に戻りたいよ」

 結局、私は一人で東京にアパートを借り、転校前の中学に戻ることになりました。そこでは以前からの友だちも多く、何事もなかったかのように、ふつうに通学できるようになったのです。

 高校は寮のある学校を受験。受験までの間、母が自宅と東京の間を行き来して、私の面倒をみてくれました。

 ある日、母が幸福の科学の総本山・未来館に連れていってくれました。

「明るくてきれいだな……」

 ギリシャ的な雰囲気がとても好きになりました。私はこのとき、母に勧められて幸福の科学に入会しました。

非行

 私は高校に合格しました。中学時代は転校で苦しんだ分、高校では楽しもうと思っていました。でも、寮での一人暮らしは、思っていた以上にさみしいものでした。自分の部屋に一人っきりでいると、不安になります。

「ねぇ、これから部屋に行ってもいい?」

 さみしさを紛らわすために、私は同じ寮の友達の部屋に入り浸っていました。お母さんはよく訪ねてくれるけど、お父さんは連絡もくれません。不登校で荒れて以来、私と接しようとしない父──。父が私を“お荷物”のように思って避けているんだと感じました。

 毎日、あちこちに電話やメールばかりしていましたが、そのうち、それだけではもの足りなくなった私は、携帯サイトで出会った人たちと遊ぶようになりました。


当時流行していたコギャルのファッションで、夜の街を遊び歩きます。さまざまな非行をするようになっていきました。でも、何をしていても、心はいつも虚しかったのです。

 母は、私の様子がおかしいことを、薄々勘付いていたのかもしれません。夏休みに帰省した際、母に日記と携帯電話を見られ、私の非行がばれることになりました。

「M、これはどういうことなの!」

「勝手に見るなんてひどいじゃない!」

 私は開き直って、母に反抗しました。父にも知られて、おもいっきり殴られました。ぜんぜん反省の素振りもない私に、両親はついに警察に相談することにしたらく、警察署に連れていかれて説教された私は、ふてくされて部屋にこもり、両親と口を利かなくなりました。そんな私の心を開こうと、母は必死になって話しかけてきました。

「M、勝手に日記を読んでごめんね。お母さん、あなたのこと信じているから」

 そういって、母は鍵付きの新しい日記を私に手渡してくれました。日記を無断で見られたのは頭にきましたが、母は本気で心配してくれてるんだと感じ、少しうれしかったです。

もう一度やり直したい

 夏休みが終わり、東京に戻ると、母から幸福の科学の本が送られてきました。『愛の原点』という本でした。タイトルの「愛」という言葉が気になって本を開きました。

「愛とは、自分のためではなく、他のものに尽くしたいという思いです」(『愛の原点』より)

 私は本に引きこまれていきました。母から送られてくる仏法真理の書籍を真剣に読むようになり、自分もこのままじゃいけないと思いました。そんなある日、母が幸福の科学の総本山・正心館に連れていってくれました。

「お母さん、何か研修受けるの?」

「今日はMと一緒に『特別灌頂(とくべつかんじょう)』を受けようと思うの」

 母の話によれば、それは仏への信仰のもと、過去の心の重荷をおろし、新しい人生への出発を誓う儀式だといいます。

「M、これまでつらい思いをさせてごめんね。もう一度、お母さんと一緒に、真っ白な気持ちになってやり直そう」

 それまで、親のせいで、友だちのせいでと、人のせいにばかりしてきた自分。いろんな言い訳が積み重なった今の自分――。ほんとうに変われるものなら変わりたいと思いました。


少し不安でしたが、祈願室に一歩足を踏み入れると、その厳かな雰囲気に、暗い気持ちが消えていきました。目の前に大きな仏がおられる気がしました。

「私、間違っていました。ごめんなさい」

 一生懸命祈りました。心があたたかくなり、涙が止まらなくなりました。終了後、講師の方が話をしてくれました。私は今までのことをすべて打ち明けました。

「──こんな私でも変われますか?」

「どんな人でも信仰を通して生まれ変わることができます。間違いをよく反省してください。そして、もう一度やり直そうと決意し、努力してください。仏はそういう苦しい経験をされたあなたに対して、きっと期待しておられますよ」

