時たまですが休日の昼下がり、『心の時代』というNHK番組を見ます。ランニングをした後、350ccの缶に入ったちょっと苦い飲み物をいただきながら、なんとなく見ているという感じです。
数か月前の番組でしたが、講師の先生が親鸞や浄土真宗の話をした後、視聴者の質問に答えていました。その時に、祖先や山々に手を合わせ、祈るのは宗教ですかという問いがありました、講師の先生は「それは、大切な気もち、美しい心ではありますが宗教ではありません」ときっぱり答えていました。その時は、答えの内容よりも、講師のあいまいなところのない態度が印象に残りました。それから何か月もたっていますが、ふと思い出し、下のような理解でいいのかなと思うようになりました。
上の図表では、私たちの心の中にあるものを信仰心と信心(祈る心)に分けてみました。そして宗教の側で私たちのために用意してくれるものを、教義(教主)、修行(実践)、祭祀の3つに分けました。
山や先祖に祈るというのは一番右端の行為、信心と祭祀をつなぐ行為です。信心はあるものの、ほとんどの人が、宗教の側で用意してくれている左側の二つに到達することはないと思います。その二つに到達するには、自分の心の中で、右側にある信心から左にある信仰心に移行する必要があります。信心と信仰心を隔てているのは、自ら(プラス人々)の救いをもとめる精神です。
なぜ、この苦しみがあるのか、なぜ人間は罪や業の中で生きるのか、そういった問いを発するか否かが、右側の信心と左側の信仰心の分かれ目だということです。
以上のようなことを、講師の先生は、TV番組の中で親鸞を通して語ってくれていたんだと思います。講師の断言する態度もむべなるかなと思った次第です。ふと、テレビ番組から思ったことを記してみました。
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