オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

義肢装具

2016-05-31 | Weblog

5/31(火) 昨夕、神楽坂の居酒屋にて某私立大学の教授とお会いし、懇談&ヒヤリングのような場を持った。先月に取材した沖縄・金武町の佐喜眞義肢さんの取材の延長のようなことであった。相変わらずしぶとく取材を重ねるHOROさんのセッチングであった。

大学の先生はHさんと仰られる方で、一歳の時にポリオ(小児麻痺)に罹り以来右足が麻痺をした状態がつづいている。重くて壊れやすい下肢装具に悩まされつづけてきたそうだ。それが、三年前に沖縄を訪れた際に、偶然にも((株))佐喜眞義肢のことを知人から教えて貰ったそうだ。そして佐喜眞 保さんに会うことで、自分ンにマッチした下肢装具に辿りつくことが叶った。。「日進月歩の時代にどうして進化が無いのか」と、佐喜眞さんに問うたそうだ。

そのことをお聞きするため、昨夜の場となった。簡潔に云うと、先生のこれまでの装具に対する不満の歴史と留学したドイツでの先進的な仕組み、佐喜眞さんとの出会いで如何に歩行が楽になったか。更に、義肢装具業界或いは医療分野の進化の遅さ、業界的利益構造が、新しいもの革新的なものの出現・普及を阻害しているか、そんなことが話題となった。

先生が麻痺した足、装具を装着した状況を見せてくれた。右足には全く筋力がないそうだ。右足は8cm短いので足先に履く靴も佐喜眞さんと出会う前は大きくて不細工なものだったとか。それが、「今では普通の靴が履けるんですよ。靴屋で足の大きさを訊かれて・・・計ってもらって初めて知りました」と話した。

                              

軽量合金?装具とCBプレイス応用器具?の組み合わせか。これまでの装具と違い、真直ぐに歩けて、軽量化と装具改良によって筋力のない足が曲り、階段が苦にならなくなった。そんな喜びを聞くことができた。これからの課題は、この装具を如何に広めるかですよ!と。これが今夜の主テーマか。
― この話を聞きながら思ったのは、進行性ポリオで年々体が弱っているJOUJIMA女史に対応できないかと云うことだった。佐喜眞さんにお会いして聞いてみるか・・・・―

そして、ウチナンチュ―の人付き合いの良さ、人と人の広がりの大らかさ、そんな話題で盛り上がった。「沖縄で会いましょう」が結びの言葉となった。先般の佐喜眞さんを交えた某大学のドクターとの場と同じように。

先生と別れ、ワインBARでHIROさんと暫しの歓談。さっきまでのこと、そして古賀武夫伝記のことなど。それから、人形町に戻ろうかとも思ったが、既に時刻は22時を過ぎていた。メトロを乗り継いで帰宅すると23時になっていた。駅前のスーパーで、弁当用の魚を買って帰った。

 

今朝の目覚めは5時半。そこから弁当タイムに向かった。昨夜に買った「ワラサ(鰤のチビ)」と、「鶏唐揚げ」「破竹煮」である。

ワラサの切り身が三枚あるので、塩焼き、ソテー・フライの三種にした。どの調理がマッチするかだが、結果は塩焼きは×(脂身がないので旨味なし)、他は何れも良し。破竹のタケノコは、従姉が送ってきたものだ。これは鶏肉を細切りにして一緒に煮た。鶏唐揚げとワラサのフライ、揚げ物ついでに、オクラ天麩羅・グリンピースと小エビの天麩羅を少々。変わり卵焼き、以上であった。

                            

 

 

 

 

 

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祝杯ならず・・・

2016-05-30 | Weblog

5/30(月) 昨日は日本ダービーも目黒記念も外れて、なんとも冴えぬ気分で会社を後にしたのは午後六時すぎであった。デザインの作業に打ちこんでいるYOSHIOを残したままで。仕事の邪魔をしちゃ申し訳がない、敗者は一人去りゆくのみだ・・・。

暇にあかせて悪徳チャンに電話をすると、「事務所で契約書の英訳に苦闘しながら、一杯やってます」とのこと。事務所に誘われたが、外で軽くやろうと事務所を出て貰った。なんといっても、彼の事務所とは100mほどしか離れていない。

一年中営業している「源ちゃん食道」で一杯となった。遅れてNKAMURAの大将が、眠そうな顔をして現れた。NAKAさんの日曜日は東京近辺の散策、悪徳ちゃんは事務仕事、そんなところであろう。私は気ままな素浪人、ボートがなければお馬さんの競争を見るぐらいなのだ。

お二人に付き合って貰い、夕方のひと時を時間潰しと相成った。Wのハイボールに赤・白ワイン、安い肴で二時間ほど歓談した。帰宅は21時過ぎであったろう。のんびりとした日曜日を過ごしたのである。

今朝は午前三時に一旦目が覚めたが、こりゃいかんとまた眠った。眠れたのだ。そして朝の目覚めは、五時半である。猫が餌を求めるミャぁーミゃ~の声で目覚めたようだ。で、弁当作りとなった。

今朝は「牛小間炒め」「野菜素揚げのドレッシング和え」「冷凍塩秋刀魚焼き」「冷凍シューマイイ」「卵焼き」である。揚げ物ついでに、餃子と豚小間も素揚げした。野菜の素揚げは、オクラ・茄子・カブ、ドレッシングは青紫蘇。なんの感慨も無く、淡々と作り出来上がったのである。

                            

真ん中の写真は、酢揚げした野菜と豚小間を青紫蘇ドレッシングで和えたものだ。

                           

 

 ―ショート・ショート―

僅か一年とは云え、三島で過ごした思い出は尽きない。F荘十六人の下宿人のうちで、今でも付き合いがつづいているのは東京に居るHOSOKAWAぐらいだ。私のF荘への入居は、一学年先輩の故・岡宗さんの紹介による。三島校舎に行くことになり、知人の紹介で春休みで帰省していた岡宗さんを訪ね、下宿のこと取るべき講座などを教えて貰った。

三島のF荘には入学式の三・四日前に入った。校門の脇に在る桜が満開の時を迎えていた。下宿には一番乗りだった。と云うことは、牢名主の権利を握ったようなものか?

