オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

偲びつつ・・・

2013-11-30 | Weblog

11/30(土) 昨夜は旧電話企画本部から電サ本となった時代に、NTT在職のメンバーでの懇談会。当時の我等のトップだった大谷紀幸さんが前夜に急逝したことから、五人の集まりとなった。一様に大谷さんの突然の訃報に愕然とし、驚きを隠せなかった。

遥か彼方となった当時のこと、大谷さんとの思い出話をしながらしみじみと飲んだのであった。吉村元理事が「大谷さんと飲むと、注ぎ注がれでついつい飲み過ぎて、翌日にはお互いに『昨夜はやり過ぎましたな~」と云うことがしばしばであった。と、酒豪でもあった大谷さんを懐かしむ・・・。

                      

益田課長は「大谷さんと二人で中央学園からの帰り、早い時間だったが新宿に着いたらカラオケをやろうと言われた。未だ人気のない店でステージーに立って何曲も唄った姿が浮かびますよ」と話す。

                      

行政管理庁出身として、NTTに来た吉村さんからすると、大谷さんはキャリア臭さのない稀なる人物であったようだ。それは、我らも含めた衆目の一致するところであった。だからこそ、四半世紀も経ちながらも、こうして一緒に懇談を重ねてきた。人柄のなせる所以である。

                      

余談ながら、吉村さんから見ると官庁以上に形式ばり縄張り根性や年次、競争意識が強いのが電電だと映ったようだ。むべなるかな、である。外からの眼で見ると、よりその旧態依然とした体質が異質であり、時代にそぐわない組織と映ったことであろう。私も木っ端のような存在でありながら、その一翼を、旧態依然とした文化やヒエラルキーを担ってきたと云える。

あの頃、吉村さんを囲み飲む機会が多々あった。そんな時に「役人は、官僚が・・・」と批判をすると『役所の方がずっと開けているよ、電電のほうがよっぽど古いぜ』と、聞かされたものだ。そんな会話を、まだ若かった私たちを相手に気楽にしてくれるオープンマインドの方である。新進の気概を買われたのか「現場業務抜本改善」の責任者としてチームができた名古屋に就かれた。その後も、こうして事あるごとにまみえ、地元の柏で行っている大工ボランティアの活動や、往時の難事・秘話などさりげなく話される。

そんな思いで話、懐かしき良き時代を振り返りながらも大谷さんの姿がないのが淋しい。故人の冥福を祈り、ささやかな会を終えた。不確かな情報ながら、四日が通夜、五日が告別式のようだと池田氏からの情報。四日の通夜なら、何とかスケジュールの調整ができそうだ。お通夜で会いましょうと別れた。

 

 

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訃報ありて

2013-11-29 | Weblog

11/29(金) 週末の今朝、少し早めに人形町に着いた。会社の直ぐ前にある「堀留公園」の銀杏が色付いてきたのが目に止まった。人影も疎らな公園に暫し止まった。初冬の、頬を気持ち良く撫でゆく微風を受けながら、色着き始めた銀杏や、葉を既に散らした桜の梢、欅の葉を眺めた。儚くもある朝であった。

                     

昨夜の帰宅前、「ちょっぷく」に顔を出した。入院している店長の山ちゃんが、この日退院予定である。様子を訊こうと立ち寄ったが、未だ退院できないと病院から云われたとか。暫くはリハビリが必要とのこと。当人も心配をしていた糖尿病の方は、大丈夫のようだ。

一人、ハイボールを遣りながら、小さくて痩せた目刺を齧りながら思った。山ちゃんも体があっての商売、先般に見舞った折の彼のしょげようは分からんでもないなあ・・・と。先夜に話が出た、蜘蛛幕下出血でアッと云う間に逝ってしまった岡堂のことなど。人の儚さを噛みしめるように、冷えてショッパイ目刺を口に運ぶ・・・。

三杯も飲んだ頃に、スタッフのYOSHIOが顔を出した。ちょっと真面目に、ちょいとふざけながら、雑談を交わす。景気づけにカラオケでもやろうぜと「Seiju」に向かったが、客は誰もいない。見事に居ない、来なかった。二人で、ああでもなこうでもないと曲を探し、唄った。

珍しくYOSHIOもマイクを握り、黴が生えたような歌を唄いつづけた。酔ったYOSHIOが昔話をする「中学生の時にスナック姐さんに惚れて、通ったんだよ・・・」と。その頃に流行った思い出の歌をと「他人船」を唄った。人形町の場末の、しけたスナックのカウンターに妙にマッチしていた。

                         

「南らんぼう」の歌を知っていると云うので、曲を探すがない。前から、ここに来る度に探すが無い。ないものは何度探してもなかった。それにしても昨夜の帰りは寒かった。風が寒かった。

今朝は、飯の炊き上がる前にスムージーを作ることにした。早く作って早く飲む、これに限る。何故なら、飯が炊き上がると、その香味に抗しきれなくなる。ついつい、飯を喰ってしまう、細胞が成長する・・・こととなる。

今朝はのスムージーは「リンゴ・人参・ミカン・トマト・小松菜・水菜」であった。輪切りにしてあるのが人参だが、これが大根のような大きさである。ミカンは小さいが、服部農園産で滅茶甘である。

                    

然し、出来上がりが綺麗じゃないな~。

                        

 

