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元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

「宇宙連合」は存在するのか!? 研究家・映画・HS情報を分析する

2015-11-24 19:15:18 | 日記


◆「宇宙連合」は存在するのか!? 研究家・映画・HS情報を分析する
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10181

シリアやイラクの内戦悪化から逃れるため、大量の難民が欧州に流れ込んで来ている。国連はその対応を協議するハイレベル会合を30日に開くという。

 

このように国連は、国際平和の維持や経済や社会面での国際協力の実現のために活動している。世界で最も広範な権限と普遍性をもつ国際組織だ。

 

実は「国連の宇宙版」とも言える「宇宙連合」という存在について、複数の研究者が議論している。米テレビドラマ「スター・トレック」やSF映画などにも、宇宙規模の組織がたびたび登場する。これは、様々な星に宇宙人がいることを前提としている。

 

研究結果や映画、そして幸福の科学の宇宙人リーディングなどで明らかとなった情報を分析してみよう。

 

 

宇宙連合には階級や権威主義がない?

まずは、研究家による情報を見てみよう。UFO機密情報公開ディスクロージャー・プロジェクトの創立者であるアメリカの元医師でUFO研究家のスティーブン・グリア氏によると、宇宙連合は、さまざまな惑星や異星人種によって構成され、高度に組織化されているという(『UFOテクノロジー隠蔽工作』)。

 

また、フランス人理論物理学者のジャン・ピエール・プチ博士は、訪問先の惑星の進化プロセスを妨げないよう、惑星間には「内政不干渉」という倫理があると主張している(『宇宙人ユミットからの手紙 2』)。

 

ちなみに博士は、自らが唱える「双子の宇宙論」「反重力理論」「磁気流体力学(MHD)推進」、そして「ダークマター理論」といったアイデアのほとんどを「ウンモ星人ユミット」からの手紙の解読によって得たと述べている。

 

アメリカ人のコンタクティであるリサ・ロイヤル氏は、宇宙人とのコンタクトによって、宇宙連合に階級や権威主義はないことが分かったという。

 

ロイヤル氏によると、宇宙連合の宇宙人は、地球人が宇宙連合に属しているという自覚を持つよう援助しており、核兵器の爆発などを防止するため、地球にコンタクトしていると述べている。大規模の核爆発が、時空間を破壊し、宇宙の近隣文明に多大な影響を与えるからだ。また、自らが創り出した現実に責任を取るという原則があるため、いかなる状況が起きても、人類を宇宙船で救出しないとのことだ(『「宇宙人」内なる訪問者』)。

 

続いて、映画情報を見てみよう。「スター・トレック」では、22世紀に惑星連邦が成立。地球には宇宙艦隊が発足し、惑星連邦での外交や防衛を担っているという設定だ。「フィフス・エレメント」では、23世紀のニューヨークに、統一宇宙連邦政府の本部が置かれている。

 

 

"ダース・ベイダー"は実在する

一方、幸福の科学では「宇宙人リーディング」という手法で研究家や映画でも明らかになっていない独自の情報が得られている。例えば、宇宙連合の宇宙人は、「地球の進化速度の調節」を行っているという。地球は国ごとの科学技術や魂の意識レベルの差が大きい。そのため、地球での修行を終えた魂を他の惑星に生まれさせる調整をしているようだ。

 

また、『スターウォーズ』のダース・ベイダーのような「闇の存在」が現実にいることも明らかにされている。その存在は「アーリマン」と呼ばれ、宇宙のあちこちに自身の分身を送っては、さまざまな時代に混乱を引き起こしているという。大川隆法・幸福の科学総裁が行った宇宙人リーディングの中で、宇宙連合の総司令官は次のように述べた。

 

「私は、最終的には、この『宇宙の邪心』を打ち砕くことこそ、生命体としての私の使命であると理解しております。ただ、かなりの部分で、戦いには勝利してきています」(『地球を守る「宇宙連合」とは何か』)

 

地球人の知らないところで、宇宙連合などの宇宙人によって、地球は守られていたり、指導されたりしているようだ。これらの友好的な宇宙人と接触する日も近いのかもしれない。(泉)

 

【関連書籍】

幸福の科学出版 『地球を守る「宇宙連合」とは何か』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=22

 

幸福の科学出版 『ザ・コンタクト』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1531

 

【関連記事】

2015年9月14日付本欄 竹取物語だけじゃない 日本のUFO・宇宙人・アブダクション事件

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10164

 

2015年9月1日付本欄 イモトアヤコさんUFO撮影に成功 inアルゼンチン【UFO後進国日本の目を覚まそう!】

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10124



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"第2のロズウェル事件"はナチスのテクノロジーか?

2015-11-24 19:11:33 | 日記


◆"第2のロズウェル事件"はナチスのテクノロジーか? 【UFO後進国日本の目を覚まそう!】
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10099

アメリカでは、ロズウェル以外にもUFOらしきものの墜落事件がいくつもある。特に今年は"ペンシルベニアのロズウェル"と言われる事件が50周年を迎えるため、ピッツバーグの新聞The TRIBやCBSピッツバーグ等が話題にしている。

記事によると、1965年12月9日、ペンシルベニア州ウェストモーランド・カウンティのケックスバーグという小さな町の森に空から光る物体が落ちてきた。カナダのオンタリオから五大湖の上空を横切り、アメリカの6つの州で目撃され、熱い金属の破片が落下した。

公式には隕石の落下と言われているが、ケックスバーグの多くの目撃者によると、森の中に青い光を発する溶接などの継ぎ目やリベットのないドングリ型の物体がころがっており、その周囲にはヒエログリフ状の模様が描かれてあったという。

すぐに軍と警察が来て現場を立ち入り禁止にし、軍のトラックが運び出して行った。現場では放射能が検出されたという。

ケックスバーグの町では、町の消防団が、毎年、UFOフェスティバルを開催しており、今年は200人を超えるディスカッションが行われた模様。

そこでは、当時の目撃者が証言をしたという。消防団の建物の前には目撃者の見たドングリ型の物体が再現され、町のシンボルになっている。

ところで、このドングリ型の物体は、ナチス・ドイツが密かに開発していたと言われるディ・グロッケ(ザ・ベルの意味)というベル型UFOに酷似していることから、さまざまな陰謀論が生まれている。

先の大戦後、ドイツの優秀な科学者がソ連に流れることを恐れたアメリカが、多くのドイツのロケット研究者などをアメリカに連行したペーパークリップ作戦というのがあった。

地球のUFO開発はナチス・ドイツから始まったと言われている。そのナチス崩壊と戦後のアメリカでのUFO目撃の急増との関連がささやかれているのだ。

ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネル、サイエンス・チャンネル等も、これらのドキュメンタリーを放映している。

また、最近のデイリーメールやエクスプレス紙によると、ドイツでは政府のUFO情報開示を巡って争われていた裁判で、最高裁が政府にUFO情報を開示せよという判決を下した。

ドイツ政府はUFO情報などないと言っていたのだが、民間のUFO研究団体が、ドイツ連邦議会の科学部門が行っていたET・UFO研究を発見。

開示請求の裁判に発展し、ついに情報開示にこぎつけたのだ。ナチスのUFOテクノロジー研究まで出るかはわからないが、ドイツUFO研究者は沸き立っている。

UFO事件1つとっても、まだまだ謎が多く、ほとんど知られていない情報が隠されているようだ。(純)

