11/20(水) 先週、木曜日の午後からつい先ほどまで長い長い休みを取って帰省。亡父の一周忌法事と命日の墓参を済ませてきた処である。帰京の飛行機の中で、来し方行く末に思いが至ったが只々それだけのこと。機窓にまみえ、生じては消えゆく雲の如しか?否、生じる前に霧散する。
翌金曜日、日曜日に自宅で執り行う法事の準備品の買い出しや用意で終わった。土曜日は来高する家族の出向かへと、墓掃除や法事の祭壇の用意。夕方には檀家となる寺の若い住職を迎え、翌日に備えての読経あり。
余談だが、四国は弘法大師・空海の真言宗の寺が多いはずだが。檀家となる我が家の寺は「北寺」と云うが、室戸に東寺・西寺があり、岬には空海修行の跡と伝えられる祠が在る。お大師様の足跡が多く、また、我が町の海辺の山上には、四国八十八か所の二十七番札所である『神峯寺』{こうのみねじ)が在る。この寺は、私にとっても因縁が深い。
日曜日、親戚や家族など四十名余りが来てくれて十一時から法事。自宅での焼香の後、徒歩で十分も要しない墓地に詣。頃合いよく昼となり、自宅で精進落としの酒盛りが始まる。亡父の兄弟は七人、女三人に男が四人だったが生きているのは隣に住む末弟の伯父一人となった。従兄弟たちも齢を取ってきたが、こんな時にしか顔を合わす機会がない。もう従兄妹会をやることも無いのかもしれない・・・。
祭壇の祭り方で一苦労あり
高知の宴会は“皿鉢料理”が定番。子供の頃には各家庭で巻きずし・稲荷・羊羹・煮物・揚げ物などを作り、有田や九谷焼きの大皿に盛っていた。今ではすっかり、仕出し屋に頼むようになった。今風にサンドイッチや握りずし、酢豚まで並ぶが、素麺が並ぶのはご愛嬌かもしれない。これが以外にも人気がある。昔ほど酒飲みが少なくなった所為か、五時過ぎには酒盛りが終わった。最後の客は、別件の法事を済ませてから来てくれた住職であった。
皿鉢と宴会の模様、若い住職のSOUEN師(亡父に吞潰されたことがあるとか)
女子(おなごし)しは、この後の片づけがたいへんだ。が、それも慣れたもので意外と早くに片付いた。法事もつつがなく終えた。とは云いながらも、翌日は片付けや支払いにと動いた。暇な叔父が現れて、一緒に付いて回ったのはご愛嬌・・・。
叔父の兄弟姉妹は皆、黄泉へと去り。長男は三十八歳にして急逝した。娘二人は遠隔地に嫁に出ている。養子として我が家の隣に来てから六十年以上となるが、今や友達もなく、一人暮らしが続いている。唯一の足で気晴らしの車も、寄る年波で危ないからと取り上げられたので行動もままならない。
親父が生きていた一年前までは、何時も我が家に来ては「兄貴、花が咲いたから、祭りがあるから行こうよ」と、親父の運転で二人で出掛け、戻った夕方には一杯やるのが常であった。じっとして居られず、私が免許を取ったのを幸いに出掛けようと迫るのであった。
法事の片付けも一段落した昨日の昼前、またしても叔父が来た。そして小声で云う「おい、神峯の茶屋の餅が美味いきに行こうよ」と促す。二十七番札所でもある山上にある寺の駐車場に茶屋が出来ており、ここで売っている餅を買いに行こうとの誘いだが、要は出歩きたいのだ。気の毒でもあり、時間があったので付き合うこととした。
神峯寺について因縁があると記したが、我が幼少の頃の話である。私が三・四歳の頃だが結核性関節炎を患った。実家の前に魚・駄菓子・タバコなどを扱う店があり、そこのお爺さんに可愛がられて何時も遊びに行っていた。そのお爺さんが結核患者であったそうだ。そこからの感染ではないかと云われるが・・・。この病気で小学校に上がるまでギブス・コルセットの生活が続き、京都や松山の病院にも世話になった。方々の医者や、最後は加持・祈祷までと、治すために両親は苦労したそうだが・・・。俺はそんなことは忘れたぜよ。