  訃 報

 出勤前のひと時、昨夜唄えなかった所為でもないが「南 らんぼう」のCDを聴いていた。唄と云うよりは語るような歌声が低く「向こう岸へ私をつれてってと、女がいう。流れは早く橋はない・・・別れようかと思う・・・」と流れていた。

携帯が鳴った、見覚えのない電話番号。聞き覚えのない女性の声がようやく届く。「大谷の娘です、今夜父との懇談会が予定されているとのことで連絡をさせて頂きました。父が昨夕、近所で交通事故に遭いまして・・・・亡くなりました」。

今夜、サラリーマン時代の旧組織の数名で懇談会と称した飲み会をやる。大谷さんは今夜の会のメインである。私が幹事役で、案内状を出してあった。真面目、剛直でありながら緻密、懐の深い方であった。私が部下として仕えた期間は短かったが、強く清々しい印象がある。NTTがまだ一社体制だった四半世紀以上も前のことになる。

その後、当時の課長さんが音頭をとり何人かのメンバーが集い、毎年顔を合わせてきた。大谷さんは、ドコモグループの会社社長を最後に引退されたが、その人柄・人望の篤さから色んな会の重鎮を務めていた。

惜しい方が突然にも亡くなる、不条理であるがこれが人の世の儚さと云うものであろうか。ご冥福を祈る。

 

今朝頂いた連絡では、交通事故に遭ったたため未だ葬儀などの詳細は決められないとのことであった。
明日・明後日の予定、佐賀『地希市民の会30周年行事』と、福岡市での石風社代表との面会日程と重ならないといいのだが・・・。

 

 

 

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県人会

2013-11-28 | Weblog

11/28(木) 昨夜はNグループの高知県人会が渋谷「奈加野」にて開かれた。毎年この時期にやっているが、今年は参加メンバーが多いだろう思っていたが。あに計らん、たったn二十名ばかりであった。これまで会を引っ張ってきた長老達は、あちこちが悪くなったとかで壊滅状態。若手も仕事が忙しいのか、先約があったのかまばらであった。

そんなことで盛り上がりに欠けたが、一つだけ人の繋がり、縁を実感することがあった。
関西ドコモから東京に転勤になった若手が初参加していた。若しやと思い、かつて部下だった岡堂君のことを訊いた。すると「一緒に仕事をした仲です。ユニークな存在でしたが、一直線に進む行動力や情のあった方で頼りにしてました。亡くなった時は、葬式に行ってきました」と、返ってきた。岡堂と一緒だった、AD時代の笑い話を披露しながら、一緒に岡堂のことを偲んだ。

更に奇縁が続く、彼の父や伯父さんが相撲を取っていたとのこと。名前が同じなので、『その伯父さんって大相撲に入ったことが有るうじゃないか?』と訊くと、そうだと云う。私の親戚で故人となった兄貴分と、相撲取りになった伯父さんとは大の友達だったので、よく覚えている。まだ少年だった頃を思い出した。

瓶ビールを遣っていたが、腹が張る。焼酎に切り替えたが、行き着くところは日本酒となる。何時の間にや杯が、徳利が差し出されて盃を重ねる。長老連が居ないので軽くて済んだが、それでも腹に応えた。

二次会は避け、m.kansoにてハイボールを一杯やって、酒場という戦場から帰還(戦線離脱?)した。

 

何故か今朝の胃も細胞も、うな垂れ萎れ生気がない。それでも炊き立ての飯のホカホカとした香りを嗅ぐと、脳が騒ぐ。家人が弁当を作っている傍らで、茶碗に飯を盛った。相変わらずに食い気だけは衰えないのである。

家人に『弁当作るは面白いだろう』と、言葉を投げると「ゴミを出し、洗濯物を干し、洗物がありで、時間が間に合うか気になって、とてもそんな気にはならないわよ。」と硬い返事である。これゃあ、余計なことを言ってしまったか・・・。ものは考えようだが。

 

 

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今朝はスムージー

2013-11-27 | Weblog

11/27(水) 昨夜は早めに帰宅、規律正しい暮らしは体調がいい・・・そんな年頃になったのかと、実感する。昨夕はサラリーマン時代の最後に勤務した会社が、OB組織を起ち上げの発会式だった。案内状を貰い、OBの一員としての勤めかと参加した。

行ってみると、顔ぶれは元社長や副社長を始めに役員経験者ばかりだった。なんだか場違いな気もしたし、ノーネクタイは私以外は一人だけだった。されど、まあ~いいかと、挨拶を交わしビールと焼酎を飲みながら歓談した。結構顔は売れていたはずだが、十年近くも会ってない方からは?で見られたのであった。

十年ひと昔と云うが、この間、こっちは薄汚い口髭を蓄え、頭頂部はすっかり淋しくなり、ピンクのシャツだ。久しぶりにまみえた堅気のオジさんたちからすれば、見紛うのも無理からぬことか。前々の社長がいみじくも言うに、「額の中身は脳らしいから、額が広い人は頭がいいんだ」とか。脳がいくら大きくても、腐ってたり、スカスカじやしゃねえが・・・、と言いたかったね。

皆さんすっかり、大人の風格・悠々の体であった。現役の頃に何度か怒りを買った、元副社長も好々爺ぶりである。過分なお褒めの言葉を頂くとは、こっちが困ってしまった。この機会をもっけに、現副社長や取締役とも挨拶・、お願いごとまでした。そう云う意味からも、いい場となった。