【関連記事】
2015年7月8日付本欄 7月8日はロズウェル事件の日 UFOマターは世界の軍事機密
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9874

2015年4月号記事「ロズウェル事件」検証するならもっと真面目に - NHK超常現象番組 - The Liberty Opinion 3
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9229


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朝鮮には奴隷(奴碑)制度があった。日本はこれを廃止し、万民平等とした。

2015-11-24 19:09:18 | 日記

もし、この時、朝鮮の奴隷制を廃止しなかったら、韓国人は今頃、どうなっていたでしょうか?真実の歴史を韓国人は知るべきです。

『日本は朝鮮の奴隷制を廃止した

 日本が朝鮮を併合したとき、朝鮮の王族は尊重され、日本の皇族からの厚い待遇を受けました。これは、かつてのフランス革命のときにルイ一六世がギロチンにかかったことや、ロシア革命の際に王室が滅ぼされたことと、きわめて対照的です。

 一方、日本は、朝鮮にそれまで存在していた奴隷制を断固、廃絶しました。朝鮮には、あのインドのカースト制にも匹敵するひどい階級差別が存在していたのです。

これは日本の江戸時代の士農工商とも違い、東アジア社会ではほかに見られない最も頑強な階級差別でした。

 とくに最下級のは、売買される奴隷であり、財物とみなされ、家畜と同様の扱いを受けていました。主人が奴隷を殺しても、殺人罪にはなりませんでした。奴隷は、朝鮮人口の約四三%もいました。

朝鮮の奴隷(奴碑)。日本はこれを廃止し、万民平等とした。

 日本はその奴隷制度を廃止し、階級差別をなくし、そこに万民平等を敷いたのです。
 朝鮮の国土開発計画は、こうした元・奴隷を「労働者」として雇うことによって行なわれました。その際、日本は彼らに「日当」を支払いました。

当たり前のことと思うかもしれませんが、かつての李朝朝鮮時代には奴隷に給料が支払われることはなかったのです。

 日当が支払われたことは、朝鮮半島の歴史始まって以来、破天荒のことでした。日本統治時代は彼らにとって、文字通り奴隷からの解放であったのです。』

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi03.htm

朝鮮の奴隷(奴碑)。日本はこれを廃止し、万民平等とした。


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日本の軍人は英雄だった 涙の5つのストーリー - 戦後70年 日本の誇りを取り戻そうNO,1

2015-11-24 18:55:47 | 日記

 

インドネシアを解放した聖将・今村均

「植民地の方々を自由にして差し上げたい」

 

今村中将の長男・和男さん。左上の額には、今村中将による直筆の揮毫が飾られている。

 

1942年、インドネシアの子供たちに歓迎される今村中将(中央)。

 大勢のインドネシア人の子供に囲まれ、笑顔を見せる日本人の写真がある(右)。まるでスポーツ選手や俳優が熱狂的なファンに迎えられているかのようだ。しかしこれは、大東亜戦争の最中、日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを解放した後に撮られたもの。この日本人こそ、インドネシアを解放した聖将・今村均・陸軍中将だ(最終階級は大将)。

「聖将」と呼ばれる所以について、長男の和男さん(97歳、東京都在住)はこう語る。

「親父は子供好きでした。インドネシアの子供を日本に招いて教育したり、日本の戦災孤児の施設を作ろうと各自治体に掛け合っていました。宗教の素養がありまして、戦争中もキリスト教の聖書と歎異抄(注2)をズボンのポケットに入れていたほどです」

 そんな聖将が統治したインドネシアでは、驚くべき光景が見られた。今村中将が司令部に出勤するたびに、地元の子供たちが行進して後を追うのだ。オランダの圧政から解放された喜びだけでなく、今村中将の融和的な統治や人徳が、インドネシア人の心を掴んで離さなかった。

(注2)浄土真宗の開祖・親鸞の教えを弟子の唯円がまとめたもの。

 

 

「東亜の解放を一生懸命やらなければいけない」

 1600年ごろから植民地となったインドネシアでは、オランダ人が現地人に暴行したり、強姦しても罪に問われなかった。行政を握り、インドネシア人に教育の機会すら与えない差別を行った。現地で独立を求める機運が高まると、3人以上の立ち話まで禁じた。現在の中国とチベットの関係にそっくりだ。

 そうした欧米のアジア支配が続く中、大東亜戦争中の日本は「アジア解放」を掲げて戦った。

 今村中将にも、アジア解放に強い信念があった。和男さんはその理由をこう語る。

「親父にはインド駐在の経験があります。その時、イギリスがインドを植民地にするために、ものすごく残酷なことをやっていたと知り、『何としても、植民地の方々を自由にして差し上げたい』と思いを強くしたのです。戦争に行くときも、『東亜の解放が本来の目的であるならば、一生懸命やらなければいけない』と言って、家を出ました」

 今村中将は1942年3月、第十六軍司令官として、インドネシアに上陸。たった9日間でオランダ軍を駆逐し、約350年続いた植民地支配を終わらせた。

 今村中将は、オランダが投獄していた独立運動家のスカルノらを解放し、政治活動の自由を与える。また、オランダ人が独占していた公職をインドネシア人に置き換えていった。

 軍政が落ち着いた42年11月、今村中将は第八方面軍司令官として、アメリカの反攻が迫るパプアニューギニアのラバウルに異動になる。

「親父はラバウルに向かう途中で山本五十六元帥にお会いして、『陸軍は自活して戦ってくれ。海軍は余力がない』と言われたようです。補給が途絶えた南方戦線では、兵士の半分以上が餓死しましたが、ラバウルでは、親父が自給自足のために畑をつくらせていたので、10万人の兵士が飢えずに済んだのです。

 また親父は、敵に備えて塹壕も掘りました。終戦までに掘った長さは、全部で東京から名古屋ぐらいになり、爆撃されてもびくともしないものでした」(和男さん)

 今村中将の指導で要塞化した、ラバウルの陣地を見たアメリカは、同地への上陸を諦めた。

 

戦犯裁判で「全ての責任は負う」

 日本の敗戦後、世界各地で多くの日本兵が戦争犯罪人(戦犯)として裁かれた。無実の罪で死刑になるなど、乱暴な判決が横行した。今村中将がいたラバウルでも、オーストラリアが裁判を行った。

「親父はラバウルではほとんど戦っていませんから、最初に進駐した豪州司令官は、『戦争犯罪なし』と報告しました。すると本国が『何百人は有罪』といった指令を出したため、やむなく戦犯を"つくった"のです」(和男さん)

 しかし、裁判で今村中将は「全ての責任は自分が負うから、部下は日本に帰せ」と主張。10年の有期刑判決を受けた。

 さらに、オランダも今村中将を裁こうとした。戦時中、日本軍はインドネシア人に軍事訓練を行い、祖国防衛義勇軍(PETA)などを組織させた。戦後、オランダ軍が植民地支配を再開しようと"再侵略"すると、PETAなどが中心となってオランダと戦った。従順だったインドネシア人が、日本の軍政を通じて、独立戦争を起こしたのだ。

「オランダにとってインドネシアを取られたのは大損害ですから、日本には恨み骨髄です。当然死刑の求刑でしたが、親父としては、インドネシアのために死んでも、何も悔いることはありませんでした」(和男さん)

