八丈小唄(しょめ節)の詞の一節に「沖で見たときや鬼が島、来てみりや八丈は情け島」というくだりがある。
尤も、この一節を知ったのはこのときから7~8年も経ったサラリーマン時代。そのときの係長が島の出身で宴席でよく歌ったことによる。
八丈は、僕にとっても正にこの詞のとおりの島であった。
八丈島を初めて訪ねたのは、1967年(昭和42年)4月初旬。船が着いたその日は、青い空とミッドブルーな海の色、真近の山並みの新緑とのコントラストも鮮やかに、初夏の陽射がそそいでいた。
港で作業をしている人に民宿を教えてもらい、取り敢えず其処にむかう。底土港から10分程だったか歩いた処に「みどり荘」はあった。優しそうな田舎の小母さんが迎えてくれた。
宿には、僕達の他に同じ船できたアベックと2週間も滞在しているという商人なのか逃亡者なのか不明な、それでいて人なっこい中年のオジサンがいた。
民宿の一家は、ご主人が実は港で働いていた赤銅色した小父さん。濃いグリーンの色眼鏡の下に優しい、真っ直ぐな眼があった。迎えてくれた小柄でふっくら顔のお母さん。二十歳を幾つか過ぎた感じのお姉さん。小学2~3年生位の甘えん坊のような男の子。高校生位の日焼けした女の子がいたような気がするが・・・記憶が怪しい。
僕たちが乗ってきた船は、翌日には東京へと引き返した。また戻ってくるのは、3~4日の後となる。無謀にも若さの勢いで、金も無いのに島に残った僕等は「みどり壮」で一晩世話になり、翌日から徒歩での島巡りを開始する。島といっても周囲60kmはある。
サンダル履き、手荷物なし、懐は僅か。幸にも島にいる間中、天候には恵まれた。2日目は末吉と云うの民衆に素泊まり。食パンを買ってきて食べるが、腹が減ってしょうがない。かといって金はなし。野生のバナナはどう~なったんだ!と云う心境。
とうとう港の辺りに日干ししている魚に目をつけた。「あれを取ってきて喰おうぜ」と2~3枚失敬してきた。処が、くさくて喰えない。そのはずよ、島特産の生干しのクサヤだった。あの臭いはいまだ忘れられない。
3日めになり、腹は減るし、帰ろうにも船はなし、どうしようかと途方にくれた。
最初の民宿「「みどり荘」に戻って窮状を訴え、泊めてもらおうということにした。
みどり壮の小母さんは笑いながら「いいよ、泊まっていきな」と言ってくれた。お金を送るまでの間、学生証をおいて行きますと云う僕たちに「いいよ、いいよ」と笑っている。
宿が決まり、飯が喰えるとなると俄然元気が出て、その後の何日かを初春の海に入り、島中を走り廻り、挙句島の女の子と仲良くなりカメラまで借りて遊んで過した。
何の遠慮もなく飯をたっぷり食べ、おかずをも沢山頂いた。おかずは、島で取れる新鮮な魚が中心、この頃僕は魚が苦手だった。明日葉の葉や料理を知ったのもこのときだった。
のんびりした、いい時代だった。
帰りの船に乗ると、おじさんが手を振ってくれた。
このときお世話になったことが忘れられず、2年半後、今度は一人で島を「みどり壮」を訪ねる。
“写真は、先月訪問した際に撮った墓地の地蔵さん」島のお墓は何処も花で一杯。一年を通じてそうだと言う。
尤も、この一節を知ったのはこのときから7~8年も経ったサラリーマン時代。そのときの係長が島の出身で宴席でよく歌ったことによる。
八丈は、僕にとっても正にこの詞のとおりの島であった。
八丈島を初めて訪ねたのは、1967年(昭和42年)4月初旬。船が着いたその日は、青い空とミッドブルーな海の色、真近の山並みの新緑とのコントラストも鮮やかに、初夏の陽射がそそいでいた。
港で作業をしている人に民宿を教えてもらい、取り敢えず其処にむかう。底土港から10分程だったか歩いた処に「みどり荘」はあった。優しそうな田舎の小母さんが迎えてくれた。
宿には、僕達の他に同じ船できたアベックと2週間も滞在しているという商人なのか逃亡者なのか不明な、それでいて人なっこい中年のオジサンがいた。
民宿の一家は、ご主人が実は港で働いていた赤銅色した小父さん。濃いグリーンの色眼鏡の下に優しい、真っ直ぐな眼があった。迎えてくれた小柄でふっくら顔のお母さん。二十歳を幾つか過ぎた感じのお姉さん。小学2~3年生位の甘えん坊のような男の子。高校生位の日焼けした女の子がいたような気がするが・・・記憶が怪しい。
僕たちが乗ってきた船は、翌日には東京へと引き返した。また戻ってくるのは、3~4日の後となる。無謀にも若さの勢いで、金も無いのに島に残った僕等は「みどり壮」で一晩世話になり、翌日から徒歩での島巡りを開始する。島といっても周囲60kmはある。
サンダル履き、手荷物なし、懐は僅か。幸にも島にいる間中、天候には恵まれた。2日目は末吉と云うの民衆に素泊まり。食パンを買ってきて食べるが、腹が減ってしょうがない。かといって金はなし。野生のバナナはどう~なったんだ!と云う心境。
とうとう港の辺りに日干ししている魚に目をつけた。「あれを取ってきて喰おうぜ」と2~3枚失敬してきた。処が、くさくて喰えない。そのはずよ、島特産の生干しのクサヤだった。あの臭いはいまだ忘れられない。
3日めになり、腹は減るし、帰ろうにも船はなし、どうしようかと途方にくれた。
最初の民宿「「みどり荘」に戻って窮状を訴え、泊めてもらおうということにした。
みどり壮の小母さんは笑いながら「いいよ、泊まっていきな」と言ってくれた。お金を送るまでの間、学生証をおいて行きますと云う僕たちに「いいよ、いいよ」と笑っている。
宿が決まり、飯が喰えるとなると俄然元気が出て、その後の何日かを初春の海に入り、島中を走り廻り、挙句島の女の子と仲良くなりカメラまで借りて遊んで過した。
何の遠慮もなく飯をたっぷり食べ、おかずをも沢山頂いた。おかずは、島で取れる新鮮な魚が中心、この頃僕は魚が苦手だった。明日葉の葉や料理を知ったのもこのときだった。
のんびりした、いい時代だった。
帰りの船に乗ると、おじさんが手を振ってくれた。
このときお世話になったことが忘れられず、2年半後、今度は一人で島を「みどり壮」を訪ねる。
“写真は、先月訪問した際に撮った墓地の地蔵さん」島のお墓は何処も花で一杯。一年を通じてそうだと言う。