元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

失明した私でも、努力で道が開ける!!

2015-11-22 19:47:27 | 日記

http://voicee.jp/2015052911118

家業を継ぐ夢

私はみかん専業農家の長男として生まれました。

幼い頃の私には、果樹園は恰好の遊び場でした。小学生の頃、木登りに夢中になりました。

木に登れば登るほど高くなってしまう空や、遠く有明の海から吹いてくる風の気持ちよさ、どこまでも広がる景色に吸い込まれ小さくなっていく自分──。

自然の底知れぬ大きさを感じ、中学生の頃には、「将来、立派な果樹栽培者になるけん!」と決意し、自ら進んで農業高校に進学しました。

1年生のときに、弁論大会で農業の今後の展望と自分の夢について語り、県の最優秀賞を受賞。先生方も私の意欲を買って、いろいろと応援してくれました。

すべてが順調のはずでした。

運命の一日

高校2年の秋の日。夕方、急に黒板の字がぼやけてきて、よく見えなくなりました。

「よう見えん。今朝は普通に見えとったのに」

それまで両目とも2.0あった私は、近眼とはこんなに早く進むものなのかと驚き、町医者で診てもらいました。

「視力検査の結果は、左目が0.01、右目が0.9ですね」

翌日、私は学校を休み、紹介された熊本市内の国立病院に行きました。

「視力は低下していますが、視神経の病気の場合、片目にきても両目とも悪くなることは少ないですから大丈夫でしょう」

それからは、検査のために毎日通院することになりました。目に痛みもなく、はじめはそんなに深刻な病気だとは思っていませんでした。

ところが、日に日に信号の色が分からなくなり、通院の道のりが怖くなってきました。

「こんまま、見えんようになると?」

大丈夫だと言われていた右目までどんどん視力が低下。2週間後には、急遽、大学病院に入院することになりました。

やるせない日々

入院中は、検査と集中治療の毎日。視力は浮き沈みを繰り返しました。

入院から1カ月、ついに視力がゼロまで落ちました。心配した親戚や友人がお見舞いに来てくれましたが、私には誰が来たのかもよく分かりません。

「Sの父さんと母さん、仕事も手につかんばい」

「担任が、Sの病気を聞いて一晩泣いたげな」

「この子、親の顔も分からんようになってしもうて……」

両親は相当ショックだったようです。でも、私にはどうすることもできません。

「オレ、みかんつくりになるけん」と言ったときの父の嬉しそうな顔が、何度も、何度も頭に浮かびました。

約7カ月後、なんとか視野の外側がわずかに見えるようになったものの、それ以上の治療効果は見込めず、退院して自宅療養することになりました。

体は悪くないのに、することがないので、一日中寝ているような日々が続きました。ものが見えず、食事も、電話をかけるのさえも一人では満足にできません。家にこもって鬱々としている間に、どんどん時間は流れていきました。

ある日、私は急にみかん山が見たくなり、久しぶりに果樹園に行きました。

12月の厳しい寒さに耐え、収穫間際の果実をたわわに実らせた甘夏の木が、私のわずかに残った視界に映りました。

「あ、風──。小さか頃ば思い出すなあ」

いつも木登りしては感じていた懐かしい感触。かつて自然の大きさに打たれ、「将来、立派な果樹栽培者になる」と誓ったことを思い出しました。

「自分も、いい加減、何かせんばいかん」

そう決意した夜のことです。

「なあS。盲学校に行ってみんか」

「盲学校──。こんな自分にも行けるところがあるとね」

父の言葉にハッとしました。

発病して、先のことなど何も考えられなくなっていた自分。ようやく私は、まだ高校生活が途中だったことを思い出したのです。

新しい生活

私は、4月から2年遅れで盲学校の2年生に転入しました。

盲学校とはどんな感じなのか不安でしたが、読み書きできる生徒もいれば、好きな歌手の話をしたり、走り回れる生徒もいました。

「前の学校とあんま変わらん……」

私は、視覚以外の感覚器官で補うことを覚えていきました。道を渡るのに、人に合わせて渡ることや、情報の整理の仕方、点字図書館やパソコンの音声案内……ものすごく世界が広がった気がしました。

やがて親しい友人もでき、休み時間などによく話をするようになりました。

ある日、友人が『神霊界入門※』という本を持ってきました。

「今日は、この本を読んであげるね」

自分で本が読めない私は、比較的見えるその子に読み聞かせてもらえる時間が楽しみでした。

生まれ変わりのことや、天国や地獄について……。不思議な話が次々と出てきて、「へえ、あの世って、そうなるとや」と感心しながら聞きました。

それから、私たちの休み時間は読書が恒例となったのです。

※室町末期の女性、小桜姫の霊言。現在、『大川隆法霊言全集』第26巻、第27巻に所収。

新たな希望

『神霊界入門』の次は『太陽の法』という本でした。

仏とは何か、大宇宙の構造、守護・指導霊の存在……。

『太陽の法』に書かれていたことは、初めて聞く話ばかりで、私は休み時間が待ち遠しくてなりませんでした。しかし、まもなく夏休みに入って中断。

どうしても続きを知りたかった私は、自分で『太陽の法』を買って、家族に読んでもらいました。

「人間は、生きてゆく過程において、さまざまな困難にぶつかります。つまり、そうしたなかで、魂の修行をしていくわけです。これは、あらかじめ計画されていることです」

「魂にとっての修行」という教えに衝撃を受けました。

「──目のことを自分で計画してきたかは、分からんと。ばってん、見えんなかでもできる努力はあるとよ……」

それからしばらくして、また弁論大会があり、私は再び出場しました。

「私は、日本一の果樹栽培者を目指す途中で失明し、一時は無気力になりました。だけど、盲学校という新たな道に進み、そこでできる努力があると気づきました。いま、点字という手段を身につけようとしていて大変だけど、『ここから将来が開ける』と思うと、日々が充実しています……」

将来の夢、挫折、そして立ち直り――。

自分の気持ちを正直に語った弁論は、大きな反響があり、全国で最優秀賞を受賞しました。

不思議な縁

高校卒業後、そのまま鍼灸・マッサージの資格をとる専門課程で3年間学び、無事、点字で鍼灸の国家資格を取りました。さらに技術を訓練したいと思い、全寮制の鍼の研究機関のある東京に出ました。

寮生活にもなじみ始めた頃、私より1つ年上の研究生から声をかけられました。

「『太陽の法』っていう本のテープがあるんだけど、とってもためになるから聴いてみる?」

「知ってる!それって幸福の科学でしょ?」

「そう、これ、ボランティアの方が吹き込んでくれたんだ」

遠く故郷を離れた東京の地で、まったく別の人から『太陽の法』を勧められるとは思いもよらず、不思議な縁を感じました。

私は、早速借りてきたテープを聴きました。

すると、初めて『太陽の法』を読んでもらったときの感動がよみがえってきます。

「この教えをもっと学びたい!」

いてもたってもいられなくなり、支部に連れていってもらいました。そして、幸福の科学に入信したのです。

それから、大川隆法総裁の講演会のビデオやテープで仏法真理を熱心に学びました。

「肉体に障害があっても、魂は健全である」「睡眠中には魂が肉体を抜け出して霊界に還っている」というお話を聞いたときには、納得するものがありました。

「夢のなかではちゃんと景色や相手の顔が見えてる……。やっぱり、魂が本質っていうのはほんとうなんだ!」

真理への確信を深め、私は幸福の科学の青年部で活動するようになりました。また点訳のボランティアの方のご好意を受け、点字を使って、私と同じように目の悪い方にも仏法真理を伝えるお手伝いを始めました。

その後、私は青年部で一緒に活動していた女性と結婚し、クイックマッサージのお店に就職しました。

未来のために種をまく

会社勤めには、初めのうちは戸惑うことが多くありました。

職人肌の父親の影響もあってか、ひたすら鍼の腕を磨くことに専念してきた私は、人と協力して仕事を進めるのが苦手でした。

社長からは、「あなたは鍼の技術にこだわりすぎて、考え方も狭い。鍼の技術だけに依存しなくなったら、もっと素晴らしくなると思うよ」と指導されました。

それは視力以前の問題です。

周囲の人との協調が苦手な原因を反省すると、「結果を早く出したい」という気持ちが人一倍強いことに気づきました。

目が見えないと、人の何倍も時間がかかることが多く、なかなか結果を出すことができません。それが焦りにつながり、自分のことばかり考えてしまうようになったのだと気づきました。

「治療には、いろんな手段や方法、患者さんの立場だってあるのに、いつの間にか自分本位の治療をしてきた──」

大川隆法総裁のテープを聴いていて、転生輪廻の思想にふれたとき、思いました。

「今世の生き方が来世を決める……。そうだ、今は、来世への種まきでもあるんだ。結果がすぐに出なくも、努力が無駄になることはないんだ」

そう思って淡々と努力するうちに、結果を焦る気持ちもおさまっていきました。

仲間の優しさが身にしみて

努力が認められたのか、やがて店長を任されるようになりました。しかし、この時期は仕事も家庭も大変でした。

マッサージの技術も磨き、関連店舗、3店の各スタッフに技術指導をする多忙な日々。

一方、家庭では、長男が誕生。私への手助けと育児で相当負担をかけていた妻は、精神的に参ってしまいました。

しかし、辛かったこの時期に身にしみたのは、「できることがあったらするから、何でも言ってね」と気軽に声をかけてくれる仲間のありがたさでした。

私は、目が見えない分、人の手を借りずにがんばろうと努力してきたつもりです。でも、多くの方々に支えられていることに気づき、人の優しさは素直に感謝の思いで受け、その分、自分もお返ししていけばいいと思ったのです。

「これが、幸福の科学で教えられている、愛を与え合うことの素晴らしさなのだ」と、胸が熱くなりました。

「私も後進への指導を通してお役に立ちたい」「癒しを求めている方をサポートしたい」という思いが強くなっていきました。

夢の実現に向けて

社員の育成が軌道に乗りはじめた頃、もっとマネジメント能力を磨かなければいけないと考えた私は、総本山・未来館の研修を受けに行きました。

研修で心を見つめていくうちに、私はその場その場で人を立てようとするあまりに指導が甘くなったり、時間にルーズになりがちなことを反省しました。

また、管理職として真に部下を生かすための厳しさや、患者さん自身の立ち直る力を信じる心など、大事なことを、一つ、また一つと気づかせていただきました。

「完全な人はいない」と学んでいるけど、それは、「これから素晴らしくなる可能性がある」ということでもある。自分が関わり合いをもつことで、何かしらの手助けをしたい、それらすべてが治療なんだ。そう実感しました。