永の付き合いとなるHOSOKAWAは、二日ほど遅れて親父さんに付き添われて富山から出てきた。一番乗り、古参兵の私がなにかにを教え、親父さんを交えて部屋でビールを飲んだ。で判ったことは、HOSOと私の育った環境が同じと云うことだった。

三島・本町中央通りのBAR・リラに入った経緯は覚えていない。が、リラに入りびたりのようだった時期があった。三十過ぎのマスターとママ、年増(こっちからみれば、みんなそう思えるは当然だが)の姐さんが二・三人居た。バーテンの裕ちゃんは三島を離れた後に店にはいったのか。昔風のBARと云う雰囲気で、マスターの趣味がでている店だった。

今おもうと当時のリラは、オープンしてからそれほど年数が経っていなかったのかな。細面で物静かなマスターと日本型の美人のママさん。落ち着いた雰囲気のいい店だった。姐さん達も大人だった。

店内は、五・六人が掛けられるカウンターと、少し距離を置いてBOX席が三席程だったと思う。リラに初めて入ったのは五月の連休も終わった頃であろう。BARと云う処に入ってみたい、そんな好奇心、探究心?てやつかもしれない。大人への憧憬かな。

二度目か三度目に、店にHOSOを連れていった。彼は東海バスで車掌のバイトを始めていたので、そのバイト代でも握りしめて胸をときめかせていたかも・・・。するとHOSOは、ママさんにすっかりのぼせ上った。時々一人で飲みに行くようになっていた。

『お前ね~、マスターとママはどう考えても夫婦だよ。のぼせるのも大概にしろよ』と、初心なHOSOをたしなめた。そのHOSOが、台風が来た或る晩、リラへ行くと大風雨の中を出掛けた。それも百円玉を一枚握って・・・・。

リラでは、トリスのショットグラス一杯が百円だった。その一杯でも、ママさんの顔を見たかったのかな・・・。初心だが、百円玉一個でBARに行くやつは稀だ。世間知らずも極まりだが、マスターは学生の僕らを、田舎での若者を大目に見ていてくれたのだ。そんな人がいた時代であった。

三島を離れ、そして就職をしてからも年に何度かは三島を、リラを訪ねていた。或る時はマスターの家に泊めてもらい、二日酔で家族の海水浴(まだ小さな男の子が二人いた)に一緒に行ったこともあった。

HOSOはTV業界に入り、芸能人とそれなりの付き合いができていた。そんな或る年、三島の飲食組合のトップに就いていたマスターから相談があった。組合の周年記念事業があり、ゲストに芸能人を呼べないかと。それも名前が売れた人を、低予算でとのことだった。

『HOSOKAWA、これこそお前の出番だぜ、これまでの恩をしっかり返せよ』と発破をかけた。そして、何年か前まで売れていた、誰でもが知っている女性歌手を呼べることになった。当然事務所をとおさないバイト仕事と云うことだが。当日、HOSOと私はその式典とお祝いの会場に居た。HOSOは、照明や音響のチェックを手伝っていた。このイベントで、少しだけマスターにお返しができたかも・・・・。


マスターは事業を拡げていったが、五十歳ぐらいの時であろうか。甲状腺を手術して声を無くしたこと、そして亡くなったと、ママからの便りが届いた。修善寺に向かう途中にある寺の墓前を訪れたのは、それから七・八年も経ってからであった。

マスターが健在な頃に、リラはBARからパブに衣替えし、カラオケも置いた店になっていた。国道沿いに出来たショッピングセンターにカフェをオープンした。その後、どんなふうになったのか知らない。前から在った三島田町駅前の喫茶「榛名(店名はマスターの出身群馬の榛名山からとか)」もどうしたか知らない。今、中央通りに「リラ」と云う店はない。

こうして、三島で大人たちに支えられて青少年から若者に変わっていく一時を過ごした。生涯忘れえぬ一年である。

 

今度の日曜日は演歌旅、湯の町エレジーだが。「妻と書かれた宿帳に・・・・・」の”熱海の夜”て歌があるじゃない。この歌い手は、昔流しをやってた頃にリラにもよく来てたよ、とマスターは言ったが、私は覚えていない。或いは、「昭和枯れすすき」の、さくらと一郎の一郎だったかも。

誰かに「熱海の夜」と「昭和枯れススキ」を唄ってもらおう・・・・。そして、昔のリラの店で、流しの兄さんがギターを弾きながら唄っている姿を思い浮かべよう。其処には、若かったマスターやバーテンの裕ちゃんの姿がカウンターの奥に見えるはずだ。

 

 

 

 

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久々に・・・

2016-05-29 | Weblog

5/29(日) 昨日、久々に結婚式&披露宴に出席した。普段は絞めないネクタイにスーツ姿ですっかり疲れてしまったが、家内の姪はなかなか良い男を掴まえていた。東京にいるので時々顔を見せたし、あの大震災の後には一人で部屋に居るのが怖いと、我が家から暫く出勤をしていた。だが何時の間に良縁を掴んだとは知らなかった。

早稲田にあるホテルで式や披露宴があったが、面白かったのは式の司祭の顔であった。この顔が、前夜に某氏の快気祝いの幹事をやってくれた、後輩のT氏にそっくりだったのだ。髪型から輪郭、口から顎にかけての髭とうり二つとまでは言わぬがよく似ていた。Tの方がもう少し細見だが。

                           

式を終えた場面だが、新郎新婦の後ろに立つ司祭を見て欲しいのだ。不良治と呼んでいる、Tにそっくり

結婚式もホテルや教会で挙げるのがお洒落なのか、そんなスタイルが多い。クリスチャンであれば分かるが、そうでない者同士が主にキリストに誓いを立てて本当の聖約になるのか?と、この手の挙式に立ち合い度に疑問が湧くのだが・・・・。年寄りの冷や水と云われるか。冷や水ならぬ、披露宴でエヤコンの風が降りてきて寒かった。

 

今日は平和島のボートレースはやってない。その代りでもないが、会社に出てきてダービーと目黒記念の競馬の馬券を買ったが、これも外れた。勝利の女神も、運の方もどうやら私を避けているようだ。遠慮しなくていいのに。我が春は遠し、遠くにありて思うものか・・・・・。アーメン!

