7/21(火) 田舎から東京に戻ったのは、今日の午後三時過ぎ。高知は雨つづきで、今日も朝からの雨。羽田空港に降り立ち、青空を見た時は嬉しくなったほどだ。(昨日ここまで記して外出した)
7/22(水) 我が故郷は今日も雨のようだ。これじゃ畑のスイカも腐ってしまうと心配だし、安田川も洪水つづきで鮎も暫く獲れないだろう。
先週の木曜日、夕方の便んで帰省予定だった。処が、台風が四国方面に向っており、この夜あたりに上陸の可能性が高まっていた。
月曜日から水曜まで、佐賀・熊本と旅をし水曜日の昼に帰京。その足でOB会の理事会に出席。七時過ぎに会社に戻り、翌日の帰郷に備えたが台風が気になった。どう考えても翌日の午後は飛行機が飛びそうにない。これまでの豊富な経験(綱渡り人生と云うべきか)からすると、午前中ならなんとかなりそうだと・・・。
急遽、夕方の便から昼前の便に切り替えた。翌朝空港に向かう前に、ネットで飛行状況を確認すると午後便は全て欠航の表示。朝の一便は出発していたが、私が搭乗予定の昼前の便は調整中となっていた。
取り敢えず空港に向かった。着くと、搭乗手続き一時中断との表示が・・・・。暫く待つと「天候次第で羽田に引き返す」条件で出発となった。これまでの経験からすると、こうなれば概ね何とかなる・・・。案の定、飛行中の揺れもなく高知空港に着陸した。
実家に向かう途中から大雨となり風も吹き始めた。が、まだまだ余裕である。台風はこの夜、23時頃に室戸あたりに上陸した。この時間帯に風雨が一時ながら治まった。台風の目が通過中であったろう。実家から室戸岬までは約30Kmの距離なのだ。昨年のお盆に襲来した台風に比べると大したことはなかった。
帰省を知っている友人達から、安否を気遣う電話を貰った。TVに「全町避難勧告」だとか、携帯にも緊急通報で流れてくる。こっちの方は『何処に避難するんだ。家へが一番安全』と多寡を括っている。翌朝川を見に行ったが、昨年の洪水に比べると子供のようなものだった。昨年は途中の県道が冠水、田圃も川水に浸かったからね・・・。
昨年の台風では、右手の田圃に濁流が入った これが、昨年8月の台風後(右が田圃)
台風が去った翌日も雨。土曜日、晴れ間が少し覘いたので畑の草刈となった。台風後の蒸し暑さには閉口したが・・・。この深夜、またしても大雨が降って川は増水した。
ここは南瓜&スイカ
そして、日曜からずっと雨がつづいているのだ。「雨あめふれふれも~と降れとか、蛇の目で母さんの迎え嬉しいな」なんてノー天気な唄があるが、これだけ雨がつづくと『いい加減にしろよ』と、毒づきたくなるね。
連れて行った孫娘(四歳)は、水着・水中メガネ・浮き輪・ビーサンと、取り揃えての田舎行であったが出番なし。草刈が出来た土曜日だけ、外で遊ぶことができた。
それに比べて帰京した東京の暑さよ、空の青さよだ・・・。出来ることなら、我が故郷に少し持って行ってやりたいね・・・・・。
帰省中にお葬式が一件できた。同じの94歳ぐらいのお婆さんだったが、ここの息子さんが私より一歳と三歳上がいる。一歳上のKAZUO君は子供の頃の遊び仲間。彼は中学を卒業後、大阪に就職した。一年後、中三になった僕らの修学旅行は、大阪・京都・奈良だった。
大阪の宿にKAZUO君が来てくれ、僕らを大阪の街(ミナミだったろう)に案内してくれた。田舎での、未だ少年だったKAZUO君は、繁華街に詳しいはずもなかろうに・・・。饂飩を奢って貰った記憶が微かにある。小遣いも乏しかったろうにな・・・・。