 講師の言葉に勇気づけられ、私は「二度と同じ過ちをしない」と心に誓ったのです。久しぶりに心がスッキリしていました。

久しぶりの釣り

 高校を卒業した私は、実家に帰って働くことに決めました。仏法真理も熱心に学ぶようになりました。ちょうど父は単身赴任中で実家にはいませんでしたが、父とのこともなんとかしなければと、気にかかっていました。

 精舎で『幸福の法』公案研修に参加したときのこと。経典をじっくり読み進めていくと、ある一節が目に留まりました。

「無限に愛を奪い取る傾向を持っている人は、いくら、まわりの人からほんとうに愛を注がれていても、それが分からないことが多く、足りないことのほうにばかり意識が行くのです」(『幸福の法』より」)

「これって、私のことかもしれない……」

 父の姿が心をよぎりました。私は父との関係をもう一度ちゃんと振り返ってみようと思いました。

「そういえば、小さい頃、花をプレゼントしてくれたことがあった。私が花好きだったから、父なりに一生懸命、見繕ってくれてたんだろうな」

「一人暮らししていた時、突然、父が訪ねてきたこともあったな。なぜか二人でお寿司を食べに行った。……あれは私のこと心配して見にきてくれたんだ」

「あっ、そうだ、釣り……。父は釣りが好きだったから、よく私を一緒に連れて行ってくれた。……たしか私専用の釣り道具まで揃えてくれてた」

 考えだすと、いろんなことがよみがえってきます。私のことなんか、父はまったく関心がないと思っていたけれど、実は私のほうが父を見ようとしていなかったのではないかという気がしてきました。

「私は、父からもっと愛されたくて、反抗していたのかもしれない。ほんとうは父に愛されていたのに……」

 研修をきっかけに、父に対する見方が少しずつ変わっていきました。たまに単身赴任先から実家に帰ってくる父。でも、2人の妹も思春期で、父と距離を取りたがっている様子。家で一人でお酒を飲んでいる姿はどこか寂しげに見えました。


娘たちと話したいのに、話しかけられない父の不器用さが伝わってきたのです。私は自分から父に話しかけてみました。すると父はうれしそうに、仕事の話から始まって自分の幼少時のことまで、いろんなことを話してくれました。

「M、釣りでも行こうか?」

 ある日、父が誘ってくれました。

「いいよ。ほんと、久しぶりだよね」

 誘いにのって、2人で海釣りに出かけました。……なぜか私ばかりが釣れました。

「Mは釣りがうまいな」

 ぽつりと父が言いました。まさか、釣りで褒められるとは思ってもみませんでした。勉強では父に褒められたことがなかった私。はじめて父に認められたような気がして、照れくさくなりました。

父への報告

 仏法真理を学んで気持ちが前向きになったせいか、その頃、交際相手ができました。彼は大柄な体に似合わず、とてもやさしい人でした。私の過去を正直に打ち明けると、すべて受け止めてくれました。私も彼のために何かをしてあげたい、という思いが自然にわきあがってきて、よく幸福の科学で言われている「与える愛」の喜びって、こんな気持ちなのかと、少しずつ実感できるようになっていました。

 結婚を前提にお付き合いを続け、お互いの家も公認になりました。ある日、私は自分が妊娠していることに気づきました。彼も喜んでくれ、私たちは母と彼の両親にもすぐに伝えました。ただ、父の反応を考えると、少し不安になりました。父はまだ単身赴任中で、家にいませんでした。