 

 

 

 

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ショート・ショート

2016-05-27 | Weblog

5/27(金) 昨夜の我が郷里の母校、弱小高校の同窓会を「奈加野」で開いた。開いたと云うのもおこがましい云い方だが、代表であり幹事という不幸を背負わされているからだ。年下の学年の出席といえば、従妹がただ一人、それも小生への義理で来てくれるだけだ。そして、ここ数年顔を出してくれるのがクラスメイトだったMASAO君。後は先輩方で、最年長は80歳(此の方が一番元気1)であった。

老人たちはいずれ消えゆく運命、したがってこの同窓会は風前の灯、消滅の危機に在るのだ。出席メンバーは固定化しており、体調を崩したとかで交互に二・三の欠席もある。全国校長会開かれるこの時期、年に一度の顔見世興行と云う処だが・・・・、参加は少人数に低迷している。そんなことで、会の解散を計ろうと思っていたが。

案内状にもそれらしき旨を書いて出した。その所為か、今回は10年以上も顔を見せていなかったOBが三人参加してくれた。その影響もあったのか、来年も開催の運びとなってしまった。

然し疲れた。酔っ払って立てなくなるOBあり、挙句にゲストの校長が酩酊、送ろうと店を出た歩道で転んでしまったのだ。こっちは酔う余裕もなかったが、動物園の世話係としちゃあ、皆さんが無事で気持ち良く帰って下さればそれでよしだ。

で、今夜は某研修ビジネス会社代表、K氏の快気祝いを小人数でやることになっている。K氏は、私もメンバーの某島に行く会の幹事、また弊社のお客さんでもある。そんな関係で、胃癌手術(軽かったようだが)が済んで、仕事に復帰されたので快気祝いとなった。今夜の幹事は、これも腐れ縁のRYOUJI・T、こと不良冶・Tである。店は恵比寿なので、今夜も人形町パトロールは休業だ

タクシーを使ったので、昨夜の帰宅は23時と早かった。昭和三十年代の演歌を聴きながら蒲団にはいったのが零時。目覚めは七時と、睡眠時間は十分のはずだが・・・・眠い。脳がぼやけている。夢をずーっと見てた所為かな?

起床時間が遅いので、弁当作りは大慌てと思いきや。そうでもなかった。就寝前にメニューはすっかり出来上がっていたのだ。

先ずは「鶏肉のトマト煮」オリーブオイルと塩胡椒で味付け、トマト・オクラ・茄子が入った。そして「牛小間炒め」タマネギ・ピーマンを加え、焼肉のタレで味付け。タマネギ・人参に小エビの「掻揚げ」。最後に「ホウレンソウの卵和え炒め」であった。

                             

 

余談だが、先ほど羽田空港で旅客機の炎上騒ぎがあったとか。午後便で帰高する校長先生からのメールで知った。「昨晩はお世話になりまhした。擦り傷だらけになっていました」とは、今朝のメール。先ほどのメールには「飛行機が欠航になり、ふんだりけったり。これから新幹線で帰ります。罰が当たったようです」だった。中々面白い先生である。が、旅先で乗り物のトラブルは大変だ。その点、私などはギリギリながらセーフがつづく。平素の行いかな?

伊豆・修善寺への湯煙り演歌旅が、来週となった。三島「桜家」で鰻を喰い、帰りは沼津港で魚を喰う予定だ。これじゃ痩せる間が無い。とは云いながら、喰える時に喰うしかない。

食いものついでに、三島時代の食い物にまつわる話など・・・・。喰い物といっても、木に生る柿のことだが。

   ―ショート・ショート―

僕らの居た下宿はF荘と云い、同じ大学に通う一年生ばかりが十六人暮した。期間限定、一年間の共同生活が始まったのだ。大学までは十分程歩き、裏の塀を乗り越えると着いた。

下宿のロケーションは田圃を前に、後ろが小高い山。下宿の右隣に大きな日本家屋の本家が建ち、そこには土建業を営む息子さん一家が。左側が100坪ほどの畑、そこには登って遊べるほどの柿の木が5~6本植わっていた。

四月の入学から夏休みを経て下宿に戻ると九月。柿の実はすっかり大きくなっていた。そのたわわに実った柿を前に、下宿のオーナーである爺さんが下宿人の悪餓鬼どもに言った。「この柿が熟れたら幾らでも採って喰ってええだよ」と。

それから数週間後のある夜、誰かの部屋に集まって7~8人で酒を飲んでいた。その時、熊谷のスパーの倅ISHIだと思うが「柿を喰おうぜ。幾ら取ってもいいって言ってたぜ」と、言い出した。喰おう喰おうと、隣の畑に繰り出したは云うまでもない。

採って喰うだけならいい、がそのうち柿を取っては投げるが始まった。最後は、皆で柿の木に登って猿・カニ合戦ならぬ、猿餓鬼合戦を始めていた。柿の実は未だそれほど熟れてはいなかった時期だが、構やはしねぇと、千切って投げ、取っては投げと柿合戦で遊んだのだ。さしものの柿の実はすっかりなくなり、木は裸になったのだ

翌朝、柿の実の全容を知った爺さが怒り狂った。「おめえラ、碌なもんじゃネェ。こんなあことして」と。幸いにもその場に居合わせなかったし、猿・カニ合戦には加わらなかった(見ては居たので同罪だが)。がっつり叱られたISHIが後で言った言葉は「好きなだけ取っていいって言ったよな」だった。

俺たちはそれだけ救いようのない、ボケ・バカヤローだった時代。そのISHIも、首都圏で大手スーパーに成長した稼業を継いで社長業だと聞いてから十年が経つ。

 

爺さんと婆さんが営む下宿。我等はF組十六人衆と名乗っていたが、出身も気性も違う。ライフスタイルも勿論違う。十六人の中で、それぞれにグループ的になるのは必然であった。

隣で土建業を営む息子の嫁さんが来て、アルバイトの土方仕事を頼んで行くことがあった。土建業でも「地鳶」と呼ばれる稼業であることは、後に知る。南何人かがそのバイトに駆り出されていったが、つづけてやる、やれる者はいなかった。

夏休みが終わり、最初の試験も終わって秋風が吹く頃だったか。土方仕事に駆り出された。下土狩にある工場建設の現場だった。基礎工事で、鶴嘴・スコップを振るい土を掘り、運んだ。なん日も何日も、土方をやった。

