長野の猟銃発砲事件の犯人の境遇のことを考えていたら、決して他人事ではないと思った。私も、対人関係が苦手で、学生時代などに挫折を味わっていて、この犯人の心境が良くわかるような気がした。彼は、長野県の市とはいえ、山裾に広がる田舎の実家暮らしのようで、市議会議長で農業を営むやり手と思われる父親と習い事などを教えるような母親の家庭に育ち、叔母も含めて4人暮らしのようだが、一部の報道によると、大学在学中に挫折を経験したようだし、どちらかというと引きこもりのような生活であったようだ。こんな場合、噂好きの田舎の人は容赦がなく、まして30歳を超えて独身であれば、何かとよからぬことを噂する人もいたかもしれない。そんな彼の趣味が猟銃などの銃器を持って射撃することに向かったのだろうし、実家で親の監視下にあるような生活で憂さを募らせていたことは理解できる。しかし、絶対に人を殺しても良いということではない。人を殺すという行為は、明らかに人としての一線を越えた行為であり、彼をそこまで追い詰めた状況は何であったろうか。あえて言えば、どういう結果になったとしても、早い段階で親離れをすべきであっただろう。自立してみて、それから自分の人生が始まるのであるが、田舎では、とかく跡継ぎなどと言われて、親も子離れをしようとしない。これが悲劇の原因の一つであったように思う。
長野県で猟銃を使用した立てこもり事件が発生して、時間が経過しても未だに解決していないようだ。このような事件の常として、我が国の警察は、最終的には容疑者が疲労するのを待ってから突入するケースが多いが、果たして、それで良いのだろうかという疑問がある。もちろん、人命第一で、その人命には犯人も含まれるだろうし、制圧にあたる警察官もこれ以上負傷させたくないということなんだろうが、それにしても、SITなどを動員していながら微温的に過ぎるような気もする。外国では、このようなケースでは、例外なしに射殺されている。それがテロ事件などを含む、こういったケースの標準的対処方針ということだろう。しかも、今回のケースでは既に三名の人命が奪われ、報道によれば、負傷者で救出出来ていない人もいるそうだ。国内には、暴力団など反社会勢力で銃器を隠し持っている者も多数いると思われるが、いつまでも、こんな対応の仕方で済んでゆくのだろうか。例えば、テロ組織が原発などに立てこもっても、同様の対応をするだけなんだろうか、そんなことで治安が守れるというのだろうか。オウム事件では、首都圏に対するサリンや銃器などを使用した大規模なテロが計画されていたと思うが、そんな事態の発生も予想しても、いつまでも警察は、こんな対応を続けるつもりなんだろうか。
また、猟銃の所持許可については、厳格な審査があり、所持申請者に対しては、所持させてもよい人物かどうかの調査を、犯歴を調べるとか、近所とか関係者に聞き込みする形で行うことになっている。長野県警では、もし、この人物が所持許可を受けた者であるとしたら、該審査が適正に行っていたのだろうか。市議会議員の息子であるからとして忖度して手抜きのようなことはしてなかったのかと疑いたくなる。一方、近年、山に人が住まなくなり、イノシシやシカ、熊などの害獣が増えて困っているという状況もあり、銃猟従事者の維持、増加が望まれているのも事実であるが、それはそれとしても、銃器所持許可については厳格な審査が必要であることには変わりはない。それと、猟期以外に余分な弾を持たせないような管理が行われていたんだろうか。その点で、猟友会等への指導がどうなっていたのかの疑問も残る。
lgbt法案が話題になっている。LGBTqの人達に対する理解を促進する為の法案だそうだが、私は、この問題について欠かせないものは、異性間であれ、同性間であれ、性による搾取構造を許すべきでは無いという論点ではないかと思う。戦国時代やそれ以前から、武家や寺社においては、大名や寺主などが、若い小姓などの若い男性と関係を持つという、お稚児さんと呼ばれる文化があった。女性間でも、大奥など、閉鎖された女性のみの空間の中においてレズビアンということがあったかもしれない。しかし、ここで問題となるのは、権力者や上に立つ者が、その権力を使って、目下の者の性的自由をも支配するという構造ではなかろうか。吉原などの遊郭では、女郎がいて、異性の遊客に性を提供していた売春があったし、男性間でも性を売り物にするような売春宿もあった。今でも、援助交際やパパ活と呼ばれるものは、自らの性を金銭を対価に提供する売春行為である。女性が社会に進出して直面するのは、異性によるパワハラやセクハラであることも多い。週刊誌の伝えるところでは、ジャニーズの問題や猿之助の問題も、上の立場の者が、その立場を利用して、それを断れない目下の者に対してセクハラ・パワハラを繰り返していたことだと言う。