 妊娠が分かった日の夜、私は不思議な夢を見ました。

「“約束”しましたよね。お願いしますよ」

 夢のなかで、めがねをかけた大人の男性から、そう言われました。

「約束って言っていたな。もしかして……あの人が自分の子どもになる魂なのかも」

 そんな気がしました。親子の縁はあの世で約束してくると教わっています。私が頼りなげに見えたのか、少し叱られたような気もしました。不思議がって母に話したら、母も「そんな感じの男の人が、私の夢にも出てきたよ」と言うので、びっくりしました。

「お腹の子がわざわざ挨拶に来たんだから、私もちゃんと父に言わなくちゃ」

 勇気を出して父に電話をかけました。

「お父さん、私、赤ちゃんできたの……」

「…………」

 無言の父。驚いているのか、怒っているのか、電話の向こうの表情が分かりません。緊張しながら父の言葉を待ちました。

「──そうか、分かった。おめでとう」

 予想外の穏やかな言葉。私のほうが驚いてしまいました。それから数日後──。

「Mさんを、僕にください」

 彼が父の前で正式に結婚を申し出ました。父は下を向いて黙ってしまいました。泣いていたのです。

「どうか、娘をよろしくお願いします」

 涙で声をつまらせる父。私も涙がこぼれました。父に愛されていたことを、はっきりと感じました。

私でも人の役に立てる

 結婚後、主人も幸福の科学に入会し、赤ちゃんも、夢で見た通り、男の子が生まれました。私は家庭の幸福を実感していました。

 ある日、ふとYさんのことを思い出しました。中学の時、いじめられている私に対して、手紙で励ましてくれた子です。あの時言えなかった「ありがとう」の一言が言いたくて、彼女に手紙を書きました。すると、すぐに彼女から電話がかかってきたのです。

「ほんと久しぶりだよね。どうしたの?」

「Yさんからもらった手紙、今も大事に取ってあるんだよ。すごくうれしかった。でも、あの時は素直になれなくてごめんね。ほんとうにありがとう」

 彼女も喜んでくれて、お互いの近況を話していると、驚いたことに、彼女も私とほとんど同じ時期に出産したと言います。子育てで悩んでいる様子でした。

「もし、よかったら、幸福の科学の支部に行ってみない?」

「それって、誰でも参加できるの?」

「うん。子育てをしているお母さん方の集いもあって勉強になるよ。あの後、私もいろいろあったけど、ここで学んでから変わることができたんだ」

 私は自分の経験を話しました。私の話に興味を持った彼女は、支部の子育て中の母親の集いに参加するようになりました。やがて、彼女も幸福の科学に入会しました。

「幸福の科学を教えてくれてありがとう」

 Yさんに感謝されて胸が熱くなりました。

「私でも人の役に立てるんだ――」

お返しの人生を

 私の10代は荒れたものでした。まるで出口の見えないトンネルのなかをくぐっているようで、苦しくてどうしようもない時期もありました。

 でも、幸福の科学の信仰と母の励ましを通して、自分の間違いに気づき、やり直すことができたのです。その結果、父との葛藤を乗り越え、私自身も子を持つ母として幸せな家庭を築くことができました。

 薄暗く見えた私の人生に光を与えてくれた仏に心から感謝しています。この気持ちを胸に、これからはお返しの人生を生きていきたいと思います。



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大川隆法・本日の格言

2015-11-02 14:22:17 | 日記

不況の時代には、どうか、「発想で闘っていく」という姿勢を持ってください。 

そのときに必要なのは、周りの批判に負けない「強い個性」と「自己信頼」だと思います。

「強い個性」と「自己信頼」を持って努力していけば、道は必ず拓けます。そのように考えていただければ幸いです。

『創造の法』P.123



※幸福の科学出版
http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=102&utm_source=wordsJpn&utm_medium=email

※Amazon
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4863950144/hsmail-22/


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20年越しの幸福発見、心の成長で母娘の葛藤を克服!