 裁判の間、独立戦争を指揮するスカルノは、獄中の今村中将を助けようと「あなたを奪回する計画がある」と伝えた。だが今村中将は「厚意には大変感謝はするが、奪回には応じない」と潔く断る。その後の49年に、インドネシアは宿願だった独立を果たし、今村中将は無罪になった。 

「あなたのことは教科書で教わった」

 帰国した今村中将は、戦後もインドネシアに関心を持ち続けた。初代大統領に就任したスカルノは、来日すると必ず今村中将のもとを訪れた。今村中将は、経済に疎いスカルノに、経済に強い副大統領のハッタを重用するよう助言するなど、インドネシアの繁栄を願い続けたのだ。

 和男さんもインドネシアと縁が深く、植林事業などで訪れた時のことを少しうれしそうに振り返る。

「現地の人が私を親父と間違えて、『ジェネラル・イマムラ』と呼び、『あなたのことは教科書で教わった』と言うのです。小学校で親父のことを教わるようです」

 和男さんは今村中将の人柄について、「親父は戦時中、部下を失うたびに『僧侶になりたい』と話していました。本来、非常に宗教的な人だったのです」と語る。


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トルコ軍がロシア軍機撃墜 「領空侵犯」、ロシアは否定

2015-11-24 18:48:11 | 日記

 トルコ軍は24日午前(日本時間同日午後)、「トルコ領空を侵犯した」としてロシア軍機1機を撃墜した。撃墜された戦闘機はトルコ国境近くのシリア領内に落ちたという。

トルコのメディアがトルコ軍や政府関係者の話として、一斉に伝えた。

 ロシア国防省は、撃墜されたのがロシア軍のSu24であることを認めた上で、「常にシリア上空を飛行していた」と、領空侵犯を否定した。

乗員2人は機体からの脱出に成功したが、その後の状況は不明という。

 トルコは、シリア内戦に介入したロシアに対して今月19日、「国境の安全を実質的に侵犯された場合は、交戦規定を適用する」と警告していた。

ロシア機が、トルコ人と民族的に近いシリアの少数民族トルクメン人の居住地域を爆撃していたとされることが背景にある。(イスタンブール=春日芳晃、モスクワ=駒木明義)

朝日新聞社


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地球に似た惑星が発見される 加熱する宇宙人探査競争【UFO後進国日本の目を覚まそう!】

2015-11-24 18:36:40 | 日記



◆地球に似た惑星が発見される 加熱する宇宙人探査競争【UFO後進国日本の目を覚まそう!】
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9974

ケプラー宇宙望遠鏡がこのほど、地球に非常に良く似た惑星を発見したことを、NASAが発表した。ケプラー452bと呼ばれる惑星は、地球から1400光年ほど離れた恒星を385日の周期で周回している。ケプラー452bは、地球に類似していることから、「地球2.0」と呼ばれている。


◎生命が存在し得る惑星

今回発見された惑星は、地球よりも6割ほど大きく、重力も2倍ほどあるが、恒星からの距離を計算すると、ケプラー452bは「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」にあることが分かったという。

「ハビタブルゾーン」とは、地球に似た環境を作るために必要な「恒星と惑星の距離」だ。

ケプラー452bが周回する恒星は太陽より明るいが、その代わりに、恒星と惑星との距離は地球〜太陽間の距離より5%ほど離れている。

いまのところ、この惑星に生命が存在するかどうかは分からないが、NASAは、「そこに地球の植物を持っていけば、生存できるだろう」とした。

一部の天文学者によると、「ハビタブルゾーン」にある惑星は我々の銀河だけでも110億個ほど存在すると推定されている。

「ハビタブルゾーン」の惑星を探す理由は、人間のように、炭素や水から出来た生命体を探しているからだ。ただ、科学者の中には、水や炭素を基にした生物以外の可能性もあるのではないかと言う者もいる。

例えば、炭素の代わりにシリコンや他の金属でできた生き物が存在するかもしれないということだ。この場合、地球のような環境でなくとも、生命が存在できる可能性がある。

これら多くの可能性から、一つでも生命が存在する惑星を見つけることができれば、それは世界的な発見となるだろう。


◎もうすぐ宇宙人を発見できる!?

ケプラー宇宙望遠鏡は、地球に似た太陽系外惑星を探すために作られ、2009年から観測を続けている。しかしケプラー宇宙望遠鏡は、地球に似た惑星を探すプロジェクトの第一歩にすぎない。

NASAは次の10年間で、ケプラー宇宙望遠鏡よりも高性能な望遠鏡を少なくとも4基つくる予定だ。これらの望遠鏡を使えば、ケプラー452bに海や雲、そして季節があるかどうかが分かるかもしれないという。

宇宙人や宇宙生命体の探査は、あらゆる角度から行われている。生命が存在しそうな天体だけでなく、実際に宇宙人の信号をキャッチしようとしている研究者もいる。

宇宙人・宇宙生命体の探査競争は年々過熱している。宇宙人が公開の場で地球と交信する日が、急速に近づいているのかもしれない。(中)

【関連記事】
2015年7月8日本欄 7月8日はロズウェル事件の日 UFOマターは世界の軍事機密
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9874

2015年7月1日本欄 7月2日は世界UFOデー 世界でUFOが話題に
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9850

2015年8月号記事 精神科医が自らの宇宙人遭遇体験を告白! ─アブダクションはフォールスメモリーでは説明できない
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9797


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第一志望の大学に合格!――夏合宿と祈願が力をくれた!

2015-11-24 17:28:18 | 日記

http://voicee.jp/2015061311137

歯科医への思い

私は幼いころから、歯科の開業医として働く両親の背中を見て育ちました。

幸福の科学の信仰を持ち、「将来はたくさんの人を幸福にできるような自分になりたい」と願っていた私。

患者さんに親切に接する両親の姿に触れるうち、私も患者さんの痛みを癒す歯科医を目指そうと思い、歯学部に進路を決めたのです。

高3の春になり、何度か模試を受けました。しかし、志望校の合格判定はいつもD判定。

「このままじゃ私、志望校に行けない……」中学校から、「サクセスNo.1※」東京本校に通っていた私は、飛躍のきっかけをつかみたくて、受験生を対象に行われる合宿に申し込んだのです。

※サクセスNo.1 幸福の科学が運営する仏法真理塾。信仰教育にウェイトを置きつつ、学力の充実にも力を注いでいる。

精舎で感じた目に見えない存在の応援

「サクセスNo.1」の受験生合宿は、8月中旬に1週間、幸福の科学の精舎で行われました。全国から来た幸福の科学会員が、受験という目標に向かって頑張っている姿を見て、とても刺激を受けました。

「この合宿で、苦手科目を克服しよう。自分の限界まで勉強してみよう!」

合宿ではテレビなどの誘惑もなく、分からないことはすぐに講師に教えてもらえるなど、恵まれた環境の中、驚くほど集中して勉強できました。

普段とは違い、長時間勉強してもほとんど疲れません。何より、精舎の礼拝室で心を見つめる時間が取れたことが大きかったと思います。

精舎の中では受験への焦りが消えていき、目標に向かって努力することが本当に楽しく感じられました。まるで見えない存在から応援を受けているようでした。

人の心も癒せる歯科医になりたい!