最後まで残っていると、次の店へとなるは必定なので早々に引き揚げた。お蔭で、一昨夜から引きずった脳味噌の霞は引いたようだ。

 

そんなことで今朝は、体調充分。五時過ぎには爽やかな気分で目覚た。蒲団の中で暫し本を読み時間を潰す。弁当作りから足を洗ったので、時間を持て余してしまう。

ぼちぼちと読み返しているのは「開高 健」である。文字の魔術師、精妙で深海まで広がる言葉は、森羅万象を嘗め尽くし、何千回の咀嚼の上に胃の腑に治まった如くの文章。それを胃の腑から掬い取り読み解こうとするが、判らん。時間を掛け、かかりながらゆっくりと読み返すのだ。

 

時間となり蒲団から抜けて、台所に立つ。と、云うほどの大仰なことでもないが、久々の「スムージー」作りとなった。食材は「リンゴ・バナナ・トマトにブロッコリの茎と小松菜」にした。小松菜の緑が濃い、鮮やかな緑色で癖のない、美味いスムジーであった。これを噛むように咀嚼するが如くに飲んだ。

                   

スムージーは良いよね胃・腸には無論、体の細胞にも効果ありで、生き生きとするようだ。そんなに良いんだから毎朝飲めばいいのだが、それがそうはいかぬのが人生と云う処か。風邪を引くのも、膝を傷めるのも毛が減るのも、酒を飲み過ぎ飯を喰らい過ぎるのも、輪廻の中の一コマ。為るがままに生きるしかない、生きている限りは・・・。

 

昼に友人のO氏が来るので一緒にランチとなる。今夜は、サラリーマン時代の会社の県人会がある。この会は日本酒メインで、お猪口が飛び交う。ついついに酒を過ごしてしまうのだ。昼の飯といい、夜の酒精といい、今朝のスムージーぐらいではおっかない。暫くは、後遺症を引きずることとなるか?

 

 

 

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池袋の夜&ドクター・サーブ

2013-11-26 | Weblog

11/26(火) 昨夜は池袋に出掛けた。K大兄が池袋から転居しここに来る機会が激減したが、昨夜は地球市民の会・会長の佐藤さんが上京。池袋に宿を取った。そこで、ホテルに近い池袋で一献交わそうとなった次第。

この日は、夜になってから大荒れの天気予報。珍しく傘など持参で池袋に向かった。一軒目の焼肉屋で食事を取りながら、ビールからハイボールへと変わる。9月中旬の九州取材のおりに、佐藤さんの「世界平和道場」でお世話になって以来だが、私の方も話たいことがあった。

話と云うのは、地球市民の会を創設した前会長・故古賀武夫さんの人物史を書籍として残す企画のことである。そのことについて、二人で延々と話あった。そんな会話の中で、ペシャワール会の中村 哲さんのことに及んだ。佐藤さんも中村さんのことはご存知であり、その活動には畏敬の念を抱いている。

余談ながら、週末に私が読んだ本は「天、共に在り」と云う、中村さんの最新著作である。NHK出版から10月下旬に出版された本で、中村さんのアフガンやペシャワールにおける活動と、そこに至る経緯などが描かれている。9月に佐藤さん宅に寄せて頂いたのも、中村さんの取材に向かう途中であった。その時のことをBLOGに載せようと途中まで記したが、雑駁・散漫となり収拾がつかないので途中で放棄してしまったのだ。それが、以下の内容だが・・・。

 

『9月某日、福岡市西南学院大学にてお会いできた方が、アフガンの地でドクター・サーブと尊称されている「中村 哲 医師(ペシャワール会現地代表)」である。この機会をここ数年切望し、漸く叶った。

この日、中村さんの「福岡アジア文化大賞」受賞を記念した記念講演会が西南学院大学チャペル講堂にて行われる。その前の時間を頂きインタビューをさせて貰う手筈である。

前夜、久留米市に泊まり、昼前に西南学院大学に入った。相棒のHIROさん(聴き手&ライター役)と二人である。遅れて現地手配したカメラマンが到着。予定の時間に一時間も早いが、ペシャワール会が手配をしてくれた部屋に入った。

撮影位置などあれこれと相談し、備品や手洗い場所等を確認する。残念なことに室内は禁煙とのことで、タバコを好まれる中村さんのため(自分らのためか)に喫煙場所を確認する。

天気は申し分なく上々、学院の大きな欅の木陰とのコントラストが鮮やか。先ず、挨拶がすんだら外で撮影をし、それから一服と云うことで喫煙場所に案内して・・・、などと段取りを相談する。

三階の窓からテラス越しに門を見張り、到着を待つ。予定時間より少し早く着いた。部屋に案内をすると、同行のスタッフが食事が未だなのでと持参した弁当を使う旨の断りをした。不躾にも食事中の中村さんに質問を挟むが、快く応えてくれる。

インタビューの合間にタバコやお茶の時間を挟み、さりげない会話を交わす。こんな短い時間の中で、通じ合うものが、響き合うものが生まれる。

HIROさんが「ぼそり、ぽつり、ぼそり」と、インタビューを始める。何かを確認し、なにかを探しだし、発見しようと、己の中にため込んである中村 哲さんの情報と格闘するかのようだ。