そんな神頼みの最後は地元で信仰が深い『神峯寺』だったとか。この日、整備された山道を寺に向かいながら叔父がしみじみと話した。「戦争中に、入河内から兄貴と(亡父のこと)歩いて此処へ何回も参りに来たことよ。兄二人が、外地へいちょったろう。そんながで、お参りに来たがやが、あの時にや山道を歩いていたもんじゃが、えらい便利になったもんよ」と。
山門から、庫裏を抜けて本堂へと登る
そう云えば、親戚や親しい人とが重い病や怪我をすると、未だこの寺にお参りする習慣がある。ましてや、六十年近くも前になる私の場合もそうであったろう。何でも母の夢枕にお大師様が現れ「心配ない心配ない、ようなるようなる」と言ったとか。それで、手術するのを止めたそうだが(手術すると膝が曲がらなくなったそうだ)。殆ど奇跡的とも云えるかもしれないが、特効薬ができて完治した。はずだが、今になって同じ膝が痛むとは、信心が足りないか?罰当り奴め。
小学校に入学した頃にコルセットが取れた。お礼参りに、山に上ったのは二・三年生の時か?その時にこのコルセットを奉納した、それが何年も本堂の軒先にブラ下がっていたことは、我が家に残った写真で確かである。そんな因縁があったが、もう何十年も寺には行ってなかった。叔父の誘いは、いい機会でもあった。
昔と違い山上への道路は、すっかり整備されていた。時折お遍路さんと行きあうが、車は少ない。駐車場から庫裏を抜けて急で長い石段を登り、本堂に至った。幼少の頃の記憶(写真の記憶か?)とすっかり違い、幽玄の山中に本堂は整然と美しく佇み、納経堂や大師堂が新たに建っていた。納経堂の前に「仏足跡」(仏像崇拝の起る前、古代インドでは仏の足跡を拝んだとある)の碑が立っていた。これに触れて、体の悪い処を撫でるとご利益があると記されていた。早速に仏足跡を撫で、右膝をさすったが、流石に頭や顔、心の辺りは控えた・・・。
本堂と納経堂前の「仏足跡」
境内から彼方の海を望む。Vの字の山間の切れ目から、碧い海が彼方へと広がり蒼い空とつながっていく。 空・海 、弘法大師の名前どおりの世界が広がっていた。神峯寺の本尊は、十一面観音菩薩とある。
本堂前から太平洋を望む。同じく山門から望む
午後から三時間ほど畑に遊ぶ。今小屋の建て替えをしているが、予定より工事が遅れている。親戚の大工KATUOに頼んであるが、柚子の収穫が最盛期を向かており、そっちの方で忙しいようだ。夕方、KATUOと顔を合わすと松茸を一本くれた。いや~大きい。『こんなに大きいのが採れるか?』と訊くと「そんながあばっかりじゃ」とのこと。今年は例年より二十日も遅かったが、大きいようだ。
この夜の晩飯は「マツタケご飯&吸い物」と従姉に貰った猪肉がメイン。これに根菜の煮物と目光の焼き物であった。猪猟は十五日から始まったばかりだ。知り合いの罠に二頭掛かっていたとのことで、これのお裾分け。猟初めなので味はどうかとと思ったが、これが旨かった。
綺麗な猪肉 松茸・香り良し 炊き上がり
松茸の香り良し、ご飯と汁がすすむ。猪肉も一誌に煮た大根も旨い、どんどん食が進む。田舎での足かけ一週間で、ひと月分の飯を喰らったようだ。腹も身の内だが・・・毎度のことなり。
あっという間に過ぎた田舎暮らしであったが、朝夕の飯作りと、仏さまへのお供えだけは欠かすことなく勤めたのでありました。
思い掛けないことが一つ、小・中学の同級生で7年ほど前に亡くなった江渕君の息子が牛乳を届けてくれた。江渕というよりは、名前のツネオが言いやすいが、山上の開拓地区に戦後入植してきた家族である。今はもう殆どが離農し、ツネオの息子が乳牛の飼育で頑張っていると聞いていた。初めて会ったが、立派な青年ぶりであった。ミルクも美味かった。