合宿から帰ってきてからも、勉強への集中力は続き、苦手だった文系科目の成績も少しずつ伸び始めました。

しかし、センター試験直前になっても第一志望の合格判定はD判定のまま。次第に不安が募り、「私は本当にこの道でいいんだろうか。親が歯科医だから歯学部を志望しただけでは……」という迷いも出てきました。

元気のない私を心配した両親のすすめで、幸福の科学の「学業成就祈願」を受けてセンター試験に臨みました。しかし、直前の勉強に身が入らなかったため、思うような点数は取れませんでした。

翌日、失意の中にいた私は「サクセスNo.1」で講師から、こんな話を聞いたのです。「将来就く職業はそれぞれ違っても、ここにいるみんなの本当の仕事は同じ。それは、人々の心を救い、幸福の科学の教えを伝えていくことなんだ」

私の中で何かが弾けた気がしました。

「そうか!どんな仕事であっても、人を幸福にすることはできる。私は歯科医という職業を通し、患者さんの歯の痛みだけでなく、心も癒せるようになろう」

この日以来、迷いは消えて「歯科医になりたい」という夢がハッキリ固まりました。それから二次試験までの1カ月間は、再び集中して勉強に取り組むことができたのです。

2度目の「学業成就祈願」

二次試験まで10日と迫った日、私は再び「学業成就祈願」を受けました。

「必ず志望大学に合格し、将来は人々を救う理想の歯科医となれますように」と本気で願いました。すると、祈願中に体が熱くなり、「必ず合格できる。将来、絶対に立派な歯科医になり、お役に立つんだ」という確信に満ちた思いと、喜びが湧き上がってきたのです。

祈願を受けた後は、不安や迷いは一切なくなり、喜びと感謝の思いで淡々と勉強することができました。理想に一歩ずつ近づいている幸せを感じました。

第一志望大学の二次試験は、大雪のため試験が1日延期されるというハプニングがありましたが、不思議と動揺しませんでした。そして、試験本番では緊張することなく、今まで培ってきた力をすべて発揮することができたのです。

「お母さん受かったよ!」

本番の手ごたえはあったものの、直前まで合格判定が良くなかったため、家族からは今年の合格は難しいだろうと思われていました。

そして迎えた合格発表の日。インターネットで合格発表を見たところ、そこに自分の番号があったのです!私はびっくりして、すぐに診療所の母に電話をかけました。

「えっ?受かったの!?おめでとう!」

母は診察中にもかかわらず、大声で叫びました。

自分が無事合格できたのは、「学業成就祈願」と、「サクセスNo.1」のおかげです。

この感謝を忘れず、理想の歯科医を目指して、これからも努力していきます!


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孤独の中で気づいた愛を与えることの大切さ

2015-11-24 17:27:53 | 日記

http://voicee.jp/2015062011164

女性には厳しい土木工学の世界に進学

私は、土木工学の研究に打ち込もうと大学院博士課程に進学しました。しかし、そこは女性には厳しい世界でした。

それを痛感したのは、琵琶湖の湖岸に葦を植えたコンクリートブロックを設置し、環境への影響を調べる実験をしたときでした。覚悟はしていましたが、とにかく体力を必要とする作業で、男性との差は歴然としていました。

重さ90キロを超えるコンクリートを運ぶ時に、私はまったく役に立ちません。

実験に必要な蒸留水を運ぶ時も、私が両手で休み休み運んでいるのに、男性は片手で軽々と運びます。実験に参加する人数をカウントする時も、私は一人分という意識が持てません。

女性の院生は私一人。相談する人もおらず、ここは私のいる所ではないかもしれないという孤独が次第に深まっていったのです。

強がるのでも自分を責めるのでもなく……

そのころから私は、幸福の科学の支部に通うようになりました。礼拝室でお祈りをしていると、不思議と心が落ち着いてくるのです。

ある時、支部の仲間に誘われて正心館の研修を受けに行ったときのことです。

「願望実現には、仏との一体感が大切です。仏の願いに自らの願いを合わせていきましょう」という講師の言葉に沿って、自分の心を静かに振り返りました。

最近の私は、研究者を志した時の「琵琶湖の環境を守りたい」という純粋な気持ちを忘れたまま、「女だからといってなめられたくない」という強がりや、「男性に出来ることが出来ない」という劣等感でいっぱいでした。

不幸の原因は、自分の思いが仏の願いとは遠いところにあったからだということが分かりました。強がるのでも自分を責めるのでもなく、周りの人を愛していこうと決意しました。

次の日から私は、実験道具の汚れを取ったり、植物の手入れを行ったりと、自分にできることを積極的に実践していきました。

重いものを運ぶ作業など、できないことは素直にお願いしました。すると、意外にも研究室の仲間は、快く作業を引き受けてくれたのです。

自分が殻を作っていただけで、周りの仲間は温かく見守ってくれていたことに気づき、感謝の思いがわきました。

多くの人に支えられたおかげで研究を続けることができ、土木学会の全国大会で優秀講演賞をいただきました。さらに、土木学会関西支部の海外派遣研修生に選ばれ、中国で世界の研究者と交流することもできました。

今の私があるのは、孤独の時間に、周りの人への感謝と、愛の大切さに気付くことができたからです。このことを忘れず、今後も研究に打ち込んでいきます。


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戦前から続く憲法の「違憲タブー」 自衛隊だけでなく皇室も?

2015-11-24 14:43:06 | 日記

戦前から続く憲法の「違憲タブー」 自衛隊だけでなく皇室も?

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10490

安倍晋三首相が年内の臨時国会召集を見送り、来年1月4日に通常国会を召集する。臨時国会の開催を求める野党側は、「衆参いずれかの議員数の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会を開かなければならない」という憲法第53条に反する「違憲」問題として、批判を強めている。

 

安全保障関連法でも、「違憲」という声はしばしば持ち上がった。憲法が持ち出される度に、「何が合憲で、何が違憲か」と分からない人も多いだろう。

 

しかし、保守やリベラルを問わず、タブー視されている「違憲論」がある。 

神道は宗教じゃない?

その「違憲論」というのは、日本国憲法の第一条に定められた「象徴天皇制」だ。この条文には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と記されている。

 

だが、よく考えてみると、「天皇は日本国の象徴」という表現は、実によく分からない説明だ。日本の歴史を知らない限り、「天皇とは何か」と問われても、それに答えられない人はほとんどいないだろう。

 

では、天皇とは何か。一言で言えば、天皇は神道の最高神官である。ゆえに天皇は、国民の幸福を願う「祈り」を執り行ったり、「日食の日」には、御慎みになる慣習を続けている。

 

これらは神道においては当然の行為だが、「天皇が宗教者である」ことを認めれば、“宗教が政治に関わってはならない"という「政教分離の原則」に反する恐れがある。

そのため、戦前では「神道は宗教ではなく、天皇の仕事は日本の習俗にそっているだけ」という論理が発明され、戦後、それが「象徴」に変化している。

 

しかし、いずれの論理も、「自衛隊は軍隊じゃない」というものと同じく、ごまかしに過ぎない。これは、保守・リベラルともにタブー視する「違憲論」になっている。 

天皇の御言葉に感激する日本人

「天皇は宗教者である」ことを示すエピソードは数多くあるが、福澤諭吉の『帝室論』には、こんなエピソードが残されている。

 