そんなことが思いだされ、義弟にあたるHIROKATUと一緒にお通夜に行くことにした。受け付けの女性に、HIROKATU 曰く「誰か判らんろう?」と言う。小学から高校まで同級のKAZUKOさんだった。これじゃ町ですれ違ってもお互い判らん。それだけ変形か?原型を留めていないということだ。
何十年ぶりかで会い妙に懐かしく思えたのは、中学の卒業時に彼女が書いた寄せ書き。「鶏頭となるとも牛尾となるなかれ」(鶏口と・・・牛後と・・)であった。その一文だけが未だ記憶に残っている・・・。
「そのうち同窓会をせんといかんね」『そうだな…』そんな会話を交わした。中学の同級生で亡くなったのは三人か・・・・。もう誰が何時逝ってもおかしくない年令まで来てしまった。
先週の月曜日の夕刻、佐賀空港に降りた。故古賀武夫さんの出版企画の取材立ち合い。そしてこの夜に開かれる、NAKAMIZO DAISUKE君のインド赴任の壮行会に参加する。学生時代に出会ったDAISUKEも、早や三十三歳になっていた。古賀武夫さんの空手&英語道場の弟子である。
学生だったその弟子たちと一緒に、「地球市民の会東京」の活動について何度か話し合いの場を持ってから十数年が経った。意見は全く集約ならず、纏まらなかったが、それはそれとして良かった。若者たちと触れ合うのは悪いものじゃない・・・。
壮行会には、若者よりもオヤジやオバハンたちが多かったが、DAISUKEの壮行会らしい集まりと思えた。それぞれの思い出を語り、夜は更けていった。
DAISUKEは「インドにも和同流の道場があるそうです。会社の人から待っていると言われましたので、空手はつづけます」と、決意表明をした。彼の空手は中々のものだと聞いている。
翌日の午後、佐賀での取材を終えたHASHIMOTO氏と、会の専務理事OONO氏、古賀武夫さんの未亡人YOUKOさんの四人で、阿蘇の南麓の「世界平和道場」に向かった。そこは現会長のSATOU SHOUJIさんの住いであり、神武天皇が東征の兵を挙げたと伝えられる「幣立神宮」に連なる丘陵地である。
会長は、この夜遅くに名古屋から戻るとのこと。我らは、途中で温泉に入り夕食を済ませてから伺うことにした。OONO専務理事が、阿蘇の温泉リストを用意してあった。この中からYOUKOさんのリクエストで高森町の「月廻り温泉」とやらで入浴することになった。この温泉は高森駅から車で十数分、阿蘇山に向かった山腹に在った。
入り口は厳めしいが・・・・
見晴らしがいいとのことであったが、遥か向こうの山には生憎の雲。鄙びた小さな温泉は、閑寂・静謐な山の空気に沈みこむようで旅情をかきたてた。
風呂の後は飯、とガサツな都会人は飯屋を求めた。「ここ高森は、田楽が有名なんですよ」と、OONO氏が言う。ではと、途中に在った田楽の里に向かう。山中の隠れ家と思しき料理家が、日暮れた木立の中にポツリ聳えるが如くに在った。大庄屋の古民家を移築したような建物の中は、畳敷きの大広間に大小の囲炉裏が十ほども設えてある。
その一つに案内をされ、座した。田楽のコースを所望し、瓶ビールの栓を開けた。運転手役とご婦人、HAHSIMOTO氏もオールフリー・ビールなんぞを注文した。囲炉裏に炭が熾き暑くなる、早くビールを飲まなきゃ…温まるぜ・・・・。
¥2800の田楽コース?だったような気がするが、これで満腹。町(?)のスーパーであるアルコールや乾き物を仕入れ、いざ出陣と、蘇陽(旧町名で現在は山都町)は馬見原の台地に向かった。
我等と相前後して戻られた会長との話&酒は、深夜に及んだことは云うまでもない。旅は、いいなあぁ・・・・。