研修後、しばらくして盲学校から、校外臨床実習の生徒を受け入れることになりました。

「治療家として、しっかりとした技術を身につけることは、第一ですが、患者さんの立場に立った治療をするためには、自分のなかに“心の柱”を持つことがとても大切です」と語りました。

「心に柱をつくるには自分を見つめることが大切です。そして、努力が心の柱をゆるぎないものにし、これから出会う人々との関わりを支える力になるんですよ」

施術の指導をしながら、心構えについて話すと生徒たちもやる気が出てくるのが分かりました。

最終日。生徒から今後の抱負を聞きました。

「治療家としての心構えや患者さんに接する心など、どれだけできるか分かりませんが、S先生の優しい手に少しでも近づけるようがんばります」

生徒たちが着実に成長する姿が嬉しくてなりませんでした。

実習後、学校から「生徒たちが、人が変わったようになって帰ってきました。どういう取り組みをしてくださったのですか」という問い合わせがきました。

そこから話が進み、学校に講義をしにいくことに。

あるとき、雑誌の記事で紹介されたのをきっかけに、自社でも社外向けに講習会を開くことになりました。

ハンディもプラスとしてとらえられる

私は、今、明るい未来を確信しています。目が見えなくても、理想を描くことはできますし、実現のための努力もできます。

人一倍の努力は必要かもしれません。でも、努力が無駄にならないと知って、どれだけ自分の魂を成長させることができるかを考えたら、ハンディもプラスとしてとらえられるようになりました。

大川総裁、ほんとうにありがとうございます。これからも、自分にできるかぎりのお返しの人生を歩んでいきます。


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力強く慈悲にあふれた自己責任の教え

2015-11-22 19:47:11 | 日記

http://voicee.jp/20121003241

幸福の科学では特徴的な教えがいくつかありますが、私はそのひとつが自己責任の教えだと思います。

私が本格的に幸福の科学の教えを学びはじめたのは大学生のとき。

最初、幸福の科学の職員さんに「自分の幸不幸は基本的に自己責任だ」と言われたときは、冷たい宗教だなぁと思ったものです。

ですが学びを深めていくと、むしろ限りなく愛深い教え、慈悲深い真理であることに気づいたのです。

私には高校時代、友達で拒食症の子がいました。
なんとか救いたくて、右往左往したのですが、救えませんでした。


心理学を少しだけですが、かじったりもしたのですが、それによると、その原因は母親との葛藤、母親の愛情不足であることが多いそうです。

そこで彼女のお母さんにもお会いしました。
だけどお母さんも決して恵まれた環境には育っておらず、むしろ同じようにある意味の愛情不足であることがわかりました。

そのとき疑問を感じたのは事実です。
人のせいにしても問題は解決しないのではないかと。
ただ、やはり彼女は被害者であるという意識が抜けることはありませんでした。

その後、幸福の科学の教えを学んですべての謎がとけました。

なぜ人間はその生まれ育った環境に違いがあるのか。
不公平ともいえる差があるのか。

すべては縁起の理法、原因結果の法則に則っており、過去世も含めて、その心に蒔いた種とその育て方によって幸不幸が分かれている。 その心の傾向性が、思いが、現象としてあらわれているのだと。

そしてそれは仏が罰しているのでもなんでもなく、自分の潜在意識がのぞんだ環境なのだと。

逆に自分の心を変え、良き種を蒔けば、心が変わり、環境も変わっていく。

それが心にストンと落ちた時、人生が拓ける感覚をおぼえました。

自分の心も人生も、自分自身の努力によって救うことができる。

力強く慈悲にあふれた自己責任の教えが、私の未来に希望を与えてくれました。


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呆れた不見識…野田聖子氏の「南シナ海は関係ない」発言に批判の嵐

2015-11-22 18:24:37 | 日記

 もう首相の座は諦めたのだろうか? 自民党の野田聖子前総務会長が、南シナ海で中国が進める岩礁埋め立てなどを「直接日本と関係ない」と発言したことに対し、党内で厳しい批判が起きている。

南シナ海は重要な日本のシーレーン(海上輸送路)である上、「国際法を無視して強引に領土・領海の拡張を図る中国への基本的認識があまりにも低すぎる」(党幹部)からだ。


野田氏に近い議員ですら、「首相を目指す資質が欠けた…」とあきれている。

 問題の発言は、11月4日放送のBS日テレ番組で飛び出した。野田氏は今後の日本外交について「日本に力を持ってして外交を進める余力はない。

対話に次ぐ対話だ」と主張。特に南シナ海のスプラトリー(中国名・南沙)諸島で人工島造成や軍事拠点化を進める中国に対しては「南沙の問題を棚上げにするくらいの活発な経済政策のやりとりとか、互いの目先のメリットにつながる2国間交渉をしなければならない」と力説した。

その上で「(南沙は)直接日本に関係ない」と言い放ったのだ。「南沙で何かあっても、それは日本に対してのメッセージでない」との見解も示している。

 言うまでもなく、日本は原油輸入の約8割を中東地域に依存しており、そのうち約9割が南シナ海を経由して運ばれてくる。経済産業省幹部は「南沙で有事があり、日本のタンカーが周辺を航行できなくなった場合、フィリピンの東側を大きく遠回りできたとしても輸送日数の長期化に伴う原油高は避けられない」と指摘する。

南シナ海沿岸には東南アジア有数のコンテナ船のハブ港も多く、有事となれば工業製品を輸入する日本のビジネスモデルにも影響が出かねない。

 そもそも野田氏の発言には、軍事力と外交や経済がどういう相関関係をなしているのか、決定的な認識不足があると言わざるを得ない。

 平成27年版の防衛白書によれば、中国の国防費は5年連続で10%以上増えた。公表された国防費だけでも、1988年度から27年間で約41倍だ。

中国が南沙で横暴な態度を取るのは、軍事力の整備に比例しているのは明らかだ。中国公船による尖閣諸島(沖縄県石垣市)での領海侵入や、東シナ海の日中中間線付近でガス田開発を進める姿勢にもつながる。

 野田氏は番組で「貿易や人的交流、科学技術の供与など、まず日本の得意分野で中国との溝を埋めるべきだ」とも指摘した。

発言の背景には「安倍晋三首相が日中関係の改善に後ろ向きだったことへの不満」(野田氏周辺)もあるのだろう。

 しかし、日本の国益を損ないかねない振る舞いに目をつむり、優しく接するだけでは国民の安全は守れない。

これは外交の基本中の基本だ。そもそも野田氏は、日米安全保障条約の役割をどう理解しているのだろうか。

党総裁選で、一度は野田氏の推薦人になることを了承したある議員は、今回の発言に「民主党の鳩山由紀夫元首相や韓国の朴槿恵大統領と雰囲気が重なり、頭がクラクラした」と肩を落とした。

 野田氏は意見の多様性を否定しがちな党内をズバッと批判する一方、若手女性議員らへの世話、気配りを欠かさない人物だ。党内では「姉御」と呼ばれ、信望もある。安倍首相もそんな野田氏を見込んで、党三役に抜擢したのはわずか3年前のことだ。

 確かに、組織には「多様性」は必要だろう。しかし国民の安全に責任を持つ一国のトップリーダーを目指すなら、許される多様性の範囲にも限度がある。鳩山氏のように道理が通じない“宇宙”にこのまま行ってしまうと、簡単には戻れないだろう。(政治部 水内茂幸)

 野田氏のBS番組での外交に関する主な発言は以下の通り。

 「今回、安倍首相が久しぶりに日中韓や、日中・日韓の首脳会談ができたことは本当にうれしく思っている。日本の将来を考えると、これだけ労働力(人口)がなくなるということは、力を持って外交を進めていく余力はない。対話につぐ対話が大切だ」

 「日本は何よりも科学技術をはじめとして、経済力も勝っている。そこを武器として取り組んでいかなければならないのでないか。


中国も韓国も、私たちと同様に経済に不安を抱えている。そこが1つの突破口となる。それについて、南沙の問題を棚上げにするくらいの活発な経済政策のやりとりや、お互いの目先のメリットにつながるような2国間の交渉などをやっていかなければならない。大人の知恵として」

 --経済の関係が深くなっても、中国は埋め立てをやめないのでないか

 「そこは直接日本に関係ありません。あまりそんなに(南沙問題に)コミットすることはないわけで、むしろ日本ができることは、貿易または人的交流、科学技術の供与とか、そういう得意分野で中国との溝を埋めていくことが今一番に求められることだと思っている」 

 「今、確かに安全保障法制はできたが、まだまだ不完全。国民にとっても100%応援していただける環境にない。このまま自衛隊の人に無理やり何かをさせることは、逆に今後の自衛隊の動きを阻むことになる。

それとリンクさせずに、ここは冷静に、南沙で何かあっても、それは日本に対してのメッセージでない。日本は独自路線で対中国、対韓国との日本らしい外交をしていくことに徹すべきだ


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継母との葛藤が解けた!自分が変わればまわりは変わる

2015-11-22 18:01:05 | 日記

http://voicee.jp/201311066374

父の再婚

 私が小学校2年生のときに母が亡くなり、その後、父は男の子の連れ子を持つ女性と再婚しました。
 家族が増えてうれしかったのもつかの間、しつけの厳しい義母に対して、私はなかなか心を開けず、家族の中がぎくしゃくするようになりました。


 特に、弟へのあたりが厳しく、「なんでできないの!」とすごくヒステリックに怒ることもよくあり、私はおびえて、弟をかばってあげられませんでした。


 次第に会話も減り、義母の機嫌が悪い日には、「おはよう」や「行ってきます」さえ言えない、息苦しい家庭でした。


 そして、弟は体が大きくなるにつれ、次第に非行に走り、どんどん手がつけられない状態になってしまったのです。


しまったままの手紙

 私は、何とか義母との葛藤を解消したいと思い、幸福の科学の精舎で行われている「両親に対する反省と感謝」の研修に参加。


 研修の中では、お母さんのいいところを見つけようと意識すると、「いつもおいしいご飯を作ってくれている」「子育てと両立して、一生懸命働いてくれている」などとたくさんいいところを思いつきます。


 そして、研修の最後に「母への感謝の手紙」を書きました。
 しかし、家に帰っても、義母に手紙を渡すことはできず、同じ研修を、繰り返し受ける度に、手紙は引きだしの中にたまっていく一方でした。


 それでも、心の中では少しずつ変化が起きていました。
 義母の言葉を間に受けて、カッとなったり、恨んだり、悔しくて泣いたりする回数は減り、「お母さんもいきなり子どもがふたりも増えて、大変なんだろうな。