1877(明治10)年、西郷隆盛を盟主とする反乱である「西南戦争」が起きた。この時、明治政府は多くの兵士を必要とし、旧士族を対象に兵力を増強した(徴募巡査)。

だが反乱を鎮圧した後、彼らの処遇をどうするのかという問題が急浮上した。これはちょうど、鎌倉時代の元寇に勝利した北条時宗が、戦った兵士への恩賞に悩んだことと同じ問題である。

 

「再び旧士族の反乱が起きるのでは」と懸念される中、兵士が皇居に集められ、天皇自らが慰労の御言葉を伝えた。すると、数万の兵士はこの言葉に感激。不満を言わずに、故郷に戻ったというのだ。

 

これが、宗教者による感化力でなければ、どう表現すべきか。

福澤自身は「仮に国会の政府において議員の中から政府の首相を選び出し、その首相がどんな英雄豪傑であったとしても、明治10年のような時節に際して、このような臨時の兵を上手に解散させるだけの工夫があるだろうか」と述べている。

 

またこのエピソードは、政治家や軍人などの権力者よりも、天皇の方が「格上」であることも分かる。実際に、現在でも天皇が外遊すれば、日本の首相よりも厚遇されている。

 

宗教が政治に関わってもいい

こうした実態がありながら、日本では「政教分離の原則を守れ」という意見が根強くある。宗教と政治を分けたこの原則は、ヨーロッパの啓蒙主義の流れの中で生まれたもので、いかにも近代的な制度であると思っている節があるが、この論理でいけば、天皇は本来の力を発揮することはできない。

 

天皇の偉さを示したい保守層は、天皇の力を封じ込めている憲法の現状をどう見ているのだろうか。本来、日本の歴史から見れば、「政教一致」が本来の姿であるはずだ。

 

そもそも、政教分離の原則は、戦前の政治権力が、宗教を弾圧した反省で導入されたもの。宗教が政治に関わってはいけないという解釈ではない。この間違った解釈により、神道の最高神官である天皇の権威を押し下げているといってもいい。

 

現行憲法は、戦力の不保持を定めた9条以外にも、欠陥が浮き彫りになっている。日本の国力を最大限発揮するためには、早急な改正が必要である。(山本慧)

 

【関連記事】

2015年9月26日付本欄 桓武天皇と明治天皇 驚くべき共通点

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10239

 

2015年9月1日付本欄 天皇制のタブーって何? 【リバ犬×そもそモグラ博士のそもそも解説】

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10123

 

2015年8月24日付本欄 天皇陛下と首相はどちらが国の責任者なの?【リバ犬×そもそモグラ博士のそもそも解説】

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10098



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本物の真理を知って見つけた生きがい

2015-11-24 13:07:13 | 日記

求め続けていた本物の信仰との出会い

http://voicee.jp/2015012310684

いまから30年ほど前、主人が亡くなったのをきっかけに、私は法華経系の伝統宗教の信仰を持つようになりました。

少しでも主人の供養になれば、との想いから、読経や写経、法要の手伝いなど、かなり熱心にお寺に通っていたものの、「何か物足りない」という感覚を持ち続けていました。

そんな中、大川隆法総裁先生の霊言集に出会ったのです。お寺ではなかなか聞けなかった、「心の教え」がたくさん説かれていることに本当に驚きました。

特に私にとって衝撃だったのは、東京ドームで開催された大川隆法総裁先生の御生誕祭。会場いっぱいにあふれる信者の方の多さもさることながら、初めて耳にする大川総裁先生のお話に、魂がふるえるような感激を覚えたのです。

「これは本物の教えだ!」私の驚きはやがて感動、そして確信に変わっていきました。

幸福の科学の信仰を生活の中心に

まもなく私は幸福の科学に入会し、信者の皆さんと一緒に仏法真理を学んでいくことにしました。

入信後もしばらくの間は、お寺での信仰と幸福の科学を掛け持ちで活動していましたが、仏法真理という“本物”を知ってしまうと、『法華経』は漢文の上辺だけを読んでいるようで心に入ってこなくなりました。

「もう昔の信仰とは別れる時が来たのかもしれない……」人生の晩年ではありますが、ずっと求め続けていた本物の信仰、再誕の仏陀の真実の教えに出逢ったことは、何ものにも代えられない喜びでした。

幸福の科学に帰依します、とお寺に伝え、幸福の科学の信仰を生活の中心に据えることにしたのです。

作務に仏への感謝をこめて

「Nさん、明日の研修の準備をさせていただきませんか。天上界の高級霊を礼拝室にお迎えするための、神秘的な空間を作る尊い仕事ですよ」

支部長に勧められたことをきっかけに、私は礼拝室の作務※を定期的にさせていただくようになりました。

まず礼拝室の椅子を均等に並べます。そして祭壇や床を心をこめて掃除し、きれいにします。

天上界の光が通いますように。信者の方々が気持ちよく研修を受けられますように──。

仏への感謝の気持ちをこめて一心に作務に励んでいると、普通の掃除とは全然違い、心まで清められていくようです。

本当に尊い仕事のお手伝いをしているんだなあ、という感謝の気持ちがわき上がり、充実感に満たされている私がいました。

※作務 支部や精舎の環境を整えながら、心を見つめる修行

信仰を胸に生涯現役の人生を

残された日々のなかで、なんとしても仏法真理を人々に伝えたい。伝道こそ、人生最後の仕事だ――。

そう思い、私はいま、地域のお宅やお店を一軒一軒お伺いし、幸福の科学の小冊子や経典をお渡ししています。

特に私と同年代の方には、「あの世があること」「あの世こそ本来の世界」という真実を知ってもらいたくて、心をこめて真理の話をしています。

幸福の科学の活動を通して、生涯現役で毎日元気に働けること、そして皆さんの幸福のために少しでもお役に立てること。

それが私にとって一番の生きがいです。


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自信が持てなかった僕が20キロの減量で復活!

2015-11-24 13:05:51 | 日記

http://voicee.jp/2014091510271

コンプレックスのかたまり

中学生の時、僕は今より20キロ以上も太っていました。

長距離走はいつもビリ近く。告白も連敗。何事にもやる気がわかず、成績もパッとしません。「どうせデブだし、何やってもダメなんじゃないか」と、すべてを否定的に受け止めがちでした。

そんな僕がダイエットを始めたきっかけは、吹奏楽部で出会った先輩への恋です。

「今の僕に、告白する資格なんてない。やせて自信をつけたい」。

早速ダイエットの本を読んで研究し、自分なりに作戦を立てました。「毎日30分ランニングする」「間食は絶対にせず、夕食はご飯一杯までにする」この2つを20キロの減量に成功するまで守り抜こうと決めました。

とはいえ、今まで好きなだけ食べていたのに、運動を始めた上、食事の量を減らすのは想像以上に辛いことでした。

1カ月目は順調に減っていた体重も2カ月目に入って変化がなくなり、「僕がやせるなんて無理だ。もうやめたい」という思いが出てきました。

母が教えてくれた『成功の法』からのアドバイス

母はそんな僕に、幸福の科学の書籍『成功の法』を元に次のように話してくれました。

「困難があるとすぐに逃げてばかりの人生ではダメよ。勇気を持って前に進むと、道が開けてくるからね」

確かに当時の僕は、ダイエットに限らず嫌なことから逃げる傾向がありました。吹奏楽部では基礎練習を嫌い、勉強も分からないところがあるとすぐあきらめてしまっていました。

