5/27(金) 昨夜の我が郷里の母校、弱小高校の同窓会を「奈加野」で開いた。開いたと云うのもおこがましい云い方だが、代表であり幹事という不幸を背負わされているからだ。年下の学年の出席といえば、従妹がただ一人、それも小生への義理で来てくれるだけだ。そして、ここ数年顔を出してくれるのがクラスメイトだったMASAO君。後は先輩方で、最年長は80歳(此の方が一番元気1)であった。
老人たちはいずれ消えゆく運命、したがってこの同窓会は風前の灯、消滅の危機に在るのだ。出席メンバーは固定化しており、体調を崩したとかで交互に二・三の欠席もある。全国校長会開かれるこの時期、年に一度の顔見世興行と云う処だが・・・・、参加は少人数に低迷している。そんなことで、会の解散を計ろうと思っていたが。
案内状にもそれらしき旨を書いて出した。その所為か、今回は10年以上も顔を見せていなかったOBが三人参加してくれた。その影響もあったのか、来年も開催の運びとなってしまった。
然し疲れた。酔っ払って立てなくなるOBあり、挙句にゲストの校長が酩酊、送ろうと店を出た歩道で転んでしまったのだ。こっちは酔う余裕もなかったが、動物園の世話係としちゃあ、皆さんが無事で気持ち良く帰って下さればそれでよしだ。
で、今夜は某研修ビジネス会社代表、K氏の快気祝いを小人数でやることになっている。K氏は、私もメンバーの某島に行く会の幹事、また弊社のお客さんでもある。そんな関係で、胃癌手術(軽かったようだが)が済んで、仕事に復帰されたので快気祝いとなった。今夜の幹事は、これも腐れ縁のRYOUJI・T、こと不良冶・Tである。店は恵比寿なので、今夜も人形町パトロールは休業だ!
タクシーを使ったので、昨夜の帰宅は23時と早かった。昭和三十年代の演歌を聴きながら蒲団にはいったのが零時。目覚めは七時と、睡眠時間は十分のはずだが・・・・眠い。脳がぼやけている。夢をずーっと見てた所為かな?
起床時間が遅いので、弁当作りは大慌てと思いきや。そうでもなかった。就寝前にメニューはすっかり出来上がっていたのだ。
先ずは「鶏肉のトマト煮」オリーブオイルと塩胡椒で味付け、トマト・オクラ・茄子が入った。そして「牛小間炒め」タマネギ・ピーマンを加え、焼肉のタレで味付け。タマネギ・人参に小エビの「掻揚げ」。最後に「ホウレンソウの卵和え炒め」であった。
余談だが、先ほど羽田空港で旅客機の炎上騒ぎがあったとか。午後便で帰高する校長先生からのメールで知った。「昨晩はお世話になりまhした。擦り傷だらけになっていました」とは、今朝のメール。先ほどのメールには「飛行機が欠航になり、ふんだりけったり。これから新幹線で帰ります。罰が当たったようです」だった。中々面白い先生である。が、旅先で乗り物のトラブルは大変だ。その点、私などはギリギリながらセーフがつづく。平素の行いかな?