夕焼けに空が染まる頃、仕事仕舞となる。秋の暮色の中をトラックに乗って若い衆と一緒に戻る(運転していたのは、六つも免許がある人ばかりだった)。と、爺さんが風呂が沸いているよと呼んでくれる。嫁さんの方は「洗濯もんだしときにゃぁ」と、汗に汚れた服を洗ってくれた。

風呂から上がると晩飯だと呼ばれる。本家の広い居間で車座で酒盛りが始まるのだ。飲めぬ私も、付き合いだとばかりに無理をして酒を流し込む。私よりは一~三歳は年下と思われる若いのが二・三人。三十代とおぼしき中堅に、年配の男が一人。オヤジさんを中心に、五・六人は何時も酒を飲み飯を喰っていた(今思うと連中は其処に泊まってたのかな?)。今思うと、オヤジさんも四十前後だったか。

そんな或る晩の飯の時、オヤジが僕に言った「なあ〇〇よ、この若い衆を頼むぞ」と。なんでそんなこと言ったのか、言われたかも知れなかったが『はい、わかりました』と応えた。応えるしかなかった。

酒の上での座興か、単に口に出ただけのことか判らない。一年の期限だった下宿を出て東京へ。それから、F荘を訊ねたのは数十年も経った後のことであった。辺りはすっかり様変わりをし、柿の木のあった畑も、前の田圃も、本家もなく、全て住宅街になっていた。下宿の在った後には、代わりらしきアパートが建っていた。

オヤジさんが亡くなったこと、その前、随分前に嫁さんが家を出たこと、そんなことは下宿人だった事情通から聞いてはいたが。余りの変わりように、年月の重さを知るのみであった。

例え座興であれ、冗談であれ、言われて応えた以上は、その重さを背負うしかない。と分かっていながら、何もできないままにここまできた。どうすりゃいいんだよ・・・・バカヤローと吐き出すしかない。あの一言が出た夜、オヤジさんは俺の中に土方稼業の天分を見たのかもしれない?

 

 

 

 

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鮎の遡上が・・・

2016-05-26 | Weblog

5/26(木) 日曜日から昨日の昼まで帰郷していた。鮎漁のの解禁が6月1日と迫ったが、今年は鮎の姿が見えないと川漁師たちが嘆いている。例年、今年は鮎がいないいないと云いながらそれなりの漁ができている。今年もそれかと思いきや、例年以上に姿が見えぬと嘆いている。

こっちは頂く一方の身なのでなんとも言えないが、漁が少なければこっに廻ってくるのも減る。田舎の漁師たち以上に気になる処だが・・・。鮎もさることながら、ウナギだ!鰻の姿が見えない。厳冬期、河口で遡上する稚魚をあれだけ取っては増えるものも増えない。各河川を交互に、二三年づつ禁漁にするといいのだが。

鰻の値段も上がる一方、その高い鰻を、それも柵(二段重ね)を喰うのが今度の小旅行の、人形町オヤジ達の楽しみになっている。昨夜もそんな会話で盛り上がった。

鮎や鰻の心配までしなくてはならない時代だ。手前の先行きも見ない身で、小生き物の心配とは片腹痛いぜ、と言われるか。小動物と云えば、烏やヒヨドリの被害、猪や鹿の襲撃に山谷は困り果てている。小事ながら、今年も我が畑の枇杷も熟れる前に丸裸にされたのだ。しけたジャガイモだけは生き残ったが・・・。

来月の帰省では、果たして何匹の鮎を口にできるか?鰻は捕れているか?。帰京前夜、親戚のKATUOと飯を喰いながら、ウナギの件は重々申し渡したのだが・・・・・。

 

土曜日は五時半に家を出て羽田空港へ、そこから佐賀に渡り「地球市民の会」総会と、熊本地震支援シンポジュウムを聞き、夜の懇親会に参加。夜の部は程々に(零時前だが)切り上げてホテルに戻った。翌朝は六時起床で、七時の電車で福岡へ。九時前のJALで高知へ。午後からはミカン畑で草刈りに勤しんでいた。我ながら感心をする勤勉ぶりの週末であった。

月曜日は畑の梅の実を少し(10Kg程)とった。高知市内の従姉が例年取りにくるのだが、昨年は採ってなかった。すると熟した梅の実が畑に散乱し腐る。草刈機を廻すと、これが飛び散って大変なのだ。そんなことで、収穫した梅の実を半分ほど「焼酎漬け」にした。何故かと云うと、酒が飲めぬKATOが焼酎漬けの梅の実が好きだと言うのだ。鰻を捕って貰わねばならぬ!梅の焼酎漬けぐらいはしなきゃ。

                       

                     鮎が少ない安田川と、 花は「晩白柚」

そんなことで、あっと云うまに帰京の水曜日を迎えた次第。昨夕の四時に会社に戻り、八時前に退社。そこへ、人形町パトロール隊から召集状が。上手いタイミングである。

「こま吉」に屯のメンバーに合流し、ホッピーで乾杯。ANAの機内誌でたまたま見掛けた「桜家」の鰻のページを紹介した。こま吉から「ローカーボ」へと移動し、ハイボール&白ワイン。延々と続きそうなメンバーを残して、お先に! と引き上げた。佐賀から高知と、またしても飯の喰い過ぎ旅であった。

                           

にも拘らず、今朝の弁当では『自家製コロッケ』の制作となった。我が畑のできそこないのジャガイモのお出ましだ。ポテコロとミートコロの二種類、弁当用なので極て小ぶりに仕上げた。

他には、オクラ・ピーマン・シメジ・新タマのサラダ、冷凍塩秋刀魚焼き、冷凍チキンカツ、最後はオムレツ風卵焼きで〆た。小さな弁当箱に。これだけの菜は収まらないのだ・・・・。従って、朝飯に小生が食すと云う悪循環にはまるのであった。

                       

今夕は、我が郷里の弱小高校の同窓会。渋谷は「奈加野」で、粛々と開催だ。みんな来てくれるかな?