2015-11-02 12:07:24 | 日記

http://voicee.jp/2014082110218

納得できない母の行動

私は小学生のころから、「将来は結婚して温かい家庭を作りたい」と願っていました。両親のケンカが絶えず、私はいつも、つらく寂しい思いをしていたからです。父の暴力・浮気……私は子どもながらに、母を守ろうと一生懸命でした。しかし、別居が決まって母と引っ越した当日、今度は母の恋人が現れ、そのまま同居することに。

「私に何の相談もなく……!」

裏切られたようなショックと、居場所を失った孤独感に襲われ、私は母に対してかたくなな態度をとるようになったのです。

結婚後の決心

現在の夫と出会ったのは、大学生の時のことです。大工としてカナダから来日していた彼と、1年半の交際を経て結婚。カナダに移り住み、限りない夫の愛に支えられ、ようやく安らぎの場所を見つけた気分でした。

ところが、子どもが生まれてからも、漠然とした寂しさは消えません。

「このままじゃいけない。夫の優しさに甘えず、小さい時の心の傷は自分で癒さないと」

私は過去と向き合うために、総本山・日光精舎の八正道研修に参加しました。そして、小さいころの記憶をたどりながら、母の人生にも思いをはせてみたのです。

幼いころに父を亡くし、結婚後も心労が絶えなかった母――。

「お母さんにしてみれば、恋人と二人で逃げたほうが楽だったろうな。でもお母さんは、毎晩必ず家に帰ってきてくれた……」

私たち子どもを見捨てることのなかった母の姿に、私は初めて、深い愛情を感じることができたのです。

「これからは、お父さん・お母さんへの感謝を態度で表そう。そうすればきっと、お母さんとの問題も乗り越えられる」。そう心に誓って、日光精舎を後にしました。

友人からの一喝

ところが実際は、なかなか母に素直になれません。わだかまりを抱えたまま、約3年が過ぎました。

ある春のこと、カナダから一時帰国した私は、以前から親しくしていた年上の友人に相談してみました。

「今でも小さいころのことが悲しくて、実家に帰ってもつらいんですよ……」

「何言ってるの。あなたはもう母親なんだから、いつまでも『親にこうしてほしかった』って甘えてちゃいけないよ。いろいろあったかもしれないけど、それが親の人生なんだって受け入れなきゃだめだよ」

友人の一喝で、握り締めていた苦しみが吹っ切れ、心がすっと楽になりました。

それ以来、私はだんだん母に心を開くことができるようになったのです。週に1度は電話をしたり、手紙と一緒に孫の写真を送ったり。小さな積み重ねでしたが、母と私をつなぐ心のパイプが修復されていくようでした。

「本当は、母のことが大好きだった」

そんな折、父母の幸福を願って精舎祈願を受けた時のことです。両親への深い感謝、とりわけ母への愛が、心の奥底から込み上げてきました。

「本当は私、小さい時からずっと、お母さんのことが大好きだったんだ!」

その後、実家で母にお守りを渡しながら、「今の幸せな人生があるのは、お母さんのおかげだよ。距離は離れているけど、心はいつも一緒だからね」と、素直に伝えることができたのです。

母も涙を浮かべ、喜んでお守りを受け取ってくれました。

心からの幸福を感じて

両親の愛を実感するにつれて、それまでの寂しさは消え、カナダでの生活にも、心からの幸福を感じるようになりました。優しい夫がいて、かわいい子どもたちがいる――そのことが、しみじみとうれしいのです。

以前は「あって当然」と思っていた家具でさえ、夫の愛が形を変えたものだと思えるようになりました。

「この家もソファーもすべて、私が早くカナダでの生活に慣れるようにと、彼が一生懸命探してくれたものだ。私は愛を求めてばかりだったけれど、本当は、こんなにも多くの愛に囲まれていたんだ!」

夫への感謝と尊敬が深まり、私は今まで以上に、彼の素晴らしさを発見できるようになりました。そんな私の変化を見てか、夫も幸福の科学に入会することに。今では夫婦二人で「カナダの地に信仰を伝えていこう」と語り合っています。

夫と心を一つに、愛と信仰心あふれる家庭を育み、地域の方にも幸せを広げていきたいと思います


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米大統領選 共和党討論で際立った左翼マスコミのひどさブッシュ氏は終わりか?