親だって悩みはあるんだろう」と理解する気持ちが、じわじわと心に溜まっていったのです。


実の娘でもないのに……

 同じ研修を重ねて、何度目のことだったでしょうか。
 「人間は自分の魂を成長させるために、人生計画を立てて、生まれてくる。きっと私も何か意味があって、義母と親子になったんだろうなぁ」と考えていたときに、「私が義母を幸せにしてあげよう」という思いが溢れてきたのです。


 それは、私にとって、大きな気づきでした。
 研修から帰っても、その思いは続き、より義母への感謝の気持ちは深まっていきました。

 それから数週間後のある朝――。
 私に対して、義母が「何でこんなこともできないの!」と、ヒステリックに怒り始めました。


 いつもなら何も言い返せず、「ごめんなさい」と、その場を受け止めて終わるところです。
 でもその日は、「今だ!」と思ったんです。


 そして、勇気を出してひと言、「お母さん、実の娘でもないのに、叱ってくれてありがとう」と伝えました。


泣き崩れた義母

 その言葉を聞いた途端、お母さんは、その場で泣き崩れてしまいました。
 「ごめんなさい」と言って――。


 その姿を見て、「お母さんも、やっぱり悩んでたんだ。つらかったんだ……」と思い、私も声を出して泣きました。ふたりの間にあった高い壁が、一気に氷解したのです。


 あとで聞いたのですが、その日、お母さんは会社の同僚に「うちの娘はすごくできた子で、私がこんなふうに怒っても、『ありがとう』って言うのよ」と、私のことをほめてくれていたそうです。


 その日を境に、ピリピリしていた家族の空気も変わり始めました。


 洗濯物をたたむのを手伝いながら、「お母さん、今日こういうことがあってね。学校で友達がね……」と話したり、一緒にお買い物に行ったり、普通の親子のように、自然体でそばにいられるようになったのです。

日常の何気ないことが本当にうれしくて、毎日幸せをかみ締めていました。
 その後、義母は弟ともとても仲良くなり、弟は更生し、今は真面目に働いています。


自分が変わればまわりは変わる

 親子はお互いに学び合い、成長するために、約束してきた関係だと思います。


 継母との葛藤はとてもつらかったですが、本当に「自分が変わればまわりは変わる」し、「どんなにつらい状況でもできることはある」ということを気づくことができました。

 世の中には、実の子どもでも虐待してしまう親もいます。血のつながりなんて、本当に関係ないんだって、心からそう思います。


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「取り越し苦労をやめよう」 幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋

2015-11-22 18:00:30 | 日記

福の科学大川隆法総裁 の御法話の一部です。書籍「奇跡の法」収録。天使のモーニングコール「取り越し苦労を­やめよう」に含まれています。 http://www.tenshi-call.com/ 

下のアドレスをクリックしてください。


https://www.youtube.com/watch?v=j7jiE51fkKs


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「正義の国・日本!」—満州事変から大東亜戦争まで【2】

2015-11-22 17:59:42 | 日記

「正義の国・日本!」—満州事変から大東亜戦争まで【2】(全3回)[HRPニュースファイル1488]

http://hrp-newsfile.jp/2015/2451/

 文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹

 ◆日中戦争の経緯(4)——[南京攻略]

日本は、首都をおさえれば蒋介石も講和に応じるだろうと考え、南京攻略を決断しました。

日本軍は、世界一の規律を守る人道的な軍隊でしたが、南京攻略戦でも、松井石根大将は、後世の模範となる行動をするべく全軍に訓令を出し、軍規を徹底して、終始、立派な指揮をしました。

日本は、住民に被害が出ないように、国民政府軍にオープン・シティ勧告を出しましたが、蒋介石は、勧告を受け入れず、市民を置き去りにして脱出してしまいました。

ドイツ軍に対するパリの如く、オープン・シティにすれば被害が出ないのに、しなかった責任は蒋介石にあります。

日本軍は、慎重に、攻略前にも投降勧告を出し、拒否を確認してから、1937年12月10日、攻撃を開始しました。蒋介石に任された唐生智(トウセイチ)将軍も途中脱出してしまい、日本軍は13日には城内に入り、17日には正式に入城式が行われました。

市民の多くは日本軍が来る前に南京城内から逃げ、逃げ切れなかった市民が第三国がつくった「安全区」に避難しました。日本軍占領後は「南京は安全だ」と分かり市民が戻り始めると、約1か月後には、人口は25万〜30万に増えています。

「南京大虐殺」という言いがかりは、中国共産党の覇権に悪用され、日本の自虐史観の原因にもなっていますが、東京裁判で、突如として捏造されたものです。東京大空襲や原爆投下の正当化のためにも、日本の戦争犯罪をでっち上げる必要があったからです。

日本人による虐殺など存在しなかったがゆえに、戦後になるまで噂さえ立たず、蒋介石も米英仏も、当時抗議したことがなく、多数駐在していた欧米マスコミからも指摘されず、東京裁判では実証できず、戦後出てきた「証拠写真」なるものは、すべてインチキと判明しているのです。

ハーグ陸戦規定により、便衣隊(ゲリラ)は、掃討し、処刑するのが国際常識ですが、これは虐殺とは呼びません。

 ◆日中戦争の経緯(5)——「欧米諸国の蒋介石支援」

日本は、上海、南京、広東、北京、天津、保定、武漢三鎮(漢口、漢陽、武昌)などの主要都市を皆占領しましたが、蒋介石は重慶の山の中に逃げていました。

米英ロシアが、資金、物資、兵器等を、蒋介石を支援し続けなければ、南京政府を作った汪兆銘と蒋介石を話し合わせ、日本軍が願い続けていた支那からの撤退が可能となったはずです。

ルーズベルトは、米退役将校シェンノート(中華民国空軍航空参謀長)の航空隊「フライング・タイガース」に、アメリカ人飛行士100人と飛行機500機の派兵までしました。日米開戦前の軍事的関与であり、重大な国際法違反です。

 ◆日中戦争(支那事変)は、日本の侵略戦争ではない

 

日中戦争は、すべて受け身で、支那側からの攻撃に対処していったものでした。

開戦責任は支那側にあり、日本陸軍は、引きずり込まれながら、一貫して終結を願い続けましたが、共産主義のスパイ活動、米英の蒋介石支援により、抜け出せなかったというのが真相です。

もし、支那事変が侵略なら、例えば、韓国軍が、突如、アメリカ民間人を大量虐殺し、在韓米軍を攻撃してきたため、米軍が救出に向かったら、アメリカは韓国を侵略したということになります。

そして、米軍が韓国に平和と秩序と繁栄を取り戻し、新たな韓国人リーダーを擁立して撤退しようとしても、もとの韓国軍が北朝鮮の山奥に立てこもり、中国やロシアが兵器や物資、資金を供給し続けるために、撤退できずにいたら、アメリカは韓国を侵略し続けている、ということになります。

つまり、支那事変が日本の侵略戦争なら、朝鮮戦争もベトナム戦争も、アメリカの侵略戦争ということになりますし、世界のほとんどの紛争を侵略戦争と呼ぶことになります。

ですから、支那事変を日本の侵略戦争とするのは不当であると結論づけられます


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「正義の国・日本!」—満州事変から大東亜戦争まで【1】(全3回)

2015-11-22 17:59:25 | 日記

「正義の国・日本!」—満州事変から大東亜戦争まで【1】(全3回)[HRPニュースファイル1487]

http://hrp-newsfile.jp/2015/2449/

 文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹

 ◆満州事変と満州国建国の経緯

コミンテルン(共産主義インターナショナル)にそそのかされた反日侮日運動が過激化し、張学良軍、馬賊、匪賊による、誘拐、略奪、恐喝が横行する満州で、1931年9月18日、一万数千人の関東軍は、30万とも45万ともいわれた張学良軍を追放しました。(満州事変)

政府や陸軍中央も知らないところで起きたのは問題であり、政治的リーダーシップの欠如(幣原外交)や明治憲法の欠陥(統帥権干犯問題)等、改善すべき点はあったにせよ、日本人居留民に危害が及ぶ危機的状況を、自衛のためにも解決せざるを得なかったというのが、満州事変の真相でした。

1932年3月、関東軍の主導で、清朝最後の皇帝溥儀(フギ)をトップに迎えて、満州国を建国しました。大臣たちは全員、満州人か清朝の忠臣としました。

1911年の辛亥革命で、満州族王朝清から、漢民族(シナ人)が独立し、日本公使館に逃げ込んだ溥儀の、切なる希望が満州国でした。満州国は、民族自決という観点からも理にかなっていたのです。

漢民族と満州民族は別の民族であり、万里の長城以北は、シナ固有の領土とは言えません。

シナを支配したことがある民族の故郷はシナの領土だと言うなら、インドを支配したことがあるイギリスは、インドの領土だという論理になるからです。

満州国は、「五属共和」(満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄)を建国の精神として、安定した治安、安心できる生産活動、商業活動を提供し、奇跡と言えるほど発展しました。

塗炭の苦しみに喘いでいた不法の土地、満州は、自動車や飛行機まで作ることができる一大近代国家、桃源郷へと変貌を遂げたのです。

 ◆満州事変と満州国建国は、日本の侵略ではない

もし、満州事変が侵略なら、例えば、チベットやウイグルをアメリカ軍が独立に導き、トップも大臣もすべてチベット人やウイグル人にし、実務は手伝って近代化を促し、人々があこがれる、安全で繁栄した理想的な国家ができたとしても、アメリカはチベットやウイグルに侵略したことになります。

この場合、アメリカ軍は、チベット人やウイグル人の夢である独立を支援し、繁栄と幸福をもたらしたと言うべきであって、侵略と呼ぶべきではありません。

満州事変と満州国建国は、人々に幸福をもたらした正当な行為であり、日本の侵略ではないのです。

 ◆日中戦争(支那事変)の経緯(1)——[盧溝橋事件]

1937年7月7日、「盧溝橋事件」は、蒋介石の国民政府軍に潜り込んだ中国共産党軍のスパイが、日本軍と国民政府軍の衝突を作り出し、「漁夫の利」を得るために発砲したことから始まりました。

それでも日本軍は攻撃せず、7月11日に事態収拾のための現地協定を成立させましたが、共産党スパイが繰り返す発砲に勘違いした国民政府軍が攻撃してきて、日本軍は「巻き込まれた」というのが真相です。

 ◆日中戦争の経緯(2)——[通州事件]

日本の不拡大方針が堅持される中、国民政府が一転して対日交戦を決定、7月29日には「通州事件」が起き、200人以上の日本人が、人間とは思えない方法で惨殺されました。

この報は日本にも伝わり、日本国民の怒りは頂点に達しました。

 ◆日中戦争の経緯(3)——[第二次上海事変]

盧溝橋で始まった事変は、北支事変として収束に向かいましたが、本格的な「支那事変」は1937年8月13日、上海地区における中国側の攻撃に始まりました。

日本の海軍陸戦隊約4千人が、軽武装で日本人居留民を守っているところに、コミンテルンの手先、張治中(チョウジチュウ)将軍が、約5万の大軍で攻撃してきました。

8月14日、蒋介石軍は、アメリカから提供された戦闘機で、シナ人を中心とする民間人がいるホテルや避難所を攻撃して、3600名余りを死傷させ、「キリスト教の中国が、異教の日本に蹂躙されている」イメージの情報戦を展開しました。

日本は通州事件のような惨劇を繰り返さないために、陸軍を派遣しましたが、蒋介石が招いたドイツのゼークト大将(防御陣地造りの権威)による作戦で、日本軍は約4万もの大損害が出ました。

その後、南京攻略への上陸作戦で、上海の背後を衝く形をとったことで、中国軍は総くずれになりました。


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両親との葛藤を克服したら、自分の中にある長所を発見できた!