ある人が、中村 哲さんについて小さな巨人と本の中で言っていたが、目の前にいる方は、なにひとつ圧しない。ただ静かに座し、静かに穏やかに応える。

こうして二時間を超えた、そろそろ時間でしょうと。我らに頂いた時間をエンドにした。その後HIROさんと医師はタバコ吸うために部屋を出た。

夕刻からこの学院のチャペル講堂で、ドクター・サーブ中村 哲さんの講演会が開かれた。講演を聴くのは二度目となる。ひと月前、東大農学部弥生講堂で開かれた講演を聴いている。

東京の講演会場でも、ドクターの現地における活動の様子が手に取るように分かる大判のパネルが沢山展示され、著書やビデオが販売されていた。販売をしているのは年配の方が殆ど、訊くと皆さん福岡から来ていた。中村さんを支えるペシャワール会のメンバーであった。

 中村 医師は1984年、あるミッション系医療団体から派遣されてペシャワール(パキスタンの北西部の都市)の慈善病院に赴任した。ここで、ライ病棟の責任者として勤務。その後、アフガンからの難民の診療、更にアフガンの無医村地区や首都に診療所を次々と作る。2001年、米軍のアフガン侵攻を契機に治安が悪化し、医療活動は縮小に至った。

頃を同じくして大干ばつによる農村の荒廃と難民の増加がつづく。中村さんは、命の原点である水と食物の確保を最優先すべきと、井戸を掘り、水路づくりに取り組む。1600本の井戸を掘り、25kmに渡る用水路を開発する至った。30年に渡るペシャワール(パキスタン)・アフガンでの活動は、著書「辺境で診る、辺境から見る」「医者井戸を掘る」や「医者、用水路を拓く」などに詳しく記されている。

中村さんの活動を支えるのは、福岡市に事務局を置く「ペシャワール会」である。毎年二万人以上の賛同者があり、数億円に上る募金が寄せられるそうだが、この有・無名の方々からの浄財と中村さんの侠気が用水路を拓いている。死言だが、大和魂・大和男の象徴がドクター・サーブと呼ばれる中村さんであろう。』

と、まあ手の付けようのない内容である。中村 哲さんご自身による本が十数冊出ているので、是非一読されることを勧めたい。主に、石風社(福岡市)から出ている。

余談が長くなったが、昨夜のテーマは「古賀武夫」である。彼の思いと情熱、行動力と破天荒な発想、そんなものを本に、物語として残すことが会としての責務じゃないかと、迫った。

 

二軒目の店は、池袋で唯一知っている店「野武士」へ。この店はK大兄御用達の店で、大兄の友人たちも常連である。私たちの他には、ご年配の二人連れがマイクを握っていた。佐藤会長にマイクを奨め、何曲か唄ってもらうが中々上手だ。唄を聴くのは初めて、『吾亦紅』なんていう難しい歌まで聴かせてくれた。

                  

私は、大兄の十八番「国境の町」で〆た。
大荒れの天気を覚悟していたが、外に出るとポツリポツリの小雨程度である。傘ささずに駅にむかった。少々酔ったようだ・・・帰り着くと零時を廻ったところ。今宵も過ごし過ぎか・・・。

 

 

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週末は過食也

2013-11-25 | Weblog

11/25(月) 先週末の土曜日、出勤もせずに家で過ごした。朝の七時前から飯の準備をしてビールを飲み、前日に届いた本などを読み始めたら会社に出る気も失せてしまったのだ。暇なオヤジは、四時ごろから夕食の用意に入った。今夜は鰻の蒲焼きを予定していた。

大きめの炭焼きコンロを注文してあったが、予定どおりにこの日届いた。炭の方は、田舎の実家に良い炭があったので、これを持ってくるつもりが忘れてしまった。前から残っていた安物の(多分中国産あたりか)炭を使うしかない。鰻の方は、郷里の安田川で捕れた天然物で、Ikg /匹以上ある上々の代物。こんな鰻は滅多に捕れない。親戚のKATUOが捕ったものを贖ってきたのだ・・・、だから炭にもこだわりたかった。

先ずは鰻のタレを作った。酒・味醂・醤油・砂糖・蜂蜜にリンゴとタマネギを擦りこんだ。が、これが正解かどうかは知らぬ。我流で作るのみだ・・・味見をしながら、調味料を足したり引いたり(引くのは無理か)である。

身も皮も厚く脂がのった鰻に竹串を打った。焼き物は他に、焼き鳥だが、これはベッタラ市の屋台で販売した残り物。そして牛肉を少々であった。炭はガンガンと燃え、火は熾り過ぎだ。新しいコンロは輻射熱も効いて焼き鳥があっという間に焼け、焦げる。最後に鰻を焼く、裏・表と頻繁に反すが、火が強い。

                 

TVで依然に見た記憶では、鰻の焼き方は返しにあった。自前のタレに付けては焼き、返すを繰り返す。食い物への執着心は大したもんだ。これだけの執着心を仕事に生かせば大変なものだが・・・。焼ながら「オーイ、ビール」と鰻の匂いを嗅ぎつけて来た長女にオーダした。ビールを飲みながら、鰻を焼き、焼き鳥を頬張ったのであった。

               

飯も炊き上がり、愈々鰻を食す時が訪れた。と、ここでもう一品があったのだ。越前カニである。越前カニと云っても、オスのズワイカニではない。コウバコと呼ばれるメスカニで小さいやつだ。このカニは味噌を食すのだが、これが滅法に美味い。家人の妹が越前・三国の港から手配し、二十杯ばかりがこの日に届いていた。こいつも喰わなければならぬ・・・忙しい身なのだ。