私は、LGBT法案に反対するものではないが、それと同時に、性による搾取の問題も論議すべきものだと思う。性は、極めて個人的なものであるとともに、それが権力構造と結びつくと、セクハラ・パワハラの温床ともなりやすい。売春防止法が施行されて長い年月が経つのに、未だに売春は跡を絶たないし、むしろ、性文化の解放の進行とともに、パパ活などを隠れものにして、金銭的に困窮した若い女性が性を売るような行為が社会の水面下で多くなっているように思う。性行為は秘密にされることが多く、その反面で、その欲望が金に換えられることも多い。売春婦は大昔からいたということを言う人もいるが、本来、性は売り物にされるべきものではなく、個々人が大切にすべきものである。我が国では、性を教えることが忌避されてきて、まともに性教育が行われていない。性教育の完全実施とともに、性行為は愛情に伴う双方の同意に基づく行為であることも教えるべきではないか。一方、性感染症も増加しているし、子宮頸がんなどはウイルス原因によるものが多いということも、公教育の場できちんと教える必要がある。
「金が敵の世の中」という言葉を思い出したのは、『学校現場での教員不足の解消に向け、自民党の特命委員会は、教員の月給への上乗せ分を2.5倍以上に引き上げるなどの処遇改善策を盛りこんだ提言の案をまとめた。』 というニュースを見たからで、何か、自民党の偉い人達は、教員不足の原因を単に金銭面にだけとしか思っていないのかと疑問に思った。少子化対策でも、お金を配れば、それだけで子供が増えるのかとも思ったし、政治家の皆さんは、お金さえだせば、物事が解決するかのように思っているのかとおかしくもなった。
政治家や官僚達は、予算付けをすれば何か対策を打ったと思っていることが多いと思うが、世の中は、そんな簡単なもので動くのではないと思う。教員不足の原因は、余りにも教員の仕事が多く、真面目な教員ほど、擦り切れていくような労働環境にあると思う。これは構造的な面が大きく、例えば、知育が教員の仕事の大部分とすれば、文科省や各都道府県の教育部局の監修の元に統一的な放送授業を行い、教えるという作業を効率化してはどうだろうか。現場の教員は、生徒が習熟度別にその放送授業を視聴して学習するのを監督・補助すれば良いと考える。その代わり、教員は、そのような自主的な学習に困難を覚えた生徒に対しては、その原因を把握して、的確なアドバイスを送るだけの教育心理学的知識と能力を磨く必要がある。クラブ活動などは、当然、全面的に地域のスポーツ指導者などに外部委託し、各種学校行事も簡略化するか民間に委託し、モンスターペアレンツ対策なども専門家に頼むべきではないだろうか。また、荒れている学校については、警察官OBなどを雇って常時巡回・対応させれば良いのではなかろうか。そんな抜本的な教育改革を望みたい。
少子化対策については、子供を持つということの意義と意欲を持てるように国を挙げてのキャンペーン活動が必要だし、シングルマザーやファザーが子育てしやすいような環境の整備も必要だろう。夫婦別姓も当然だし、国内に居住している外国人についても、出産・子育てにおいて差別してはならない。自民党や政府が、保守層に阿って、このような改革をしてこなかったことこそが少子化の主な原因ではないだろうか。現在は個人化が進み、金銭的にも個人のライフブラン面でも出産や子育てが決してプラスではないと考えられていると思う。このままでは、政府の想定よりも早いスピードで国内人口は減り続け、能力のある人は国を捨てて外国へ移動してゆくだろう。
そういえば、三十数年ぶりに株価が上昇局面に入っているという。国内株式の七割程度が外国人投資家の影響下にあるというし、この状況は長続きしないのではないかという向きもあり、相場のプロの人がSNS等で発信しているのを見ると、今は売りのチャンスだとのこと。さてさて、金が敵の世の中、どうしたものか思案中である。
広島サミットで、原爆資料館に首脳達が訪問したとか、慰霊碑な献花したとかマスコミはそんなことばかり報道しているが、このサミットの本質は何なのだろうか。プーチンが、自らの妄想的な大ロシア思想と、自国内における自らの正統性を示そうと始めたウクライナ戦争は、ウクライナを支持する欧米と、権威主義覇権国家であるロシアや中国との、新たな冷戦ともいうべき対立を生じさせた。今回のG7のテーマは、この対立に勝つために欧米の首脳が集まって協議することと、そうは言っても核戦争にまでは発展させたくないという表明にあった。決して平和の為、核廃絶の為のサミットではなかったのである。岸田首相にしてみれば、広島出身者として、さも、これらの協議をリードしたとの印象付けを国内向けにしたかったのだろう。しかし、冷徹な国際政治の場では、戦後のあまりにも理想主義的である平和主義的志向は理解されない。