「自分で決めたことを途中で投げ出すような人間にはなりたくない。すぐあきらめる自分を変えていきたい」

そう決意し直し、食べたくなると体を動かして気持ちを紛らわせました。運動もただ走るだけではなく、野球部の朝練に参加させてもらうなど変化をつけて、ダイエットを楽しむ工夫をしました。

ダイエットで身についたあきらめずに続ける精神力

ダイエットを始めて3カ月後、1カ月ぶりに乗った体重計を見て驚きました。何と10キロもやせていたのです。そして4カ月後には、目標を達成できました。

結局、先輩への恋は成就しませんでしたが、不思議とそれほど落ち込みませんでした。

あきらめずに努力する精神力と、「自分もやればできる」という自信が得られたからです。その後は、勉強に取り組む姿勢も変わり、苦手な数学で40点以上もアップし、志望校に合格できました。

僕にとってダイエットの成功は、身体コンプレックスからの復活にとどまらず、困難から逃げようとする弱い心からの復活でもあったのです。


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どん底のやる気を盛り返して第一志望の大学に合格!

2015-11-24 13:05:35 | 日記

http://voicee.jp/2014071810067

どん底まで落ちたやる気

僕は、浪人の1年間を経て、晴れて第一志望の国立大学に合格することができました。でも、浪人が決まった時は、こんな日が来るなんて想像もできないぐらい、どん底の状態でした。

二次試験型模試はずっとA判定で、志望校別模試では1位を取ったこともあったのに、まさかの不合格。合格発表の掲示板を見た時にはショックで仕方なく、しばらくの間、やる気がまったく湧いてきませんでした。

通っていた塾の講師は「僕も浪人を経験したけど、第一志望に合格できた。

K君も頑張ろうよ」と励ましてくれましたが、(いくら頑張っても、報われなかったじゃないか。そんな意味のない勉強を、もう1年やれるかよ……)としか思えません。

すっかり投げやりになり、毎日のように、友達とカラオケやボーリングに行って遊んで、遊ぶお金を稼ぐために週に5日もバイトを入れて。店長から「正社員にならないか」と誘われたりもしました。

家ではゲームをしたり、大好きなプロ野球中継を見たりしてダラダラ過ごし、予備校の授業も、好きな科目にしか出席せず、半分寝ながら受けていました。

母から毎日のように、「そんなことしてたら、来年も落ちるわよ」って叱られても「うるせーな」と返すだけで、まともに言い合う気力もありませんでした。

「厳しい結果が出ることも人生の教訓」!?

そんな無気力な状態から抜け出すきっかけとなったのは、夏休みに、進学を目指す高校生を対象に行われた、日光精舎の『リバウンドの法』特別公案研修でした。

研修では、経典『繁栄の法』から、「努力の不足に対しては、厳しい結果が出ることも、人生にとっては大きな教訓になります」と学びました。

でも僕は、失敗から教訓をつかもうなんて思ってもいませんでした。不合格の原因が、自分の努力不足にあるなんて認めたくなかったんです。

その日の夜、講師がセンター試験の模擬試験を実施してくれました。ところが、しばらく勉強から離れていたこともあり、高校2年生に20点以上の差をつけられて完敗――。

さすがに努力不足を認めざるを得ない結果を見せつけられ、目が覚めました。

この世には「努力に応じた結果が出てくる」 というルールがあると言いますが、その通りで、ごまかせないなぁと思いました。

サボっていたら、ひどい結果が出たわけですから。それならば、努力すれば良い結果が出ると信じて、もう一度頑張ってみようと思ったんです。やる気がグッと出てきて、その後は、1日7時間以上の勉強に取り組むようになりました。

やる気を維持したのは「受験を通り越した」夢

とはいえ、中だるみをすることもありました。そんなある日、家の本棚にあった『成功の法』を手に取り、何気なくページを開くと、「やる気が出ず、失敗のさなか、また、悲しみのさなかにあるときには、さあ、新たな人生設計をしてみようではないか」と書いてありました。そこで、もう一度、将来の夢を描いてみることにしたのです。

生徒の声に耳を傾け、よい影響を与えられる教師になること――それが僕の夢です

。中学の担任の先生が、いつも僕らを信じて味方になってくれる人でした。こんな先生になりたいと思って、教育学部への進学を目指していたんです。

「たった一回の失敗で諦めるような夢ではなかったはずだ!」という気持ちを思い出してからは、勉強にも力が入りました

目標を描くことは、毎日やる気を自家発電するようなものだと気づきました。それからは一切の遊びを断って、勉強に専念しました。

見事合格!

予備校のテキストをマスターし、センターの過去問も手に入る分は全部解きました。直前は、1日10時間以上勉強しました。

そのかいあって、センター試験は現役時代よりも150点近くアップし、志望校内で上位に。二次試験にも余裕を持って臨むことができ、合格を勝ち取ることができたのです。

合格までの道のりを振り返ると、「努力は報われる」と信じたこと、そして受験の先にある夢をハッキリと描いたことが、僕にとっての転機でした。

どん底だった時にも、見捨てずに支えてくれた人たちに感謝し、これからも頑張っていきたいと思っています。


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刑務所で大川先生の教えに出会い、人生が180度変わった!

2015-11-24 13:04:53 | 日記

http://voicee.jp/201406189891

救われた人生

「たとえ地獄に堕ちたって、そこでもオレはうまく立ち回っていくぞ」

暴力団の組員として抗争の日々を送り、殺すか殺されるか、という世界にいた私は、そんな不遜な思いで生きていました。

私の人生は、まぎれもなく大川隆法先生の教えによって、ギリギリのところで救われたのです。

19歳で暴力団へ

思い起こせば、幼い頃から親が手を焼く子どもでした。片時もじっとしていられず、やんちゃばかり。そんな私を母は躍起になってしつけ、私はますます反発していったのです。

反抗的な幼少期を過ぎ、中学生になる頃には典型的な不良少年に。

高校生になると、金髪に短ランという改造制服姿で、仲間とバイクの暴走行為に明け暮れていました。

そして、まともに通うこともなかった高校を2年で中退すると、遊び友達の兄貴分から誘われて、都内にある指定暴力団の構成員になったのです。

懲役7年の実刑

上下関係のある組織に入ったことで、逆に真面目になったような気持ちでいました。顔を売って、風俗店や博打事でみかじめ料をとったり、私をアニキと慕う弟分ができたりすると、何か偉くなったような気になったものです。

分不相応なケタ違いの金を手に、浴びるように酒を飲み、その挙句に暴力沙汰を起こし……。生活は荒んでいきました。

そんな時、暴力団同士の大きな抗争が起きたのです。「組の看板がかかってる。頼むぞ」。兄貴分から拳銃を渡され、誇らしさでいっぱいでした。「オレは選ばれた」、と。

そして発砲事件を起こし、銃刀法違反で逮捕されることに。誰かにケガを負わせることはなかったものの、懲役7年の実刑が確定。26歳の時でした。

そして、独居房に

送られた刑務所には、前科十数犯という再犯者が多く収容されていました。並みいる強面の中で、「なめられてたまるか」とばかりに、他の受刑者を威嚇したり、言葉尻を捕らえていちゃもんをつけたりと、気の休まることのない日々を送り始めたのです。