                   

これじゃあ~太るはな!、先ずはカニ味噌を喰いビールを飲む。ビールでカニの味を洗い流し、今度は鰻となる。蒲焼を喰らい、アツアツの飯に載せて鰻丼にして食しと、いや~満足を通り越して苦しいぐらいだ。身の暑さからくる歯応えの良さ、上質の川魚を食して太り脂の乗り切った厚い身。これに上々のタレが絡まり、極上の味わいであった。厚い皮も気にならない、旨味がタップリであった。

満ち足りた食事を取った翌日の日曜日、この日も朝七時前から飯の準備をする。どうやらストレス性の過食症候群かな?そうかもしれぬが、喰うが一番と、この日はカニ雑炊を作る。小さなカニの身をほぐし、味噌はそのまま喰らってソト子と呼ばれる卵をほぐして雑炊にする。シメジや白菜の野菜を加え、溶き卵を掛け回して完成である。ビールを呑みたくなるがぐっと我慢をする、この日は予定満載なのだ。

食事の後は家の外回りの掃除や花壇に球根を植える。夕顔やヘチマの蔓と取り除き、伸びきったジャスミンの蔓も刈った。これが結構に時間を要してしまった。

予定より一時間遅れで、川崎市へと向かう。この日は、川崎の病院に入院しているYさん(酒場「ちょっぷく」の店長)を見舞い、帰りに田園調布のAさん宅のギャラリーで開催の、書道展とやらを覗く計画である。

川崎駅からほど近い病院と地図まで貰っていたが、地図は手帳に挟み家に置いてきてしまった。と、途中で気付く始末。なんともドジなオヤジであるが、病院の名と部屋番号は覚えている。何とかなろうと、駅に下りて検討を付けて進んだが、これが大間違い。何と反対の方角であった。地図の読めない、方向音痴のオヤジであった。

こうして辿り着いた病室でYさんは横たわっていた。元気がない表情に、声が弱々しい。「どうしただよ、気を抜いて大酒を飲むからこの体たらくか?」と気合を入れるが、表情が暗いままだ。『脳出血だったが軽くて、左足は動くし、言語障害もない。前の脳梗塞に比べると大したことはなくていいんだが・・・。糖尿病から来ていると思うが、右足が不住になった・・・」と、云う。

知らなかったが、糖尿の持病があったようだ。それにしては酒を飲み過ぎていた。そんなことから、行く末を案じて暗い顔をしていたのだろう。一緒に暗くなって仕様がないと「頭の中で心配を重ねても、なんの解決にもなりゃせんぜ。なるようしかならん。治療に専念して、その結果を受け入れた上で、どう生きていくかを考えりゃいいじゃねか。今から悪い方へ悪い方へと考えたって、しょうないぜ」。

と、せめて空元気でも出せよと慰めたが・・・。彼の心配も分からんでもないが、今から取り越し苦労をしたって解決策はない。病に取りつかれると、皆同様に元気をなくすようだが、全てを受け入れて生きようと考えを巡らすまでには時間が掛かろうか。それじゃまた、と病室を後にした。

 

帰路、田園調布のA氏宅を訪ねた、駅前の桜樹は紅く染まり、銀杏並木も色付いて晩秋の趣である。駅からほど近いA氏宅の小さなギャラリーでは書道展とのことであったが、書展と云うよりはアート書と思われる作品が展示されていた。関係者であろうと思われる方が十名程居合わせた。

           

展示された作品を眺め、A氏夫妻と挨拶を交わして帰路についた。静かに佇む屋敷街の通りを歩む。ゲートのような門から駅へと下る階段を下りる。電車が入ってきたので急いで階段を降りるが、相変わらず右膝の具合は不調だ。

                     

足早にやって来た初冬の帳、傾いて行く夕日が沈むがごとくに日曜日の幕が下りていった。

 

 

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江戸の酒は・・・

2013-11-22 | Weblog

11/22(金) 一昨夜は、一週間ぶりに地元・人形町にて酒精を体に満たした。七時過ぎ「ローカーボ」のカウンターに腰を落ち着けて、先ずはハイボールからとなった。よく冷えたウイスキー&ソーダの喉越しの心地よさ、しみじみと美味いと感じた。思わず店主のIWASEさんに「江戸の酒はうまいね~」と呟いた次第。

すっかり気分も良くなり、久々にカクテルなんぞへと移った。気分よく酔い、相方のYOSHIOと別れた後、「SEIJU」から「ちょっぷく」へと彷徨い、人形町安酒場巡りを手仕舞った。ちょっぷくの店長、山ちゃんが脳梗塞を再発したとのことで、その様子も訊きたかった。前よりは軽いとのことだが、三度目が心配になる。商売柄もあり、体調が回復したとばかりに深酒を過ごすことが多かったのが災いしたか・・・。今度の入院先は、医療費が安く上がる川崎市内の病院だそうで何よりだ。

前回は完全個室の聖路加で、「部屋代が一日三万円だ」と嘆いていたが今回は大丈夫だろう。この週末に見舞って来る予定だが・・・「死に損なったな」と、厳しい一言でも掛けてやるか・・・。

人形町酒場巡りと云えば、隣の「高松」に顔を出す機会がとんと減った。一人酒が多いことや、会社を出る時間には満席となっていることが多々。人気の店で小人数で席を占めるのも気が引けるのだ。その点、カウンターが主流のローカーボや、何時もお茶を引いているSEIJU、大店のちょっぷくは、ぶらりと入るには好都合といえる。

そして昨夜、元スタッフのMIYAMONと飯を喰うことになっていた。七時前に人形町に着いたと連絡を貰い、会社を出た。途中で落ち合い「やさい食堂」なるイタリアンの店に入った。この店に入るのは二度目だが、気安い店ながら落ち着いた雰囲気がいい。MIYAとは、年に二度ほど飯を喰うが、前回は初夏の頃かと思っていたが、何と1月だと云われた。時間の流れの速さに驚いたが、こっちが呆けているだけのことか?