 

 

 

 

 

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お見舞い

2016-05-20 | Weblog

5/20(金) 早くも金曜日になったか・・・・。昨日の午後、かつての同僚IKEDAさんを病院に見舞った。4月2日の朝、突然目の前が暗くなり体に変調をきたしたとのこと。暫く様子を見たが、悪くなる一方で奥さんに救急車を呼んで貰ったそうだ。後は意識が無くなったそうだが、病名は「蜘蛛幕下出血」で、手術をしたとのこと。

手術をした病院からは既に転院、系列の病院であろう武蔵村山の病院でリハビリをしている。間違い電話がきっかけで、氏の入院が判り、昨日のお見舞いとなった。氏から聴いていた病院は「国立の東村山病院で、リハビリ中」とのことだった。所在を調べると、同名の国立病院は「独法の武蔵村山医療センターになっていた。確かにリハビリ科もあった。

そこで、昨日のお見舞いとなったが、リハビリ時間や食事、見舞い時間が気になったので事前に見舞う旨を伝えた。その折も、氏は見舞いを固辞しながら、従前と同じことを言った。『お互い何時どうなるかもわからんし、元気そうだから顔を見に行くよ』と伝えた。そして昨日の午後、先輩のMASUDAさんと立川駅で落ち合った。

立川から多摩モノレールというのに乗って終着駅へ、そこからタクシーで村山医療センターに向かった。病院の建物はクラシックで、かつての療養所の雰囲気を漂わせていた。古い建物ながら、敷地は相当に広そうで、国立の名残り感じた。そして、聞いていた病室を探して建物の中を進んだ。途中に広いリハビリ室があり、車椅子や器具に掴まってリハビリに専念する患者、療法士の姿が見えた。

「IKEちゃんが居るかもしれない」と覗く。と、似たような姿かたちの人が何人かいる。然、しよくよく見ると違った。廊下に戻り、病棟を病室を探して進んだが、目指す病室が在る気配がない。聞いていた、5〇〇号は五階のはずだが、ここは四階までしかないのだ。

簡素で古めかしい受付まで戻り、入院患者の名を伝えて探してもらった。紙の名簿にも、PCでの検索も無駄であった。「その名前の方は居りません」との返事。携帯を取りだしてIKEちゃんに電話いれた。「この辺りの国立病院は他に何処がありますか」と、受付に面倒をかけている途中にIKEちゃんから電話が入った。よくよく聞いてみると、病院は武蔵村山病院であった。

飛んだドジを踏んだが、幸いにもその病院は近かった。上手い具合に、その方面を通るバスも直ぐにあった。一時はどうなることやらと気を揉んだが、やれヤレであった。なんとか病室に辿り着き、氏の姿を見た時はほっとした。

すっかり痩せてはいたが、変わらぬ何時もの高い声で応じながらやって来た。詰め所前の応対スペースで様子を聞いたのが、冒頭の話であった。今月末に院長面談があり、退院できるかジャッジが出るとか。

日々のリハビリの内容を尋ねると、持ってきたのは実家の母がデイサービスでやっている内容と同じようなものであった。脳を圧迫した後遺症があるのかと思ったが、話しぶりからはそんな気配はみじんも感じなかった。早く良くなって、また一杯やろうよ。と病院を後にした。

救急車を呼ぶ直前まで、何の前兆もなかったそうだ。或る日、或る時にそれは突然やって来た。僕らも、何時そんなことが起きてもおかしくないね、そんなことを話しながら、MASUDA先輩と帰路についたのであった。

帰路、途中駅に住いあが在るHIROさんと会った。武蔵小金井にある焼き鳥店で一杯やりながら、先般の取材先である義肢のことやヨット対談のこと、あれこれを話して尽きない。尽きないのは何時ものことだが・・・・。サントリーのハイボールを、一番安いトリスから始めて、角・白州・響・山崎まで制覇すると眠くなっていた。咳で眠れない効果が出てようだ。

で、その五段階のハイボールの味はどうだったかって? なにもたさない、なにもひかない、ただソーダ―の味がするのみ! と応えるしかない。シングルじゃ薄くてウイスキーの味がしない。ハイボールは「ローカーボ」に限るネ!

で、今朝の弁当は・・・・。

「ハンバーグとピーマン肉詰」「新ジャガの肉じゃが」「パスタ&キャベツ・ベーコンのサラダ風」「豚バラの野菜炒」「焼き鮭」と「出汁巻卵」、以上でした。

                          

 

― ショートショート 湯ヶ島 Ⅱ -

伊豆や湯ヶ島そして沼津には、少年の頃からの憧憬があったのは間違いない。それは、川端康成・井上靖・芹沢光治良の作品の世界に繫がるのだが。

― そう云えば、今度のパトロール隊の演歌旅では、沼津市場のランチも計画にいれたが、港から近い我入道に在ると云う「芹沢記念館」に寄りたいものだが ―

湯ヶ島での一夜が明け、糸を引くような白い雨と霧に靄った杉木立。「湯ヶ島館」と記された番傘を差し掛けて貰い、小道をバス停まで送ってもらったことは昨日書いた。そのまま三島に戻ったであろうが、その辺りの記憶は無い。未だ、蜘蛛幕下はやってないはずだが。

記憶にあるのは、梅雨が明けた或る日、焼けつくような真夏の日差しの中を杉木立の道を下り、あのアパートの前に立ちドアをノックをする僕だ。

出てきたのは、シミーズ姿(水色のそれだっったように思うが・・・)でふっくらとした女性、二週間ほど前のあの夜の深夜に戻った女性のはず。 ― 顔も姿も見ていない。一瞬、見たのは、枕元過ぎて行ったふくらはぎ、ふっくらとした。だったから ― 。時間は午後の早い時、日差しは真上から照りつけていた。セミの鳴き声が喧しく響いていたはずだが・・・・・。

谷川の崖上に建つ小さなアパート。合板の扉の向こうから出てきた女性に戸惑ったが、持参した土産の煎餅を前に出して『この前、お世話になったもんです。あの時はありがとうございました』とだけ言って、紙袋を渡した。女性はなにも応えなかったように思う・・・、記憶がない。

平日の昼間だ、男は仕事だったろう。夜の仕事の女性が居ただけのことだが、あの時にはそんなことを考える能力がなかった。ただ、お礼だけは伝へなければの思ひだった。

僕が逆の立場だったら?あんなことはできやしない。世間知らずの田舎者、ノー足りんが故の恥知らず。それは、青少年から若者に脱皮すべく初夏のことだった。

  明日の早い便で佐賀へ。「地球市民の会」の総会がある。日曜日、高知に入り水曜日(25日)の夕方に帰京予定。

 

 

 

 

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ショート・ショート

2016-05-19 | Weblog

5/19(木) 今日も朝から初夏の日差し。その日差しを受けて出勤は十時。昨晩の出撃は19時過ぎと、一時間ほど早かった。「ローカーボ」のカウンターで、口開け客としてHOYA兄いを待った。時をおかず姿を現し、先ずは乾杯!