2015-11-02 08:08:14 | 日記

◆米大統領選 共和党討論で際立った左翼マスコミのひどさ
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10412

アメリカ共和党大統領候補の第三回討論会が、このほど開かれた。討論会には、計10人の候補者が参加し、世論調査で1位、2位を争う不動産王のドナルド・トランプ氏やベン・カーソン医師、崖っぷちに立たされていたジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事やロン・ポール上院議員の姿があった。


◎ブッシュ氏は終わりか?

世論調査で支持率が下がりつつあり、窮地に立たされたブッシュ氏は、この討論会に賭けていた。しかし、討論の序盤、マルコ・ルビオ上院議員を批判したブッシュ氏は、激しい反論に遭い、議論に「負けた」という印象を残してしまった。

米メディアはこぞって「ブッシュ候補は終った」と報じた。マスコミは、ブッシュ氏が「臨機応変に答弁するのが苦手であり、口下手である」ことが問題の一つと指摘している。また米国民が、既存の政治家や「政治屋」に嫌気がさし、それがトランプ氏やカーソン氏など議員出身ではない“新規参入"の候補者の人気の基になっているという。

逆に、ブッシュ氏は「いままでと同じ政治家」というレッテルをはがすことができていないというのだ。大統領選の道のりはまだまだ長いため、結果は分からない。しかし、ブッシュ氏の大統領への道筋に黄信号が点滅していることは確かだ。


◎沸騰するマスコミ批判

しかし、今回の討論会でもっとも大きな批判を受けたのは、司会を務めたニュース専門放送局「CNBC」だった。3人の司会者が候補者に投げかけた質問は、「相手を悪く見せるような言い回しをしている」と批判された。

たとえば、「アメリカが抱える借金についてどう思うか」と聞くのではなく、「アメリカが抱える借金に関するあなたの見解は、あなたが大統領候補としてふさわしくないことを示しているのではないですか」などという言い回しの質問が続いた。

これに対して、討論中の候補者たちはお互いを批判するのではなく、「ひどい質問だ」「悪意がある」と、揃って司会者を批判した。

討論後も、共和党や他のマスコミだけでなく、視聴者からも批判が集中。ネット上では、「民主党を利するための偏向報道」「質問がひどくて、政策に関する議論が置き去りにされた」などという声であふれた。

CNBCは一般的に左寄りのマスコミとして知られ、「保守系の共和党候補を悪く見せようとしたのではないか」と指摘されている。

もちろん、テレビや新聞が大統領選の候補者たちに意見をぶつけることは必要だ。しかし、大統領候補同士の討論で、争点が「候補者の見識」よりも「質問のひどさ」に向かうようでは、マスコミとしては失格である。

民主主義は、良識あるマスコミが存在してこそ健全に機能する。マスコミが発信する情報を基に、有権者が人物を判断し、投票するからだ。今回の討論会は、その大切さを再認識する機会になったのかもしれない。(中)

【関連記事】
2015年8月7日付本欄 米大統領選 本格化する共和・民主両党の候補者選び トランプ氏も
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10011

2015年6月21日付本欄 お金持ちが政治をやるとどうなるか ドナルド・トランプの出馬表明から考える
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9778

2015年5月号記事 共和党の「アメリカを取り戻す」戦いが始まった - 米保守派の祭典 CPAC report
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9356


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日韓首脳会談 岸田氏、外相会談で慰安婦問題「解決済み」貫く