最近のことをあれこれ聞きながら飯を喰った。国産の甲州ヌーボが一杯750円とあったのでこれを飲む、どうってことはない味だが、赤・白に生ビールを遣った。途中に携帯が鳴った、ポン友のHOSOKAWAからだ。人形町に来るように伝え、後程「ローカーボ」で落ち合うことにした。

食事の後、ローカーボに一人向った。HOSOはウイスキーのロックを飲んでいる。なんでも、今日はウイスキーを飲みたかったそうだ。呑みたい時もあるさ・・・、そんな時にご指名を頂くとは光栄なことか?。

カウンターにもう一人、旧知の方が座っていた。月曜日、田舎に居る時に飲み相手が欲しいと電話を貰ったHOYAさんだ。HとHの間に腰を下ろして右左の相手をしながら、ハイボール飲む。

HOSOは、今年の役員改選で任期満了となり顧問に就いた。後任者の采配が気に喰わぬのか、現場仕事(TV業界)への未練が断ちきれずにか鬱々としている。慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ一緒に飲み話を聞く・・・。歌でも唄えよと、SEIJUに誘いマイクを握らした。私に負けず劣らずの古い演歌や歌謡曲を唄った。私はK大兄譲りの「国境の町」を唄ったのであった。

 

最後は前夜と同様に「ちょっぷく」に流れ、ハイボールで仕上げとした。連夜、人形町・安酒場を彷徨ったが、何処の酒場にも知り合いが出来てしまった。これじゃ一人酒場で、孤独を抱きしめて沁みじみと飲むことは叶わないな・・・・・。

 

 

 

 

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長~い、休暇

2013-11-20 | Weblog

11/20(水) 先週、木曜日の午後からつい先ほどまで長い長い休みを取って帰省。亡父の一周忌法事と命日の墓参を済ませてきた処である。帰京の飛行機の中で、来し方行く末に思いが至ったが只々それだけのこと。機窓にまみえ、生じては消えゆく雲の如しか?否、生じる前に霧散する。

翌金曜日、日曜日に自宅で執り行う法事の準備品の買い出しや用意で終わった。土曜日は来高する家族の出向かへと、墓掃除や法事の祭壇の用意。夕方には檀家となる寺の若い住職を迎え、翌日に備えての読経あり。

余談だが、四国は弘法大師・空海の真言宗の寺が多いはずだが。檀家となる我が家の寺は「北寺」と云うが、室戸に東寺・西寺があり、岬には空海修行の跡と伝えられる祠が在る。お大師様の足跡が多く、また、我が町の海辺の山上には、四国八十八か所の二十七番札所である『神峯寺』{こうのみねじ)が在る。この寺は、私にとっても因縁が深い。

日曜日、親戚や家族など四十名余りが来てくれて十一時から法事。自宅での焼香の後、徒歩で十分も要しない墓地に詣。頃合いよく昼となり、自宅で精進落としの酒盛りが始まる。亡父の兄弟は七人、女三人に男が四人だったが生きているのは隣に住む末弟の伯父一人となった。従兄弟たちも齢を取ってきたが、こんな時にしか顔を合わす機会がない。もう従兄妹会をやることも無いのかもしれない・・・。

            

                     祭壇の祭り方で一苦労あり

高知の宴会は“皿鉢料理”が定番。子供の頃には各家庭で巻きずし・稲荷・羊羹・煮物・揚げ物などを作り、有田や九谷焼きの大皿に盛っていた。今ではすっかり、仕出し屋に頼むようになった。今風にサンドイッチや握りずし、酢豚まで並ぶが、素麺が並ぶのはご愛嬌かもしれない。これが以外にも人気がある。昔ほど酒飲みが少なくなった所為か、五時過ぎには酒盛りが終わった。最後の客は、別件の法事を済ませてから来てくれた住職であった。

            

            皿鉢と宴会の模様、若い住職のSOUEN師(亡父に吞潰されたことがあるとか)

女子(おなごし)しは、この後の片づけがたいへんだ。が、それも慣れたもので意外と早くに片付いた。法事もつつがなく終えた。とは云いながらも、翌日は片付けや支払いにと動いた。暇な叔父が現れて、一緒に付いて回ったのはご愛嬌・・・。

叔父の兄弟姉妹は皆、黄泉へと去り。長男は三十八歳にして急逝した。娘二人は遠隔地に嫁に出ている。養子として我が家の隣に来てから六十年以上となるが、今や友達もなく、一人暮らしが続いている。唯一の足で気晴らしの車も、寄る年波で危ないからと取り上げられたので行動もままならない。