「刑期を終えれば、オレだって幹部だ」とヤクザの世界での栄達を心の支えにしていましたが、面会に来る組の人間が語る外の話に、取り残されていく焦りも感じていました。

その苛立ちは、刑務所内で暴力事件を起こすという形で爆発。独居房(どっきょぼう)に入れられたのです。

三畳一間にトイレ付きの独居房では、冷たい床に膝をついた姿勢で、長時間の反省を要求されます。

「こんなに薄暗い場所で、オレはいったい何をしてる?」

自問自答を繰り返しました。そして、どうして自分がこんなに激しい性格なのかを考えていました。

「人を殺すか殺されるか、自分はどうしてそういう極端な人生を歩んでいるんだろうか。仕方がないと思っていたけど、この悲しさはなんだ――」

仏法真理との出会い

許された時間の中でつづる日記には、何度も「人間になりたい」と書きなぐりました。

そんな日が、3カ月ほど続いた頃でしょうか。ふと見上げた小さな窓から、流れ行く雲が見えました。じっと見ていると、雲がみるみる龍の形になっていったのです。

なんとも言えない神々しさに打たれ、思わず両手を合わせていました。

不思議な体験をした翌日。新聞を見ていて、書籍のランキング上位に紹介されていたある本に興味をひかれた私は、何か予感めいたものを感じて、取り寄せてみることにしました。

それが、大川先生の著書『奇跡の法』との出会いでした。

「これは、今までの本とは違う」

そこには、武士道や論語などを読んだ時に感じた、「いいな」という思いとははるかに次元の違う、「何か」がありました。「他の本も読みたい!」と、強烈に願ったことを覚えています。

刑務所では月に6冊まで本を買えます。それまでは時代小説なども好きで読んでいたのに、全部大川先生の本にしました。

強奪の人生

まず、衝撃を受けたのは、『太陽の法』に書かれてある、「愛に生きなさい」という教えでした。「ほんとうの愛」が、「与える心」にあると知り、私は驚きました。

ヤクザの世界でも、「義理」とか「義侠心(ぎきょうしん)」というものはあり、自分はそれを大事にしてきました。ゆえに、下の者に慕われ、上の人にはかわいがられていました。しかし――。

「それは結局、上にはかわいがられ、下からは尊敬されたい、という欲のためにしていた『にせものの愛』じゃないか――」

自分のやっていることが悪だなんて思ってもみませんでした。しかし愛を与える側の価値観を知ったことで、私は気づかされたのです。自分が行ってきたことは、暴力や組の力によって、人を怖がらせて生活の糧を奪う、まさに強奪する人生だったと。

「アングリマーラ」の逸話のように

「ほんとうの愛」と、自分の考えていた愛や思いやりの落差に、私は苦しみました。しかし、『大悟の法』に登場するアングリマーラの話に励まされました。

昔、インドでアングリマーラという殺人を犯した大悪人が仏陀に出会い、修行して過去の悪業を清算して変わった(最終的に「阿羅漢(あらかん)」という最初の悟りを得ることができた)というお話です。

もちろん、自分は殺人はしていません。しかし、罪を犯し、人々を傷つけたアングリマーラのあの生き方は間違いなく自分そのもの――。アングリマーラは自分にとって目指すべき理想となりました。

光の玉が目の前を

そうして何冊か大川先生の本を読むうち、本に書かれている、「反省」や「禅定」(心を静め、集中した宗教的な精神状態を保つこと)についても取り組み始めました。

座禅は、最初の5分位我慢すれば、不思議と冬でも寒さを感じませんでした。消灯時間を過ぎても、暗闇の中でこっそり座禅をして、過去の反省に取り組みました。

ある日、静かに姿勢を整えて目を閉じると、掌(てのひら)くらいの光の玉が目の前をいくつも通り過ぎていく感覚を味わいました。

そのうち、10代の頃からの人生が見えてきました。

不良行為を続ける自分を諌(いさ)める母親の言葉と泣き顔。身体能力を買って運動部に入るよう勧めてくれた先生。

無茶な運転でバイク事故を起こした時は、彼女や仲間が駆けつけてくれたこと――。

「こんなにたくさんの人が、自分のことを思ってくれていた。オレのために泣いてくれていた……」

そのことに気づくと、涙がこぼれ落ちてどうしようもありませんでした。

「なんて自分勝手な――。支えてくれる人が泣いていても、自分の欲望を達成するためだったら傷つけてもいいだなんて、なんて多くの人を傷つけてきたんだ」

悪い心を克服して、必ずやり直してみせる。――私は、そう心に誓っていました。

大川先生の本を10冊近く読んだところで、「信仰」という感覚に目覚め始めました。出所したら必ず更生してみせる、そして必ず幸福の科学の会員になろうと強く思ったのです。

アウトローな思いとの葛藤

大川先生は、「すべての人は皆、心に仏性(ぶっしょう)を宿し、この世で魂修行をしている存在である」と教えてくださっています。この仏法真理の世界観は、私の周囲への接し方を劇的に変えました。

刑務所にいる人たちは、身から出た錆とはいえ、更生しようと頑張っている人たちです。「どっちが力があるか」などと争うこと自体、ばかばかしいことだと思うようになりました。

それよりも、仏の教えを学ぶ感動を、一人でも多くの人と共有したくなりました。

刑務作業の休み時間になると、周囲の人をつかまえては、本の感想を伝えたり、読むよう勧めました。

そのうち、「こういう生き方をしたいね」などと話せる人が出てきて、本当に楽しかったです。

けれど、現実に目を向ければ、私は相変わらず暴力団員の服役囚でしかありません。

いくら真理の書を読んでも、出所した後も、裏社会の方法で生活の糧を得たいというアウトローな思いは消えません。自分の中にある悪に通じる心、それに、すぐカッとなる性格も、簡単には変えられそうもありませんでした。

130回読んだ『仏陀再誕』

ある時、「大川先生の本を精神安定剤として読むだけではだめだ。自分の心を直したい」という思いが湧いてきました。そこで美しい文体に感動した『仏陀再誕』を100回読むことにしたのです。

『仏陀再誕』に出てくる”大男のたとえ”の話などは、はじめは子ども向けの話かと思いましたが、読めば読むほど深い内容だと気づきました。

「まるでコントロールできない自分の心みたいだ」と。経典に無駄な言葉は一つもありません。しかし100回読んでも、「まだ、変われていない」という気持ちは消えませんでした。

そんな時は、「本人は現状を不本意に思って退転するのかもしれませんが、私は『もう少しなのに、惜しいな』と思って見ているのです」(『幸福の革命』より)という大川先生の言葉に励まされて、読み続けました。

結局、130回読みました。その頃には自分でも柔らかい雰囲気が出てきたように思え、 気がつけば、統御できなくてあきらめかけていた怒りの心があまり出なくなっていたのです。

出所後、もっと違う生き方が出来るんじゃないか、という思いも芽生えてきました。誰も傷つけない人間になりたいと――。

“カタギ”になる強い決意

刑期を終える頃、私をアニキと慕う服役中の弟分たちに言いました。「お前らが願っていることは、もうオレにはできない」と。そして出所後、迎えにきた組の者に「カタギになる」、ときっぱり伝えたのです。