2015-11-02 05:14:32 | 日記

産経新聞  【ソウル=名村隆寛】日韓首脳会談を2日に控え、岸田文雄外相と韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相が1日、ソウルで会談し、双方は「日韓関係の前進につながる前向きな首脳会談にする」との認識で一致した。しかし、韓国側が解決を求める慰安婦の問題をめぐっては、岸田外相が「解決済み」との日本政府の立場を改めて強調したとみられ、最後まで詰めの議論が続いたもようだ。

 朴槿恵(パク・クネ)大統領は2013年2月の就任以降、慰安婦問題の解決を求め続け、安倍晋三首相との単独の会談には応じなかった。朴氏は先月末、一部メディアとの書面インタビューで慰安婦問題の「年内妥結」を主張している。

 これに対し安倍首相は「首脳会談で率直に話し合う」と表明。アジア女性基金の設立などを通じて問題解決に取り組んできた日本政府は、問題を最終決着して二度と蒸し返さないよう韓国政府に求めているが、首脳会談で具体的な合意に向かうかは不透明だ。

 首脳会談では、朴氏の名誉を毀損(きそん)したとして懲役1年6月を求刑された加藤達也本紙前ソウル支局長の問題がどこまで話し合われるかも注目される。


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<ロシア機墜落>空中分解か 広範囲に破片飛散

2015-11-02 05:02:38 | 日記

毎日新聞  【カイロ秋山信一、モスクワ真野森作】エジプトのシナイ半島で墜落したロシアの民間航空機に関して、旧ソ連諸国でつくる航空事故調査機関・国家間航空委員会のソロチェンコ氏は1日、空中で分解したとの見解を明らかにした。ロシア通信が伝えた。またエジプト紙は、砂漠の遊牧民が煙を出しながら飛ぶ航空機を目撃したと報じた。



 ソロチェンコ氏は1日、墜落現場の視察後、「機体の破片が約20平方キロの広範囲に飛散しており、空中分解した」との見方を示す一方で「墜落原因について結論を出すのはまだ早い」とも述べた。

 また、エジプト紙のアルゴムフリアによると、墜落現場から約30キロ離れた地域にいた遊牧民の男性らが黒煙を上げながら飛行する機体を目撃。同機は約2分間飛び続けた後に落下し、墜落現場周辺から炎が上がったという。

 エジプト当局は1日時点で、墜落現場から163人の遺体を収容した。また、回収したブラックボックスの分析作業に着手した。分析にはロシア人や事故機の製造元であるエアバス社の専門家も加わる。

 墜落の経緯を巡って、政府系紙アルアハラムは、事故調査委員会のトップが「操縦士が技術的な問題を管制当局に報告し、ルート変更を求めていた」と述べたと報道。一方でカマル民間航空相が31日の記者会見で「乗員から救難要請はなく、交信も正常だった」と説明するなど情報が錯綜(さくそう)している。また、露テレビ局NTVは、墜落機の副操縦士の元妻の話として、副操縦士が出発前に娘と電話で会話した際、「機体の状態があまり良くない」とこぼしていた、と報じた。

 またシナイ半島を拠点とする過激派組織「イスラム国」(IS)の分派が31日、シリアでの露軍の対IS空爆に対する報復措置として「ロシアの航空機を墜落させた」と主張する声明を出したが、エジプトのイスマイル首相は「IS分派に高度9000メートル超の航空機を攻撃する能力はない」との専門家の分析を根拠に懐疑的な見方を示した。

 AP通信によると、独ルフトハンザ、エールフランス、エミレーツ(アラブ首長国連邦)の各航空会社はシナイ半島上空の飛行を当面見合わせると決めた。

 タス通信によると、死亡した乗客・乗員224人のうち219人はロシア人で、ほかにウクライナ人が4人、ベラルーシ人が1人。ロシアの民間航空史上で最悪の事故となり、1日は「服喪の日」に指定された。ロシア政府は現場の遺体収容のため非常事態省の救助隊員ら約80人をエジプトに派遣した


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