親父が生きていた一年前までは、何時も我が家に来ては「兄貴、花が咲いたから、祭りがあるから行こうよ」と、親父の運転で二人で出掛け、戻った夕方には一杯やるのが常であった。じっとして居られず、私が免許を取ったのを幸いに出掛けようと迫るのであった。

法事の片付けも一段落した昨日の昼前、またしても叔父が来た。そして小声で云う「おい、神峯の茶屋の餅が美味いきに行こうよ」と促す。二十七番札所でもある山上にある寺の駐車場に茶屋が出来ており、ここで売っている餅を買いに行こうとの誘いだが、要は出歩きたいのだ。気の毒でもあり、時間があったので付き合うこととした。

神峯寺について因縁があると記したが、我が幼少の頃の話である。私が三・四歳の頃だが結核性関節炎を患った。実家の前に魚・駄菓子・タバコなどを扱う店があり、そこのお爺さんに可愛がられて何時も遊びに行っていた。そのお爺さんが結核患者であったそうだ。そこからの感染ではないかと云われるが・・・。この病気で小学校に上がるまでギブス・コルセットの生活が続き、京都や松山の病院にも世話になった。方々の医者や、最後は加持・祈祷までと、治すために両親は苦労したそうだが・・・。俺はそんなことは忘れたぜよ。

そんな神頼みの最後は地元で信仰が深い『神峯寺』だったとか。この日、整備された山道を寺に向かいながら叔父がしみじみと話した。「戦争中に、入河内から兄貴と(亡父のこと)歩いて此処へ何回も参りに来たことよ。兄二人が、外地へいちょったろう。そんながで、お参りに来たがやが、あの時にや山道を歩いていたもんじゃが、えらい便利になったもんよ」と。

         

                   山門から、庫裏を抜けて本堂へと登る

そう云えば、親戚や親しい人とが重い病や怪我をすると、未だこの寺にお参りする習慣がある。ましてや、六十年近くも前になる私の場合もそうであったろう。何でも母の夢枕にお大師様が現れ「心配ない心配ない、ようなるようなる」と言ったとか。それで、手術するのを止めたそうだが(手術すると膝が曲がらなくなったそうだ)。殆ど奇跡的とも云えるかもしれないが、特効薬ができて完治した。はずだが、今になって同じ膝が痛むとは、信心が足りないか?罰当り奴め。

小学校に入学した頃にコルセットが取れた。お礼参りに、山に上ったのは二・三年生の時か?その時にこのコルセットを奉納した、それが何年も本堂の軒先にブラ下がっていたことは、我が家に残った写真で確かである。そんな因縁があったが、もう何十年も寺には行ってなかった。叔父の誘いは、いい機会でもあった。

昔と違い山上への道路は、すっかり整備されていた。時折お遍路さんと行きあうが、車は少ない。駐車場から庫裏を抜けて急で長い石段を登り、本堂に至った。幼少の頃の記憶(写真の記憶か?)とすっかり違い、幽玄の山中に本堂は整然と美しく佇み、納経堂や大師堂が新たに建っていた。納経堂の前に「仏足跡」(仏像崇拝の起る前、古代インドでは仏の足跡を拝んだとある)の碑が立っていた。これに触れて、体の悪い処を撫でるとご利益があると記されていた。早速に仏足跡を撫で、右膝をさすったが、流石に頭や顔、心の辺りは控えた・・・。

          

                 本堂と納経堂前の「仏足跡」

境内から彼方の海を望む。Vの字の山間の切れ目から、碧い海が彼方へと広がり蒼い空とつながっていく。 空・海 、弘法大師の名前どおりの世界が広がっていた。神峯寺の本尊は、十一面観音菩薩とある。

 

               

                 本堂前から太平洋を望む。同じく山門から望む

午後から三時間ほど畑に遊ぶ。今小屋の建て替えをしているが、予定より工事が遅れている。親戚の大工KATUOに頼んであるが、柚子の収穫が最盛期を向かており、そっちの方で忙しいようだ。夕方、KATUOと顔を合わすと松茸を一本くれた。いや~大きい。『こんなに大きいのが採れるか?』と訊くと「そんながあばっかりじゃ」とのこと。今年は例年より二十日も遅かったが、大きいようだ。

                  

 

この夜の晩飯は「マツタケご飯&吸い物」と従姉に貰った猪肉がメイン。これに根菜の煮物と目光の焼き物であった。猪猟は十五日から始まったばかりだ。知り合いの罠に二頭掛かっていたとのことで、これのお裾分け。猟初めなので味はどうかとと思ったが、これが旨かった。

            

             綺麗な猪肉       松茸・香り良し     炊き上がり

松茸の香り良し、ご飯と汁がすすむ。猪肉も一誌に煮た大根も旨い、どんどん食が進む。田舎での足かけ一週間で、ひと月分の飯を喰らったようだ。腹も身の内だが・・・毎度のことなり。

 

 あっという間に過ぎた田舎暮らしであったが、朝夕の飯作りと、仏さまへのお供えだけは欠かすことなく勤めたのでありました。


思い掛けないことが一つ、小・中学の同級生で7年ほど前に亡くなった江渕君の息子が牛乳を届けてくれた。江渕というよりは、名前のツネオが言いやすいが、山上の開拓地区に戦後入植してきた家族である。今はもう殆どが離農し、ツネオの息子が乳牛の飼育で頑張っていると聞いていた。初めて会ったが、立派な青年ぶりであった。ミルクも美味かった。