2015-11-22 17:58:49 | 日記

両親との葛藤を克服したら、自分の中にある長所を発見できた!

http://voicee.jp/201310317186

 

私は、学生時代を通して、両親との葛藤があり、他人への恐怖心で苦しんでいました。
しかし、両親の離婚が転機となり、両親との関係を見つめ直し、自分に自信を取り戻すようになりました。

 

私の体験が、皆さまの参考になれば嬉しいです。

 

家でも学校でもつらい日々

 

私が家庭のことで悩み始めたのは、中学生の頃からでした。
親からは、人を責めるようなきつい言葉をいつも浴びせられていました。

 

家にいても楽しいと思える日が少なく、むしろ学校での授業のほうが楽しいと思えるぐらいでした。
とはいっても、学校ではいじめを受けていたので、毎日悲しい気持ちを抱えたままの生活で、私の心はどんどん追い詰められていきました。

 

「ヘルメス・エンゼルズ」の言葉を励みに

 

当時の私にとっての唯一の救いは、今も読み続けている「ヘルメス・エンゼルズ」という幸福の科学の機関誌でした。

 

この冊子に書いてあった、「誰も必要とされていない人はいない」ということを知ったときは、涙が出ました。

 

この言葉を励みに、クラスメイトが怖いと思っていながらも、学校は休むことなく通い続けました。

 

他人への恐怖心

 

しかし、高校、大学と進学するにつれて、私はだんだん人に対する恐怖心が強くなってしまい、うまく人と交わることができず、電車や学校の席などでは人の視線が気になるようになっていました。

 

親に対する恐怖心も強くなり、親から何かを言われると、なぜか怒りがとまらなくなったり、自分が本当に心の中で思っていることを言うことができなかったりして、自己嫌悪に陥ってしまいます。

 

あまり人を悪く思いたくない、という思いもあり、人との距離を置くようになっていたのだと思います。

 

いじめられていたときもやり返したりせず、両親とは、心のどこかで一線をおいて生活をしていました。

 

親子関係の壁は人生の問題集

 

大学を卒業したある日、幸福の科学の支部長と面談する機会がありました。
以前から支部長になら心を開くことができていたので、思い切って自分の本心を伝えてみることにしました。

 

すると、「親子関係の壁を突破することが、今のあなたの人生の問題集です」というアドバイスをいただきました。

 

それで、両親との葛藤を乗り越えたいと思うようになりましたが、すぐに解決できるわけではありません。

 

時には、あまりにもつらく、悲しくて涙がとまらなくなり、逃げたくなるときもありました。

 

自分は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に合わなければいけないのかと、環境を恨んでしまう気持ちもありました。

 

両親の離婚

 

そんな中、私の心を変える一大転機が訪れました。
両親の離婚が決まったのです。

 

離婚という事実を聞いたとき、あまりにも急だったので、私はショックを受け、初めて親の前で涙を流しました。

 

それと同時に、自分がどうしていいのかわからなくて、混乱してしまいました。
心を見つめたり落ち着かせるには、幸福の科学の精舎が一番だと思い、何泊か禅定宿泊(宿泊しながら精舎での時間を過ごすこと)に行くことにしました。

 

精舎では、館長さんや講師の方と面談をさせていただいたり、礼拝堂でお祈りをしたりして、自分の心を見つめる時間を過ごしました。

 

面談では、「今のあなたにできることは、最高の自己を差し出すことです」と教えていただきました。

 

抑え込んでいた父への気持ち

 

自分にできることは何か、最高の自己を差し出すとはどういうことだろうかと自分なりに考えたときに、ふと、両親に手紙を書いて渡そうと思いました。

 

ノート数枚の紙っぺらかもしれないけど、自分の思いを伝えようと決意したのです。
以前、「両親に対する反省と感謝」の研修を受けたときにも、手紙を書く機会はありましたが、そのときはまったく書けませんでした

しかし今回、礼拝堂で自分の心を落ち着かせながら紙に向かっていると、手紙を書くことができたのです。

 

抑え込んでいた父への気持ち

 

手紙を書きながら、それまで抑え込んでいた感情のようなものがこみ上げてきました。
礼拝堂で瞑想しているときにも、心の叫びのようなものが出てきたのです。
それは特に、父親に対する思いでした。

 

父は無神論者で、幸福の科学や幸福実現党の話をしても、その内容を信じることができない様子でした。

 

瞑想していると、まず、主エル・カンターレへの謝罪の思いが出てきました。
「お父さんを幸福の科学に導くことができず、ごめんなさい」という声が、心の中から聞こえてきました。

 

そして次に、父に対するお願い事のような思いが出てきました。

 

「お父さん、お願いだから幸福の科学を否定するのをもうやめて」と、泣きながら叫んでいる声が聞こえたような感覚がしました。

 

さらに瞑想を深めていく中で、仏の子としての両親の姿が見えてきて、これを機に、両親を許そうと思えるようになりました。

 

両親に幸せになってほしい

 

手紙を書き終え、両親に渡したところ、両親は喜んでくれました。

 

まだ家の中では荒々しい言葉が飛び交うこともありますが、以前より気にならなくなりました。
私は、自分にできることをやり遂げたという自信がついたのか、以前ほど、両親が怖いと思うことがなくなりました。

 

振り返ってみると、自分は両親が怖いと思っていたけれども、両親に幸せになってほしいと願う気持ちも、ずっと持っていたことに気づいたのです。 その気持ちに気づいて、自分にも素晴らしいところがあると思えるようになりました。

 

自分の中にある長所に気づく

 


私は、両親の離婚をきっかけに、両親に対する見方が変わり、自分の中にある長所を改めて発見することができたと感じています。

 

両親と普通に会話することができるようになったし、自己嫌悪になることも少なくなり、自分に自信が持てるようになりました。 少しずつですが、自分を好きになることができるようになってきました。

 

この体験を読んでいただきありがとうございました。
少しでも参考になれれば嬉しいです。



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怒鳴る父、パニック障害の母、脳腫瘍の妹……僕たち家族に光が差した日

2015-11-22 17:58:32 | 日記

怒鳴る父、パニック障害の母、脳腫瘍の妹……僕たち家族に光が差した日

http://voicee.jp/201402288674

大酒を飲んで怒鳴りちらす父、パニック障害に苦しむ母、脳腫瘍に倒れた妹、不安に揺れ動く、僕。10年にわたり、家庭に重くのしかかっていた闇。

しかしあの日……、映画が、僕らを変えてくれたのです。

嵐の始まり

あの優しかった父が変わってしまったのは、たしか僕が小学校に上がった頃のことです。

近くに住む祖父母と母の折り合いが急に悪くなり、家の中の空気がぎすぎすし始めました。朗らかだった母から、笑顔が消えていきました。やがて父も、お酒を飲んでは大声で怒鳴るようになっていきました。

でも、小学生の僕に何ができるわけでもありません。ただ毎日仏壇に手を合わせて、「お母さんや僕たちを助けてください」と祈るしかありませんでした。

父は敵なのか

僕が中学生になっても、父は相変わらずお酒を飲むと、別人のように豹変して大声をあげます。僕らは逆らうこともできず、いつもビクビクして暮らしていました。

やがて、母がパニック発作を頻繁に起こすようになり、僕は、好きだった父のことを、しだいに敵のように思い始めていきました。

「いったい、僕らはどうなってしまうんだろう」 

不安に揺れる日々の中で、ただ一つ、僕の心を支えてくれるものがありました。それは、昔、母が書店で見つけた『太陽の法』(幸福の科学出版)という一冊の本。読むと、波立った心が、不思議と落ち着いていくのです。

脳腫瘍で倒れた妹

そして、高1の秋。突然、妹が倒れたのです。

「お父さん!119番!」 

搬送先の病院に着いた時には、脳圧が高く、意識不明の状態に。検査の結果、手術の難しい眼球の後ろの部位に、大きな腫瘍が発見されました。悪性ではありませんでしたが、何日も危険な状態が続きました。

そして、14時間に及ぶ手術の末、ようやく妹は生命の危機を脱したのです。しかし、半身に後遺症が残りました。左手は開きにくくなり、左片足で立つことも難しくなっていました。

バレリーナになる夢

妹のKは3歳からバレエを始め、レッスンにも熱心に励み、発表会ではいつも主役で踊っていました。真剣にバレリーナをめざす妹にとって、後遺症は、あまりに厳しい現実だったに違いありません。

それでも、明るい性格の妹は、入院中も退院後も泣き言ひとつ言いませんでした。それどころか、世話をする母や看護師さんに、いつも感謝の言葉と笑顔を絶やさなかったのです。

しかし、翌年の春にひかえていた初のコンクール出場が絶望的だとわかった日、「一人にして」と言って、部屋にこもったきり出てきませんでした。妹の泣き続ける声が、1時間以上も部屋の中から聞こえてきます。妹の気持ちを思うとたまりませんでした。

母も、そしてさすがの父も、「自分が代わってやれるものなら」と深く心を痛め、眠れぬ夜を過ごしていました。

家の中は、さらに暗く沈んでいきました。

僕が何とかしなければ

母のパニック障害は、ますますひどくなり、外出もままならなくなりました。

「この家の中で、僕が何とかするしかないんじゃないのか」

その時、僕の心に浮かんだのは、時おり読んでいた幸福の科学の本。嵐吹き荒れる家の中で、僕の心を支え、希望の光を灯し続けてくれていました。

僕は、突き動かされるように真理を求めました。本を買う小遣いはないので、書店で、図書館で、次々と幸福の科学の本を読んでいきました。

「これが、僕が求めていたものだ。みんなを救ってくれる教えだ」 

僕は確信したのです。

幸福へのアクセス

ちょうどその頃、時々行く大きな書店に、幸福の科学の機関誌が平積みにされていました。「ご自由にお取りください」と書いてあります。

手に取った僕は、内容を見て驚き、あわてて持ち帰りました。

「お母さん、これにパニック障害を乗り越えた人の話が載ってる!」

ですが、宗教を持ち込んで、これ以上家庭に波風を立てたくなかった母は、取り合おうとしません。僕は、2度3度と母に勧めました。

「ありがとう、でも……」

心の弱っていた母には、一歩を踏み出す勇気が出なかったのでしょう。それでも、僕は、幸福の科学にアクセスしたかったので、自分の名前で、機関誌の巻末アンケートはがきを出しました。