今度の伊豆への演歌旅のスケジュールを渡してなかったので、先ずはその相談。「なるべく近場で、手軽に済ませたいよね」と、想定どうりの応えがかえってきた。『それじゃ修善寺あたりにしようか?そこならNAKAさんの旅情も、湯の香芳しき演歌もマッチするだろう』と応じた。

ほどなく、上大岡(横浜市)まで物件の査定に出掛けていた悪徳チャンが姿を見せた。顔を見せるなり「と~いわ、疲れた」を連発し、姿をくらまそうとする。「それはねえんじゃないか」と引き止め、一杯やりながら旅の宿、行先について喧々諤々となった。が、落ち着くところは、安くて時間が掛からない処であった。

二軒目の「ちょっぷく」に行くと、どうやら満席の様相。出入り口の前まで、テーブルが出ていた。これじゃ遠慮しておこうと、地下鉄の入り口まで行ったが、「天や」でちょい飲みセットをやってから帰ろうとなった。人形町の交差点を渡って「天や」へ。30~40分いてお開きとなった。パトロール隊も些か草臥れモードである。

そんなことで、学芸大学に着いたのは22時を回ったばかり。駅横のフライショップ「さぼてん」が店仕舞い前で、在庫限り30%Offの札を掛けていた。貧乏オヤジは、この値引きの誘いに弱い。明日の弁当の「カツ煮」にしようと一枚買ったのである。

そんなことで、今朝の弁当は「カツ煮」がメインである。他には、シメジ・人参の豚肉巻とホウレンソウのお浸し、出汁巻卵、豚の燻製であった。

                           

 

 - ショートストーリ 湯 ヶ島 -

人形町パトロール隊の伊豆への小旅行では、湯ヶ島温泉の旅館「湯ヶ島館」を候補に挙げていた。実は、十代の終わりにこの旅館にまつわる或る出来事があった。

当時、三島に下宿をしていた僕は、初夏の或る日、下田に行こうと思い立ち伊豆箱根鉄道で修善寺へ、そこから遅いバスに乗ったがそれは湯ヶ島までのバスだった。終点の湯ヶ島に着くとすっかり日は暮れて、山間の村は闇の中に沈んでいた。終着のバス停に下りたのは若い男と、地元の人らしき三・四人だけ。

其処で気付いたのは湯ヶ島から先へ、下田に行くバスはなく、三島へと引き返すバスも終わっていると云う事実。すっかり困り果てた。ここで宿を取ろうにも持ち合わせが無かった。下田まで行くと、高校の同級生がホテルに就職をしていたのでそこで厄介になろうという甘い考えでいたのだ。

世間知らずの若者の困った顔を見ていたのだろう。全てを読み取ったに違いない若い人が「俺の処に来いよ」と、言ってくれたのだ。否応は無かった。ただほっとした僕は、言葉に甘えて付いて行くことにした。山の中の村は静まりかえって、物音ひとつ聴こえない。その闇の中を、道路から下った細い道を谷川の方へと降りて行く男の後に従った。

谷川沿いの橋の手前に小さなアパートが建っていた。そのアパートの鍵を開ける前にひと言「俺の友達だと言うことにしておけ」といった。小さな土間と、六畳ほどの部屋、窓の向こうから谷川の瀬音が聞こえた。二つ引いた蒲団の手前の蒲団に身を横たえた。ほどなくして電気を消した男はもう一つの蒲団に入った。

部屋の中をつぶさに見る余裕も時間もなかった。電気を消した向こうから瀬音がはっきりと聞こえる。その方向を見ていると、小さな灯りがゆるゆると飛んでいた。ホタルだった。

すっかり寝入っていたが、何かの気配に目が覚めた。すると、枕元をまたいで向こう側の蒲団の方に出した足元が見えた。女性の足だった。それで合点がいった。男と一緒に暮らす女が遅くになって帰って来たのだ。「俺の友達にしとけ」と言った男の言葉が分った。二人で暮らす部屋に、見ず知らずの僕を泊めてくれたのだ。

いつの間にか眠っていた。目覚めると夜が明け、男は出掛ける仕度をしていた。女は未だ眠っていたろうが、覚えがない。土間を出ると、細い糸のような雨が降っていた。

男が差し掛けてくれた番傘に入り、杉木立の細道を上のバス通りへと歩いた。深い闇と、谷川の瀬音、糸のような雨と杉木立の山道。それが初めての湯ヶ島の印象として残る。見ず知らずの若者を泊めてくれた男、男の差し掛けた傘に書いてあった「湯ヶ島館」の墨痕。きっと、この旅館で働いているに違いない。

あれから半世紀にもなろうとしているが、湯ヶ島の闇の深さとあの一夜のことは忘れられないでいる。

 

 

 

 

 

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夜の巷に湯花は咲くか

2016-05-18 | Weblog

5/18(火) 昨夜も八時頃からの出撃手始めは、ここん処ご無沙汰だった「高松」へ。昼間の雨の所為か、店内は珍しく閑散としていた。バイとのTAGOちゃんが注文と取りに寄ってき、申し訳なさそうな小声で「ボトルがカラになってますけど・・・」ささやく。『なきゃ、入れりゃいいんじゃない』と、おおように応えた。

ビールを飲み始めたところに、悪徳ちゃんがやってきた。伊豆への演歌旅のスケジュール案を拵えたので、ご意見拝聴と来てもらったのだ。大凡のルート、費用の大枠、宿泊の場所や宿の規模、そんな点についてお聞きしたうえで最終的なスケジュールをと云う次第だ。

スケジュール案を幾つか示したが、言いだしっぺのNAKAさんの希望、HOYA兄いの考えも聴かなくちゃ・・・・。小さな旅ながらも、必ず立ち寄るル―トとして「桜家」を入れた。

「桜家」は、三島の鰻の名店だが、暫く行ってないので久々にここの柵鰻重を喰うきになったのだ。以前に食した時は4200円、それが5800円だかになり、今回値段をチェックすると6200円となっている。うなぎ登りに鰻は値上がりだ!うちの社の業績もあやかりたいものだ・・・、喰うとあやかれるかも?