伊豆・修善寺への湯煙り演歌旅が、来週となった。三島「桜家」で鰻を喰い、帰りは沼津港で魚を喰う予定だ。これじゃ痩せる間が無い。とは云いながら、喰える時に喰うしかない。
食いものついでに、三島時代の食い物にまつわる話など・・・・。喰い物といっても、木に生る柿のことだが。
―ショート・ショート―
僕らの居た下宿はF荘と云い、同じ大学に通う一年生ばかりが十六人暮した。期間限定、一年間の共同生活が始まったのだ。大学までは十分程歩き、裏の塀を乗り越えると着いた。
下宿のロケーションは田圃を前に、後ろが小高い山。下宿の右隣に大きな日本家屋の本家が建ち、そこには土建業を営む息子さん一家が。左側が100坪ほどの畑、そこには登って遊べるほどの柿の木が5~6本植わっていた。
四月の入学から夏休みを経て下宿に戻ると九月。柿の実はすっかり大きくなっていた。そのたわわに実った柿を前に、下宿のオーナーである爺さんが下宿人の悪餓鬼どもに言った。「この柿が熟れたら幾らでも採って喰ってええだよ」と。
それから数週間後のある夜、誰かの部屋に集まって7~8人で酒を飲んでいた。その時、熊谷のスパーの倅ISHIだと思うが「柿を喰おうぜ。幾ら取ってもいいって言ってたぜ」と、言い出した。喰おう喰おうと、隣の畑に繰り出したは云うまでもない。
採って喰うだけならいい、がそのうち柿を取っては投げるが始まった。最後は、皆で柿の木に登って猿・カニ合戦ならぬ、猿餓鬼合戦を始めていた。柿の実は未だそれほど熟れてはいなかった時期だが、構やはしねぇと、千切って投げ、取っては投げと柿合戦で遊んだのだ。さしものの柿の実はすっかりなくなり、木は裸になったのだ
翌朝、柿の実の全容を知った爺さが怒り狂った。「おめえラ、碌なもんじゃネェ。こんなあことして」と。幸いにもその場に居合わせなかったし、猿・カニ合戦には加わらなかった(見ては居たので同罪だが)。がっつり叱られたISHIが後で言った言葉は「好きなだけ取っていいって言ったよな」だった。
俺たちはそれだけ救いようのない、ボケ・バカヤローだった時代。そのISHIも、首都圏で大手スーパーに成長した稼業を継いで社長業だと聞いてから十年が経つ。
爺さんと婆さんが営む下宿。我等はF組十六人衆と名乗っていたが、出身も気性も違う。ライフスタイルも勿論違う。十六人の中で、それぞれにグループ的になるのは必然であった。
隣で土建業を営む息子の嫁さんが来て、アルバイトの土方仕事を頼んで行くことがあった。土建業でも「地鳶」と呼ばれる稼業であることは、後に知る。南何人かがそのバイトに駆り出されていったが、つづけてやる、やれる者はいなかった。
夏休みが終わり、最初の試験も終わって秋風が吹く頃だったか。土方仕事に駆り出された。下土狩にある工場建設の現場だった。基礎工事で、鶴嘴・スコップを振るい土を掘り、運んだ。なん日も何日も、土方をやった。
夕焼けに空が染まる頃、仕事仕舞となる。秋の暮色の中をトラックに乗って若い衆と一緒に戻る(運転していたのは、六つも免許がある人ばかりだった)。と、爺さんが風呂が沸いているよと呼んでくれる。嫁さんの方は「洗濯もんだしときにゃぁ」と、汗に汚れた服を洗ってくれた。
風呂から上がると晩飯だと呼ばれる。本家の広い居間で車座で酒盛りが始まるのだ。飲めぬ私も、付き合いだとばかりに無理をして酒を流し込む。私よりは一~三歳は年下と思われる若いのが二・三人。三十代とおぼしき中堅に、年配の男が一人。オヤジさんを中心に、五・六人は何時も酒を飲み飯を喰っていた(今思うと連中は其処に泊まってたのかな?)。今思うと、オヤジさんも四十前後だったか。
そんな或る晩の飯の時、オヤジが僕に言った「なあ〇〇よ、この若い衆を頼むぞ」と。なんでそんなこと言ったのか、言われたかも知れなかったが『はい、わかりました』と応えた。応えるしかなかった。
酒の上での座興か、単に口に出ただけのことか判らない。一年の期限だった下宿を出て東京へ。それから、F荘を訊ねたのは数十年も経った後のことであった。辺りはすっかり様変わりをし、柿の木のあった畑も、前の田圃も、本家もなく、全て住宅街になっていた。下宿の在った後には、代わりらしきアパートが建っていた。
オヤジさんが亡くなったこと、その前、随分前に嫁さんが家を出たこと、そんなことは下宿人だった事情通から聞いてはいたが。余りの変わりように、年月の重さを知るのみであった。
例え座興であれ、冗談であれ、言われて応えた以上は、その重さを背負うしかない。と分かっていながら、何もできないままにここまできた。どうすりゃいいんだよ・・・・バカヤローと吐き出すしかない。あの一言が出た夜、オヤジさんは俺の中に土方稼業の天分を見たのかもしれない?