何かが動き出す予感

翌月、Mさんという、近所に住む幸福の科学の信者さんが僕あてに新刊の経典を持ってきてくれました。驚いたことに、その人は僕の中学時代のクラスメートのお母さんだったのです。

Mさんは、しばしば我が家を訪ねてくれて、母と親しく話をするようになりました。その中で、映画「黄金の法」が公開間近であることを教えてくれました。

「せっかくだから、ぜひ、ご家族全員で観に行ってみて」

家族で映画?ありえないよ

公開日の翌日、僕はさっそく友だちと一緒に映画を観に行きました。

「すごかったよなー」

無数の天使たちが祈る中、主の光によってイエス・キリストが復活するシーン。僕は、圧倒的な光を感じ、興奮したまま家に帰ると、「映画に行こう」と母を誘いました。

「行きたいわね、でも……」

暗くて人の多い映画館なんかへ行ったら、またパニック発作が起こるかもしれないと、母は不安がったのです。ところが、横で聞いていた妹が話に乗ってきました。

「私、行きたーい」

そういえば、家族で映画に行ったことなんて、これまで一度もありません。もしも行けたら──。

「お父さんも誘ってみるか?」

行くなんて言ったら奇跡だよな、と思いながらも、提案してみました。

まるで冒険旅行だ

「ああ、行こうか」

すんなりと同意する父。

「え?」

僕も母も妹も、ことの成り行きに顔を見合わせました。

そして、あの日。なんだか、みんな少しだけウキウキしていました。

父が買ってくれた大盛りのキャラメルポップコーンを食べ終え、やがて、暗い館内のスクリーンに、黄金の「G」の文字が浮かび上がります。

僕たち家族は、主人公の少年少女と一緒に旅をし、仏の愛の大河を渡って行った……そんな気がしました。

「お釈迦様がよかったな」

映画を観終えてロビーに出ると、父はそう言って、突然釈尊のまねをしてポーズをとりました。僕たちは、思わずみんなで笑いました。家族が、何か暖かな光に包まれているような気がしました。

父へのプレゼント

「映画観てから、お父さん、顔が優しくなったよねえ」

妹の言葉に、僕も同感でした。父は、大きな声を上げることも少なくなっていきました。

そして、バラバラだった僕たち家族が、ときどき映画の話や、幸福の科学の話をするようになりました。父の仕事が休みの日には、近くの精舎に行って参拝をしたり、食事をしたりもしました。

ある時、父が精舎で1冊の本を手にとって見ていました。タイトルは『幸福の科学とは何か』。家に帰った僕は、夜、書店に走って行ってその本を買い、父に渡しました。

「サンキュー」

照れたように言った父は、その夜のうちに一気に読み終えると、「これいいわ、お前も読んでみろ」と言ってくれました。それまで本など読まなかった父が、貪るように真理の書籍を次々と読んでいきます。

「おれは間違っていた……」

切実な父の様子を目の当たりにして、みんなの心のしこりがとけていきました。

そして……。映画から3カ月がたった頃には、僕たち家族5人は、全員幸福の科学に入会したのです。

映画を観たあの日。それは、僕たち家族にとって、やはり奇跡の一日だったんだと思いま


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自分が変われば人や環境は変わる!

2015-11-22 17:58:01 | 日記

http://voicee.jp/201402208597

中学から高校にかけて私はずっとイジメにあい、自分に自信がなく、周りの人たちを責め続けていました。

でも、大川隆法先生の教えを学んでいくうちに、人や環境を責めてばかりいるのではなく、「何が原因なのか。どうやったらこの壁を乗り越えられるのか」と、自分自身でできることを積極的に考えるようになっていったんです。

また、「人間は神様に創(つく)られた存在で、みな魂の奥でつながっている」「他者の存在を抜きにして、自分の進歩も向上も幸福もない」という教えを学んでから、「他人の存在って、ありがたいんだな」と感じるようになりました。

そして、いろんな人たちの自分に対する厳しい意見にも素直に耳を傾け、自分の成長につなげていこうと行動に移していきました。

すると、励ましの言葉を向けてくれる人が出てきたり、応援してくれる友人ができたりして、どんどん葛藤や苦しみが消え、幸福感が大きくなっていったんです。

「自分が変われば、人は変わる」というのは本当なんだなと実感できました。

昔は、自分の幸せしか考えることができませんでしたが、今では他の人の幸せそうな姿を見るのが大好きです!

これが本当の喜びなんだと気づきました。伝道してくれたUさんには感謝です!


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肝臓ガンで主人を亡くして、でも死は永遠の別れではないと信じています。

2015-11-22 11:35:04 | 日記

肝臓ガンで主人を亡くして
(40代・女性)

http://voicee.jp/201311067454

出合い

 23歳の時のことです。当時、私は仕事帰りに、都内にあるクッキングスクールに通っていました。いつものようにエレベーターに乗っていると、「ここの生徒さん? がんばってね」と、スーツ姿の男性が話しかけてきました。

 「なんか、あたたかい感じの人だな」

 Kさんと初めて会った時、私は何とも言えない親しみを感じました。彼は、その学校を経営している会社の社員で、同じビルで働いていました。

ビル内で会うとニコニコ話しかけてくる彼。その後、デートに誘われ、お付き合いをするようになりました。

 15歳年上の彼のことは、「Kさん」と、先輩みたいに呼んでいました。話題豊富な上に、包み込むような優しさを持っていて、私はだんだんと心ひかれていきました。

 付き合い始めてしばらくした頃、彼が言いました。

 「Yちゃん、実はね、自分はC型肝炎という肝臓の病気なんだ」

 病名は耳にしたことがありましたが、詳しいことは知りませんでした。彼は、子どもの頃の輸血が原因でC型肝炎になったこと、肝硬変や肝臓ガンになる可能性があることを教えてくれました。

 「輸血のせいなんて、ひどいじゃない」
 「仕方ないよ。人より身体には気をつけないといけないけど、おかげで酒もタバコもやめられた」

 明るく淡々としている彼を見て、心の広い人なんだなと思いました。やがて、彼からプロポーズ。年齢差や病気のことから、私の家族は賛成しかねていましたが、私は彼と結婚する道を選びました


肝臓ガン

 結婚後、私たちは4人の子宝に恵まれました。しかも、全員男の子。心配に思われた主人の身体も、特に問題を起こすこともなく、ふつうに会社勤めを続けていました。

 しかし、ある夏のこと。体調不良を感じた主人が、念のために大学病院で検査入院をすると、ガンが発覚してしまったのです。肝臓ガン──最も恐れていたことが現実となり、私は目の前が真っ暗になりました。

 翌年2月、主人は実家に帰省している際に吐血をしました。静脈瘤が破裂したのです。現地の病院にそのまま入院し、余命1年と告げられました。悲嘆にくれる私に対し、主人のほうは少しも弱気になりませんでした。

 「一番下の子が、20歳になるまでは、絶対に生きるからな」

 そう言って、東京に戻ってから他の病院で違う治療を試みたりしました。

痩せて別人のように頬がこけ、腹水のせいでお腹が張っているにも関わらず、「疲れてないか? ずっと看てなくていいから、休みなよ」などと、いつも私のことを気づかってくれました。

 6月、主人は家族に見守られながら息を引き取りました。4人の子どもたち一人ひとりに声をかけ、「子どもたちのことを頼んだよ」と私に言い残して……。


観てもらいたい映画

 主人の死後しばらくは、葬式などで忙しく、落ち込んでいる暇がありませんでした。しかし、やがて落ち着いてくると、まるで心に大きな穴があいたようになり、何も手につかなくなりました。

 「あぁ、もうこんな時間……夕飯の準備しなくちゃ……」

 ふと気がつくと、一人でボーっとしている私。主人の面影を感じるものを目にしては、泣いてばかりいました。

このままじゃいけないと思い、私は、休職していた保険関係の仕事を再開することにしました。また、結婚前に鍼灸師の資格を取っていたことから、近くの鍼灸院でお手伝いを始めました。

 そんなある日、「子ども会のプリントを持ってきました」と、近所に住んでいるMさんが訪ねてきました。

Mさんのお子さんと、我が家の三男は同級生。何かと相談相手になってくれていました。そんなMさんから、映画に誘われました。

 「実はね、Yさんに、ぜひ観てもらいたい映画があるの」

 彼女が誘ってくれたのは、「黄金の法」という映画でした。映画なんて久しぶりです。気晴らしになるかと思い、私は、彼女と一緒に行く約束をしました。


止まらない涙

 映画の数日前、Mさんから「急用ができて一緒に行けなくなった」という連絡がありました。

申し訳ないと詫びるMさん。どうしようか迷いましたが、チケットは私の手元にあります。もったいないし、せっかくだから行ってみようかなと、私は映画館に足を運びました。

 始まってしばらくすると、スクリーンいっぱいに神秘的な宇宙の映像が展開され、その美しさに圧倒されました。

 「すごい! いったい、何が始まるの」

 まるで子どものように、期待で胸が高鳴りました。主人公の少年少女がタイムマシンに乗って、釈迦、イエス、モーセといった過去の偉人たちの時代へと旅立つ──。

手に汗握るストーリーに釘付けになるとともに、登場人物たちのセリフが心に残りました。

 特に、現代の日本に仏陀が生まれていること、人間は魂の成長のために何度も生まれ変わっていることに、心を激しく揺さぶられたのです。

涙がとめどなく流れました。こんなに何かに感動したことは生まれて初めてのことでした。


大川総裁のお話

 その後、Mさんから電話がありました。

 「映画、どうだった?」
 「それがね、感動して泣きっぱなしだったの。自分でも驚いた」
 「えー、ほんと! よかった! 今度、大川隆法先生のお話が聴けるんだけど、Yさんも来てみない?」
 「うん、行ってみる」

 あんなすごい映画をつくっている幸福の科学って、いったいどんなところなんだろう。

この目で見てみたい――。そんな思いで、幸福の科学の支部に行ってみると、私が思い描いていた宗教のイメージとは違い、とても明るい雰囲気で驚きました。

 「人間は霊的な存在であり、そちらのほうが本質です。人間は、長年、霊として生活しているのであり、それがほんとうの生活なのです。

……新しい人間関係や物質環境の変化のなかで生きてみて、新しい経験を得て、また霊界に還ってきます」(『神秘の法』第2章「憑依の原理」より)