鰻と云えば、連休に帰省したおりに親戚のKATUOにウナギ取りのはえ縄を何日か仕掛けさせたが、空振りだった。未だ水温が低い所為もあるが、絶対量が激減だからネ。すっかり、希少種になっちまった。 ― 話が逸れちまった、ウナギのこととなると如何ね ― 。

高松で軽くやった後、「ローカーボ」へ。すると、NAKAさんが友人と飲んでいた。先ずは旅行のスケジュール案を渡した。今宵もローカーボのカウンターは常連揃い。HOYA兄いは用があるとかで、既に帰った後だった。与太話をして、皆さんを残し、先に店を出た。

もう十時過ぎだ、ちょいと「ちょっぷく」でYAMAちゃんの顔を見て帰ることに・・・。今夜は店仕舞いが早いようだ、摘みコーナーには何も置いてない、客も二・三組残っているだけだ。雨の日は何処もしずかだね。

                         

一人で壁を背にして飲んでいるミムラッチの横に座り『おい、なんか出せよ』と催促すると、白ワインが出てきた。それをチビチビやりながら、店仕舞いをするバイトの姿を眺めていた。全員がベトナムからの出稼ぎだが、よく働く。出入りも結構激しいが、同国人のネットワークか、同じ国の若者ばかりだ。

23時を過ぎ、店長も「今日は帰るぞ」と着替えを始めた。「昨夜は店に泊まったから」と、ミムラッチが解説する。”ミムラッチ”静岡市出身で、某マーケチング会社の経理部長職。野球は横浜のファンで、ほぼ毎日(皆勤賞かな)店に寄り、忙しい時は甲斐甲斐しく皿洗いから後片付けまでこなす。彼も鄙に希なる希少種である。

灯りを消されぬうちに退散し、メトロの人となった。本を開いていたが、途中でバサッと落としてしまった。格好がつかないね・・・・ムニャムニャだ。

学芸大着が零時、改札前の東急ストアで弁当用の鮭を一つ買っての帰宅。弁当のことだけは・・・・。のはずが、今朝の起床が七時過ぎになっちまった。

夜中に咳き込まなかったようだ。それで朝まで眠れたと云うことか?

大急ぎで鍋でご飯を炊く。菜は、冷凍のシューマイ・チキンカツ、鮭を焼き、シャブ用の豚とレタスを味付けで茹でる。小松菜と薄揚げの煮物、豚ステーキを焼く。

                             

以上、二人分の弁当である。然し、今朝は焦ったぜ!ご飯の炊きあがりが遅く、長女は菜だけ詰めたが・・・、そこにご飯が炊きあがった。オムスビにしたのだ

                           

 

 

 

 

 

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湯の宿と演歌

2016-05-17 | Weblog

5/17(火) 今朝、目覚めると雨になっていた。昨夕から雨の予報であったが、落ちてくるのが遅くなったようだ。

昨夜の出撃は二十時過ぎ、例によって「ローカーボ」に寄るとオヤジ軍団のパトロール隊がカウンターにたむろしている。元気な声で喋るので、一体何を言ってるのか判らん?この調子じゃお迎えはまだまだ先のようだな・・・・。

                                                

半年ほど前から、佐賀の大将NAKAMURAさんが「伊豆へ行こうよ!キャンピングカーで繰り出そうよ」と、繰り返していた。キャンピングカーじゃ、運転手は飲めないぜと、この案は引っ込めてもらったが、伊豆に行のは継続審議となっていた。

NAKAさんが伊豆に拘るのは、「温泉に浸かり、わしゃ演歌を唄うのだ」とのこと。女の宿・熱海の夜・城ケ崎ブルースetc。伊豆と温泉、女は演歌の定番だが・・・。それを湯の宿で唄いたいと、言い続けてきた。そこまで云うなら叶えてやろうと、具体的になったのが、先週の金曜日のこと。

『伊豆のことなら私に任せなさい』と、プラン策定をその場で引き受けた。そして昨夜、日程の検討に入った。日・月の一泊二日、6月5・6日に討ち入り決行と定まったのである。

梅雨入りまじかだが、湯に打たれるのも雨に濡れるも大した違いじゃねえ・・・・。露天風呂にそぼ降る雨、耳障りな演歌が響くのは雨水と湯音に流そう。と云う次第だが、伊豆と言ってもいささかひろうござんす。何処にするか、どういうルートで行くか、思案六方の為所だ。

海辺か山間か、街に近い方が・・・カラオケは何処で唄うのか?芸者はどうする?喰い物はなにがいい?と、言い出し訊き出したら決まるものも決まらんな。そこらは独断と偏見、蛮勇を決して決める。のは私?

東回りの電車、西回りの船、電車とバス(車)利用の真ん中ルートと、行き方でもこれだけあるのだ。ましてや温泉場の数は数知れず・・・・。今夜までに二・三の案を作ってみるか・・・・。

伊豆へは暫く行ってない、楽しみでもあるが、それほど美味い食いものに有りついたことはない。金目・イカ・鰺・イサキと、何処にでもあるし、美味いものは東京に集まるのだ。ましてや、伊豆山中の猪鍋?猪も鹿も要らん。

この短い人生ながら、これまで喰った伊豆の美味いものと云えば、下田の食堂で喰った「小鯵の開き」。これに勝る食いものに出会ったことがない。

それは、記憶も朧な過去の夏のことで、HIROさんと女史の三人で、今井浜辺りの海に遊んだ時のことだ。昼過ぎであったろうか、下田に降り立って、ビールでも飲もうと店を探すが、飲み屋らしきものはなく、小さな食堂に入った。

この食堂でビールの摘みに頼んだ「鯵開き」が、抜群の味だった。十センチ程の小鯵だったが、塩加減、干し塩梅、焼き加減と抜群、「これやぁ美味いね!」と御代りをし、ビールが進んだ。この時の味(鰺)が、伊豆の旅百回を誇る私の中で最高、五つ星である。あんな「鰺の開き」に出合いたいものだが・・・・・。

それが駄目なら、伊豆への入り口「三島」で桜家の柵鰻でも食し、頼朝公に因んで三島大社に参拝。湯ヶ島あたりの温泉宿に泊まって湯の香と山のオゾンを満喫するとか・・・・、翌日は湯ケ野辺りにでて伊豆の踊り子気分で、七滝を巡り下田へ。下田でお吉さんの気分になり、温泉饅頭を買って帰る?