 

 

 

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ダブルヘッダー

2013-11-14 | Weblog

11/14(木) 昨日のダブルヘッダーの余韻か?今朝は体調が芳しくない。昨日の昼、若い頃にご指導を頂いた大課長だったNAGAOさんの米寿祝が新橋の「美々卯」で、当時のメンバー十名ばかりが参集して行われた。現役で仕事をしているのは私(仕事はしてないか?)と某社の役員をしているIMAI君の二人だけである。

お祝い会の後、KANEKO・IMAI・ABE君の四人で新橋の店に流れて雑談となった。当時の下っ端メンバーである。私はお祝い会でビールと日本酒を遣ったので、ここではコーヒーにした。暇なKとAは日本酒を遣っていたが、私は夕方からの席に備えて自粛。話をするうちに、徳島で脳血栓の後遺症で不自由な暮らしをしているO先輩に及んだ。一昨年の春、私はOさんを訪ね、その折の写真をOさんの部下だったKとAに渡してあった。話は何時しか、徳島にOさんを訪ねようとなったが・・・本当に実現するのか?

三人と別れ一旦会社に戻った後、直ぐにまた数寄屋橋へと向かった。五時、交番の前でNAWAさんとの待ち合わせである。NAWAさんは、横須賀時代の上司で一年程ご一緒し、その後NAWAさんがグループ会社の社長をされた会社から仕事を頂いている。平成10年が初めての出会いで、爾来十五年のお付き合いとなる。

今年の夏、NAWAさんが第一線を離れたので細やかだが慰労をさせて貰うのがこの夜の趣旨である。お酒は余り召し上がらない、カラオケがメインとなるが、取り敢えず高知県アンテナショップの二階レストラン「おきゃく」で食事とした。ここでビールと日本酒を三本。昼に美々卯でたっぷりと飯を喰らった私は、殆ど箸を付けない。

カラオケは、NAWAさんが行きつけの店「サクランボ」でとなった。昼間いた新橋に戻り、ハイボールを遣りながらのカラオケ、とはいっても私はマイクを握りたくないのでゲストのNAWAさんに勧める。小さな店で、この夜は他に客が入らなかった。NAWAさんのワンマンショーである。

                    

「一番好きな歌&歌手は誰です?」と訊くと舟木和夫だと云う。それじゃ、それをとまた唄ってもらった。唄が上手なのでカラオケが好きなのか、好きだから上手なのか・・・どっちでもいいが、上手い!

                  

                          「高原のお嬢さん」を熱唱中

12月の初旬、NAWAさんと共に横須賀で飲み会がある。同じ単身者用の寮で暮らしたメンバー五人と、寮の隣の店の店主夫妻を交えての飲み会である。一次会の後は、決まってカラオケとなる。それを考えると、チョット練習が必要か?

 

そんな昨日で、今朝は胃の方も頭の方も疲れているようだ。午後から高知へと向かう。週末は亡父の一周忌となる。早いものだ・・・。帰京は20日予定、それまでご機嫌ように・・・。

 

 

 

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房総から花便り

2013-11-13 | Weblog

1//13 (水) 昨夕は御徒町にある某社を訪問。夏前に代々木から事務所移転をされていたが一度も顔を出してなかった。ご無沙汰をお詫びし、その後一献を交わした。話を聞けば、すればするほどにお手伝いをできることが浮かぶ。どれだけの結果が出せるか判らぬが、私のこれまでのネットワークを生かしてお役にたてるようにチャレンジしてみようと思った。

年明け以降の提供CMの継続についても快諾を頂いた。そんなこともあり、有意義な意見交換もできた夜であった。

帰路、奈加野で手伝いに出ている郷里の先輩が体調が良くないとのことだったので、様子見がてらに店に立ち寄った。先輩のN氏は今日も休んでいるとのこと。何でも体が痛くて動かせない状況だとか。奈加野の店主は酒の酔いなのか、齢の所為か正体を半分なくしていた。「仕様がねぇな、オヤジがそんなことでどうすんだよ」と、檄を飛ばしても効果なし。ビールをのみながら、来し方行く末をうだうだと語り合った・・・。

帰宅すると、友人のOOISHI君から花が届いていた。そういや、今年は未だ会っていない。奥さんと房総に旅したのか、届いた花は房総からであった。病気をされていた奥様も元気になったに違いない。

                    

さて、今朝はスムージーの他に、昨夜のシチューにチーズを載せてオーブンで焼いた一品を食した。スムージーは、柿・バナナ・セロリであったが、甘くまったりとした感触と味わいがよかった。

            

今日はお昼に新橋にて米寿の祝い会がある。四十年近くも前になろうが、本社に転勤した折、当時の課長だったNAGAOさんの米寿祝である。本当に課長らしく毅然として、威厳がある素晴らしい方であった。立派な上司の下にいながら、私のような体たらくな部下で申し訳ない限りだ。二年ぶりにご尊顔を拝せるが愉しみである。然し、四十数人いた当時のメンバーも何人かは故人となり、皆OBである。年月の流れを感じる。

夕方は、横須賀に勤務した時代の上司がリタイアしたのでその慰労の場を持つ。この方も、良く出来た紳士であった。こうして過去のことを振り返ると、立派な上司や先輩に支えられてきたことだとつくづく感じる。一方で、我が身の不甲斐なさに呆れるばかりだ・・・。

 

 

コメント (2)
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