 やさしい語り口でありながら、なぜか心に響いてくるお話でした。

  「霊界って、ほんとにあるんだ。そこに還れば、主人にもまた会うことができるのかな」

 その後、Mさんとは以前にも増して、家族ぐるみでお付き合いするようになりました。

 「長男の就職のこととか、気になることも多くて……」

 そう打ち明けると、Mさんのご主人が、長男に会って気軽に相談に乗ってくれたりしました。夫のいない私にとって、Mさん一家は頼りになる心強い存在でした。

 「こんなに何でも話せる人ができるなんて。法友(同じ法を学ぶ友人)ってすばらしいな」

 感謝の気持ちでいっぱいでした。

思いがけない一言

 幸福の科学で学び始めるようになると、信仰を持つことによって、心に安らぎが得られていくのを感じました。

 しかし、末っ子のTが小学校4年生の時です。

一緒に同級生の家に遊びに行くと、思いがけないことが起きました。


Tが、同級生のお父さんにぴったりくっついて離れないのです。私の目には、まるで父親に甘えているように映りました。「やっぱり、さみしいんだ」と、複雑な気持ちになりました。

 さらに、自宅で戦争の不幸を描いたアニメを一緒に観ていた時のこと。

 「Tくん、この時代と違って、今は食べるものがいっぱいあって、幸せだよね」
 「僕は幸せじゃないよ。だって、お父さんがいないんだよ」

 思いがけない一言に、私は、ショックで言葉を失ってしまいました。

 今でも両親がいる私に比べ、こんなに早く片親になってしまった子どもたち。

幸福の科学で、「夫婦や親子の縁は、天上界で約束して生まれてくる」と学んでいましたが、Tのさみしそうな姿を見るにつけ、私たちの子どもとして生まれてきて本当によかったのだろうかと、自信が持てなくなりました。


家族の絆が心にしみて

 「精舎でじっくり心を見つめると、人生についてのヒントが得られるよ」

 法友のみなさんにそう勧められて、私は総本山・正心館の「反省の指針・十箇条」を受けてみることにしました。研修の中で、自分の過去を振り返っていくと、ふと主人と交わした会話がよみがえってきました。

 「不思議だけど、Yちゃんと結婚することは、決められているような気がする。こういうのって運命というのかな」
「うん。私も、そう思うよ」

 それから、その言葉通りに結婚した私たち。

主人と初めて会った時に、とても懐かしい気持ちになったことが思い起こされます。


お互いに、目に見えない絆で結ばれていることを感じていたんだと、主人との縁の深さを感じて、胸が熱くなりました。

 さらに、4人の子宝に恵まれたことへの感謝がこみあげてきました。

私はもともと身体が弱い方で、中学生の頃から、点滴や鍼灸の治療を受けながら学校に通っていたぐらいです。

初めての出産で、検査のために採血した時など、貧血で倒れてしまったこともありました。

 「考えてみれば、あんなに身体の弱かった私が、4人も無事出産できたなんて、奇跡だわ。よっぽど、縁のある子たちに違いない。


それに、あの子たちが生まれる前、すでに主人は病気だった。それを承知で、苦労するのを覚悟で、私たち夫婦のもとに生まれてきてくれたんだ……」

 子どもたち一人ひとりの顔が思い浮かび、愛しくなりました。

 「みんな、お父さんとお母さんを選んで生まれてきてくれてありがとう。お母さん、がんばるからね」


懐かしい声

 また、支部で「霊人直伝メッセージ公案研修」を受けた時のことです。公案にそって、静かに自分の心を見つめていくと、主人の懐かしい声が心に響いてきました。

 「自分はとても幸せだった。いつも見守っているから、がんばるんだよ。ほんとうにありがとう」

 入院中はげっそり痩せていましたが、元通りのふっくらした笑顔が心に浮かんできました。「Kさんなのね? また会えてよかった──」涙がこぼれました。

 それからというもの、私は、子どもたちに仏法真理の話をするようになりました。特に、御本尊を拝受してからは、いつも仏の優しいまなざしを感じて、自然に信仰の話ができるようになりました。

 Tの前で、御本尊に向かって拝礼してみせる私。

 「Tくん、さみしい思いをさせてごめんね。でもね、お母さんたちには、“魂の親”がいるから、ほんとうはさみしくなんかないんだよ」

 「それにね、お父さんも、いつもあの世から見守ってくれているんだよ」
 「えっ、ほんと! お父さん、いるんだ」

 うれしそうなT。

 いつしか、子どもたちも御本尊に手を合わせ、お祈りするようになりました。

20歳になった長男も、弟たちの父親代わりをしてくれるようになりました。Mさんのご主人の経営する不動産会社に就職した長男は、高校に合格した三男に対して、「よくがんばったな。


合格おめでとう」と言って、お祝いのプレゼントを買ってあげるなど、家族を支えてくれています。以前に比べ、わが家は明るい笑顔があふれるようになりました。

苦しみを癒したい

 信仰のおかげで家庭も落ち着き、私は自宅で、以前から準備していた鍼灸の仕事を始めることができました。

毎日、様々な患者さんが訪れますが、そのなかには心に悩みを抱えている方がたくさんいます。治療中、ある患者さんが言いました。

 「主人をガンで亡くしてから、もう、あっちこっち痛くて。なんで、私ばっかりこんな辛い思いをするんだろうね」

 「実は、私の主人もガンで亡くなったんですよ。でも、私、主人があの世で見守ってくれていることを信じているんです。そうすると、また会える日まで、がんばろうって気持ちになります。死は永遠の別れではないんですよ」

 真理の話をすると、その方は涙を流しながら聞いてくれました。

「以前の私のように、真理を必要としている人がたくさんいる。もっと伝えたい――」。

悩み苦しむ患者さんたちを、少しでも癒すことができればいいな、と思って仕事に励んでいます。

 信仰は、私の人生に大きな希望をもたらしてくれました。

 主人を亡くし、子供どもたちの将来に不安を感じていた私が、一本の映画との出会いによって、人生のほんとうの意味を知り、幸福への道を歩み始めることができたのです。

 幸福の科学の映画には、人生を変える力が秘められています。私がそうだったように、これからも、映画をきっかけとして、人生に希望を持てる方がたくさん出られることを心から祈っています。(現在、「UHO学園の秘密}上映中です)


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すべては魂の糧だと知った時、勇気と希望が湧いてきた!

2015-11-22 11:26:15 | 日記

すべては魂の糧だと知った時、勇気と希望が湧いてきた!

http://voicee.jp/201402058561


私は数年前に離婚して、2人の息子を育てています。経済的に自立しなければならず、喫茶店や酵素風呂のお店など、いくつかの事業を手がけてきました。

副業としてヘルスケア商品などを扱う仕事を始めた時、そこで幸福の科学の信者の方に出会い、伝道していただいたのが入信のきっかけです。

その方は、お名前をSさんといいます。彼女の爽やかな人柄に惹かれて親しくなり、幸福の科学のラジオ番組「天使のモーニングコール」が収録されたCDや、映画「黄金の法」のチケットなどをいただくようになったのです。

映画「黄金の法」には、子供たちを連れて3人で行きました。「愛と勇気」をテーマに繰り広げられる壮大なストーリー展開と迫力の映像に、私も子供たちも大満足でした。

「映画とってもよかったです。チケットありがとうございました」と電話でお礼を言うと、Sさんはとても喜ばれて、翌日、私を東京正心館に連れていってくださったのです。

ギリシャの神殿のような壮麗な外観と、館内にいらっしゃる信者の皆さんの幸せそうな笑顔が印象的でした。その日、東京正心館で、Sさんから幸福の科学の教えについて、教えてもらいました。

人間は仏の子であり、この世とあの世を生まれ変わりながら、仏に向かって自分を成長させている存在であること。天国・地獄は実在し、仏の心にかなった生き方をすれば天国に、反した生き方をすれば地獄に行くこと。そして、すべての人々を救うために、仏が地上に降りられ、幸福の科学を創られたこと――。

初めて聞く仏法真理の内容に驚きましたが、Sさんを信頼していたので、素直に信じることができました。

「こうして今世、Mさんとお会いできたのも、過去世からのご縁だと思うの。一緒に仏の教えを学んでいきましょう」

確かに出会った時から、Sさんとは初めて会った感じがしませんでした。仏の導きを感じた私は、彼女の勧めに従って三帰誓願式(※)に臨んだのです。

式が始まった途端、ふわっとやわらかい光に包まれたような気がしました。「ようやく自分の居場所に帰ってくることができた」と感じ、涙が止まりませんでした。

(※)三帰誓願とは、仏(仏陀=大川隆法総裁)・法(仏の説く教え)・僧(仏弟子の集う集団とそのルール)の三宝に帰依することを誓うことです。

乗り越えられない苦難は与えられない

そして2カ月後、入信したての私の信仰心を鍛えることになる、ある出来事が起きました。当時、親しかった友人が事業に失敗し、多額の借金をつくって失踪してしまったのです。

失踪する直前、彼は「自分が死ねば保険が下りるから、世話になった人たちに迷惑をかけずに済む」と語っていました。私は「そんな考え方は間違っている。自殺した人は天国に還れないのよ」と学びたての真理を伝えましたが、彼は聞く耳をもってくれませんでした。

不安になった私は、幸福の科学の支部に駆け込み、支部長に相談しました。

「Mさん、人生は一冊の問題集です。どんな苦難・困難もその人にとって必要な問題集なのです。そして『仏は、その人が背負いきれないような問題は与えない』とも説かれているんですよ。それに、たとえその方が自殺して地獄に堕ちても、その地獄でさえ仏が支えられているのです」

そうだ。私たちは仏の創られた世界で修行している仏の子。何が起きてもそれは仏の手のひらの上で起きていることなのだ――。私は落ち着きを取り戻すことができました。

数日後、車を運転しながら、彼の行きそうなところを探し回っている時、町外れの道をとぼとぼと歩いている彼を見つけました。雨が降っているのに傘も差さず、荷物も何も持っていません。本当に死に場所を探していたようでした。私は彼を車に乗せ、支部長からアドバイスされた内容を伝えました。

今度は信仰者としての不動心が伝わったのでしょうか。彼は素直に私の話を聞いてくれました。

「背負いきれない問題は与えられないのか……。ありがとう、もう一度がんばってみるよ」

仏を信じ、仏の教えを伝えることで、自殺しようとしている人の生命を救うことができた――。そのことに、私は深い喜びを感じました。その後、彼は新聞の営業の仕事で地道に働きながら、コツコツと借金を返済しています。