或いは、熱海か伊東辺りに宿を取り、芸者ワルツなんて云う世俗的なプランもある・・・・。HOYA兄いもNAKAさんも、色気よりは飲み気、唄いっ気の方か?悪徳チャンあたりは色気の方かな・・・・。

 

 ―間違い電話から―

遊び話は打ち止めにし、間違い電話からひょんなことになった話だ。土曜日、携帯に登録してない番号からの着信履歴があった。普段なら放置するのだが、高校同窓会の連絡番号にしてあったので折り返しの電話をした。が、留守電になっていた。

その方から翌日、電話が入った「電話を貰いまして」と。その相手は同郷で、サラリーマン時代の同僚のH・IKEDA氏であった。『昨夕、私の電話に着信があったので電話をしたんだけど』と云うと、「間違って電話をしたんだ。すまんすまん」と云う。

久しぶりに声を聞いたので『元気でやってるの?』と訊くと。なんと「四月二日に蜘蛛幕下出血をやって、今リハビリで入院してんだ。未だ四週間ほど入ってる」とのこと。あの元気者のIKEちゃんが、と驚いた次第。それでも声はしっかりしているし、本人はリハビリの必要もないぐらいだと元気な話しぶり。

ひょんなことから、友人の様子が判明した。先輩のMASUDAさんと、今週にでもお見舞いに伺うこととなった。その旨を連絡すると「大したことはないし、もう大丈夫だから」と、遠慮するので『お互い何時逝ってもおかしくないから、会える時に会っとくよ』と返した。

本社時代に係長として同じ職場で過ごし、当時のメンバーで時折飲み会をやっているが、ここ暫くご無沙汰であった。元気そうなので安心だが、何時何があってもおかしくない、実感するねぇ・・・・。

 

で、今朝の弁当も一人分だった。「鶏肉と根菜の旨煮」「茄子・ピーマンの豚味噌炒め」「冷凍シューマイ」、最後に「出汁巻卵焼」でお仕舞。

                          

以上でした。

 

 

 

 

 

 

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休み明け

2016-05-16 | Weblog

5/16(月) 今日は、休み明けの月曜日。先週からの良い塩梅の天気も今日までか・・・。咳の方も昨日辺りから漸くおとなしくなってきた・・・。

休日前の金曜日、某社の監査役が今期で退任とのことなので久しぶりに顔を出した。この日に発表されたグループ各社の役員人事リストを前に、床屋談義ならぬ井戸端の会話を暫し・・・。

久々の訪問で、高いビルの窓からから見える景色は随分と変わっていた。かつて勤務したフロアーから望むウオーターフロントの風景にも変化が見られた。一昔以上も経ったが、変わり行く眺めの中にノスタルジィを感じていた。

                           

駅の向こう側、慶応大学側にある酒場に案内してもらい懇談。小体な見せながら、気の利いた肴とネエサンの店であった。翌日はゴルフコンペで早いとのことなので、早めに切り上げた。

そんなことで、人形町に舞い戻り先ずは「ちょっぷく」に顔をだして赤ワインのグラスを・・・、この日は滅茶込みの大賑わい。店先を飲みや難民がゾロゾロ行き交った。こんな日は常連は席を空けるに如かず。早々に一見客の数人連れにテーブルを譲った。そして、次の店へと・・・・・。

次の店といっても決まっているが、多分静かであろうと推察した「ローカーボ」である。静かでしたね~、悪徳チャンが一人で入り口の扉を背にして飲んでいた。

連休明けの三・日を酒場から遠ざかった連中が、一斉に堰を切ったように巷に溢れ、通り沿いから見える店内はどの店も満席の様相だったに比べ、そんな世相には与せず、店のテイィストを格式を誇る我らが「ローカーボ」の灯りは、こんな夜にも巷に凛と冴えていた。

暫くし、佐賀の御大将が友人の取引先を伴って登場。後はHOYA兄いが登場すると人形町パトロール隊が勢揃いなんだが・・・・、マッチャンが電話しても繋がらないと云う。何処ぞに遠征中か、愛妻のKIYOMIさんとデートか? 私は静かにハイボールを啜り、時の流れに身を任せてたゆたうのであった。

                            

そんな週末、そして日曜日は久々の水辺の祭典、ボートレース。昼前、奈加野の店主のお迎えで平和j島へ。環七を走行しながら店主の運転に文句?小言?嫌みか・・・を並べる。『停止線でちゃんと止まったら?ジジイのション便みたいにチョロチョロチョロチョロ前に出ないで!』と。

そんなストレスからか、この日のレースに女神はいなかった。二度ほど微笑んだが、それっきりのこと。天気はよく、G1レースと云うのにな・・・・・。

                          

二人して、「ツキが廻ってこねな~」なんて云いながら引き揚げであった。その車中、今度は歩き方についての注文だ『もっときりきり歩きなよ。あのテレテレの歩き方じゃ、膝の筋力もつかず悪くなる一方だぜ』なんてことを、言った次第。これも、体の心配をするからのこと・・・・・。

 

斯様な週末も明けた今朝は、起床は七時と遅かった。そういや、昨夜の夜中にも咳込んだな・・・・、それでか目覚めが遅いのは?。今日の弁当も一人分だ、急ぐ必要もない。

先ずは、先週にも使ったタレ漬け肉の残りを、ピーマン&タマネギで炒める。次は、豚シャブ肉をレタスとシメジと一緒にひと茹でする(味付けはウエイユーと塩胡椒・日本酒を少々)。最後に、小松菜と胡麻の卵炒め。以上であった。

                         

今日はフライパン一つ、これで調理。茹でて炒めるだけのことだから。本音は、もっと色んな食材、調味料、道具を使って遊びたいんだけどね・・・・・。

 

 

 

 

 

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