出所後、私は、組での栄達を約束された、胸を張れる立場にありました。ですからその決意表明はある意味で、裏切りを意味しました。私はその場で組織から離れることになったのです。

幸福の科学に入れない焦り

出所後は、大型免許を取得し、トラックの運転手を始めました。

会員になりたくて、幸福の科学の精舎や地元の支部に何度も行きました。でも、なかなか中に入れません。

東京正心館も2回行きました。栃木県にある総本山・未来館や総本山・日光精舎にも行きましたが、結局、車で前を通り過ぎてしまいました。

所用で四国を訪れた時、偶然にも聖地・四国本部精舎に遭遇しましたが、周囲をまわるばかりで、外観を携帯電話のカメラで撮ったりして帰ってきてしまいました。

だんだん、焦ってきました。「これ以上離れたらまた前の世界に戻ってしまう。でも、自分のような者が、支部や精舎に行っていいものなのか」。

迷ううちに、月日は流れていきます。意を決して、地元の支部を訪問したら休館日。正直ほっとしました。

結局、出所して1年後、3回目にしてようやく支部の門をくぐることができたのです。

幸せな時間の中で

お願いして、その日のうちに入会させていただくことができました。そこに至るまでの経緯を、支部長や集っていた先輩信者の方々に、洗いざらい話すと、感極まりました。

それから1カ月間、定期券を買って毎日支部へ通ったのです。

朝は祈りから始めて、法話ビデオを拝聴。

そして作務(さむ:心を磨くことを目的とした清掃)をしたり、支部の仲間と学び得たことを話したり。それは幸せな時間でした。

支部の誰もが私の過去を知っているのに、差別するでもなく、心の修行を誓い合った仲間として、あたたかく受け入れてくれたのです。

この方が私の主なんだ

入会してから3カ月後、思いがけないことがありました。東京正心館で行われる大川総裁の法話を直接拝聴する機会が与えられたのです。

前日はドキドキして眠れませんでした。恥ずかしい話ですが、もし、大川先生が普通の人間に見えたらどうしよう、と不安だったのです。

しかし、大川先生が登壇され、言葉を発された瞬間、そうした杞憂(きゆう)は吹き飛び、すうっと涙が流れてきました。「やっぱり、この方が、私の主なんだ。エル・カンターレなんだ!」という強い確信がこみ上げてきたのです。

過去清算の秘法

しかしその後、法話を拝聴して感動した心と、日々の生活の中でかかってくるストレスや、時折わいてくる悪なる心のギャップに、私は苦しみ始めました。

今こそ、精舎で『 過去清算の秘法』―特別灌頂―(※)を受ける時だと思いました。支部長に相談すると、秘法を受ける前に、『若き日のエル・カンターレ』の4、5、6章を精読することを勧めてもらいました。『若き日のエル・カンターレ』には、主のあれほど素晴らしい生き方の中でも、反省の時があり、「二度死んだ」と書かれており、深く心を動かされました。

「とりあえず今の自分は切腹だ」と思いました。

案内の職員さんに「儀式のときは何も持たずにお入りください」と告げられ、「ああ、死にに行く自分には何もいらないな」と思い、身一つで向かいました。

儀式を終え、主への感謝を捧げた時、「醜かった私も、今の私も、同じように主は愛してくださっていたんだ」ということを体感しました。

その主の思いが、胸に伝わってきた瞬間、涙が止まらなくて、周りをはばかることなく嗚咽(おえつ)してしまいました。それほどの主の愛を感じたのです。

(※)「過去清算の秘法』―特別灌頂(かんじょう)―:罪の多い人生を悔いている人が、主より許しを与えられ、光に満ちた人生を歩んでいくための秘法。

与えられた生命を輝かそう

私の心の修行は、始まったばかりです。

まだまだ反省は苦手ですし、広大無辺な仏の教えは生涯かけても学び切れないだろうな、とすら思います。しかし私には、手取り足取り導いてくれ、支えてくれる幸福の科学の仲間がいます。

この頃は、町を行き交う人の顔を見ても、「あの頃の自分のように、心に激情を秘めて苦しんでいる人がいるのでは」と、胸が痛むようになりました。

かつての仲間にも、仏の教えを伝え続けています。「よくやるよ」という反応もありますが、私の変化に驚き、同じく幸福の科学の仲間になった方もおられます。

私の人生を、「波瀾万丈だね」という方もいるでしょうけれど、ただ、欲望に振り回されていただけのことだったのだと今は思えます。

これほどの教えを学んでいながら、ただ悪が消えただけではだめだと思うのです。

修羅の人生から救ってくださった仏には、どれだけ感謝してもしきることはできませんが、与えられた生命を精一杯輝かせていきたいと心から誓っています


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大川隆法・本日の格言 生き方は選べる

2015-11-24 12:33:28 | 日記

あなたの現在の価値は、あなたがこれから何をなさんと欲しているかにかかっているのです。

ゼロから人生をスタートし、多くの人々から面倒を見てもらいながら、

それでもまだ、自分の与えられた環境に不平不満を言いつつ生きていくのか。

それとも、感謝ということを胸に秘めて、報恩という行為でもって社会に

還元していくのか。

いったいどちらを選ぶかです。



『幸福の原点』P.24

※幸福の科学出版


http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=143&utm_source=wordsJpn&utm_medium=email

※Amazon
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4876883602/hsmail-22/


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日本統治の三六年間がなかったならば、今の韓国の繁栄は決してなかった

2015-11-24 12:24:22 | 日記

当時、破産状態にあった朝鮮。日韓併合前の朝鮮は地獄.この朝鮮を救い、近代国家にしたのは日本だ。

『当時、朝鮮は、国造りの面で非常にたち遅れていました。当時の朝鮮は、いわゆる李朝(りちょう)末期の時代で、混乱し、国としての体さえなしていない状態であり、崩壊寸前でした。防衛力も

なく、財政は破綻し、国家的破産状態にあったのです。

 朝鮮の民衆はつねに、飢餓と、疫病と、重い税金にあえぎ、極貧の中を細々と命をつないでいました。支配者層は支配者層で、その貧しい民衆から搾り取ることしか考えてない独善的な人々でした。

また朝鮮では、学問は排他的な朱子学があるだけで、科学も、医学もありませんでした。学校も病院も治水施設等もほとんどなく、中国の文豪・魯迅からは「世界一貧しい国」とまで呼ばれた国が朝鮮でした。

そんな状態でしたから、朝鮮が西欧の植民地となるのは、もはや時間の問題だったのです。あるいは中国(清)の一部となるか、ロシアの一部となるか、といった状態でした。

それで明治の日本が願ったことは、朝鮮半島に、外国に侵されることのない、日本と同じ独立の気概と力を持った近代的国家が誕生することでした。そのために日本は、官民をあげて朝鮮の近代化運動を支援していきました。

 日本は、朝鮮に助け舟を出したのです。

もしあの日本統治の三六年間がなかったならば、今日の朝鮮半島、とりわけ韓国の繁栄は決してなかったでしょ。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi03.htm  より抜粋

(日韓併合前、李朝末期の朝鮮の人々は、極貧の中にあった)


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