広がる幸福の輪

この経験を通して、私は「真実の人生観を知らずに苦しんでいる人たちに、この仏法真理を伝えなくてはいけない」と真剣に思うようになりました。

私も伝道してもらわなければ、仏にたどり着けなかったかもしれません。そう考えると、「縁ある方々に、私がお伝えしなければいけない」という思いが湧いてきます。

2年あまりの間に、9人の方々を三帰誓願に導くことができました。さらにその方々が縁ある大切な方を伝道され、合わせて20人くらいの方々が入信。幸福の輪はどんどん広がっています。

人生は一冊の問題集――。私はこの言葉が大好きです。離婚してからは苦労も多く、以前は「どうして私ばかり苦労するんだろう……」と悲観的になることもありました。しかし、「すべては魂修行の糧であるのだ」と知った今では、困難に正面から立ち向かっていく勇気と希望が湧いてくるのを感じています。

これからも、与えられた魂修行の環境に感謝し、心の修行と伝道に精一杯がんばります


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2人の子供を亡くした女性が悲しみを乗り越えるまで

2015-11-22 11:24:22 | 日記

http://voicee.jp/201310196993

2人の子供を見送って

私たち家族は、幸福の科学の霊園である、栃木県那須郡にある「来世幸福園(らいせこうふくえん)」を訪れました。
ここに来ると、「あの世」は、この世と離れた場所にあるのではなく、すぐそこにある気がします。手が届くところで、あの世の人たちが手を振っている気がします。

私たち家族はここに来て、5人の納骨と法要をしました。
5年前に亡くなった2女の香菜、19年前に亡くなった長男の大樹。
そして私の母と、主人の父、私の叔母の5人です。


法要が始まると、天上界から燦々と光が降り注ぎ、5人の方々の「ありがとう」という声が聞こえてくるようでした。

死は永遠の別れではない。
この世で肉体が死んでも、あの世で魂は生きている。


そして、また愛する人と、あの世で再会することができる―――。
この幸福の科学の教えが、私たちにどれほど希望を与えてくれたことでしょうか。
振り返ると、2人の子供と過ごした日々が、走馬灯のようによみがえってきます。

お子さんをどうされますか?

大樹(たいじゅ)が私たちの子供として生まれたのは、19年前のことでした。
そのころ、私とお父さんは、とても夫婦仲が悪い状態でした。
しょっちゅうケンカばかりしていました。


自衛隊に勤務して、若いころはずっと船に乗って家を空けていたお父さん。
陸上勤務になっても、帰ってきたと思ったら、すぐに家を飛び出してしまい、家にいるということがありません。
3人の娘を抱えていた私は、いつも不満ばかりでした。

「もっと家族と一緒にいて、家のこともしてくれたらいいのに……」

お父さんが熱中していたのは、幸福の科学の活動です。
私も幸福の科学の本は読んで、いいことが書いてあると思っていましたが、なぜそこまでお父さんがのめり込むのかが理解できず、いつもお父さんを責めていました。

そんなころ、私は妊娠しました。
3女を産んでから7年。


待望の男の子です。
私もお父さんも、娘たちも、どれほどあなたの誕生を喜んだことでしょう。
予定日から2カ月以上も早く、私は出産の日を迎えました。


微弱陣痛のため、薬を使ってやっと生まれてきた、あなたの泣き声は、まるで猫の鳴き声のようだったと覚えています。


上3人の娘とは違って、あなたとは、なぜかすぐに会わせてはもらえませんでした。
そして、あなたは別の病院に入院してしまったのです。


その事実を私が聞かされたのは、何日もたってからのことです。
お父さんが医師に呼ばれ、こう言われたそうです。

「お子さんには奇形があります。おそらく長くは生きられないでしょう。この子をどうされますか?」
「どうされるとは……? もちろん、育てます!」

お父さんは力強く、そう答えたそうです。
私があなたと初めて会えたのは、生後半月もたったころでした。
集中治療室に入っていたあなたを、ガラス窓の外から、覗いてみました。


下半身をタオルにくるまれていたので、奇形だということは、分かりません。
あなたは、すやすやと眠っていました。

「かわいいやん」

私の言ったひとことに、お父さんはすごくホッとしたそうです。

障害の子を育てる覚悟

私たちは、大きな樹のようにすこやかに育ってほしいという願いを込めて、あなたに大樹と名前を付けました。
あなたの片方の足は曲がっていました。


手の指も、硬くて曲がらない状態でした。
でも、私たちを見つめてキラキラ光る黒目がちの瞳も、私の手を握り返してくる小さな手も、すべてが愛しく、余計に涙がこぼれてきました。

「どうして、大樹は、こんなことに? 子供は五体満足で生まれるものだって、なんの疑問もなく、信じていたのに……」

そんなある日、同じ病室の方とお話ししました。

「私の子供は、今年4歳になります。生まれてから一度も病院から出られなくて……」

その子も重い病気を持っていました。
見回してみると、ほかにも病院内には、大きな病気を抱えた子供たちが何人もいました。
病院に入るまでは、そんな子供たちのことを考えたこともなかった私です。

「私だけじゃない。もっと大変な人はたくさんいるんだ。泣いてばかりいたってしょうがない。もっと前向きに生きなきゃ!」

弱気な心を励ましながら、もう、決して泣くまいと、誓いました。
そのとき、ようやく私は、あなたを育てる覚悟ができたのだと思います。

離れた心を一つに

生後1カ月で、あなたはようやく集中治療室を出て、自宅に帰ってきました。
お姉ちゃんたちのなかでも一番の仲良しは、2女の香菜でした。
翌月には東京ドームで大川隆法総裁の御生誕祭がありました。


私たちは、家族そろって広島から参加しました。
そのとき、8歳の香菜が、ずっとあなたを抱いていてくれました。

「私がだっこする!」

あなたを中心に、娘たちが笑い合っています。
その様子を見て、お父さんも私も顔を合わせて笑顔になりました。
離れていた家族の心が、あなたのおかげで、一つになれた気がしました。

しかし、それから間もなくのことです。
大樹のおなかの横に、ぽっこりとした出っ張りが見つかり、私は急いで病院につれて行きました。
レントゲンを撮った医師が言いました。

「脱腸ですね。それより、肺のなかが真っ白です。すぐに入院してください」

それ以来、大樹はずっと病院で過ごすことになりました。

小さな体で闘う大樹

入院してからも、あなたは小さな体で病気と闘い続けました。
私は3人の子育てがあるので、大阪に住む私の母が、ずっと病院に泊まり込んで、あなたの付き添いをしてくれました。


母は介護の仕事をしていたので、率先して引き受けてくれたのです。
本当にありがたかったです。

そして土日は、私とお父さんが交代で、あなたに付き添いました。
お父さんは、仕事が終わると毎日病院にやってきて、あなたの足や手をさすっていました。
「足が、よくなりますように。手が、よくなりますように」そう言いながら、あなたに話しかけていました。


私はそんなお父さんの様子を見て、見直しました。
不仲だった私たち夫婦の心が、あなたのお陰で、だんだんと元に戻っていったのです。
あなたの呼吸が止まり、命の危険にさらされたことも、9回ありました。


そのたびに、私たちの祈りが通じ、あなたは生き返ってくれました。
しかし、入院して7カ月になろうとしたころ、もう、あなたは自力で呼吸をすることができなくなっていました。

「人工呼吸器をつけますが、お子さんがまだ小さいので、肺がつぶれる可能性があります」

医師の言葉に、あなたの痛みを思うと、苦しくて私の胸もつぶれそうになりましたが、口からは「お願いします」と、言葉が出ていました。
もう、長くはないのか……私もお父さんも、そう思いました。


でも、一縷(いちる)の望みにかけたのです。

頑張り通した10カ月の命

その後、あなたは人工呼吸器を付けたあとも45日間、生き続けました。
この45日は、私たちが心の準備をするために与えられたのだと思います。

「大樹は一生懸命生きようと頑張っている。でも、生き延びても、大樹の苦しみが長くなるだけなのかもしれない。ひょっとしたら、大樹は、私たちのために、頑張っているのかも……」

そう思うと、この世にあまり引き留めるよりは、あの世にお返しして、また健全な体で生まれ変わることを望んだほうがいいのかもしれない。
私もお父さんも、だんだんと、そういう覚悟を固めていきました。


それはつらく、悲しい時間でしたが、生の意味、死の意味を、心底考える時間でもありました。
最期の日、医師が告げました。

「この心電図の波形を見ていてください。止まったら、教えてください」

主人と医師の言葉を聞きながらも、私は心電図を正視することができなくなっていました。

「大樹、もう、いい……よ。ありがとう。よく頑張ったね」

私の口からその言葉を聞いた大樹は、安心したように、静かに息を引き取りました。
お父さんも私も、人目もはばからず号泣しました。

「大樹は、私たちの心の準備ができるのを、ずっと待っていてくれたんだね。ありがとう。よく頑張ったね……」

そのとき、不思議な光景を目にしました。
亡くなった大樹の足が、まっすぐになり、固まっていた手の指も、曲がるようになっていたのです。

「ああ……、あなたはもう、不自由な肉体を抜け出して、自由自在になったのね。もう、苦しむことはないんだね……」

涙に暮れながらも、新たな希望の灯がともったようでした。

大樹、ありがとう

告別式には、大勢の人が集まってくれました。
棺には、あの世で天使たちに導いていただけますようにと、幸福の科学の根本経典である『正心法語(しょうしんほうご)』を入れてあげました。


幸福の科学の仲間が、あなたのために、みんなで『正心法語』を唱えてくれました。

「大樹、よかったね……。私たちの子供として生まれてきてくれて、ありがとう……」

みんなに送られて、あなたの小さな命はあの世に還っていきました。
私たちは、あなたにいろいろなことを教えてもらいました。


あなたの闘病と死を通じて、私は幸福の科学の教えを真剣に学ぼうと思うようになりました。


それは、あなたの10カ月という短い命の「意味」を考えたかったからです。
もし、幸福の科学の教えがなかったら、私はずっと悲しみに暮れていたでしょう。
でも、私は信じることができました。

「人は、死んでも、あの世で生きている。そしてこの世に生まれ変わってくる」こと。
「障害を持って生まれてくるのも、その人の人生の計画であり、人生は一冊の問題集である」こと。


「この世に生まれてくることは、とても危険を伴うけれど、あえて勇気を持って生まれてくる。だから、その命を大切にしなければならない」こと。
「愛する人とこの世で別れることは、避けられない宿命だけれども、あの世できっとまた会える」こと。

こういった「霊的人生観」を知り、信じることで、どれほど私たちは救われたことでしょうか。
あなたの短い人生にも、きっと大きな意味があったのだと思います。


その証拠に、私たち家族は、あなたのおかげで、幸福の科学の信仰家庭として、一つになることができたのですから。


3人のお姉ちゃんたちも、身近なきょうだいの死を経験して、命の大切さや、あの世があることを、素直に信じるようになりました。
大樹、ほんとうに、ありがとう。


あの世で、きっとすくすくと成長しているよね。
あなたと会える日が、ほんとうに楽しみです。

2女との別れ

香菜、あなたは、とてもいい子でした。
高校までは、まじめで、勉強熱心で、やさしい子でした。
そんなあなたが大学に入って、髪を金髪に染めたあたりから、私とお父さんは心配しました。
案の定、大学3年で、「できちゃった結婚」をして、娘のRを産みました。

 

あなたは、お父さんに似て完全主義で、とても頑固なところがあります。
彼とは結局うまくいかず、別れてしまったのに、「自分で働いて、絶対に育てる」と言い張って、一生懸命にアルバイトをして、自活しようとしていました。


でも、そんな無理がたたって、あなたは心臓に持病を抱えるようになりました。
それを知ったのは、後のことでしたが……。

5年前の10月のことです。
まもなく定年を迎えるお父さんとともに、結婚以来、初めての、夫婦水入らずでの旅行に出かけました。


お父さんは、9年前に、過労からくる心臓病と脳卒中で、重い障害が残りました。右半身がマヒし、記憶障害と、言語障害になってしまったのです。

いつも自分ですべて完璧にこなさなければ気が済まなかったお父さんが、「何もできない」というのは、ほんとうに苦しそうでした。


しかし、幸福の科学で信仰していた私たちは、これも我が家にとっての大きな「人生の問題集」と受け止め、リハビリに専念しました。
寝たきりの状態から、立ち上がり、歩き出し、杖を使わずに歩けるようになりました。


ほんとうに奇跡のような回復ぶりでした。
記憶はまだ、あいまいなところはありますが、仕事にも復帰できたのです。

この旅行に出て、今までの楽しかったこと、つらかったことを、夫婦であれこれ話しながら、ゆっくりした時間を過ごし、私たちは帰路につきました。
あなたの異変を知ったのは、その旅行からの帰途、新幹線のなかでした。

長女からの電話でした。

 

「香菜が……香菜が倒れて、救急車で運ばれたけど、だめだったって……」

あまりにも突然の訃報。
私も主人も声が出ませんでした。


それからのことは、頭のなかが真っ白になって、あまり覚えていません。
つい数日前、我が家で香菜の誕生日のお祝いをしたばかりなのに。


ケーキにろうそくをさして、子供みたいに、娘のRと一緒に吹き消していた香菜。
いつもありがとうって、手紙をくれた香菜。
誰よりも頑張り屋さんだった香菜。

「香菜、どうして……?」

それから、葬儀の手続きが始まり、あわただしく目の回るような日々でした。

死は別れではない

あなたには、離婚したあと、お付き合いしていた男性がいました。
その彼に香菜のことを知らせると、出張先から大急ぎで駆けつけてくれました。

「今日、僕が帰ったら、香菜さんに言おうと思ってたんです。……。結婚、してくださいって……。それが、まさか、こんなことになるなんて……。お父さん、お母さん、いまさらですが、香菜さんを、僕に、ください」

そう言って泣き崩れる彼の姿に、私たちも、ただうなずくばかりでした。
香菜もきっとそれを望んでいただろうと、棺に、彼との婚姻届を入れました。

 

幸福の科学式の帰天式(きてんしき)で、多くのお友達に見送られて、香菜は旅立って行きました。25歳という若さでした。


お父さんはとても立派でした。
喪主として、涙をこらえながら、あいさつをしていました。

「親として子供に先立たれるということは、本当につらいことです……。でも、誰でも必ずやがては、この世を去る日が来ます。遅いか早いかの違いだけです。

あの世は、確実にあります。そう私たちは信じています。そして、子供たちも、あの世で元気で生きている。そして、いつか必ずまた会える。そのときを信じて、この世で私たちも、命あるかぎり、懸命に生きたいと思います」

そのお父さんの姿に、きっと香菜も、あの世から声援を送ってくれていたことでしょう。
その場に集まってくれた、あなたの友達も、10名以上の方が、幸福の科学に入信してくれました。「僕も、あの世は、あると思います」「私も、そう信じたい」そう言ってくれました。


あなたは、ほんとうに友達思いだったのでしょうね。
その後も、大学時代のお友達が何人も何人も、我が家を訪れては、あなたのことを語ってくれました。

「ほんとうに、やさしくて、頑張り屋で、しっかりした人でした」
「香菜さんに励まされて、私も頑張れました」

それから、あなたが亡くなって数日後に、幸福の科学の友達が、「実は、昨日、香菜ちゃんの夢を見たの」と話してくれました。

「香菜ちゃんは、『体を悪くして、とても早いんだけど、今世の修行を終えて、先に還ります。お母さんの娘でよかった。とても感謝しています。

お母さんのこと大好きでした。これからは、いつも天上界から見守っているからって、みんなに伝えて』と言っていましたよ」

それがあなたからのメッセージに間違いないと確信した途端、私は涙が涸れるまで泣きました。

いつかまた、めぐり会える日まで

あなたは、私たちにもうひとつ、大きなプレゼントを遺してくれました。
あなたの一人娘のRです。
Rは、あなたの子供のころにそっくり。


前から同居していたこともあって、あなたが今も「ママ」だけど、あなたが私を「お母さん」と呼んでいたので、Rはそれをまねして私のことをずっと「お母さん、お母さん」と呼ぶんですよ。
新しい我が子ができたようで、私たちはほんとうに喜びでいっぱいです。

Rも一緒に、来世幸福園に、あなたの三回忌の法要に行きました。
いつでも、あなたのことを思うと、すぐに通じる気がします。


この世とあの世は、離れているように見えて、そうではないのですね。そちらからは、こちらの世界が手に取るように見えるのでしょう。
香菜、短いこの世の人生でしたが、あなたなりに一生懸命に生きたよね。


あの世から、Rや私たちを見守っていてね。
そしてまた、あの世で語り合いましょうね。

大樹と香菜、2人の子を見送った私たちですが、今はもう悲しみはありません。
なぜなら、あの世は確実にあり、子供たちの魂は生き続けているからです。


幸福の科学の教えを信じることで、「死」は怖いものではなく、むしろ希望へと変わりました。
死は、この世からあの世へ還ることです。


あの世こそ、本来の私たちの住んでいる世界であり、この世の人生はわずか数十年の「旅」のようなものです。
そして、この世は「修行の場」ですから、苦しみや悲しみを避けて通ることはできません。


でも、その苦しみ悲しみを教訓とすることで、同じような立場で苦しむ方々に、幸福になる方法をお教えすることができます。

仏は、人々の悲しみもすべて受け止めてくださっています。
一切のものに仏の慈悲が宿っています。


この慈悲の世界を、多くの方に感じ取っていただきたい──。
そう願って、これからも伝道を続けていきたいと思います。
私たちのふるさとである、あの世に還る、その日まで。


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「私は君を憎まない。君の負けだ」 テロ犠牲者遺族のメッセージが共感を呼ぶ

2015-11-22 11:14:39 | 日記

産経ニュース 

【パリ=森浩】パリ同時多発テロをめぐり、被害者家族や事件に遭遇した関係者の悲しみは癒えないが、約90人が死亡したバタクラン劇場で妻を失った男性のメッセージが共感を呼んでいる。

妻への変わらぬ愛を打ち明けた上で、テロリストが望むであろう憎しみを抱いていないとあえて言及し、テロリストの負けであることを宣告している。


当事者はテロへの怒りを抱きつつ、立ち上がろうとしている。

 「金曜の夜、君はかけがえのない命を奪った。私の人生最愛の人であり、私の息子の母の命を」

 フェイスブックでテロリストへの手紙という形でメッセージを発信したのはアントワーヌ・レリスさん。バタクラン劇場で妻のエレーヌさんをテロリストに射殺された。

 13日に自宅からバタクラン劇場へと見送ったが、数日後、エレーヌさんは無言の帰宅となった。

 「今朝、何日も何日も待った末にようやく彼女に会えた。彼女はいつも通り美しかった。金曜の夜に去ったときと同じように。どうしようもなく恋に落ちてしまった12年前のように」


 愛する人の命を奪ったテロリストたちには「もちろん、私は痛みに打ちのめされている。君に小さな勝ちを譲ろう」とした上で、こう呼びかけた。

 「私は君に憎しみを贈りはしない。君はそれを望んでいるだろう。君は僕がおびえることを、安全のため自由を犠牲にすることを、期待していただろう。君の負けだ」

 エレーヌさんが死亡したバタクラン劇場で、事件発生時に公演していた米ロックバンド「イーグルス・オブ・デスメタル」も18日、初めてバンドとしての公式のメッセージを発表。


「愛は憎しみに打ち勝つ」とした上で、「テロリズムに脅かされる全ての皆さまと悲嘆を共有する。ベストを尽くし助け合うことで愛が邪悪に勝つことができる」と訴えた。


 バタクラン劇場で友人を失ったウーゴ・タマスさん(30)は、産経新聞の取材に「怒って被害者が帰ってきたらいいがそうではない。われわれは耐えて、立ち上がっていかなくてはならない」と話した。


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パリ同時多発テロ 仏当局、8月時点で劇場の襲撃計画情報把握か

2015-11-22 10:00:57 | 日記

フジテレビ系(FNN)フランス・パリの同時多発テロ事件で、フランス当局が2015年8月の時点で、劇場の襲撃計画の情報を把握していた可能性が浮上した。


複数の地元紙によると、フランスの治安当局は2015年8月、シリアから戻った男を拘束して聴取したところ、今回の事件の主犯格、アブデルハミド・アバウド容疑者から、「できるだけ、多くの犠牲者を出すようなテロを行え」と劇場襲撃の指示を受け、現金2,000ユーロ(26万円)を受け取っていたと供述した。


当局が、今回のテロ計画を8月の時点で把握していたことになり、情報機関の対応に批判が集まるとみられる。


一方、ベルギーでは21日、ミシェル首相が、首都圏で、パリと同じような同時多発テロが実行されるとの情報があったと述べた。


このため、首都ブリュッセルでは、テロ警戒レベルが最高の「4」に引き上げられ、21日朝から、地下鉄の駅が封鎖されている。


そのほかの交通機関は、ほぼ通常の態勢だが、軍隊が厳重な警戒態勢を敷いている。


政府は、コンサートなど、人が多く集まる場所には行かないよう呼びかけていて、週末行なわれる国内のプロサッカーリーグの試合の中止が検討されている。


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